(※遅くなってすいません。でもがんばって最後まで訳しました)
最終回
ランディが夫人をテーブルからほんの数メートルのところまで連れて行ったので、ちょうど夫人のところから容器を見下ろす恰好になった。
「ご対面ですな」とランディは言った。「あれがウィリアムです」
彼はミセス・パールが思い描いていたよりはるかに大きく、色も濃かった。表面全体に隆起している箇所と割れ目とが走っていて、どう見ても巨大なクルミのピクルスといったところがせいぜいだ。彼の下から四本の太い動脈と二本の静脈が伸びており、それがビニールチューブにきれいに接続されている。人工心臓が鼓動するたびに血液が押し出され、チューブはそろって小さくふるえた。
「顔をのぞかせてやってください」ランディは言った。「奥さんの美しい顔を、眼の真上に来るように、出してあげてください。そうやったら彼にもあなたが見えるから、にっこりしたり、投げキスをしてあげたりすればいい。私だったら何か気の利いたことを言うでしょうな。実際には聞こえやしないんだが、だいたいのところは通じると思いますよ」
「あの人は、投げキスなんてされるのは、がまんならないたちです」ミセス・パールは言った。「わたしの好きなようにさせてくださいませんこと?」テーブルの縁まで近寄っていって、容器の真上に顔がくるように体を前方に傾け、ウィリアムの眼をまっすぐに見下ろした。
「こんにちは、あなた」彼女はささやいた。「わたしです。メアリーよ」
眼は相変わらずきらきらと輝き、それが癖のひたと見据えるようなまなざしが、投げ返されていた。
「お加減、いかが?」と彼女は言った。
プラスティックのカプセルは周囲が透明なので、眼球はすっかり見えていた。眼球の下部と脳をつないでいる視神経は、まるで短い灰色のスパゲティのようだ。
「ご気分はどうかしら、ウィリアム」
夫の目をのぞきこむというのは、奇妙な気持ちだった。なにしろ一緒にあるはずの顔がないのだ。自分が見なければならないのは眼だけ、そうして、眼から視線を放さずにいるうちに、徐々にその眼が大きくなっていき、しまいには視界いっぱいに拡がっていってしまった――それ自身が一種の顔であるかのように。か細い赤い血管が網のように眼球の白い表面を走り、冷たい青い色をした虹彩には、中央の瞳孔から三、四本の黒っぽい筋が伸びている。瞳孔は大きく、黒々としていて、一方の端は光を反射して小さくきらめいていた。
「あなたの手紙をいただきました。どうしてらっしゃるかと思って、飛んで来たのよ。ランディ先生はあなたはすばらしく良い調子だ、っておっしゃっておられます。きっとわたし、もう少しゆっくりしゃべった方があなたにはわかりやすいわね。あなた、わたしの唇を読んでらっしゃるんでしょう」
間違いない。あの眼はわたしを見つめている。
「みなさんはあなたのために、あらゆることをしてくださっているのよ。ここにある優秀な機械は、絶え間なく血液を送り続けていて、わたしたちが持ってるみたいな、ちゃちでくたびれた心臓とはくらべものにならないくらい良いものなんでしょうね、きっと。わたしたちの心臓は、いつ壊れるか、全然当てにはならないものだけれど、あなたの心臓はいつまでも動き続けるんだわ」
ミセス・パールは間近で眼をしげしげと眺め、この眼がこんなにも奇妙に見える原因をなんとかして見つけようとした。
「お元気そうね、あなた。ほんとうに調子がよさそう。確かにそう見えるわよ」
以前、あの人がものを見るときの目つきより、この眼はずいぶん感じがいい、と彼女は胸の内でそうつぶやいた。どこかしら、やさしいところがある。穏やかで、優しそうで、わたしはあの人がこんな眼をしているところなんて見たことがない。きっと瞳孔の中心点と関係があるのだろう。ウィリアムの瞳は、これまでずっと、いつも黒い小さなピンの頭みたいだった。そのピンは誰か目がけて飛んでいき、頭の中まで貫いて、すべてを見通してしまう。だからウィリアムの眼はいつも、人のたくらみを見通し、それどころか頭の中にあることさえ見抜いてしまうのだ。だが、いま彼女が見ているのは、大きくて穏やかでやさしい、まるで雌牛のような眼だった。
