大江戸散策徒然噺 Introducing Japanese culture and history

豊かな歴史に彩られた日本の文化と歴史を紹介

木曽路十五宿街道めぐり (其の九) 宮ノ越~木曽福島

2015年08月17日 11時31分29秒 | 木曽路十五宿街道めぐり
さあ!中山道36番目の宿場町である「宮ノ越」を抜けました。
次の37番目の宿場町である福島宿まではおよそ7.5キロの距離です。



宿場をでてしばらく行くと、街道の傍らの草むらに自然石に一里塚と刻まれた一里塚跡が置かれています。お江戸から数えて69番目の一里塚ですが、この一里塚跡碑は2014年に置かれたものです。

一里塚跡を過ぎると、道筋は視界が大きく開けた田園地帯に入ります。
木曽川は街道の遥か右手を流れているため、流れを見ることはできません。

できれば変化に富んだ川沿いの景色を見ながら歩ければいいのですが、この先はかなり単調な田園風景を眺めながらの旅になります。
こんな道筋を淡々とした歩調で2キロほど進むと中央本線の踏切に達します。



JR中央本線の踏切を越えて、しばらくすると「原野集落」へと入ってきます。
中山道の「間の宿」であった原野には出梁造りの家が処々に残り、宮ノ越宿よりもかつての街道時代の雰囲気が残っているように感じます。

現代の原野の集落は比較的平坦な場所に穿かれた旧街道に沿って、民家が寄り添うように軒を連ねています。
かつては街道をゆく旅人達の休憩場所として、茶屋などが並んでいたのでしょう。

そんな間の宿「原野」辺りの標高は840mを超えています。
本日第一日目の行程では藪原周辺の標高が900mを超え、徐々にではありますがほんの少し標高を下げつつも、まだ840mの高さにあります。ということは、ほぼ箱根峠に等しい高度をずっ~と辿ってきたことになります。

さすが木曽路といった感がしますが、この先どれほどの標高を辿って行くのかが楽しみです。



本日の歩行距離10キロを超えると、まもなくJR中央本線の原野駅に到着です。到着といっても駅舎は街道の右手奥にあり、その姿を目視することはできません。
というより、この小さな原野の集落に何故、駅が必要なのかと、つい疑問が湧いてきます。
一つ前の宮ノ越駅からわずか2.5キロしか離れていないこの場所に駅があること自体不思議です。
駅前といっても商店街らしきものもありません。

そんな素朴な疑問を持ちながら、本日の歩行距離10.5キロ地点を通過し、ほんの僅かな距離でビニールハウスが置かれたT字路にさしかかります。
その角に置かれているのが「中山道中間地点」の標です。

中間地点

江戸、京都双方から67里38町(約268km)の位置だといます。
まあ、東海道中でも「どまんなか」なんていう場所がありましたが、中山道では「どまんなか」という表記は使っていないようです。

さて、この中山道中間地点辺りから街道の右手の山腹にひときわ目立つ大きな岩を目視することができます。
この大きな岩を明星岩と呼んでいますが、三角形の巨岩が山腹から飛び出しています。朝日がこの岩に射し込むと光り輝くと言われています。この大岩は、その昔に木曽駒高原の濃ヶ池(のうがいけ)が決壊した時に転がってきたものといわれています。

また中間地点の辺りからは晴れていれば、木曽駒ヶ岳の雄姿を見ることができます。
さあ!本日の終着地点の「道の駅・日義木曽駒」に到着です。本日の歩行距離は11キロです。
尚、道の駅にも中山道中間地点碑が置かれています。



第2日目はここ「道の駅・日義木曽駒」が出立地点となります。
明日はここから次の宿場である福島宿を辿り、上松宿までのちょっと長めの16.2キロの旅が待っています。

この「中山道中間点碑」の傍らにはもう一つの石碑が置かれています。
石碑に刻まれている文字は「駒岳夕照」です。この「駒岳夕照」は有名な近江八景になぞらえて木曽の美しい情景の中から8カ所を選んだ「木曽八景」の一つです。
ここ日義木曽駒の道の駅からは、秋から春までの間、雪をかぶった駒ヶ岳連峰を見ることができます。その白い雪に夕日が映えて赤紫色に照り輝く様があまりに幻想的である事から、駒岳夕照と命名されています。



