大江戸散策徒然噺 Introducing Japanese culture and history

豊かな歴史に彩られた日本の文化と歴史を紹介

私本東海道五十三次道中記 第33回・最終回 第2日目 髭茶屋から山科を抜けて京都三条大橋(その2)

2015年12月28日 10時25分11秒 | 私本東海道五十三次道中記
国道1号線と分岐して細い道筋へと入っていきます。この道筋の北側が滋賀県大津市追分町南側が京都市山科区髭茶屋屋敷町となり、私たちは滋賀県と京都府の県境を歩くことになります。 
少し行くと三差路があり、「伏見道(髭茶屋)」の追分にさしかかります。伏見道は伏見や宇治への道で、難波(大阪)に出る近道でした。
世間一般に言われる東海道53次の場合、髭茶屋追分から京都三条大橋へ向かう東海道を指しますが、東海道57次と言う場合は髭茶屋追分から伏見宿・淀宿・枚方宿・守口宿を経て大阪高麗橋へ至る街道が東海道となります。大津宿から伏見宿までは伏見街道(大津街道)、伏見宿から大阪までを大阪街道(京街道)とも呼びます。大名が京都に入るのを幕府が好まなかったので、参勤交代の時、大名は京都を避け伏見道を使ったのです。 

「東海道名所図会」に「追分ー村の名とす。京師・大坂への別れ道なり。札の辻に追分の標石あり」と書かれていますが、「みきハ京みち、ひだりふしミみち」と刻まれている道標は今も残っています。隣の「蓮如上人」の石碑には「明和三丙」と刻まれていましたが、途中で折れたものか?、かなり小さめです。 

その先の右側の「閑栖寺」の門前に「東海道 京三條 」と刻まれた道標車石が置かれています。



街道時代には東からやってくる旅人は逢坂の関を越えれば山城国へと入ります。その東海道の山城国入口に走井(はしりい)という清らかな水がこんこんと湧く井戸があり、平安時代から歌に詠まれるほどの名高い水だったのです。江戸時代になると東海道を往来する旅人が増え、走井の水で喉を潤す者も多かったのでしょう。街道沿いには走井茶屋と呼ばれる茶店が軒を連ね、名物の走り井餅を売っていました。

そして閑栖寺の門前に置かれている「車石」ですが、街道時代の頃、逢坂山は大量の荷物の輸送があったので牛馬車が使用されました。しかしあまりの急坂でその運搬には難儀していました。文化2年(1806)3月、京都の心理学者、脇坂義堂が車石を並べ、荷車が通行することを発案しました。そして近江商人の中井源左衛門が一万両の財を投じて大津から京三條まで、花崗岩にを刻んだ敷石(車石)を並べ、荷車が通行できるようにしました。
このあたりは車道と人道に分かれていて、京に向かって右側に車石を敷き左側に人や馬が通る道があった。と寺が作成した説明板にあり、当時の様子が描かれています。

一万両というお金は半端なものではないのですが、文化文政時代ごろから商人の経済力が強くなり、幕府に頼らず商人の手で行う動きがでてきたのです。この車石もその一つです。 
近くのお寺の庭にも車石が置かれていますが、これらの車石は道路工事で取り外されたのを残してきたもので歴史的には価値があるものです。この車石はこの先の道筋の数か所に無造作に置かれています。

この先の横木一丁目で旧道はいったん国道1号線によって分断されます。東海道は国道1号を渡った向こう側に続いているので大きな横断歩道橋を渡り、その道筋へと進んでいきます。橋上からはすぐ下を走る国道1号線の広い道幅と遠くに見える山並みの景色が楽しめます。そして御横断歩道強を渡ったところで逢坂を越えたことになります。

歩道橋からの眺め

陸橋を渡って、少し行ったフレスコというマーケットの手前の角に「三井寺観音道」と刻まれた大きな道標が置かれています。三井寺は長等神社の隣にあり、天皇家の崇敬を受け、大きな敷地を有する門跡寺院です。三井寺観音道は長等神社の脇から小関越をする道で、ここが京側の追分(分岐点)です。北国街道を利用する旅人にはこの道が近道だったのです。



このあたりは横木一丁目でまだ大津市の領域で、四ノ宮町に入ると京都市山科区に地名は変ります。ところどころに古い家がありますが、地下鉄東西線の開通によって山科周辺の景観は大きく変わってきました。山科に入ってくると道筋には住宅街がつづきます。道筋が狭くなってくると、京阪電気鉄道の四宮駅入口の信号交差点にさしかかります。車の往来がやたら多く、歩くのに難儀します。一応、駅前らしく賑やかになってきます。

四宮駅入口の信号交差点を渡り、その先の左側にあるローソンを過ぎると、街道の右側に二つの石柱を置いた「徳林庵」があります。

徳林庵

「南無地蔵尊」と刻まれた石柱は京都六地蔵の一つで、山科地蔵(四宮地蔵とも山科廻り地蔵ともいう)のことで、地蔵尊はその奥の六角堂に安置されています。
六地蔵とは後白河天皇は都の守護、往来の安全や庶民の利益結縁を願い、小野篁(おののたかむら)により仁寿2年(852)に作られた六体の地蔵尊像を平清盛、西光法師に命じ、保元2年(1157)に京都の入口に当たる街道筋に安置させたものです。

京都ではこの街道筋に置かれた六地蔵を巡る「六地蔵めぐり」という行事があるようです。毎年8月22日、23日の両日に行われているもので、6か所のお寺で授与される「六種のお幡(おはた)」を自宅の入口に吊るすと、厄病退散、福徳到来のご利益があると言われています。

徳林庵から少し歩いていくと街道右側に「瑞光院」の標が置かれています。街道からはかなりそれた場所に堂宇を構えているので行くことはできません。慶長18年(1613)、因幡国若桜藩主、山崎家盛により浅野長政の旧蹟に創建された寺で、山崎家が無嗣により断絶すると赤穂浅野家の祈願寺となります。 

元禄14年(1701)3月、浅野長短は吉良上野介に刃傷し、浅野家は断絶。同年8月、大石良雄は当寺に浅野長短の衣冠を埋め、亡君の石塔を建立し、墓参の都度、同志との密議が当寺で行われました。更に元禄15年12月の赤穂義士による吉良邸討ち入りが行われ、本懐を遂げた後、義士四十六士の髻を寺の住職が預かり、主君の墓の傍らに埋めました。これが遺髪塚です。ようするに赤穂義士のゆかりの寺なのです。



道筋はまもなく京阪山科駅、JR山科駅前にさしかかります。駅前は綺麗に整備され、洗練された雰囲気を漂わせています。駅へと通じる山科駅前交差点にさしかかると、進行方向左角に大丸の大きなビルが構えています。
右側の「エスタシオデ山科 三品」というマンション前に「東海道」の道標と車石が置かれています。山科駅前交差点を右へ行けば京阪電気鉄道の京阪山科駅、そして隣接してJR山科駅があります。
そして山科駅前交差点を越えたRACTOビルの植え込みに「明治天皇御遺蹟碑」が置かれています。

らに進むと少し行くと「五条別れ道」道標(Ⓒ地点)が置かれています。標の北面には「右ハ三條通」、東面には「左ハ五条橋 ひがしにし六条大仏 今ぐ満きよ水道」、南面には「宝永四丁亥年十一月」、西面には「願主・・・ 」と刻まれています。ここ五条別れ道道標から京都三条大橋までは約6㎞程の距離です。

JR石山駅からここまで約13キロを歩いてきました。お腹もすいてきたころなので、昼食をとることにしましょう。本日の食事処は街道からほんの少し逸れた場所にある「和食さと」です。五条別れ道から細い道筋に入り、京都薬科大学のキャンパスの縁を通って三条通へ出て「和食さと」へ向かいます。

食事を終えてから、再び五条別れ道の道標に戻り、旧街道へ入っていきます。



五条別れ道の道標で再び旧街道に合流します。このあたりにくると山科駅前の賑やかさはなくなり、閑散としてきます。
道筋を進んで行くとこの先で信号交差点にでてきます。ここで三条通と合流します。三条通とあることから、この道筋を辿っていけば私たちが目指す京都三条大橋へ到着します。ただし、私たちはこの先でこの三条通とお別れして、東海道中で最後の峠越えをするため、旧街道筋へと入っていきます。

三条通はこの先でJRのガードをくぐります。このまま東海道筋へと進んで行くためには、ガードをくぐったらすぐの信号で三条通を渡って左側へと移動してください。移動すると左へとのびる道の入口に「冠木門」が置かれていますが、この道筋は旧東海道ではないので、進入しないでそのまま直進してください。

私たちはJRのガードをくぐったら、そのまま三条通の右側を進んでいきましょう。というのも、この辺りの地名には「御陵……町」と表示されているのに気がつくはずです。この「御陵……町」というのは、この地域に「天智天皇陵」があることに由来しています。ちなみに「御陵」の読みは「ごりょう」ではなくて「みささぎ」と読みます。

せっかくなので、至近にある天智天皇陵へご案内いたしましょう。三条通に面して右手に長く伸びる幅広い参道への入口がすぐに現れます。ここが天智天皇陵の入口です。

天智天皇は中大兄皇子と呼ばれていたころ、蘇我氏を滅ぼし大化の改新(645)という政治改革を行ったことで知られています。
そして西暦667年に中大兄皇子は都を大和の地から近江大津へと移し、この大津宮で正式に即位し39代天皇となりました。
尚、天智天皇崩御に起きた壬申の乱で大海人皇子が大友皇子に勝利して即位し天武天皇となりました。

天智天皇陵参道
天智天皇陵参道

綺麗に整備された参道を辿ること約400m進むと、御陵手前まで行くことができます。凛とした空気が流れ、鬱蒼とした木々に覆われた参道を進むと、気持ちが引き締まる思いがします。

参道が途切れると、前方に玉垣で囲まれ、その玉垣の中に鳥居が立つ御陵が現れます。街中の喧噪や騒音から隔絶され、深閑とした空気に包まれています。大津近江京で西暦672年に崩御された天智天皇はここ山科陵に1300年以上にわたって眠っています。

天智天皇陵
天智天皇陵

御陵の参拝を終え、三条通を渡り、旧東海道筋へと進んでいきましょう。そして三条通から左へと分岐する細い道筋へと入って行きます。ほんとうにこの道筋でいいのかと疑ってしまうような道筋ですが、気にせず道なりにまっすぐ進んで行きましょう。左側に畑が一部残るところを過ぎると御陵岡町の住宅地に入ってきます。その先は日の岡地区で、大乗寺への案内がある先の交差点を越えると、旧街道の道筋は上り坂に変わっていきます。
ここが東海道中で最後の峠越えで、峠の名前は「日ノ岡峠」といいます。

この期に及んで、また登り坂が始まります。それもちょっとキツメの坂です。東海道は最後の最後まで難所がつづきます。簡単には三条大橋に辿りつけないんですね。さあ!最後の胸突き八丁の坂を登っていきましょう。
この坂道は日ノ岡峠に通じる道筋で、現在は一応自動車も通れますが、昔は石ころや窪みのある悪路で牛車や荷車の難所だったといいます。
木食上人(もくじき)はこの峠道の改修に心血を注いて、元文3年(1738)から3年がかりで安心して通れる道を完成させました。坂を登った左側に「亀水不動尊」があります。木食上人は峠の途中のこの場所に道路管理休息を兼ねた木食寺梅香庵を結び、井戸水を亀の口から落として石水鉢に受け、牛馬の喉の渇きを癒すと共に旅人に湯茶を接待したといいます。



その先の北花山山田町の敷地の一角に二条講中が建てた「妙見道道標」、その隣に「右かざんいなり(花山稲荷)道」の道標が並んで置かれ、左の小さなお堂の脇には石仏群が祀られています。車一台がやっと通れるくらいの一方通行の狭い道を進んでいきます。しかし往来する車が多いので注意しながら歩いていきましょう。そして大乗寺までがキツイ登り坂です。ここを過ぎると道筋は平坦になります。

私たちが辿るこの日ノ岡峠は京都の東に連なる「東山」を登る坂道なのです。ご存じのように京都は周囲を山で囲まれた盆地の中の街です。ということはこの山を越えてこなければ京都市内へに入れないということなのです。

旧街道は大乗寺からおよそ600m強ほど進むと下り坂となり、右手からくる県道(三条通り)に合流します。合流地点の先にはちょっとした広場があり、大八車に米俵が乗せられたモニュメントとかつてこの場所に敷き詰められていた車石が展示されています。

大八車に米俵
車石

この合流地点から再び三条通に沿って進んでいきます。この先の九条山交差点を過ぎると前方に東山ドライブウェイの橋が見えてきます。そして標識には九条口とあります。三条通りを跨ぐ東山ドライブウェイをくぐると、道筋は一気に下り坂へと変わります。そしてこのまま京都市内へと入っていきます。



東山ドライブウェイは三条通りの左手の坂を上ると将軍塚に至ります。将軍塚は桓武天皇平安京の造営時、王城鎮護のため、征夷大将軍、坂上田村麻呂の土像を作り、 都(西方)に向けて埋めたと伝えられるところです。橋をくぐりぬけると日ノ岡坂の頂上で、坂を下ると左側に京都蹴上浄水場があります。

ここから地名は京都市山科区から東山区に変り、道の右側に「式内日向大神宮」の石柱が置かれています。日向大神宮は、顕宗天皇の時代に筑紫日向の高千穂の峯の神蹟を移したのが始まりとされ、天智天皇がこの山を日御山と名づけ、清和天皇が天照大神を勧請したといわれる神社で、延喜式にも記名があります。

そして右手には煉瓦造りの「蹴上発電所」の建物が見えてきます。蹴上発電所は日本で最初の商用発電所で、琵琶湖疏水の水を利用して水力発電を行いました。明治23年(1890)1月に工事を着工し明治24年(1891)の8月に運転開始しました。明治45年(1912)2月に第2期に工事が完成すると、最初の建物は壊されたといいます。従って、現在残る煉瓦造りの建物は第二期のものです。

坂を下ると地下鉄の蹴上駅があります。直進する道筋は仁王門通で、蹴上交差点から250mほど仁王門通を進むと、南禅寺前の信号交差点に達します。私たちは蹴上交差点で左へとカーブする東海道筋へと進んでいきます。そして街道左側にウエスティン都ホテルが現れます。



坂を下りきったあたりが粟田口で、「正一位合槌稲荷明神参道」の道標が建っていますが、このあたりに稲荷大明神の神助を得て、名刀、小狐丸を打ったと伝えられる「刀匠三條小鍛冶宗近」の家があったといいます。そして道の反対には粟田神社が社殿を構えています。 

三条神宮道交叉点にさしかかると右手奥に平安神宮のひときわ目立つ大きな鳥居が見えます。そしてこの交差点を左折して進むと知恩院へ至ります。私たちはこのまま直進していきます。

その先の白川橋交差点の少し手前の左側の「パーク・ウォーク京都東山」という賃貸マンションの角に「坂本龍馬・お龍結婚式場跡」の石柱が置かれています。

龍馬・お龍結婚式場跡碑

この石柱が置かれているあたりには、以前は青蓮院の塔頭である金蔵寺が堂宇を構えていたといいます。そしてお龍の父である楢崎将作は金蔵寺に仕える医師だったことで、お龍の家族は身を寄せていたようです。そんな縁で龍馬とお龍はこの金蔵寺で祝言をあげたそうです。ちなみに祝言は元治元年(1864)のことです。

白川橋の脇には、東面に「是よりひだり ちおんゐん ぎおん きよ水みち」、 南面に「延宝六戊午三月吉日  京都為無案内旅人立之  施主 為二世安楽」と刻まれた道標が建っています。

その先の東山三条交差点で東大路通を渡ると左側に「銘酢千鳥」という看板を掲げた村山造酢が店を構えています。村山造酢は創業から280年という老舗で、質のいい江州米と酒を使って食酢をつくり続けているといいます。江戸時代に建てられた醸造蔵を近代建築で囲い、京都市都市景観賞にも選ばれています。 

さあ!ここからゴールの三条大橋まではわずか500mです。鴨川に至る道筋はそれなりに賑やかさがあるのですが、本当の京都市内の華やかさはまだ感じられません。



街道右側に「茶懐石 辻留 出張専門 」という看板を掲げているのは明治35年創業の辻留で、裏千家お出入りの仕出し屋です。京都の料亭は板前を持たず、一流職人を抱える仕出し屋から料理を届けさせる習わしをもっています。 

街道左側に京阪三条駅の広場が見えてきます。京阪鉄道は出町柳まで線路を延伸した時、駅を地下化し、上は喫茶店とモダンな庭園にしています。さあ!前方に擬宝珠を冠した三条大橋がチラッと見えてきます。

街道右側に「浄土宗だん王」という石碑が建つ寺の正式名は朝陽山栴檀王院無上法林寺(ちょうようざん せんだんのういん むじょうほうりんじ) です。 

そして京阪三条駅の広場に置かれた「ひれ伏す武士像」は皇居(御所)を遙拝している高山彦九郎像です。高山彦九郎は延享4年(1747)、上野国新田郡細谷村(群馬県太田市細谷町)の生まれで、天皇を崇拝した勤王思想家です。高山彦九郎は松平定信をはじめとして幕府から常に監視下に置かれ、寛政5年(1793)、筑後国久留米の友人宅で46歳で自刃しました。林子平、蒲生君平と共に寛政の三奇人と云われた人物で、その後の幕末の勤王の志士達に大きな影響を与えたことで知られています。

さあ!鴨川手前の川端通りの信号を渡ると、夢にまで見た三条大橋です。日本橋からここまで126里余(約495キロ)を歩いてきましたが、東海道中の旅もこの橋を渡りきって、壮大な東海道中双六の旅もようやく「上り」となります。3年間の旅の想い出を頭に浮かべながら、三条大橋を渡って行きましょう。

広重三条大橋の景

現在の三条大橋は昭和25年に建設されたものですが、擬宝珠の中には豊臣秀吉が作らせたものもあり、また橋の西側から二つ目の擬宝珠には、池田屋騒動時につけられたとされる刀傷が残っています。なお池田屋は高瀬川に架かる三条子小橋の西側にあったのです。

擬宝珠の刀傷

橋を渡りきるとすぐ左側の狭いスペースに弥次喜多像が私たちの到着を出迎えてくれます。ほんとうに狭いスペースなので、人数の多いグループの場合、記念撮影をする際には往来の邪魔にならないよう十分に気を付けてください。

弥次喜多像の前で!

江戸時代の一般の旅人たちはお江戸日本橋からここ京都三条までおよそ12泊13日くらいで到着したといいます。これは道中、なんの問題もなく旅をした場合の日数です。おそらく当時であれば、季節にもよりますが、川止め、船便の欠航、悪天候などでその所要日数はかなり伸びたのではないかと想像します。

それでも当時の旅の手段は「足」しかなかったわけで、長旅の末にここ京都三条大橋に到着したときの達成感はひとしおであったと想像します。交通機関が発達した現在、新幹線であれば僅か3時間弱で東京から京都に来てしまいます。私たちはそんな平成の時代に約3年間を費やして五十三次の旅を楽しみました。そのコストと時間を考えると、とても贅沢な旅だったのではないでしょうか。東海道を完歩した感動の中で見る鴨川の流れはゆったりとし、悠久の時の流れを感じさせてくれる最高の場所です。

鴨川の流れ

さあ!三条大橋で精いっぱいの感動を味わってください。



2017年12月10日三条大橋にて

【編集後記】
私事ではありますが、齢60を過ぎて携わった「東海道五十三次街道めぐり」の旅は私の旅行人生の中で最も感動に満ちた経験を与えてくれました。仕事とはいえ、お江戸日本橋から京都三条大橋までの長い道のりの中で、見知らぬ土地での人々との出会い、その土地々の風土や歴史、さらには街道沿いに現れる数多くの史跡や歴史的建造物に触れられたことは、ガイドブックの文字からは到底得られない貴重な体験を得ることができました。

2012年4月から始まった第1回東海道五十三次街道めぐりは2015年3月に京都三条大橋に到着しました。そして第2回の東海道五十三次街道めぐりは2013年4月に始まり、2016年3月に再び、京都三条大橋に到着しました。さらに2015年4月に始まった第3回の東海道五十三次は2017年12月10日に京都三条大橋に到着しました。この間、コースの事前下見を含めて、なんと2000キロ以上を歩いたことになります。

長きにわたる旅でご一緒させていただいた多くの方々との楽しかった思い出と多くの感動は決して忘れることはありません。ありがとうございました。

◆東海道五十三次街道めぐり 完全踏破記念スタンプカード
日本橋から吉田宿まで

御油宿から京都三条まで


第3ステージの目次へ

私本東海道五十三次道中記 第33回・最終回 第1日目 草津宿から瀬田の唐橋を経てJR石山駅まで
私本東海道五十三次道中記 第33回・最終回 第2日目 JR石山駅から逢坂を下り髭茶屋まで(その1)





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私本東海道五十三次道中記 第33回・最終回 第2日目 JR石山駅から大津宿を抜けて逢坂を下り髭茶屋まで(その1)

2015年12月27日 15時04分15秒 | 私本東海道五十三次道中記
いよいよ私たちの東海道の旅はファイナルステージを迎えます。
3年前にお江戸日本橋を出立してから、武蔵、相模、伊豆、駿河、遠江、三河、尾張、伊勢、近江と辿り、その間に52宿の宿場町を訪ねてきました。そして旅は最終回を迎え、いよいよ53番目の宿場町である大津宿を経て、東海道中の終着点(西の起点)である京都三条大橋に到着いたします。

この3年間、季節を問わず双六の駒を一つ一つ進めるように東海道を進んできました。雨の日もありました。雪が舞う中を歩いたことがありました。そしていくつもの川を渡り、街道沿いに現れる宿場町の佇まいを眺め、街道を彩る土地々の風景を楽しんだことが走馬灯のように頭に巡ります。そんな懐かしい想いを胸に最後の行程を楽しく進んでまいりしょう。そして京都三条大橋での感動のフィナーレを迎えたいと思います。

※本日の歩行距離19.1㎞には東海道筋から逸れた場所に位置する琵琶湖畔の膳所城址膳所神社、更には山科の昼食場所である「和食さと」と京都御陵の天智天皇陵への往復の道程の距離が含まれています。



さあ!JR石山駅前を出立いたしましょう。京都に近い石山ですが、駅前はそれほど賑やかではありません。駅前からほんの少し歩くと松原町西の信号交差点にさしかかります。この交差点で旧街道筋に合流します。それではまずは東海道最後の宿場町である「大津宿」を目指すことにしましょう。



旧街道に入ると、すぐにJRのガードをくぐり線路の反対側へと移動します。すると道筋の左側にはNECの工場が現れます。この工場を回り込むように東海道筋はつづいています。石山駅の北側は商店街がほとんどなく、賑やかさはまったく感じられません。
かつてはこの辺りから右手一帯に琵琶湖を眺められたのではないでしょうか。

1キロほど行くと左側に朝日将軍と呼ばれた木曾義仲と乳兄弟だった「今井兼平(いまいかねひら)の墓」への道案内が置かれています。今井兼平の正式名は中原兼平(なかはらのかねひら)、父は中原兼遠、兄弟に四天王の一人である樋口次郎兼光、巴御前がいます。このあたりは「御殿浜」という地名ですが、江戸時代以前には粟津野(あわつの)と呼ばれており、平安時代に溯る古戦場だった場所です。

