福田淳一財務次官のセクハラ疑惑や新潟県知事を辞職した山本隆一氏の援助交際疑惑など国政とは無関係な出来事が次々と起こり、日本社会を震撼させている。また、それに伴って自民党議員の不適切な発言が次々と顔を出している。その中で、福田氏のセクハラ疑惑で、共産党はこのほど、自民党の下村博文・元文部科学相が「隠しテープでとっておいて、テレビ局の人が週刊誌に売るってこと自体がある意味で犯罪だと思う」と講演で述べた音源を公表した。
共産党が公表した思惑は横においておくとして、文科相までなった下村氏のこの問題に対する見方にあきれ憂慮する。ただ一点だけ、「週刊新潮に訴えた」ことだけ見れば、彼の主張も正しいのかもしれないが、テレビ朝日の会見では、女性記者が1年半前に最初に福田氏に取材で会ってから、会うたびごとにセクハラ行為に見舞われ、思いあまって「防御」のため、録音テープを持参したという。
この流れからすれば、女性記者の話が真実かどうか明確に分かるまでは、下村氏は発言を控えるのは当然ではなかったのか。現時点であのような発言をすれば、「この男は全体の流れを理解できず、想像力が欠如した人物。政治家としての資質を欠く」と言われても何も言えまい。国民の生命にかかわる重大な時局に至り、重大な決定を下すとき、このような思考回路でディシジョン・メイキングをされては国民はたまったものではない。
私は下村氏の発言を聞いて、「この政治家は大局を観察できないのか?物事を全体から見て判断できないのか?それとも故意にあのような発言をして、自民党と安倍首相におもねっているのかのどちらかだ」と考えた。
また長尾敬・衆院議員が福田氏のセクハラ疑惑をめぐり「#Me Too」と書かれた紙を掲げて抗議する女性国会議員らの写真をツイッターに載せ、「セクハラ疑惑とは縁遠い方々」と書き込んだ。これをツイッターに出せば、どうなるのか、想像力を持ち合わせていれば、一瞬で理解できる。想像力が乏しかったのだろうか。もしそうなら政治家の資質がないのだから、即刻国会から故郷へ帰るべきだ。
一方、女性議員は大挙して財務省に押しかけ、福田氏のセクハラ疑惑に抗議し、「#Me Too」のプラカードを掲げていた。数人が出かけていけば良い話ではないか。北朝鮮問題や裁量労働制問題など、論議してほしい問題が山積しているのに、このような問題にすべてのエネルギーを費やしている。日本の政治家は国民の税金を何だと考えているのか。国民は高い税金をスキャンダルやその批判に支払ってはいるのだろうか。わたしはそうは思わない。諸外国のメディアは何と報道しているだろうか。
「はちゃめちゃ」とは日本の政治を言うのだろう。政治家と官僚の資質がこれほどまで低下しているとは、すでに鬼籍に入った半世紀前の人々には想像すらできないだろう。日本政治の底が抜けたのかもしれない。戦国時代なら、このような国は、織田信長あたりにすでに攻め滅ぼされているだろう。織田信長に滅ぼされた朝倉義景を思い出してしまう。
NHK大河ドラマ「西郷どん」が始まり、島津斉彬と西郷吉之助の主従の物語が終焉を迎えているが、斉彬の命を受けた西郷とともに、一橋慶喜の将軍職就任に奔走した人物がいる。この人物を風間俊介さんが演じている。読者もお分かりの越前福井藩の橋本左内だ。彼は井伊直弼が断行した安政の大獄で、25歳という若さで刑死するのだが、その視野の広さには敬服する。井伊と左内。直弼は世界の情勢が理解できず、時の変化の流れも分からず、まるで時間が止まったかのように一点だけを考えて政治をおこなった。それは徳川宗家を守ることだけであった。日本の運命などどうでもよかった。というよりも直弼には日本という概念がまったくなかった。ハリスがなぜ日米通商条約を結ぼうとしているのかも分からず、ただただ徳川宗家を守るために、それに調印した。
1966年に出版された書籍「安政の大獄」を読むと井伊の世界観の狭さは驚くほどだ。もちろん鎖国の中で、世界を知れ、というのは無理もなかろう。しかし、左内や斉彬のような人物がいたことを忘れてはならない。この書籍を書いた永江新三という歴史家の筆致もすばらしい。
