グレアム・グリーンのごくごく短い短編に『復讐』(『イギリス短篇24』所収)というものがある。
主人公が十三歳から十四歳にかけて、クラスメートのカーターという少年から「心に苦痛を負わせる巧みな拷問」を受ける。主人公は「父がぼくの学校の校長であり、兄がぼくの家を牛耳っている」(おそらく兄はその学校の花形だったのだろう)、というふたつのことをタネに、ふたりを軽蔑的なあだ名で呼んだり、さまざまな嫌がらせを受けた。
それでも、このふたりのあいだには、ともに相手を尊敬する気持ちがあった。
主人公は相手の残酷さを尊敬していたし、相手は主人公の父と兄を、悪く言いながらも尊敬していたのだ。
ところがウォトソンは、最初は主人公の数少ない友人だった。ところがカーターの側へ行ってしまう。カーターの真似をする。それも実にへたくそなやりかたで。
何よりも、ウォトソンのせいで、主人公は完全に孤立してしまうことになったのだ。
主人公はウォトソンに復讐することを心に誓いながら、その日々を生き延びる。
やがて大人になってひょっこりそのウォトソンと再会するのである。
ところがウォトソンは懐かしげに声をかけてくる。
そのとき一緒に、主人公はカーターが戦死してしまって、この世の人ではないことも知る。
主人公は振り返る。自分のあの復讐の思いはなんだったのだろう、と。それでも、自分がいまここにいるのは、「自分が何かで優れていることをたとえどんなに長い間の努力が必要であろうと立証したいという激しい欲望」を起こさせてくれた彼らのおかげではあるまいか。
ウォトソンに電話をする、と言ったまま、主人公はすっかりそのことを忘れてしまう。「そんなにあっさり忘れてしまったことが、ぼくの彼に対する復讐なのであろう」。
これでこの短い短篇は終わるのだが、実際、わたしたちの身の回りでも、「藪の中」状態、あるできごとを共通で体験しながら、それぞれがまるっきりちがうふうに見ていることを、何かの拍子で知って驚く、ということはめずらしくない。
ただ、ここで気になるのは、若くして死んだカーターが、当時のことをどう考えていたか、ということだ。
カーターはそのころから自分の悪意をはっきりと意識していたのではないか。カーターは主人公を嫌い、主人公も嫌われていることが意識されて、そのために相手が嫌いになる。それぞれに一個の人間として、「嫌い合う」という点で対等の関係を築いていたのではないか、と思うのだ。
それにくらべて、ウォトソンの場合、果たして当時、ほんとうに「仲良くしていた」という意識だったのだろうか。カーターのまねをしたことにしても、自分の意志でそうした、というより、深く考えないままに大勢に順応したのだろうし、主人公が小説家として名をなしたと聞いた時点で、「ぼくはやつと友だちだったんだ」という記憶が捏造されたのではないか、という気が、わたしにはする。
カーターと主人公が対等な立場で嫌い合っていたのに対し、ウォトソンは単に真似をしていたにすぎない。
主人公はウォトソンが友だちだったのに裏切った、ウォトソンのやり口が拙劣だった、という理由で、そもそもの原因を作ったカーターにではなくウォトソンの方に復讐を考えるのだが、おそらくここで意識されなかったのは、主人公がウォトソンを、カーターに較べて下に見ているということだ。自分が軽蔑している相手から嫌がらせを受けることで、よけいに主人公の自尊心は傷ついた。だからこそ復讐まで考えたのだろう。
大人になって再会して、果たして主人公は「見る人によって見方も変わってくるのだなあ」と納得して、ウォトソンのことを忘れたのだろうか。
そうではないと思うのだ。おそらく、復讐を考えていた頃は、必要以上の大きさで見積もっていた相手の実際のサイズがはっきりと見えた。そのことで、自分の軽蔑に気がついたのだ。
憎んでいる相手は、その相手の不幸を願う。だが、軽蔑している相手は、相手が不幸であろうが幸福であろうが、たいして気にならない。軽蔑している相手はどうだっていいものだ。だから忘れることができるのだ。
そのときには自分の気持ちさえなかなかわからない。これはこういうことだったのか、という発見は、いつも、あのとき自分はこういうふうに考えていたのか、という発見の表裏であるように思える。