「彼に意識があることはまちがいないんですか?」彼女は目を上げようともせずたずねた。
「もちろんです」
「ええ、完全にあります」とランディは答えた。
「では、わたしのことが見えているんですね?」
「完全にね」
「それってすごいことじゃありません? いったいどうしてこんなことになったのか不思議がっているんじゃないかしら」
「とんでもない。彼は自分がいる場所も、なぜそこにいるのかも、完璧に理解していますよ。忘れている可能性なんて、まずないでしょうな」
「つまり、彼がたらいの中にいる、っていうこともわかっていると?」
「もちろんです。もし彼にしゃべる能力がありさえしたら、いまこの瞬間にもあなたと完璧に正常な会話が交わせるにちがいありません。私の見る限り、このウィリアムとあなたがご自宅で知っていらっしゃった頃のウィリアムとのあいだには、精神的な相違は一切ありません」
「あらまあ」ミセス・パールはそれだけ言うと口をつぐんだ。この好奇心をそそる情況をとくと考えてみたかったのだ。
だけど――目玉の向こう側に視線をやり、水底に静かにたたずむ灰色のどろどろした巨大なクルミの酢漬けに目をこらしながらひとりごとを言った――いまのあの人の方がイヤだなんて、わたしにはどうしても思えない。ううん、それより、こっちのウィリアムならうんとずっと気持ちよく暮らしていけそう。これならわたしの方が上だもの。
「ずいぶん静かなのね、この人は」彼女は言った。
「当然、静かということになります」
議論をふっかけてくることもないし、あらさがしもしない。いつまでも説教することもないし、規則に従うことを強要することもない。タバコを吸うなとか言わないし、夜、本の上から眼だけ出して、じろじろこっちを観察している冷たい、非難がましい視線を送ってくることもない。洗濯したり、アイロンがけしたりしなくちゃならないシャツもない。ご飯の用意をする必要もない――あの人工心臓の鼓動の音だけ。それだって心休まる音だし、もちろんテレビの邪魔になるほど大きくもない。
「先生」彼女は言った。「なんだか急にあの人に対して、どうしようもないほどの愛情がこみ上げてきてしまって……。これっておかしなことでしょうか?」
「いやいや、充分に理解できることですよ」
「あの人、あんなちっちゃなたらいの中で水に沈められて、ずいぶん心細いだろうに、おとなしいのね」
「おっしゃることはわかります」
「あの人ったらまるで赤ちゃんみたい、ねえ、そうじゃなくて? ほんとにちっちゃな赤ちゃんみたいね」
ランディは彼女の背後に立ったまま、じっと眺めていた。
「ねえ」彼女は器を覗きこみながら、そっと言った。「今日からメアリーがひとりだけであなたのお世話をしてあげますからね。だからもうちっとも心配しなくていいのよ。先生、わたしはいつになったらこの人を連れて帰れますの?」
「何ですって?」
「いつ、彼を連れて帰ることができるんですか――わたしの家へ」
「ご冗談でしょう」ランディは言った。
ミセス・パールはゆっくりとふりかえると、まっすぐにランディを見た。「どうしてわたしが冗談を言わなければならないんですの?」彼女は晴れ晴れとした顔をし、両の眼はふたつのダイアモンドのようにきらめいている。
「とうてい彼を動かすことなんて、できっこありません」
「どうしてそうしちゃいけないんですの?」
「これは実験なんです、パールさん」
「これはわたしの夫なんです、ランディ先生」
