大江戸散策徒然噺 Introducing Japanese culture and history

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木曽路十五宿街道めぐり (其の二十) 落合宿の東木戸~中津川宿

2015年08月21日 16時44分59秒 | 木曽路十五宿街道めぐり
馬籠宿からほんの僅かな距離でお江戸から44番目の宿場町である「落合宿」に到着しました。
旧街道は7号線によっていったん分断されてしまいますが、道筋は7号線を渡ってそのまま落合宿内へとのびています。
旧街道が7号線と合流する場所には一応、高札場跡の石柱が置かれています。ということはこの辺りが落合宿の東のはずれなのだろう。



7号線から分岐するように街道は落合宿内へとのびていきますが、宿内に入るとすぐに道筋は鋭角に右へ折れ曲がります。
ここが落合宿の江戸方の桝形の跡です。そんな桝形の角に秋葉常夜燈が置かれています。秋葉様を祀っているということは、防火を祈願してのことなのですが、当落合宿もご多分に漏れず、江戸時代の文化元年(1804)と文化12年(1815)に大火に遭っています。

天保14年(1843)の記録によると、落合宿は宿内の距離がわずか三町三十五間(約390m)で、人口370人、家数75軒、本陣1、脇本陣1、旅籠14軒で、美濃の東の玄関口としての役割を担っていました。
宿内は京都側から下町、中町、上町、横町に分かれ、中町には井口家が経営した本陣、その向かい側に塚田家が経営した脇本陣が置かれていました。

さあ!落合宿内へと足を踏み入れましょう。前述の通り、宿内の距離はわずか390mしかありません。それこそあっという間に通り過ぎてしまうほどの小ささです。
宿内に入るとすぐ右手に立派な門構えの屋敷が現れます。ここが落合宿の本陣だった場所です。
門前に「落合宿本陣」「明治天皇落合御小休所」の石柱が置かれています。
この門は本陣門と呼ばれていますが、文化元年(1804)の大火後、加賀の前田家から贈られたものといいます。

落合宿本陣

落合宿本陣井口家は代々本陣を勤めると共に、問屋・庄屋をも兼務し、宿の業務と運営を行う指導的な家柄で苗字帯刀を許される待遇を受けていました。明治13年(1880)に建物は大改修されていますが、正門を始め上段の間、小姓の間等が今もそのまま保存されています。
明治天皇御巡幸、また和宮御降嫁に際し、当本陣で御小休されています。

※本陣の建物は私邸のため、一般公開されていません。門も常に閉ざされているため、外観のみの見学です。

本陣の向かい側になにやら大きな釜が鎮座しています。この釜は「助け合い大釜」と呼ばれています。文久元年(1861)、皇女和宮が江戸に下向する際、4日間で約26,000人が落合宿を利用し、多くの住民が助け合いながら利用者の接待をした故事から、この地に大釜を設置しました。皇女和宮降嫁行列は総勢3万人、50キロに及んだと言われています。
尚、この大釜は容量1000リトッル、口径約1.5mで、元々「寒天」の原料である天草を煮る時に利用したものです。

大釜

わずか390mの宿内には、街道時代の面影はほとんど残っていません。ここが落合宿であったことを知らなければ、そのまま通り過ぎてしまうほど見るべきものが残っていません。
宿内進み、ほぼはずれにさしかかるころ、右手に1本の松が現れます。



そしてその傍らにお寺の山門が置かれています。お寺は曹洞宗の善昌寺(ぜんしょうじ)といいます。創建は江戸初期の慶長5年(1600)の頃。ちょうど落合宿の桝形に位置して、あの井口本陣の上段の間から当寺まで抜け穴が掘られていました。

また、落合宿は小さな宿場であったため、旅籠が満員になると当寺は宿方としても利用されていました。明治天皇が御巡幸の際に、境内の井戸の水が御前水として献上されました。
門前の松は推定樹齢450年と言われていますが、幹の太さから判断するとちょっと疑問に思われます。
いずれにしても、ちょうど桝形に位置しているため、宿場町の入口の目印になっていました。そして善昌寺の山門に覆いかぶさっていたことから「門冠の松(もんかぶりのまつ)」と呼ばれています。

旧街道の道筋は「門冠の松」が立つ場所から大きく左へ折れ曲がります。ここが宿のはずれの「京方の桝形」です。
あっという間に落合の宿場を通りすぎてしまいました。それでは次の宿場町である中津川宿へ向けて旅をすすめることにしましょう。



落合宿の京方の桝形を過ぎると、街道の道筋は上りの坂道となり19号線へと向かいます。「おがらん橋」で19号線を渡ると
「おがらん様」こと落合五郎兼行(おちあいごろうかねゆき)の館跡と言われる場所にさしかかります。
ここでいう「おがらん」とは伽藍(大きな寺院)という意味のようですが、本来の意味は定かではありません。
また、落合五郎兼行(おちあいごろうかねゆき)の館跡と言われていますが、発掘調査からもその痕跡は見つからず、確証はないようです。また落合宿の落合は彼の姓を地名にしたのかもわかっていません。
いずれにしてもこの地で古くから伝わっている場所なのでしょう?

尚、落合五郎兼行は木曽義仲の家臣です。兼行という名前から義仲の四天王に列せられている「今井兼平」「樋口兼光」とは兄弟でしょう。

おがらん橋を渡った右手のちょっとした高台に「おがらん四社」が祠を構えています。
石段を上がると、一応境内となりますが、その奥に小さな社が構えています。
おがらん四社とは愛宕神社、山之神神社、天神社、落合五郎兼行神社を指すようです。



それではおがらん四社を辞して、街道を進んでいきましょう。旧街道は19号線によってその道筋が大きく変わってしまっているようです。住宅街の中をクネクネを曲がりながら、「たつ家」の前まで進んでいきましょう。ここでトンネルをくぐって19号線の反対側へ移動します。

私たちは馬籠宿から坂を下り、下りほぼ山を下りきったと思っていたのですが、ここから中津川宿に至るまで、その道筋にはいくつかのアップダウンが待ち構えています。そんな上りの行程が19号のトンネルをくぐると、すぐに始まります。
もう上り坂はないと思っていた体にはちょっとキツイかもしれない急勾配の坂道です。この坂道を「与坂」と呼んでいます。

息を切らせながら与坂を上りつめると道は平坦となり、ちょっと進むと街道の右手に古めかしい家屋が現れます。その家の前に「与坂立場茶屋跡」の案内板が置かれています。

与坂立場茶屋跡

この茶屋は越前屋という屋号の店が営んでいたようです。そしてここの名物が「三文餅」であったので「与坂の三文餅」として落合名物の一つとなり、越前屋の裏手の井戸からは黄金が湧き出ると言われるほど、繁盛したそうです。



与坂立場跡をすぎると、道筋はやおら急な下り坂へと変じ、街道の両側には鬱蒼とした林がしばらくつづきます。
林の中の急坂をすぎると、周りが開けます。急坂はゆるやかな下り坂に変り、この先で三五沢を渡ります。橋を渡った辺りに落合村と中津川の境界がありました。

三五沢を渡ると街道の左側のちょっとした高台にお江戸から84番目(約330㎞)の子野(この)の一里塚跡の石柱が置かれています。
西側の塚はすでに消失し、東側の塚だけが、それらしき姿で残っています。

子野の一里塚跡

子野の一里塚を過ぎると、道筋は再び急な上り坂へと変ります。もう上り坂は終わってほしいとおもいつつ急坂を上りきると、街道右手に「覚明神社」が社殿を構えています。
覚明行者は御嶽信仰を広めた人で、鳥居峠にも覚明の碑が建っていました。
覚明は天明5年(1785)に木曽御嶽山を開山するためにこの地を通り、今ある神社の場所にあった茶屋に泊まったと伝えられています。
当社はそんな木曽御嶽講の開祖である覚明を祀っています。

覚明神社を過ぎると、道筋は一転し下り坂へと変り、子野の集落へと入っていきます。途中、街道左のちょっとした広場に公共トイレ「快心庵」があります。街道を意識したトイレの建物で、格子窓が付けられています。「快心」とはトイレだけに気持ちを心地よくするという意味なのでしょう道筋は更に下り、この先で子野川に架かる「このはし」を渡ります。



子野の集落を抜けると、街道左側に枝垂れ桜の大木に守られるように石仏群が置かれています。

石仏群
枝垂れ桜の大木

案内板には「中山道を通る旅人の心を和ませたといわれるしだれ桜の名木が境内にあり、街道まで枝を延びて趣がある。無縁の石仏を集めたところと伝えられ、元禄七年(1699)の庚申碑や地蔵、観音像等が数多く祀られている。文政五年(1822)の「南無阿弥陀仏」と独特な文字で書かれた高さ約2mの 徳本行者の名号石があり、生き仏といわれた彼が文政年間この地に滞在して「称名念仏」を布教した。」とあります。

ちなみに枝垂れ桜の樹齢は定かではありませんが、まさに街道脇に目立つ存在で立っています。桜の季節であればきっと見事な花を咲かせるのでしょう。この枝垂れ桜の木の前に民家が1軒ありますが、満開の花が咲くころはこのお宅が独り占めの眺めを楽しんでいるのでしょうか?

枝垂れ桜と石仏群を後にして、街道を進んで行くと、その先で地蔵堂川に架かる地蔵堂橋を渡ります。
橋を渡り、僅かな距離の上り坂を上がって行くと、19号線に出てきます。旧街道は19号線の向こう側につづいています。
そんな道筋へは19号線の下に掘られたトンネルを抜けて反対側へ移動します。
トンネルを抜けると「中山道上金界隈」に入ります。江戸時代には上金村と呼ばれており、寛政7年(1795)頃には家数18戸、人口85人の小さな集落でした。 
19号を渡った上金地区に入ると、道筋の両側は住宅街へと変ります。中津川市内まではそれほどの距離ではありません。ちょっとした郊外のベッドタウンといった雰囲気です。
道筋はほぼ平坦となり、このまま中津川市内へと向かっているのでしょうか?

そんな道筋を進んで行くと、街道右手の広場の一画に「尾州白木改番所跡」の石柱が置かれています。

尾州白木改番所跡

白木改番所とはこの地を治めた尾張藩が木曽五木の取り締まりのために置いた役所で、白木とは桧などの皮を削った木地のままの材木のことで、屋根板や天井板、桶板にするため、長さを1m半位に割ったものです。村人達は木曽五木の植林や伐採の仕事や桧細工で生活していたのですが、彼らは小さな木切でも横流しされないように常に監視されていたのです。



「尾州白木改番所跡」をすぎると、もう中津川の宿場は目と鼻の先です。街道の左側に旭ヶ丘公園が広がっています。
この公園の先で街道は石畳が敷かれた「つづら折り」の急坂となります。この坂は「茶屋坂」と呼ばれ、中津川宿の江戸方はずれに置かれた高札場まで下っていきます。

中津川高札場跡

この茶屋坂は国道によって途中分断されてしまっていますが、街道時代はつづら折りのキツイ坂道ではなかったのではないでしょうか?

つづら折りの坂を下りきり、国道に沿って歩道橋まで進んでいきます。歩道橋を渡り、石段を下りると復元された高札場が私たちを迎えてくれます。

中津川宿へと入って行きます。宿場跡は中津川の中心部に位置しています。とはいっても宿場跡は地方のよくある商店街といった場所にあります。宿場は江戸方から淀川町・新町・本町・横町・下町と続き、新町と本町の境に四ツ目川が流れています。鉤の手に折れ曲がった横町辺りの家並みに宿場時代の面影を残しています。

中津川宿は天保14年(1843)当時の宿内の距離は高札場から中津川橋まで南北10町7間(約1102m)、人口928人、家数228軒、本陣1、脇本陣1、旅籠29軒。本町は宿場の中心で本陣を務めた市岡家や脇本陣の森家、問屋や庄屋の屋敷がありました。この本町を挟んで江戸方筋に商家、京方筋には旅籠屋や馬宿、茶屋等が多く軒を連ねていたといいます。

私たちは今回の旅では中津川の宿内の見学はせずに、そのままバスが待つ「にぎわい広場」へと向かいます。

本日の歩行距離は落合宿の江戸方から「にぎわい広場」までの4.2キロの行程です。

あっという間に終わってしまった落合宿から中津川宿の徒歩区間でした。私たちは中津川宿内の散策を割愛し、この後、JR中央本線に乗って恵那へ向かい、ついでに恵那峡のクルーズを楽しむことにしました。

クルーズ船着き場
ガイド仲間
湖岸の景1
湖岸の景2
湖岸の景3

木曽路十五宿街道めぐり(其の一)塩尻~洗馬
木曽路十五宿街道めぐり(其の二)洗馬~本山
木曽路十五宿街道めぐり(其の三)本山~日出塩駅
木曽路十五宿街道めぐり(其の四)日出塩駅~贄川(にえかわ)
木曽路十五宿街道めぐり(其の五)贄川~漆の里「平沢」
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木曽路十五宿街道めぐり(其の十九)馬籠宿~落合宿の東木戸



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木曽路十五宿街道めぐり (其の十九) 馬籠宿~落合宿の東木戸

2015年08月21日 15時44分41秒 | 木曽路十五宿街道めぐり
《夜明け前から》
『馬籠は木曽十一宿の一つで、この長い渓谷の尽きたところにある。西よりする木曽路の最初の入口にあたる。そこは美濃境にも近い。美濃方面から十曲峠に添うて、曲りくねった山坂を攀じ登って来るものは、高い峠の上の位置にこの宿を見つける。街道の両側には一段ずつ石垣を築いてその上に民家を建てたようなところで、風雪を凌ぐための石を載せた板屋根がその左右に並んでいる。宿場らしい高札の立つところを中心に、本陣、問屋、年寄、伝馬役、定歩行役、水役、七里役(飛脚)などより成る百軒ばかりの家々が主な部分で、まだその他に宿内の控えとなっている小名の家数を加えると六十軒ばかりの民家を数える。荒町、みつや、横手、中のかのや、岩田、峠などのがそれだ。そこの宿はずれでは狸の膏薬を売る。名物栗こわめしの看板を軒に掛けて、往来の客を待つ御休処もある。山の中とは言いながら、広い空は恵那山の麓の方にひらけて、美濃の平野を望むことの出来るような位置にもある。何となく西の空気も通って来るようなところだ。』

前回は木曽路を代表する人気の宿場町である妻籠宿から木曽の山間を抜けて、ここ馬籠宿の北の入口へ到着しました。
第4回目の木曽路十五宿街道めぐりはここ馬籠宿の北の木戸から始まります。私たちが到着するバス駐車場から北の木戸まではほんの僅かな距離です。

馬籠宿高札場

北側の木戸に立つと、街道筋は南へ向かってそのまま下方へとのびています。馬籠宿が坂道に沿って造られた宿場であることが一目瞭然でわかります。そして家並みは急峻な山の尾根ずたいに造られ、その家々は街道の両側に石垣を築いた上に造られました。
そんな特徴的な宿場の造りは、坂下から火災になると、火は坂道を伝い上へ上へと燃え広がり、手の施しようがなかったといいます。馬籠宿の記録によると、幕末から明治にかけての85年間に6回の大火に見舞われ、宿内の250戸が焼失したとあります。また、明治28年と大正4年の大火で古い町並みのすべてを焼失してしまったといいます。

そして度重なる大火は宿場を疲弊させ、かつての賑やかさは失われていきます。さらに明治に入り、旧中山道とは別に国道が木曽川にそって造られ、更に1912年に中央本線が開通するのですが、馬籠には通らなかったのです。
こんなことで馬籠宿は陸の孤島となり、これといった産業もない馬籠宿は更に疲弊していきます。



そんな状況であった馬籠宿は、妻籠宿ほどの趣ある宿場町といった風情はありませんが、かつての賑やかさを取り戻したかのように、木曽路を代表する宿場町としての勢いを見せています。

馬籠宿家並
馬籠宿家並



どうして馬籠がこのように変貌できたのか、というと、昭和43年に長野県は明治100年記念事業の一環として、江戸末期の宿場の姿を再現するために、馬籠宿に限って当初、29戸の家の改築をはじめ、その後、60戸を加えて改築を完了しました。

まあ、言ってみれば昭和に造った宿場町のテーマパークでしょう。ほんの僅かですが100年前の建物を修理しているものもあるのですが、そのほとんどは昭和に時代のものです。

こんなもくろみが当り、なぜか木曽十一宿の中でも断トツで人気があるんですね。
加えて、昭和43年当時は長野県に属していたのですが、平成の大合併の際には長野県の恩義を忘れて、馬籠は岐阜県中津川市への統合を決めています。

お江戸日本橋から数えて43番目の宿場町である馬籠宿は天保14年(1843)の記録によると、宿内の距離は三町三十三間(約387m)で、人口717人、家数69軒、本陣1、脇本陣1、旅籠18軒が宿内に沿って並んでいました。尚、本陣は藤村の生家です。

宿内を貫く道筋はテーマパークらしく綺麗に整備され、その道筋の両側にはほぼ途切れることなくそれらしい家並みがつづきます。
道筋は緩やかな坂道ですが、これを下から辿ってきたら、結構キツイのではないかと思うほど坂道がつつきます。妻籠宿に比較すると、飲食店やお土産屋が目立ちます。
そんな宿内を辿り、坂道を下って行きます。

