筆者は2月19日付のブログで「安倍首相の靖国参拝は中国を利する」と現実主義的な立場から首相を批判した。
20日の朝日新聞1面の「時時刻刻」に「『失望』の応酬 きしむ日米」の主見出しが躍っていた。また21日のオピニオンに米国在住の作家、冷泉彰彦氏が「(日本の右派)の国家主義的言動で(米国識者の)印象はかなり悪化 (日本の)国益損なっている」と、朝日新聞のインタビューに答えていた。
米メディアは安倍首相を「国家主義者」と非難している。米国は首相の靖国参拝に対して「失望」と批判したことに対して、首相側近の衛藤晟一首相補佐官が動画投稿サイト「ユーチューブ」で「われわれのほうが失望した」とやり返した。
朝日新聞は4面に衛藤氏の発言要旨を掲載した。その中の主要な内容はこう述べている。「米国がディサポインントメントと言ったことに対して、むしろ我々のほうがディサポイントメントだ。米国が同盟関係の日本を何でこんなに大事にしないのか。米国はちゃんと中国にものを言えないようになりつつある、と・・・・総理は参拝時に言った『国のために亡くなった方々に国の代表として慰霊を申しあげる、改めて平和を祈念する、不戦の誓いをする』。そういう純粋な気持ちで言っている』
また米紙「ウォールストリート・ジャナール」のインタビューを受け、首相の経済ブレーン、本田悦郎内閣官房参与は、太平洋戦争末期に米艦に体当たりした神風特別攻撃隊について「日本の平和と繁栄は彼らの犠牲の上にある。だから安倍首相は靖国神社に行かなければならなかった」と語った。同紙は本田氏が「神風特攻隊の『自己犠牲』について語りながら、涙ぐんだ」と説明している。しかし本田氏は「特攻隊を挙げて、首相の靖国神社参拝を擁護したのではない」と否定した。
冷泉氏はこの一連の動きを観察し、「米政府は、安倍政権が米国に対して反抗するとか、戦後の国際秩序に反抗するというふうには思っていないでしょう。単に無思慮な行為だと理解しているでしょう」と話す。
衛藤氏や本田氏の発言を読んで読者はどう考えるだろうか。筆者はこのブログで読者に「現実主義たれ」と呼びかけてきた。また「保守」と「右翼(右派)」の違いはレアリストか、そうでないかの違いだと説いた。現実主義者は研ぎ澄まされた観察眼で世界の流れを読む。国際環境の推移を観察して思考する。そのために、感情的な、感性的な、観念的な「右派」からは「日和見」と叩かれ、理想主義的な、観念的な「左派」からは「右翼」とみなされる。
日本の大学では政治の学問を「政治学」というが、英米では「Political Science」という。日本の政治家には「科学的な思考」が欠如している。 また日本人の多くは政治や外交を「良い」「悪い」の感性から捉えがちだ。良い悪いはさておき、メディアの人々にもその傾向がある。衛藤氏の発言「米国が同盟関係の日本を何でこんなに大事にしないのか」は、まさに彼の感情から出ており、そこからは米国が「なぜ失望したのか」を客観的に分析していない。
衛藤氏や本田氏の発言そのものを否定するつもりはない。歴史は連続である。だから「若い特攻隊員の犠牲の上に、今日の日本の繁栄がある」と思う。ただそれだけではない。われわれが太平洋戦争を反省(中韓が主張する反省ではない)し、その上に立って努力した結果、今日の繁栄があるのも事実だ。衛藤、本田両氏はあまりにも過去と太平洋戦争に感性的な思い入れがあり、周囲の歴史の流れ(時)をまったく観察していない。
彼らに不足しているのは「相手の目で見る」観察眼の欠如だ。右派にはそれがないが保守主義者にはそれがある。そして故福田恒存氏らの保守主義者は日本に少ない。欧米メディアが安倍政権に厳しい目を向けているのはそこである。欧米のメディアは安倍首相を「保守派」とは見ていない。「国家主義者」とみる。国家主義者の将来の言動は予測不可能だと、欧米メディアは見ている。それは国家主義者が感性的で、観念的で、周囲の時の変化を一顧だにしていないかだ。
英紙「ファイナンシャル・タイムズ」は「米国からの何十年にわたる催促の末に、安倍氏は防衛力の増強や『安保ただ乗り』体制からの脱却に意欲を示しているが、今や米国は不安を抱き始めている」と分析した。朝日新聞によれば、ケリー米国務長官は日本を「予測不能で危険」とみなしている。これらの見解の根底には日本の「右派」や「左派」が持っている感性や観念で政治や外交を考える危うさがある。日本人の国民性なのかもしれない。筆者は冗談交じりに「日本人は政治、軍事、外交に向かない民族だ。米国の一州になったほうが安全かもしれない」と周囲に言っている。つまり日本人が、冷厳な現実を映し出す軍事や外交に対しての現実主義的な観察眼、つまり「サイエンス」が欠如しているからにほかならない。