ランディの口の端に、奇妙な、神経質そうな薄笑いが浮かんだ。「ともかく…」
「これはわたしの夫なんですのよ」夫人の声には怒っているような響きはなかった。物静かな声で、まるで相手に単純な事実を思い出させようとしているだけ、といった具合だ。
「それはいささかやっかいな点ですな」とランディは言い、唇を湿した。「パールさん、あなたは現在、未亡人ということになっているんですよ。ですので、この件に関してはあきらめていただけますかな」
彼女は急にテーブルに背を向け、窓辺へ歩いていった。「わたしは本気で言ってるんです」そう言うと、ハンドバッグからタバコを引っ張り出した。「うちの人に戻ってきてほしいんです」
ランディはタバコを唇にはさんだまま、火をつける彼女をじっと見つめた。自分の目に狂いがなければ、この女にはいささか異様なところがあるな、と考える。なんだか自分の亭主が容器に入ったことを喜んでいるんじゃないか。
彼は何とか想像してみようとした。もしそこにあるのが家内の脳で、あいつの眼があのカプセルの中からじっとおれを見上げていたら、どんな気がするだろう。
どう考えてもぞっとしないぞ。
「私の部屋に戻りましょうか」と彼は言った。
彼女は窓辺にたたずんだまま、落ち着き払い、すっかりくつろいだ風でタバコをくゆらせていた。
「ええ、いいわ」
テーブルの脇を通ったとき、立ち止まってもう一度、器をのぞきこんだ。「メアリーは帰りますからね、大好きな人」彼女は言った。「ちっとも心配なんかしなくていいのよ。いいわね? できるだけ早くあなたをお家に連れて帰ってあげますからね。家に帰ったらわたしたちがちゃんとあなたの面倒を見てあげますから。ええと、それから……」そこで彼女は言葉を切ると、タバコを口に持って行って一服やろうとした。
そのとたん、目玉はきらりと光った。
彼女もまさにそれを直視していたときだったので、目玉の中心部に小さな、けれどもまばゆい火花が散るのもわかった。瞳が憤怒にかられたあまりに、黒い小さな点にまで収縮している。
彼女はすぐには動かなかった。器の上に身をかがめて、タバコを口に近づけたまま、その眼を見つめていた。
それからきわめてゆっくりと、わざとらしくタバコを唇の間にはさんで、深々と煙を吸い込んだ。思い切り深く息を吸いこんでから、三、四秒間、煙を肺にためる。それから急に、ふたつの鼻の穴から勢いよく煙を噴射させた。吹き出された煙は、器の水面を直撃し、厚くたなびく青い雲となって水面にたれこめ、眼をすっぽりとくるんだ。。
ランディは彼女に背を向けたまま、ドアを出たところで待っている。「いらっしゃい、パールさん」と呼んだ。
「そんな怒った顔をしないで、ウィリアム」彼女は優しく言った。「機嫌を損ねたって、良いことはひとつもないのよ」
ランディは振り返り、彼女が一体何をしているのか確かめようとした。
「もうそんなことしちゃダメよ」彼女はささやいている。「これからはね、良い子ちゃん、あなたはなんだってメアリーの言うとおりにするの。わかった?」
「奥さん」ランディは彼女に近寄った。
「だからもう悪い子になっちゃいけません。いいわね、わたしの宝物」彼女はそう言いながら、またふーっと煙を吹きかけた。「近ごろじゃ悪い子は、とっても厳しい罰を受けることになるのよ、そのことはちゃんと覚えておいてね」
ランディは彼女の隣に立って彼女の腕を取り、有無を言わさない手つきで、だが決して礼儀は失しないようにしてテーブルから引き離そうとした。
「ごきげんよう、あなた」彼女は声をかけた。「すぐに戻ってきますからね」
「奥さん、もう良いでしょう」
「彼ってかわいくありません?」彼女は大きな目を輝かせながらランディを見上げると、甲高い声でそう言った。「天使みたいよね? 彼を家へ連れて帰るのが待ちきれないわ」
(※近日中に手を入れてサイトにアップします。お楽しみに)
