大江戸散策徒然噺 Introducing Japanese culture and history

豊かな歴史に彩られた日本の文化と歴史を紹介

日光街道脇に残る江戸民家の長屋門

2012年02月14日 15時23分36秒 | 足立区・歴史散策
足立の西新井駅からさほど離れていない旧日光街道の傍らに、周囲の景色にそぐわない、古めかしい建造物を見つけました。遠目からみてもかなり年代ものといった風情を醸し出し、異様とまでは表現できないまでも長い歳月を経て、頑固なまでにその存在感を誇示しているかのような風貌を感じる歴史的な建造物なのです。徳川家ゆかりの国土安穏寺からすぐの所です。

長屋門

足立区以外の都内ではとんとお目にかかったことがない建造物であることは確かなようです。創建は江戸時代の文政4年といいますから今からおよそ190年前のものなのだそうです。

実はこの建造物は武家の屋敷のものではなく、文政の時代にこの辺りを治めていた名主の屋敷に構えていた長屋門であったのです。

長屋門

現在、この辺りの地名は「島根」と呼ばれていますが、お江戸の時代には日光街道沿いに開けた田畑が広がる村落があったのでしょう。その村落の名が当時は島根村と呼ばれ、その長がここに住んでいたわけです。この長屋門を調べていると、当時ここに住んでいた名主の名前が「牛込氏」と言い、この牛込氏は通称「金武様」と呼ばれていたようです。

金武様の意味を調べているのですが、いまひとつ判りません。「金」が付されていることから想像するに島根村の大金持ちの名主だったような気がします。

この牛込氏は幕末期にはなんと島根村の8割を占める大地主であったと言われています。余談ですが、この長屋門から竹ノ塚へ向かう途中、ちょうど旧日光街道から分岐する奥州街道古道の道標がある場所に、それはそれはお城のような豪邸を見つけました。門構えはまるで武家屋敷のようなこの豪邸の持ち主が、前述の大地主である(おそらく今も大地主ではないかと思います)牛込氏の「館」だったことを思い出しました。また、この豪邸のすぐ側に社を構える氷川神社の玉垣には牛込氏の名前がでかでかと刻まれていました。

尚、この長屋門は現在は赤羽氏が屋敷とともに買い受け、所有者は変わっているようです。しかし、お江戸の時代であっても、島根村のお百姓さんたちが気軽に名主さんに会いにこれないような門構えのような印象を受けてしまいました。

東海道五十三次を描いた絵師「初代安藤広重」が眠る寺・東岳寺
天下長久山・国土安穏寺~旧日光道中脇の徳川家ゆかりの名刹~
「やせ蛙負けるな一茶是にあり」縁の寺「炎天寺」は源氏とも深い関係が…
お江戸庶民の厄除け祈願大師・西新井大師総持寺



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お江戸庶民の厄除け祈願大師・西新井大師総持寺

2012年02月13日 13時27分46秒 | 足立区・歴史散策
竹ノ塚駅から楽しむ一駅散歩の終着点はなんといっても足立を代表する名刹「西新井大師総持寺」でしょう。創建は826年、弘法大師様により創建された古刹で、西新井大師とよばれる謂れは本堂の西側に「加持水」の井戸があったことによります。

西新井大師大本堂

一駅散歩とはいえ結構な距離を歩いたように感じます。大師様の最寄の駅は東武伊勢崎線の西新井駅から分岐する大師線の「大師前駅」となります。川崎大師しかり、柴又の帝釈天しかりでたくさんの参拝客のために本線から分岐させて支線を敷設したため、大師線は西新井駅からわずか一駅しかありません。

地の利がわからず、まずは大師前駅へと足を進めることにしました。近代的な駅舎を横目で見ながら参道口方向へ進むと、ようやく門前町らしい雰囲気が漂ってきます。その道すがらやけに目立つのが「せんべい」を売る店なのですが、どこの門前町でも目にする光景です。

参道と山門

そんな通りを抜けて進むと山門へと通じる参道入口へとさしかかります。遠目に山門が構え、その山門に通じる参道脇には参詣客向けの土産屋や名物の「草だんご」を売る店が並んでいます。

「草だんご」と聞くと、柴又の帝釈天の草だんごがあまりにも有名なのですが、どちらが元祖、本家なのか聞いてみたいものです。

余談ですが、実は「男はつらいよ」はここ西新井大師を舞台に映画撮影をすることを予定していたらしいのですが、なんとも残念なことにお寺から断られてしまったようです。そのため葛飾の柴又帝釈天が選ばれ、今となって「寅さん」ゆかりの門前町・柴又の帝釈天として日本全国に知れ渡るようになったのはラッキーといってもいいのではないでしょうか。もし西新井大師が寅さんの舞台であったならば、参道脇の団子屋さんがきっと有名になっていたのかもしれません。