じつはここ粟津は朝日将軍と呼ばれた木曽義仲の終焉の場所なのです。

木曽宮ノ越の義仲と巴像

木曽の山中で武士団を結成した義仲は治承4年(1180)に京都の後白河法皇の三男である以仁王(もちひとおう)の令旨(呼びかけ)に呼応し平家追討の戦いに立上がります。そして横田河原の合戦、倶利伽羅峠の戦いで平家方を破り、寿永2年(1183)に京入りを果たしました。
しかし、翌年の寿永3年(1184)に鎌倉の頼朝の命で蒲冠者・範頼と義経が京都に攻め上がると、義仲は都落ちを余儀なくされます。当初、義仲は一人で北陸へ落ちのびるはずでしたが、途中で進路を変え、今井兼平が奮戦する琵琶湖の畔の粟津の地へと向かいます。義仲はこれまで自分を支えてくれた仲間と共に最後の戦いに臨みます。義仲の手勢は刻々と減り、敵軍に勝てる見込みはなくなります。そして兼平は最後まで義仲に従い、戦いつづけます。結局、負け戦の中で「自刃」をする準備をしますが、その時に敵の矢を受けて撃たれてしまいます。これを見た兼平も太刀を口にくわえ、馬から真っ逆さまに飛び降り、自決しました。そんな出来事があったのがここ「粟津」だったのです。

瀬田の唐橋を渡って膳所城下に入る手前は粟津ケ原と呼ばれた松原が続いていた場所で、すぐ右手の琵琶湖岸を通る東海道の沿道には美しい松並木がつづき、その枝越に琵琶湖比叡山を望む景勝地であったといいます。 
近江八景の一つ「粟津の晴嵐(あわづのせいらん)」もこのあたりですが、現在は湖が埋め立てられて、湖岸が後退し湖面を望むという風情を今は望むべくもありません。
晴嵐の信号交差点を過ぎると街道は狭くなり、左にカーブする道脇の新築の民家(森本宅)の前に「膳所城勢多口総門跡」の石柱が置かれています。
このあたりは、城下町らしく鉤形の道筋となり、道は右、左、右というようにかなり曲がりくねっています。 
左側にあった格子の家には珍しい「ばったん床几」が付いています。「ばったん床几」とは前に倒すと縁台になるものです。このあたりには若干ながら古い家が残っています。

ばったん床几のついた家



京阪電気鉄道の踏み切りを渡るとすぐ右側に鳥居が現れます。鳥居の奥に「若宮八幡神社」が社殿を構えています。

若宮八幡神社鳥居

表門は明治3年に廃城になった膳所城の「犬走り門」を移築した切妻造の両袖の屋根を突き出した高麗門で軒丸瓦には本多氏の立葵紋が見られます。

犬走り門

若宮八幡神社の創建は白鳳4年(675)、天武天皇がこの地に社を建てることを決断し、4年後に完成したとあり、九州の宇佐八幡宮に次ぐ古さという神社です。当初は粟津の森八幡宮といっていましたが、若宮八幡宮となり、明治から現在の名前になりました。

神楽殿

社殿は幾多の戦火により焼失したので、それほど古くありませんが、江戸時代の東海道名所図会に「粟杜膳所の城にならざる 已前、膳所明神の杜をいうなるべし」とあるのはこの神社のことです。

若宮八幡を過ぎると道は鉤形になり、ほぼ直角に右に曲がります。この辺りから先には神社や仏閣が集中する地域へと入って行きます。 

この先で再び京阪電気鉄道の瓦ヶ浜駅手前の踏切を渡りますが、この辺りには古い家がかなり残っています。ほぼ一直線の道筋を進むと、左側のマンションの隣に「篠津神社」の鳥居が立っています。鳥居をくぐり、奥に入ると篠津神社の表門が置かれています。この表門は膳所城の「北大手門」を廃城時に移設したものです。
広々とした境内の奥に本社殿が構えています。

篠津神社の北大手門
篠津神社の社殿

篠津神社の祭神は素戔嗚尊で、古くは牛頭天王と称した膳所中庄の土産神です。創建時期は明らかではありませんが、康正2年の棟札から室町時代にはあったと考えられ、宮家の御尊崇高く、膳所城主の庇護を受けたとあります。



「篠津神社」を過ぎると、道筋はまた鉤形となり、左へ直角に曲がります。ほんの僅かな距離を進むと、真正面に京阪電気鉄道の「中ノ庄駅」があります。そしてこの手前でまたまた道筋は鉤形となり、旧街道はまっすぐに延びています。
ちょうどこの辺りからの道筋に広重が描いた東海道の景がパネルにして置かれています。そんなパネルを見ながら狭い道を進んでいきますが、地名は本丸町と変ってきます。

街道の左側に長屋門を持つ大養寺が現れます。この長屋門は膳所藩の武家の屋敷門だったようです。

大養寺の長屋門

大養寺をすぎると信号交差点にさしかかります。左へ進むと「膳所神社」です。膳所神社の表門は明治3年(1870)に廃城になった膳所城から二の丸から本丸へ入る城門を移築した薬医門で、 国の重要文化財に指定されています。

膳所神社の表門
膳所神社社殿

膳所神社は天武天皇6年に大和国より豊受比売命(とようけひめのみこと)を奉遷して大膳職の御厨神とされたと伝えられる神社で、中世には諸武将の崇敬が篤く、豊臣秀吉北政所徳川家康などが神器を奉納したという記録が残っています。本殿、中門と拝殿の配置は直線上にあり、東正面の琵琶湖に向かって建っています。境内には「式内社膳所倭神所」と書かれた石碑があります。

そしてこの交差点を右へ進むと琵琶湖を望む「膳所城址公園(ぜぜじょう)」へ至ります。まずは「膳所城址公園」へ進むことにしましょう。膳所城址公園へは信号交差点から230mほどで公園入口に達します。

膳所城址公園入口
膳所城址公園

城址公園はちょうど琵琶湖に突き出すような場所にあります。ここに天守を構えていたことを考えると、遠目からみる膳所城はまるで琵琶湖の湖面に浮いているような情景だったのではないでしょうか?
膳所城址公園は「兵どもが夢の跡」のように、かつてここに立派な城があったことを想起することができないくらいに変貌してしまい、公園内に本丸の「天守閣跡」に石碑が置かれているだけです。膳所城は、徳川家康が大津城に替えて、慶長6年(1601)、瀬田の唐橋に近いこの地に藤堂高虎に縄張りを命じて、新たな城を築いた城で琵琶湖に浮かぶ水城として有名でした。

京都への重要拠点だったので譜代大名を城主に任命、初代は戸田氏、その後、本多氏、菅沼氏、石川氏と続き、慶安4年(1651)、再び本多氏となりそのまま幕末まで続きました。瀬田の唐橋を守護する役目を担った膳所城は琵琶湖の中に石垣を築き、本の丸、二の丸を配置し、本の丸には四層四階の天守が建てられた城だったのです。明治3年(1870)に廃城令が布告されると直ちに解体され、一部の門が神社に移築されましたが、その他は破壊され北側に石垣がわずかに残っているだけです。

【膳所城(ぜぜじょう)】
慶長5年(1600)大津で関ヶ原合戦における局地戦(大津城の戦い)があり、東軍方の京極高次が守備する大津城は西軍方毛利元康率いる大軍に包囲攻撃され、更に城西側の長等山から大砲を撃ち込まれたことで落城しました。城を守備する上での地理的なマイナス要因が露呈し、関ヶ原合戦の翌年に廃城となり新たに膳所城を築城することになり、縄張りは築城の名手といわれた藤堂高虎によるものです。当初は西の陸側から湖に向かって二の丸・本丸という配置でしたが、寛文2年(1662)の大地震で大きな被害を受け、当初の本丸と二の丸を合わせて新たな本丸とし、その南側に二の丸を配置する改修がなされました。

尚、園内には金沢第四高等学校の琵琶湖遭難事故を記念して植樹された桜の木が植えられています。

この遭難事故は昭和16年(1941)4月6日に起こった遭難(海難)事故なのですが、当時、春休みを利用してここ大津市に合宿していた金沢第四高等学校(現金沢大学)の漕艇部員8名と京都大学の学生3名を加えた11名が琵琶湖で漕艇中に、比良おろしの突風により転覆、遭難した事件です。
その後、この事故を悼む「琵琶湖哀歌」を東海林太郎と小笠原美都子が歌いましたが、メロディは「琵琶湖周航の歌」を借用したものです。

膳所城址をあとにして街道に戻り少し進むと、左側に「梅香山縁心寺」が堂宇を構えています。この縁心寺は膳所城主、本多家の菩提寺です。 

その先の「和田神社」の透かし塀に囲まれた「本殿」は一間社流造(いっけんしゃながれづくり)、 軒唐破風(のきからはふ)をつけるのが特徴で、国の重要文化財に指定されています。
桧皮葺きの屋根は安土桃山期に改築されたものですが、側面の蟇股は鎌倉時代の遺構と伝えられています。 
和田神社は白鳳4年(675)に祭神の高竈神を勧請し創建された神社で、古来から八大龍王社とか、正霊天王社とも称されましたが、明治に和田神社となりました。門は膳所藩校遵義堂(じゅんきどう)から移設されたものです。 

境内の銀杏の木は樹齢650年といわれる市の保護樹木で、 関が原合戦に敗れた石田三成が京都へ搬送されるとき縛られていた、という話が残っています。

和田神社を過ぎると道筋は斜め左手へ折れ曲がります。そしてこの先200mで右折し、響忍寺の周りを回わりこむように道なりに行くと西の庄に入ります。

響忍寺



小さな橋を渡るとすぐ左側に社殿を構えるのが「石坐(いわい)神社」です。

石坐神社鳥居
石坐神社社殿

石坐神社は大龍王社とか高木宮と称したこともありましたが、延喜式にも近江国滋賀郡八社の一つと記されている古い神社です。祭神に海津見神(わたぬみのかみ)を主神、天智天皇、弘文天皇、伊賀采女宅子(いがのうねめやかこ)・豊玉比古命(とよたまひこのみこと)、彦坐王命(ひこいますおうのみこと)など名だたる方々を祀っています。なんでも叶えてくれそうな方々ばかりです。本殿は文永3年(1366)とあるので、鎌倉期のもののようです。

道筋を進み法傳寺を過ぎると道筋がクランクしますが、街道右側に「膳所城北総門跡」の石碑が置かれています。この辺りが膳所城の北のはずれなので、膳所藩と大津陣屋領との境にあたります。 

徳川家康は慶長7年(1602)、大津城を廃城にしてその資材で膳所城を作らせ、大津を直轄地にして大津奉行(時期によって大津代官と呼ばれた)が支配する大津陣屋が置きました。これ以降、大津の町は宿場町として、また近江商人の町として発展を遂げることになります。

馬場1丁目に入ると国の指定史跡の「義仲寺(ぎちゅうじ)」があります。読んで字の如く、木曽義仲を祀るお寺です。

義仲寺

拝観料:大人300円
拝観時間:3月から10月:9:00から17:00 11月から2月:9:00から16:00
定休日:月曜日(お寺なのに定休日があるんですね)
☎077-523-2811

名所記に「番場村、小川二つあり。西の方の川をもろこ川といふ。川のまへ、左の家三間めのうらに木曾殿の塚あり。しるしに柿の木あり」と記されているところです。寺の由来書によると「寿永三年(1184)、源義仲は源範頼、義経の軍勢と戦い「粟津」で討ち死しましたが、しばらくして側室の巴御前が尼になって当地を訪れ、草庵を結び、義仲を供養したと伝えられています。

尼の没後、庵は無名庵(むみょうあん)、あるいは、巴寺といわれ、木曾塚、木曾寺、また義仲寺とも呼ばれたと、鎌倉時代の文書にあります。戦国時代に入ると寺は荒廃しましたが、室町時代末、近江守護、佐々木氏の庇護により寺は再建され、寺領を与えました。その後、安政の火災、明治29年の琵琶湖洪水などに遭いましたが、その都度改修され今に至っています。第二次大戦で寺内の全建造物が崩壊したので、現在の建物はその後のものです。

左奥の土壇の上に宝篋印塔を据えたものは「木曽義仲の供養塔」「木曾塚」ともいわれています。武勇に優れ美女であった側室の巴御前は尼になり、ここで庵を結び、仲の供養に明け暮れていましたが、ある日突如として旅に出たと説明されていたので、ここで亡くなった訳ではないのですが、その隣に「巴塚」もあります。
なお、山門の右にあるお堂は巴地蔵堂で、巴御前を追福する石彫地蔵尊を祀っていて、昔から遠近の人から深く信仰されています。巴塚の近くにJR大津駅前にあった山吹姫「山吹塚」も移設されています。

※山吹姫
義仲といえば、巴御前が常に側におり、まるで妻のような存在であったように思われています。巴御前は義仲が幼いころに木曽に流れたきたころからの竹馬の友であり、養父である中原兼遠に二人は兄妹のように育てられた女性です。そんなことから巴とは妻のような存在よりも、もっと強い絆で結ばれていたのです。
一方、山吹姫ですがこの女性については巴に比べると非常に影が薄く、その出自さえはっきりしません。
でも、平家物語の中で、義仲最後の部分でほんの少し登場します。一応、わかっているのは義仲が木曽から京に伴ってきた愛妾であることと、その後、病気になって京に留め置かれたことぐらいです。その後、どうなったのかは定かはないのですが……。

ついでに言いますと、この寺が有名になったのは、芭蕉とのかかわりです。芭蕉は義仲のことをたいへん好きだったようです。芭蕉が最初に訪れたのは貞享弐年(1685)で、その後4回滞在しています。元禄7年(1694)10月12日、大阪で亡くなると芭蕉の遺言により、去来、其角ら門人の手で遺体がこの寺に運ばれ、木曾塚の隣に埋葬されました。今も当時のままの姿で芭蕉の墓があり、墓の右側にはあまりにも有名な芭蕉の辞世の句を刻んだ句碑が建っています。

「旅に病で 夢は枯野を かけ廻る」  
その他にも、巴塚の近くにお江戸深川の芭蕉庵で詠んだ有名な
「古池や 蛙飛びこむ 水の音」  
の句碑があります。

義仲寺のご本堂は朝日堂ともいい、義仲とその子義高の木像を厨子に納め、義仲や芭蕉などの位牌が安置されています。 
また、真筆を刻んだとされる句碑も朝日堂に近いところにあります。
「行春を あふミの人と おしみける」(芭蕉桃青)

尚、木曽の宮ノ越の徳音寺に義仲公をはじめ巴御前、そして家臣たちの墓があります。さらには木曽福島の興禅寺にも木曽義仲公の廟所があります。

木曽宮ノ越・徳音寺の義仲公墓
木曽福島・興禅寺の義仲公墓

さあ!旅をつづけることにしましょう。



京阪電気鉄道の踏切を越えたところが打出浜で、「石場」という名前の駅があります。名の由来は「相伝中古、石工この地に多く在住して、この浜辺に石を積みおける故の名なり」と。なるほどね! 

江戸時代には矢橋港などから琵琶湖を船で渡ってきた旅人が利用する石場港があったので、大変賑わい立場茶屋が並んでいました。港には弘安2年(1845)、船仲間の寄進で建てられた高さ8.4mの花崗岩製の大きな常夜燈が建っていて、船の安全を守る灯台の役目も担っていました。その常夜燈はよそに移されて今はありません。 

道を左にとると古くから芸能の神として信仰を集めていた「平野神社」の石碑が建っています。当社は天智天皇7年(668)、内大臣藤原鎌足の創建と伝わっています。平野神社は左の坂の上にあり、蹴鞠の祖神という精大明神を祀っています。 

平野集落を過ぎると松本2丁目になりますが、東海道は三叉路の左の道を進んでいきます。
石山からここまでは比較的古い建物が多く残っていたのですが、大津宿の中心部に入ると古い町並や建物がほとんど残っていません。推測ですが、第二次大戦で空襲に遭い大津市中心部はほぼ全壊したことと、昭和40年後半から大津市の人口が急増し、市域が5倍に拡大し、市中心部の高層化が進んだことによると思われます。

途中、小さな、小さな川「常世川」を渡ります。大津市内を流れて打出浜で琵琶湖に注ぎ込みます。
そんな常世川に小さな手書きの看板が立てられています。そこには。「西は極楽 東は平安楽土 さかいを流れる常世川 常世(とこよ)川と読めば黄泉の国の川「三途川」ともとれる 地蔵尊もおられ 往来の安全を見続けて」の立て看板。現世(うつしよ)に流れる常世の川か。

それでは東海道中の最後の宿場町である53番目の「大津宿」へと入っていきましょう。

広重大津の景

大津宿は南北一里十九町(4キロ強) 、東西十六町半(200m)の広さで、本陣が2軒、脇本陣1軒、旅籠は71軒を数えました。また近江上布を扱う店、大津算盤(そろばん)、大津絵など近江商人が商う店が増え、天保年間頃には人口が14,000人を超え家数は3,650軒と東海道最大の宿場町になりました。

東海道が通るのは「京町通り」で、京都への道筋にあることから名付けられたという通りです。スーパーやデパートのある湖畔べりの道からそれほど離れていないし、県庁などの官庁が近くにあるのにかかわらず、喧騒を忘れたような静かな佇まいを見せています。道脇に天保12年造と書かれた「北向地蔵尊」を祀った小さな社(やしろ)があり、左折して、通り一つ行くと「滋賀県庁」があります。



このあたりは江戸時代、四宮といわれたところで、「東海道名所図会」に「四宮大明神社-大津四宮町にあり  祭神 彦火火出見尊 」とある四宮神社が町名になりました。 

四宮神社は延暦年間(782)に創建され、平安時代の大同3年(806)、近江に行幸された平城天皇が当社を仮の御所として禊祓いをされたという古い神社で、四宮大明神とか天孫第四宮などとも呼ばれましたが、明治時代に天孫神社に名に変え、現在に至っています。

大津地方裁判所の近くに江戸時代に四宮大明神と呼ばれた「天孫神社」があります。
四宮の由緒には幾つかの説があります。祭神が彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト)、国常立尊(くにのそこたちのみこと)、大己貴尊(おおなむちのみこと)、帯中津日子尊(たらしなかつひこのみこと)の四神であることからというもの。近江国には神徳の厚い社が多くあり、昔の人々は一宮から四宮と称しました。 
一宮が建部大社、二宮が日吉大社、三宮が多賀大社、四宮が天孫神社です。

天孫神社の隣の「華階寺」の門前には「俵藤太」「 矢板地蔵」「 月見石」の石柱が建っています。そして中央大通りが通る京町三丁目の交差点を越えた右手に真宗大谷派の「大津別院」があり、山門前には「明治天皇大津別院行在所」の石柱が建っています。

大津別院は慶長5年(1600)織田信長に敵対した教如の創建という寺院で、本堂は慶安2年(1649)、書院は寛文10年(1670)の建築で、ともに国の重要文化財です。書院の天井には草花、障壁や襖には花鳥などがあざやかに描かれています。
静かな佇まいを見せる京町通りは江戸時代と違い一般住宅が多く建ち並んでいますが、それでも古そうな仏壇屋や料理屋がところどころに現れます。

京町二丁目交叉点左側の徳永洋品店の脇に「比付近露国皇太子遭難之地」の石柱が建っています。

比付近露国皇太子遭難之地

ここは歴史の教科書に「大津事件」と掲載されている歴史的な事件が起きた場所なのです。 
明治24年(1891)5月11日、日露親善のため来日したロシアの皇太子が警備中の巡査、津田三蔵に切りつけられた事件です。ロシアを恐れる明治政府は津田三蔵を大逆罪で死刑にするよう迫ったのですが、大審院長の児島惟謙の主張により刑法どおり無期徒刑とし、司法権の独立を貫いたことでも知られています。

先ほどの天孫神社の例祭は10月第2日曜、前日の土曜の宵宮と併せて「大津祭」と称され、周辺の町内から13基の曳山(山車)が参加し、市内を巡幸する様は豪華華麗で非常に有名な祭礼です。その様子はこの通りから右に2つ先のアーケード通りの一画にある大津祭曳山展示館(大津市中央1丁目2-27)で見ることができます。
旧街道からちょっと逸れますが、大津祭曳山展示館にはトイレがあるので、曳山の見学を兼ねて休憩をしましょう。

曳山(山車)

トイレ休憩を終えて、旧街道へ戻ることにしましょう。
街道をそのまま進むと国道161号が通る大通りに出ます。京町一丁目南交叉点で、江戸時代は札の辻といわれました。 高札場が置かれたことから「札の辻」と名付けられた場所です。交差点を越えた先に「大津宿の人馬会所があった」という説明板があり、建物前に「大津市道路元標」の石碑が建っています。「札の辻」があった場所を示すプレートが側溝の蓋に張り付けられています。

道路の右上には「旧東海道」の標識があり、国道161号を歩くように表示されています。国道161号はこの先の国道1号と交わる逢坂1交差点が起点でこの交差点を越えて進み(直進し)坂本や堅田など琵琶湖西岸を通り、敦賀へ抜ける道で、江戸時代には北国西街道と呼ばれていました。

東海道は国道161号を南に向います。江戸時代には札の辻一帯には旅籠が多くあったのですが、旅館も古い家も一軒もありません。その先の滋賀労働局の前に「本陣」があったことを示す石碑が建っています。ここは「大塚嘉右衛門本陣」があったところと思われます。道筋はいよいよ逢坂へと向かって徐々に勾配を上げていきます。前方を見ると、ダラダラとした登り坂が延びています。



道はゆるやかな上り坂で、春日町交叉点を過ぎると、右側に「南無妙法蓮華経」の石碑があり、「妙光寺」の石柱の先には京阪電車の線路が横切っていて「妙見大菩薩」とあります。

右側の東海道線のトンネルは左と右で造られた年代が違い、左側は明治時代に造られた煉瓦製で、鉄道開通から100年以上が経つが今も現役で頑張っています。その先で国道161号は左側からの国道1号線と合流します。大津宿はここで終わります。

さあ!東海道中の53番目の宿場町を通り過ぎました。大津から京都三条への道は峠を2つ越えます。その一つが大津と山科を隔てる逢坂山で、平安時代には多くの歌人が和歌を詠んだところでもあります。 
もう一つの峠は山科を過ぎると三条通を辿りますが、天智天皇御陵の先で日の岡峠の坂道になり、峠を越えて蹴上に下っていきます。東海道中も大詰めとなるのですが、まだ峠を2つ越えなければなりません。簡単には京都三条にたどりつけないのですね。

国道1号線に合流すると山科までは東海道の古い道はなくなり、そのまま国道1号に沿って歩くことになりますが、私たちの脇を通過する車の数は半端ではありません。少し行くと右側に「蝉丸神社下社」の常夜燈と石碑、線路の向こうに鳥居が見えます。

蝉丸神社は音曲の神様ということで、琵琶法師は蝉丸神社の免許がないと地方興行ができないほどの権力を持っていたといいます。天皇の皇子だったという設定の謡曲「蝉丸」がありますが、蝉丸の生い立ちははっきりしませんが、盲目の琵琶の名手だったことは間違いないようです。 
現在の神社はここにあった蝉丸を祭神として祀る「蝉丸宮」に江戸時代の万治3年(1660)、現社殿が建てられた時、街道筋にあった「猿田彦大神」「豊玉姫命」を合祀したものです。境内には「これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも 逢坂の関」という歌碑があります。

私たちが辿る国道1号線は両側から迫る山の間を縫うようにつづいています。
京阪電気鉄道の踏切りを渡ると右側の小高いところに「安養寺」が堂宇を構えています。安養寺は蓮如上人の旧跡の寺で、上人の身代わりの名号石があり、また国の重要文化財指定の行基上人作といわれる阿弥陀如来坐像が安置されています。

ここから逢坂山の上りになります。逢坂(おうさか)の地名は「日本書紀」の神功皇后の将軍「武内宿禰」がこの地で忍熊王と出会った、という故事に由来しています。

平安時代に平安京防衛のため、逢坂の関が設けられ、関を守る鎮守として「関蝉丸神社」「関寺」が建立されました。なお関蝉丸神社は蝉丸宮(現在の蝉丸神社)のことです。 
寺の入口に「関寺旧跡」と表示した教育委員会の木札があるので、日本書紀の関寺はここにあったのでしょう。 