1937年5月に首相に就任したネビル・チェンバレンはヒトラー率いる独裁国家、ドイツに対して「悪名高い」宥和政策を遂行した。これに対して、第2次世界大戦で英国を指導したウィンストン・チャーチルは宥和政策を厳しく批判した。だからと言って、両者は最終目的が違っていたわけではない。「大英帝国と英国本土」の維持、独立、繁栄のために「ベストな政策は何か」について現実的なアプローチが異なっていただけである。チェンバレンもチャーチルも冷徹な現実主義者あり、保守主義者だった。
米国在住の冷泉氏は「靖国参拝と国家主義的な言動に対する危機感が、日本では薄すぎます」と話し、米国政府の中国に対する見方を紹介する。「米国は中国の様々なことが気に入らないし、価値観もまるで違うが、我慢している。なのに、安倍首相の無分別な言動が(米中の)微妙な(勢力)均衡を狂わせ、米国の国益を左右している」「日本の行動は中国の改革を遅らせている。米国は硬軟合わせたメッセージを送り、国際ルールにのっとるように促している。軍事的な膨張を抑制し、より開かれた社会と政治体制に軟着陸させようというのが米国の国家意思です。しかしパートナーである日本が、中国を刺激し、こともあろうに連合国、第2次世界大戦戦勝国側の遺産を利用させるような事態となっている。・・・米国が主導してつくり上げた戦後の国際秩序だというのに、後から入ってきた中国の共産党政権が主役面して正義を名乗るなど、米国には許しがたいはずです」
冷泉氏は「過剰な反原発感情もそうでしょう。大切な問題ではありますが、必要以上に大きく語られ、人口減少や産業競争力低下といった日本の根源的な問題が避けられている。(このままなら)日本は突然破綻するのではなく、時間をかけて衰退していくでしょう」とも語っている。
日本人は歴史を連続して捉えないため、過去をすぐ忘れ、感情的な反省はあっても、科学的な反省はない。冷泉氏の指摘は、原発事故のような目の前に起こったことに対しては過剰反応を示すが、じわじわと水面下で進行している危険に対してはノー天気だと言いたいのだろう。パブロの犬だと言いたのだろう。目の前の困難にはつけ刃ででも対処し、当面の解決策を見いだしても、長期的な戦略が立てられない国民だと考えている。
朝日新聞の記者は冷泉氏に「右が靖国、左が反原発にむかうならば、真ん中は?」と尋ねる。これに対して、冷泉氏は答える。「中間的な層が実は多数派です。この真ん中はじつはノンポリなんです。価値判断など面倒なことにはかかわりたくないという巨大な空白があるんですね。是々非々で判断する中間層というのが日本にはない。ふわっとしたノンポリという立場があり、それが巨大なのです。日本の教育には決定的に欠けていることがあります。社会、政治問題について『自分の意見を持つことの重要さ』を教えていないということです。自分の中に核となる考え、抽象的な原理原則を持ち、それに基づいて政策の賛否を決めるという当たり前のことを、公教育で一切教えていない。大きな問題です」
冷泉氏の嘆きはもっともだ。日本の教育は暗記であり、思考の教育ではない。小中学校で、議論する場を生徒に与えない。先生は教壇から一方的に教科書を通して教えているにすぎない。生徒は疑問を持たずに、「なぜ」を発することもなく、ひたすら先生の言ったことをノートにとっている。大人になれば「なぜ」を思考する人々を日本人は嫌う。会社やスポーツ団体を見れば理解でくる。ひたすら上司の言うことを「ご無理ごもっとも」と言って従う。
大学の入試試験は議論や思考、論理力を試す試験ではなく、記憶力を試す試験だといっても過言ではない。歴史教育や授業がいい例だ。生徒は歴史を暗記科目だと勘違いしている。歴史は人間を観察する科学であり、そのために必要な観察力、思考力、判断力、決断力などを養う科目だ。だから英国では、チャーチルが言うように、歴史は政治家になる必須科目だ。
冷泉氏は日本人に素晴らしい提言をしたと思う。筆者も昨年11月下旬、拙書を世に出して日本人の暗記の歴史を批判し、歴史を人生に生かす重要性を力説した。日本を真の意味で愛するとは何か。それは「他の目で見る。自分本位に考えない。だからと言って相手に追随しない。相手の意図を十分に理解してから現実的に思考し、そして国益を追求する」。中韓の指導者も自分本位にしか歴史を見ないし、他国を「他の目でみない」ことをわれわれは理解している。だからこそわれわれ自身が「他の目で見る」ことが必要だ。