団子屋さんの呼び込みを振り切りながら、大師様の堂々とした山門前に進んできました。冬の低い西日が届かない山門は澄みきった青空を背景にしてシルエットのように浮かびあがっています。この山門は江戸後期に建てられたもので、山門両脇に金剛力士像が祀られています。

山門

山門をくぐり参道を進むと正面に見上げるように構えるのが大本堂です。堂々としたその姿は境内の中でひときわ存在感を示しています。

境内には大本堂の他に塩地蔵の祠、六角観音堂、不動堂、鐘楼堂、光明殿などの諸堂が配置されていますが、その中でも最も興味深い建造物が「三匝堂(栄螺堂)」です。

六角道
鐘楼堂
光明殿
光明殿

一般的に「さざえ堂」と呼ばれている建造物なのですが、現存しているものは日本全国でも数少なく、かなり貴重なものなのです。もちろん都内で現存する唯一のものです。

三匝堂(栄螺堂)
三匝堂(栄螺堂)

さてこの「三匝堂(栄螺堂)」ですが、江戸時代に深川(現在の西大島)の羅漢寺にその起源をもつもので「さざえ」と名付けられていることから、お堂内部の造りが「さざえ」のように螺旋状の階段で結ばれ、堂内に安置されている数多くの大師像、仏像を拝みながら巡ることができるようになっています。現存する他の「三匝堂(栄螺堂)」と比較すると、まるで三重の塔のように見えますが、これは塔婆建築ではなくいわゆる「三匝堂(栄螺堂)」に分類されるものです。尚、この「三匝堂(栄螺堂)」は江戸期の天保時代にその建立の起源が記述されていますが、現在のものは明治時代に再建されたものです。また残念ながら、現在内部を拝観することができませんでした。

弘法大師様のご利益もさることながら、めったに見られない「三匝堂(栄螺堂)」の姿を間近に見ることができたことに満足し、今回の足立散策の〆といたしました。

日光街道脇に残る江戸民家の長屋門
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東海道五十三次を描いた絵師「初代安藤広重」が眠る寺・東岳寺

2012年02月11日 14時02分41秒 | 足立区・歴史散策
日光道中の旅すがら、足は気の向くままに東武伊勢崎線の竹ノ塚駅前に到着。この竹ノ塚駅からさほど離れていない場所にあの東海道五十三次の錦絵を描いた浮世絵師「初代安藤広重」が眠る寺、東岳寺があるという。

東岳寺本堂

初代ということで、あの東海道五十三次を描いた正真正銘の安藤広重のことなのです。余談ですが広重の襲名者は全部で5人、すなわち五代にわたって広重の名は引き継がれていたのです。ちなみに五代目歌川広重は明治23年生まれで昭和42年に亡くなった方で、活躍した時期は大正から昭和にかけてのことで、それほど大昔の話ではありません。

話を元に戻し、初代安藤広重が生まれたのが江戸時代の寛政9年(1797)のこと。彼、広重の名声を決定づけたのが、ご存知の「東海道シリーズ」を発表した天保4年(1832)頃。これにより風景画家としての名声はゆるぎないものとなり、東海道シリーズのほかに「六十余州名所図会」、「名所江戸百景」などあまたの作品を世に残しています。

東岳寺山門

そんな初代安藤広重が眠る東岳寺は竹ノ塚駅から10分ほどの「尾竹橋通り」に面して山門を構えています。それほど目立たない造りの門構えに加えて、見るからに境内もこじんまりとしています。境内を俯瞰すると、小さな池が配され、その周りに木々が植えられているのですが、お寺のお庭というよりも何か雑然としたあまり落ち着かない雰囲気が漂っているように感じました。

そもそもこの東岳寺の開基は慶長18年(1614)浅草の鳥越であったのですが、大正12年の関東大震災の後、広重の墓も一緒に現在の場所(足立区伊興本町)に移ってきた歴史があります。

境内に入ると正面に比較的新しい造りのご本堂が見上げるように建っています。その境内の左手奥にしっかりとした造りの広重記念碑とその傍らに広重の墓が置かれています。やもすると記念碑の立派さから墓とみまがう恐れがありますが、墓石はみすぼらしい台座の上に一枚石を置いただけの目立たない存在で記念碑の傍らに佇んでいます。