この先、右側には歩道がないので左側を歩くことになります。右が国道、左が京阪電車に挟まれた狭い空間を400mほど上ると名神高速道路があり、100mほど行くと道の右手の高いところに赤い鮮やかな鳥居の「蝉丸神社上社」が社殿を構えています。



国道1号線は徐々に勾配を高めながらつづいています。左右には木々に覆われた山が迫ってきます。ちょうど切通しのような道筋です。左右に山が迫る逢坂越えのルートは右にカーブをしながら頂上へとつづいています。国道1号の上を跨ぐ歩道橋をくぐると、前方に信号交差点が現れます。この信号交差点の辺りが逢坂の頂です。私たちはこの信号交差点で右側へ移動し、いったん国道1号線と分岐して、旧東海道へと進んでいきます。さあ!ここから下り坂です。

信号交差点を渡ると「逢坂の関跡碑」が置かれています。逢坂の関は810年以降、鈴鹿、不破、逢坂の三関の一つとして重要な役割を担ってきましたが、どこに置かれていたか正確な位置は定かではありません。
ほぼ逢坂を登りきり、左へ進むと「うなぎ日本一」の看板を大きく掲げた「かねよ」という鰻料理の老舗の店があります。その店には鯉幟ならぬ「鰻幟(うなぎのぼり)」がはためいているではありませんか。



鰻のかねよのその先の右側に「蝉丸大明神」の常夜燈があり、小高いところにもう一つの蝉丸神社の分社があります。この場所には「車石」の敷石が目立たない存在で展示されています。

江戸時代にはこのあたりに立場茶屋があり、山から流れて出た清水を使った「走井餅」が評判だったといわれるところです。旧東海道筋は短くすぐ終わってしまいますので、京阪電気鉄道の線路を跨ぐ横断歩道橋を渡って再び国道1号の左側へ移動します。 

国道1号にそって歩くと民家の前に「大津算盤の始祖、片岡庄兵衛住宅跡」の石柱が置かれています。片岡庄兵衛は慶長17年(1612)、明国から長崎へ渡来した算盤を参考にして、当地で製造を開始しました。最近まで子孫の方が住んでいたと書かれた案内板が置かれています。



すでに逢坂を登りきり、道筋は下り坂に変るので体への負担はそれほど感じません。このあたりは旧寺一里町で江戸時代には両脇に一里塚があったところです。しかし一里塚があったことを示すものは何もありません。街道左手の月心寺は橋本関雪の別荘跡といわれています。

私たちが歩く旧東海道筋は道幅が広い国道1号です。国道1号線の右側には京阪電気鉄道そしてその向こうに名神高速が走っています。そんな道筋の左右には緑濃い山並みが連なり、ちょうど両側を山に挟まれた谷間を歩いている感じです。



特段風光明媚な場所でもなく、国道1号線に沿って歩く道筋はいつも飽きがきます。月心寺から700mで名神高速道路をくぐり、すぐに国道1号から分岐して左手に入っていくのが旧東海道筋です。面白みのない国道1号とお別れです。



国道1号線と分岐して細い道筋へと入っていきます。この道筋の北側が滋賀県大津市追分町南側が京都市山科区髭茶屋屋敷町となり、私たちは滋賀県と京都府の県境を歩くことになります。 
少し行くと三差路があり伏見道(髭茶屋)の追分にさしかかります。伏見道は伏見や宇治への道で、難波(大阪)に出る近道でした。

世間一般に言われる東海道53次の場合、髭茶屋追分から京都三条大橋へ向かう東海道を指しますが、東海道57次と言う場合は髭茶屋追分から伏見宿・淀宿・枚方宿・守口宿を経て大阪高麗橋へ至る街道が東海道となります。大津宿から伏見宿までは伏見街道(大津街道)、伏見宿から大阪までを大阪街道(京街道)とも呼びます。大名が京都に入るのを幕府が好まなかったので、参勤交代の時、大名は京都を避け伏見道を使ったのです。

「東海道名所図会」に「追分ー村の名とす。京師・大坂への別れ道なり。札の辻に追分の標石あり」と書かれていますが、「みきハ京みち、ひだりふしミみち」と刻まれている道標は今も残っています。
隣の「蓮如上人」の石碑には「明和三丙」と刻まれていましたが、途中で折れたものか?、かなり小さめです。


第3ステージの目次へ

私本東海道五十三次道中記 第33回・最終回 第1日目 草津宿から瀬田の唐橋を経てJR石山駅まで
私本東海道五十三次道中記 第33回・最終回 第2日目 髭茶屋から山科を抜けて京都三条大橋(その2)





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私本東海道五十三次道中記 第33回・最終回 第1日目 草津宿から瀬田の唐橋を経てJR石山駅まで

2015年12月27日 10時48分07秒 | 私本東海道五十三次道中記
前回32回目の3日目はJR石部駅前から52番目の宿場町「草津」まで10.3㎞を歩きました。
さあ!長かった東海道の旅もいよいよフィナーレを迎えます。私たちの東海道五十三次街道めぐりの旅もいよいよ大詰めへとさしかかってきました。

迎える33回目はお江戸日本橋から数えて52番目の草津宿を起点として、第1日目は瀬田の唐橋を経てJR石山駅前までの約10キロ、第2日目はJR石山駅から53番目の大津宿を経て、東海道の西の終着点(起点)である京都三条大橋までのちょっと長めの19.1キロを歩きます。

草津は137,000人を数える県下第二位の都市です。ちなみに第一位は大津市です。そして久し振りに見る大きな駅舎を持つ草津駅に隣接するボストンプラザを後に、いよいよフィナーレの旅へ出立いたしましょう。

私たちは立派な草津駅のコンコースを抜けて、東口へと進んでいきます。東口にでると広々としたテラスが現れ、太い道がまっすぐにのびています。階段でテラスを下りて、太い道に沿って進んでいきましょう。そして平和堂の建物が途切れた所で右手に曲がりますが、この道筋が旧中山道です。現在はアーケード形式の商店街がこの先の旧草津川をくぐるトンネル手前までつづいています。



かつての中山道は完全にアーケード形式の商店街に姿を変えてしまいました。さまざまなお店やレストランが軒を連ね、草津の繁華街といった雰囲気を漂わせています。草津はもともと東口の方が発展していたようで、東口に隣接して近鉄百貨店や先ほどの平和堂、エルティなどの大規模店舗が立ち並んでいます。尚、草津駅西口にはホテルが集中し、また最近開発されたエイスクエアと呼ばれる大規模複合ショッピングモールがあります。

草津アーケード街

賑やかなアーケード街が途切れると、天井川であった草津川をくぐるトンネルにさしかかります。
トンネルをくぐると、旧東海道と旧中山道の分岐点である「追分」が現れます。その追分の場所に大きな石造りの常夜燈が置かれています。

常夜燈

常夜燈は文化13年(1816)建立で高さ4mの火袋付きで「右東海道いせみち」「左中仙道みのぢ」と刻まれていて、江戸時代の「草津追分」を示す道標を兼ねていました。江戸時代の中山道はここで東海道に合流していたので、ここから京三条大橋までは同じ道を歩くことになります。

また路上のマンホールの蓋には「東海道中山道分岐点」と書かれています。

マンホールの蓋
マンホールの蓋

中山道はご存知のように、江戸五街道の一つでお江戸の日本橋を起点として西の京都三条大橋までの135里(526.3キロ)を繋いでいます。ここ草津までは日本橋から129里(505.7キロ)あり、その間に67宿が置かれていました。またその間には中山道の難所と言われる木曽路が横たわり、木曽谷に沿って11宿が置かれていました。

記念すべき中山道と東海道の合流地点でもあり、分岐点でもあるこの場所から草津宿の中心へと進んでいきましょう。

広重草津の景

草津宿は十一町五十三間半(約1.3km)の長さに家の数が586軒、宿内人口は2351名とそれなりの規模をもっていました。併せて東海道と中山道の追分の宿場だったので、本陣は田中九蔵本陣と田中七左衛門本陣の2軒、脇本陣2軒、旅籠は72軒 (最盛期はもっと多くあったようです) と大変な賑わいを見せていました。

尚、追分の左角にある草津市民センターはかつて脇本陣大黒屋弥助の敷地でした。そして少し歩くと右側に田中七左衛門が営んでいた「草津宿本陣」があります。

草津本陣パンフ

本陣の門

見るからに立派な門構えで、門柱には「草津宿本陣」と墨書きされた板が下げられています。草津宿の東側の入口が旧草津川を渡ったあたりなので、東からやってくる大名行列は川を渡る前か、または渡ったらすぐに隊列を組みなおし、本陣の主人の先導で襟を正して宿内の本陣へやってきたのでしょう。

追分からほんの僅かな距離にある草津宿本陣は田中七左衛門が材木屋を兼業していたため、木屋本陣ともいわれていました。敷地はなんと1300坪もある広大なもので、建坪は468坪、部屋数は30余もあり、現存する本陣の中では最大級で国の指定史跡です。田中家が個人でこの古い由緒ある建物を守ってきたのを草津宿本陣として公開しています。(月曜日・年末年始は休み、200円)

本陣の門
本陣の門
本陣脇の塀

私たちの東海道中でいくつかの宿場で本陣や脇本陣の建物を見てきました。その中でも三河の二川の本陣は立派なものでした。その二川の本陣を凌ぐほど立派な本陣の建物がここ草津に残っています。草津宿本陣は、当主の田中七左衛門が寛永12年(1635)に本陣職を拝命したとされ、明治3年(1870)に本陣が廃止となるまで、代々本陣職を勤めてきました。

本陣が廃止となった明治時代以降、本陣の建物は郡役所公民館として使用されていましたが、江戸時代の旧姿をよくとどめているとして、昭和24年(1949)国の史跡に指定されました。草津宿の中では当時の宿場町の面影を残す建物はここ本陣だけです。

立派な構えの門をくぐると、玄関広間には当本陣を宿とした名だたる大名(藩主)の関札が並べられています。関札とは大名、公卿、幕府役人が泊まる際、持参した札で使用目的により、宿(自身賄い)、泊(賄い付き)、休(昼飯休)を関札で示したものです。

玄関を入ると順に座敷広間、台子の間、そして殿様の上段の間が置かれています。

私たちが訪れた時、雛祭りが近いことから幾つかの部屋には雛飾りが置かれていました。

雛飾り
雛飾り

その奥に庭園があり、お殿様用の湯殿は離れになっています。上段の間の反対に(向き合って)、向上段の間があり、玄関に向かって、上段相の間、東の間、配膳所、台所土間と続いています。
真ん中は畳敷きの通路ですが、人数が多いときにはこの通路にも泊まっていたようです。 
本陣職を務めた田中家の住宅部分は六畳以下が大部分とはいえ、九部屋以上もあります。裏手には厩(うまや)もあり、本陣らしい風格と設備を有していました。
宿帳も公開されており「慶応元年五月九日、土方歳三、斉藤一、伊藤甲子太郎など三十二名が宿泊した」と記載された大福帳もあり、別の大福帳には浅野内匠頭の九日後に吉良上野介が泊まったことが記録されています。

湯殿
土間

本陣の見学を終えて、宿内を進んでいきましょう。

街道沿いの家々は新しいものが多く、それらしい佇まいの家はあるのですが、過ぎ去った時代の宿場の風景は残っていません。

草津宿の家並み
草津宿の家並み

草津本陣の先の左側の吉川芳樹園とベーカリーカフェ前に脇本陣の標が置かれています。中神病院は三度飛脚取次所が置かれていました。中神病院を過ぎると、街道に面した広場の奥に「草津市まちなか交流施設(トイレ有り)」が現れます。

草津市まちなか交流施設

そしてその先に「市立草津宿街道交流館(トイレ有り)」が置かれています。公営の施設ということで、トイレ休憩を兼ねて1階の展示物を見学することにします。
☎077-567-0030
尚、市立草津宿街道交流館の2階部分の見学は有料です。

交流館パンフ
市立草津宿街道交流館



街道の右側奥に堂宇を構えている常善寺は承平7年(735)、良弁上人の開基の寺院で、本尊の阿弥陀如来像は鎌倉期のもので国の重要文化財に指定されています。

町並みの様子

市立草津宿街道交流館を過ぎるとすぐ左手に「太田酒造」が店を構えています。

大田酒造

当酒造は戦国時代に江戸城を造った、太田道灌の末裔が江戸時代以来営む造り酒屋で、街道時代には草津宿の問屋場職を兼ね、草津政所と呼ばれ草津宿の政治的中心を担っていた場所にありました。旧家の家柄で「道灌」という銘柄の酒樽が店の前に置かれています。

大田酒造のパンフ
大田酒造
大田酒造の路地

街道を挟んで太田酒造の対面には「問屋場」「貫目改所」が置かれていました。そして少し先の「旅館野村屋」の看板を掲げた家は幕末から営業している元旅籠です。

草津宿もそろそろ西の端にさしかかります。立木神社前交差点の先には小さな川が流れています。伯母川(志津川)と呼ばれ、街道時代には「宮川土橋」が架かっていたといいます。
信号を渡ると、右側に志津川にかかる赤い欄干の橋がかかり、その奥に朱色の鳥居が立っています。

立木神社の橋

それでは境内へと入っていきましょう。「立木神社」は旧草津宿と旧矢倉村の氏神でした。創建は神景雲護景雲元年(767)と伝えられる古社で、その名前は常陸鹿島明神からこの地に一本の柿の木を植えたことに由来しています。
境内は思ったよりも広く、ゆったりとした敷地には立派な神楽殿、本社殿が配置されています。

神門
神楽殿
本社殿

境内には延宝8年(1680)11月の草津宿最古の追分道標が置かれています。また神社に鎮座するのは狛犬が普通ですが、この神社には獅子の狛犬の他、神鹿が祀られています。草津宿の京側の入口は立木神社の先に黒門があったとされていますが、その跡は現在では確認できません。そしてここ立木神社がある場所で草津宿は終わります。

草津宿の京側入口にある立木神社を過ぎて200mほど歩くと川幅のある草津川が流れています。

草津川の橋

この川は旧草津川河岸の洪水を防ぐために平成14年(2002)から平成19年(2007)7月にかけて、新たに開削された新草津川です。橋を渡ると左奥に「光伝寺」が堂宇を構えています。
その先の信号交叉点の手前右側に「天井川」と書かれた酒の看板があるのは古川酒造で、ショウルームには杉球が吊るされ、酒徳利が置かれています。
さらに100mほど行くと交差点の右側に瓢箪(ひょうたん)を扱っている「瓢泉堂」が店を構えています。

瓢泉堂

矢倉の瓢箪は今から250年ほど前から作られたといわれていますが、瓢箪を扱っている店は現在ここだけです。「瓢泉堂」は明治時代に同じ矢倉の地からここに移ってきたといいます。

店の角に「右やはせ道 これより廿五丁」と刻まれた「矢橋(やばせ)道標」が建っています。江戸時代には「瀬田へ廻ろか、矢橋へ下ろか 此処が思案のうばがもち」と言い囃された姥ヶ餅屋が あったところで、東海道と矢橋道との追分です。

「矢橋道標」は姥が餅屋の軒下に寛政10年(1798)に建てられたもので、東海道を往来する旅人を「矢橋の渡し」に導くために置かれました。矢橋道は矢橋港の渡し場への道で、矢橋港から大津行きの大丸子船(百石船)が出ていました。陸路の場合は瀬田の大橋経由で大津宿への道程は3里(12キロ)なのに対し、矢橋港からの渡船では湖上50町(5.5キロほど)と短かかったため、時間短縮はもちろんのこと体に負担がないので、多くの旅人や商人が利用したといいます。
江戸時代の旅人はこの辺りの「姥が餅屋」で茶菓子を食べながら、舟に乗ろうか、はたまた大津まで歩いて行こうかと迷ったことでしょう。与謝蕪村はここで「東風吹くや 春萌え出でし 姥が里」という句を残しています。

『うばがもち』とは?
時は永禄、時代的にいうと、なんと戦国時代にまでさかのぼります。上杉謙信と武田信玄が川中島で戦い、織田信長が桶狭間の戦いで今川義元を倒した頃が永禄年間(1558~1569)です。その織田信長の武名、天下に轟き、諸国を制覇し、近江の守護代となった頃のことのお話です。
そんな時代、近江源氏佐々木義賢は永禄十二年に信長に滅ぼされ、その一族も各地に散在を余儀なくされました。
その一族の中に三歳になる義賢の曾孫もいました。義賢は臨終の際にもその幼児を心より託せる人がいなかったので、乳母である「福井との」を招き、貞宗の守刀を授け、ひそかに後事を託し息を引き取りました。乳母「との」は義賢の旨を守り、郷里草津に身を潜め、幼児を抱いて住来の人に餅をつくっては売り、養育の資として質素に暮らしました。そのことを周囲の人たちも知り、乳母の誠実さを感じて、誰いうことなく「姥が餅」と言い囃したといいます。



矢倉集落を過ぎると国道1号線の矢倉南交差点にさしかかりますが、対面の標識に「旧東海道」の案内表示があるので、矢倉南信号交差点でいったん反対側に渡ったあと、曲がりくねった路地へと進んで行きます。野路は東山道の宿駅の野路駅舎として源頼朝など武将達が往来したところで宇治への分岐点でしたが、東海道が開設され草津宿ができると野路の存在価値は失われてきました。

狭い路地を進むと小さな上北池公園にでてきます。そんな小さな公園に、目立たない存在で寂しげに野路一里塚の標柱が置かれています。お江戸日本橋から119番目、京三条大橋からは6番目)の一里塚跡です。

野路一里塚の標柱

野路町交差点でかがやき通りを渡り、国道1号と分岐して走る旧街道筋へと進んでいきます。街道沿いには住宅街がつづきます。旧街道に入るとすぐ左側の「教善寺」の前には「草津歴史街道 東海道」の案内板があります。

そして少し先の右側の遠藤家という民家の塀に中に「清宗塚」の案内板が置かれています。
清宗とは壇ノ浦で敗れた平家の総大将平宗盛の長男で、捕虜になった清宗は父宗盛が野洲の篠原で断首されたことを知り、西方浄土に手を合わせて祈った後に 堀弥太郎景光の一刀で首をはねられました。清宗の亡骸を葬ったというのが五輪塔の清宗塚です。遠藤家はこの塚を10世紀に亘り守ってきたんですね。

この界隈は野路集落の中心ですが、道はかなり狭くなります。道筋がすこし右へカーブを切る場所に「神宮神社」の鳥居が置かれています。そしてこの先の街道の右手に堂宇を構える願林寺が山門を構えています。山門を過ぎてすぐ右へ曲がると京都の石清水八幡宮と同じくらいの歴史を持つと言われていた「八幡神社跡」の記念碑が置かれています。

旧街道は住宅街を抜けていきます。旧街道はこの先で県道43号と交叉します。信号がない代わりに、地下道が造られているので、これをくぐります。地下道をくぐるとすぐ右手のフェンスに囲まれた中に「野路(萩)の玉川」の記念碑が置かれています。野路の玉川は十禅寺川の伏流水が湧き水になり一面に咲く萩と共に近江の名水、名勝として有名だった場所です。

野路(萩)の玉川

源俊朝が千載和歌集で「あさもこむ 野路の玉川 萩こえて 色なる波に 月やとりけり」と詠んだ他、多くの歌人が歌を詠んだことで知られています。 
阿仏尼は十六夜日記に「のきしぐれ ふるさと思う 袖ぬれて 行きさき遠き 野路のしのはら」という歌を詠んでいます。 
しかし、東山道の野路宿駅の衰退とともに野路の玉川の存在も忘れ去られていったようです。   
かつて名水、名勝であった「野路の玉川」の名を後世に残すため昭和51年に復元されたものです。



旧街道は右手へとカーブすると南笠東という地域に入りますが、江戸時代には美しい松並木があったようですが、今はその名残すらありません。そんな道筋を下って行くと、前方の視界が広がります。なんでこんなところにといった感じで大きな池が現れます。弁天池という名前が付けられていますが、それほどの景勝地でないのが残念です。

弁天池

池の中に弁天島があります。江戸時代の大盗賊日本左衛門が隠れたとの伝説が残っているようです。弁天池を過ぎると道筋は緩やかな上り坂となります。



坂を登りきると、信号交差点があり、その下を狼川(おおかみがわ)が流れています。狼川に架かる橋を渡ると、かつてこの狼川は「大亀川」と呼ばれていたことを示す簡単な看板が置かれています。
「おおかめ」が「おおかみ」に川名に変じた理由は定かではありません。

橋を渡ると旧街道は緩やかな上り下りをくり返しながら先へ続いていきます。この先で丁目が栗林町へと変ります。この栗林町から大津市へ入ります。ちょうど草津市大津市の境から右手に大きな工場があります。「日本黒鉛工業(Nihon Graphite Industries LTD)」という会社のようです。鉛筆の芯を造っている会社ではなく、「黒鉛粉末」「黒鉛塗料」「電子部品」などを製造しているようです。

そんな工場をすぎて、足元を見るとやたら絵柄がごちゃごちゃしたマンホールが一つ現れます。大津市のマンホールなのですが、あまりに絵柄が多すぎていったい何が描かれているのか一見しただけでは皆目わかりません。

大津市のマンホール

ご覧のようになんともにぎやかなマンホールの絵柄です。上の画像は色がついているので、おおよそ何が描かれているかはわかるのですが、色がついていないとよそ者ではとんとわかりません。

実はこのマンホールは大津市が平成10年10月1日に市制施行100周年を記念して、マンホールの蓋のデザインを公募したそうです。その中から最優秀賞になった作品をもとに製作されたものです。

描かれている図柄は琵琶湖を背景に市の鳥であるユリカモメ、市の花のエイザンスミレ、市の木であるヤマザクラ、琵琶湖大橋、ミシガン船、レガッタ、琵琶湖花噴水そして花火とこれでもかという位のてんこ盛りです。
そしてなんとも洒落ているのが、図柄の左下あたりに描かれている犬です。ちょうど犬が片足をあげています。その片足が赤く塗られているのがわかりますか?
色がついているとこの洒落がわかるのですが、色がついていないとなんとも間抜な話になってしまいます。

というのも前述のようにこのマンホールのデザインは市制施行100年を記念しています。
このことから100を英語でいうと「One Hundred]となるのですが、勘のいい方はピンときませんか?
「犬が赤い色の手(足)を挙げている」すなわち、「One=Wan(Dog:わん」「Hund=Hand:手」「Red:赤」となり、「赤い犬の手」ということのようです。
よくもまあ!ここまで駄洒落でデザインしたものだと感心します。
尚、この色付きの市制施行100年記念マンホールは街道を歩いていても、なかなか見つけることはできません。色がついていないものはかなり見つけることができました。


大津市に入ると地名は「月輪(つきのわ)」と変ります。月輪は江戸時代、旅人達が休憩する立場茶屋があったところで、それを示す石碑が街道脇に置かれています。野路の玉川から月輪までおよそ1㎞以上を歩いてきましたが、街道らしい風情や雰囲気はまったく残っていません。ただ道の狭さだけが当時の街道の様子を物語っています。



街道左側に月輪寺が堂宇を構えています。寺の入口にあたるのでしょうか、ちょっとした敷地に「新田開発発祥之地」「明治天皇駐輩之碑」などの石碑が置かれています。そして街道の左手奥に堂宇を構えるのが幕末の文久3年(1863)の開基の月輪寺です。

月輪寺を過ぎると、比較的道幅が広い道と交差する信号が現れます。この信号交差点を渡ると地名は一里山と変ります。信号を渡ると「月輪東海道立場跡碑」が置かれています。道筋は大きく左へとカーブを切りながら続いています。この道筋は車一台分位しかない狭い道なのに予想した以上の車が走り、かなり歩きづらいので、十分に気を付けましょう。