写真は衛藤晟一首相補佐官
20日の朝日新聞1面の「時時刻刻」に「『失望』の応酬 きしむ日米」の主見出しが躍っていた。また21日のオピニオンに米国在住の作家、冷泉彰彦氏が「(日本の右派)の国家主義的言動で(米国識者の)印象はかなり悪化 (日本の)国益損なっている」と、朝日新聞のインタビューに答えていた。
米メディアは安倍首相を「国家主義者」と非難している。米国は首相の靖国参拝に対して「失望」と批判したことに対して、首相側近の衛藤晟一首相補佐官が動画投稿サイト「ユーチューブ」で「われわれのほうが失望した」とやり返した。
朝日新聞は4面に衛藤氏の発言要旨を掲載した。その中の主要な内容はこう述べている。「米国がディサポインントメントと言ったことに対して、むしろ我々のほうがディサポイントメントだ。米国が同盟関係の日本を何でこんなに大事にしないのか。米国はちゃんと中国にものを言えないようになりつつある、と・・・・総理は参拝時に言った『国のために亡くなった方々に国の代表として慰霊を申しあげる、改めて平和を祈念する、不戦の誓いをする』。そういう純粋な気持ちで言っている』
また米紙「ウォールストリート・ジャナール」のインタビューを受け、首相の経済ブレーン、本田悦郎内閣官房参与は、太平洋戦争末期に米艦に体当たりした神風特別攻撃隊について「日本の平和と繁栄は彼らの犠牲の上にある。だから安倍首相は靖国神社に行かなければならなかった」と語った。同紙は本田氏が「神風特攻隊の『自己犠牲』について語りながら、涙ぐんだ」と説明している。しかし本田氏は「特攻隊を挙げて、首相の靖国神社参拝を擁護したのではない」と否定した。
冷泉氏はこの一連の動きを観察し、「米政府は、安倍政権が米国に対して反抗するとか、戦後の国際秩序に反抗するというふうには思っていないでしょう。単に無思慮な行為だと理解しているでしょう」と話す。
衛藤氏や本田氏の発言を読んで読者はどう考えるだろうか。筆者はこのブログで読者に「現実主義たれ」と呼びかけてきた。また「保守」と「右翼(右派)」の違いはレアリストか、そうでないかの違いだと説いた。現実主義者は研ぎ澄まされた観察眼で世界の流れを読む。国際環境の推移を観察して思考する。そのために、感情的な、感性的な、観念的な「右派」からは「日和見」と叩かれ、理想主義的な、観念的な「左派」からは「右翼」とみなされる。
日本の大学では政治の学問を「政治学」というが、英米では「Political Science」という。日本の政治家には「科学的な思考」が欠如している。 また日本人の多くは政治や外交を「良い」「悪い」の感性から捉えがちだ。良い悪いはさておき、メディアの人々にもその傾向がある。衛藤氏の発言「米国が同盟関係の日本を何でこんなに大事にしないのか」は、まさに彼の感情から出ており、そこからは米国が「なぜ失望したのか」を客観的に分析していない。
衛藤氏や本田氏の発言そのものを否定するつもりはない。歴史は連続である。だから「若い特攻隊員の犠牲の上に、今日の日本の繁栄がある」と思う。ただそれだけではない。われわれが太平洋戦争を反省(中韓が主張する反省ではない)し、その上に立って努力した結果、今日の繁栄があるのも事実だ。衛藤、本田両氏はあまりにも過去と太平洋戦争に感性的な思い入れがあり、周囲の歴史の流れ(時)をまったく観察していない。
彼らに不足しているのは「相手の目で見る」観察眼の欠如だ。右派にはそれがないが保守主義者にはそれがある。そして故福田恒存氏らの保守主義者は日本に少ない。欧米メディアが安倍政権に厳しい目を向けているのはそこである。欧米のメディアは安倍首相を「保守派」とは見ていない。「国家主義者」とみる。国家主義者の将来の言動は予測不可能だと、欧米メディアは見ている。それは国家主義者が感性的で、観念的で、周囲の時の変化を一顧だにしていないかだ。
英紙「ファイナンシャル・タイムズ」は「米国からの何十年にわたる催促の末に、安倍氏は防衛力の増強や『安保ただ乗り』体制からの脱却に意欲を示しているが、今や米国は不安を抱き始めている」と分析した。朝日新聞によれば、ケリー米国務長官は日本を「予測不能で危険」とみなしている。これらの見解の根底には日本の「右派」や「左派」が持っている感性や観念で政治や外交を考える危うさがある。日本人の国民性なのかもしれない。筆者は冗談交じりに「日本人は政治、軍事、外交に向かない民族だ。米国の一州になったほうが安全かもしれない」と周囲に言っている。つまり日本人が、冷厳な現実を映し出す軍事や外交に対しての現実主義的な観察眼、つまり「サイエンス」が欠如しているからにほかならない。