まず道筋の右手奥に構えているのが脇本陣です。現在は脇本陣資料館になっています。
馬籠宿の脇本陣を代々務めたのは「蜂谷家」で、当家は八幡屋の屋号で造り酒屋を営んでいました。

脇本陣記念館
脇本陣記念館

脇本陣跡からほんの少し坂を下った右側に黒塗りの冠木門が現れます。ここがかつての馬籠宿の本陣があった場所です。現在は藤村記念館になっています。

藤村記念館
本陣跡(藤村記念館)
本陣跡(藤村記念館)

前述のようにここ馬籠では何度も大火にあっています。実はここ本陣の建物は明治28年(1895)の大火でその大部分を焼失してしまいました。唯一、焼失を免れた祖父母の隠居場所だった建物が残されています。藤村はこの建物の2階で平田派の国学者であった父親から四書五経の素読を受けたといいます。

馬籠宿本陣を代々務めた島崎家は島崎藤村の生家であり、藤村の父正樹が最後の当主でした。「夜明け前」の主人公、青山半蔵はこの父をモデルにして書かれたもので、時代に翻弄させられながらも、日本の夜明けを信じて生きた一庄屋の姿を通して、近代日本へと移り変わる過渡期を描いています。明治維新とはいったい庶民にとって何だったのか、考えさせられる藤村晩年の名作です。

記念館の隣にある大黒屋は藤村が幼いころに、淡い恋心を抱いた「おゆうさん」の家です。大黒屋11代目の大脇兵右衛門が44年間書きつづけた日記が夜明け前の構想のもとになったといわれ、大黒屋は「伏見屋」という名前で登場します。

また宿内には周囲の景観に溶け込むように造られた郵便局が目立たない存在で佇んでいます。局の傍らには懐かしい郵便ポストが置かれています。

郵便局
大黒屋
馬籠宿家並み
馬籠宿家並み
馬籠宿家並み

緩やかな坂がつづく馬籠宿内を下って行きましょう。右手に馬籠宿ではかなり老舗の但馬屋が梲(うだつ)を誇らしげに構えています。

但馬屋
但馬屋

そして左手に現れるのが宿の宿役人を務めていた清水屋を営んでいた原家です。原家は築100年を超える母屋が残っています。

清水屋
清水屋

右手に水車が現れるまもなく馬籠宿の桝形です。

水車

その桝形へ降りていく途中に緩やかなカーブを描く道筋にさしかかります。ここから恵那山を遠望できます。そして宿の南側に位置する「車屋坂」を下りると、馬籠宿は終わります。



車屋坂を下りきると、旧街道は7号線と合流します。旧街道はこの7号線を渡って真っ直ぐ延びています。その7号線との交差点角にドライブイン(駐車場)である馬籠館があります。 

馬籠館

大きな駐車場にはたくさんの大型バスが停まり、多くの観光客がこの馬籠館を起点に坂道を上っているようです。
賑やかな宿場の佇まいはここまでで、この先の落合宿方向へはほとんどの観光客が足を踏み入れていないようです。

馬籠宿を出てしまうと、多くの人出で賑わっていた様子とうってかわって、静かな街道の風景が現れます。
妻籠から馬籠にいたる道程では多くの外国人がバックパックを背負って歩いていたのですが、馬籠から落合そして中津川への道筋は現代の旅人とすれ違うことはないのでは……。

道筋はゆるやかな下り坂がつづき、街道の左手には恵那山の姿を見ることができます。
まもなくすると小さな集落にさしかかります。横屋集落です。するとこれまでの下りの道筋からゆるやかな上り坂に変ります。

そして道脇に現れるのが、馬籠城址の石碑です。城址は集落の中の「竹藪」の中のようですが、小さな祠が一つ置かれているだけです。戦国時代の小牧長久手の戦いの折、豊臣方の島崎重通(藤村の祖先)がこの辺りを守ったのですが、徳川方の大軍が迫るや恐れをなして妻籠城内へ逃れたといいます。そのおかげで馬籠の集落は戦禍を免れたと伝えられています。城といってもおそらく砦程度のものだったのではないでしょうか?

かつてあった馬籠城址はゆるやかな坂道です。この坂は「丸山の坂」と呼ばれ、このあたりは丸山又は城山という名で呼ばれています。

馬籠城址と旧街道を挟んで、ほぼ向かい側にこんもりとした鎮守の杜があります。ここが諏訪神社です。

諏訪神社の鳥居
諏訪神社

旧街道に面して諏訪神社の参道入口があります。鳥居をくぐると参道が森の中へのびています。杉並木が参道脇に並んでいます。参道はその先で左に大きく曲がり、奥まった場所に木々に覆われて社殿が構えています。

参道入口に「島崎正樹翁碑」が置かれています。藤村の父「正樹」は夜明け前の主人公である青山半蔵のモデルです。

島崎正樹翁碑



諏訪神社から再び旧街道へ戻り、旅をつづけていきましょう。
旧街道の右側には畑が広がり、長閑な田園風景が広がってきます。
前方には木曽路のような山並みはありません。その代わりに美濃地方の広い台地が広がるだけです。遥か遠くに見える山は「笠置山」です。
そして横屋集落の次に荒町の集落そして、鍛冶屋前、中のかやの小さな集落を過ぎると十曲峠の頂にある「新茶屋」に到着です。





馬籠宿の北木戸から歩き始めて、ほぼ2.5キロ地点に達する場所にあるのが「新茶屋」です。
新茶屋と呼ばれている所以は江戸末期まではここから数百メートル南にあった立場茶屋が現在の場所に移転してきたためです。
ここでは「わらび餅」が名物だったと言われています。この場所には江戸から数えて83番目(約326キロ)の一里塚が置かれていました。一里塚は本来の形は失われてはいるものの現存しています。それぞれの塚の上には榎と松が植樹されています。

一里塚

更に私たちが日出塩の先で見た「これより南 木曽路」の石碑が置かれていたと同じように、ここには「これより北 木曽路」の石碑が置かれています。私たちはようやく木曽路の南端までやってきたことになります。
そして街道の路傍に「信濃 美濃」の国境を示す石柱が1本置かれています。

これより北 木曽路
「信濃 美濃」の国境

また、街道の左側の目立たない場所には芭蕉の句碑がポツンと置かれています。

芭蕉句碑

碑面には「送られつ 送りつ果ては 木曾の龝」と刻まれています。
「夜明け前」の中では伏見屋の金兵衛が建立したことになっています。
「龝」という字は「あき」と読みますが、この字を巡って夜明け前の中で金兵衛と半蔵の父吉左衛門が次のようなやり取りをしています。
「これは達者に書いてある。」
「でも、この秋という字がわたしはすこし気に入らん。禾(のぎ)へんがくずして書いてあって、それにつくりが龜(かめ)でしょう。」
「こういう書き方もありますサ。」
「どうもこれでは木曾の蠅(はえ)としか読めない。」

十曲峠(つづらおれとうげ)の頂には何から何まで揃っているという感じで、さまざまな史跡を見ることができます。
馬籠宿からここまでは緩やかな道筋を辿ってきました。十曲峠という名前が付いているのですが、峠まで上ってきたという感覚もありません。
しかし峠に上ってくれば、あとは下るだけです。
さあ!これから先は街道の風情を十分に味わえる「石畳道」の坂道をひたすら下りていくことにしましょう。

この石畳道を「落合の石畳」と呼ばれる十曲峠越えの中山道です。江戸時代の石畳が切れぎれ(3か所/70.8 m)に残っていたものを、近年になって失われていた部分に石畳を敷いて繋ぎ合わせ、全長840mの石畳の道を復元させました。本格的な石畳の道は古の中山道を存分に堪能できるすばらしい道筋です。

深い杉林の中に穿かれた石畳の道は階段状でなく、スロープ状なのでむしろ下りやすく感じます。江戸時代の石畳が残っているらしいのですが、その継ぎ目がよく分かりません。
比較的小さな石と大きな石の組み合わせの道筋が古い時代のものらしいのですが……。

石畳の道は新茶屋から右手に分岐するように始まります。この分岐する石畳の道は平成17年に山口村と中津川市の合併記念事業として120mにわたって整備されたもので、前述の840mに追加されたことで全長1キロ弱の石畳道を歩くことになります。
十曲と言われているくらいで、道筋はクネクネと曲がっています。
私たちは落合宿へ向けて石畳は下り坂となりますが、もし反対に上りとなると結構キツイ坂です。



















約1キロにわたる石畳道が終わりに近づくと、前方がにわかに明るくなります。ということは再び現代の舗装道路が私たちをまっています。そして無理矢理、現代世界に引き戻されるような感じさえします。
とはいえ、まだ十曲峠を下りきっていません。道筋は舗装道路に変り、いくらか平坦になります。
すると前方に堂宇が見えてきます。医王寺です。当寺はもともと天台宗の寺だったようですが、戦乱で焼失し一時期、廃寺になっていました。その後、戦国時代の天文13年(1544)に再興されて浄土宗に転じました。
また当寺は見事な「枝垂れ桜」で知られています。境内から門前に枝垂れる桜は4月の季節には人々の目を楽しませてくれます。ただし、現在の枝垂れ桜は2代目です。

また医王寺は山中薬師とも呼ばれており、虫封じの薬師として三河の鳳来寺、御嵩の蟹薬師とともに日本三薬師の1つとして知られています。ここに伝わる狐膏薬(きつねこうやく)は太田南畝の「壬戌紀行」や十返舎一九の「木曽街道続膝栗毛」にも紹介されるほど有名なものでした。
尚、医王寺の薬師如来は行基の作と伝えられています。

医王寺を過ぎると、道筋は下り坂へ変じ、この先でさらに「とんでもない坂道(下り坂)」へとさしかかります。東海道の箱根西坂で経験した坂道を思い出します。箱根西坂では「こわめし坂」なんていう名前でしたが、これに匹敵する坂道です。

いまでこそ山を削り、舗装道路にしてありますが、街道時代はもっと険しい坂道ではなかったのでは?
この坂を見る限り、反対側からの上りでなくてよかったと思う瞬間です。



十曲峠の険しい下り坂を下りきると、道筋は落合川に架かる「下桁橋」にさしかかります。
いよいよ44番目の宿場町である落合宿までほんの僅かな距離に迫ってきました。

下桁橋の橋上からふと左手を見ると、川の水が勢いよく流れ落ちる「滝?」が見えます。
自然の滝ではなく、人工的に造られた堰から流れ落ちる滝です。



また下桁橋の袂には「中山道の付け替えと落合大橋」の案内板が置かれています。
この案内板によると、下桁橋あたりから馬籠宿に至る中山道は幾度かの付け替えが行われているようで、私たちが辿ってきた医王寺からここ落合川までの道筋は江戸時代の明和8年(1771)に整備されたものとのことです。

さあ!まもなく第1日目の終着地点である落合宿入口に到着です。旧街道は7号線にいったん合流しますが、道筋は7号線を渡り宿内へとのびています。

私たちは7号線を渡った場所で第1日目の行程を終了します。馬籠宿の北木戸からここまでわずか4.7キロの距離です。
尚、この場所はバス停「木曽路口」です。
第2日目はここから落合宿内を進み、当シリーズの最終目的地である中津川宿へと向かいます。

木曽路十五宿街道めぐり(其の一)塩尻~洗馬
木曽路十五宿街道めぐり(其の二)洗馬~本山
木曽路十五宿街道めぐり(其の三)本山~日出塩駅
木曽路十五宿街道めぐり(其の四)日出塩駅~贄川(にえかわ)
木曽路十五宿街道めぐり(其の五)贄川~漆の里「平沢」
木曽路十五宿街道めぐり(其の六)漆の里「平沢」~奈良井
木曽路十五宿街道めぐり(其の七)奈良井~鳥居峠~藪原
木曽路十五宿街道めぐり(其の八)藪原~宮ノ越
木曽路十五宿街道めぐり(其の九)宮ノ越~木曽福島
木曽路十五宿街道めぐり(其の十)木曽福島~上松
木曽路十五宿街道めぐり(其の十一)上松~寝覚の床
木曽路十五宿街道めぐり(其の十二)寝覚の床~倉本駅
木曽路十五宿街道めぐり(其の十三)倉本駅前~須原宿
木曽路十五宿街道めぐり(其の十四)須原宿~道の駅・大桑
木曽路十五宿街道めぐり(其の十五)道の駅・大桑~野尻宿
木曽路十五宿街道めぐり(其の十六)野尻宿~三留野宿~南木曽
木曽路十五宿街道めぐり(其の十七)南木曽~妻籠峠~妻籠宿
木曽路十五宿街道めぐり(其の十八)妻籠宿~馬籠峠~馬籠宿
木曽路十五宿街道めぐり(其の二十)落合宿の東木戸~中津川宿



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木曽路十五宿街道めぐり (其の十八) 妻籠宿~馬籠峠~馬籠宿

2015年08月20日 08時48分25秒 | 木曽路十五宿街道めぐり
妻籠峠を越えるとほんの僅かな距離でお江戸から42番目の宿場町である妻籠に到着します。

妻籠宿

木曽路十一宿の中でも最も古い町並みが保存され、街道時代の宿場町の雰囲気を色濃く残している宿場といっていいでしょう。

私たちは昨日、妻籠の入口をほんの少し入った所から第1駐車場へと向かいました。

さあ!第3日目の旅が始まります。
旅の出立地点は第1駐車場です。ここを本日の0㎞といたします。



旅の始まりに際して今回の旅の一大ハイライトでもある妻籠宿の散策をお楽しみいただき、その後、木曽路の山間を抜け、ちょっとキツイ馬籠峠を越えて、43番目の宿場町である馬籠宿の入り口までの7.4キロを踏破します。
朝早い時間であれば、観光客も少なく、私たちだけで妻籠宿を独り占めできかもしれません。

それでは駐車場から宿内へと進んでいきましょう。

妻籠宿は昭和51年(1976)重要伝統的建造物群保存地区の第1号に指定され、木曽路と言えば「妻籠宿」というくらいに木曽路を代表する観光地になっています。
最近では日本人以外にもたくさんの外国人が訪れる日本屈指の観光地になっています。

昨日までは木曽川の流れを友に旅を続けてきましたが、南木曽から妻籠へと辿る道筋に入ると、木曽川の流れは街道から遠く離れてしまいます。妻籠宿はその木曽川に流れ込む支流である「蘭川(あららぎがわ)」の東岸に細長くつづいています。
天保14年(1843)の記録によると、宿内の距離は二町三十間(約273m)で、宿内には人口418人、本陣1、脇本陣1、旅籠31軒の規模であったと記されています。

妻籠宿

宿内に入ると、電信柱、派手な看板もないすっきりとした舗装道路道がまっすぐにつづいています。路肩の側溝には清らかな水が流れているようです。奈良井の宿でも感じたことですが、長い街道の旅の途中に現れる整然とした宿場に辿りついた旅人はなんとも心安らかな気持ちになったのではないでしょうか。暮六つともなると日は西へ落ち、旅人たちは旅籠の常夜燈をたよりにそそくさと宿へ向かい、夕げのもてなしに安堵したはずです。
そして夜の帳が宿を包む頃、宿場全体が木曽の山間の深閑とした空気の中に沈んでいく、なんて光景が目に浮かんでくるような家並みが目の前に現れます。

それではまず妻籠宿の脇本陣奥谷(南木曽町博物館)まで進んでいくことにしましょう。
宿内に入ってそれほど歩かない場所に位置する脇本陣奥谷では入館して見学をいたします。
見学後、集合場所と集合時間を決めて、妻籠宿内の散策をお楽しみいただきます。

妻籠宿脇本陣と問屋を務めた林家は「奥谷」の屋号で酒造業を家業とし、昭和8年(1933)まで「鷺娘」という酒を醸造していました。現在の建物は明治10年(1877)の建築でさすが木曽だけに総檜造りです。

脇本陣奥谷

館内ではガイドの説明を聞きながら屋敷内を見学できます。脇本陣の建物の裏手には歴史資料館が併設されており、木曽谷や宿場に関する歴史資料や模型が展示されています。

脇本陣奥谷

脇本陣と問屋を務めた林家は広大な山林と豊かな財力を誇った家で、藤村の詩「初恋」にうたわれた大黒屋のおゆふさまの嫁ぎ先でもあります。「夜明け前 」では扇谷得右衛門 として登場します。
江戸時代は身分制度のもとで商人などには制約があって、お金持ちであっても、木曽の美林に囲まれていながらも、自由に木を伐採できなかった町人たちが、明治維新を迎え、その開放感から財力の限りをつくして造ったのがこの脇本陣の建物です。木曽の檜をおしげもなく使用した建物には細部にわたり趣向を凝らした贅沢な造りです。

明治天皇が行幸されたおりに宿泊し、そのために用意した風呂や厠がそのまま残っています。また隠し部屋などもあり一見の価値はあります。そして建物の2階からは妻籠城があった城山を遠望することができます。
平成13年に国の重要文化財に指定され、現在は南木曾町博物館となっています。