そんな細い道筋を進んで行くと、一里山一丁目の交差点に出てきます。この辺りが本日の6㎞地点です。この交差点を右手へ470mほど進むと東海道はJR瀬田駅へとつながります。旧東海道と比較的道幅のある市道と交差している場所の一角にけっこう立派な「月輪池(大萱)一里塚碑」(江戸日本橋から120番目、京三条大橋からは5番目)が置かれています。

月輪池(大萱)一里塚碑

この地点にはかつて一里塚があり、松が植えられていましたが、明治に入り取り除かれました。この辺りの地名である一里山はこの場所に一里塚が置かれていることからきています。

本日の行程の半分以上を消化しましたが、ここらあたりでちょっと休憩(トイレ休憩)をしましょう。
一里山交差点をいったん渡り、右手に進むこと170mほどのところにダイエー系列のスーパーマーケット「グルメシティ」があります。「グルメシティ」と名が付いているので、レストランや大きなフードコートがあることを期待するのですが、グルメシティとは名ばかりで、食事を目的とする施設ではありません。1階にスーパーが入っているだけです。ダイエーもイオンに吸収されてしまいましたので、このフードコートの未来は風前の灯といったところでしょう。
※「グルメシティ」は建て直されて2017年8月にダイエーに生まれ変わりました。



JR瀬田駅に近いのですが、これといった飲食店もあまりありません。ちなみに瀬田駅近くまでいってみたのですが、駅周辺にも飲食店はあまりありません。再び旧街道筋に戻ることにしましょう。旧東海道はこの先、大江三丁目と六丁目の境を進んでいきます。東消防署前の「道標」を過ぎ、大江四丁目の信号交差点を渡ると、すぐ右手に洒落たパン屋さんが現れます。焼き立てパン「Koppe」という名のお店です。Koppeという名前からコッペパンが有名のようです。試に食べてみよう、ということでコッペパンを購入しました。よくある少し長めのコッペパンではなく、丸みをおびた小振りのコッペパンです。透明の袋に入ったコッペパンを手のひらに乗せて、優しく握るとものすごい弾力性を感じます。

焼き立てということもあるのでしょう。ふんわりしたコッペパンをひとかじりすると、その「モチモチ感」とパンの甘みが口の中に広がります。バターやジャムを付けなくても、とても美味しいコッペパンです。尚、これほど美味しいコッペパンなのですが、店内には大量に置かれていませんので、売り切れていることもあります。もし食べたければ、事前に電話しておいたほうがいいかもしれません。
住所:大津市大江4-14-21
電話:077-535-5592
定休日:日曜日

Koppeを過ぎ、ほんの少し進み左へ折れる路地を入ると、野神社旧蹟(大江東自治会館)があります。平安時代の歌人で中古三十六歌仙の一人、大江千里(おおえのちさと)住居跡と伝わる場所。大江千里は地元の村人から「ちりんさん」と呼び親しまれたといいます。
 
瀬田小学校の近く(小学校南の忠魂碑付近)に「西行屋敷跡」があります。東海道を旅していると、いたるところで西行ゆかりの地が点在し、その折々に西行が詠んだ歌を紹介してきました。
西行法師は佐藤義清(のりきよ)という北面の武士だったが、23才で出家して、諸国を行脚して多くの歌を残したことは良く知られています。この大江の地にも一時期住んだと言い伝えられています。東海道は道標で左折し、左側の正善寺を見ながら直進していきます。



旧街道は左手の関電瀬田変電所の前を通り、初田仏壇の先で右折します。

この場所に「近江国府跡」の道標が置かれています。交差点を直進し突き当たったところを右折し、次に左折すると「雇用瀬田宿舎」の手前に「近江国衙跡」があります。
※近江国府跡の見学は割愛します。

近江国府は奈良中期(八世紀)に建設され、平安中期(十世紀末)まであった近江国を治める役所なのですが、東西二町(218m)、南北三町(327m)の敷地に南北の前殿と後殿、東西の脇殿という建物が建ち、門や築地垣があり、1000名を越える官吏と兵士が勤務していたといわれています。そしてその外側に九町(972m)四方の規格化された街路が広がっていたと伝えられています。

敷地内の所どころに島のように囲まれたところがあるのですが、これは建物のあったことを示すものだそうです。中央の建物の中には発掘状況などの資料とともに国府の想像図がイラストになって掲示されています。

私たちは交差点で右折しさらに東海道の旅をつづけてまいります。旧街道はいったん左へとカーブを切り、その先で大きく右手に曲がりながら、旧国道1号線の広い道に合流します。合流地点で左に折れると高橋川が流れています。そして高橋川に架かる橋を渡ると神領という地名に変ります。高橋川の橋の左手には「檜山神社」の鎮守の森(山)の木々が目に飛び込んできます。



神領の地名はこのあたりが建部神社の門前にあることから、御料田(神領)となったといわれています。古い家が少し残る商店街を進み、山村石材店で左に入る細い道筋へ入って行きます。この細い道筋はすぐに大きな通りに合流します。そしてこれを左折すると「建部大社」の大きな石柱と鳥居が目に飛び込んできます。

建部大社パンフ

建部大社石柱
建部大社一の鳥居

それでは、せっかくなので建部大社へ参詣することにいたしましょう。先ほどの細い道筋が大きな通りに合流する地点から建部大社のご本殿までは約320mあります。一の鳥居をくぐると長い参道が前方に続いています。
長い参道はその先で直角に曲がり、二の鳥居へとつづきます。参道脇には御祭神である日本武尊の伝承を記した掲示板が置かれています。

建部大社二の鳥居

建部大社の創祀時期は定かでありませんが、昔から建部大社とか建部大明神などと称え、近江国一の宮として延喜式内名神大社に列する由緒正しい神社なのです。社伝には「景行天皇四十六年、稲依別王(日本武尊の子)が勅を奉じて、神崎郡建部郷千草嶽に日本武尊を奉斎し、天武天皇白鳳四年、勢田郷へ遷座した。天平勝宝七年(755)、孝徳天皇の詔により大和一の宮大神神社から大己貴命を勧請し、権殿に奉祭せられ、現在に至っている。」とあります。
本殿に主祭神の日本武尊を、相殿に天明玉命、権殿に大己貴命を祀っています。

二の鳥居をくぐると、その先に神門が現れます。

神門

承久の乱(1221)で戦火に遭い、社殿と多くの社宝を失いましたが、延慶弐年(1319)、勢多の判官、中原章則が再建したといわれています。歴代の朝廷の尊信が驚く、また源頼朝が伊豆に流される途中、建部大社に立ち寄り、源氏再興を祈願し、その後、宿願叶って建久元年(1190)の上洛の際に再びここを訪れ、幾多の神宝と神領を寄進し深く感謝したといいます。

神門を入るとご神木の「三本杉」があり、入母屋造の「拝殿」が建っています。

三本杉と拝殿

拝殿の先には「中門」を隔てて、「本殿」と「権殿」が並んで建っています。 
中門の右側の柵内にある石燈籠は文永7年(1270)の銘があり、国の重要文化財です。その他、平安末期から鎌倉初期の作と推定される「木造女神像三体」があり、 重要文化財に指定されていますが、これは宝物館に保管されています。(拝観料200円)

建部大社境内
建部大社境内

建部大社の参詣を終えて、来た道を再び辿り、旧街道筋へ戻りましょう。道筋には比較的商店が多く立ち並ぶようになってきます。ということは「JR石山駅」に近づいてきたことを窺がわせます。
道を歩くと左手に膳所藩瀬田代官屋敷跡があります。現在に残る建物は明治以降に民家として建築されたものですが、代官屋敷の流れを汲んでいるようで、江戸時代中期の狩野派絵師による襖絵等が残っているといいます。近年まで医院として使われていたようですが、廃業して空き家になっている様子です。取り壊しの話が出たのか、保存活動を案内する貼り紙が貼られています。

間もなくすると瀬田川畔の唐橋東詰交差点に出てきます。交差点の左手前角に「田上太神山(たなかみやま)不動寺」の道標があり、「是より二里半」と刻まれています。田上太神山不動寺の道標は寛政12年(1800)に建立されたもので、田上不動道への起点を示すものです。もとは瀬田三丁目の瀬田商店街の角にありましたが、理由は分りませんがここに移転しました。交差点を渡った先には「常夜塔」と「句碑」が建っています。

瀬田川の河川敷には「勢多橋龍宮秀郷社」があり、祭神は瀬田川の龍神様と俵藤太秀郷です。俵藤太が竜神の頼みにより大ムカデを退治したという伝記による神様を祀っています。ちなみに大ムカデを退治した場所は近江富士(三上山)です。大江匡房は「むかで射し 昔語りと 旅人の いいつき渡る 勢田の長橋」という歌を詠んでいます。

瀬田の唐橋は琵琶湖の南端から流れ出る瀬田川に架かる橋で、奈良時代からあったと伝えられています。 鎌倉時代に付け替えられた時に唐様のデザインを取り入れたため、唐橋と呼ばれるようになりました。

瀬田の唐橋

古代から東国から京に入る関所の役割を果たし、軍事、交通の要衝だったため、唐橋を制する者は天下を制すとまでいわれ、壬申の乱を始め、承久の乱、建武の戦いなど幾多の戦いがこの橋を中心に繰り広げられ、その度に橋は破壊と再建を繰り返してきました。そして織田信長によって唐橋が架け替えられた時、中ノ島を挟んで大橋と小橋かける現在のような橋になったと言われています。

瀬田の唐橋

瀬田の唐橋は欄干に唐金擬宝珠を付ける橋の作りが美しく、日本三名橋?・三古橋の一つとされ名橋とされてきました。広重が描く「瀬田夕照(せたのせきしょう)」の浮世絵で知られ、「粟津晴嵐(あわづのせいらん)」と共に近江八景の一つに数えられています。瀬田川の河原に下りていくと、唐橋を背景にして「瀬田唐橋」と刻まれた大きな石碑が置かれています。

※日本三名橋とは
一般に日本橋(東京)・錦帯橋(山口)・眼鏡橋(長崎)のようですが、この手の「三大」ってのはどれも当てになりません。
諸説あるので……。瀬田の唐橋(滋賀)だと言う人もいるようですが、瀬田の唐橋が入ると、どの橋がはずされるのでしょうか?
※日本三古橋とは
「山崎橋(山崎太郎、現在はない)」「瀬田の唐橋(勢多次郎)」と「宇治橋(宇治三郎)」
ちなみに宇治橋
瀬田川
石碑

現在の橋は昭和54年(1979)に造られたコンクリート製のものですが、擬宝珠を欄干に添え、それなりの雰囲気を醸し出しています。それでは大橋と小橋を渡って石山駅へと進んでいきましょう。小橋を渡り終えると「唐橋西詰」の信号交差点です。交差点を渡って右側へ移動します。交差点の先に「石山商店街」の表示があり、徐々に駅に近づいていることを感じさせるような商店が現れてきます。



京阪唐橋前駅手前の小路の角に「地主之守大神」「方位之守大神」「逆縁之縁切地蔵大菩薩」「蓮如上人御影休息所」と 書かれた石碑が置かれています。

さあ!まもなく本日の終着地点である京阪石山、JR石山駅に到着です。 

京阪電気鉄道の線路を越えると、鳥居川町の交差点に出てきます。旧東海道筋はここを右折します。交差点の右側の家の一角に「明治天皇鳥居川御小休所」の石碑が建っています。ここは旅籠松屋の跡地で、明治11年(1878)に明治天皇が東海・北陸の御巡幸の折に小休止した場所です。

一応は商店街らしい道筋なのですが、あまり賑やかさや活気が感じられません。そんな石山駅への道筋を辿り、国道一号を渡ると、また京阪電気鉄道の踏切にさしかかります。この踏切を越えると本日の終着地点の京阪石山駅前(JR石山駅前)に到着です。草津のホテル・ボストンプラザからほぼ10キロ地点に位置する石山駅に到着です。

第2日目はここ石山駅を出立して、いよいよ京都三条大橋を目指します。お楽しみに!

第3ステージの目次へ

私本東海道五十三次道中記 第33回・最終回 第2日目 JR石山駅から逢坂を下り髭茶屋まで(その1)
私本東海道五十三次道中記 第33回・最終回 第2日目 髭茶屋から山科を抜けて京都三条大橋(その2)





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私本東海道五十三次道中記 第32回 第3日目 JR草津線石部駅前から草津宿

2015年12月24日 16時52分42秒 | 私本東海道五十三次道中記
閑散としたJR草津線の石部駅前をあとにして旧街道筋へと進んでいきます。第3日目は石部駅前からいよいよ52番目の宿場町である草津へと向かいます。草津宿の終着地点までは10.3キロを予定しています。

JR石部駅前



駅前から旧街道筋まではほんの僅かな距離です。旧街道に入り進んで行くと、左側に小振りの松の木が植えられた場所にさしかかります。宿場を意識して造られたとおもわれるポケットパークです。案内板が置かれており、こんなことが書かれています。
「ここは縄手といい、直線状に道が長く続くところで、街道時代には大名行列が石部の宿場に入る前、長い松並木の下で隊列を整えた場所」とあります。

大名行列は常に威儀を正して整然と列を作り行列を進めていた、と考えがちなのですが、こんな悠長なことをやっていたら、お江戸にいつ到着できるかわかったものではありません。多大な経費を費やして行う参勤交代では、少しでも経費を抑え、できる限り最短の日数で江戸に着くことを考えていたようです。
そのため、宿場と宿場の間の街道では隊列を崩し、勝手気ままとはいいませんが、次の宿場の木戸、または見付までは自由に歩いていたようです。そして宿場に入る前に、全員が揃い、襟を正して威風堂々と宿場の中へと入っていったといいます。
そんな様子は少し滑稽に見えたかもしれませんね。

さて、石部から草津宿までは10キロ強の距離ですが、この区間は旧街道が比較的多く残っています。この縄手を過ぎると道筋は小さな橋にさしかかります。この橋を渡ると三叉路にでるので、これを左へと進みます。その先に見える山は安藤広重の石部宿の絵にあった灰山です。

広重の石部宿景

灰山は昔「石部金山」と呼ばれ、聖武天皇時代には銅が、江戸時代には黄銅鉱が採掘されたといわれる山です。後に石灰の採掘場となり灰山と呼ばれるようになりました。融通のきかない堅物を指して「石部金吉」という言葉がありますが、石部金山がその由来となったとの説があります。

「石と金の二つの硬いものを並べて人名のようにした語」なのですが、石部金山に語呂を合わせて作り出したのでしょう。また、石部宿の旅籠は飯盛女を置かなかったといい、このことが所以なのか「石部金吉」には「女色に迷わされない人」という意味合いの方が強いらしいのですが……。

三叉路の先左側の大和産業の前に「左五軒茶屋」、そして「東海道古い道は直進」の標示が置かれています。東海道は江戸時代初期には直進する道だったのですが、野洲川の氾濫で道が寸断され歩けなくなったため、 正面の山の左裾を回る道が開発され、旅人はそちらを通るようになりました。これを「上道」と呼んでいます。 
直進する道を下道、左に大きく迂回する道を上道と呼んだようです。そんな上道と下道の分岐点に「近道禁制札跡」がおかれていました。下道は上道より700mほど短いため、昔の旅人の中には危険を冒しても下道を通行するものが多く、このため上道・下道の分岐点にそれぞれ「近道禁制札」が立てられていましたが、この札跡はその禁を破ってまで下道を辿った旅人がいたことを物語っています。



私たちはかつての「下道」を辿って行くことにします。道筋は左手の工場群と街道の右脇を走るJR草津線の線路沿ってつづいていますが、なんら面白味のない光景です。JR草津線の線路の向こうには国道1号、そして国道に沿うように野洲川が流れています。ということは街道時代には、野洲川がいったん氾濫するとこのあたりまで水浸しになっていたのでしょう。工場群が途切れる辺りに数軒の民家があり、「五軒茶屋」というバス停があります。この名前から察すると江戸時代には茶屋が置かれていた場所ではないでしょうか。



まもなくすると名神高速道路の高架が現れます。これをくぐると正面に作業中の採石場があり、山がどんどん削られていく姿が見えます。ここからは栗東市で高速道路に目を向けると「近江富士455m」と書かれた表示があります。街道右手に現れるこの山の正式名は三上山ですが、その姿が富士山によく似ていることから近江富士と呼ばれています。標高は432mで季節を問わず、山全体が緑に覆われています。

なだらかな稜線を持つこの山の姿を見ると、やはりなにかの力が宿っているような気がします。というのも古くからこの山全体は神域として崇められ、山の西麓には御上(みかみ)神社が社殿を構えています。
この御上神社が三上山を御神体として崇めている神社ですが、御祭神は三上山に降り立った天之御影神(あめのみかげのかみ)という天照大神の孫神様です。そして当社の御本殿は国宝に指定されています。

そんな三上山(近江富士)には一つの伝説が伝わっています。その伝説とは「俵藤太の百足退治伝説」です。

《俵藤太の百足退治伝説》
俵藤太(たわらのとうた)とは平安時代中期の武将で「藤原秀郷(ひでさと)」のことで、弓の名手であの平将門を討ったことで知られています。
さてこの百足退治ですが、実はこの話の始まりは別の場所で起こります。その場所とは琵琶湖の水が瀬田川となって南へと流れ始める場所に架かる「瀬田の唐橋」の橋の上なのです。

ある日、俵藤太が瀬田の唐橋を渡ろうとしたとき、なんと橋の上に大蛇が横たわっていました。大蛇が橋の上にいるため、人々は恐れをなして渡ることができず困っていました。そんな中、藤太は臆せずに大蛇を踏みつけて橋を渡ってしまいました。すると後ろから藤太を呼び止める者がいました。振り返るとそこにはあの大蛇の姿はなく、その代りに美しい女性が立っていました。この女性があの大蛇に化けていたのでした。そしてその女性は藤太に語り始めます。

「あなた様の勇気を買って、是非お願いしたいことがあります。私は琵琶湖に住む龍神です。実は三上山を七巻半も巻いてしまうほどの大百足が琵琶湖に来て、龍神一族をさらっていくので困っています。どうかあなた様のお力で大百足を退治してくれませんか。」
懇願され、断りきれず藤太は大百足退治を快諾し、いよいよ三上山へと向かうことになります。弓の名手である藤太は3本の矢を携え三上山に巻きつく大百足と対峙します。「それでは退治してくれよう。」と最初の矢を放つと大百足に跳ね返されます。そして2本目の矢も同じように跳ね返されてしまいます。いよいよ最後の矢を弓にたがえるとき、藤太は矢じりにつばを吐き、大百足の眉間にめがけて矢を放つと、みごと額に命中しそのまま絶命しました。

実は藤太は大百足との戦いの前に御上神社に戦勝祈願をしています。その時に御祭神から弓の秘訣を授かり、その秘訣を忠実に守ったことで大百足との戦いに勝利したのでした。その秘訣こそが「矢尻に唾をつけてから眉間を狙うというもの」だったのです。

百足を退治したことを龍神一族に報告した藤太は龍神から米俵、巻絹、釣鐘など持ちきれないほどの宝物を授かりました。授かった米俵は不思議なことに食べても食べても減らず、米が増え続けたことから、俵藤太と呼ばれるようになったと言われています。そして授かった釣鐘は三井寺に奉納され、「三井の晩鐘」として知られるようになったといいます。

そんな伝説を持つ三上山を眺めながら、名神高速道路をくぐると、地名は湖南市から栗東市(りっとうし)へ入ります。そして旧街道を横断するように道が左右に走っています。左手からくる道筋が先ほど分岐した「上道」で、ここで本来の街道と合流します。そしてこの辺りの地名は「伊勢落(いせおち)」という名前に変ります。伊勢落集落は白い漆喰に連子格子の古い家が多く、街道沿いの風情ある町並を残しています。

伊勢落の地名は伊勢参りの旅人が中山道から東海道へ出るために近江の守山市伊勢町から南下してちょうどここに出てきます。そしてその道は伊勢大路とか伊勢道と呼ばれており、「伊勢に落ちるところ」ということに由来すると思われます。伊勢落(いせおち)は古く伊勢への参詣道にあたり、伊勢神宮へ向かう斎王が付近の野洲川の河原で禊ぎ祓いをしたと伝わっています。

その先に比較的道幅のある交差点にさしかかります。右手を見ると草津線の線路と近江富士が見えてきます。



伊勢落ち集落を抜けると林集落が現れます。右側の民家の目立たないところに「新善光寺道」の道標が置かれています。新善光寺は江戸時代の「東海道名所図会」に「信州善光寺如来と同体なり」と書かれている浄土宗の寺です。 
道標のある路地を入って250mほど行くと新善光寺が山門を構えています。山門と本堂は明治22年(1889)に再建されたもので、本尊の一光三尊善光寺如来は鎌倉時代から 南北朝時代に作られた98㎝の阿弥陀如来立像で、慈覚大師円仁(じかくだいしえんにん)の作とも伝えられ、国の重要文化財に指定されています。
※新善光寺には立ち寄りません。

その先の右側に永正16年(1519)開基の浄土宗本願寺派の「楞厳山長徳寺」があり、境内には石仏群が祀られています。寺の左角に「従是東膳所領」と書かれた「領界標」が建っています。従是東と刻まれていますが、西の間違いではないかと思いがちですが、膳所藩(ぜぜはん)の領地は滋賀郡、栗太郡を中心に近江国六郡、河内国三郡まで及ぶので、ここは飛び地になっていたのでしょう。

旧街道はこの先で「六地蔵集落」へと入って行きます。街道の両側には古い家が多く残っており、江戸時代には石部宿と草津宿との間宿だったところです。そして街道が左にカーブするところに「国宝地蔵尊」と刻まれた石碑が置かれています。
「国宝地蔵尊」は福正寺(法界寺)にある96.5㎝のヒノキ一本造りの木造地蔵菩薩坐像で、平安時代の作といわれ国の重要文化財に指定されています。六地蔵の地名の由来になった地蔵尊の一つのようです。

福正寺の先で街道は右手へゆるやかにカーブしますが、左側に古めかしい立派な建物が見えてきます。この大きな建物が、街道時代に常備薬である和中散を製造、販売していた旧和中散本舗の豪商「大角弥右衛門家」です。

大角弥右衛門家

大角家の本業の「和中散」は徳川家康が腹痛を起こしたとき、この薬を飲んだところただちに直ったことから、 腹の中を和らげるという意味で名付けられたと伝えられる腹痛の漢方薬です。江戸時代には和中散を作って売る店が何軒もあったようで、大角家はその一軒です。大角家は間宿の茶屋本陣で、大名や幕府要人の休憩に使われ、また建物に付属する日本庭園は国の名勝に指定されています。現在、和中散は製造されていませんが、街道に面して立つこれらの建物は当時の賑わいを偲ばせるものです。和中散の大角弥右衛門家の前には腰を掛けることができる縁台が付いています。これは縁台ではなく、この台の上に和中散を並べて販売していたものです。



大角弥右衛門家を過ぎると、旧街道は左手から116号線が合流し、視界が大きく広がります。そしてほんの僅か進むと、旧街道と116号線の分岐点にムクノキが植えられた小さな塚と「一里塚跡」の石碑が置かれています。
お江戸日本橋から117番目(約459km)、京三条大橋からは8番目となる六地蔵一里塚跡です。

一里塚跡

私たちの旅も近江の国の中を進み、京都がある山城の国へと徐々に向かっています。一里塚もお江戸から数える数よりも、京の三条大橋から数える方が分かりやすくなってきます。一里塚跡がある場所で旧街道は116号線と分岐し、右側の狭い道へと入っていきます。



