陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

占いの話

2011-06-28 23:30:50 | weblog
いまさらではなあるのだが、血液型占いの話。
世間的には「血液型占い」に対する批判もかなり一般的になっているような気もするのだが、未だに「血液型」を聞かれる機会はなくならない、というか、新しく知り合った人からは、結構な確率で、何型かと聞かれる。そのたびに「RH+、MN型」と答えたくなるのだが、無用に波を立てることになりそうなので、結局「A型です」と答える。なんだか「血液型性格診断」の「A型」の項目に書いてあることを裏付けるような対応だなあ、と思いながら。

結局のところ血液型占いがなくならないのは、たった四種類しかないからだろう。四種類ならそれぞれの型がどんな「性格」か、わかりやすい。A型なら几帳面、B型なら……といった具合に、聞いた相手の性格の見当をつけるのも簡単だ。なにしろ星座は12種類もあるから、せっかく答えてもらっても、ピンと来ないかもしれない。

反面、そんな荒っぽい分類で、ほんとにいいの? という気もする。A型といっても、みんなが同じ性格をしているはずがない。だが、「あなたは何型?」と聞く人は、そんな細かなちがいなど求めているわけではないのだろう。「几帳面」とか「おおざっぱ」とか「親分肌」とかという粗雑なレッテルを聞いて、そうそう、あの人って几帳面だったわ、と納得できればそれで十分なのだろう。

ところでおもしろいと思うのは、そもそも「血液型占い」でも「星占い」でも、動物占いや家電占いでもなんでもいいのだが、そういう占いは、そもそもが現実に生きる人びとの性格のうちの共通項を取り出して、「×型の性格」「△型の性格」「……」と分類されてきたはずだ。

ところがわたしたちは、あらかじめ決められている「×型の性格」を見て、自分なり、血液型を聞いた人なりに当てはめて、「当たっている」と思う。ここでは因果関係が逆転している。

「あの人があんなに細かいのは、A型だからだ」
「あの人があんなに自己主張が激しいのは獅子座だからだ」

「占い」がまだ起こっていないことを予想するものだとしたら、果たしてこれは「占い」と呼べるものなのだろうか。いずれにせよ、行為はすでになされてしまっている。結果が出ているのに、わたしたちは何を求めているのだろうか。

わたしたちの求めているのは、自分や他人の行為、それ事態はバラバラで偶発的な行為を結んで、統一的な説明ができるような物語なのである。

身近な人の言動に振り回されたとする。相手の行為の意味がわからない。なぜそんなことをするのだろう?

「あの人は言うことがころころ変わる。あの人があんなに気まぐれなのは、AB型だからだ。」

「言うことがころころ変わる」のは、その人が事態を部分的にしか把握しておらず、場当たり的な対応しか取れていないのかもしれず、ほかの場面では首尾一貫した態度なのかもしれないのだが、とりあえず「AB型だからだ」という説明で納得しようと思えばできるのである。だからこそ、血液型占いがここまでもてはやされるのだろう。

ただ、これが問題になるのは、「血液型占いに基づく性格」「星占いに基づく性格」など、その参考文献に基づく説明がそのまま受け入れられ、人間の側が逆にそれに当てはめて解釈されてしまうときだ。

『ノストラダムスの大予言』というのは、いまとなっては笑い話のようなものだが、わたしが小学生ぐらいのときも結構はやって、1999年に人類が滅亡する、と大まじめに言っている子たちもいた。そういう子に本を見せてもらったのだが、その本には、この歴史的事件も予言した、あの事件もこんなふうに言っている……と事細かに書いていた。

なんだかいやにむずかしい、曖昧で詩的な、どういうふうにも取れそうな言い回しである。どうみても現実に起こった出来事の方を、むりやり当てはめているようにしか思えなかった。だが、何のためにそんな「コジツケ」をやっているかというと、「あれもこれも当たっている、だから「1999年の7の月」の人類滅亡も当たるのだ、と言いたいがためらしかった。

もちろん、そんなことは起こらなかったのは周知の通りだが、同じことをわたしたちは日常的にやっているのではないか。B型の子だから、協調性に欠けるだろう、とか、職場で几帳面な仕事ぶりの人がA型だと聞いて、ああ、やっぱり、と思い、A型だから、ということで「気配り上手」を期待してしまう……とかというふうに。

出来事は、起こったあとでしか説明できない。行為の意味は、結果が出てしまってからしか明らかにならない。しかも、その意味は途中の結果が解釈されなおすごとに変わっていく。

ただ、わたしが言いたいのは、だから占いは無意味だとか、誤っているとかということではないのだ。

すべての出来事は偶然にゆだねられている、先を見通すことはできない、一瞬先は闇……それが事実だとしたら、わたしたちは恐ろしくて何もできなくなってしまう。朝起きて、外へ出ていくこともできなくなってしまう。

偶然に支配されているのだとしたら、自分が懸命に取り組んできた仕事もまったく意味をなさなくなるかもしれない。そう思うと、何もする気になれなくなってしまう。

けれども「今日は双子座の人は良いことが起こる」という朝の占いは、わたしたちの背中を押してくれる。「ラッキーなこと」は、世界は昨日までと同じように、秩序をもって回っていくという保証なのかもしれない。

そんなふうに考えていくと、人が前を向いて生きていこうとするかぎり、「占い」はなくならないのだろう。