ちなみに近江八景の中で「夕照」を冠する場所は東海道筋の「瀬田の唐橋」で「瀬田の夕照」と命名されています。



さあ!道の駅の前の19号線を歩道橋で渡り、中山道筋へと進むことにしましょう。中山道中間地点碑が置かれているT字路を左折していよいよ第二日目の行程が始まります。街道右手に連なる低い山並みを見ながら進むと、それまでの道幅よりかなり狭くなる細道の入口にさしかかります。細道といっても一応舗装されていますが、迷わずこの細い道へと進んでいきます。
道筋を進むと、二差路の右手に小沢センターが現れます。私たちは左手につづく道へと入って行きます。
道の右手一帯は田園、左手はちょっとした崖になっています。そんな道筋を進むと路傍に中山道の道標が置かれています。

その道標は歩いている道から崖を下る方向を指しています。「えっ!ほんとうにここなの?」と思いつつ、崖下へと通じる細い坂道を下りていきます。もちろん舗装はされていない草道です。
おそらく街道時代の道筋はこのような変則的ではなく、直線的につながっていたと思われますが、時代が下って本来の道筋が消滅してしまったのではないでしょうか。

僅かな距離の坂道を下ると、まだ草道が先へとつづいています。小川らしき小さなせせらぎを渡り進んで行くと、目の前に比較的大きな川筋が現れます。川の名前は「正沢川」とよばれています。道筋はこの正沢川に沿ってつづいています。
そしてその先に見せてきたのがちょっと危なかっしい造りの鉄製の橋です。





この鉄製の橋は川の真ん中にある大きな石(岩)を橋脚の支えとして利用しており、歩く部分は網目になっています。正沢川は静かな流れの渓流といったものではなく、かなり白波を立てて流れる急流です。
これが本当に中山道なのかは定かではありませんが、都会人とっては私たち日本人が忘れてしまったかもしれない日本の原風景に触れたような気分を感じると同時に、まるで絵葉書を見ているような田園風景にしばし見とれながら、これぞ木曽路そのものといった印象が伝わってくる瞬間です。



橋を渡り終えると、道筋は右手に延びています。注意しなければならないのは、川筋に沿って伸びる道筋がありますが、これを進むと行き止まりになってしまいます。

私たちは前方の家並みの中へとのびる細い坂道へ進んでいきます。僅かばかりの民家が軒を連ねる細い坂道を上って行くと県道に合流します。その合流地点に「中山道」の道標が置かれています。ということは、やはり今辿ってきた道筋がかつての街道だったのでしょう。



民家の間の細い上り坂の道筋はその先で県道に合流します。合流地点には「中山道の標」が置かれています。
ここからは平坦な道筋となり、道の左右には民家が並んでいます。
道筋が左手にカーブすると、路傍に「中原兼遠屋敷跡(なかはらかねとお)」と記された標があります。街道からは約400mと少し奥まった場所に位置しています。(当行程では見学は割愛します)

《参考》中原兼遠の屋敷跡:街道から約400m
住所:木曽郡木曽福島町新開上田

街道から逸れて細い道筋へ入って行くと、民家はすぐに途切れて左右は畑となります。
そして道筋は中央本線を跨ぐ跨橋にさしかかります。橋上からは遠くの山並みと一面の畑を眺めることができます。



こんな場所に屋敷跡があるのかと思いつつ、右手をみるとひときわ目立つ大きな松の木が遠目に1本見えます。この松が「義仲元服の松」と呼ばれています。

義仲元服の松

屋敷跡へは更に畑の畦道のような道を辿り前述の松の木まで歩いていきます。兼遠の屋敷は木曽川と正沢川そして天神川に囲まれた上田の地に南北150m、東西600mにわたる河岸段丘の上に築かれ、自然の城塞をなす要害の地であったと記されています。

830年も前の事なので、そんな面影は全く残らず、それこそ「夏草や兵どもが夢の跡」といった雰囲気が色濃く残っています。この館で義仲は幼少時代を過ごし、13歳で元服した後に宮ノ越に近い地に自分の舘を設け、そこで旗挙をしました。その場所は現在、旗挙神社が社殿を構えています。