左内が15~6歳にのときに書いた「啓発録」を下村氏や日本の政治家、行政に携わる人々は読んでほしい。歴史の古典を読むことは、政治家になろうと志を立てた人々には必須の条件だろう。若い人々の中には志を持った政治家もいよう。だが最も大切なことは、慧眼を養うために、刻苦奮闘努力することだ。
現在、日本には下村氏程度の考えしか及ばない政治家や行政官はそこらじゅうにいる。彼らが選挙にかまけて本を読まず、選挙に勝つことと大臣になろうとする手練手札を学ぶことだけに目が行っているのだろう。大半の政治家は教養を磨いていないと思う。歴史を理解し、それを政治に利用していないのだろうか。まったく本など読んでいないのだろうか。本を読み、実践する。国民の中に入り、国民から情報を得て彼らに学ぶ。それが政治家の理想ではないのか。
私は大河ドラマ「西郷どん」の風間さんをテレビで見て、橋本左内を思い出した。青年時代に読んだ「啓発録」を本棚からもう一度引っ張り出し読んだ。左内ような幕末の英傑を思い出し、今の政治家と官僚の体たらくに慨嘆している。
追伸: ひとつ気に掛かったことがある。それはテレビ朝日の女性記者は1年半前からたびたび福田氏からセクハラを受けたという。それなら男性記者に代えればいではないか、という意見がある。その意見には同意しかねる。それではセクハラを認め、時代の流れに反抗し、それを押しとどめようとする行動に等しい。歴史の変化の大流は誰も押しとどめることができない。押しとどめようとすれば、飲み込まれ滅びるだろう。歴史の大きな特質は変化である。偉大なフランスの歴史学者マルク・ブロックはそう述べている。私もその通りだと思う。男女平等雇用機会均等法が約30年前に成立した直後に、初めてメディアに女性記者が登場したが、いまだ女性記者にとって取材しやすい、素晴らしい職場ではない。元記者の私は思う。しかし確実に女性記者にとってより良い方向に向かっている。その歴史の変化がいかに遅かろうとも、変化の大流は大きな河となっている。これを読み違わないように日本の政治家連中に忠告したい。
画像は橋本左内
共産党が公表した思惑は横においておくとして、文科相までなった下村氏のこの問題に対する見方にあきれ憂慮する。ただ一点だけ、「週刊新潮に訴えた」ことだけ見れば、彼の主張も正しいのかもしれないが、テレビ朝日の会見では、女性記者が1年半前に最初に福田氏に取材で会ってから、会うたびごとにセクハラ行為に見舞われ、思いあまって「防御」のため、録音テープを持参したという。
この流れからすれば、女性記者の話が真実かどうか明確に分かるまでは、下村氏は発言を控えるのは当然ではなかったのか。現時点であのような発言をすれば、「この男は全体の流れを理解できず、想像力が欠如した人物。政治家としての資質を欠く」と言われても何も言えまい。国民の生命にかかわる重大な時局に至り、重大な決定を下すとき、このような思考回路でディシジョン・メイキングをされては国民はたまったものではない。
私は下村氏の発言を聞いて、「この政治家は大局を観察できないのか?物事を全体から見て判断できないのか?それとも故意にあのような発言をして、自民党と安倍首相におもねっているのかのどちらかだ」と考えた。
また長尾敬・衆院議員が福田氏のセクハラ疑惑をめぐり「#Me Too」と書かれた紙を掲げて抗議する女性国会議員らの写真をツイッターに載せ、「セクハラ疑惑とは縁遠い方々」と書き込んだ。これをツイッターに出せば、どうなるのか、想像力を持ち合わせていれば、一瞬で理解できる。想像力が乏しかったのだろうか。もしそうなら政治家の資質がないのだから、即刻国会から故郷へ帰るべきだ。