奥谷脇本陣からほんの少し進むと、左手に冠木門が現れます。ここが妻籠宿の本陣です。

妻籠宿の本陣

妻籠本陣は慶長6年(1601)の中山道整備開始とともに、妻籠村代官である島崎監物重綱の二男に命じて本陣経営が始まり、その後代々受け継がれていきました。
幕末の動乱期に本陣を務めた島崎与次衛門重佶(しげたか)は藤村の小説「夜明け前」に登場する半蔵の従兄弟である「青山寿平治」の名前で登場しています。また藤村の母「ぬい」の実家でもあります。

最後の当主は藤村の次兄「広助」で養子縁組して跡を継ぎました。
当本陣は明治32年に時の政府に買い上げられ、建物は破却されてしまいました。平成7年に復元されて公開されています。

本陣跡を過ぎると、その先は「桝形跡」があり、本来の道筋は右へ直角に折れて階段状になって、その先につづいています。現在は街道がまっすぐに行けるように整備されています。
細い道筋がつづき、道の片側(右側)に古い家並みが連なっています。妻籠宿の家並の光景の中で、最も趣のある場所ではないでしょうか。この古い家並みが残っている地域を寺下と呼んでいます。











寺下の地域名は先ほどの桝形を曲がる手前の左側奥に堂宇を構える「光徳寺」があるからです。
当寺は明応9年(1500)に創建という古刹です。桝形から左手のちょっとした高台にまるで城壁のような石垣を築き、白壁の塀で囲われています。ご本堂は江戸時代の享保10年(1725)に建立されたものです。
当寺には脇本陣を経営した林家の墓や藤村の初恋の人である「おゆふさん」の墓があります。

桝形で分岐した道筋はこの先で左手からくる新しい道筋と合流します。妻籠宿の中でも、最も街道の宿場町らしい雰囲気を漂わせるのが「寺下」の家並だと思います。街道の左右に連なる家並みを眺めながら進んでください。



間もなくすると妻籠宿の家並が途切れるあたり、尾又のはずれにさしかかります。
妻籠の南木戸がどこに置かれていたのかは定かではありませんが、尾又あたりからは街道沿いにそれまでの家並はありません。
おそらく尾又あたりが本来の宿場のはずれではなかったのでは……。

道筋はいくらか上り坂に変じながら、木々に覆われた場所を進んで行きます。
道筋はすぐに256号線と合流します。
現在は256号線によっていったん遮断されていますが、街道時代はそのまま直進していました。
256号線を渡った反対側に「妻籠宿」と書かれた大きな標が置かれています。



さあ!妻籠宿をここで出ることにしましょう。
旧街道は256号線ではなく、ちょうどこの大きな標のすぐ裏側から始まるのが道筋です。
確かに妻籠宿を貫く街道は256号線を越えて、細い道筋へと繋がっているように見えます。
それでは次の宿場町である「馬籠宿」を目指すことにしましょう。この地点からおよそ6.4キロの距離です。

馬籠宿の大きな標の裏から始まる道筋は草道、土道といったもので、和たちたちのような木曽路を辿る人以外は通る人も少ないのではないでしょうか?
そんな道筋を進んで行くと小さな集落が現れます。橋場集落と言います。この橋場集落がある辺りはその昔には中山道と飯田街道の分岐点であったため「追分」と呼ばれていました。そして草道は集落が途切れたあたりで舗装道路に合流します。
蘭川(あららぎがわ)に架かる「大妻橋」の袂には「飯田道・中仙道」と刻まれた石柱が置かれています。

妻籠宿を出たからほんの僅かな距離しか歩いていないのですが、周囲には山並みが迫ってきます。大妻橋を渡り舗装道路をほんの僅か進むと、街道から分岐するように右手の山へと分け入るような細い道筋が現れます。道筋の入口は階段が付けられて、いよいよ木曽路の山間へと入って行くのか、という気持ちが高ぶってきます。この階段が付けられている坂道を「神明坂」と呼んでいます。



木々に覆われた坂道を進むと、途中で清らかな水が流れる小さな沢に架けられた橋を渡り、くねくねとした趣ある道を上っていきます。



そして坂上に小さな集落があります。この集落は神明集落です。家並みの中に街道の旅籠のような古そうな家が静かに佇んでいます。



あっという間に通り過ぎてしまうほど小さな神明集落を過ぎると、道筋は今度は下りへと変ります。緩やかな坂を下りきると蘭川の支流である「男垂川(おたれがわ)」に架かる神明橋にさしかかります。
この神明橋付近が本日の行程の中で最も標高が低い場所で、この後、馬籠峠まで木曽の山間の中を辿る長~い、長~い登り坂の行程が待っています。

そんな木曽谷の底を流れるのが「男垂川」です。
神明橋を渡ると、まもなく「大妻籠」の集落です。

大妻籠

道筋は緩やかな上り坂となり、古い佇まいを残す大妻籠の集落へと入って行きます。
大妻籠集落の真ん中あたりで、歩き始めて2キロ地点です。

妻籠本宿の南木戸からは僅か1キロしか離れていない場所にある集落です。妻籠ほど規模は大きくないのですが、この集落には立派な本卯建(ほんうだつ)に出桁造りの立派な家が街道に面して建っています。これらの家はかつては旅籠を営んでいたのかもしれません。現在は民宿となっています。

大妻籠家並み
大妻籠家並み
大妻籠家並み
大妻籠家並み

しかし、ここを訪れる人も少ないようで、観光客はほとんどいません。おそらく妻籠本宿を見て満足してここまで足をのばさないのでしょう。17世紀頃には大妻籠集落は成立していたといいます。

大妻簿集落を抜けて、再び男垂川を渡ると旧街道は7号線にいったん合流します。
ほんの僅かな距離ですが7号線に沿って進むと、やおら現れるのが旧街道の上り坂で、なんと綺麗な石畳の道が鬱蒼とした高野槙の林の中へ延びています。





さあ!ここからが本格的な馬籠峠へのキツイ上り坂の始まりなのか、と思いつつ、石畳の道へ足を踏み込みます。



比較的新しく整備された石畳の道ですが、石段や階段状の上り坂より、はるかに体に楽です。
鬱蒼とした高野槙の林の中を石畳がつづきます。そして上って行くとヘアピンカーブのように大きく曲がる箇所にさしかかります。
ふと後ろを振り返ると、今辿ってきた石畳の道がまるで蛇のようにくねらせている様子を見ることができます。

確かに木曽の山中を辿っているという雰囲気を十分に味わうことができます。
結構キツイな、と思いながら石畳の道を上って行くと、突然石畳の道が途切れ、いったん下り坂となります、その下り坂の先にあるのが「下り谷集落」です。下り坂集落を抜けると道筋はほぼ平坦になります。



すこし息を整えながら進んで行くと、街道の左側の少し高い位置に小さな祠が置かれています。倉科祖霊社というようです。

倉科祖霊社

松本城主小笠原貞慶の重臣「倉科朝軌」の霊が祀られているといいます。天正14年(1586)に倉科朝軌は大阪の豊臣秀吉のもとへ使いに行き、その帰りに馬籠峠で土豪に襲われて、ここ下り谷の地で非業の死を遂げたと伝えられています。そんな倉科朝軌を祀る小さな祠が街道脇にぽつねんと置かれています。

中山道・木曽路はこの先で二股に分かれます。左へ進む道も中山道、右へ進む道も中山道なのですが、私たちはこの先にある「男滝」と「女滝」を見るため右手につづく道へと進んで行きます。
あくまでも勝手な想像なのですが、大名行列や牛馬を曳く牛方は勾配の緩やかな滝上の道(左手の道)を通り、身軽な旅人は滝見物がてら滝下の道(右手の道)を辿ったのでは……。いずれにしてもどちらの道を行っても、この先で合流します。

二股に分岐した道筋は緩やかな下り坂となり、やがて男垂川に架かる橋にさしかかります。橋を渡ると街道から逸れるように男滝へと通じる細い道筋の入口が現れます。

男滝
女滝

吉川英治の「宮本武蔵」に武蔵とお通のロマンスの一場面として登場する滝です。 
また「滝壺に金の鶏が舞い込んだ」という倉科伝説が伝わっています。



男滝から女滝へ遊歩道を辿りながら見物を終えると、最後は7号線へ戻るために梯子段のような石段を上ります。
7号線に沿ってしばらく進んでいきましょう。
途中で、二又に分かれたもう一方の道筋が左手から下りてきます。
そして、この先で7号線から右手へ分岐する道筋に架かる木橋が現れます。



木橋を渡ると、再び木曽路らしい鬱蒼とした木立の中の道筋に変ります。しかもラフロードで旧街道を歩いているといった雰囲気を十分に感じることができます。馬籠峠への道筋は結構変化に富んで、楽しいものです。





男垂川の心地よい水の流れが耳に入ってきます。鬱蒼とした木々の間を辿って行く道筋ですが、木漏れ日が射し込む土道は街道時代に多くの旅人が踏みしめたと思うと感慨深いものがあります。
道筋は緩やかな上り坂でそれほど体に負担がありません。まもなくすると道筋は7号線に合流しますが、旧街道は7号線を渡った向こう側へと更にのびています。



7号線を渡ると、その先は趣ある石畳の道が林の中へつづいています。その入口の右側に「中山道・一石栃口」と刻まれた大きな石の標が置かれています。



さあ!ここから林の中を500m強進むと「一石栃の白木改番所跡」に到着します。
鬱蒼とした木々に囲まれた街道を進むと、天狗の腰掛けと呼ばれている「サワラの大樹」に出会えます。昔から山の神や天狗が腰を掛けて休む場所と信じられてきました。



旧街道は馬籠峠の頂に向かって山の中を緩やかに上っていきます。鬱蒼とした木々が突然開けると一石栃(いちこくとち)の白木改番所(しらきあらためばんしょ)跡が現れます。
この番所は尾張藩が設置したもので、木曽五木をはじめとする森林資源を管理する目的で、小枝1本に至るまで厳重に調べられたといいます。この場所にはトイレと江戸時代後期に建てられた牧野家住宅の無料休憩所が置かれています。

無料休憩所



一石栃白木改番所跡で小休した後、いよいよ馬籠峠の頂へと進んでいきます。
馬籠峠への道筋は予想していたよりも比較的緩やかなのですが、やはり一部にはキツイ個所もあります。

馬籠峠は標高801mですが、ここに至るまでにすでに標高をかなり上げているので、感覚的に801mの高さにいるようにおもえません。木曽路を歩いていると、ほぼ700m~800mを越えた場所を常に歩いているわけですから。

そんな馬籠峠に到着するちょっと手前から再び石畳の上り坂となり、石畳が途切れたところで7号線に合流するのですが、ここが馬籠峠の頂です。

7号線との合流地点には「峠の茶屋」が1軒あるのですが、季節によっては営業していないようです。

峠を越えると、私たちは岐阜県に入ります。そして道筋は下り坂へと変じます。
7号線にそって少し下っていきましょう。
そしてほんの僅かな距離を進むと、7号線から右手に分岐する道筋の入口が見えてきます。

もちろんこの道筋も下り坂です。峠までの上り坂で体力を消耗した者にとって、下り坂はほんとうにありがたく感じます。



坂を下り始めたあたりで、本日の歩行距離は5.5キロに達します。馬籠の到着地点まで、残すところ2キロに迫ってきました。
坂道はかなりの勾配となり、一気に峠を下っていくといった感じです。

そしてこれまで辿ってきた木曽谷の旅も終わりに近づいてきます。これから進む道筋の前方の山並みは低くなり、視界が広がってきます。そして中仙道はやがて広い濃尾平野へとつながっていきます。

さあ!馬籠宿へ急ぐことにしましょう。



7号線から分岐して、坂道を下ってくると街道左手に熊野神社の社が構えています。
そんな熊野神社を鎮守とする峠の集落が軒を連ねています。この辺りの集落は古くから「牛方」を生業としてきたと言われています。この集落は宝暦12年(1762)の大火後に再建された家並みが残っています。



「牛方」は俗に「岡舟」と呼ばれ、牛を使って荷物を運搬する業者のことをいいます。ここの牛方たちはなんと美濃の今渡から長野の善光寺辺りまで荷物を運んでいたといいます。
江戸時代の幕末の安政3年(1856)に中津川の問屋の不当な扱いに対して、荷役拒否をしたことで知られ、藤村の「夜明け前」にこの様子が描かれています。

峠の集落は街道らしい風情を漂わせています。過ぎ去った時代にはこの街道を荷役を担う多くの牛が闊歩していたのではないでしょうか。峠の集落を抜けると、道筋は緩やかな下り坂となり先へつづいています。

そして集落のはずれに十辺舎一九の大きな石碑が置かれています。
「渋皮の むけし女は見えねども 栗のこわめし ここの名物」
一九の句に現れる「栗のこわめし」は馬籠峠の名物だったようです。一九は江戸時代の文政2年(1819)に木曽路を辿り、この句を詠んだのです。

十辺舎一九の大きな石碑を過ぎても道筋は緩やかに下っています。途中、清水立場跡を過ぎて、石畳の梨乃木坂の下りへと入ってきます。



梨乃木坂を下ると、街道は再び7号線と合流します。その合流地点の右側に架かる岩田橋の向こうに水車小屋があります。
この水車小屋がある場所には「水車塚」が置かれています。
水車塚とは明治37年(1904)7月にこの場所に住んでいた一家4人が山崩れにより家ごと押し流され惨死したといいます。
難を逃れた家族の一人である蜂谷義一が藤村と親交があったことで、供養のため碑文を藤村に依頼して水車塚を建立したといいます。
「山家にありて 水にうもれたる 蜂谷の家族 四人の記念に 島崎藤村しるす」と碑文が刻まれています。





標高801mの馬籠峠から坂を下り、この辺りの標高は645mとかなり下げてきました。
いったん7号線と合流した旧街道はこの先、沢伝いに緩やかに下る細い道筋へと入って行きます。馬籠宿到着の期待を胸に膨らませながら細い道筋を辿ると、再び7号線と合流します。

合流地点から7号線を辿り、本日の到着地点へ向かってもいいのですが、もう一つのルートが7号線から分岐するように眼前の山の中へ道筋がつづいています。



その道筋は入口から階段の上りとなっています。一応、中山道と表示があるので階段を上っていくことにします。本日、最後のキツイ上り坂といってもいいでしょう。この坂を上って行くと馬籠宿の北側のはずれに位置する「馬籠上陣場の展望台」に行き着きます。



陣場とは天正12年(1584)豊臣秀吉と徳川家康が争った小牧長久手の戦いで、豊臣方の島崎重通が篭る馬籠城を攻略すべく、徳川方兵7000の一部がこの地に陣を敷きました。よってこの辺り一帯の地名を陣場と呼ぶようになったそうです。
上陣場の展望台からは真正面に恵那山を望むことができます。そしてこれまで辿ってきた木曽の山々は後方へと遠ざかり、これから先は深い谷もなければ、鬱蒼とした山並みもありません。
やっと木曽路を終えた気分になりますが、実はまだ木曽路は終わっていないのです。

馬籠宿高札場

馬籠宿

展望台で休憩の後、本日の終着地点(7.4キロ)であると同時に第3回目の旅の終着でもある駐車場へ向かうことにいたします。
馬籠宿の入り口のすぐそばにいながら、宿内の見学は次回のお楽しみということで、バスが待つ駐車場へご案内いたします。

木曽路十五宿街道めぐり(其の一)塩尻~洗馬
木曽路十五宿街道めぐり(其の二)洗馬~本山
木曽路十五宿街道めぐり(其の三)本山~日出塩駅
木曽路十五宿街道めぐり(其の四)日出塩駅~贄川(にえかわ)
木曽路十五宿街道めぐり(其の五)贄川~漆の里「平沢」
木曽路十五宿街道めぐり(其の六)漆の里「平沢」~奈良井
木曽路十五宿街道めぐり(其の七)奈良井~鳥居峠~藪原
木曽路十五宿街道めぐり(其の八)藪原~宮ノ越
木曽路十五宿街道めぐり(其の九)宮ノ越~木曽福島
木曽路十五宿街道めぐり(其の十)木曽福島~上松
木曽路十五宿街道めぐり(其の十一)上松~寝覚の床
木曽路十五宿街道めぐり(其の十二)寝覚の床~倉本駅
木曽路十五宿街道めぐり(其の十三)倉本駅前~須原宿
木曽路十五宿街道めぐり(其の十四)須原宿~道の駅・大桑
木曽路十五宿街道めぐり(其の十五)道の駅・大桑~野尻宿
木曽路十五宿街道めぐり(其の十六)野尻宿~三留野宿~南木曽
木曽路十五宿街道めぐり(其の十七)南木曽~妻籠峠~妻籠宿
木曽路十五宿街道めぐり(其の十九)馬籠宿~落合宿の東木戸
木曽路十五宿街道めぐり(其の二十)落合宿の東木戸~中津川宿



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木曽路十五宿街道めぐり (其の十七) 南木曽~妻籠峠~妻籠宿

2015年08月19日 17時06分38秒 | 木曽路十五宿街道めぐり
昼食後、ふたたび旧街道筋へと戻ることにします。
先ほど分岐した場所へ戻り、中央本線の反対側の山裾に穿かれた旧街道へ進んでいきましょう。
ゆるやかな坂道を上って行くと中央本線の南木曽駅が眼下に見えてきます。