「中原兼遠屋敷跡(なかはらかねとお)」から再び旧街道筋へもどり進んで行くと、天神川にさしかかります。川を渡ると左手に木々に覆われた小高い丘が現れます。近づいていくと街道左脇に小さなお堂二十三夜の石碑が置かれています。
ここが手習天神と呼ばれる神社です。

手習神社

この神社は兼遠が義仲の学問のために勧請したもので、若き義仲がここで手習いをしたことから手習天神と呼ばれています。
そして街道脇から丘の上につづく石段を見上げると、社殿が置かれています。

※二十三夜:二十三夜講も庚申講と同様の集まりですが、こちらは月待といって、月齢二十三日の日を忌み篭り(いみごもり)の日として、講中が集まり月の出を待って月を拝むものです。月待ちというと二十三夜と言われるように、全国的に広まっていた信仰です。十五夜から八日過ぎた二十三夜の月は、真夜中頃に東の空から昇ってきます。



手習天神をあとに街道をすすんでいきましょう。道筋は住宅街を貫き、やがて19号線といったん合流します。
合流する場所は上田口の交差点です。この交差点の標高は813mです。この交差点で右折して19号線に沿って歩きますが、
すぐに中央本線を跨ぐ橋があります。この橋を渡ったら、今度はすぐ右へと入る道筋へ進んでいきます。

道筋はすぐに下り坂となります。坂道を下るにつれて見晴しが良くなり、街道の右手一帯が開けてきます。遠くには木曽川が流れ、その流れが徐々に19号線に近づいてくるようです。
先ほどの交差点の標高が813mありましたが、徐々に標高は下がり798mになり、更に下げていきます。そんな道筋はこの先で再び19号線に合流します。そして木曽川が右手に迫ってきます。



19号線に合流すると反対側にデイリーヤマザキが現れます。しかし合流地点で反対側に渡りたいのですが、信号も横断歩道もないため渡ることができません。このまま19号線の右側の歩道を歩いて矢崎橋交差点へと進んでいきます。
木曽川は19号線のすぐ脇を流れ、右手には緩やかな稜線を描く低い山並みが続いています。
車の往来が激しい19号線に沿って歩くのですが、車の騒音を気にしなければ、何度も長閑な旅路です。





矢崎橋を過ぎるとそれまで19号線のすぐ脇を流れていた木曽川はいったん遠ざかっていきます。私たちはそのまま19号線の右側の歩道を進みますが、実は19号線の左側に2つの史跡が置かれています。その一つが「経塚」です。

この経塚は初代木曽代官山村良候が家臣を伴って全国の霊場に大乗経を納めたことを記念して、100回忌の元禄14年(1701)に塚を築き松を植えたものです。後世になって五代(曾孫)、六代(曾曾孫)の木曽代官が碑文を刻み、大日如来を祀って先祖の霊を慰めたそうです。19号を渡るにはちょっと危険なので、遠目から見ていただきます。

そしてその先に大きな店構えの蕎麦屋さんが19号線の右手に現れます。店の名前は「車屋」です。当店は福島宿内に本店を構え、ここが支店のようです。
そんなお店がある場所のちょうど反対側に「芭蕉句碑」が置かれています。しかもなにやら金網に囲まれた、薮の中に石碑らしきものが置かれています。
句碑には「思い立つ 木曽や四月の 桜狩り」と刻まれています。

芭蕉句碑

旧街道は車屋さんの店から斜め右手へと進みます。いったん19号線とはお別れです。
道筋を進むと、頭上を通る橋の下にさしかかります。木曽川にかかる「木曽大橋」で、ここから飛騨高山へと通じる木曽街道(361号線)の起点にあたる場所です。

木曽大橋

木曽大橋のガードをくぐり、その先で旧街道は再び19号線と合流します。
合流するとまもなく関町の2差路の交差点にさしかかります。19号線は左へ分岐していきますが、すぐトンネルに入ってしまいます。私たちは右手に分岐する道筋へ進んでいきます。
その分岐点の高台に「関所の町・木曽福島」の大きな看板が置かれています。
ここを通過すると木曽福島の関所まで500mの距離です。
さあ!まもなく福島宿です。





宿場へとつながる道筋の右手には木曽川が間近に迫っています。前方を見るとここ福島宿のランドマークとして関所があることを示すドデカイ「冠木門」が迫ってきます。

冠木門

何故ゆえにこんな大きなものを造ったのかと思うのですが、ここ福島の関所は中山道の中でも碓井の関所とともにとりわけ女改めと鉄砲検査が厳しかったことで知られており、中山道を代表する関所だったのです。そんなことでこのことをことさら強調するために、こんな大きな冠木門を造ったのではないでしょうか? ちなみにこの冠木門は木製ではなく鉄製ですよ!

