キューバのフィデル・カストロ前国家評議会議長が11月25日に死去した。キューバ革命の父カストロ氏の評価は賛否両論だ。彼が搾取を正し、キューバ国民を貧困から救おうとした一方、半世紀にも及ぶ独裁政権を敷いたからだ。
歴史は単純ではなく複雑だと筆者は何度もこのブログで主張してきたが、カストロ氏にも当てはまる。
筆者はカストロ氏を非道な独裁者だと割り切りたくない。1953年7月、チェ・ゲバラらとともに武装闘争を開始し親米のバティスタ独裁政権を打倒。59年1月に革命政権を樹立した。
バティスタ独裁政権は腐敗しきっており、ごく一部の富裕層に支持され、90%以上のキューバ国民を搾取した。大多数のキューバ国民は貧困のどん底で苦しみ、社会正義とは縁がなかった。
バティスタは、アメリカ企業や、カジノを経営していたパートナーのマフィアのキューバ国内での利権の保護した。それと引き換えに莫大な利権保護に絡むカネを手に入れ、私欲を満たすようになった。またキューバ農業や工業にアメリカ資本が流れ込み、アメリカ企業による事実上の搾取が大手を振って行われるようになった。
カストロ氏の革命の動機は不平等な社会を憎む青年の正義心から来ていた。バティスタの悪逆な政治を終わらせ、国民を貧困から救い出そうとした革命だった。彼は富農の息子で有り、共産主義者ではなかった。不平等な社会を憎む青年の正義心が革命の動機だった。
1961年4月、アメリカ(ケネディ政権)はカストロ政権の転覆を狙い、CIAの支援を受けた亡命キューバ人部隊をキューバに侵攻させた。3日間の戦闘の末、その部隊はキューバ軍に撃退され、カストロ政権転覆の目論見は失敗に終わった。
この事件がカストロ氏の反米主義を確固としたものにし、社会主義体制へと追いやった。当時冷戦のまっただ中にあり、米ソが激しく対立していた。
1962年、アメリカはキューバに対し国交断絶を通告し、全面的な禁輸措置を実施。カストロはキューバ革命を守るため、社会主義の盟主ソ連に近づいた。
カストロ氏は同年、ソ連がキューバに核ミサイル基地を建設することを認め、米ソ両国が対立。人類史上最も核戦争の危機が高まったとされる「キューバ危機」が発生した。キューバは東西冷戦を象徴する国の一つとなり、カストロ氏は反米・左翼勢力の象徴的人物となった。
当時の米国政権がカストロ氏を社会主義者に追いやったといえる。17世紀初めに米国大陸に初めて上陸したピルグリム・ファーザーズがもつ伝統的な宗教精神と自由の精神が米国人の血に流れている。このため、米国人は時として現実を無視する教条主義におちいる。
カストロ氏の50年にわたる独裁の原因の一端は歴代の米国政府の反キューバ政策に帰しているとみて間違いない。ただカストロ氏が反米でなかったとしても独裁を敷いた確率は高いと思う。
カストロ氏独裁の50年間、キューバの教育水準は向上し、医療技術も進歩した。その一方、ソ連が崩壊すると、サトウキビ栽培による砂糖の生産・輸出に頼ったキューバのモノカルチャー経済は立ち行かなくなり、多くの人々が国外へと亡命した。
多数の有能な人々が社会主義を見限って米国に亡命したが、カストロ政権は続いた。それはカストロ氏が無私の心を持った人物だったからだ。自分の銅像を建てることを禁止し、偶像化を嫌った。また、愛息といえど能力がなければ、冷徹に罷免して公平な判断を下した。
人間の一生は完全無欠ではない。誤りもある。カストロは民主主義者では決しなかったが、ヒューマニストだった。しかし、自分の正義が絶対だと思い、異見を許さずに政敵や反体制派や反対者を容赦なく弾圧した。自らの信念や価値観が絶対に正しいと信じるヒューマニスト、理想主義者、観念主義者が陥りやすい弱点だ。特に政治家にとっては致命的な欠点になる。カストロ氏も例外ではなかった。
カストロ氏の政治信条や独裁政治には同調できないが、バティスタ独裁政権を倒した動機には、誰も反対しないだろう。この意味で、カストロ氏は偉大な革命家だった。人間に欲があるかぎり決して実現できない「公正で平等な社会」というユートピアを実現しようと孤軍奮闘した精神に敬意を表したい。彼の冥福を祈ります。