道筋は六地蔵から小野集落(旧小野村)へと入っていきます。街道左側の白漆喰の倉がある家には酒屋清右衛門と表記されています。その先にもベンガラで塗られた連子格子が組み込まれた家など、街道らしい風情を漂わせる家が残っています。
街道の右手奥に堂宇を構える光圓寺への細い参道が住宅街の中へとつづいています。そしてその先の右手に1本の松の木が寂しそうに立っています。そんな松の木を「肩かけの松」と呼んでいます。
街道の右手に山門を構える西厳寺という寺の前にこの松の木があるのですが、街道時代に旅人たちがこの松の木の下で荷物を担ぐ肩を変えたことにその名の由来があると伝わっています。
さあ!肩かけの松を過ぎると、過ぎると手原(てはら)集落に入ります。ここは道中記などで「手孕(てはらみ)村」と書かれていたところで、手原1丁目の信号交差点の右側に「東海道」の道標が置かれています。

この先で名神高速道路栗東ICへの接続道路の高架をくぐりますが、このあたりにも古い家が多く残っています。
高速をくぐるとすぐ街道右に小さなお堂が建っています。これが行者堂です。文政3年(1820)の頃、里内九兵衛という人が大和国より役行者大尊像を背負って持ち帰り小堂を建てたのが始まりといいます。

その先の右側に街道らしい家並みが連続して現れます。まずは現在も営業を続けている里内呉服店です。次に蔵付きの立派なお屋敷がつづきます。その壁には「東海道手原村平原醤油店 塩谷藤五郎」と書かれています。江戸時代には醤油製造業だった御家柄です。手原には思いもよらず、豪壮な商家が残っています。

そして街道の左側に赤い柵で囲まれている神社は江戸時代の「東海道名所記」に「左の方に稲荷の祠あり 老木ありて傘の如くあり 傘松の宮という。」と書かれていた「手原稲荷神社」です。
神社の由来書には「傘松の宮とか、里中稲荷大明神とも称された神社で、祭神は稲倉魂神、素戔鳴尊、大市比売神
寛元3年(1145)領主、馬渕広政が勧請、子孫は手原氏と称し、当社を崇敬、文明3年(1471)、同族の里内為経は社殿を修し、社域を拡張、慶長7年(1612)、宮城丹羽守豊盛が社殿を造営した。その後、貞亨3年(1686)と享保8年(1723)に社殿を再建、明治2年に改築、昭和61年修復工事を行った。」とあります。
鳥居の左側に「稲荷大明神常夜燈」「皇太神宮常夜燈」が置かれています。明治天皇が寄られたようで、境内に「明治天皇聖跡」という石碑がありますが、鳥居の左脇には「明治天皇手原小休止碑」が置かれています。



手原稲荷神社がある交差点を右へ行くとJR草津線の「手原駅」です。ほぼ駅前なのですが、それほど賑やかさは感じません。
手原駅の次の駅が草津です。そんなことでこの辺りの人たちはちょっとした買い物は一応発展している草津へ行くのではないでしょうか。
交差点を渡り細い道筋を進んで行くと、左側に立派な門構えの家が現れます。猪飼時計店(いかい)ですが、この建物は街道時代の代官屋敷だそうです。そしてその先の街道右脇に人知れず置かれているのが、東経136度子午線の棒杭です。なんでこんなものが街道脇におかれているのでしょうか。ご存知のように日本の時刻の基準地は東経135度に位置する「明石」です。明石とここ手原は1度ずれている訳なのですが、それが「何なの」といった感じです。

この先で街道が二股に分かれるのですが、その分岐する角に置かれているのが「すずめ茶屋跡」の石柱です。右へ進むと琵琶湖の東岸にあった志那港へと通じます。一応は追分といった場所で、ここには旅人たちが休憩する茶屋があったのです。
道なり歩いて行くと道は左(南西)にカーブし、信号のない交差点に出てきます。交差点を渡り、右側のビィラ栗東というマンションと左の堤の間の道を進んでいきます。

少し先の堤の中腹に「九代将軍足利義尚公鈎 (まがり)陣所ゆかりの地」の石碑が置かれています。
応仁の乱の後、足利幕府の権威は大きく失墜していきますが、足利九代将軍義尚は幕府権力の建て直しを図るため、長享元年(1487)9月12日、近江守護の六角高頼を討伐するため、諸大名や奉公衆約2万もの軍勢を率いて近江へ出陣しました。
義尚はこの地に陣を張り、六角高頼と小競り合いを繰り返し、なんと1年5か月もの長きにわたりここ鈎 (まがり)の陣所に留まらざるを得なくなりました。そんなことで都に戻る事ができず、鈎 (まがり)の陣所が将軍御所の機能を持つようになり、京都からは公家や武家たちがここに将軍詣でにやってきました。そんな生活をつづけた義尚は次第に政治や軍事を顧みなくなり、幕府権力は側近たちによって専横されることになってしまったのです。そして義尚は都に帰ることなく、長享3年(1489)3月26日、近江鈎の陣中で25歳の若さで病死しました。尚、本陣はここから西に300mほどの永正寺のあたりに置かれたようである。」と記されています。
義尚公の墓は京都の臨済宗大本山相国寺の塔頭寺院である大光明寺にあります。

街道左側につづく堤の向こうには上鈎 (かみまがり)池があり、堤の上からは水鳥が遊ぶ池を一望できます。堤に沿って進むと上鈎東の信号交差点にさしかかります。そのまま真っ直ぐ進んで行くと道はわずかに右へ左へとカーブを繰り返します。少し上りになると葉山川にさしかかります。葉山川に架かる葉山川橋を渡ると右側は一面の畑で、その先に草津の街が見えてきます。



街道の両側は住宅街がつづきます。川辺信号交差点を越えて少し行った左側に「善性寺」が山門を構えています。山門といっても可愛らしいもので、それほど大きなお寺ではありません。当寺は江戸時代の文政9年(1826)に シーボルトが立ち寄ったことで知られています。その当時この寺の住職である「恵教」は、当時としては珍しい植物学者です。シーボルトはその時の印象を「江戸参府紀行」に「かねてより植物学者として知っていた川辺村善性寺の僧、恵教のもとを訪ね、スイレン、ウド、モクタチバナ、カエデ等の珍しい植物を見学せり」と綴っています。

善性寺を過ぎると、東海道(県道116号線)はT字路にさしかかります。このT字路の突き当りの向こう側には金勝川(こんぜがわ)が流れています。T字路の交差点は車の往来が激しく、且つ信号がないので、気を付けて進んでください。ここで右折しますが、この先の道筋はかなり狭く、歩道帯もないので車の往来に気を付けて進んでいきます。
T字路の突き当りの堤脇に「金勝寺 こんぜ 東海道 やせ馬坂 中仙道 でみせ」と刻まれた道標が置かれていますが、ここを右折すると右側に「地蔵院」があります。 
境内には「天照皇太神宮」、「八幡大菩薩」、「春日大明神」の碑が置かれています。春日大明神碑の側面に「元禄年間亥年」の刻印がありますが、寺に神社の碑があるのは、神仏混交時代の遺物でしょう。

その先の道を左折し、少し行くと右側の民家前に「一里塚跡」の石柱が建っています。日本橋から118番目の一里塚です。



一里塚跡から200mほど進むと、街道の右側に専光寺が堂宇を構えています。更に数百メートル行くと道はやや左に曲がりますが、右側に「目川立場茶屋伊勢屋跡」という案内板と「田楽発祥の地碑」「領界碑」が置かれています。ここ目川の立場の田楽は菜飯田楽というもので、東海道では吉田宿(豊橋)、菊川と並んで知られていました。

江戸時代には元伊勢屋(岡野家)、京伊勢屋(西岡家)、古志ま屋(寺田家)三軒の茶屋が並んでいました。伊勢屋の天明時代の主人、岡野五左衛門は与謝蕪村に師事した文人画家だった。と案内板に記されています。 
数軒先の寺田家の前に「名代田楽茶屋古志まや跡 」と書かれた石柱が建っています。
傍らの案内板には「江戸時代には目川という立場茶屋があった所で、ここの菜飯と田楽は東海道中で名物になった。」と記されています。 

その先に乗円寺があり、西岡家の前にも「京伊勢屋跡」の案内が置かれています。道は左、右、左とカーブし、その先で堤と突き当たるので、右にカーブする道を進んでいきましょう。この辺りは旧坊袋で、左は堤、右下には畑が広がり、その先には遠くなった三上山が見えます。

新幹線の下をくぐると、また、住宅地になり、右側に「従是東膳ヽ領」と書かれた「領界碑」が置かれています。



更に行くと小柿1丁目の右側に、「史跡老牛馬養生所跡」 の碑が置かれています。湖西和称村の庄屋、岸岡長右衛門は年老いた牛馬を打はぎにする様子を見て、残酷さに驚き、息のあるうちは打ちはぎにすることをやめるように呼びかけた。天保十二年、老牛馬が静かに余生を暮らさせる養生所をこの地に設立した。なお、打ちはぎとは、殴り殺して皮を剥ぐことです。

少し先の左側の土手に「草津市」と書かれた看板があり、その先には川に上る道があったので、登っていくと水は一滴もなく草が生い茂った草津川があります。この川の歴史を辿ると「草津川は平素は水がなく、歩いてそのまま歩けることから砂川と呼ばれていましたが、大雨が降ると一気に水嵩を増して川止めになることもしばしば、堤が決壊して宿場町が飲み込まれて復旧するのに大変苦労したという記録があります。

広重の草津景

草津川の景

草津川は江戸中期頃から土砂の堆積などにより川床が年々高くなり、徐々に堤防が築かれ、江戸後期には現在の天井川の形になったと推定されます。平成14年(2002)に治水事業として中流域から草津川放水路が開削されたため、このあたりの河川は廃川になり、旧草津川と呼ばれることになりました。江戸時代の東海道は浮世絵のように川へ降りて土橋を渡って上っていったのです。土手を上ると草津宿(くさつしゅく)です。



緩やかな坂を登ると土手の上にでてきます。確かに現在の草津川は水無川の名の通り、完全に乾いています。そんな様子を見ながら橋を渡って草津宿内へと入っていきます。宿の入口には常夜燈が置かれ、宿場の雰囲気が漂っています。
宿内を進んでいきますが、古い家並みはほとんどありません。また商店街といった風情もありません。そんな光景を眺めながら進んで行くと、旧街道はT字路に出てきます。そのT字路の左角には草津市民センターがあります。そして右角には大きな常夜燈が置かれています。

常夜燈

そしてこのT字路を右へ進むと「中山道」、東海道筋は左手にのびています。ようするにこのT字路が東海道と中山道が合流する場所なのです。そしてここが草津追分と呼ばれていたのです。

分岐点を示すマンホール
常夜燈のマンホール

草津宿は江戸日本橋から数えて52宿目、京都三条大橋から2宿目の宿場町です。天保14年(1843)当時の宿内の長さは南北7町15間半(約792m)・東西4町38間(約505m)、人口2351人、家数586軒、本陣は田中九蔵本陣と田中七左衛門本陣の2軒、脇本陣2軒、旅籠72軒という規模を誇っていました。

T字路から草津の本陣は目の鼻の先の距離ですが、草津宿内の散策は次回、すなわち最終回の第一日目に行いますのでお楽しみしてください。私たちはここから旧草津川の下をくぐるトンネルを抜けて、旧草津川の土手に造られた「回転広場」で私たちの到着を待つバスに向かいます。途中、JRの線路を跨ぐ陸橋を渡りますが、橋上からは草津の街を一望できます。



このあと市内の昼食場所「近江スエヒロ本店」へ向かい、近江牛の柳川膳を食しました。

尚、このままJR草津駅の東口へは旧中山道のアーケード街を直進し、マップ内のⒷ地点を左折すると到着です。

昼食後、米原から新幹線に乗るので、その途中の彦根に立ち寄り、国宝彦根城の観光を楽しみました。草津から彦根城までバスで約1時間の距離です。(画像は2016.2.21撮影)

青く晴れ渡った空の下、天守の白漆喰が映えて美しい姿を見せていました。城内の梅の木にはチラホラと梅の花が咲いています。

天守1
天守2
天守3
天守4

天守5
天守6

第3ステージの目次へ

私本東海道五十三次道中記 第32回 第1日目 土山大野の三好赤甫旧跡から水口宿まで
私本東海道五十三次道中記 第32回 第2日目 水口城址からJR草津線石部駅前

琵琶湖を見下ろす優雅な城・国宝彦根城





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私本東海道五十三次道中記 第32回 第2日目 水口城址からJR草津線石部駅前

2015年12月16日 15時50分49秒 | 私本東海道五十三次道中記


第32回東海道五十三次街道めぐりの第2日目が始まります。昨日は土山大野からお江戸から50番目の水口宿に到着し、宿内のほぼ三分の二の距離に位置する水口城址至近の場所が終着地点でした。
城下町であった水口宿にはかつての城跡(櫓・濠)があるので、出立前に水口城資料館の見学をすることにします。

水口城址パンフ

水口城出丸御矢倉

水口城も明治御維新を迎え廃城令に伴い、いずこの城と同じように城内の建物のほとんどが破却され、現在はほんのわずかな掘割と石垣しか残っていません。

碧水城(へきすい)とも呼ばれた「水口城」は寛永11年(1634)、三代将軍徳川家光が京都に上洛した際に築かせた御殿がその始まりです。作事奉行は小堀遠州が務め、城内には二条城の御殿を模した豪華な御殿が築かれました。この御殿が将軍の宿舎として使われたのはこの一回限りで、その後は天領として幕府の城番が管理する城になりました。ですから城といっても城主がいなかったのです。

その後、天和2年(1682)、加藤明友(あきとも)が石見吉永から入封し、二万石の水口藩を立藩しこの城の主となります。加藤家は二代つづきますが、その後、鳥居忠英に替わります。鳥居家は忠英一代限りで、再び加藤明友の孫の嘉矩(よしのり)が二万五千石で入封し、加藤氏が明治維新までの約160年間にわたり九代藩主を務めました。 

歴代の水口藩主は同城を幕府からお借りしている城として大切に管理し、特に居城であるにもかかわらず、本丸部の御殿を使用しませんでした。明治に入ると城は壊され、わずかに堀、石垣の一部が残っているのみだったのですが、平成になって濠や櫓が復元され、水口城資料館として公開されています。(入館料100円、 10時~16時、月曜、祝日、第3日曜は休み

それではかつての出丸部分に復元された「矢倉」へ掘割の橋を渡って進んでいきましょう。橋を渡ると高麗門が私たちを出迎えてくれます。

高麗門への橋
高麗門への橋

高麗門をくぐると出丸御矢倉が現れます。この矢倉が「水口城資料館」です。

水口城出丸御矢倉
矢倉から見る高麗門
矢倉から見る出丸
水口城出丸御矢倉
水口城出丸御矢倉

城下町でもあった水口宿はお江戸日本橋から数えて50番目京都三条大橋からは4番目の宿場町です。天保14年(1843)当時の宿内の距離は東西22町6間(約2.4km)、人口2692人、家数692軒、本陣は鵜飼本陣の1軒、脇本陣1軒、旅籠41軒の規模でした。

江戸時代になって東海道が整備されると本陣や脇本陣、問屋場等が置かれ、宿場町として発展を続け、旅人で賑わいました。名物は干瓢をはじめ泥鰌汁・煙管・葛細工等です。広重は東海道五十三次・水口「名物干瓢」の題で、女性らが干瓢の原料であるユウガオを細長く剝いている様子を浮世絵に描いています。

ここ水口の名物が干瓢であることは関東の私たちにしてみると「へえ!」という感じなのですが、実は水口藩の三代目藩主、加藤嘉矩(よしのり)が下野国壬生藩から水口に転封になった時、名物の干瓢を下野国から持参したことに由来する、といいます。生産全国一の栃木県でも干瓢を栽培しているのは下野市周辺(宇都宮市の南部)だけです。その干瓢がこれだけ離れた水口宿の名物になっていたとは……。

さあ!それでは出立とまいりましょう。第2日目はここ水口宿から51番目の宿場町「石部」を目指します。石部まではちょっと長めの13.4キロです。



昨日辿ってきた旧街道筋のつづきへと向かうことにしましょう。中央公民館を左に見ながら、最初の信号交差点をを渡り直進し、次の四つ角を左折します。僅かな距離で道筋は突き当たりますので、これをまた左折します。そして次のT字路にさしかかるとその角に力石と呼ばれる大きな石が置かれています。江戸時代、ここは小坂町で東海道に面した角地にあるこの石は力石と呼ばれ、江戸時代の浮世絵師、国芳の錦絵にも登場します。

力石

小坂町は水口藩庁(城)にも近く、下級武士の住まいとして使われた長大な百間長屋小坂町御門などがあり、城下町の佇まいが濃かった場所です。現在、この場所には長屋の建物もなく、静かな住宅街に変貌しています。東海道はこの石の前で右折しますが、このあたりにも連子格子の家が多く残っています。 
真徳寺の表門は水口城下の武家屋敷(蜷川氏)の長屋門を移したものです。その先右側に木々が生い茂っているところが五十鈴神社です。 

百長屋の案内板

五十鈴神社の創建時期は定かではありませんが、神社がある場所は一説によると倭姫命の斎王群行が数年間にわたって留まったと言われています。斎王群行と係りがあることから、五十鈴神社の御祭神は天照大神です。

五十鈴神社の角に土が盛っていて「林口の一里塚跡」と書かれた標石があります。林口一里塚は、最初はこの場所より南の位置に置かれていたのですが、水口城の城郭の整備で東海道が北側に付け替えられたことで一里塚は五十鈴神社の境内の東端に移ったようです。お江戸日本橋から113番目(約444km)、京三条大橋からは12番目(約49km地点)の一里塚です。

林口一里塚跡

東海道は五十鈴神社の一里塚で左折するとすぐに岩谷医院前の信号交差点に出ます。この信号交差点あたりに東海道の西側入口の「西見付」があったと思われますが表示はありません。そしてこの場所で水口宿は終わります。

水口宿の西見付跡がある信号交差点で本来の東海道筋へと入ります。それほど広くない道幅の両側は住宅街がつづきます。そしてほんの僅かの距離を進むと街道の左側に造酒屋の「美冨久酒造」があります。店前には壜が置かれ、黒い板壁と白い漆喰が見事に調和しています。

美冨久酒造
美冨久酒造
美冨久酒造

美冨久酒造は大正6年(1917)創業です。「山廃仕込」という酒造の伝統技法を受け継ぐ醸造元です。少し行くと左側の麦畑の彼方に丸い小さな山が連なり、街道松があるところに出てきます。

畷道

古い時代には伊勢大路とも呼ばれていた道筋はかなり曲がりくねっていたのですが、江戸時代に東海道を整備する時に見通しが効くようにほぼ一直線の道筋にして、道の両脇の土手に松並木を植えていました。この辺りから東海道十三渡しの一つで野洲川(横田川)の横田の渡しまでの約3.5キロの道筋は畑の中を貫く一本道で、江戸時代には北脇畷(縄手)と呼ばれていました。私たちが歩いたのが2月の寒い季節だったのですが、遮るものがない畑の1本道は北風をまともに受け、かなりシンドイ思いをしました。



縄手道と言われている通り、旧街道は真っ直に延びています。おそらく街道時代と変わらない景色なのでしょう。街道の左右には田畑が広がり、遥か彼方に小高い山並みが連なっています。真冬の季節なので畑の緑はまったくなく、殺伐とした景色が只々続くだけです。

そんな殺伐とした景色がつづく道筋を2キロほど歩いていきますが、ほんの少し気休めになるのが路傍に小さな石仏たちです。美冨久酒造から750mの交差点の先の左側に北脇公民館があり、このあたりに一つの集落を形成しています。その先200mほど進むと、柏木小学校の前には松並木が残っています。

柏木小学校から更に250mほど行くと、柏木公民館があります。その公民館前の広場にが一つ置かれています。その櫓には梯子が付けられ、丁髷姿の一人の男が梯子を登っています。櫓の上には半鐘らしきものが吊り下げられているので、江戸時代の火の見櫓を模したものではないでしょうか。櫓の下に付いている扉を開けると内部に仕込まれているカラクリが自動的に動き始めます。そのカラクリは街道沿いで干瓢をむいて干している様子なのです。

柏木公民館の櫓

前述のように水口は干瓢が名物で、広重の保永堂版水口の景はこのカラクリの中の風景と同じです。畷道が少し飽きてきたところでの、ちょっと変わった展示物の出現でリフレッシュし、気持ちを改めてさらに旅をつづけていきましょう。



街道の景色
街道の景色

街道の両側には畑が広がり、田舎の風景がつづきます。柏木公民館から更に250mほど進むと、東海道と柏貴農道が交差する信号交差点にさしかかります。この交差点を過ぎると、街道脇の家の数が増えてきます。この集落が泉集落で柏木集落よりも規模が大きいようです。歩き始めて3.5㎞地点を過ぎた辺りで泉公民館の前にさしかかります。泉集落は古い家も多いのですが、古さもさることながら、どの家もどっしりとした大きな構えばかりです。



泉公民館を過ぎて、少し進むと道の右側に「国宝延命地蔵尊泉福寺」の石柱が置かれています。入っていくと、道の途中の三叉路の左角に「淨品○」と刻まれた道標がありますが、土に埋まっているので読めません。その先に堂宇を構える淨品寺でしょう。その先の「泉福寺」は最澄の開基と伝えられる天台宗の寺院で、ご本尊の木造地蔵菩薩坐像国の重要文化財です。泉福寺の境内には年老いた大樹が茂っています。(※淨品寺及び泉福寺には立ち寄りません)

東海道に戻り進み、200mほど松並木が続く中を行くと三叉路の左手に橋が見えてきます。橋の手前に「東海道」の案内標木があるので、ここで左手に進む道筋へ入ると、泉川に架かる「舞込橋」を渡ります。

舞込橋

渡ると右側に「日吉神社御旅所」の石柱があり、道はその先で右に緩やかにカーブしていきます。
日吉神社御旅所を過ぎると「泉の一里塚跡(114)」が置かれていますが、その一里塚の右手前に墓地があります。墓地と言っても墓石が並ぶものではなく、なんと土盛りの墓です。土盛りといえば、ピンと来るのが「土葬式」の墓地です。現在は「土葬」による埋葬方式はできませんが、かつて古い時代には土葬が一般的だったのです。墓地全体にこんもりと土盛りをした小山が並んでいます。

土盛りの墓
泉の一里塚跡

尚、現在でもこの墓地は現役で、火葬後に骨の半分を壺に入れてこの墓地に埋葬し、残り半分の骨をお寺のお墓に収めるそうです。こういった方法はこの辺りの風習のようです。この墓地からほんの僅か先の右側に榎の木が一本植えられている築山がありますが、これが「泉の一里塚(114)」を再現したものです。昔の泉の一里塚はこの場所よりもっと野洲川に近いところにあったようです。

その先で小さな川を渡り、左にカーブをすると車道の先に冠木門と巨大な常夜燈が置かれています。頻繁に車が走る道を渡るのですが、信号がないので十分注意してください。常夜燈の向こう側には野洲川が流れ、街道時代には船による渡しが行われていた「横田の渡しの跡」です。

横田の渡し
横田の渡しの冠木門
横田の渡しの常夜燈

見るからに巨大な常夜燈は高さ10.5m、笠石は2.7m四方、囲いは7mの玉垣で築かれているもので、対岸からも、渡し舟の上からもこの常夜燈は大きく目立つ存在だったのでしょう。明治24年(1891)に常夜燈の右側河岸に石垣を組んで木橋が架けられました。そして昭和4年に下流に橋は移されたという説明があります。

街道時代の渡しが行われる時間帯は一般的に明六つから暮六つなのですが、ここ横田の渡しでは江戸参勤交代の行列をはじめ一般の旅人たちも含め、夜中に及ぶ往来が頻繁で、川を渡る途中での事故が多発してようです。このため文政5年(1822)、村民達の寄付で建立されたのが夜に灯がともる巨大な常夜燈で、灯台の役目を果たしていたものです。