福島宿は中山道37番目の宿場町です。天保14年(1843)の記録によれば、宿内の家数は158軒、そのうち本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠14軒、宿内の人口は972人

中山道の中でも厳しいお調べが行われた福島宿にしては、宿内の規模はそれほど大きなものではないような気がします。
特に本陣1軒、脇本陣1軒はちょっと少ないと思われます。このことは関所を抱える宿場町特有の特徴で、関所のある宿場では居住まいが悪く、大名たちもできる限りここに留まることを避けていたのではないでしょうか。

さあ!福島宿内の散策を楽しむことにいたしましょう。旧街道は関所を抜けて、上の段へと繋がっていたのですが、私たちはまず福島の関所を見学した後、木曽川を渡り対岸の高台へと向かうことにします。まずは江戸時代の四大関所の一つである福島の関所へと向かいます。
かつて街道時代に使われていたと思われる緩やかな土道の上り坂を上がると木の柵に囲まれた一画に「関所跡」の大きな石碑が置かれています。
その先に関所の入口にあたる「東門」が構えています。

関所跡碑

※四大関所とは、「天下の険」と歌われた「箱根」、浜名湖の西岸に設けられた「新居」、関東・信濃・北陸の分岐点に当たる「碓氷」、そして、木曽路のほぼ中央に当たる「福島」の四つの関所のことです。

関所跡がある場所は崖下に木曽川が流れ、背後には山の斜面が迫る狭隘な地形に置かれています。過ぎ去った時代の旅人たちは中山道を辿ってくると、必然的にこの関所に誘われるように進んでこなければならなかったはずです。ということは、福島の関所は何人たりとも勝手に抜けられないような立地に置かれていたわけです。

「東門」をくぐると左手に関所の建物が現れます。この東門は比較的高さがあるので、当時は馬に乗ったままでも通過できたと思われます。そして関所の入口に構える西門に到着です。



「東門」をくぐると左手に関所の建物が現れます。この東門は比較的高さがあるので、当時は馬に乗ったままでも通過できたと思われます。そして関所の入口に構える西門に到着です。西門には受付があるので、ここで入場券を購入します。
◆入館料:大人300円 団体割引:15名以上10%割引



私たちはこれまで東海道中で箱根や新居の関署跡を見てきましたが、ここ福島の関所の立地から箱根、新居に比べると敷地も狭く、なにやら暗い感じがします。現在見る関所の建物は「福島関所資料館」として復元されたものです。資料館には上番所・下番所・勝手を復元し、関所通行に関する資料が展示されています。



当時の取り調べではまず下番が取り次ぎ、上番がその報告に誤りがないかを更に確認したようです。

番所に垂れ下がる幔幕(まんまく)と大きな提灯に染められた「まるいち」の紋所はここ福島の関所の関守を任されていた「山村家」の家紋です。
江戸の初期に関所が設置されたときから廃関されるまでの約270年間、代官である山村家が守り通しました。このように1つの家柄だけで関所を守ったのは大変珍しく、幕府からも一目置かれた存在だったようです。

関所のある道筋には関所に務める役人の家々が連なっていたといいます。その一つが、関所の隣に家を構える「高瀬家」です。
高瀬家は大阪冬の陣の頃にここ福島にやってきて、高瀬八右衛門武声が代官山村氏に仕え、御側役、鉄砲術指南役、勘定役を務めた家柄です。
尚、高瀬家は藤村の姉(園)の嫁ぎ先として知られています。園(その)は藤村の作品「家」に登場するお種、「夜明け前」の中ではお粂のモデルになった人物です。そのような格式を持つ高瀬家ですが、昭和2年の大火で古い家は焼失し、当時のものは土蔵と庭園の一部が残っているだけです。土蔵には江戸時代に官許の薬屋(奇應丸)を営んでいた高瀬家の歴史や藤村関係の資料の展示が多くあります。
尚、高瀬家の土蔵の見学には一人200円の見学料が必要です。