主人公が十三歳から十四歳にかけて、クラスメートのカーターという少年から「心に苦痛を負わせる巧みな拷問」を受ける。主人公は「父がぼくの学校の校長であり、兄がぼくの家を牛耳っている」(おそらく兄はその学校の花形だったのだろう)、というふたつのことをタネに、ふたりを軽蔑的なあだ名で呼んだり、さまざまな嫌がらせを受けた。
それでも、このふたりのあいだには、ともに相手を尊敬する気持ちがあった。
主人公は相手の残酷さを尊敬していたし、相手は主人公の父と兄を、悪く言いながらも尊敬していたのだ。
ところがウォトソンは、最初は主人公の数少ない友人だった。ところがカーターの側へ行ってしまう。カーターの真似をする。それも実にへたくそなやりかたで。
何よりも、ウォトソンのせいで、主人公は完全に孤立してしまうことになったのだ。
主人公はウォトソンに復讐することを心に誓いながら、その日々を生き延びる。
やがて大人になってひょっこりそのウォトソンと再会するのである。
ところがウォトソンは懐かしげに声をかけてくる。
「思い出さないかい? 学校で一緒だったんだぜ。カーターって奴と、しょっちゅう遊んだじゃないか。ぼくたち三人で。ほら、君はいつも、ぼくやカーターを手伝ってくれたっけ――ラテン語の下調べのとき」
そのとき一緒に、主人公はカーターが戦死してしまって、この世の人ではないことも知る。
主人公は振り返る。自分のあの復讐の思いはなんだったのだろう、と。それでも、自分がいまここにいるのは、「自分が何かで優れていることをたとえどんなに長い間の努力が必要であろうと立証したいという激しい欲望」を起こさせてくれた彼らのおかげではあるまいか。
ウォトソンに電話をする、と言ったまま、主人公はすっかりそのことを忘れてしまう。「そんなにあっさり忘れてしまったことが、ぼくの彼に対する復讐なのであろう」。
これでこの短い短篇は終わるのだが、実際、わたしたちの身の回りでも、「藪の中」状態、あるできごとを共通で体験しながら、それぞれがまるっきりちがうふうに見ていることを、何かの拍子で知って驚く、ということはめずらしくない。
ただ、ここで気になるのは、若くして死んだカーターが、当時のことをどう考えていたか、ということだ。
カーターはそのころから自分の悪意をはっきりと意識していたのではないか。カーターは主人公を嫌い、主人公も嫌われていることが意識されて、そのために相手が嫌いになる。それぞれに一個の人間として、「嫌い合う」という点で対等の関係を築いていたのではないか、と思うのだ。
それにくらべて、ウォトソンの場合、果たして当時、ほんとうに「仲良くしていた」という意識だったのだろうか。カーターのまねをしたことにしても、自分の意志でそうした、というより、深く考えないままに大勢に順応したのだろうし、主人公が小説家として名をなしたと聞いた時点で、「ぼくはやつと友だちだったんだ」という記憶が捏造されたのではないか、という気が、わたしにはする。
カーターと主人公が対等な立場で嫌い合っていたのに対し、ウォトソンは単に真似をしていたにすぎない。
主人公はウォトソンが友だちだったのに裏切った、ウォトソンのやり口が拙劣だった、という理由で、そもそもの原因を作ったカーターにではなくウォトソンの方に復讐を考えるのだが、おそらくここで意識されなかったのは、主人公がウォトソンを、カーターに較べて下に見ているということだ。自分が軽蔑している相手から嫌がらせを受けることで、よけいに主人公の自尊心は傷ついた。だからこそ復讐まで考えたのだろう。
大人になって再会して、果たして主人公は「見る人によって見方も変わってくるのだなあ」と納得して、ウォトソンのことを忘れたのだろうか。
そうではないと思うのだ。おそらく、復讐を考えていた頃は、必要以上の大きさで見積もっていた相手の実際のサイズがはっきりと見えた。そのことで、自分の軽蔑に気がついたのだ。
憎んでいる相手は、その相手の不幸を願う。だが、軽蔑している相手は、相手が不幸であろうが幸福であろうが、たいして気にならない。軽蔑している相手はどうだっていいものだ。だから忘れることができるのだ。
そのときには自分の気持ちさえなかなかわからない。これはこういうことだったのか、という発見は、いつも、あのとき自分はこういうふうに考えていたのか、という発見の表裏であるように思える。