横田の渡しの常夜燈

今は野洲川(やすかわ)と呼ばれていますが、かつてこのあたりでは横田川と呼ばれていました。西から伊勢や東国に向かう旅人はこの川を渡らなければならなかったのですが、室町時代には横田川橋が架けられていましたが、江戸時代に入ると防衛上、通年の架橋が認められず、通常時は舟渡しだったのです。江戸幕府は「東海道の十三渡し」の一つとして直接管理し、泉村に命じて賃銭を徴収させて渡しの維持に当らせていました。

野洲川の眺め
野洲川の眺め

3月から9月までは四隻の船による舟渡し、寒さが厳しくなる10月から2月は流れ部分に土橋を架けて通行させていました。
現在見る野洲川もかなりの川幅があり、水量も豊富で「東海道十三渡し」の名に恥じない立派な大河です。お江戸から京へ上る私たち関東人にとって、東海道十三渡しの名前も「七里の渡し」までの河川や海上渡しは馴染みがあるのですが、ここ「横田の渡し」となるとちょっとピンとこない感じです。そんなことで東海道十三渡しを今一度おさらいしてみます。

《東海道十三渡し》
①六郷川(武蔵)②馬入川(相模)③酒匂川(相模)④富士川(駿河)⑤興津川(駿河)⑥安倍川(駿河)⑦瀬戸川(駿河)⑧大井川(駿河)⑨天竜川(駿河)⑩荒井海(遠江)⑪桑名海(伊勢)⑫横田川(近江)⑬草津川(近江)

これまで東海道十三渡しもここ横田川(野洲川)を含め12の河川と海上渡しを体験してきました。思えば遠くに来たもんだ!
横田川を渡ると、東海道の渡しも草津宿に入る手前の「草津川の渡し」を残すだけとなります。



かつての渡し場からは野洲川(横田川)を渡れないので1㎞ほど下流の横田橋に向かいます。泉西交差点で旧街道はいったん国道1号線と合流します。私たちは泉西交差点で反対側に渡り、国道1号に沿って右側の歩道帯を歩いて横田橋へと向かいます。
この泉西交差点を過ぎると、私たちは甲賀市から湖南市へと入ります。(国道1号線の左側を進むこともできますが、この先の朝国交差点で横断歩道橋を使って右側へ移動しなければなりません。尚、国道1号線の左側を歩くほうが、右側よりも平坦です。)

湖南市に入ったのですが、湖南とは琵琶湖の南という意味ですよね。と言ってもこの場所から琵琶湖まではまだ距離があり、琵琶湖とは接していません。湖南とはそもそも草津市から大津市の瀬田辺りの地域を指すもので、横田、三雲辺りを湖南と言われてもピンとこないのは私たちが関東の人間だからでしょうか?さらには湖南市の次に栗東市があり、その次に琵琶湖に接する草津市が現れます。
この湖南市は平成16年に旧石部町と旧甲西町が合併して誕生しました。おそらくその際の命名で、すでに甲賀市があったので、地勢的に無理を承知で「湖南市」としてしまったのかな?とひねくれた考えを持ってしまいました。

さて、横田橋は昭和27年に国道1号を敷設の際に架けられたものです。国道1号線は横田橋へは繋がらず、右方向へと分かれていきます。
横田橋には片側にしか歩行帯がありません。(京へ上る場合は橋の右側です)橋を渡ると旧甲西町三雲、今回の合併で湖南市になったエリアへ入ります。野洲川は上流から名前を変えながら流れていき、最後に野洲川になるようです。世の無常を書いた方丈記の作者、鴨長明は「横田川 石部川原の 蓬生に 秋風さむみ みやこ恋しも」と詠んでいます。

横田橋から見る野洲川

横田橋をほぼ渡りきると、橋下へつづく階段があるのでこれを下って行きましょう。階段を降りたら、左折して国道13号の下をくぐり直進すると、JR草津線の三雲駅(みくも)が前方に見えてきます。

突き当りが三雲駅

旧東海道筋は三雲駅手前の四つ角を右へ曲がります。ここで寄り道なのですが、この四つ角を左へ進むこと195mの場所に、横田常夜燈が置かれています。安永8年(1774)に東講中によって建立されました。左岸の三雲地区、右岸の泉地区のそれぞれに常夜燈が設置されましたが、三雲側の常夜燈は泉側のものよりも50年以上古いそうです。建立当時は現在地よりも約200m上流に置かれていました。

そしてこの常夜燈のある場所から右に折れて、草津線の踏切を渡り、緩やかな登り坂を辿ること約200mの小高い山の中腹に置かれているのが「天保義民之碑」です。それほどきつくはない坂道をのぼっていくと高さ10mという大きな慰霊碑が立っています。

天保義民之碑へとつづく坂道

天保13年(1842)不条理な検地に異議を唱え近江天保一揆を起こした重要人物、三上村の庄屋土川平兵衛をはじめとする11名の追悼と慰霊を目的に建立されました。これを近江天保義民と呼んでいます。他の百姓一揆と同様、近江天保義民は首謀者として幕府により捕縛され死罪等で犠牲となった人々のことです。明治になってようやく大赦となり、一揆から56年後の明治31年(1898)にこの天保義民之碑が建立されました。

天保義民之碑
天保義民之碑

来た道を戻り、三雲駅前に来ると「微妙大師萬里小路藤房卿御墓所」、左側に「妙感寺従是二十二丁」と書かれた石柱が置かれています。

微妙大師萬里小路藤房卿御墓所

萬里小路(藤原)藤房は鎌倉時代末期の公卿で、元弘の乱の謀議が露見したため、後醍醐天皇の笠置山脱出に従いましたが、 その後、出家し臨済宗妙心寺派大本山、妙心寺の二代目住職になったという人物です。微妙大師の諡号は昭和天皇によるものです。ここから南西22丁にある妙感寺は藤房が晩年に過ごしたところです。



旧東海道筋は草津線の線路沿いに続いています。この界隈は旧田川村で江戸時代は立場だったところです。駐在所前の民家に「明治天皇聖蹟」の碑が建っています。

ここを過ぎると旧街道は右へ左へと蛇行を繰り返していきます。荒川という小さな川に架かる荒川橋を渡ると地名は湖南市吉永に変ります。左側のなだらかな坂道の右路肩に古そうな石碑が幾つか置かれています。正面に「萬里小路藤房卿古跡」、右面に「雲照山妙感寺 従是/十四丁」と書かれた石標と「妙感寺」、「立志神社」、「田川ふどう道 」などの道標が建っています。

石碑群

立志神社は江戸時代の「東海道名所図会)に「垂仁天皇の頃、大和国より天照大神が伊勢へ遷坐の時 この地に四年間鎭座し、瑞雲緋の如くたなびきしより緋雲宮と称し、のち日雲とし、また後世三雲と訛れるなるべし」とある神社です。 

立志神社は倭姫命(やまとひめのみこと)が伊勢へ落ち着くまで、天照大神を奉斎して大和から近江、美濃、伊賀などの各地を廻った際、仮宮になった社(やしろ)の一つだったようです。妙感寺は萬里小路藤房が開山した寺で、元亀元年(1570)、織田信長による焼き討ちに遭い焼失しましたが、万治年間(1660年ごろ)に再興されました。

旧街道の左側にJR草津線が走っています。まもなくすると旧街道は4号線と交叉します。信号がなく、横断歩道しかありません。そしてかなり交通量が多いので注意深く、横断歩道を渡ってください。いったん横断歩道を渡り、その後JR草津線の踏切をわたります。JR草津線の踏切を渡ってすぐに右折すると道の右側に「東海道」の木標が置かれています。

東海道の木標

 

草津線の踏切を渡り吉永地区へ入ると、道幅はかなり狭くなります。旧街道を進んで行くと、その先に「大沙」と記したタイルが嵌めこまれたトンネルにさしかかります。なんとトンネルの上には川が流れています。川の名前は「大沙川」と言います。大沙トンネルに入る手前左に久し振りに見る町の小さな商店があります。店先には自動販売機が置かれています。その店の反対側(街道右手)には可愛らしい屋根付のバス停留所が置かれています。

大沙トンネル

大沙川は上流から運ばれた土砂が堆積して川底が上がり、川が家や田畑よりも高くなったところを川の氾濫を防ぐために土手を高く築き直した結果、川がこのように高いところを流れるようになったのです。このような川を天井川といい滋賀県東部に多く見られます。江戸時代までは土手を登り川を渡って向こう岸の土手を下っていたようですが、明治以後はトンネルを造り、その下をくぐるようになりました。この大沙(砂)川トンネルはその一つです。

トンネルの幅が狭いため、トンネル内の歩道帯もかなり狭くなっています。車の往来もかなりあるので、トンネル内の歩行には十分注意してください。トンネルを抜けると左側に「弘法大師錫杖跡」の碑が置かれています。そして頭上の土手上に大きな杉の木が立っています。この大杉は地元では弘法杉と呼ばれ、樹高26m、周囲6m、樹齢750年という堂々とした杉の古木です。

弘法杉
トンネルと弘法杉
弘法大師錫杖跡碑

弘法杉の名の由来は大師が熊野詣での途中、この場所で昼食をとる際、杉の枝を折って箸の代わりとして使い、食後、2本の枝を土に突きたてました。その後、土に刺した箸が成長して二本の杉の大木になったと伝わっています。そして二本の杉の木の間に祠を設け、人々の信仰の対象となったそうです。
もともと二本の杉が並立していたようですが、安永2年(1773)の地震で片方の樹は倒れたと伝えられています。土手を登りトンネルの上に出ることができます。土手の上からは私たちが歩いてきた方向を一望することができます。

天井川の流れ
土手の上からの眺め

大沙川隧道を抜けてから、街道の左手の小高い山を眺めると、その山の中腹に巨大な岩が遠目でも見ることができます。実はこの山の中腹に戦国時代の「城」が置かれていました。城の名前は「三雲城」といいます。
この城は長享2年(1488)に安土の観音寺城主であった佐々木六角高頼が逃げ込みのための本城として、三雲典膳に命じて築かせたものです。しかし、元亀元年(1570)に信長の家臣の佐久間信盛の攻撃により、落城そして廃城となってしまいました。
城跡に残されたものの中で、山の中腹の巨大な岩は「見張り台」として使われていたと言われ、その大きさから「八丈岩」と名付けられています。八丈とは一丈は3.08mですから、およそ24mの高さの大岩です。



夏見地区には古い家が多く見られます。すでに通り過ぎた大沙川とこの先の由良谷川に挟まれた地域に江戸時代には「夏見の里」と呼ばれる「立場」が置かれていました。その当時、この立場には心太(ところてん)を名物にする茶屋が数軒並んでいました。現在の夏見の里は過ぎ去った時代を伝えるものはなく、静かな佇まいを見せているだけです。
そしてこの心太(ところてん)にまつわる歌が残っています。
「いさぎよき 菜摘(夏見)の茶屋のところてん 水からくりのまわす人形」
この歌の意味は、「背後の山から湧水を引いて、その水で心太を冷やし、その冷やした水でからくり人形を動かして、旅人の目を楽しませた。」

※平成21年まで「いなりや」という名の茶店の建物が残っていましたが、すでに撤去されています。

歩き始めてから8.5㎞地点にさしかかる辺りの街道左側に夏見診療所があります。この診療所の前に「石部宿一里塚跡」と書かれたの案内板が目立たない存在で置かれています。

石部宿一里塚案内板

実際に一里塚が置かれていた場所は70mほど東にあったといいます。お江戸日本橋から115番目(約452km)、京三条大橋からは10番目(約41km地点)となる一里塚が築かれていましたが現存しておらず、案内板が立っているだけです。案内板には「石部一里塚」とありますが、文章内には夏美とあります。

夏見(石部)一里塚跡」を通り過ぎると、さきほどの大沙トンネルと同じ、天井川の由良谷川トンネルが見えてきます。

由良谷川トンネル



トンネルをくぐると針地区で、左手の山には広大な敷地を有するタケイ種苗会社の研究農場が広がっています。針地区は街道情緒を感じさせる家並みが続きます。由良谷川トンネルから750m程行くと左側に文化2年創業という老舗の「北島酒造」があります。北島酒造では店内に湧く鈴鹿山系の伏流水を使って酒は仕込まれている、といいます。

北島酒造

その先で家棟川(やのむねかわ)(かつては天井川でしたが、現在は川筋を掘り下げ天井川になっていません)を渡りますが、川の手前が針集落、川を渡ったところからは平松集落です。そして橋を渡ったところに「両宮常夜燈」が建っています。両宮とは伊勢神宮の内宮と外宮のことを指しています。

※街道を逸れて家棟川に沿って歩いて行くと、飯道神社(いいみちじんじゃ)が社殿を構えています。祭神は、素盞鳴尊、菅原道真です。
※同じく街道を逸れて美松ゴルフ練習所の近くには南照寺と松尾神社があります。
南照寺は天台宗の寺で、延暦24四年(805)に伝教大師によって開基されたと伝えられている古刹です。
松尾神社は南照寺と同じ境内に社殿を構えています。松尾神社は平松集落(旧平松村)の鎮守社で、文徳天皇の仁寿3年(853)、領主の藤原頼平が山城国松尾神社から美松山に勧請、 至徳3年(1386)に現在地に遷座されました。本社殿は文政4年(1821)の建立です。 
南照寺と松尾神社は江戸時代までの神仏混淆時代は一つのものだったのですが、明治の廃仏希釈により現在の形になり、南照寺の住職が松尾神社も管理されています。

そして街道に近い場所に堂宇を構えるのが西照寺です。西照寺は天文6年(1537)、応誉明感の開基で高木陣屋の領主、高木伊勢守の菩提寺で、九代目の高木松雄の墓が置かれています。

旧街道筋の左側の滋賀県湖南市(旧甲西町)の南西に標高631.1mの阿星山(あぼしやま)がそびえています。そして阿星山の眼下の標高226.6mの美松山の南東斜面に不思議な松が自生しています。
アカマツの変種で、一本の根から地表近くで放射線状に枝が分かれた、笠や扇のような珍しい樹形をしており、地元の人はいつからか「平松のうつくし松」と呼ぶようになりました。自生地全体は特異な形態をなしており、その美しい景観は他に見ることができないと言われています。

このような松は日本でもここだけで、美松山の南東斜面一帯の約1.9haに樹形は傘型をしており大小約220本が群生しています。自生地は東海道に近く、古来より松の名所として知られていて、街道を往来する人々にも注目されていました。

大正10年(1921)3月3日に天然記念物として国の指定を受け、現在約200本以上の「うつくし松」があり、樹齢300年以上、高さ約12.7mになるものもあります。独特の樹形の理由は、自生地の土質(砂が交じった赤粘土)のため、ともいわれていますが、定かではありません。樹形は、扇型(上方山形)、扇型(上方やや円形)、傘型(多形型)、ホウキ型の四型式に分類されています。

そしてこの松には不思議な伝説が残されています。平安時代、病弱だった公家の藤原頼平が静養のため、この地を訪れていたときのこと。突然、童女が木々の間を舞い出て、京都の松尾神社の使いとして頼平を護るために供をしてきた、と告げました。ふと見ると、周囲の松がすべて、うつくしい松に姿変えていたといいます。このことがあってから、頼平のと松尾神社のの字をとり、JR甲西駅から南に伸びた地域に平松という村の名がつけられたということです。



家棟川(やのむねかわ)を渡ると東海道の道筋は柑子袋(こうじぶくろ)という珍しい名の集落に入ります。街道から少し奥まったところにお寺が幾つかあり、右手に愍念寺、光林寺、養林寺、左手には八島寺などが堂宇を構えており、寺が多い地域です。 



さあ!水口宿から歩き始めて11キロ地点にさしかかり、やっと石部宿の東木戸が近づいてきます。

落合川の橋を渡ると、日本橋から数えて51番目、京都三条からは3番目の宿場町である石部宿(いしべしゅく)に入ります。江戸時代には落合川から300mほど行ったところに石部宿の木戸があり、そこが石部宿の江戸側の入口であったといいます。現在の石部東交差点のあたりが江戸時代の木戸があった場所と思われますが、現在は何の痕跡も残っていません。宿内を貫く道筋に置かれた街燈には「東海道」の表示があり、股旅姿の旅人のイラストが描かれています。

石部宿の宿内の距離は1600mの長さで、家の数が458軒、宿内に1616人が住み、本陣が2軒、脇本陣はなく、旅籠が32軒の規模です。広重の浮世絵「東海道石部宿」は草津に向かう山を背景に描いていますが、実際には石部の宿場の景色ではなく、目川の立場の様子を描いています。

広重・石部の景

京から下る場合、「京発ち石部泊まり」といわれたようで、京を発った旅人は東海道なら石部宿、中山道なら守山宿に最初の宿をとったと言われています。ちょうどお江戸の日本橋を発って戸塚宿で最初の宿をとったのと同じくらいの距離です。宿場として繁栄していたことからいろいろな事件も起きたようで、そうしたことを題材にして歌舞伎や浄瑠璃にも石部宿は登場します。
桂川連理柵(かつらがわれんりのしがらみ )は浄瑠璃で、38歳の長右衛門が伊勢参りの下向の途中石部宿で、14歳のお半と一夜を共にしたばかりに追い詰められて、京の桂川で心中するという話です。

石部東交叉点から100mほど歩くと「吉姫の里あけぼの公園」の標示があります。ここを街道から左手に上って行くと小高い場所に古墳 があります。吉姫の里あけぼの公園は宮の森古墳に作られた古墳公園です。古墳時代の中期、5世紀に築かれた宮の森古墳は前方後円墳で円の直径は55m、高さは10mです。

公園の隣に「吉姫神社(よしひめ)」が社殿を構えています。神社の社頭には吉姫神社の創建時期ははっきりしないが、御旅所の上田の地に祀られていた明応年間に兵火に遭い燃失し、天文3年(1534)に現在地に移ったという神社であると記されています。江戸時代には上田大明神という名で呼ばれていましたが、 明治元年に現在の名前になった。とあります。ご祭神は上鹿葦津姫(かみかやつひめ)大神、吉比女大神(よしひめ)、配祀神は木花咲耶姫(このはなさくやひめ)と女の神様ばかりです。

吉姫神社の鳥居
吉姫神社境内
吉姫神社社殿

街道から奥まった場所に社殿を構える当社は吉姫の里あけぼの公園から連なる丘の麓に置かれています。静かな空気が流れる境内の一番奥に本社殿があります。吉姫神社の本殿は室町時代の天文3年の建立で、間口一間三尺、奥行一間一尺の大きさの一間社流造です。拝殿は間口三間、奥行三間の大きさの入母屋造りです。



吉姫神社がある辺りから石部の町の家並が増えてきます。街道沿いには漆喰壁、むしこ窓、格子戸のある古い家が目立ち、宿場らしい風情が漂う街並みに変ってきます。石部中央交差点の手前右手には清酒・香の泉を造る「竹内酒造」があり、交差点の南側には小さな広場があり、東海道のポケットパークになっています。ここには高札場跡の案内板が置かれています。

ポケットパーク
高札場跡

交差点を渡ると左側に「問屋場跡」「石部城址」の案内板が置かれています。

問屋場跡

石部の城跡は石部中央交差点を左折して左手奥に堂宇を構える「善隆寺」の境内一帯と言われています。この善隆寺は石部氏の菩提寺で、境内の奥に空堀の一部と石垣が残っているようです。

問屋場や高札場が置かれていた石部中央交差点を過ぎると、いよいよ石部宿の中心エリアへと入ってきます。中心エリアと言ってもかつての宿場の風情を残す家並みはほとんど残っていません。
中心エリアというのはいわゆる本陣があった場所という意味です。まず右手に「三大寺本陣跡」そして更に先の左側に「小島本陣跡」の案内板と「明治天皇聖蹟碑」が置かれています。

明治天皇聖蹟碑

案内板には「小島本陣は吉川代官所の跡地に建てられ、永応元年(1652)に本陣となり、明治維新で本陣制が廃止するまで続いた。敷地2845坪に間口45間、奥行31間、建坪775坪、部屋数が26室、玄関や門が付いた家だったが、老朽化で昭和43年に取り壊された。幕末には14代将軍徳川家茂が文久3年(1863)の上洛の際に宿泊した。最後の将軍・一橋慶喜も同年、上洛の際、ここで小休止している。また、新撰組局長、近藤勇も文久4年(1864)江戸下向の際に宿泊している。」とあります。
尚、表札を見ると「小島」とあったので 今も小島さんの末裔が住んでおられるのでしょう。

この先の街道左手には淨現寺明清寺そしてさらにその先に真明寺が堂宇を構えています。

道筋はやや右手にカーブしながら、宿内の鉤の手にさしかかります。この鉤の手で街道は鋭角的に右に折れます。その左角に店を構えるのが「石部宿田楽茶屋」です。この茶屋は東海道開設400年を記念して造られたものですが、私たちがこの場所を通過した時は午後4時を回っていたため、すでに店じまいをしてしまった後で、利用することができませんでした。田楽茶屋と銘打っているので、田楽も食べることができるようです。ここでは石部地域の伝承家庭料理である「いもつぶし」なるものを販売していますす。

石部田楽茶屋

田楽茶屋のある三叉路に置かれた常夜燈の下に「京へ右東海道」とあるので、右側の道を行きますが、江戸時代にはここは「枡形」になっていたようです。少し行くと次の鉤の手が現れ、旧街道はここで左へ折れ曲がります。そして右側の家の前に目立たない存在で「一里塚跡」と書かれた木標が置かれています。江戸日本橋から116番目(約456km)、京三条大橋からは9番目の一里塚跡です。



石部一里塚跡から200mほど行くと、石部西の信号交差点にさしかかります。この交差点を渡った右角に「見付」と書かれた木標が置かれています。ここが石部宿の京側の入口である西の木戸があったところですが、今は何も残っていません。そしてここで石部宿は終わります。

石部宿の西の玄関の見附を出たあたりにはほんの少し古い家が残っています。そんな様子を見ながら本日の終着地点のJR草津線、石部駅前へと進んでいきましょう。前方には道筋の正面に近江富士と呼ばれている三上山が見えてきます。

石部駅への道筋

街道左手の旅館平野屋を過ぎた先で、街道から右へ折れ直進するとJR石部駅です。かつての宿場町に近い駅とは思えないほど、閑散とした、寂しい空気が漂う駅への道筋です。当然、駅前には立派なロータリーがあるものの、その周辺にはコンビニもその他の商店もありません。尚、小さな駅舎の左隣にコミュニティハウスがあり、平日は午後4時まで喫茶店らしきものが営業しているようです。大変お疲れ様でした。水口宿から石部宿(JR石部駅)までの13.4キロを踏破しました。

JR石部駅

第3日目はここJR石部駅前から出立し、江戸から52番目の宿場町である草津を目指すことにします。

第3ステージの目次へ

私本東海道五十三次道中記 第32回 第1日目 土山大野の三好赤甫旧跡から水口宿まで
私本東海道五十三次道中記 第32回 第3日目 JR草津線石部駅前から草津宿





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私本東海道五十三次道中記 第32回 第1日目 土山大野の三好赤甫旧跡から水口宿まで

2015年12月15日 09時59分14秒 | 私本東海道五十三次道中記


前回31回目の3日目は「道の駅・あいの土山」から旧街道を辿り、国道一号と合流する土山町大野の信号交差点までの7.2キロを歩きました。そして私たちの東海道五十三次街道めぐりの旅もいよいよ終盤へとさしかかってきました。さあ!迎える32回目の第1日目は50番目の水口宿、第2日目は51番目の石部宿、そして第3日目は中山道との合流地点でもある52番目の草津宿へと歩を進めていきます。

水口城櫓

すでに前回の旅で国境の鈴鹿峠を越えて、伊勢国から近江国へ入ってきました。そして近江国の甲賀市から湖南市そして草津市へと行政地区を変えながら進んで行くのが今回の行程です。

宿場名 宿場の地域 日本橋からの距離      次の宿場への距離
土山 滋賀県甲賀市 110里11町7間(433.2km) 2里25町(10.6km)
水口 滋賀県甲賀市 113里7間(443.8km)      3.5里(13.7km)
石部 滋賀県湖南市 116里18町7間(457.5km) 2里35町54間(11.8km)
草津 滋賀県草津市 119里18町1間(469.3km) 3里24町(14.4km)



