陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

オスカー・ワイルド「謎のないスフィンクス」~前編

2012-10-12 23:33:38 | 翻訳

前のログでちょっとふれた「謎のないスフィンクス」を訳してみました。
短いので、今日と明日で。

原文はhttp://www.eastoftheweb.com/short-stories/UBooks/SphWit.shtmlで読むことができます。

* * *


The Sphinx Without a Secret

「謎のないスフィンクス」

by オスカー・ワイルド



 ある日の昼下がり、わたしはカフェ・ド・ラ・ペのテラスに腰を下ろし、ヴェルモットを味わいながら、パリジャンたちの豪奢な、あるいはみすぼらしい暮らしぶりを眺めては、眼前に繰り広げられる壮麗と貧困が織りなすパノラマに驚嘆の目を見開いていた。そのとき、わたしの名前を呼ぶ声がした。

ふりかえると、そこにマーチソン卿がいた。マーチソン卿とは、大学で一緒だったとき以来、会わないままで十年近くが経っていたので、ここでまた会えたことがことのほかうれしく、わたしたちは固い握手を交わした。

オックスフォードでは、わたしたちはずっと親友だったのだ。彼がほんとうに好きだった。洗練されていたし、血気盛んで、しかも高潔な人がらだった。みんなでよく、あいつほどいいやつはいない、どんなときにでも本音をずけずけ言うくせさえなかったらなあ、と言い合ったものだった。とはいえ、誰もが彼のことを認めていたのは、その率直さゆえでもあったのだと思う。

ところが、その彼がかなり変わってしまっていた。不安げで、困惑しているようすで、何かのことで迷っているようにも見えた。当世ふうの懐疑主義のはずがない。マーチソンは筋金入りの保守主義者だし、モーセ五書を信ずること貴族院を信ずるごとしなのだから。となると女のことにちがいあるまい。そこでわたしは、結婚はもうしたのか、とたずねてみた。

「ぼくには女性というものがさっぱりわからない」とマーチソンが答えた。

「おいおい、ジェラルド」とわたしは言った。「女なんてものは愛するためにいるのであって、理解するためにいるわけじゃない」

「信頼できない相手を愛することはできないさ」

「どうやら君の身の上には秘密があるらしいな、ジェラルド」わたしは思わず大きな声を出してしまった。「話してくれよ」

「場所を変えよう」と彼は言った。「ここは人が多すぎるじゃないか。いや、黄色い馬車じゃない、ちがう色のだ――ああ、あの深緑の馬車がいいな」そうやってほどなくわたしたちを乗せた馬車は大通りをマドレーヌ寺院の方角へ駆けていった。

「どこへ行こう?」とたずねるわたしに

「どこだっていいさ」と彼は答えた。「ブローニュの森のレストランにしよう。そこで食事でもしながら君のことをあらいざらい、聞かせてくれよ」

「まずは君の話を聞きたいな」とわたしは言った。「君の秘密を教えてくれよ」

 マーチソンはポケットから、小さな銀の留め金のついたモロッコ革のケースを取り出し、渡してくれた。わたしはそれを開けた。中には女の写真が入っていた。上背のあるほっそりした女性で、たよりなげな大きな目と緩く結った髪が、不思議と目を引くのだった。透視か何かをする人のような感じで、豪華な毛皮に身を包んでいた。

「この顔を見てどう思う?」と彼は言った。「正直な人だろうか」

 わたしはしげしげとその写真を眺めた。秘密を持つ人間の顔のようにも思えたが、その秘密が良いものか、悪いものかはわからなかった。その美しさはいくつもの秘密からつくり上げられたもの――顔立ちの美しさは、造形によるものではなく、精神的なもので、口元に浮かぶかすかな笑みも、実際に魅力的というにははるかに微妙なものだった。

「おいおい」彼はじれたように声をあげた。

「セーブルを身にまとったモナ・リザだな」とわたしは答えた。「この女性のことを残らず教えてほしいな」

「いまはまだダメだ」と彼は言った。「食事がすんでから」そうして、ほかのことを話し出したのだった。

 ウェイターがコーヒーとタバコを持ってきたところで、わたしはジェラルドにその約束を思い出させた。椅子を立って、部屋を二、三度行ったりきたりしたのち、ふかぶかと肘掛け椅子に身を沈め、つぎのような話を聞かせてくれたのだった。

「ある日の夕方、五時頃のことだったが、ぼくはボンド・ストリートを歩いていた。通りは馬車がひどく混み合っていて、ほとんど立ち往生していたんだ。歩道のわきに小型の黄色い箱馬車が停まっていて、どういうわけだか、ふとそいつが気になった。ぼくが馬車を追い越そうとしたとき、さっき君に見せたろう、あの顔が窓の外を見ていたのだ。

ぼくはすぐに夢中になってしまった。その夜は、一晩中、あの顔のことを思っていた。そうして次の日もそうだった。ぼくはあのおもしろくもないロットン通りを行ったり来たりしては、馬車という馬車をのぞきこんで、あの黄色い箱馬車にでくわすのを待った。だが見知らぬ佳人とはお目にかかれず、しまいには彼女はただの夢だったのだ、と思うようになったのだ。


(この項つづく)