一方、女性議員は大挙して財務省に押しかけ、福田氏のセクハラ疑惑に抗議し、「#Me Too」のプラカードを掲げていた。数人が出かけていけば良い話ではないか。北朝鮮問題や裁量労働制問題など、論議してほしい問題が山積しているのに、このような問題にすべてのエネルギーを費やしている。日本の政治家は国民の税金を何だと考えているのか。国民は高い税金をスキャンダルやその批判に支払ってはいるのだろうか。わたしはそうは思わない。諸外国のメディアは何と報道しているだろうか。
「はちゃめちゃ」とは日本の政治を言うのだろう。政治家と官僚の資質がこれほどまで低下しているとは、すでに鬼籍に入った半世紀前の人々には想像すらできないだろう。日本政治の底が抜けたのかもしれない。戦国時代なら、このような国は、織田信長あたりにすでに攻め滅ぼされているだろう。織田信長に滅ぼされた朝倉義景を思い出してしまう。
NHK大河ドラマ「西郷どん」が始まり、島津斉彬と西郷吉之助の主従の物語が終焉を迎えているが、斉彬の命を受けた西郷とともに、一橋慶喜の将軍職就任に奔走した人物がいる。この人物を風間俊介さんが演じている。読者もお分かりの越前福井藩の橋本左内だ。彼は井伊直弼が断行した安政の大獄で、25歳という若さで刑死するのだが、その視野の広さには敬服する。井伊と左内。直弼は世界の情勢が理解できず、時の変化の流れも分からず、まるで時間が止まったかのように一点だけを考えて政治をおこなった。それは徳川宗家を守ることだけであった。日本の運命などどうでもよかった。というよりも直弼には日本という概念がまったくなかった。ハリスがなぜ日米通商条約を結ぼうとしているのかも分からず、ただただ徳川宗家を守るために、それに調印した。
1966年に出版された書籍「安政の大獄」を読むと井伊の世界観の狭さは驚くほどだ。もちろん鎖国の中で、世界を知れ、というのは無理もなかろう。しかし、左内や斉彬のような人物がいたことを忘れてはならない。この書籍を書いた永江新三という歴史家の筆致もすばらしい。
左内が15~6歳にのときに書いた「啓発録」を下村氏や日本の政治家、行政に携わる人々は読んでほしい。歴史の古典を読むことは、政治家になろうと志を立てた人々には必須の条件だろう。若い人々の中には志を持った政治家もいよう。だが最も大切なことは、慧眼を養うために、刻苦奮闘努力することだ。
現在、日本には下村氏程度の考えしか及ばない政治家や行政官はそこらじゅうにいる。彼らが選挙にかまけて本を読まず、選挙に勝つことと大臣になろうとする手練手札を学ぶことだけに目が行っているのだろう。大半の政治家は教養を磨いていないと思う。歴史を理解し、それを政治に利用していないのだろうか。まったく本など読んでいないのだろうか。本を読み、実践する。国民の中に入り、国民から情報を得て彼らに学ぶ。それが政治家の理想ではないのか。
私は大河ドラマ「西郷どん」の風間さんをテレビで見て、橋本左内を思い出した。青年時代に読んだ「啓発録」を本棚からもう一度引っ張り出し読んだ。左内ような幕末の英傑を思い出し、今の政治家と官僚の体たらくに慨嘆している。
追伸: ひとつ気に掛かったことがある。それはテレビ朝日の女性記者は1年半前からたびたび福田氏からセクハラを受けたという。それなら男性記者に代えればいではないか、という意見がある。その意見には同意しかねる。それではセクハラを認め、時代の流れに反抗し、それを押しとどめようとする行動に等しい。歴史の変化の大流は誰も押しとどめることができない。押しとどめようとすれば、飲み込まれ滅びるだろう。歴史の大きな特質は変化である。偉大なフランスの歴史学者マルク・ブロックはそう述べている。私もその通りだと思う。男女平等雇用機会均等法が約30年前に成立した直後に、初めてメディアに女性記者が登場したが、いまだ女性記者にとって取材しやすい、素晴らしい職場ではない。元記者の私は思う。しかし確実に女性記者にとってより良い方向に向かっている。その歴史の変化がいかに遅かろうとも、変化の大流は大きな河となっている。これを読み違わないように日本の政治家連中に忠告したい。
画像は橋本左内