陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

ひっそりと再開

2012-05-15 22:54:35 | weblog
図書館で『教科書に載った小説』という本を見た。

菊池寛の「形」や芥川龍之介の「雛」など、わたし自身、国語の授業で教わった短篇もあったし、永井龍男や広津和郎など、遠い昔に読んだ話もあった。中学を卒業してお寺に修行に行く男の子とお母さんが旅館に泊まって、最後の晩餐に「とんかつ」を食べる、という話が三浦哲朗の「とんかつ」だったというのは、この本で初めて知った。おそらく国語の問題文で一部を読んだのが印象に残っていたのだろう。

いずれも読みやすい短篇ばかりで、書架の前に立ったまま、およそ半時間ほどで一冊全部を読んでしまったのだが、あらためて教科書に載るぐらいの短篇というのはおもしろいものだと思った。それぞれがいずれも独自の小説世界を構成していて、戦場を駆け抜ける猩々緋の後ろ姿も、他人の革靴に足を入れたときの気持ち悪さも、暗い灯りの中で浮かび上がるお雛様も、目の前に立ち上ってくるようで、しかもそれがちょうど昔の友人に会ったときのように、読んだ当時の記憶と一緒に、なんともいえない懐かしい、その頃のにおいのようなものと一緒によみがえってくるのだった。

昔読んだ本を不意に読みたくなる、という経験は、おそらく誰にでもあることなのだろう。だからこそこんな本の需要があるのにちがいない。だが、教科書に載っていた本なら、まだ探しようもあるのだが、こんな感じの話だった、とか、こんな登場人物が出てくる話だとか、ひどい場合には記憶にあるのがエピソードの断片のときすらある。だが、そのエピソードの断片が、もう一度全体の中で読み返したくて、わたしたちは隔靴掻痒の思いをするのである。

だが、わたしたちが生きていく限り、記憶というのは積み重なっていくものであり、さまざまに混じり合うものだ。ある場所へ、当時はまだ知っているはずのない人物と一緒に行ったように記憶していたり、記憶の中ではふたつの出来事がひとつに混ざり合っていたり。わたしたちは無意識のうちに「記憶の捏造」というやつをやらかしてしまう。

本でも当然そういうことは起こるもので、「教えてgoo」などのサイトでも、このような「記憶の捏造」をときどき見かける。

http://oshiete.goo.ne.jp/qa/1404248.html

> 南の島(多分タヒチ?)が舞台で、
> 絵を書く人(多分ゴーギャン?)をモデルにして
> 書かれた小説。
>
> 確か題名に「ばなな」が付いていたと思うのですが、
> 見つかりません。

おそらくこれはモームの『月と六ペンス』と『バナナフィッシュにうってつけの日』のふたつを合体させてしまっているし、

ttp://oshiete.goo.ne.jp/qa/7346527.html

> 数十年前に大学受験で読んだサマセットモームの「サミングアップ」の中に、
> 朝起きてコーヒーを飲みながらクッキーをつまむ時間は至福の時という
> 部分を覚えていたのですが、どの部分に出ているのかお教え下さい。

というのは「そんな箇所はない」というのが答えだ(実はこのあと気になって、『サミング・アップ』を一通り読み返してみたので、断言できる)。この人の記憶の中で、ギッシングの『ヘンリ・ライクロフトの私記』と合体したのではないか……とは思うのだが、真相は不明である。

もちろんわたし自身もこうした忘却、タイトルの取り違え、内容の捏造はよくあることで、内容のでっち上げまでやってしまうこともある。はなはだしかったのは、須賀敦子の『トリエステの坂道』のなかの「セレネッラの咲くころ」というエッセイだった。

作者が石川淳の「紫苑物語」という短篇をイタリア語に翻訳していたときのこと。「紫苑」にあたる花をイタリアではなんと呼ぶか、探していたちょうどそのとき、当時、すでに亡くなっていた夫の実家の菜園に、その「紫苑」=セレネッラが植わっていた、という話なのだが、わたしの記憶の中では、姑が連れて行ってくれたのは、一面、紫苑が咲き乱れる平原のような場所だったのだ。石川淳の、不思議な、不気味だからこそ美しい世界と、見渡す限り一面の紫苑(というのを実際にわたしは見たことがないのだが)が一緒になって、美しい映像となってわたしの脳裏には刻まれていたのだが、あるとき本を読み直してみて驚いた。平原ではなく、ただの家庭菜園で、そんな感動的なものではなく、日常のひとこまなのである。記憶違いもはなはだしい、というか、自分の中にある感傷癖が、須賀さんの質実剛健(というのが適切な形容ではないことは百も承知で、にもかかわらずわたしは須賀さんの文章を読むと、この言葉が浮かんできてしまう)な文章の前では、ひどく安っぽいものに思えてしまった経験だった。

けれども、そんなふうに記憶が捏造されてしまうというのも、ひとつの作品が、小説から離れ、読み手の中に生き始めるからでもある。記憶にとどまり、時間の中で発酵しながら、独自の変化を遂げていく小説たち。

それはそれですてきな「創作」とは呼べないだろうか。

というわけで、そんな風に「また読んでみたい」と思えるような本のことを書いたり、短編小説の翻訳をしていったりしたいと思います。

ぼちぼちと再開していきますので、どうぞよろしく。

これまでにものぞきに来てくださって、どうもありがとう。
コメントしてくださった方も、ほんとにありがとうございました。