広重記念碑

当寺が浅草鳥越にあった頃は、もう少し立派な造りの墓だったのではないでしょうか。当代きっての絵師の墓石にしてはなぜか寂しさを感じます。

一立斎広重墓

初代広重が亡くなったのは幕末の安政5年の9月6日、享年62歳。墓石には「一立斎広重」と名が刻まれていますが、この一立斎は彼の号で天保3年(1832)の頃にそれまでの一幽斎から改めてものだそうです。尚、歌川広重は彼がまだ若い頃の名で、歌川豊広門下時代のものです。

久しぶりに江戸時代の有名人の墓に遭遇できたことを良しとし、東岳寺を辞することにしました。

日光街道脇に残る江戸民家の長屋門
天下長久山・国土安穏寺~旧日光道中脇の徳川家ゆかりの名刹~
「やせ蛙負けるな一茶是にあり」縁の寺「炎天寺」は源氏とも深い関係が…
お江戸庶民の厄除け祈願大師・西新井大師総持寺



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「やせ蛙負けるな一茶是にあり」縁の寺「炎天寺」は源氏とも深い関係が…

2012年02月10日 14時44分31秒 | 足立区・歴史散策
徳川将軍家ゆかりの天下長久山・国土安穏寺から距離にして約2キロ弱に、またしても奇怪な山号を持つ寺があるのをご存知でしょうか?

炎天寺(左奥)と八幡神社(右)

その名も「炎天寺」といいます。その名前から「火」、「日」と何らかの由緒があるものと思いつつ期待しながら辿りつきました。

炎天寺山門
炎天寺本堂

そもそも当寺の創建は古く平安末期に遡ります。ちょうどこの頃、奥州安倍一族の反乱平定に趣くあの源頼義と八幡太郎義家父子の軍勢がこの地で野武士と戦い、苦戦を強いられることになったらしいのです。この苦境を脱するがために、頼義、義家父子はこの地から京の岩清水の八幡宮に戦勝を祈願したところ、そのご利益のためかようやく勝利を得ることができたと伝えられています。まあ~こんな話は関東には掃いて捨てるほど転がっていますが…。

八幡神社参道と枝をのばす松

そんなことで頼義、義家父子はすでに堂を構えていた寺の隣に八幡宮を建立し、併せてその時期が旧暦六月だったのでこの地を六月村と名付け、寺の名を源氏の白旗(幡)が勝ったので「幡勝山」そして戦勝祈願が成就したので「成就院」、さらにはこの時期の気候が「炎天」続きであったことから寺名を「炎天寺」に改めたという「嘘」のような「本当」の話が残っているのです。ということは炎天寺は頼義、義家父子が創建した「六月八幡神社」の別当寺としての寺格を有していたわけです。もちろん今でも炎天寺と八幡神社は同じ敷地内にあり「お隣さん」といった具合に寄り添っています。尚、現在でもこの炎天寺がある地名は「六月」と表示されています。

旗掛け松

そしてこの八幡神社入口には八幡神社縁の頼義、義家父子が源氏の白旗を立て掛けたと伝わるまるで臥竜のように枝を伸ばした松の木が残っています。この松を「旗掛け松」といい、その傍らにその由緒が立てかけられています。

何が本題かわからなくなってきましたが、ここ炎天寺はなんと江戸時代を代表する俳諧師の一人である「小林一茶」と浅からぬ関係があるのです。時は、あの浮かれきった文化が花開いた「文化」の頃、一茶はここ六月の地の炎天寺にやってきたのです。そしてこんな記述を残しています。「武蔵の国、竹の塚というに蛙たたかいありけるに見にまかる」と。炎天寺境内で「蛙たたかいありける」の様子を詠ったのが「痩蛙まけるな一茶是に有」の有名な句だというのです。

小林一茶像

この「痩蛙」の句に登場する二匹の蛙が相撲をとっている姿を表した小さな像が池の中に置かれ、まるで鳥獣戯画の中に登場する蛙のような風情を漂わせています。

蛙像
痩蛙…」の句碑

また炎天寺を詠った句には
「夏 蝉鳴くや六月村の炎天寺」
「むら雨や六月村の炎天寺」
などがあり、境内にはこれらの句を刻んだ句碑が置かれています。

まあ俳句、特に小林一茶がお好きな方であれば、ここ炎天寺は聖地みたいな場所なのでしょう。俳句音痴である私があれこれと言うのもはばかりますので、炎天寺についてはこのくらいにして筆を置かせていただきます。

日光街道脇に残る江戸民家の長屋門
東海道五十三次を描いた絵師「初代安藤広重」が眠る寺・東岳寺
天下長久山・国土安穏寺~旧日光道中脇の徳川家ゆかりの名刹~
お江戸庶民の厄除け祈願大師・西新井大師総持寺