最終回
ランディが夫人をテーブルからほんの数メートルのところまで連れて行ったので、ちょうど夫人のところから容器を見下ろす恰好になった。
「ご対面ですな」とランディは言った。「あれがウィリアムです」
彼はミセス・パールが思い描いていたよりはるかに大きく、色も濃かった。表面全体に隆起している箇所と割れ目とが走っていて、どう見ても巨大なクルミのピクルスといったところがせいぜいだ。彼の下から四本の太い動脈と二本の静脈が伸びており、それがビニールチューブにきれいに接続されている。人工心臓が鼓動するたびに血液が押し出され、チューブはそろって小さくふるえた。
「顔をのぞかせてやってください」ランディは言った。「奥さんの美しい顔を、眼の真上に来るように、出してあげてください。そうやったら彼にもあなたが見えるから、にっこりしたり、投げキスをしてあげたりすればいい。私だったら何か気の利いたことを言うでしょうな。実際には聞こえやしないんだが、だいたいのところは通じると思いますよ」
「あの人は、投げキスなんてされるのは、がまんならないたちです」ミセス・パールは言った。「わたしの好きなようにさせてくださいませんこと?」テーブルの縁まで近寄っていって、容器の真上に顔がくるように体を前方に傾け、ウィリアムの眼をまっすぐに見下ろした。
「こんにちは、あなた」彼女はささやいた。「わたしです。メアリーよ」
眼は相変わらずきらきらと輝き、それが癖のひたと見据えるようなまなざしが、投げ返されていた。
「お加減、いかが?」と彼女は言った。
プラスティックのカプセルは周囲が透明なので、眼球はすっかり見えていた。眼球の下部と脳をつないでいる視神経は、まるで短い灰色のスパゲティのようだ。
「ご気分はどうかしら、ウィリアム」
夫の目をのぞきこむというのは、奇妙な気持ちだった。なにしろ一緒にあるはずの顔がないのだ。自分が見なければならないのは眼だけ、そうして、眼から視線を放さずにいるうちに、徐々にその眼が大きくなっていき、しまいには視界いっぱいに拡がっていってしまった――それ自身が一種の顔であるかのように。か細い赤い血管が網のように眼球の白い表面を走り、冷たい青い色をした虹彩には、中央の瞳孔から三、四本の黒っぽい筋が伸びている。瞳孔は大きく、黒々としていて、一方の端は光を反射して小さくきらめいていた。
「あなたの手紙をいただきました。どうしてらっしゃるかと思って、飛んで来たのよ。ランディ先生はあなたはすばらしく良い調子だ、っておっしゃっておられます。きっとわたし、もう少しゆっくりしゃべった方があなたにはわかりやすいわね。あなた、わたしの唇を読んでらっしゃるんでしょう」
間違いない。あの眼はわたしを見つめている。
「みなさんはあなたのために、あらゆることをしてくださっているのよ。ここにある優秀な機械は、絶え間なく血液を送り続けていて、わたしたちが持ってるみたいな、ちゃちでくたびれた心臓とはくらべものにならないくらい良いものなんでしょうね、きっと。わたしたちの心臓は、いつ壊れるか、全然当てにはならないものだけれど、あなたの心臓はいつまでも動き続けるんだわ」
ミセス・パールは間近で眼をしげしげと眺め、この眼がこんなにも奇妙に見える原因をなんとかして見つけようとした。
「お元気そうね、あなた。ほんとうに調子がよさそう。確かにそう見えるわよ」
以前、あの人がものを見るときの目つきより、この眼はずいぶん感じがいい、と彼女は胸の内でそうつぶやいた。どこかしら、やさしいところがある。穏やかで、優しそうで、わたしはあの人がこんな眼をしているところなんて見たことがない。きっと瞳孔の中心点と関係があるのだろう。ウィリアムの瞳は、これまでずっと、いつも黒い小さなピンの頭みたいだった。そのピンは誰か目がけて飛んでいき、頭の中まで貫いて、すべてを見通してしまう。だからウィリアムの眼はいつも、人のたくらみを見通し、それどころか頭の中にあることさえ見抜いてしまうのだ。だが、いま彼女が見ているのは、大きくて穏やかでやさしい、まるで雌牛のような眼だった。