1937年5月に首相に就任したネビル・チェンバレンはヒトラー率いる独裁国家、ドイツに対して「悪名高い」宥和政策を遂行した。これに対して、第2次世界大戦で英国を指導したウィンストン・チャーチルは宥和政策を厳しく批判した。だからと言って、両者は最終目的が違っていたわけではない。「大英帝国と英国本土」の維持、独立、繁栄のために「ベストな政策は何か」について現実的なアプローチが異なっていただけである。チェンバレンもチャーチルも冷徹な現実主義者あり、保守主義者だった。
米国在住の冷泉氏は「靖国参拝と国家主義的な言動に対する危機感が、日本では薄すぎます」と話し、米国政府の中国に対する見方を紹介する。「米国は中国の様々なことが気に入らないし、価値観もまるで違うが、我慢している。なのに、安倍首相の無分別な言動が(米中の)微妙な(勢力)均衡を狂わせ、米国の国益を左右している」「日本の行動は中国の改革を遅らせている。米国は硬軟合わせたメッセージを送り、国際ルールにのっとるように促している。軍事的な膨張を抑制し、より開かれた社会と政治体制に軟着陸させようというのが米国の国家意思です。しかしパートナーである日本が、中国を刺激し、こともあろうに連合国、第2次世界大戦戦勝国側の遺産を利用させるような事態となっている。・・・米国が主導してつくり上げた戦後の国際秩序だというのに、後から入ってきた中国の共産党政権が主役面して正義を名乗るなど、米国には許しがたいはずです」
冷泉氏は「過剰な反原発感情もそうでしょう。大切な問題ではありますが、必要以上に大きく語られ、人口減少や産業競争力低下といった日本の根源的な問題が避けられている。(このままなら)日本は突然破綻するのではなく、時間をかけて衰退していくでしょう」とも語っている。
日本人は歴史を連続して捉えないため、過去をすぐ忘れ、感情的な反省はあっても、科学的な反省はない。冷泉氏の指摘は、原発事故のような目の前に起こったことに対しては過剰反応を示すが、じわじわと水面下で進行している危険に対してはノー天気だと言いたいのだろう。パブロの犬だと言いたのだろう。目の前の困難にはつけ刃ででも対処し、当面の解決策を見いだしても、長期的な戦略が立てられない国民だと考えている。
朝日新聞の記者は冷泉氏に「右が靖国、左が反原発にむかうならば、真ん中は?」と尋ねる。これに対して、冷泉氏は答える。「中間的な層が実は多数派です。この真ん中はじつはノンポリなんです。価値判断など面倒なことにはかかわりたくないという巨大な空白があるんですね。是々非々で判断する中間層というのが日本にはない。ふわっとしたノンポリという立場があり、それが巨大なのです。日本の教育には決定的に欠けていることがあります。社会、政治問題について『自分の意見を持つことの重要さ』を教えていないということです。自分の中に核となる考え、抽象的な原理原則を持ち、それに基づいて政策の賛否を決めるという当たり前のことを、公教育で一切教えていない。大きな問題です」
冷泉氏の嘆きはもっともだ。日本の教育は暗記であり、思考の教育ではない。小中学校で、議論する場を生徒に与えない。先生は教壇から一方的に教科書を通して教えているにすぎない。生徒は疑問を持たずに、「なぜ」を発することもなく、ひたすら先生の言ったことをノートにとっている。大人になれば「なぜ」を思考する人々を日本人は嫌う。会社やスポーツ団体を見れば理解でくる。ひたすら上司の言うことを「ご無理ごもっとも」と言って従う。
大学の入試試験は議論や思考、論理力を試す試験ではなく、記憶力を試す試験だといっても過言ではない。歴史教育や授業がいい例だ。生徒は歴史を暗記科目だと勘違いしている。歴史は人間を観察する科学であり、そのために必要な観察力、思考力、判断力、決断力などを養う科目だ。だから英国では、チャーチルが言うように、歴史は政治家になる必須科目だ。
冷泉氏は日本人に素晴らしい提言をしたと思う。筆者も昨年11月下旬、拙書を世に出して日本人の暗記の歴史を批判し、歴史を人生に生かす重要性を力説した。日本を真の意味で愛するとは何か。それは「他の目で見る。自分本位に考えない。だからと言って相手に追随しない。相手の意図を十分に理解してから現実的に思考し、そして国益を追求する」。中韓の指導者も自分本位にしか歴史を見ないし、他国を「他の目でみない」ことをわれわれは理解している。だからこそわれわれ自身が「他の目で見る」ことが必要だ。
写真は衛藤晟一首相補佐官