ここ南木曽(駅)は次の宿場町である「妻籠」への観光拠点として、特急列車も止まります。
南木曽駅から妻籠まで車で20分程度です。
しかし、車で妻籠へ向かうより、中山道を辿って妻籠へ向かう方が街道気分を十分に味わうことができます。

南木曽駅前



そんな妻籠宿への道程の途中にあるのが南木曽駅の裏側の高台に位置する「和合集落」です。

細い道筋の両側に民家が並んでいます。道筋には須原宿で見たような水舟が置かれています。
集落の中を進んで行くと街道の右手に旧家らしき大きな家が現れます。表札をみると「園原」と書かれています。

実は「園原」の家柄はここ和合ではたいへん有名なのです。この大きな屋敷の先の街道左側に「園原先生碑」が置かれているのですが、この園原先生とは江戸時代の神学者なのです。



園原先生の正式名は園原旧冨(そのはらふるとみ)で江戸時代の元禄16年(1703)にここ和合の神官の家に生まれました。
その後、旧冨は神祇官領長だった吉田兼敬に師事して神学を学びました。

そして「神学則」を著し、「木曽古道記」「神心問答」「御坂越記」「木曽名物記」などの著作を残しました。この記念碑は彼の死後5年目の天明元年(1781)に門人たちによって屋敷跡に建てられたものです。

和合の集落を抜けると、道筋は山間へと入って行きます。そしていよいよ峠越えの上り坂が始まります。
周囲の景色は緑濃い木々に覆われた街道らしい雰囲気を漂わせています。
さあ!妻籠宿へ進んでいきましょう。

妻籠への道

妻籠宿への序盤戦はちょっとキツメの上り坂です。歩き始めて13キロを超えた辺りでの急坂は結構体に負担がかかります。木曽路を歩いて久しぶりの山間の道筋です。



急坂を登りきると、いくらか平坦な場所へ出てきます。そんな場所に小さな集落が現れます。
神戸集落(こうどしゅうらく)です。ほんの僅かな民家が街道沿いに並んでいます。
神戸集落を抜けると道筋は緩やかな下り坂に変り、まもなくすると道幅が広くなる三叉路へとでてきます。

そんな場所にあるのが巴御前ゆかりの「ふりそで松」です。

ふりそで松

この松は義仲が弓を引くのに邪魔になるとのことで、巴御前が振袖を振って倒したといいます。

街道を挟んで祠が一つ置かれています。その祠の右側の階段を降りていくと、もう一つお堂が置かれています。ここが「かぶと観音」です。

この観音も木曽義仲ゆかりのものです。義仲が平家追討のため北陸道から上京するとき、木曾谷の南の押さえとして妻籠城を築き、その鬼門にあたるこの神戸の地に祠を建てました。その際、兜の中におさめていた安全祈願の八幡座の観音像を祭った。」といわれています。

そうした伝承から木曾の武将たちから手厚く保護されてきました。天正十五年、木曽福島の山村良候が大檀那になって「かぶと観音」の堂舎を造営しました。江戸時代には街道を通る多くの人々が訪れたといいます。

かぶと観音

かぶと観音の境内は木々に覆われ、静かな空気が流れています。境内の奥に祠が一つ置かれています。また境内に置かれた大きな石は義仲が腰かけたと伝わる「腰掛石」です。そして境内の隅にひときわ大きな観音像が立っています。

かぶと観音の境内を抜けて、街道へと戻ることにしましょう。
この先はほんの少しの間、緩やかな下り坂となります。神戸沢を渡り合戸立場跡を進んで行きます。立場跡からダラダラと坂道を下り「戦沢橋」を渡ります。

神戸沢

「戦沢橋」を渡ると道筋は緩やかな上りへと変ります。

石畳道

そして間もなくするとお江戸から数えて78番目の一里塚「上久保一里塚」にさしかかります。この一里塚は若干崩れてはいますが、原型をとどめている一里塚です。

上久保一里塚



上久保一里塚を過ぎると道筋はこの先しばらくは上り坂がつづきます。
木曽路の山間に穿かれた街道らしい風景が周囲に広がります。鬱蒼とした森がつづきます。



途中、路傍に朽ちかかった案内板に越後の良寛上人が木曽路で詠んだ二首のうちのひとつが記されています。
「この暮れの もの悲しさにわかくさの 妻呼びたてて 小牝鹿鳴くも」

そして趣ある石畳の道を辿って行くと、その先に旧中山道で名石の一つと言われている蛇石(へびいし)が街道の脇に現れます。

へび石

蛇の頭のように見えることからその名が付いたというが、かなり想像を逞しくすればそう見えないこともないのですが……。うっかりしていると見過ごしてしまうほどのものです。
往時は街道を旅する人たちの目を引いていたのかもしれません。

道筋は木曽路の山間を縫うように妻籠宿へとつづいています。まさに木曽路の街道を歩いているといった雰囲気が漂います。
車もほとんど通らない旧道は深閑とした空気が漂い、小鳥のさえずりさえあまり聞こえてきません。
もし、日が暮れてからこの道を歩けといわれたとしても、男であってもちょっと遠慮したくなるような道筋です。

蛇石を過ぎると道筋はほぼ平坦な道へと変ります。まもなく妻籠への至る峠を越えることになります。そんな峠の頂に置かれていたのが「城山茶屋」です。以前は茶屋として旅人の何らかのものを供していたと思われますが、現在、茶屋の建物はあるのですが、すでに廃墟になっています。
この茶屋があった場所から道が二股に分岐しています。私たちは右手へつづく坂道へと進んでいきます。
そんな分岐点に「妻籠城址」の石碑が置かれています。

妻籠城址碑

妻籠城は義仲が築いたものでは? そんな説明書きが「かぶと観音」にありましたよね。しかし、この場所の説明書きに義仲の名前が一切でてきません。不思議ですね。まあ、この件については追求せずにしておきましょう。妻籠城は木曽川と蘭(あららぎ)川の合流する断崖の上にある典型的な山城で主郭、二の郭、帯曲輪などを備えていました。小牧長久手の戦いでは豊臣方に就き、300の兵で徳川の大軍を防いだといいます。 関ヶ原の戦いでも、西軍側で戦い、中山道を進めた秀忠が遅れた一因になったといわれています。元和の一国一城令により、城は破却されました。
城があった山は標高420mで「城山」と呼ばれ、頂上には本丸址、土塁、空堀が残っています。(山頂まで徒歩10分)



城山茶屋から道筋は一気に急峻な下り坂へ変ります。さあ!いよいよお江戸から42番目の妻籠宿が近づいてきます。

中山道そして木曽路の中で「奈良井宿」と並んで宿場町の雰囲気を色濃く残しているのが妻籠宿です。昭和51年(1976)に重要伝統的建造物群保存地区の第1号に指定されました。

電信柱がない宿内の街道に沿ってまるで江戸時代にタイムスリップしてしまったかのような古い家並みがつづいています。
木曽川の支流である蘭川(あららぎかわ)の東岸に穿かれた街道にそって宿場が置かれました。

天保14年(1843)の記録によると、宿内の距離は南北二町三十間(約273m)で、人口418人、本陣1、脇本陣1、旅籠31軒の規模をもっていました。

宿内は恋野の坂を下ったあたりから下町、中町、上町と並び、桝形を挟んで寺下、尾又の5町から構成されていました。

下町に入ると古い佇まいの民家がちらほら現れます。そして街道の左側に現れるの「鯉岩」です。

鯉岩なるもの?

その昔は水面から飛び出た鯉の上半身のような形だったようですが、明治24年(1891)の濃尾地震で移動し、形が変わってしまったらしいのです。そう言われてよくよく眺めてみたのですが、どうも鯉には見えません。
木曽路名所図会にはしっかりと鯉の形に描かれているのですが……。

鯉岩を過ぎると、街道左側に「口留番所跡」があります。

口留番所とは宿場が開設された当初は住人がいないため、各所から人が集められたらようです。このため集められた住民が逃げないよう、監視する役目を担っていました。武田勝頼が設置し、山村氏が守っていましたが、住民が定着したので、元和六年に番所は木曾福島に統合されました。

そして50mほど先の右手に置かれているのが復元された高札場です。

高札場

高札場の先の恋野の坂を下ると、妻籠宿の下町の佇まいが見えてきます。
私たちは本日このまま妻籠宿の第一駐車場へと直行します。そして本日の行程を終了します。
駐車場までの歩行距離は16.2キロです。

木曽路十五宿街道めぐり(其の一)塩尻~洗馬
木曽路十五宿街道めぐり(其の二)洗馬~本山
木曽路十五宿街道めぐり(其の三)本山~日出塩駅
木曽路十五宿街道めぐり(其の四)日出塩駅~贄川(にえかわ)
木曽路十五宿街道めぐり(其の五)贄川~漆の里「平沢」
木曽路十五宿街道めぐり(其の六)漆の里「平沢」~奈良井
木曽路十五宿街道めぐり(其の七)奈良井~鳥居峠~藪原
木曽路十五宿街道めぐり(其の八)藪原~宮ノ越
木曽路十五宿街道めぐり(其の九)宮ノ越~木曽福島
木曽路十五宿街道めぐり(其の十)木曽福島~上松
木曽路十五宿街道めぐり(其の十一)上松~寝覚の床
木曽路十五宿街道めぐり(其の十二)寝覚の床~倉本駅
木曽路十五宿街道めぐり(其の十三)倉本駅前~須原宿
木曽路十五宿街道めぐり(其の十四)須原宿~道の駅・大桑
木曽路十五宿街道めぐり(其の十五)道の駅・大桑~野尻宿
木曽路十五宿街道めぐり(其の十六)野尻宿~三留野宿~南木曽
木曽路十五宿街道めぐり(其の十八)妻籠宿~馬籠峠~馬籠宿
木曽路十五宿街道めぐり(其の十九)馬籠宿~落合宿の東木戸
木曽路十五宿街道めぐり(其の二十)落合宿の東木戸~中津川宿



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木曽路十五宿街道めぐり (其の十六) 野尻宿~三留野宿~南木曽

2015年08月19日 13時07分19秒 | 木曽路十五宿街道めぐり
野尻宿を出ると、下在郷という集落が現れます。そんな集落の入口にあたる場所にあるのが「下在郷一里塚跡(77)」です。



そして街道の正面には三角おむすびのような形をした山が現れます。山の名前は「飯盛山(いいもりやま)」というそうです。あの白虎隊で知られる飯盛山とはなんの縁もありません。

一里塚跡を過ぎると、これまで歩いてきた道筋から右手へと分岐する二差路にさしかかります。
その道筋の入口を見ただけでも、旧街道らしい雰囲気が漂っています。

もちろんそのまま直進しても、この先で旧街道と合流します。

そんな道筋へと歩を進めていくと、道筋は大きく左手にカーブを切り、細い道筋へと変って行きます。むしろクネクネと曲がる道筋で、結構楽しめます。やがて道筋はJR中央本線のカードをくぐり、更に道筋は田舎じみてきます。
そんな道筋の脇に牛が1頭しかいない古びた牛舎が置かれ、街道らしい雰囲気をさらに醸し出しています。

牛小屋

まもなくすると、再びJR中央本線の踏切が現れます。この踏切を渡りその先につづく木々に覆われた道筋へと進んでいきます。
そんな道筋へと入ると、左側に19号線の橋脚と、山が迫り、右側を走るJR中央本線の線路つたいに続く旧街道をしばらく歩きます。周囲は緑濃い木々が生い茂る風景へと変ります。





街道の左側は木々の緑、右側には中央本線の線路が走り、その線路を越えた向こう側には木曽川が流れています。

かつて街道時代には木曽川の断崖に沿って穿かれていたというのが、この中山道(木曽路)だったようです。
現在ではその道筋は舗装道路に代わり、当時の難所であった雰囲気はあまり感じません。

道筋は再び中央本線の第13号中山道踏切を渡り、今度は線路の右側を進むことになります。

この踏切を渡る手前に、今は道が崩れて廃道のようになっている山道の入口がかろうじて残っています。
この山道が「シラナミ坂」という上り坂で、この先の14号中山道踏切を渡ったところで合流します。現在は道筋が廃絶して通行ができなくなってしまいました。

この踏切を渡ると、歩き始めて4キロ地点にさしかかります。
ほぼ直線の道筋を進んでいきましょう。あのシラナミ坂は線路の左側の山の中腹を辿っていたといいます。下から見上げても、その痕跡は目視できません。
そして再び現れるのが中央本線の第14号中山道踏切です。この踏切を渡った左側にシラナミ坂の出入口があります。ただし、薮で覆われています。

現在、私たちは中山道・木曽路を歩いているのですが、かつての街道時代の木曽路の道筋はいたるところで廃絶となり、おおきくルートが変わってしまいました。かつての道筋はいたるところで分断され、新しい国道や鉄道に吸収されてしまい、ほとんど残っていません。今歩いているこの区間の木曽路もほんの僅かな部分しか残っていません。

第14号中山道踏切を渡りさらに旧道を進んでいきましょう。少し進むと小さな橋にさしかかります。その橋に「新茶屋」の名が付されています。
新茶屋とは、前述のシラナミ坂に置かれた茶屋のことで、現在でも茶屋があった場所には石垣が残されているそうです。



さあ!道筋は徐々に左手を走る国道19号線との合流地点へと近づいていきます。
歩き始めて5キロ地点を過ぎると、車の往来が多い19号線と合流です。合流地点は橋が架かっています。
この橋を境にして大桑村と南木曽町に分かれます。

実は本来の中山道筋は19号線を渡った反対側の低い山の中へとつづいています。
しかしながら、19号線を走る車の往来の多さから容易に渡ることが難しいのです。
車の往来の切れ目を狙って渡るしかないのですが、危険を感じるようであれば、そのまま19号線(Ⓐルート)に沿って右側の歩道帯を歩いて、十二兼駅方面へ向かってください。

※運よく19号線を渡る事が出来た場合、Ⓑルートへ進みます。ちょっとキツメの坂を上り、山の中腹へと上っていきます。つづら折りの道を登りきると、道は平坦となり小さな集落が現れます。

この道筋はこの先で熊野神社の脇を通り、再び19号線に合流するのですが、合流して19号線から街道筋に戻るためには、分岐点まで戻らなければなりません。
その不便さを考え、熊野神社まで行かずに、途中で右折して、早目に19号に合流することを勧めます。

いずれにしても旧街道は十二兼駅のかなり手前で19号線から分岐します。

面白い名前の地名の十二兼にまもなく到着です。この十二兼の地名の由来についてちょっと説明しましょう。

ご存知のようにこの辺りは木曽谷の峡谷に位置しています。そんな地理的要因があり、十二兼という地名になったといいます。
それはセ(狭)、二(土地)、カ(崖地)、ネ(尾根)が訛ったものを十二という表記にしたそうです。

ちなみにここ十二兼に至る途中、街道右手の木曽川にダムがあります。このダムの名前は面白く「読書ダム」といいます。
「ドクショダム」とつい読みたくなりますが、「ヨミカキダム」がただしい表記です。
このヨミカキは与川(よかわ)、三留野(みどの)、柿其(かきぞれ)の3村が合併する時に はじめの読みをとって「よみかき」としたとのことです。

道筋は十二兼の集落へと入って行きます。ここ十二兼には街道時代には「牛方」が多く住んでいた地域と言われています。
「牛方」とは牛を使って荷物を運ぶ人のことで、運送業の原形であると言われています。



一つ前の駅である野尻駅が歩き始めて2キロ地点でした。そしてここ十二兼駅が歩き始めて6キロ地点ということは、駅区間4キロということです。
そして野尻駅からここまでにトイレ休憩をする場所が1か所もありません。

やっとトイレの設備のある駅である十二兼駅に到着です。しかし当駅も無人駅で、十分な数のトイレは期待できません。
案の定、トイレは一つです。
街道筋から駅舎へと通じる石段を上がり、小さな待合室の隣にトイレがあります。

駅前に何かそれらしい店があるかといっても、まったくありません。
木曽川が街道脇まで迫って流れており、商店街やコンビニなんてものもありません。

駅周辺にはわずかながら民家が並ぶ地域がありますが、この十二兼駅を利用する客はほんとうにいるのでしょうか?