「彼に意識があることはまちがいないんですか?」彼女は目を上げようともせずたずねた。
「もちろんです」
「ええ、完全にあります」とランディは答えた。
「では、わたしのことが見えているんですね?」
「完全にね」
「それってすごいことじゃありません? いったいどうしてこんなことになったのか不思議がっているんじゃないかしら」
「とんでもない。彼は自分がいる場所も、なぜそこにいるのかも、完璧に理解していますよ。忘れている可能性なんて、まずないでしょうな」
「つまり、彼がたらいの中にいる、っていうこともわかっていると?」
「もちろんです。もし彼にしゃべる能力がありさえしたら、いまこの瞬間にもあなたと完璧に正常な会話が交わせるにちがいありません。私の見る限り、このウィリアムとあなたがご自宅で知っていらっしゃった頃のウィリアムとのあいだには、精神的な相違は一切ありません」
「あらまあ」ミセス・パールはそれだけ言うと口をつぐんだ。この好奇心をそそる情況をとくと考えてみたかったのだ。
だけど――目玉の向こう側に視線をやり、水底に静かにたたずむ灰色のどろどろした巨大なクルミの酢漬けに目をこらしながらひとりごとを言った――いまのあの人の方がイヤだなんて、わたしにはどうしても思えない。ううん、それより、こっちのウィリアムならうんとずっと気持ちよく暮らしていけそう。これならわたしの方が上だもの。
「ずいぶん静かなのね、この人は」彼女は言った。
「当然、静かということになります」
議論をふっかけてくることもないし、あらさがしもしない。いつまでも説教することもないし、規則に従うことを強要することもない。タバコを吸うなとか言わないし、夜、本の上から眼だけ出して、じろじろこっちを観察している冷たい、非難がましい視線を送ってくることもない。洗濯したり、アイロンがけしたりしなくちゃならないシャツもない。ご飯の用意をする必要もない――あの人工心臓の鼓動の音だけ。それだって心休まる音だし、もちろんテレビの邪魔になるほど大きくもない。
「先生」彼女は言った。「なんだか急にあの人に対して、どうしようもないほどの愛情がこみ上げてきてしまって……。これっておかしなことでしょうか?」
「いやいや、充分に理解できることですよ」
「あの人、あんなちっちゃなたらいの中で水に沈められて、ずいぶん心細いだろうに、おとなしいのね」
「おっしゃることはわかります」
「あの人ったらまるで赤ちゃんみたい、ねえ、そうじゃなくて? ほんとにちっちゃな赤ちゃんみたいね」
ランディは彼女の背後に立ったまま、じっと眺めていた。
「ねえ」彼女は器を覗きこみながら、そっと言った。「今日からメアリーがひとりだけであなたのお世話をしてあげますからね。だからもうちっとも心配しなくていいのよ。先生、わたしはいつになったらこの人を連れて帰れますの?」
「何ですって?」
「いつ、彼を連れて帰ることができるんですか――わたしの家へ」
「ご冗談でしょう」ランディは言った。
ミセス・パールはゆっくりとふりかえると、まっすぐにランディを見た。「どうしてわたしが冗談を言わなければならないんですの?」彼女は晴れ晴れとした顔をし、両の眼はふたつのダイアモンドのようにきらめいている。
「とうてい彼を動かすことなんて、できっこありません」
「どうしてそうしちゃいけないんですの?」
「これは実験なんです、パールさん」
「これはわたしの夫なんです、ランディ先生」
ランディの口の端に、奇妙な、神経質そうな薄笑いが浮かんだ。「ともかく…」