福島関所の見学を終えて、石段を使って国道(19号線)へいったん降り、反対側へ渡り関所橋へと進んでいきます。
勢いよく流れる木曽川に架かる関所橋の欄干に一枚のレリーフが嵌めこまれています。



良く見ると「祭り」の一場面を描いているようです。この絵柄は毎年7月22日、23日の両日に開催される水無(すいむ)神社の祭礼で「みこしまくり」といわれる行事を描いています。
絵柄には神輿を地面に転がすか、叩きつけているのが分かりませんが、奇祭の一つではないかと思われます。「まくり」とは転がすという意味です。実は重さ100貫(約400㎏)もある木製の白木の神輿を地面に転がし、転がして、なんと最後には壊してしまうというかなり荒っぽい祭のようです。

この祭りはまず水無(すいむ)神社から天狗の装いをした『猿田彦の神』に先導されて町内を練り歩きます。そして町内を巡りながら「心願(しんがん)」と呼ばれる神事を行います。「心願(しんがん)」とは赤ん坊を御輿の下をくぐらせ、その子の健康を願う神事です。

そして祭り2日目にこの祭りのハイライトが訪れます。「まくり」の神事が行われるのですが、神輿が地面に叩きつけられ、徐々にその姿を変えていくのですが、その神輿の破片を我先にと拾いあうことも一つの神事です。
この破片を家に持ち帰り祀ると災難除けになると言われています。
そして日が変わるころ、神輿は本来の姿を失い、担ぎ棒だけの無残な姿になってしまいます。

こんな祭りの様子を展示する「祭り会館」が本日の昼食場所である「肥田屋」の傍にあります。

木曽川の流れに架かる関所橋を渡って対岸の高台へと進んでいきましょう。
少し勾配のある坂道を上りきると道筋はT字路になり、突き当りに水場が設けられています。
私たちをこのT字路を右折して、興禅寺門前へと進んでいきます。



門前には「萬松山興禅寺」の石柱と「木曽義仲公廟所」と刻まれた石碑が置かれています。
趣のある山門の先へ参道が通じ、その向こうにもう一つの門が置かれています。

興禅寺は義仲公、木曽の領主木曽家代々、木曽代官山村家代々の菩提所で、木曽三大寺の一つとして知られています。
※木曽三大寺:木曽郡大桑村の常勝寺(じょうしょうじ)、木曽福島の長福寺

興禅寺は永享6(1434)年木曽義仲追膳供養のため、木曽氏12代信道公が荒廃していた寺を修復再建し、開山には鎌倉建長寺開山蘭渓道隆五世の孫、圓覚太華和尚を迎えました。これにより信道公を開基、太華和尚を中興開山としています。
明応5(1496)年叔雅和尚の代に木曽氏16代義元公(叔雅和尚の父)の庇護を受けて寺勢はますます大きくなり、これにより、義元公を中興開基、叔雅和尚を中興開山としています。

参道を進むと古めかしい門が私たちを迎えてくれます・
実は当寺の歴史は古いのですが、昭和2年の大火によって境内の諸堂はすべて焼失し、現在ある建物はすべて再建されたものです。この古めかしい御門も再建(昭和29年)されたものですが、様式は室町時代の勅使門です。

勅使門

勅使門をくぐり直進すると、正面に大悲殿(御影観音堂:昭和30年再建)があり、その堂前には義仲公お手植えと言われている桜の木が植えられています。(但しこの桜は2代目です。)

その桜の傍らに山頭火の句碑が置かれています。碑には「たまたま詣でて、木曽は花まつり」と刻まれています。

また傍には「木曽踊発祥之地」と刻まれた大きな石碑が置かれています。木曽踊は長野県木曾地方で哀調を帯びた木曽節に合わせて踊る素朴な盆踊りです。



碑文にあるように鎌倉時代(15世紀)に木曽氏12代目信道が小丸山城を築き 興禅寺を木曽義仲の菩提寺としました。この時の倶利伽羅峠の戦勝を記念した霊祭で武者たちの「風流陣の踊り」が行われ, その武者踊りが「木曽踊」の起源と考えられています。その後民衆に伝わり盆踊りとして広まっていきました。