十二兼駅でのトイレ休憩を終えて、街道の旅を更につづけていきましょう。
私達がさしあたって目指す場所は次の宿場町である「三留野」です。
三留野までは街道の右側を流れる木曽川に沿ってほぼ南下する形をとります。
かつて街道時代はここから先は特に難所が多い場所として知られていました。

木曽路名所図会によると、こんな記述があります。
「三留野より野尻までの間、はなはだ危うき道なり。この間、左は数十間深き木曽川に路の狭き所は木を伐りわたして並べ、藤かづらにてからめ街道の狭きを補ふ。右はみな山なり。屏風を立てたるごとくにしてその中より大岩さし出て路を遮る。この間にかけ橋多し。いづれも川の上にかけたる橋にはあらず。岨道(そばみち)の絶えたる所にかけたる橋なり」とあります。
こんな記述から、中山道・木曽路の中でも難所の一つであったことが窺がえます。おそらく木曽川と川に迫ってくる山裾の間の狭隘な部分にかろうじて道が穿かれていたのでしょう。
しかし道とはいえ、きちんとした道でなく山肌にへばりつくように道筋を造り、丸太を数本渡した程度の橋が架けられ、岩間を乗り越えていったのではないでしょうか。

そんな道筋は今はなく、そのほとんどが中央本線の線路に変り、国道19号線に姿を変えてしまっています。



十二兼駅を過ぎて、三留野宿へと向かいますが、その距離およそ4キロあります。この4キロのうち、3キロは国道19号線に沿って歩くことになります。その19号線に合流する手前250mに「柿其橋(かきぞればし)」が木曽川に架かっています。

その橋から眺める木曽川の光景は、第2回の旅で訪れた「寝覚の床」を彷彿とさせるような奇岩景勝の場所になっています。



とはいえ、寝覚の床周辺のように観光化されているわけでもなく、自然が造りだした見事な光景だけがそこにあるといった感じです。
こんな奇岩景勝のこの場所を「南の寝覚」なんて命名しているようです。
それでは街道筋から橋上へ進み、上流方向を眺めてください。

花崗岩の岩が木曽川の両岸に並び、悠久の時間を経て自然が作り上げた造形美が目の前に広がります。
しばし見とれてしまうほどです。

柿其橋からほんの少し進んだ街道の右側に、なにやら石碑らしきものが置かれています。ここは明治天皇が行幸の際に小休された場所で、石碑の傍らには「中川原御前水碑」も置かれています。





この先で旧街道は国道19号線と合流する柿其入口信号交差点にさしかかります。
それではしばらくの間、交通量の多い、国道19号線に沿って三留野宿へと進んでいきましょう。



淡々として道筋がつづくので、時間つぶしに木曽川の水源開発で名をはせた「福沢桃介(ふくざわももすけ)」について語ってみましょう。

三留野(南木曽)にやってくると「福沢桃介」の名が多くでてきます。
彼は明治元年に埼玉県比企郡吉見町で地方銀行を経営していた裕福な家庭で生まれました。

父の死後、家業を継いだ長兄が事業に失敗し、家は没落してしまいます。

桃介は慶応義塾に在学しているときに、福沢諭吉に目をかけられ、海外留学を条件に福沢家に養子縁組をします。
そして日本に帰って、諭吉の次女である「房」と結婚し、北海道炭鉱鉄道に就職するのですが、結核を患い6年で退社します。

そんな時、国内は日露戦争後の急速な経済拡大により、電力需要が急増する時代に入ってきます。桃介も株取引でかなり儲け、その金を元手にビール、ガス、鉄道などの事業に手を出していきます。
そして最終的に水力発電の有望性に目をつけて、電気事業へと邁進することになります。

当時、中部地方で電力供給を担っていたのは名古屋電灯会社です。もう一つ、水力発電に力を注いでいたのが名古屋電力で、双方はライバル会社だったのですが、名古屋電力は名古屋電灯会社に吸収されてしまいますが、そんな合併工作を行ったのが桃介です。

水力発電に力を注いでいた名古屋電力は駒ヶ根(寝覚~大桑)地域、読書地点など木曽川流域で水力開発の準備をいましたが、名古屋電力を吸収した名古屋電灯会社は水利権を引き継ぎ、木曽川流域での水力発電所の建設計画を推し進めます。

そんな計画の中心的役割を果たすことになった桃介は「一河川一会社主義」を唱え、一水系の開発、帰属を一社に委ねることは、総合的な水力開発に資するという持論を展開します。
この持論のもとに木曽川流域での水力発電事業は加速することとなります。

桃介が考えた発電所は「堰堤」を持つ、大型ダム式のものです。しかしここで大きな問題が持ち上がります。
それが「川狩り、流木問題」です。
この問題は当時の木曽川流域にとって、経済的に大きなウエイトを占めていた「木曽御料林」の木材搬出方法に係る問題だったのです。
御料林から伐採された木材は木曽川の支流に落とされ、その後、木曽川の流れに乗って下流の八百津まで運ばれ、そこで筏に組なおされ名古屋市そして伊勢方面へと運ばれていきました。これを「川狩り」といいます。

このとこから、この川狩りに差し障る大規模ダム建設は当初は許可されませんでした。
そこで桃介は当時、御料林を管理していた「帝室林野局」との間で、木材搬出用の森林鉄道を敷設することを条件に、この川狩り問題の解決が図られることになります。
尚、森林鉄道の敷設は大正10年(1921)から始まります。

この問題の解決により、大ダム構想が現実のものとなり、桃介の代表的事業である「大井ダム建設」の足場固めが図られます。
この大井ダムはあの恵那峡の遊覧船が発着する場所に近いところにあります。

この大井ダムは大正13年に完成したもので、河川の水を貯えて発電を調整することができるダム式のもので、日本で最初のものです。
その後も木曽川流域では発電、送電用の水力発電所の建設が続き、私たちが辿る木曽路の旅ではいたるところに発電所が現れます。

桃介は電力王と言われ、貴族院議員、帝国劇場の代表取締役などを歴任して、昭和13年、70歳でなくなりました。
前述のように福沢諭吉の娘婿でありながら、諭吉からの援助をまったく受けず、独歩の起業家精神を貫き通した人物です。

また、彼の名をさらに有名にしたのは、桃介と女優貞奴(さだやっこ)との恋物語ではないでしょうか。
貞奴は華やかな花柳界に属し、伊藤博文をはじめ維新の立役者たちを贔屓にした芸者です。

貞奴は明治23年に当時の演劇の旗手でもあった「川上音次郎」と結婚します。川上音次郎は「オッペケペー!」で知られる「オッペケペー節」で名を馳せた人物です。
音二郎と結婚した貞奴は当時ではまだ女性が芝居の道へはいることがはばかれる時代だったのですが、明治28年に日本で初めて女優になった女性なのです。

NHK大河ドラマ「春の波濤」では桃介と貞奴が大井ダムの工事用のゴンドラに乗っているシーンが描かれています。
音二郎の死後、貞奴は桃介と同棲生活に入り、女優引退後は岐阜県各務原市に貞照寺を建立し、木曽川畔に別荘を造り、昭和21年に没するまで、静かに余生を過ごしたといいます。



さあ!淡々とした道筋の国道19号線に沿っての旅も終わりに近づきます。
19号線に沿って中央本線も走っています。

そんな中央本線ですが、その区間は東京の新宿から名古屋までを結んでいます。しかしこの区間を直通で走る電車は1本もありません。

現在の中央本線は私鉄の甲武鉄道が前身で、明治37年に国有化され、電化も国鉄の中では一番早かったのです。
名古屋からの鉄道敷設は明治33年の名古屋と多治見間の完成が最初で、明治35年には多治見から中津(現在の中津川)が開通します。
その後、明治41年に中津から坂下、翌年42年に坂下から須原が開通します。
そして明治44年に全線が開通します。

この中央本線の全線開通は前述の桃介にとって発電所建設になくてはならない存在だったのです。

建設資材の運搬が中央本線の開通で容易となり、桃介は大正8年に賤母発電所、大正11年に三留野に読書発電所建設資材運搬路として木曽川に橋を架けました。
それが現在、「桃介橋」と呼ばれているもので、全長347m、幅2.60mの木造の吊橋です。
この橋は日本有数の長大吊橋です。

尚、桃介橋は本日の昼食場所である南木曽の橋本屋さんの裏手に流れる木曽川に架かっています。
せっかくなので昼食後に、橋を渡ってはいかがでしょうか?

読書発電所は大正12年に竣工しました。桃介はこの読書発電所建設の指揮をとるため、風光明媚な三留野の地に大正8年に別荘を建て、ここから読書、大井などの発電所の建設現場に足を運んだといいます。桃介が別荘滞在中には政財界の大物や外国人技術者を招いて、華やかな宴が催されたといいます。

大正13年に大井発電所が完成するまで、桃介は別荘にあの貞奴を呼び、避暑のために長期に滞在したといいます、貞奴が駅に降り立つたびに、有名な女優を一目みようと黒山の人だかりだったといいます。



そんな話をしていると、歩き始めて10キロ地点にさしかかります。
さあ!41番目の宿場町である「三留野」に到着です。

三留野宿は中央本線の南木曽駅から徒歩で15分ほどの場所に位置しています。
三留野宿は木曽十一宿の一つです。宿内の距離はわずか2町15間(250m)という短さです。

一応宿場なので、街道時代にはそれなりに栄えていたと言いますが、明治以降、国道が開通したことで人家も国道に沿って建つようになり、これに伴い人の流れも変わってしまい、現在の宿場跡は車も人もほとんど通らない、静かな通りとなっています。

宿内にはわずかばかりの古い家が残ってはいますが、江戸時代のものではないようです。
それもそのはず、江戸時代に四度の大火、更に明治に入っても大火に遭い、その都度、宿内の建物のほとんどを焼失した記録が残っています。

ここ三留野宿も史蹟らしきものはほとんど残っておらず、寂びれきっているという印象です。
唯一、かつてここにあったと言われる本陣と脇本陣の跡に案内板が置かれている程度です。

天保14年(1843)の記録によると、人口594人、家数77軒、本陣1、脇本陣1、旅籠32軒。江戸寄りから新町、上仲町、下仲町、坂の下の4町から構成されていました。

宿内を進むと右手のちょっとした空き地に「明治天皇御行在所記念碑」なる石碑が置かれています。
そしてここが三留野宿の本陣があった場所です。三留野本陣は代々、鮎沢家が務め、明治13年6月27日、明治天皇が行幸された際に宿泊されました。
しかし明治14年の大火で本陣は焼失してしまいました。この明治の大火で焼失した建物は家屋74軒、土蔵8軒にのぼったようです。

そして本陣からほんの少し歩いた左側に脇本陣跡の案内板が置かれています。



道筋は下中町で二つに分岐します。どちらの道を行ってもこの先で合流します。
分岐する左側の道筋は明治以降の道ではないでしょうか?
私たちは歴史の道の標通りに、右手に降りる石段を下りていきましょう。

石段を下りると坂の下町で、ここが三留野宿の西のはずれになり、この先に流れる梨小沢に架かる梨沢橋を渡ります。橋を渡ると三留野宿は終わります。

橋を渡ると読書小学校(現在は南木曽小学校)があります。読書とはこの辺りの地名ですが、明治7年(1874)に与川村(よがわむら)、三留野村(みどのむら)、柿其村(かきぞれむら)が合併し、それぞれの頭文字をとって「よみかき」とし、「読書」を当て字にしたようです。
その後、昭和36年(1961)に読書村、吾妻村、田立村が合併して、現在の南木曽町が発足しました。

このあたりで木曽路はちょっと変則的な道筋となります。本来の道筋は現在個人のお宅の庭先となっているので、歩くのがはばかれます。
このためその道を若干迂回するように坂道が付けられているので、ちょっとした坂道をのぼって旧街道へと進んでいきましょう。
すこし高台を歩くような道筋はすぐに下り坂となって「蛇抜橋(じゃぬけばし)」へと下りていきます。

「蛇抜」とはいったいどういう意味なのでしょうか? 山間の場所なので蛇の通り道か大蛇伝説なのか? なんて想像しますが、実は古くからここ木曽谷に住む人たちから恐れられている山津波といわれる「土石流」のことです。
大雨が降った時に沢伝いの土砂が崩れ、沢を蛇が抜けていくように土石流が襲ってくる様を表しています。
木曽谷一帯ではこの蛇抜が頻繁に起こり、多くの家屋を押し流し、人命が失われた歴史があります。

「白い雨が降る。大雨が降り続いているのに沢の水が止まる。
これは蛇抜が起こる前兆、と木曽谷では伝えられています。

蛇抜橋を渡ると、右手前方に中央本線の南木曽駅が見えてきます。歩き始めて11キロを超えようとしています。

それでは本日の昼食(食事処)である橋本屋へと向かうことにします。橋本屋への道筋は街道から右手へ逸れて、中央本線の線路を跨ぐ陸橋を渡り、南木曽駅方面へ少し歩いていきます。橋本屋さん到着時点で本日の歩行距離は11.7キロです。

橋本屋さんは店の名の通り、前述の「桃介橋」の袂に店を構えていることから店の屋号が「橋本屋」になっているものと推察します。美しい外観の桃介橋は橋本屋さんの裏手から渡ることができます。

木曽路十五宿街道めぐり(其の一)塩尻~洗馬
木曽路十五宿街道めぐり(其の二)洗馬~本山
木曽路十五宿街道めぐり(其の三)本山~日出塩駅
木曽路十五宿街道めぐり(其の四)日出塩駅~贄川(にえかわ)
木曽路十五宿街道めぐり(其の五)贄川~漆の里「平沢」
木曽路十五宿街道めぐり(其の六)漆の里「平沢」~奈良井
木曽路十五宿街道めぐり(其の七)奈良井~鳥居峠~藪原
木曽路十五宿街道めぐり(其の八)藪原~宮ノ越
木曽路十五宿街道めぐり(其の九)宮ノ越~木曽福島
木曽路十五宿街道めぐり(其の十)木曽福島~上松
木曽路十五宿街道めぐり(其の十一)上松~寝覚の床
木曽路十五宿街道めぐり(其の十二)寝覚の床~倉本駅
木曽路十五宿街道めぐり(其の十三)倉本駅前~須原宿
木曽路十五宿街道めぐり(其の十四)須原宿~道の駅・大桑
木曽路十五宿街道めぐり(其の十五)道の駅・大桑~野尻宿
木曽路十五宿街道めぐり(其の十七)南木曽~妻籠峠~妻籠宿
木曽路十五宿街道めぐり(其の十八)妻籠宿~馬籠峠~馬籠宿
木曽路十五宿街道めぐり(其の十九)馬籠宿~落合宿の東木戸
木曽路十五宿街道めぐり(其の二十)落合宿の東木戸~中津川宿



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木曽路十五宿街道めぐり (其の十五) 道の駅大桑~野尻宿

2015年08月19日 12時33分55秒 | 木曽路十五宿街道めぐり
昨日はJR中央本線の倉本駅から歩きはじめ、途中、39番目の静かな須原宿に立ち寄り、長閑な田園風景を眺めながら、ここ道の駅・大桑までの10.9キロを踏破しました。

第一日目の道筋は比較的平坦ではあったのですが、やはり木曽路、木曽谷というくらいで処々にそれほど体には負担は感じない程度の起伏が若干ありました。

昨日の行程で私たちは須原宿の手前で19号線と分かれ、田舎道を辿り大桑駅までを通過して、再び19号線に合流し、木曽川が間近に流れる場所へとやってきました。
そんな場所に置かれているのが、「道の駅・大桑」です。

ここからまずは40番目の宿場である「野尻宿」を目指しますが、道の駅を出ると次のトイレはここから2キロ先のJR中央本線の野尻駅までありません。

本日の行程は次の宿場である野尻を抜けて、JRの十二兼駅前、そして41番目の三留野宿を経て、南木曽へといたります。
南木曽を抜けるといよいよ本日の終着地点である「妻籠宿」への峠越えが待っています。

旅の前半の行程は比較的平坦な道筋を辿って行きますが、南木曽以降はややキツイ上り坂の行程で、妻籠宿近くでやっと緩やかな下りへと変ります。

そして木曽川の流れを眺められるのは南木曽までで、その後は妻籠へとつづく山間へと入り、妻籠宿に入ると木曽川の支流である「蘭川」が待っています。
さあ!それでは出立とまいりましょう。



道の駅・大桑から300mほどで19号線から分岐して、旧街道は右手にのびる小路へと入って行きます。分岐してから500mほどのところにJR中央本線の第11中山道踏切が現れます。
この踏切を渡り、しばらく線路に沿って進んで行きます。



JR中央本線の第11中山道踏切を渡ると小さな林集落が現れます。あっという間に通り過ぎてしまうほどの小さな集落です。そして次の踏切を渡ると41番目の宿場町である「野尻」の東木戸にはもう目と鼻の先です。

踏切を渡り、道なりに進んで行くと、街道の右手先にレンガ造りの洋風建築が見えてきます。
旧街道はレンガ造りの建物の手前を左へ折れ曲がりつづいています。



そんな曲りの角に「野尻宿」の石柱が1本置かれています。緩やかな坂を上っていくと、すぐに街道は右手に折れ曲がります。



このように野尻宿はいたるところに曲がりを持つ宿場町で、その曲りに沿って家並みがつづいています。
中山道以外の街道の宿場町でもこのように曲がり(桝形を含む)を持つ宿場はあるのですが、ここ野尻はかなりくねくねと曲がりを付けています。曲がりをつけるということは先を見通せないことで、外部からの敵の侵入を容易にさせない理由があります。

天保14年(1843)の記録によれば、野尻宿は東西六町三尺(約655m)の宿内の距離を持ち、人口は986人、家の数は108軒、本陣1、脇本陣1、そして旅籠が19軒あったと記されています。規模としては中規模かな。

宿内は江戸の方向から上町、中町(本町)、横町、荒田(新田)と4町が並んでいました。宿内の地形は本町と横町が底部に位置しており、宿の出入口に近い上町と新田が坂道で、更に道筋をくねくね曲げているため、人の出入りが簡単にできないような造りになっていました。

現在でもその曲りにそって家並みが続き、宿内には車も乗りいれてくるのですが、ここまでくねくねしているとスピードも出せず、走りにくいので車の往来はそれほど多くありません。
そして宿の東と西に「はずれ」という屋号を持つ家がありました。尚、この野尻宿も木曽路の他の宿場と同様、明治27年の大火で宿場が全焼したため、今残っている古そうな建物でも明治の大火以降のものです。