「これはわたしの夫なんですのよ」夫人の声には怒っているような響きはなかった。物静かな声で、まるで相手に単純な事実を思い出させようとしているだけ、といった具合だ。
「それはいささかやっかいな点ですな」とランディは言い、唇を湿した。「パールさん、あなたは現在、未亡人ということになっているんですよ。ですので、この件に関してはあきらめていただけますかな」
彼女は急にテーブルに背を向け、窓辺へ歩いていった。「わたしは本気で言ってるんです」そう言うと、ハンドバッグからタバコを引っ張り出した。「うちの人に戻ってきてほしいんです」
ランディはタバコを唇にはさんだまま、火をつける彼女をじっと見つめた。自分の目に狂いがなければ、この女にはいささか異様なところがあるな、と考える。なんだか自分の亭主が容器に入ったことを喜んでいるんじゃないか。
彼は何とか想像してみようとした。もしそこにあるのが家内の脳で、あいつの眼があのカプセルの中からじっとおれを見上げていたら、どんな気がするだろう。
どう考えてもぞっとしないぞ。
「私の部屋に戻りましょうか」と彼は言った。
彼女は窓辺にたたずんだまま、落ち着き払い、すっかりくつろいだ風でタバコをくゆらせていた。
「ええ、いいわ」
テーブルの脇を通ったとき、立ち止まってもう一度、器をのぞきこんだ。「メアリーは帰りますからね、大好きな人」彼女は言った。「ちっとも心配なんかしなくていいのよ。いいわね? できるだけ早くあなたをお家に連れて帰ってあげますからね。家に帰ったらわたしたちがちゃんとあなたの面倒を見てあげますから。ええと、それから……」そこで彼女は言葉を切ると、タバコを口に持って行って一服やろうとした。
そのとたん、目玉はきらりと光った。
彼女もまさにそれを直視していたときだったので、目玉の中心部に小さな、けれどもまばゆい火花が散るのもわかった。瞳が憤怒にかられたあまりに、黒い小さな点にまで収縮している。
彼女はすぐには動かなかった。器の上に身をかがめて、タバコを口に近づけたまま、その眼を見つめていた。
それからきわめてゆっくりと、わざとらしくタバコを唇の間にはさんで、深々と煙を吸い込んだ。思い切り深く息を吸いこんでから、三、四秒間、煙を肺にためる。それから急に、ふたつの鼻の穴から勢いよく煙を噴射させた。吹き出された煙は、器の水面を直撃し、厚くたなびく青い雲となって水面にたれこめ、眼をすっぽりとくるんだ。。
ランディは彼女に背を向けたまま、ドアを出たところで待っている。「いらっしゃい、パールさん」と呼んだ。
「そんな怒った顔をしないで、ウィリアム」彼女は優しく言った。「機嫌を損ねたって、良いことはひとつもないのよ」
ランディは振り返り、彼女が一体何をしているのか確かめようとした。
「もうそんなことしちゃダメよ」彼女はささやいている。「これからはね、良い子ちゃん、あなたはなんだってメアリーの言うとおりにするの。わかった?」
「奥さん」ランディは彼女に近寄った。
「だからもう悪い子になっちゃいけません。いいわね、わたしの宝物」彼女はそう言いながら、またふーっと煙を吹きかけた。「近ごろじゃ悪い子は、とっても厳しい罰を受けることになるのよ、そのことはちゃんと覚えておいてね」
ランディは彼女の隣に立って彼女の腕を取り、有無を言わさない手つきで、だが決して礼儀は失しないようにしてテーブルから引き離そうとした。
「ごきげんよう、あなた」彼女は声をかけた。「すぐに戻ってきますからね」
「奥さん、もう良いでしょう」
「彼ってかわいくありません?」彼女は大きな目を輝かせながらランディを見上げると、甲高い声でそう言った。「天使みたいよね? 彼を家へ連れて帰るのが待ちきれないわ」
The End
(※近日中に手を入れてサイトにアップします。お楽しみに)