大悲殿(御影観音堂)の脇を抜けて、いったん境内の外へでて、道を上り行き止まりの高台にあるのが義仲公をはじめとする木曽氏の墓です。



すでに辿った宮ノ越の徳音寺でも義仲公、巴御前や家臣たちの墓を訪れましたが、さすが木曽には義仲公ゆかりの墓があるもんですね。
この廟所には中央に義仲公、右側は信道(木曽氏第十二代、寺開基)、左は義康(第十八代福島城を築いた)の墓が置かれ、義仲公の墓には、彼の遺髪が埋められているそうです。

木曽氏廟所に上がる手前に大きな句碑が置かれています。これも山頭火の句碑「さくら ちりをへたるところ 旭将軍の墓」と刻まれています。



さて、当寺には「看雲庭」と呼ばれている大きな枯山水の庭があることで知られています。
ただ、この庭が歴史ある古い物という訳ではないのですが、その広さは東洋一(日本一)を誇り、雲海の美をテーマにした景観を見ることができます。昭和37年に現代作庭家の巨匠重森三玲氏によって造られました。
尚、この庭と併設されている宝物館に入るためには入館料が必要です。
大人:500円(その内容からいってちょっと高いような気がしますが……。)



それでは興禅寺を辞して、旅を続けてまいりましょう。
興禅寺門前の道をまた戻る形で直進していきます。まもなくすると右手に立派な堂宇を構える寺が見えてきます。この寺が興禅寺と並び木曽三大寺の一つに数えられている「長福寺」です。門前に「面談謝絶」とあるので、境内に入ることはできません。
長福寺を過ぎると、道筋は左へと折れ、すぐ右手に現れる木曽福島会館前を通り、木曽会館の駐車場が途切れた次の交差点で右へ曲がります。右へ曲がると道筋の右手の石垣の上は福島小学校です。

実はこの先に山村代官屋敷跡があります。山村家の敷地面積は広大で、現在の福島小学校の敷地も代官屋敷の一部だったのです。その石垣の脇に代官屋敷の東門跡の標が置かれています。
そしてその石垣に積まれた2つの石の表面になにやら文字が彫られています。
上の石の文字はかなりかすれて、読みづらいのですが、「俎(まないた)の なる日はきかず かんこ鳥(世有)」と刻まれています。



延享2年(1745)に尾張藩主徳川宗勝(むねかつ)が帰国の途中、山村代官屋敷に1泊しました。このとき供として従ってきたのが藩の重臣であり、学者でもあった横井世有(せゆう)です。横井世有が書 いたのが「岐岨路紀行 」ですが、この句は「岐岨路紀行」の一節です。

道筋はこの先で信号交差点にさしかかります。この交差点を渡った右手に山村代官屋敷跡のリニューアルされた「門」がどっしりと構えています。そして真っ直ぐに伸びた桧の並木を見ながら屋敷の入り口へと向かいます。



山村家は家康公の「福島を幕府直轄にする」という幕命により、所領の木曽福島を取り上げられましたが、時を同じくして山村家は福島代官になり、そして旗本になった家柄です。
 
その後、木曽地区は尾張藩の所領になりましたが、尾張藩は山村家に福島代官職をそのまま続けさせ、山村家は江戸と名古屋に屋敷を持ち、幕府と尾張藩に仕えるという、かなりしたたかな人物だったようです。

その山村代官の権限は強大で、代官屋敷も豪壮を極め、屋敷内には庭園が20もあったといいます。山村家の敷地面積は下屋敷の数倍もあり、隣の福島小学校の敷地も屋敷の一部だった、といいますが、現在残っているのは、山村代官下屋敷のみで、享保8年(1723)に建てられたものです。

泉水庭園が見事と紹介されていますが、手入れが行き届いていないのか、行政の予算がないのか、言われているほどのものではありませんでした。
ただこの庭に面した廊下からは木曽駒ヶ岳を借景とした景色を眺めることができます。

館内には山村家ゆかりのものが展示されていますが、展示されているものがそれほど価値のあるものとは思えません。ただ建物が古いということであれば一応は価値があるのかな? またどうでもいいのですが、「おまつしゃさま」なる、山村家の守り神のお稲荷様が一つの部屋に祀られています。そしてそのお稲荷様の祠の中に「キツネのミイラ」が収まっています。
私達が当館を伺った時、職員の方が自慢そうに「キツネのミイラ」を御開帳してくれたのが妙に印象的でした。