野尻宿の印象ですが、古い宿場町であるにもかかわらず、特段見るべきものがありません。史跡といってもほとんどなく、わずかにその痕跡を残す「跡」にも詳しい説明書きはありません。したがって、当宿の見どころ?は宿内の「曲がり」だけかな、といった印象です。



さあ!宿内を辿っていきましょう。宿は国道19号と木曽川に挟まれた段丘の上に設けられ、現在はJR中央本線が旧街道に沿って走っています。宿は街道整備が始まる年である慶長6年(1601)に成立した古い宿場町です。

前述のように明治の大火で宿が全焼し、その後に建てられた家並みが残っています。処々に出桁造りの家が現れ、かろうじて宿場らしい風情を漂わせています。道筋は曲りを加えて、緩やかにカーブしていきます。

野尻宿家並

常夜燈の立つところで道筋は大きく右手へと曲がります。その先の左手に「明治天皇御小休所碑」が置かれています。そしてここに野尻宿の本陣が置かれていた場所です。
近接して街道の右側に脇本陣跡の案内が置かれています。
徐々にJR野尻駅に近づいてきます。駅は街道から右手に少し入ったところにあります。
駅前といってもほんの僅かな商店がならぶだけで、何処の宿場と同じような駅前の佇まいを見せています。

野尻宿家並

明治天皇御小休所碑を過ぎると、街道左側に比較的大きな古そうな建物が見えてきます。
かつて旅籠を営んでいた「庭田屋」です。この建物を見る限り、かつての宿場の雰囲気を若干なりとも感じます。

庭田屋

そして郵便局を過ぎてすぐに四辻にさしかかります。ここの辻を左へ曲がる道筋が「与川道」と呼ばれていました。この道筋はここから「根の上峠」を越えて三留野宿へと至っています。
実はこの道筋も中山道でルートの一つです。

野尻宿と三留野宿の間は街道時代には木曽川の断崖絶壁を辿る難所だったのです。そこでこれを避けるために享保年間(1716-1736)に与川道という迂回路が造られたのです。私たちは今回は与川道を辿らず、三留野へと進みます。
そんな街道の西のはずれに、その屋号も「はずれ」と記された家が残っています。

はずれ

さあ!野尻宿の西のはずれにきてしまいました。それでは野尻宿を後にして、次の宿場・三留野へ向かうことにしましょう。二反田橋を渡ると宿を出てしまいます。

木曽路十五宿街道めぐり(其の一)塩尻~洗馬
木曽路十五宿街道めぐり(其の二)洗馬~本山
木曽路十五宿街道めぐり(其の三)本山~日出塩駅
木曽路十五宿街道めぐり(其の四)日出塩駅~贄川(にえかわ)
木曽路十五宿街道めぐり(其の五)贄川~漆の里「平沢」
木曽路十五宿街道めぐり(其の六)漆の里「平沢」~奈良井
木曽路十五宿街道めぐり(其の七)奈良井~鳥居峠~藪原
木曽路十五宿街道めぐり(其の八)藪原~宮ノ越
木曽路十五宿街道めぐり(其の九)宮ノ越~木曽福島
木曽路十五宿街道めぐり(其の十)木曽福島~上松
木曽路十五宿街道めぐり(其の十一)上松~寝覚の床
木曽路十五宿街道めぐり(其の十二)寝覚の床~倉本駅
木曽路十五宿街道めぐり(其の十三)倉本駅前~須原宿
木曽路十五宿街道めぐり(其の十四)須原宿~道の駅・大桑
木曽路十五宿街道めぐり(其の十六)野尻宿~三留野宿~南木曽
木曽路十五宿街道めぐり(其の十七)南木曽~妻籠峠~妻籠宿
木曽路十五宿街道めぐり(其の十八)妻籠宿~馬籠峠~馬籠宿
木曽路十五宿街道めぐり(其の十九)馬籠宿~落合宿の東木戸
木曽路十五宿街道めぐり(其の二十)落合宿の東木戸~中津川宿



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木曽路十五宿街道めぐり (其の十四) 須原宿~道の駅大桑

2015年08月19日 11時49分18秒 | 木曽路十五宿街道めぐり
さあ!定勝寺を辞して、ふたたび木曽路の旅をつづけていきましょう。

宿場のはずれに戻り、鍵屋の坂を下り、桝形の道筋へと進んでいきましょう。

鍵屋の坂とは道の真ん中に用水路が穿かれ、その両側に道を造った構造で、ここの場所は街道時代の名残りを見ることができる場所です。坂を下ると道筋が鋭角に曲がる場所である「桝形」にさしかかり、そのまま須原宿を終えることになります。





須原宿の桝形を過ぎると、まもなく歩き始めて6キロ地点にさしかかります。
本日の行程の半分は消化しました。
須原宿を抜けると、すぐに人家はまばらとなり、道筋は緩やかにカーブしながらいくらか勾配をあげていきます。



まもなくするとJR中央本線の踏切にさしかかります。踏切を越えると、道筋は上り坂へと変ります。



直線の長い上り坂を上がりきると、街道の右側が大きく開け、眼下には木曽川の流れと、そのほとりに建つ須原発電所が見えます。また晴れていれば後ろを振り返ると木曽駒ヶ岳の雄姿を見ることができます。

須原発電所遠望

坂を上りきると、二軒茶屋という小さな集落があります。街道の左側は緑濃い山が迫り、道筋には住宅街がつづきます。

そして右手の山懐にお堂を構えるのが「岩出観音」です。お堂まではいきませんが、街道からちょっと逸れて、お堂を見上げる場所へと進んでいきます。

岩出観音遠望

観音堂は別名、伊奈川観音又は橋場観音とも呼ばれており、江戸時代から昭和の初期にかけては馬産地・木曽の三大馬頭観音として馬を産育する人々の信仰を集めたていました。三大馬頭観音とは日義村の岩華観音、開田村の丸山観音のことをいいます。

お堂には「コッパ観音」と呼ばれる馬頭観音が祀られています。木曽の清水寺といわれる建物は懸崖宝形作りで、江戸時代の文化10年(1813)に再建したものです。

この辺りの地名は「橋場」というようで、木曽三大橋の一つであった「伊奈川橋」の通行番をする番所が置かれていたことから集落ができた歴史があります。

木曽三大橋とはここ伊奈川橋桟(かけはし)滑川橋(なめりかわばし)のことで、かつては橋杭の無い刎橋(はねばし)が架けられていたようです。現在の伊奈川橋も橋杭がありません。



伊奈川橋から見る伊奈川はゴツゴツした岩が転がり、白い波を立てながら勢いよく流れています。
橋上から眺める伊奈川の流れはなかなかの渓流美です。

伊奈川橋からの眺め

伊奈川橋を渡ると、木曽路(中山道)は右手に連なる山を回り込むように道筋が穿かれています。
そんな道筋は少し息がきれる上り坂となります。坂を登りきると大島集落が現れます。

道筋はやがて四辻にさしかかります。ここには中山道の標が置かれています。この四辻で中山道は大きく左へと折れて延びています。
初期の中山道はこのまま直進して、この先の大島橋を渡り、木曽川に沿って辿る道筋だったようです。
しかし、度重なる木曽川の氾濫によって、川筋から離すように道筋がつくられ、かなり大回りをするようなルートになったのです。
このため、街道は田園とその後方に山並みが連なるという長閑な風景の中を約1.5㌔ほど辿ることになります。



木曽路というと、やはり深い山間に穿かれた道筋というイメージが付き纏います。これまで辿ってきた道筋も木曽谷を縫うように、くねくねと道筋がつくられていました。
これは木曽川の流れに近い場所に街道がつくられたことで、木曽川がつくる渓谷に沿って歩いてきたことにほかなりません。
このため田園風景が広がる風景にお目にかかることはありませんでした。

木曽路では珍しい田園風景が広がるこの辺りは、私たち現代の旅人にとってもこれまで見慣れた山並み以外の眺望を楽しめる貴重な場所ではないでしょうか? おそらく街道時代の旅人も木曽川から離れた長閑な田園地帯を進みながら、遥か遠くに連なる山々を見ながらひと時の安息を楽しんでいたのではと思う道筋です。

そんな田園地帯を進むと、左手前方に大きな甍が見えてきます。天長院というお寺です。
江戸時代にはこの辺りに立場茶屋が置かれていたといいます。野尻宿と須原宿のちょうど中間に位置するこの立場には19軒の茶屋が軒を連ねていたようです。
茶屋があった明確な場所は定かではありませんが、おそらく天長院に近い場所に置かれていたと思われます。

天長院遠望

街道から100mほど左に入ったところに天長院の山門があります。
当寺の正式名は地久山天長禅院で、創建当時は天台宗でしたが、後に臨済宗に改宗されました。ということは須原の名刹である「定勝寺」の末寺ということになります。

創建は戦国時代の文禄2年(1593)という古刹です。古刹といっても、どう見ても堂宇は新しいもので、ごく最近に建てなおされたもののようです。というのも数年前に古い堂宇は火災で燃えてしまったようです。

この寺には「マリア地蔵」といわれる子育て地蔵があります。そういえば奈良井宿にもありましたね。奈良井のマリア地蔵は100円の拝観料を取られましたが、ここは無料です。

マリア像?

当寺のマリア地蔵は山門へ通じる石段をほぼ上った場所に目立たない存在で置かれています。
「マリア地蔵とは、地蔵が抱いた子供の着物の紐が、十文字になっているところから」とのことですが、まじまじ見たのですが、長い年月の間に風化してしまったのか、抱いた子供の着物の紐が十文字になっているようには見えません。



天長院を過ぎると道筋は「弓矢集落」へと入って行きます。街道は徐々に下り坂となり、左へとカーブを切りながら、小さな沢を渡ると前方に家並みが見えてきます。
小さな集落なのですが、ここには中央本線の大桑駅が置かれています。集落の中を進むと、四辻にさしかかります。
この辻を右手に折れ、100mほどの所に大桑駅の小さな駅舎が構えています。

大桑駅舎

駅前というのに、商店はほんのわずかで、四辻の角には古い看板を掲げ、昭和の雰囲気を色濃くのこしている商店があります。

この辺りは「弓矢」という地名が残っていて、その地名の由来はこの近くに社を構える「弓矢八幡」からきているようです。
おそらく古い時代からの集落のようですが、この地も度重なる火災で古い建物は残っていません。

あっというまに通り過ぎてしまう小さな弓矢集落(大桑駅前)を後に、先を急ぐことにします。
集落の端を流れる沢の橋を渡り進んで行くと、須原宿で分かれた国道19号線に合流する地点にさしかかります。
その合流地点の手前に中央本線の無人踏切があります。踏切から右手を見ると、大桑駅の小さな駅舎を見ることができます。

19号線に合流です。進行方向左側には歩道帯がないので、車の往来が激しい19号線を横断して右側の歩道帯へ移動します。
そして再び、木曽川の流れに沿って進むことになります。

19号線は緩やかな上り坂となっていきます。坂をのぼりきった辺りが「関山」と呼ばれていた場所で、木曽氏が統治していた時代にはここに関所があったといいます。

さあ!本日の終着地点である「道の駅・大桑」は目と鼻の先です。



19号線がいくらか左へとカーブをきると、左手前方に「道の駅・大桑」が現れます。私たちは19号線の右側を歩いてきたので、いったん19号線を横断しなければなりません。

しかし、不親切なことに横断歩道も信号もないため、ひっきりなしに走り抜ける車が途切れるのを待って、注意深く渡らなければなりません。

比較的大きな道の駅で、レストランも充実しています。もちろんトイレの設備もあります。

本日の歩行距離は倉本駅から須原宿を抜けて、ここ道の駅・大桑まで約10.9キロです。

木曽路十五宿街道めぐり(其の一)塩尻~洗馬
木曽路十五宿街道めぐり(其の二)洗馬~本山
木曽路十五宿街道めぐり(其の三)本山~日出塩駅
木曽路十五宿街道めぐり(其の四)日出塩駅~贄川(にえかわ)
木曽路十五宿街道めぐり(其の五)贄川~漆の里「平沢」
木曽路十五宿街道めぐり(其の六)漆の里「平沢」~奈良井
木曽路十五宿街道めぐり(其の七)奈良井~鳥居峠~藪原
木曽路十五宿街道めぐり(其の八)藪原~宮ノ越
木曽路十五宿街道めぐり(其の九)宮ノ越~木曽福島
木曽路十五宿街道めぐり(其の十)木曽福島~上松
木曽路十五宿街道めぐり(其の十一)上松~寝覚の床
木曽路十五宿街道めぐり(其の十二)寝覚の床~倉本駅
木曽路十五宿街道めぐり(其の十三)倉本駅前~須原宿
木曽路十五宿街道めぐり(其の十五)道の駅・大桑~野尻宿
木曽路十五宿街道めぐり(其の十六)野尻宿~三留野宿~南木曽
木曽路十五宿街道めぐり(其の十七)南木曽~妻籠峠~妻籠宿
木曽路十五宿街道めぐり(其の十八)妻籠宿~馬籠峠~馬籠宿
木曽路十五宿街道めぐり(其の十九)馬籠宿~落合宿の東木戸
木曽路十五宿街道めぐり(其の二十)落合宿の東木戸~中津川宿



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木曽路十五宿街道めぐり (其の十三) 倉本駅前~須原宿

2015年08月19日 07時51分05秒 | 木曽路十五宿街道めぐり
木曽路十五宿街道めぐり(其の八から其の十二)では35番目の藪原宿を起点に、うねるようにつづく木曽の山間と木曽谷を抜けて、木曽義仲の里として知られる宮ノ越宿で義仲ゆかりの地を訪ね、中山道の中間地点を越えて、木曽路では比較的大きな町である37番目の宿場町である木曽福島を訪ねました。

福島の宿内では江戸時代の四大関所の一つである「福島の関所跡」、木曽山村家の菩提寺であり、義仲の墓のある「興禅寺」、そして江戸時代を通じて福島関所の代官を務めた「山村家代官屋敷」を巡りました。
その後、38番目の小さな宿場町である上松宿を抜けて、木曽川の景勝の地である「寝覚の床」を通り、中央本線の小さな駅である「倉本駅」前に至る計33.8㌔を踏破しました。

薮原宿から倉本駅までの行程では比較的平坦な土地を歩きました。
そして街道に沿って、木曽川が清らかな流れを見せ、その流れの向こうには緑濃い山並みが迫り、まさに木曽谷を歩いているんだ、という実感を得た旅となりました。

さあ!いよいよ第3回の木曽路の旅が始まります。
今回の旅では39番目の須原宿、40番目の野尻宿、41番目の三留野宿、42番目の妻籠宿を辿り、馬籠宿の入り口までの34,2キロを2泊3日で辿ります。前回と同様に道程に沿って木曽川が流れ、折り重なるようにつづく山並みを眺めながらの旅となります。

倉本駅舎

倉本駅は無人駅である。乗り降りする人はほとんどいないのではないでしょうか。中山道の道筋は国道19号線から分かれるように、中央本線の倉本駅のホーム下のガードをくぐることから始まります。緩やかな坂道を進みながら、ふと後ろを振り返ると、倉本駅の小さな駅舎が畑の向こうにポツンと置かれています。



倉本駅遠望

つづら折りの道筋はすぐに倉本の小さな集落へとさしかかります。この集落は上松と須原の間の立場的な場所で、何軒かの茶屋が置かれていたといいます。

倉本の集落

集落の中には庚申塔が街道脇に置かれています。この庚申塔は江戸時代の享保12年(1727)の建立で、「除三尸之罪」と彫られています。庚申塔の脇にはこんな説明板が置かれています。
「暦の上で六十日に一度めぐってくる庚申(かのえさる)の日に、その夜を眠らずに過して、長寿を願う信仰を庚申待(こうしんまち)といいます。人間の身中には、誰でも三戸九虫(さんしきゅうちゅう)が宿っていて、この虫は庚申の夜に人が寝た時、天へ上って天帝に、人間の罪過を告げて、人の生命を縮めるといいます。この虫の報告が五百条になると、その人は死ぬそうです。そこで庚申の日に、三戸の虫が寝ている時、天へ上らぬように、夜起きているわけです。」

人の気配すら感じない倉本集落を進んで行きます。中山道(木曽路)の道筋はかつてのものとはかなり違っているようで、19号線に吸収されたり、道筋が途中で消滅していたりと本来の道がどのように辿っていたのかが分からなくなっている部分が多くあるようです。
倉本集落を貫く旧街道筋も同様で、中山道は突然あるいてきた道から逸れるように右手へと折れ曲がり、下り坂へと変ります。本来はこの道筋ではないように思われるのですが、表示に従って草道へと進んでいきます。



草道を下りきると、舗装道路へとでてきます。私たちはこの舗装を辿り、19号線との合流地点へと下っていきます。
実はこの辺りの旧木曽路は舗装道路から逸れて、大沢川の流れる岸辺に至るようです。そして大沢川を渡り(渡河といっても現在は木橋すらありません)、道なき道を進んで現在の19号線へと合流するルートがあるらしいのですが、ちょっと危険なので舗装道路を下ることにします。