歴史は単純ではなく複雑だと筆者は何度もこのブログで主張してきたが、カストロ氏にも当てはまる。
筆者はカストロ氏を非道な独裁者だと割り切りたくない。1953年7月、チェ・ゲバラらとともに武装闘争を開始し親米のバティスタ独裁政権を打倒。59年1月に革命政権を樹立した。
バティスタ独裁政権は腐敗しきっており、ごく一部の富裕層に支持され、90%以上のキューバ国民を搾取した。大多数のキューバ国民は貧困のどん底で苦しみ、社会正義とは縁がなかった。
バティスタは、アメリカ企業や、カジノを経営していたパートナーのマフィアのキューバ国内での利権の保護した。それと引き換えに莫大な利権保護に絡むカネを手に入れ、私欲を満たすようになった。またキューバ農業や工業にアメリカ資本が流れ込み、アメリカ企業による事実上の搾取が大手を振って行われるようになった。
カストロ氏の革命の動機は不平等な社会を憎む青年の正義心から来ていた。バティスタの悪逆な政治を終わらせ、国民を貧困から救い出そうとした革命だった。彼は富農の息子で有り、共産主義者ではなかった。不平等な社会を憎む青年の正義心が革命の動機だった。
1961年4月、アメリカ(ケネディ政権)はカストロ政権の転覆を狙い、CIAの支援を受けた亡命キューバ人部隊をキューバに侵攻させた。3日間の戦闘の末、その部隊はキューバ軍に撃退され、カストロ政権転覆の目論見は失敗に終わった。
この事件がカストロ氏の反米主義を確固としたものにし、社会主義体制へと追いやった。当時冷戦のまっただ中にあり、米ソが激しく対立していた。
1962年、アメリカはキューバに対し国交断絶を通告し、全面的な禁輸措置を実施。カストロはキューバ革命を守るため、社会主義の盟主ソ連に近づいた。
カストロ氏は同年、ソ連がキューバに核ミサイル基地を建設することを認め、米ソ両国が対立。人類史上最も核戦争の危機が高まったとされる「キューバ危機」が発生した。キューバは東西冷戦を象徴する国の一つとなり、カストロ氏は反米・左翼勢力の象徴的人物となった。
当時の米国政権がカストロ氏を社会主義者に追いやったといえる。17世紀初めに米国大陸に初めて上陸したピルグリム・ファーザーズがもつ伝統的な宗教精神と自由の精神が米国人の血に流れている。このため、米国人は時として現実を無視する教条主義におちいる。
カストロ氏の50年にわたる独裁の原因の一端は歴代の米国政府の反キューバ政策に帰しているとみて間違いない。ただカストロ氏が反米でなかったとしても独裁を敷いた確率は高いと思う。
カストロ氏独裁の50年間、キューバの教育水準は向上し、医療技術も進歩した。その一方、ソ連が崩壊すると、サトウキビ栽培による砂糖の生産・輸出に頼ったキューバのモノカルチャー経済は立ち行かなくなり、多くの人々が国外へと亡命した。
多数の有能な人々が社会主義を見限って米国に亡命したが、カストロ政権は続いた。それはカストロ氏が無私の心を持った人物だったからだ。自分の銅像を建てることを禁止し、偶像化を嫌った。また、愛息といえど能力がなければ、冷徹に罷免して公平な判断を下した。
人間の一生は完全無欠ではない。誤りもある。カストロは民主主義者では決しなかったが、ヒューマニストだった。しかし、自分の正義が絶対だと思い、異見を許さずに政敵や反体制派や反対者を容赦なく弾圧した。自らの信念や価値観が絶対に正しいと信じるヒューマニスト、理想主義者、観念主義者が陥りやすい弱点だ。特に政治家にとっては致命的な欠点になる。カストロ氏も例外ではなかった。
カストロ氏の政治信条や独裁政治には同調できないが、バティスタ独裁政権を倒した動機には、誰も反対しないだろう。この意味で、カストロ氏は偉大な革命家だった。人間に欲があるかぎり決して実現できない「公正で平等な社会」というユートピアを実現しようと孤軍奮闘した精神に敬意を表したい。彼の冥福を祈ります。