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天下長久山・国土安穏寺~旧日光道中脇の徳川家ゆかりの名刹~

2012年02月10日 12時29分58秒 | 足立区・歴史散策
冬晴れの寒風の中、お江戸の風情を求めて千住大橋を渡り、隅田川東の西新井へと足をのばしてみました。千住大橋が架橋されたのは神君家康公の初入府から4年後の文禄3年(1594)に遡ります。架橋後は千住一帯は奥州街道の出発地点として宿場町が形成されていきます。そして日光東照宮の造営後は奥州街道は宇都宮までの区間が「日光道中」とその名前が改められ、千住は道中最大の宿場としてますます発展を遂げることになります。

仁王門扁額

そんな旧日光道中に沿って走る東武伊勢崎線沿線には隠れた古刹、名刹が多く点在しているのですが、今日は伊勢崎線の西新井駅から隣駅の竹ノ塚駅の間の「一駅散歩」ならぬ歴史散策を楽しむことにしました。

今日の散策は足立区の観光紹介ウェブページで紹介されているお勧めルートに沿って辿ることにしました。参考に下記にルートマップのURLをお知らせいたします。
http://adachikanko.jp/walk/nishiarai01.html

散策を始めるにあたってまず第一に興味を引いたのが、その寺号がやたらと仰々しく、且つ現在日本が置かれている世相や政治環境、更には地震、豪雪などの自然災害を鎮撫してくれそうな響きを持っている「天下長久山・国土安穏寺」という古刹だったのです。

降り立った西新井駅からは徒歩でものの10分程度の距離にあります。旧日光街道にほぼ面している場所に天下長久山・国土安穏寺は堂宇を構えています。路地を入るとまず目に飛び込んでくるのが、小振りの山門なのですが、朱の門扉には徳川家の金色に輝く葵のご紋が入っているではありませんか。

山門
山門扉の葵紋

まさか西新井で徳川家の金色に輝く御紋に遭遇できるとは思ってもみなかった私にとっては無上の喜びです。山門の扉は固く閉じられここから入門することはできません。

これは期待できると思いつつ進んでいくと、やおら左手に見事な仁王門が現れます。堂々とした朱塗りの門で金文字で「天下長久山」と書かれた扁額が当寺の権威を表しているようです。というのも江戸時代の初期に二代将軍秀忠公と嫡男家光公が鷹狩や日光参詣の折にしばしばこの地に立ち寄ったとき、当寺が御膳所となった由緒があり、更には徳川将軍家の祈願所でもありご位牌安置所という名誉を与えられていたことで「葵紋」の使用が許されたとあります。そのため境内にある建物のいたるところに「葵紋」を見ることができます。

仁王門
仁王門扁額
仁王門全景
仁王門扉の葵紋

当寺の開基は応永17年(1410)、日通聖人による開山でもともとは「長久山妙覚寺」と称していたようです。現在の寺号になったのは家光公の治世の寛永元年(1624)のことです。

方丈堂
ご本堂
ご本堂扁額

仁王門からの入山も許されていないので、脇の新しい門を入るとそれなりの広さの境内が目に飛び込んできます。前述のように徳川将軍家縁の寺ということで、何かその証となるものが境内にあるのではないかと見回すと、やはり期待通りに残っていたのが「家光公御手植えの松」ではありませんか。家光公の治世から400年以上を経過し、それなりに枝を伸ばしている松の木なのですが、浜離宮にある「三百年の松」に比べると、少し小振りかな、と思うのは私だけでしょうか。それでも見事な枝ぶりで境内の中でその存在感を十分に感じることができます。

家光公御手植之松の立て札
家光公御手植之松

境内の一角に当寺では一番古い建造物である鐘楼が置かれ、その脇に祖師堂が佇んでいます。その祖師堂の傍らに堂々とした恰幅の日蓮(祖師)の像が立っています。なんとこの像はあの有名な高村光雲の作だそうです。ちなみに当寺の宗派は日蓮宗で本山は中山法華経寺です。

鐘楼堂
祖師堂
日蓮像

旧日光街道の脇に堂宇を構える当寺は将軍家とただならぬ関係があったため、街道を旅する人々にとっては近づきがたい存在だったと想像します。多くの旅人たちは門前を通過する祭には頭を垂れ、馬上の侍たちも下馬し腰をかがめての道中ではなかったのではないでしょうか。

日光街道脇に残る江戸民家の長屋門
東海道五十三次を描いた絵師「初代安藤広重」が眠る寺・東岳寺
「やせ蛙負けるな一茶是にあり」縁の寺「炎天寺」は源氏とも深い関係が…
お江戸庶民の厄除け祈願大師・西新井大師総持寺



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