19号線に合流して、大沢川に架かる大沢橋を渡り先を急ぐことにします。私たちは19号線の左側を歩いていきます。



万場(まんば)の信号交差点を過ぎると、19号線の反対側にほんの少し道幅が広がった場所にさしかかります。その場所に置かれているのが「倉本の一里塚跡」です。お江戸日本橋から数えて71番目の一里塚です。

一里塚跡を過ぎると、道筋はすぐに池の尻信号交差点にさしかかります。信号交差点で右側へ移動します。そして19号線から右手に分岐する小径の坂道を下っていきます。ここが池の尻集落です。ここもかつての立場があった場所です。小さな集落ですが、趣ある民家が並んでいます。

池の尻集落

その中の1軒の民家の土台の石積みが見事なもので、その積み方はまさにお城の石垣を思わせる立派なものです。この家に住んでいる方の説明によると、この積み方はかなり技術を要するもので、丸石がずれないように組み合わせる技術は真似できないとのことです。

民家の石積

家の裏側に回り込むと、木曽川が流れています。その河原には大きな花崗岩がゴロゴロと転がり、それまでの木曽川とは異なった姿を見せています。

木曽川

その荒々しい河原の背後には緑濃い山並みが連なり、その木々の緑に中にまるでライン河畔に建つ古城のような白い建物が見えます。これが桃山発電所です。この趣のある桃山発電所は大正12年(1923)竣工で、一連の木曽川水系の発電所の中では珍しい鉄筋コンクリートの構造体であるのと併せ、そのゴシック風の外観を特色とする発電所建築です。



静かな佇まいを見せる池の尻集落を抜け、後ろを振り返ると、集落の家並が緑濃い山並みを背景にして田園風景の中に溶け込んでいます。

池の尻集落遠望

道筋はこの先で舗装道路が終わり、草道へと変ります。草道は僅かな距離で、木曽川に注ぎ込む滝の沢に架けられた橋がある場所で19号線に合流します。右手には木曽川の向こうに桃山発電所の建物が間近に見ることができます。

桃山発電所

その合流地点には標高588mの表示が置かれています。

標高588m

そしてこの標高588mの表示を過ぎると、大桑村に入りますが、ここからしばらくの間は19号線にそって歩きます。

中京圏から信濃を繋ぐ国道19号線は物流の要であるため、ひっきりなしに大型トラックが走ります。歩道帯が敷設された部分では、それほど恐怖は感じませんが、それでもスピードをあげて走り抜けるトラックの風圧はかなりのものです。
雨が降ると、その風圧によりトラックが水煙を巻き上げ、帽子が吹き飛ばされそうになります。

19号線

国道19号線の右側は木曽川へと落ち込む崖が迫り、木曽川の河原には白い花崗岩の大きな岩がゴロゴロと転がり、男性的な荒々しい景色を見せています。



長い長い年月を経て、河原の岩は木曽川の水の流れで浸食され丸みを帯びています。
国道沿いの緑濃い木々の間から見える木曽川の流れと白い花崗岩のコントラストが美しく映えています。こんな風景を眺めながら木曽路を進んでいきます。



歩き始めて2.5㌔地点を過ぎると、前方に大きな看板が現れます。
看板には阿寺渓谷:12㎞、フォレスパ木曽:12㎞、のぞきど森林公園:14㎞の表示が見えます。
この看板のあるところから、私たちはいったん19号線から分岐して右手に延びる旧道へと入って行きます。

旧道は19号線と木曽川の流れの間に穿かれた街道らしい道筋です。旧道の右側は久しぶりにみる「杉並木」が続き、その木々の間から木曽川の流れを見ることができます。

400mほどでこの旧道は再び19号線と合流します。
合流地点で19号線を渡り、左側へ移動します。
信号がないので、車の往来に十分気を付けて渡ってください。
左側に移動し、19号線に沿って進むと、枝垂桜の大木が現れます。桜の季節でないので、枝垂桜の木であることに気が付かないで通り過ぎてしまうこともあります。
4月の桜の季節には見事な枝垂桜が目を楽しませてくれるのでしょう。



歩き始めて3.5㌔地点を通過します。ここから39番目の須原宿の東木戸まで1.5㌔に迫ってきます。
単調な19号線に沿って進んで行くと、左手に折れる狭い道筋が現れます。その道の入り口に「神明社・夫婦杉」の標が置かれています。

せっかくなので神明社への参詣を兼ねて、夫婦杉を見学することにします。
中央本線の線路の下をくぐるトンネルを抜けていくと、参道らしい石段が見えてきます。



石段を上りきると、目の前には鬱蒼とした木々に覆われた祠が鳥居の奥に鎮座し、その祠を守るように2本の杉の大木が構えています。

神明社

樹齢がどのくらいなのかは定かではありませんが、おそらく数百年クラスの古木であることは間違いありません。
また、神明社と呼ばれているので、祭神は天照でしょう。
普段の日は訪れる人もまばらなこの神明社ですが、1キロ先には須原宿があるので、昔から宿内の住民が崇敬している神社だと思います。

《エゲ坂の旧道》
国道19号を横切って木曽川に注ぎ込む猿沢からこの先の須原宿手前まで「エゲ坂の旧道」と呼ばれている中山道がわずかに残っているといいます。とはいっても、江戸の方から進んできた場合は、その旧道は藪に阻まれ、辿ることは難しいようです。
逆に須原宿側からは猿沢の手前までかつての旧街道を辿ることができるらしいのです。
しかしすでに廃道になっているので、須原側からの道筋も倒木や道の崩落もあるので歩くには適していないようです。

そんなことで私たちは19号線に沿って進んで行きます。
途中19号線から左へ分岐する細い道筋を辿って須原宿の東木戸へと向かうことにします。
分岐点には「中山道」と刻まれた石柱が置かれています。道筋は細く、夏の季節は路肩に雑草が生え茂り、旧街道らしい雰囲気を漂わせています。





国道19号線から逸れて、旧街道らしい道筋を辿ること、およそ500mで再び19号線と合流します。しかし合流距離はほんの僅かで、道筋は須原宿内へとのびる旧街道筋へと入ります。
その入口に「左 中山道」、「水舟の里」そして「一里塚跡碑」が置かれています。

道標

水舟の里

一里塚跡碑

歩き始めて5㎞強で39番目の宿場である「須原宿」の入口にさしかかります。成立当時は木曽川の流れに近かった須原宿は正徳5年(1715)の木曽川の氾濫によって旧宿場が流失し、その後享保2年(1717)に現在地に移転した歴史があります。

天保14年(1843)の頃の記録によると、須原宿の規模は本陣1、脇本陣1、旅籠24軒、家数104軒そして人口748人とあります。幕末の慶応2年(1866)の大火で宿内の半数近くが焼失し、現在残る建物は明治に入って建て替えとものです。宿内の距離は450mです。

宿内の道幅は現在も比較的広く、高い建物(マンションらしきもの)もほとんどなく、空が広く感じる宿場町です。宿場の入り口は中央本線の須原駅をちょっと過ぎた辺りのようです。

駅前で店を構える「大和屋」では江戸時代からの須原の名物である「桜の花漬」を製造販売しています。

大和屋

須原駅前を過ぎると、街道の右脇に高札場跡の看板が目立たない存在で置かれています。

須原駅前

それでは宿内へと入って行きましょう。印象としては古い家並みがそれほど多くないと感じます。ただ前述のように高い建物がないため、宿場町としての雰囲気はいくらか残っているように感じます。

須原の家並

そして宿内のいたるところに丸太をくりぬいて造った「水舟」が置かれ、清らかな水が流れています。人通りが少ない宿内の路傍に置かれた水舟とこんこんと湧き出す清水の音が静かな宿内に彩りを添えています。

水舟



それでは須原宿の中心へと入っていきましょう。街道の右側に古めかしい商家が見えてきます。
店先には薦被りの酒樽が積まれているので、一見して造り酒屋であることが分かります。



西尾酒造と呼ばれる江戸時代からつづく老舗の酒屋さんですが、当家は街道時代には脇本陣、問屋そして庄屋と務めた名家で、現在も地酒である「木曽のかけはし(辛口)」の蔵元として商売をしています。酒屋としても300年の歴史をもっています。

この西尾酒造のほぼ真向いの古い民家の前に、須原宿のランドマークである「水舟」とその後ろに大きな石碑が一つ建っています。



正岡子規歌碑

石碑には正岡子規の歌が刻まれています。明治24年(1891)に子規が須原を訪れた時に詠んだ歌です。
「寝ぬ夜半を いかにあかさん山里は 月いつるほとの 空たにもなし」
ちなみに明治24年にはまだ中央本線は須原まで開通していません。ということはここまで歩いてきたわけです。

尚、須原駅の広場脇には幸田露伴の文学碑が置かれています。碑面には「明治22年、木曽路を旅した幸田露伴は須原宿に泊まり、その縁で出世作「風流仏」を著した。と刻まれています。

幸田露伴文学碑

そして西尾酒造のちょっと先に常夜燈と黒塀のある場所は、島崎藤村の「ある女の生涯」の舞台となった「清水医院跡」です。この病院には藤村の姉である「園さん」も入院したことがあるそうです。かつての建物は現在、愛知県の明治村に移築、保存されています。

清水医院跡

須原宿家並

水舟

さあ!須原宿の西木戸近くにさしかかります。そんな場所に建つ風情ある建物が街道時代の「旅籠・柏屋」です。障子張りがガラス窓に変った以外は当寺のままのようです。2階の軒下に「三都講」の看板が今でも架かっています。

旅籠・柏屋

《三都講》
江戸時代後期に作られた宿屋名簿で、今で言うホテルガイド的なものです。大阪の商人で全国を行商していた松屋甚四郎と手代源助が、文化元年(1804)に誰でも安心して泊まれる旅籠の組合「浪花組」を立ち上げます。
優良旅籠を指定し、加盟の旅籠には目印の看板も掛けさせました。そのネットワークはさらに広がり、江戸を元にした「東講」、大阪・京都・江戸を元にした「三都講」ができます。その「三都講」が出した宿屋名簿(ガイドブック)で宿を選んだと言うわけです。

また、講とは現在のグループ旅行の形態のこともいいます。代表的なものとして「伊勢講」「富士講」「大山講」があり、江戸時代にはグループを組んで参詣に赴いたのです。そしてこれらの講が安心して泊まれる旅籠を選んで協定旅籠としたのです。
ですから広重の絵の中でも、宿場の旅籠の店先に〇×講と記された木札が掲げられている様子が見られます。

柏屋が立つ辺りで須原宿ははずれとなります。そのはずれに隣接して堂宇を構える名刹があります。臨済宗妙心寺派の定勝寺(じょうしょうじ)で木曽三大寺の一つです。

定勝寺山門

室町時代初期(嘉慶年間1387~1389)木曽家11代目親豊により創建されたと伝わる古刹です。二度の木曽川氾濫で流失し、慶長3年(1598)に現在地に再建されました。
桃山時代末期から江戸時代初期頃に見られる庭園様式の「鶴亀蓬莱庭園」が見所です。





木曽三大寺とは木曽町(木曽福島)の興禅寺、長福寺とここ定勝寺のことをいいます。
静かな雰囲気を漂わせる石段を上ると山門が置かれています。この山門も重要文化財です。
山門は四脚門で、屋根は切妻で檜皮で葺かれています。
山門をくぐると、左手にご本堂、その奥に庫裡が置かれています。本堂、庫裡ともに国の重要文化財です。
文化財拝観料:大人300円(団体割引30名以上:250円

境内全体の雰囲気はまるで京都のお寺に迷い込んでしまったような錯覚すら覚えます。
夏場の季節のため、境内の木々は緑一色に彩られています。境内にはたくさんの紅葉の木があるので、秋の紅葉シーズンはきっと美しい彩となって目を楽しませてくれるのでしょう。
木曽福島の興禅寺は昭和の大火でほとんどの堂宇を焼失し、新たに建て替えられたものでした。このため、古さを感じることがなく、木曽三大寺の一つとはいえ、それほど印象に残りませんでした。
一方、ここ定勝寺は境内の美しさもさることながら、全体的にしっとりとした風情に満ちて、しばしくつろいでいたいと思わせる雰囲気が漂っています。尚、境内には須坂ばねその石碑がある。ばねそとは はね踊り衆の意味からでた言葉という。5月5日に行われる花祭りで、子供らによって踊られるといいます。

須原宿は同じ木曽路にありながら、それほど観光地化していないような印象が残ります。静かな佇まいの中で、ここに住む方々の生活が優先しているような空気が流れています。とは言っても、かつての宿内にはコンビニ、洒落た飲食店をはじめ商店らしきものがありません。ただ宿のほぼ中心あたりに「なんでも屋」のようなマーケットが1軒ありました。

木曽路十五宿街道めぐり(其の一)塩尻~洗馬
木曽路十五宿街道めぐり(其の二)洗馬~本山
木曽路十五宿街道めぐり(其の三)本山~日出塩駅
木曽路十五宿街道めぐり(其の四)日出塩駅~贄川(にえかわ)
木曽路十五宿街道めぐり(其の五)贄川~漆の里「平沢」
木曽路十五宿街道めぐり(其の六)漆の里「平沢」~奈良井
木曽路十五宿街道めぐり(其の七)奈良井~鳥居峠~藪原
木曽路十五宿街道めぐり(其の八)藪原~宮ノ越
木曽路十五宿街道めぐり(其の九)宮ノ越~木曽福島
木曽路十五宿街道めぐり(其の十)木曽福島~上松
木曽路十五宿街道めぐり(其の十一)上松~寝覚の床
木曽路十五宿街道めぐり(其の十二)寝覚の床~倉本駅
木曽路十五宿街道めぐり(其の十四)須原宿~道の駅・大桑
木曽路十五宿街道めぐり(其の十五)道の駅・大桑~野尻宿
木曽路十五宿街道めぐり(其の十六)野尻宿~三留野宿~南木曽
木曽路十五宿街道めぐり(其の十七)南木曽~妻籠峠~妻籠宿
木曽路十五宿街道めぐり(其の十八)妻籠宿~馬籠峠~馬籠宿
木曽路十五宿街道めぐり(其の十九)馬籠宿~落合宿の東木戸
木曽路十五宿街道めぐり(其の二十)落合宿の東木戸~中津川宿



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木曽路十五宿街道めぐり (其の十二) 寝覚の床~倉本駅前

2015年08月18日 12時55分29秒 | 木曽路十五宿街道めぐり
寝覚の床でのトイレ休憩を終えて、再び旧街道筋へ戻ることにします。

寝覚の床



街道を進むと、道脇に大きな椎の大木が現れます。この大木を過ぎると前方に郵便局がある二差路にさしかかります。
私たちは左手に向かう道へと進んでいきます。

その先の左手に比較的大きな墓地が現れます。このあたりから左手の山を眺めると、木曽駒ヶ岳を見られるかもしれません。
墓地を過ぎると、左手は上松中学の広いグランドが現れます。
グランドを見ながら進むと、その先で道が狭まっていきます。道筋は小道に変るのですが、どういうわけかこの小道は石畳になっています。石畳の道は下り坂となって自動車道へつづいています。
石畳の道は150mほどの距離ですが、古いものではなく中山道の名残として復元されたものです。

寝覚の石畳

石畳があっという間に終わり、舗装道路へ変わると、前方に橋が見えてきます。滑川(なめかわ)に架かる滑川橋です。同時に周りの景色は一変し、山間へと変ってきます。
滑川橋の橋上から上流を眺めると、左右から山が迫り、その谷間に木曽川に注ぐ滑川の渓流が流れています。木曽路の山間の景色としてはかなり絶景ではないでしょうか。しばし見とれてしまうほどの美しい景色です。

滑川橋からの眺め

滑川橋を過ぎると、道筋は深い森の中を少しづつ勾配を下げながら進んで行きます。



下り坂はかなり先までつづいています。
この下り坂を歩きながら考えるのは、反対側からの上りでなくて良かったと思うことです。
陽射しを遮るくらいに鬱蒼とした森の中を歩いているような道筋です。

下り坂を下りていくと、左手にかなり大きな老人ホームが現れます。
こんな山奥にと思うような場所にある老人ホームです。
民間の老人ホームだと思いますが、規模からするとかなりの人数を収容できるはずです。
ですが、こんな山奥に入れられた老人たちは一人では外出できないのではないでしょうか。
たとえ外出できたとしても、周りには店もなく、坂の途中にあるこの施設まで一人で戻ってこれるのかどうかもわかりません。

そんなことを考えながら緩やかな勾配となる道筋を歩いて行くと、前方で大きく右へカーブを切り、JR中央本線のガードをくぐります。

JRのガードをくぐると旧道は19号線に合流し、深い森の中の道筋も終わります。



このあとの行程は19号線に沿ってすすんでいきますが、途中、分岐や合流を繰り返しながら倉本駅前へと向かいます。

19号線に合流して、僅かな距離で左側に現れるのが「小野の滝」です。
小野の滝は木曽八景の一つ「小野の瀑布」で木曽路を歩いた旅人はかならず立ち寄ったといわれる名所だったのです。