第一日目は前回31回目の終着地点の土山町大野の信号交差点脇の赤甫亭みよしの駐車場が出発地点です。この信号交差点で国道1号から右手に分岐する旧街道の細い道筋に入ると、旧徳原村の小さな集落が始まります。集落を進んで行くと道筋の左側の藁葺屋根の家の前に「旅籠東屋跡」の石柱が置かれています。

旧徳原村の集落を300mほど進むと、左手に国道1号の徳原交差点が見えてきます。曲がりくねるように続く旧街道の左右には田畑が広がり、長閑な雰囲気を漂わせています。伊勢から近江に入り、近江路を辿っていますが、どことなく田舎じみた風景がつづきます。
第1日目の行程は旧街道を辿って行きます。車の往来の多い、1号線に沿って歩くよりは街道歩きをしているといった趣を強く感じます。

街道からの景色



旧街道を1.5km強進むと国道1号との合流地点である大野西の信号交差点にさしかかります。路傍右には夜尿症の回復にご利益があるという南向き地蔵が目立たない存在で佇み、大野西交差点の手前左側に松が植えられており、「東海道土山今宿」と刻まれた石碑と「今宿ポケットパークの常夜燈」が置かれています。この辺りが土山町大野の最西端に位置します。

東海道土山今宿の石碑

大野西交差点で国道1号線を横断して左側の県道(以前の国道1号)に入り、水口町今郷と土山町大野の境を流れる稲川を渡ると地名は甲賀市水口町今郷に変ります。

大野西交差点
野洲川遠望
国道1号線

この場所に流れる稻川の上流に「湧水の源」という史跡があります。ここには延宝4年(1676)建立の稲川碑が建てられていますが、工場敷地内のため見学は困難だということです。「稲川碑」は正保4年(1647)水口城城代の山口重成という人が東海道を往来する旅人に飲み水を提供するため掘らせたという功績を讃えて建立されました。また、平安時代の源平合戦で敵の矢を目に受けた平景清がこの地に落ち延び、稲川畔の湧水で目を洗ったところ血涙が止まったと伝わることから、「景清の目洗い水」とも呼ばれています。

水口町に入り、県道(旧1号)をほんの僅か歩き、すぐに右手に折れて「仕事人」という食事処の前の上り坂へ進んでいきます。ゆるやかな坂道を進むと、街道の右側の林の中に「経塚」の案内板が置かれています。平安の昔、この辺りに化け物が出て村人を困らせていました。あるとき伝教大師最澄がこの地を訪れて大般若経を読経したところ、その後は化け物が出ることは無くなったと伝えられています。そして村人がそのお経を土中に埋めた場所と伝わるのがこの経塚です。このまま緩やかな坂道を進んでいくとすぐに道筋は平坦になります。

水口町今郷の家並



少し行くと左側に浄土寺の前に「今在家(いまざいけ)一里塚跡」の標が置かれています。お江戸日本橋から112番目(約440km)、京三条大橋からは13番目(約54km地点)の一里塚跡です。

今在家一里塚
今在家一里塚
お休み処

街道時代にはここよりももう少し東側にあり、塚上には桜が植えられていたといいます。明治初年に撤去、現在は榎を植えた一里塚が復元されています。そして路傍に「馬頭観音」などの石仏群が置かれています。
一里塚に隣接するように、小さなお休み処が置かれています。このお休み処の裏手に男女共用のトイレがあります。

旧街道の道筋はそのまま直進するようにつづいているのですが、街道は一般的にはお寺があればその山門前を通るのが江戸時代の考え方なので、私たちはこのお休み処の角を左へ折れ、浄土寺山門前を通って県道(旧1号)にいったん合流します。

1号線との合流地点


合流地点にさしかかると前方に野洲川の流れが視界にはいってきます。野洲川は滋賀県を流れる淀川水系の一級河川で、琵琶湖への流入河川では最長を誇ります。近江太郎の通称で親しまれています。合流地点の角に司馬遼太郎の「街道をゆく」と題する石碑が置かれています。

県道を50mほど歩くと三叉路の角に高札場跡とお休み処が現れます。お休み処といってもゆっくりと腰を掛けるスペースや椅子などはありません。このお休み処がある場所に今在家の高札場跡が置かれています。

お休み処

そして信号のない三叉路を渡り、その先で右手に分岐する狭い道筋に入っていきます。そんな道筋に入ると静かな雰囲気を漂わせている今郷集落です。今郷集落には古い家が多く残っています。



今郷集落を進んでいくと、また信号のない交差点が現れます。そのまま直進し、宝善寺の前を通り過ぎると道は少し上りになり、左にカーブしながら県道(旧1号)に再び合流します。

宝善寺山門

街道の右側には山裾が旧街道に迫り、左手には野洲川が間近に流れています。街道時代から東海道は右手の山と左手に流れる野洲川に挟まれた狭い場所に穿かれていたことが分かります。

今里の古い家

街道右手には木々に覆われた山が街道側まで迫っています。そしてこの山には巨岩があり、古くから地元の人々はこの巨岩を「岩神」と呼んで信仰していました。岩神は子供の成長にご利益があるとされ、独特の風習が伝えられています。
そんな習わしを記述した案内板が置かれています。

岩神様の案内板

案内板にはこんなことが書かれています。
『祠なくて岩を祭る。この近村の人、生まれし子をこの岩の前に抱き出て、旅人に請うてその子の名を定むをな俗(ならわし)とせり。この他、大石奇岩有り。里人に問うべし。右の方に川あり。水上は土山の奥より出て横田川へ流れ入る。』

現代調に書き直すと「岩神の近隣に住む村人は子が生まれると、母親か親族の者が岩神の前に子を抱いて立ち、東海道を往来する見ず知らずの旅人にお願いして名前を付けてもらっていたのだという。」ということらしいのですが、どういった所以でそんなことをするようになったかまでは書かれていませんが、何とも奇妙な風習です。中には意にそぐわない名を付けられた親もいたのではと……。
 
尚、この場所は寛政9年(1797)の「伊勢名所図会」には絵入りで紹介された名所でとして知られています。ここには「岩神社」と「岩上不動尊参道」の石柱があり、東海道の道は矢印で示されています。

旧街道はほんの僅かの距離ですが、県道(旧1号線)に沿って歩きますが、すぐ右手に分岐する旧街道筋へと入っていきます。
街道沿いには住宅がつづく景色に変ってきます。しばらく行くと街道から少し奥まったところに山門を構える「永福寺」にさしかかります。この永福寺がある辺りが旧新城村の中心だった場所です。宝永2年(1705)再建の永福寺で、阿弥陀如来を中心とする観音・勢至・地蔵の四尊を描く来迎図を寺宝に持っています。この来迎図は昭和59年に水口町(現甲賀市)の文化財に指定されました。



4キロを過ぎたあたりの街道の右側に「八幡神社」の石柱があり、右手に八幡神社の鎮守の森が見えます。
この辺りを新城と呼んでいますが、当社は新城の鎮守様と思われます。街道からも鳥居やお堂、お社が見えます。八幡神社の境内には「新城観音堂」が置かれています。馬頭観音をご本尊として祀り、堂内には水口宿の旅籠や宿役人等が奉納したという2百余りの小絵馬が残っています。

八幡神社
八幡神社

そこから200mほど行くと街道は三叉路となるので、右手へとのびる道へ進んでいきます。その右手へ延びる道を行くと、最近植樹されたような松があるのですが、「松並木」の碑が置かれています。

この辺りから前方になだらかな稜線を描く「水口岡山城址の古城山」が見えてきます。古城山が近づいてきたので、水口宿はもう目と鼻の先です。左手は畑、右手は民家がつづく道筋を進んで行くと、新城の集落へと入って行きます。

水口宿へ入る手前に僅かな距離の坂道(東からは下り坂)があります。昔はこの坂を「すべり坂」と呼んでいたようです。それほど勾配がある坂ではありませんが、その昔は多くの旅人がこの坂で足を滑らせ、転んだのではないでしょうか。

坂を下って行くと街道左側の高い場所に真言宗高野山派の「大師寺」が堂宇を構えています。そしてすぐ先の秋葉北交差点を越えた山川に架かる山川橋を渡ると右側に小さな休憩スペースがある小公園があります。



山川橋を渡ると道筋は下り坂となり、両脇には民家が建ち並び、その一角に水口神社の山車倉があります。そして前方に現れるほんの僅かな登り坂を上ると右側に「冠木門」が置かれています。冠木門が置かれているということはここが水口宿の東見付(東入口)跡です。このあたりは宿場や城下町によく見られる「鉤型」になっていたところで、今もその面影が残っています。

冠木門

さあ!水口宿に入りました。水口宿(みなくちしゅく)は江戸時代に三度の大火に遭い、多大な被害を受けたので、明和7年(1770)に宿場の人達が火除けの神として有名な遠州秋葉山から勧請し、冠木門の北方にある松元寺の奥の地(古城山の東麓)に秋葉神社を建立しました。

お江戸日本橋から数えて50番目、京都三条大橋からは4番目となる水口宿です。天保14年(1843)当時の宿内の距離は東西22町6間(約2.4km)、人口2692人、家数692軒、本陣は鵜飼本陣の1軒、脇本陣1軒、旅籠41軒という規模でした。

豊臣秀吉が天下を手中におさめた時代、水口岡山城が築かれ、その南側にあった集落が城下町として発展した歴史を持っています。水口宿の大きな特徴である「三筋の道」はその時代に敷設されたといいます。
江戸時代になって東海道が整備されると本陣や脇本陣、問屋場等が置かれ、宿場町として発展を続け、旅人で賑わいました。名物は干瓢をはじめ泥鰌汁・煙管・葛細工等です。歌川広重は東海道五十三次・水口「名物干瓢」の題で、女性らが干瓢の原料であるユウガオを細長く剝いている様子を浮世絵に描いています。

広重の水口の景

東見付を過ぎると道筋はかなり狭くなり、その先の歩道橋のある交差点を過ぎると、道筋は右手へ大きくカーブします。ここ水口の宿はかつては城下町であったのですが、ご城下を歩いているという感じではなく、むしろ宿場町然とした佇まいを見せています。道筋は狭く、宿場町を貫いています。その狭い道筋に沿って、家並みが迫るように連なっています。しかし、古い家並みが多く残っているわけではありません。街道脇の家並みのほとんどは現代的な家がならんでいます。

大きくカーブした道は三叉路にさしかかります。その右側に「ぬし又本店」という漆芸品の店があります。この店と街道を挟んで左側に「脇本陣」があったといいます。案内板がないため所在は判明しません。
そして「本陣跡」の案内板がぬし又本店の向かいの立派な家の路地沿いの竹垣前に目立たない存在で置かれています。案内には本陣は鵜飼伝左ヱ門が営んでいたこと、大きさは普通の家の三倍の大きさだったこと、そして明治2年に明治天皇が宿泊されたのを最後に本陣の役割を終え、その後撤去されたことが記されています。

本陣の案内板

本陣の案内板からさらに100mほど進むと、次の三叉路にさしかかります。その三叉路の中央にはかつて高札場があったことを示すミニチュアの高札場が置かれています。

高札場跡

かつての高札場跡の所で道は左右に分かれています。東海道は左手に進む道筋です。それでは左手へつづく道筋へ入っていきましょう。この辺りの家並みはそれほどの古さを感じませんが、宿場らしい雰囲気を醸し出しています。

宿内の光景

そのまま直進して行くと、街道右手に「御菓子処一味屋」が店を構えています。水口は甲賀忍者の故郷ということで、一味屋では「忍者最中」を販売しています。最中の形状は忍者の巻物を模っています。そして店の向かいの家前に「問屋場跡」の標石が置かれています。この辺りから京町にかけて、江戸時代には旅籠が軒を連ねていたといいます。いまでもほんの僅か面影が残っています。

御菓子処一味屋
問屋場跡の標石

御菓子処一味屋を過ぎると、すぐに次の交差点が現れます。この交差点の右角には本町駐車場がありますが、その角に囃子に合わせて祭袢纏を着た人形が踊りだす「からくり時計」が置かれています。
からくり時計は毎日09:00、正午、15:00、18:00の4回動きます。

駐車場の休憩所
からくり時計
駐車場から見る古城山

この「からくり時計」が置かれている交差点を右手に進むと国の重要文化財指定の観世音が安置されている天台宗の「大岡寺」が堂宇を構えています。大岡寺は白鳳14年(686)行基が大岡山の山頂に自彫の十一面千手観世音像を安置して創建したことに始まります。最盛期には16もの坊舎を擁する大寺院だったのですが、天正2年(1574)兵火によって東之坊(本坊)を残して焼失してしまいました。

天正13年(1585)大岡山に岡山城が築城され、東之坊は南方の地頭という地に移転しました。江戸時代の享保元年(1716)になり廃城となっていた岡山城(大岡山)の麓にあたる現在地に堂宇を再建、以来水口藩主加藤家歴代の祈願所となりました。
そして大岡寺の裏手を走る307号線の背後には標高283mの古城山と呼ばれている「大岡山」が控えています。

水口の町の歴史は古く、野洲川に沿ってつづいていた古東海道の時代に甲賀駅舎が置かれ、中世には市が立ち、人や物資の往来で賑わっていました。そして戦国時代に豊臣秀吉は水口が京への入口であることで、この地を重視し、家臣の中村一氏に城を築かせて城下町としました。

秀吉の命を受けた中村一氏は天正13年(1585)、野洲川を見下ろす大岡山に城を築き、山麓の集落を城下町として整備しました。中村一氏は天正18年(1590)小田原攻めの後、駿河国駿府へ転封となり、ここ水口は増田長盛、そして長束正家と城主が変わりましたが、関ヶ原の西軍の敗北で岡山城は落城しました。江戸時代に入り幕府はこの城を廃城にし、水口を幕府の天領(直轄地)にし城下町としてではなく、宿場町に替えました。
そして天和3年(1682)に賤ヶ岳の七本鑓の一人として知られている加藤嘉明の孫の加藤明友が2万石で水口藩を立藩します。そして明友の子の明英は譜代の格式を与えられて、元禄3年(1690)に寺社奉行から若年寄に昇進し、元禄8年(1695)に5000石の加増を受けて下野壬生藩に移封となります。代わって譜代の鳥居忠英が2万石で水口に入封しますが、鳥居家は正徳2年(1712)に加藤家の下野壬生へ移封され、入れ替わりに加藤家が再び水口へ転封しました。この加藤家がその後、代々水口藩主を務め、明治維新まで9代続きます。

水口が江戸時代には「干瓢」が名産品となっていますが、実は加藤家が下野壬生から水口に転封されるときに、手土産に干瓢を持参したことに始まります。現在は水口での干瓢生産は一部の農家で細々とおこなっているにすぎません。やはり日本の干瓢生産の大生産地は栃木県の壬生ということです。

からくり時計」のある交差点を渡ると、左角に古めかしい造りの「いまむら呉服店」が店を構えています。

いまむら呉服店

このままアーケード造りの本町商店街を進んでいきましょう。街道をほんの少し進んで、水口小学校への路地の奥に洋館が一つ建っています。その洋館はウィリアム・メレル・ヴォーリズ(William Merrell Vories)の設計で昭和3年(1928)に建てられた「旧水口図書館」です。それでは街道から逸れて路地の奥にある旧水口図書館へ進んでいきましょう。

旧水口図書館
旧水口図書館

ヴォーリズは明治38年(1905)に旧八幡商業高校の英語教師として来日し、キリスト教伝道活動をしつつ建築家、事業家として医療、教育、福祉に尽力した方で、近江八幡市にある近江兄弟社を設立した人としても有名です。甲賀市にはヴォーリズが設計した建物がいくつも残されていますが、その一つが旧水口図書館です。

旧水口図書館は二階建てのモダンな建物で、昭和3年(1928)、町の出身の実業家井上好三郎氏がヴォーリズ事務所に設計を依頼し建て、水口市に寄贈したもので、戦前期の建築のなかで、珠玉の小品と評されるものです。見学は第2、第4日曜日の10時~16時のみ



旧水口図書館から再び街道へと戻り、細い道筋を進んでいきましょう。アーケードのある本町商店街を進むと左角に山田書店が店を構える広い通りと交差します。これを右へ行けば日野を経て彦根へ、左に行けば貴生川を経て信楽や甲賀に至る道です。東海道の道筋はこのまま直進しますが、このあたりは普通の民家が多く並んでいます。

少し先へ行くと近江鉄道(略して「近鉄」)の踏切が見えてきますが、東海道は踏切の手前で左右からくる道と合流します。3本の道筋が合流するこの場所にも「からくり時計」が置かれています。
このからくり時計も先ほどと同じ時間に動きます。ということは同じ時間に2か所のからくり時計が動くので、2つのからくり時計の動きを見るためには3時間待たなければなりません。1時間ほど時間をずらして動かすことを考えなかったのでしょうか?

からくり時計

からくり時計を過ぎると、ほんとうに小さな川に橋が架けられています。この橋は「石橋」と呼ばれているのですが、ちょうどこの近くに近江鉄道の水口石橋という名前の駅があります。この水口石橋の駅名はこの可愛らしい石橋がその名の由来となっているのです。

石橋
近江鉄道の踏切

からくり時計を過ぎると近江鉄道の踏切にさしかかります。踏切の左奥に「水口石橋」駅が見えます。踏切を渡り、ほんの少し進むと街道右手に「コミュニティセンター」が現れます。本日の終着地点までは残すところ1キロですが、トイレ休憩を兼ねて立ち寄ることにしましょう。

コミュニティセンター

コミュニティセンターには水口の観光案内と別棟に立派な曳山が展示されています。

曳山
曳山

もし、水口宿内で昼食をとお考えであれば、宿内の旧街道をそのまま直進し、湖東信用金庫(水口支店)の先の最初の角を左へ折れると、「御料理・寿司ふじ吉」があります。手ごろな金額で美味しいお寿司を食べることができます。
ふじ吉
滋賀県甲賀市水口町梅ヶ丘1-9 TEL0748-62-2521
営業時間:昼11:00~14:30、夜17:00~21:30
http://fujiyoshi-kyonoaji.com/

さあ!まもなく第一日目の終着地点の水口城まではほんの僅かな距離です。
江戸時代の東海道は湖東信用金庫水口支店前から右手に折れ、その後幾重にも折れ曲がって道筋がつづいていました。
水口宿が城下町ということに加え、平地に置かれた水口城は東海道が整備された後に築城されたため、お城から遠ざけるように街道の道筋に「曲がり」を作りながら、それまでの道筋の一部変えたと思われます。 

私たちは江戸時代の東海道筋に沿って進んでいきましょう。湖東信金前を右に折れて、突き当たりの花喜米穀の前を左折し、心光寺の前を通って信号のない交差点を渡って直進していきます。そして比較的、道幅のある通りに出たところで、左折して終着地点の水口城址に近い水口体育館の駐車場へと進んでいきます。

水口城址

土山大野からここ水口体育館の駐車場まで7.4キロの行程を歩きました。
第2日目は水口城址を見学後、51番目の石部宿の西見付を過ぎてすぐのJR草津線「石部駅前」までの13.4キロを歩きます。

第三ステージの目次へ

私本東海道五十三次道中記 第32回 第2日目 水口城址からJR草津線石部駅前
私本東海道五十三次道中記 第32回 第3日目 JR草津線石部駅前から草津宿





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私本東海道五十三次道中記 第31回 第3日目 静かな土山宿をぬけて土山大野の三好赤甫旧跡まで

2015年11月16日 08時16分42秒 | 私本東海道五十三次道中記


昨日降った雪が残る土山の宿場は静かな朝を迎えています。ただまだ雲行きは怪しく、いつ雪が降ってもおかしくないような天気です。さあ!第3日目の行程が始まります。旅の出立は昨日の終着地点の「道の駅・あいの土山」です。

道の駅・あいの土山



「道の駅・あいの土山」の左の公園の前には松の木が植えられ「土山宿」と書いた石碑が建っています。
お江戸から数えて49番目の宿場である土山宿の家数は351軒、宿内人口1505人、本陣は2軒、脇本陣はなく、旅籠は44軒の規模を持っていました。尚、土山は近世を通じて幕領で代官が支配していました。

土山宿の石碑

ちょうど「道の駅・あいの土山」の建物の裏手に回り込むように旧東海道が走っています。街道の両側は畑が広がっています。そして一面白銀の世界が広がっています。



鈴鹿峠を越えて近江国(滋賀)に入ってきましたが、土山を含む滋賀県の冬の天候はかなり降雪があるようです。どんよりとした雪雲に覆われた空を見ながら出立です。この辺りは現在、土山町北土山という地名ですが、江戸時代には町家と農家が混在していた地域です。歩き始めると街道の左側は畑が広がっています。

畑が途切れると集落が現れます。土山宿東端の生里野地区です。この辺りの家々の玄関には街道時代の屋号を書いた木札が下がっています。その中に面白いことに「東海道土山宿お六櫛商・三日月屋」の木札を掲げる家が現れます。
お六櫛は中山道の薮原宿の名物で、元禄年間に藪原宿に住んでいたお六という娘がみねばりの木で作った櫛が由来で、現在でも薮原で作られています。江戸時代の土山宿はお六櫛を商う店が多くあり、街道の名物になっていたといわれています。
三日月屋の先にもお六櫛商を掲げた木札が数軒ありますが、どの家も三日月屋となっています。おそらく薮原の三日月屋から仕入れた櫛を東海道を旅する人々に販売していたのではないでしょう?