ここまで福島宿内を見てきましたが、前述のように昭和2年の大火によって、宿内のほとんどが焼け落ち、古い家並みをほとんど見ることがありません。宿場町であったことは確かなのですが、福島の地は宿場町の印象よりも、山村家の支配の地としての印象が強く残る場所です。

私たちが辿ってきた道筋は街道時代の道筋から逸れた場所です。本来の宿場の道筋は上町の信号から本町に至る部分だったので、山村代官屋敷を後に、本町方面へと進んで行くことにします。
山村代官前の信号交差点から道筋を下ると、木曽川に架かる大手橋にさしかかります。橋を渡ると、その先に支所前の信号交差点があります。この辺りがかつての宿場の家並があり、一番賑やかな場所だったようです。

支所前の信号交差点で右折すると右手に蔦屋という旅館が店を構えています。そしてその向かいに仕舞屋風の建物が1軒あります。見るからに老舗然としたお店で「酒屋」です。
商号には七笑酒造と書かれています。

七笑酒造

「七笑」とは面白い商号ですが、この七笑とは木曽駒高原にある集落の地名からとったものです。
実はこの七笑の集落で義仲公の若きころ、すなわち「駒王丸」と呼ばれていた頃に過ごした場所なのです。

この七笑酒造の前を通り、次の角を左へ曲がるのが中山道の道筋です。
細い道筋へ入ると、左側は七笑酒造の酒蔵が並ぶ工場になっています。七笑酒造の工場が途切れる辺りから道筋は上り坂となります。
坂を登りきると、右手に置かれているのが復元された高札場です。
おそらくこの辺りが福島宿の入り口だったのではないでしょうか。
そして私たちがいる場所が「上ノ段」と呼ばれている地域です。

高札場

この上ノ段には福島宿で唯一、宿場時代の風情を残している家並みを見ることができます。

道筋に沿って連格子が嵌められた2階建ての家並が数軒つづいています。

上ノ段の家並

そんな一画に店を構えるのが「肥田亭」さんです。私たちはこの肥田亭さんで昼食をとることにします。
建物自体は100年を超える古いもののようです。趣ある造りの店内で食べるおしゃれな定食はなかなか美味です。

肥田亭内

巴御膳

ここ肥田亭さん到着時点で本日の5.7㌔地点に達します。

肥田亭
長野県木曽郡木曽町福島上の段 5248番地
☎0264-24-2480
<ランチタイム>    11:30~13:30(L.O.)
<カフェタイム>    15:30~17:00
<ディナータイム>   17:30~21:00(L.O.)
<閉店>         21:30
定休日:火曜日

肥田亭

木曽路十五宿街道めぐり(其の一)塩尻~洗馬
木曽路十五宿街道めぐり(其の二)洗馬~本山
木曽路十五宿街道めぐり(其の三)本山~日出塩駅
木曽路十五宿街道めぐり(其の四)日出塩駅~贄川(にえかわ)
木曽路十五宿街道めぐり(其の五)贄川~漆の里「平沢」
木曽路十五宿街道めぐり(其の六)漆の里「平沢」~奈良井
木曽路十五宿街道めぐり(其の七)奈良井~鳥居峠~藪原
木曽路十五宿街道めぐり(其の八)藪原~宮ノ越
木曽路十五宿街道めぐり(其の十)木曽福島~上松
木曽路十五宿街道めぐり(其の十一)上松~寝覚の床
木曽路十五宿街道めぐり(其の十二)寝覚の床~倉本駅
木曽路十五宿街道めぐり(其の十三)倉本駅前~須原宿
木曽路十五宿街道めぐり(其の十四)須原宿~道の駅・大桑
木曽路十五宿街道めぐり(其の十五)道の駅・大桑~野尻宿
木曽路十五宿街道めぐり(其の十六)野尻宿~三留野宿~南木曽
木曽路十五宿街道めぐり(其の十七)南木曽~妻籠峠~妻籠宿
木曽路十五宿街道めぐり(其の十八)妻籠宿~馬籠峠~馬籠宿
木曽路十五宿街道めぐり(其の十九)馬籠宿~落合宿の東木戸
木曽路十五宿街道めぐり(其の二十)落合宿の東木戸~中津川宿



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