陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

「秘密」の話

2012-10-04 22:26:22 | weblog
オスカー・ワイルドの短編に「謎のないスフィンクス」という作品がある。

ある女性に恋い焦がれた男が、彼女の後をつけていく。すると、その女性は一軒の見知らぬ家に入っていく。秘密の恋人がいるのだろうか。思い悩んだ男は、友人に相談する。

友人はやがてその秘密をつきとめる。彼女は必要もないのに部屋を借り、そこで本を読んだりお茶を飲んだりして「秘密」めかした気分を味わっていた。秘密がないのが彼女の「秘密」だったのだ。

ところで、谷崎潤一郎の短編に「秘密」という作品があるのだが、おそらくこれは、谷崎がワイルドを読んでインスパイアされたのにちがいない。発表が明治四十四年ということで、谷崎25歳、まだ短編集すら発表していない最初期の作品である。

ワイルドの短編では、語り手は第三者、謎めいた女性のことを愛していた友人から話を聞いて、種明かしをしてみせる、という役割に過ぎないのだが、『秘密』の「私」は、『スフィンクス』の謎の女性さながらに部屋を借り、イギリスのミステリを読んだり(ワイルドの名前はここには出てこないが)、密かに女物の着物の肌触りを楽しんだり、さらには女装しお化粧までして外出したり、密かに麻薬を懐に忍ばせたりして、「秘密」をこころゆくまで楽しむ。

さらに谷崎は、ワイルドの短編には出てこなかった、もう一人の「秘密」を抱えた人物を登場させる。

かつて主人公には行きずりの関係を持ったT女という女性がいた。自分に執着する彼女を、主人公が捨てたせいで、お互い名告ることもなく、それきりになっていたのだ。ところが女装してお高祖ずきん姿の主人公を一目見て、彼女はそれが誰か気がついた。

彼女は主人公に手紙を渡す。そこからふたりは再会の約束をしたのだが、彼女は主人公に対して、俥を迎えにやるが、目隠しをさせてほしい、と要求する。彼女は、自分がどこの誰であるかをあくまで主人公に対して「秘密」にしようとするのだ。

この「秘密」に主人公は夢中になってしまうのだが、同時に彼女の秘密を暴きたくもなる。結局、途中で一瞬だけ、目隠しをはずした主人公は、途中で見た看板から、彼女の居所を突き止め、相手が何者かわかった瞬間に、執着心もさめてしまう、というところで終わる。

こうした短編を見ていると、「秘密」の意味をあらためて考えてしまうのだ。

「秘密」ということばでわたしたちが思い浮かべるのは、多くの場合、何かしら後ろ暗い行為なり出来事なりがあって、それを隠している、といったことだろう。だから、親しい関係では「秘密」は障害物になるように思われるし、秘密のある人間というのは、後ろ暗いところのある人、というふうにみなされる。何も悪いことをしていないんだったら、秘密なんてあるわけがない、というふうに。

けれども、ワイルドや谷崎の短編は、「秘密」のまったく別の一面をあきらかにしている。相手から隠す情報など何もないにもかかわらず、「秘密」があるふりをすれば、それは「秘密」として通用する、ということだ。言葉を換えれば、「秘密」としてわたしたちがやりとりしているのは、言ってみれば単に「秘密」とレッテルの貼ってある箱なのではないか。その箱に何が入っているかは問題ではない、中が空っぽでもかまわない。

秘密というのは、その内容ではないのだ。
わたしたちは、相手が何かを隠していると思うと、それが知りたくなる。そのために「秘密」を握る側は、情報を与えないことによって、相手の優位に立つことになる。そうして相手を操縦することが可能になるのだ。秘密にされた側は、相手との関係を対等に戻そうとして、何とかしてその「秘密」を知ろうとする。

こう考えていくと、「秘密」というのは、実は力関係なのだろう。ありのままの自分ではまた捨てられる、と思ったT女は、なんとかして主人公を手に入れようとして、「秘密」によって力を得ようとするし、「スフィンクス」の女性は、「秘密」のひとときを過ごすことで、誰というあてはなくても密かな優越感に浸る。

わたしたちの周りでも、「親に隠し事をするな」と怒る親は、「秘密」を持つことではなく、子供が自分の手の届かないところに行ってしまうことを怖れているのだろうし、「自分の部屋に入るな」という子供は、「秘密」を持つことで、なんとか親と対等になろうとしているのだろう。恋人の携帯をこっそりのぞく人は、相手の不実を疑っているというより、実際には、相手のすべてを把握し、相手をそっくり自分の内に取り込んでしまいたいのだ。まあ、「一心同体」というのが理想だと思う人もいるのかもしれないが。

わたしはそういうのはイヤだけどね。