小野の滝

滝の落差はおよそ20mでそれなりに見栄えはします。滝の姿は昔から変わっていませんが、中山道は国道へと変貌し、明治43年には滝の上に鉄道が架けられました。この橋脚もンクリートなどの使用を最小限にとどめ、石積みを用いて風情を残す工夫をしているようです。

こんな滝があるところには、えてして茶屋かお土産屋があるのですが、19号線に面して位置する有名な滝にしては観光客をもてなすようなものは何もありません。

小野の滝から500mほど歩くと、荻原という小さな集落の入口にさしかかります。その入口からは19号から分岐するように左手へと細い道筋が延びています。本当に小さな集落ですが、入口の隅に置かれているのがお江戸から73番目の「荻原の一里塚跡」です。

荻原一里塚跡

街道時代には立場が置かれていたと思われます。集落の中には二十三夜の石碑が並んでいます。
また、可愛らしい水場が設置されており、現代の旅人たちが喉を潤せるような水飲み場として提供されています。

19号線から分岐して荻原集落の中を貫く道筋はあっという間に終わり、再び19号線に合流します。まっすぐに延びる19号線に沿ってしばらく歩くことになりますが、街道沿いには山並みが連なり、なんとも長閑な雰囲気を醸し出しています。





荻原集落から再び19号線に合流し、荻原沢に架かる橋を渡ると、左手に入る道が現れます。
この左手に入って行く道筋が木曽古道と呼ばれています。

私たちはそのまま19号線に沿って直進していきます。このまま19号線に沿って歩くのは、すこし飽きるなと思うころ、旧街道は再び19号線から分岐します。

3日目の行程はそれほど起伏がなく、しかも7㌔ちょっとの距離ということで安心してしまうのですが、ここから先はほんの少し勾配を高めていくような坂道へと変ってきます。

そんな分岐点に中山道の標が置かれています。
その道筋に入って行くと、すぐにJR中央本線のガードをくぐります。ガードをくぐると、すぐ右へ折れ、そのまま直進して行きます。

19号線に沿って歩くよりは、むしろ街道歩きをしているという趣を感じる道筋になります。
道は徐々に勾配を高め、坂道もほんの少しきつくなってきます。
やがて道は木々が茂る森の中へと入って行きます。木々の間から木曽川の流れとその向こうの山並みがパノラマのように広がります。
そんな道筋を進んで行くうちに、民家が3,4軒ほどしかない小さな集落が現れます。

民家を過ぎると、それまで舗装されていた道がなくなり、民家の庭先へ入って行くような土道へと変ります。ほんとうに入っていっていいのか、と一瞬迷います。というより、この道は本当に旧中山道なのかと疑心暗鬼に陥る瞬間です。



しかもここまで来て、引き返すわけにもいきません。意を決して、土道へ入って行くと道幅は草に覆われ、ますます細くなっていきます。それでも人が歩いたあとがあるので一応は道になっていると認識できます。
そんなことを心配しながらあるいていきますが、周囲の景色は木曽の美しい山並みがどこまでも連なり、ほんとうに街道を歩いているんだ、という気持ちにさせてくれます。

私が歩いた頃には、この土道の脇にはちょうど食べ時の野生のワラビやゼンマイが繁茂していました。



かつての旧中山道の道筋のほとんどは現在の19号線に吸収され、その姿は大きく変わってしまっています。
私達が今歩いてきた道筋は古い中山道がかろうじて残った部分ではないでしょうか。
そんな道筋は緩やかな下り坂となり、再びJR中央本線のガードをくぐり19号線に合流します。

しかし合流してすぐに、旧街道の道筋は19号線から分岐します。
大きく蛇行しながら民家と中央本線の線路の間をすり抜けるように旧街道は進み、僅かな距離でまたまた19号線に合流します。

合流するところが上松立町という地名で、19号線を跨ぐ横断歩道橋が設置されています。
私たちはこの横断歩道橋を渡り反対側へと移動します。

立町の歩道橋

歩道橋を渡り、今度は19号から右手へと分岐する道筋へと入って行きます。



19号から再び分岐する道筋へと入って行くと、集落が現れます。立町集落と呼ばれています。街道時代にはここにも立場が置かれ、旅人たちの休憩場所になっていました。集落の民家にはときおり、当寺の屋号が掲げられていますが、古い家並みは残っていません。集落と言っても、コンビニがあるわけでもなく、普通の民家しかありません。

立町の家並

そんな立町の集落は木曽川の流れのすぐ脇に家々が連なっています。
集落を貫く街道を進んで行くと、ふいに右手に入る道が現れ、その向こうに橋の橋脚が現れます。
しかもこの橋は趣のある吊橋です。



橋の名前は「諸原橋」です。せっかくなので吊橋をほんの少し渡ってみることにしましょう。かなり頑丈にできているので、渡りはじめの頃はそれほどの揺れは感じません。
橋上からは木曽川の流れと河原一面の大きな石、そして連なる山並みがまるで絵のように迫ってきます。



立町集落を過ぎると、第3日目の終着地点の倉本駅までは500mほどの距離を残すだけです。
立町の集落を貫く道は再び19号線と合流します。横断歩道を使っていったん左側へと移動します。
この後は19号線に沿って、倉本駅へと進んでいきます。

倉本駅舎

倉本駅舎は19号線の左側の高台に置かれています。見る限り駅舎周辺には集落らしきものはないのですが、この駅を利用する住民はいるのでしょうか?もちろん無人駅です。
尚、当駅は寝覚・上松宿方面、あるいは三留野・妻籠に向かうのに便利なため、中山道を歩く現代の旅人にとっては使い勝手がいいようです。

本日の終着地点である倉本駅前に到着しました。上松駅前を出発して、7.3キロの歩行距離です。

木曽路十五宿街道めぐり(其の一)塩尻~洗馬
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木曽路十五宿街道めぐり (其の十一) 上松~寝覚の床

2015年08月18日 12時08分21秒 | 木曽路十五宿街道めぐり
上松宿は木曽11宿でちょうど真ん中の宿場であると同時にお江戸から数えて38番目の宿場町です。江戸時代には宿場よりも材木の集散地として栄えたところです。しかし木材産出の町の宿命というか、これまでに多くの大火を経験しており、昭和25年の大火では、町役場を含め600軒以上が類焼しています。 

上松宿の宿内の距離は五町三十一間(約540m)と比較的短い距離の宿場ですが、宿内の本町、仲町、下町も被害を受け、原脇本陣や塚本脇本陣を始め、ほとんどの建物が燃えてしまいました。

このため宿場らしい雰囲気や風情を感じることなくあっというまに通りすぎてしまった感があります。

さあ!第2回の木曽路15宿街道めぐりが始まります。本日の起点はここJR中央本線の上松駅前から寝覚の床を経由してJR中央本線の倉本駅前までのおよそ7.3キロの道程です。

上松駅前



駅前とはいえ、ガランとした感じで高層ビルは全くなく、空が大きく見えます。私たちは昨日辿った上松のメインストリートへ向かうことにします。駅前からまっすぐに延びる道を進み、広小路の信号交差点を右へ曲がります。

木曽の山の中の小さな町「上松」は赤沢自然休養林が近隣にあるため、当駅を拠点に見学に訪れる方が多いようです。そんな拠点駅であるが故に、駅前には観光案内所が設けられ、こんな小さな駅にもかかわらず客待ちのタクシーも数台並んでいます。
私たちはそんな上松の町を歩きながら、下町の交差点へ進んで行きます。
道筋は下町の交差点の先の横断歩道橋の脇の細い坂道へと向かいます。



スロープ状の坂道を上りながら、ふと後ろを振り返ると上松の町並みが眼下に広がっています。



この細い坂道を上りきると、下町の交差点から迂回してやってくる道に合流します。
そしてゆるやかな上り坂を更に進むと、四つ角にさしかかります。その四つ角を渡った左側には上松小学校の校舎が現れます。
小学校の角には「斉藤茂吉の歌碑」が置かれ、小学校の正門へとつづく短い坂道を上ると藤村の文学碑が置かれています。

藤村文学碑

茂吉の歌碑には「駒ヶ嶽見て そめけゐを背後にし 小さき汽車は 峡に入りゆく」と刻まれ、藤村の文学碑には藤村が愛誦していた芭蕉の西落堂の記の一節を自ら書いたといわれる文学碑で「山は静かにして性をやしない、水は動いて情をなぐさむ」と刻まれています。

小学校の正門を過ぎ、ほんの僅かな距離を進むと、左手に幟が見えてきます。幟には「五社神社」の文字が染められています。その幟が立つちょっと手前に木の枝に隠れるように「尾張藩材木役所御陣屋跡」と刻まれた石碑と説明板が置かれています。

尾張藩材木役所御陣屋跡

五社神社幟

上松は木曾五木の産地ですが、江戸時代に尾張藩の領地になりました。寛文五年(1665)に藩直属の材木役所が設けられ、木曾五木は山林奉行の厳しい監視下に置かれました。 
役所は南北180m、東西100m、敷地面積は10000㎡強あって、その中に奉行所、奥長屋などがあり「上松の御陣屋」とも呼ばれていましたが、明治に入り廃藩置県によって御陣屋は廃止されました。その陣屋跡の一部が現在の上松小学校になっています。

木曽五木(きそごぼく):木曽節にも唄われた、木曽の五種類の銘木です。
木曽の山々は、古くから優秀な木材を産出することで知られていましたが、江戸時代の初期に城下町の建設などで濫伐が進み、荒廃してしまいました。このため、当時木曽の山を管理していた尾張藩により「木一本、首一つ」といわれる厳しい保護政策がとられました。その際伐採が禁止され、保護された5種類の樹木がいわゆる「木曽五木」でした。
①木曽ひのき ②さわら ③ねずこ ④ひば ⑤こうやまき

そしてこの御陣屋跡碑の傍に諏訪神社の鳥居があり、石段を登って行くと、上松小学校のグランドが広がっています。なんとグランドを横切った向こうに諏訪神社と五社神社の社殿が置かれています。
向かって正面が諏訪神社で、左側に置かれている社殿が五社神社です。

諏訪神社

五社神社

五社神社は江戸時代には、中山道沿いに建っていた材木役所の中庭にあったそうですが、明治4年、材木役所が廃止された時、諏訪神社境内に移されたものです。天明年間に時の材木奉行が、木曽山川の安全と働く人々の無事故を願って建立したもので、木材役所の名残といえるものです。

この辺りは上松の高台に位置しているため、街道の右手は下り坂となり、谷間を越えた向こうに山並みが連なっています。

上松小学校を過ぎて、街道を進んでいくとやがて道筋は下り坂へと変ります。



坂を下ると、中沢に架かる中沢橋にさしかかります。まだ住宅街がつづきますが、周囲の景色は徐々に変化してきます。
歩き始めて1キロを過ぎると、道筋の前方が開けてきます。ここから1km先に有名な「寝覚の床」があります。

上松の町からさほど離れていない場所なのですが、日本の原風景といった美しい山並みが目の前に現れます。
木曽川は遥か右手を流れており、その姿を見ることができませんが、道筋は徐々に寝覚の床へと向かっています。





上松の駅前を出立して僅か1.8キロで寝覚の床への入口にさしかかります。
そんな場所に古めかしい家が2軒仲良く並んでいます。
街道時代にはここ寝覚の床には立場が置かれ、旅人達の休息の場所として賑わっていました。
手前の建物は「たせや」で街道時代は立場茶屋・多瀬屋の商号で商売をしていた店で300年もつづく老舗です。

街道側から見る姿からはそれほど奥行がないのかな、と思うのですが、方向を変えてみるとかなり奥行のある建物です。
その建物の脇に薪が積まれ、白い障子窓が美しいコントラストを見せ、家の前に置かれた赤い郵便ポストが時代を感じさせてくれます。

たせや

そして路地を挟んで建つもう一つの古めかしい建物は「越前屋」で国内では三番目に古い蕎麦屋と言われています。
昭和41年ころまでこの場所で蕎麦を供していましたが、現在は19号線沿いに移転して営業を続けています。

越前屋

この越前屋は藤村の小説「夜明け前」にも登場します。

「木曽の寝覚で昼、とはよく言われる。半蔵等のやうに福島から立ってきたものでも、あるひは西から来たものでも、昼食の時を寝覚に送ろうとして道を急ぐことは、木曽路を踏んで見るもののひとしく経験するところである。そこに名物の蕎麦がある。 春とは言ひながら石を載せた板屋根に残った雪、街道の側み繋いである駄馬、壁を泄れる煙 - 寝覚の蕎麦屋あたりもまだ冬籠りの状態から完全に抜けきらないやうに見えてゐた。半蔵は福島の立ち方がおそかったから、そこへ着いて足を休めやうと思ふ頃には、そろそろ食事を終って出発するやうな伊勢参宮の講中もある。 
黒の半合羽を着たまま奥の方に腰掛け、膳を前にして、供の男を相 手にしきりに箸を動かしてゐる客もいる。その人が中津川の景蔵だった。」と、この蕎麦屋「越前屋」のことを書いています。

「たせや」「越前屋」まで約1.8キロを歩いてきました。この先、本日の終着点である倉本駅前までは5.5キロです。ただこの先にはトイレ休憩をする場所がまったくありません。
このため、寝覚の床でトイレ休憩をせざるを得ません。それでは路地を下ってセブンイレブンへと向かうことにします。

「寝覚の床」は木曽八景の一つで、大正13年(1923)に史跡名勝天然記念物 に指定されました。「木曽八景・寝覚の夜雨」としてあまりに有名なので、多くの文人墨客が訪れているところで、その昔は中山道を歩く旅人の憩いの場として賑わい、現在は観光スポットとして多くの客が訪れています。

寝覚の床
 
約1.5㎞にわたって象岩や烏帽子岩といった奇岩が連なり、吸い込まれそうンエメラルドグリーンの水と白い岩、連なる山並みの木々の緑が見事に調和しています。

浦島太郎と寝覚の床
寝覚の床は風光明媚な景勝地として知られていると同時に、浦島太郎伝説(竜宮伝説)が伝わる場所としても知られています。
浦島伝説又は竜宮伝説は日本各地にあります。
ここ寝覚の床は竜宮城から戻った浦島太郎が玉手箱を開けた場所といわれ、中央の岩の上には浦島堂が建っています。
尚、臨川寺は浦島太郎が使っていたとされる釣竿を所蔵しています。

ところで東海道を旅している途中、武蔵野国の横浜市神奈川区にも「浦島太郎伝説」が残っていることを覚えているでしょうか?神奈川区の浦島伝説では太郎は相模の国の三浦にいた浦島太夫の息子という設定です。

太夫は仕事のため丹後国に赴任しているときに、あの亀にめぐりあったのです。
亀を助けた太郎が竜宮城へ召され過ごしたのは、全国に散らばる浦島伝説と同じです。
しかし、神奈川版では竜宮から帰った太郎は玉手箱を開けてしまいます。白い煙に巻かれ、あっという間い老人になってしまった太郎は自分の両親の墓が武蔵野国の白幡にあることを聞いたのです。白幡とは現在の子安辺りです。
やっとことで両親の墓を見つけた太郎は場所に庵をつくり、竜宮から持ち帰った聖観世音菩薩を収め、そこに住んだと言われています。そしてその庵が後の観福寿寺です。しかし、観福寿寺は明治になって廃寺になり、観世音菩薩は浦島寺と呼ばれている慶運寺に安置されています。

白幡の庵に住んだ太郎はその後、放浪の旅にでます。それが木曽路なのですが、木曽路を歩いていると木曽川の畔に美しい場所を見つけました。木曽川の美しい流れの中に奇岩が連なっています。この世のものとは思えないほどの景観に、太郎がこれまでに経験したことが「夢」であったと自覚し、長い夢から現実に戻されたといいます。これが夢から覚めた場所であることから「寝覚の床」と言われる所以です。

木曽路十五宿街道めぐり(其の一)塩尻~洗馬
木曽路十五宿街道めぐり(其の二)洗馬~本山
木曽路十五宿街道めぐり(其の三)本山~日出塩駅
木曽路十五宿街道めぐり(其の四)日出塩駅~贄川(にえかわ)
木曽路十五宿街道めぐり(其の五)贄川~漆の里「平沢」
木曽路十五宿街道めぐり(其の六)漆の里「平沢」~奈良井
木曽路十五宿街道めぐり(其の七)奈良井~鳥居峠~藪原
木曽路十五宿街道めぐり(其の八)藪原~宮ノ越
木曽路十五宿街道めぐり(其の九)宮ノ越~木曽福島
木曽路十五宿街道めぐり(其の十)木曽福島~上松
木曽路十五宿街道めぐり(其の十二)寝覚の床~倉本駅
木曽路十五宿街道めぐり(其の十三)倉本駅前~須原宿
木曽路十五宿街道めぐり(其の十四)須原宿~道の駅・大桑
木曽路十五宿街道めぐり(其の十五)道の駅・大桑~野尻宿
木曽路十五宿街道めぐり(其の十六)野尻宿~三留野宿~南木曽
木曽路十五宿街道めぐり(其の十七)南木曽~妻籠峠~妻籠宿
木曽路十五宿街道めぐり(其の十八)妻籠宿~馬籠峠~馬籠宿
木曽路十五宿街道めぐり(其の十九)馬籠宿~落合宿の東木戸
木曽路十五宿街道めぐり(其の二十)落合宿の東木戸~中津川宿



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