※中山道「藪原宿」
中山道の35番目の宿場町。難所として知られる鳥居峠の南に位置しています。

※お六櫛
わずか10cmにも満たない幅におよそ100本もの歯をもつ「みねばりの木」で作った櫛です。
その昔、妻籠宿に「お六」という美しい娘がいました。しかしお六は頭の病に悩まされていたといいます。
お六は御嶽権現に自らの病気治癒の願掛けを行ったところ、権現から「みねばりの木」で作った櫛で朝な夕に髪をとかせば、頭の病は必ずや治るというお告げを授かり、早速、お告げ通りの櫛を作り、髪をとかしました。するとみるみる、頭の病が消え失せたといいます。



土山町北土山から南土山にかけては古い家が多く、連格子のある家が並んでいます。左側は畑が広がっていますが、その道筋には道標や地蔵堂置かれ街道らしい風情を漂わせています。地蔵堂の先にポツンと置かれた句碑があります。俳人上島鬼貫(おにつら)の句碑です。

上島鬼貫の句碑

鬼貫は大坂で活躍し、東の芭蕉、西の鬼貫とも言われた人物です。この句は鬼貫が東海道の旅の途中、ここ土山でお六櫛を買ったときに詠んだものです。
碑面には「吹け波(ば)ふけ 櫛を買いたり 秋乃風」と刻まれています。

鬼貫の句碑を過ぎると、街道は家並みがつづくエリアへと入ってきます。そんな家並みを見ながら進むと右側に商家然とした建物が見えてきます。街道時代には扇や櫛を扱っていた「扇屋」が店を構えています。

扇屋
扇屋

現在は扇屋伝承文化館の名で土山を訪れる観光客のための休憩施設として利用されています。尚、館内では地元の工芸品の展示や販売が行われています。
開館日:土・日・祝(10:00~15:30)
☎090-6969-3108

さらに進むと右側の家の前に目立たない存在で、日本橋から110番目の「土山一里塚跡」の標柱が置かれています。この地方は一里塚を一里山と呼ぶようで、地名の一里山町はそこからきているのでしょう。

「土山一里塚跡」を過ぎると、街道の左側に「旅籠車屋跡」そしてその先には立派な塀のある大きな建物のお屋敷が現れますが、江戸時代の屋号は油屋権右衛門とあるので、油商を営んでいた家だったのでしょう。
現在に残る土山宿の家並は関宿ほどの完璧な姿ではありませんが、低い家並みが街道の両側に続き、時折、現れる連格子が嵌められた家を見るにつけ、それなりに宿場らしい風情を味わうことができます。さらに昨日降った雪が思いがけず宿内に彩りを添えてくれています。



宿内を進んで行くと小さな川にさしかかります。来見川(くるみがわ)です。川には来見(胡桃)橋が架かっています。瓦屋根が載った白壁のような欄干がなんとも情緒を醸し出しています。

来見橋

白壁には「土山の風景」「茶もみ歌」が描かれています。
「お茶をもめもめ摘まねばならぬ もめば古茶も粉茶となる」
「お茶を摘めつめしっかり摘みやれ 唄いすぎては手がお留守」
土山は近江茶の一大生産地として知られており、その起源は鎌倉時代に溯り、文和5年(1356)南土山にある常明寺の僧が大徳寺(京都)から持ち帰った実を栽培したとされています。

橋を渡るとすぐ左に南土山の鎮守として崇められている「白川神社」の鳥居が参道入口に構えています。

白川神社鳥居

当社は牛頭天王社又は祇園社とも呼ばれ、毎年8月には「土山祇園祭花笠神事」が執り行われています。この神事は江戸時代の承応3年(1654)から続いているもので、南土山町24地区で奉納された花笠から花を奪い合うという行事です。
白川神社の参道入口を過ぎると、街道は緩やかな坂道となり、左へとカーブをしていきます。

白川神社の先の街道右側に正和堂という菓子屋があり「万人講もなか、伊賀饅頭」という看板を出しています。土山宿内にはかつての街道時代に軒を連ねていた旅籠の名前を刻んだ石柱が随所に置かれています。今は当時の建物は残っていませんが、この辺りからやたら「旅籠跡」の石柱が多くなります。稲荷町には江戸時代旅籠が8軒あったといいます。

道が緩やかに左にカーブするとその先の左側に「大原製茶場」の看板を掲げる連子格子と白い漆喰壁の家があります。大原製茶場は江戸時代には油屋平蔵という屋号で油を扱っていた商家ですが、明治に入り製茶業に転業したそうです。
前述のように土山茶は文和5年(1356)、南土山の「常明寺」を再興した鈍翁了愚禅師が京都の大徳寺から茶の実を持ち帰って植えたのが始まりといわれているので歴史はかなり古いのです。
右側の佐治屋酒店の手前には旅籠釣瓶屋跡・旅籠大工屋跡・旅籠柏屋跡の「旅籠跡」の石柱が並んで置かれています。この辺りには多くの旅籠が軒を連ねていたと思われます。

三軒の旅籠跡が置かれた道の反対側の民家の前に「森白仙終焉の地 井筒屋跡」の石柱が立っています。文豪森鴎外の祖父、白仙は文久元年(1861)11月7日、ここ旅籠井筒屋で病死しました。森家は岩見国津和野藩亀井家の典医として代々仕える家柄で、白仙もまた江戸、長崎で漢学、蘭医学を修めた医師でした。

幕末の万延元年(1860)に藩主の参勤交代に従い江戸へ参府し、翌5月に藩主は交代のため帰国することとなったのですが、白仙は病のため一緒に帰国すること出来ませんでした。やむなく江戸で療養した後、10月になり二人の従者を伴って帰国の途につきましたが、長旅の疲れもあり11月6日投宿した土山宿の井筒屋で再び発病し、翌7日急死しました。遺骸はこの近くの河原の墓地に埋葬されました。
明治33年3月2日、陸軍小倉師団の軍医部長であった鴎外は東京への出張の際に土山の地を訪れ、荒れ果てていた白仙の墓を見かねて、南土山の常明寺に改葬を依頼しました。後に白仙の妻清子、娘のミネ(鴎外の母)の遺骨も常明寺に葬られましたが、3人の墓碑は昭和28年に鴎外の眠る津和野永明寺に移葬されました。

井筒屋のはす向かいには平野屋がありますが、森鴎外は明治33年3月1日から2日までの2日間、この地に滞在した際に平野屋に宿泊しました。その時「(祖父の泊まった)宿舎井筒屋といふもの存ぜりやと問いに既に絶えたり 」 と森鴎外は「小倉日記」に書いています。

左側に江戸中期の建物を改造した「食事処うかい屋」、その先の家の前には「二階屋本陣跡」の石柱があります。道の反対の連子格子の家は「土山かしきや」で、このあたりは江戸時代には中町と呼ばれ、土山宿の中心だった地域です。

かしきやの先を右に入っていくと江戸時代の農家の建物を移築した「東海道伝馬館」があります。

街道脇の伝馬館の看板
伝馬館入口
入口脇の森鴎外来訪記念碑
伝馬館
馬子像
大名行列ジオラマ
大名行列ジオラマ
伝馬館裏庭

東海道伝馬館では問屋場を再現したり、見事な大名行列のジオラマを展示しています。
入場無料、9時~17時、休館日:月曜と火曜、年末年始
☎:0748-66-2770

伝馬館から街道に戻るとすぐ右手の空地に置かれた自動販売機の脇に「問屋場、成道学校跡」の石柱が立っています。土山宿の問屋場は中町と隣の吉川町にありましたが、問屋場は問屋役の自宅に設けられたので、問屋役が変るたびにその場所が変りました。空き地が問屋場跡で、問屋が廃止された後は成道学校として利用されました。
空地の左側は蔵がある立派なお屋敷で、玄関脇には「土山宿油佐」の木札が掲げられ、二階は白壁、下半分が奥に三尺引っ込んだ格子造りの大きな家です。

その先交叉点の手前右角に「問屋宅跡」の石柱がありますが、空地にあった問屋場を仕切っていた宿場役人の家です。土山宿は南土山村と北土山村と二つの村からなり、問屋場も南土山村と隣の北土山村で交代して務めていたといます。

問屋宅跡

問屋宅跡を過ぎると、右手に立派な家が現れます。土山宿の旧本陣の建物です。土山宿本陣は寛永11年(1634)、三代将軍家光が上洛の際に設けられました。現存する土山氏文書の「本陣職之事」によれば、土山家の初代当主は甲賀武士の土山鹿之助であり、三代目喜左衛門の時に初めて本陣職を務めました。甲賀忍者の末裔ではないでしょうか。

旧本陣
旧本陣
旧本陣の石柱

明治元年(1868)9月の明治天皇行幸の際、この本陣で天皇は誕生日を迎えられ「御神酒とするめ」が土山の住民たちに下賜されたといいます。しかし明治3年(1870)、東海道の宿駅制度廃止により土山本陣は廃業となりました。
建物の左側に「土山宿本陣跡」の石柱と「明治天皇聖蹟碑」井上圓了が詠んだ漢詩碑が置かれています。

明治天皇聖蹟碑と漢詩碑

漢詩碑に刻まれた詩は下記のような内容です。この詩は圓了が土山宿に来たとき、たまたま10代目の本陣主人である土山盛美氏から前述の明治天皇がお泊りになったことを聞き及び、感激して即座に詠んだ詩と言われています。
尚、井上圓了は現在の東洋大学の前身である哲学館を開いた方です。
「鈴鹿山の西に、古よりの駅亭あり。
秋風の一夜、鳳輿(ほうよ)停る。
維新の正に是、天長節なり。
恩賜の酒肴を今賀(いわい)に当てる。」


少し行くと左側に街道から少し奥まった場所に土山公民館があり、駐車場には「土山宿」の大きな案内板が置かれています。建物の右奥に林羅山の漢詩碑が置かれています。
羅山は江戸時代初期の頃の儒学者です。この詩は元和2年(1616)に羅山が京へ向かう途中、土山で詠んだものです。

林羅山の漢詩碑

【碑面に刻まれた詩】
行李(あんり) 東西 久しく旅居す
風光 日夜 郷閭(きょうりょ)を憶(おも)ふ
梅花に馬を繋ぐ 土山の上
知んぬ是崔嵬(さいかい)か 知んぬ是岨(しょ)か

【詩の意味】
東から西、西から東へと長く旅していると、途中のいろんな景色を目にする度に、故郷のことを想い起こす。
さて、今、梅花に馬を繋ぎとめているのは土山というところである。いったい、土山は、土の山に石がごろごろしているのだろうか、石の山に土がかぶさっているのだろうか。

その先の左側の漆喰壁の家は前田製茶本舗で、その先の交差点を越えると吉川町で、江戸時代は北土山村だった地域です。交差点を渡ると、右手公園に高桑闌更(たかくわらんこう)の句碑が置かれています。
「土山や 唄にもうたふ はつしぐれ」
高桑闌更は江戸時代後期の儒学者でもあり俳人であった方です。

高桑闌更の句碑

そしてこの場所には「土山宿大黒屋本陣跡碑」「土山宿問屋場跡碑」と少し離れた場所に「高札場跡碑」が置かれています。

土山宿大黒屋本陣跡碑と土山宿問屋場跡碑
高札場跡碑

土山本陣は寛永11年(1634)、三代将軍家光が上洛の際設けたのがそのはじまりですが、参勤交代の施行以来、諸大名の往来が増加し、土山本陣だけでは賄いきれなくなり、土山宿の豪商であった大黒屋立岡氏が控の本陣として指定されました。大黒屋本陣の設立時期は定かではないのですが、江戸中期以降、旅籠屋として繁盛した大黒屋が土山本陣の補佐宿となっています。

「巖稲荷神社跡」の石柱も置かれていますが、その近くに台座のようなものがあるので、おそらく燃失してしまったのでしょう。

巖稲荷神社跡

道はここで大きく右へと曲がっていきますが、街道の左側の民家の前に「土山陣屋跡」の石柱が立っています。土山宿は幕府が支配する天領なので、幕府から派遣された代官などの役人が陣屋に詰めていましたが、派遣された代官の自宅が陣屋に使われることが多かったといいます。

土山陣屋跡

その先に流れる川は吉川で、架かる橋は大黒橋です。来見橋に良く似た造りです。この橋には鈴鹿馬子唄の一節とそれを表現した絵が陶板になって嵌めこまれています。

大黒橋

馬子唄に「坂は照るてる 鈴鹿は曇る あいの土山 雨が降る 」という節がありますが、「あいの土山」についてはいろいろな説があるようです。

「あいの土山」は「間の宿」からという説や「藍染」をやっていたという説があるようですが、間の宿は幕府が設けた宿場から宿場まで距離が長い場合に休憩するために置かれた休憩場所のことで、その意味では土山は宿場なので当てはまりません。
しかし東海道が整備される前は坂下から水口まで距離が長かったので、土山が間の宿としての役割を担ったことは予想できます。そして馬子たちがそれを「あいのしゅく土山」と唄ったことも充分考えられます。

大黒橋を渡り、土山宿内の西のエリアへと進んでいきましょう。この辺りには宿場の雰囲気を味わえるような家並みは残っていません。街道の左手奥には浄明寺が堂宇を構えています。(街道から100mほど奥)

江戸時代の後期、常明寺の住職にこの地方の俳諧の指導者だった「虚白(きょはく)」がいました。虚白の僧名は第15代僧名・松堂慧喬といいます。虚白は43年間にわたって常明寺の住職を務めていました。そして虚白は同時期に活躍した高桑闌更(たかくわらんこう)から俳諧を学び、その後、京都南禅寺、東福寺の住持を務めています。

境内に芭蕉の「さみだれに 鳰のうき巣を 見にゆかん」という句碑が置かれています。また常明寺には森鴎外の祖父「白仙」供養塔が立っています。常明寺がある地域は江戸時代には吉川町と呼ばれていましたが、旅籠は少なくとも7軒ほどあったようです。



常明寺から数百メートルほど歩くと左側に「土山宿」の大きな案内板が置かれています。道は相変わらず左右に蛇行していますが、しばらく歩いて行くと、正面に道路、右側に白い塀のようなものが見えてきた。近づいていくと国道1号線で、白い塀の中には松が植えられ、「常夜燈」「東海道土山宿」の石柱が立っています。
私たちは土山宿の西のはずれにやってきました。
江戸時代の東海道は南土山交差点で国道1号を横断し、北西の方向に向かって道が続き、松尾川(現在の野洲川)の渡し場に出て、舟で川を渡っていました。現在、この道筋を辿ることはできません。

国道を横断すると右側の店と左の駐車場の間に細い道があり、道の左端に二基の道標が立っています。小さな方の道標には「右 北国たか街道 ひの八まんみち 」と刻まれていますが、ここが「東海道」「御代参街道(ごだいさん)」との追分だった場所です。

追分の道標

この道標の右に進む小路が旧御代参街道で、左斜めに進む道が旧東海道です。御代参街道は東海道土山宿のこの地点から笹尾峠を越え、鎌掛、八日市を経て中山道愛知川宿手前の小幡までの十里余りの脇往還です。

ご存知のように伊勢神宮は天照大神を祀り、皇室は祖先神として敬い、皇室や公家自身あるいは代参の使者が定期的に訪れました。それらの方々が歩いたことから御代参街道という名がつきました。
「お伊勢参らばお多賀へ参れ、お伊勢お多賀の子でござる 」と謳われた御代参街道(ごだいさん)はここから多賀大社へ行く近道で、またそれを経由し北国街道や中山道にも通じ、多賀大社にお参りする人々や近江商人などが行きかった道なのです。東海道はこの先、道が無くなっているので、土山宿はこの道標で終ります。

※多賀大社
御祭神はイザナギとイザナミの二柱です。伊勢神宮の内宮の祭神はアマテラスですが、このアマテラスはイザナギとイザナミの間に生まれた神です。このため古くから「お伊勢参らばお多賀へ参れ、お伊勢お多賀の子でござる」と言われている所以です。

江戸時代の東海道は御代参街道(ごだいさん)の道標で、進路を北西に変えて進み、野洲川を舟渡しで渡っていたのですが、現在はその道はありません。私たちは国道1号線に沿って進んでいきましょう。途中、鈴木製作所があるところで、国道1号から左へ分岐し、野洲川に架かる歌声橋へ通じる道筋を進んでいきます。屋根付の歌声橋の橋上からは野洲川の流れと遥か彼方に鈴鹿連山のパノラマが広がります。

歌声橋からの眺め
歌声橋からの眺め



歌声橋を渡り、細い道筋を辿っていくと、その先で右手からくる道と合流する地点にさしかかります。実はこの右からくる道筋がかつての東海道です。前述のようにかつての東海道は野洲川で分断されているため辿ることができません。ここで本来の旧東海道筋に合流します。

現在の国道1号線を横切り北へと延びるかつての東海道筋の近くには「垂水斎王頓宮跡(たるみさいおうとんぐうあと)」があります。

斎王とは天皇の代わりに、伊勢神宮の天照大神にお仕えしていた未婚の皇女で、第11代の垂仁朝の倭姫(やまとひめ)が初代で、天皇が代わる毎に皇女の中から占いによって選ばれ伊勢へ向かいました。これを群行といいますが、京都から伊勢の斎宮まで、近江では勢多、甲賀、垂水の3ヶ所伊勢では鈴鹿、一志の2ヶ所に1泊し、合計5泊6日もかけて伊勢の斎宮に行かれたのです。 
この群行は鎌倉中期まで続きましたが、以後皇威が衰えるとともに廃れてしまいました。 
垂水斎王頓宮跡は平安時代から鎌倉時代中期までの約380年間で31人の斎王が伊勢参行の途上宿泊された場所です。森閑とした林の中に入るとぽっかりあいた空地の奥に「垂水斎王頓宮跡」の大きな石碑と「伊勢神宮遥拝所」の木柱があり伊勢神宮遥拝所の社殿が建っています。上記五か所の頓宮で明確に存在が検証されているのはこの垂水頓宮跡だけであると説明板に書かれていますが、土で埋まった井戸の跡が残っているだけで、1000年前に頓宮があったという形跡は無くなっています。

24号線を越え、その先の民家の一角に「滝樹(たぎ)神社入口 従是四丁(約450m)」という表示が置かれています。街道から社殿までは500mはあります。社殿は建て替えたばかりなのか、拝殿から本殿までぴかぴかの建物ばかりです。
滝樹(たぎ)神社は仁和元年(885)に伊勢国瀧原大神、速秋津比古神、速秋津比売神を勧請して合祀し、龍大明神としたのを創始とする神社で、社前に楓樹(かえで)があるので応永21年(1414)に滝樹神社と改めたと伝えられています。
寛正6年(1466)に北野天満宮を勧請。文明3年(1470)から二殿が並立すると伝えていて東に滝樹宮西に天満宮が並んで建っています。

※伊勢国瀧原大神はアマテラスを主祭神として祀っています。また速秋津比古神、速秋津比売神の両神は川(河)の流れをつかさどる神です。滝樹(たぎ)神社は野洲川の河原の側に社殿を構えています。ということは速秋津比古神、速秋津比売神の両神は野洲川の流れを司っているのではないでしょうか。

私たちは前野という地名の場所を歩いています。そんな前野には「べんがら」で塗られた連子格子の古い家が多く見られます。



24号線から500mほど進んだ右側に「地安禅寺」の石柱が立っていて、その奥に鐘楼門が見えます。地安禅寺は黄檗宗の寺院ですが、「後水尾法皇の御影 御位牌安置所」とあり、皇室と縁のある寺院です。

地安禅寺楼門

後水尾法皇は寛永6年(1629)に明正天皇に皇位を譲り、34歳で上皇になった方です。長寿だった上皇の臨終の床に控えていたのは法皇の第一皇女の文智女王(ぶんち)と第八皇女の朱宮光子内親王(あけのみやてるこ)といわれています。文智女王は早くから得度し、大通大師の号を得て、奈良市山町に普門山円照寺を建立し、晩年を過ごしました。また、第八皇女の朱宮光子内親王は修学院離宮内に林丘寺を建立し、開基となり、普門院と号しました。 
後水尾法皇は黄檗宗(おうばくしゅう)を厚く庇護していたため、宝永年間(1704~1710)にここ地安禅寺に安置所を建て後水尾法皇の御影、御位牌を納めました。そして林丘寺光子(普門院)が植えたという茶の木の脇に「林丘寺宮御植栽の茶碑」が立っています。
立派な鐘楼門前の参道の両側はかつては一面の茶畑だったといいますが、今は茶の木1本だけが残っています。

安置所
林丘寺宮御植栽の茶碑

道の両側に古い家が残っていたが、信号のない交叉点を越えると旧頓宮村です。このあたりには江戸後期から普及した虫籠窓の漆喰壁の家が残っています。道の左右に茶畑が増えてくると左側の民家の一角に「垂水頓宮御殿跡」と書かれた石柱が立っています。伊勢神宮に伝わる「倭姫命世記」によると垂仁天皇の皇女である倭姫命は天照大神の御神体を奉じて、その鎮座地を求めて巡行したと伝えられています。
土山町頓宮には巡行地の一つ、「甲可日雲宮」があったとされ、この時の殿舎がこの付近に設けられたことが御殿という地名の由来とされています。甲可日雲宮の所在地については、日雲神社(甲賀市信楽町牧)説、高宮神社(甲賀市信楽町多羅尾)説、田村神社(甲賀市土山町北土山)説などの異説もあります。

この先は旧市場村で、諏訪神社の前を過ぎると右側に延命地蔵尊が祀られている長泉寺が堂宇を構えています。



このあたりはどっしりとした大きな建物が何軒かあり、数100mほど行くと道の右側の角にお江戸から111番目の市場の一里塚を示す「一里塚跡」の石柱が立っています。

一里塚跡

一里塚から100mほど行くと大日川(堀切川)で、川の手前の右側に「大日川(堀切川)掘割碑」の石柱が置かれています。大日川は江戸時代には市場村と大野村の境をなす川でした。頓宮山を源流とした川は平坦部で流れが広がり、いったん大雨が降ると市場村と大野村の洪水被害が甚大だったといいます。大野村はその対策として、江戸時代の元禄12年(1699)に排水路を掘割し、野洲川に流すことを計画し、頓宮村境より、延長504間、川幅4間の排水路工事に着工し元禄16年(1703)に完成しました。

橋を渡ると久し振りに整然とした松並木が現れます。そこから300m程行くと左側の林の前にも「東海道反野畷」の石柱があり、さらに少し行くと左側に野洲川が見えてきます。

東海道反野畷

野洲川の流れ
野洲川の流れ

その先の右側に「花枝神社」の参道があり、隣に大野小学校があります。



大野小学校から100mほど進むと、左側の民家の前に「旅籠松坂屋」の石柱があり、その隣に「長園寺」の石柱が立っています。民家には「東海道大野村加佐屋」という木札が張られているので、土山宿と同じように昔の屋号が復活です。また、左側の民家に「旅籠丸屋跡」の石柱が置かれています。

この先、旧大野村から旧徳原村にかけて、江戸時代に旅籠だったことを示す標柱が置かれていますが、土山宿と水口宿の中間にあたるので、間宿になっていたのでしょう? 
屋根の上に「煙り出し」の屋根を付けたこの地方独特の建物が増えてきますが、養蚕が盛んだった時代に建てられたものでしょう。 

街道右側のちょっと奥まった場所に大野公民館があります。公民館の前に布引山の解説板鴨長明の歌碑が置かれています。布引山はこの場所から少し北にある山です。
この布引山はこの辺りでは名山として知られ、古来より斎王群行や宮人の参宮の折に詠まれた歌の中に詠み込まれてきました。
そして平安時代末から鎌倉時代に活躍し、あの方丈記の作者である鴨長明も布引山を愛した一人です。
そしてこんな歌を残しています。
「あらしふく 雲のはたての ぬきうすみ むらぎえ渡る布引の山」

左側の煉瓦作りの煙突の家は造り酒屋で、右側の民家の脇に「明治天皇御聖蹟碑」がありますが、ここは「旅籠小幡屋跡」で明治天皇が休憩されたところです。
旧街道はこの先の土山大野の交差点で国道1号線に合流しますが、交差点手前に「みよし赤甫亭」という料理屋さんが店を構えています。店の傍らには「大日如来」の小さな祠や「布引山岩王寺」の道標と「三好赤甫先生をしのびて」という石碑が置かれています。

土山大野の交差点

さて、本日の終着地点である土山大野の「みよし赤甫亭」は江戸時代の俳人「三好赤甫」の実家です。三好赤甫は地元の土山ではそれほど知られているわけでもないのに、京都あたりでは名声が高いようです。
赤甫さんはここ大野の土地で代々魚屋を営む三好家の長男として、江戸時代の寛政10年(1798)に生まれました。長男ですから本来であれば実家を継がなければならない身なのですが、俳句への思いが強く、土山の宿内にお堂を構える常明寺虚白禅師に師事して俳句の教えを受けるようになります。
そして虚白が京都の東福寺に移り住むと、家業の魚屋を妻子に託し、また老いた父母を残し、虚白の後を追って土山を後にしたのです。京に出た赤甫さんは文人墨客と幅広く交流を深め、30余年の間、俳句の研究に没頭し、句集「窓あかり」など何編もの名著を残し、俳壇に立つ人々に高く評価されました。晩年になって郷里に帰り、近在の子弟に文学の道を教え、明治五年(1872)に亡くなりました。

【土山大野で旅を終える場合】
到着地点の土山大野の交差点付近は土山宿のはずれに位置しています。といってもトイレを借りることができるコンビニなどの商店はありません。グループで動いている私たちはこの場所にバスを回送するので、まったく心配はないのですが、個人で歩いている方はこの場所で旅を終えるのは得策ではありません。どうしてもここで旅を終えたいということであれば、土山大野の交差点にコミュニティバスの停留所があります。ただ頻繁にバスが来るわけではありませんが、このコミュニティバスは草津線の貴生川駅行です。
貴生川駅から電車に乗れば5駅で草津に到着します。草津に出れば、米原方面や京都方面にたやすく移動できます。
尚、貴生川駅から名古屋方面にでるには、草津線で柘植駅まで行き、ここから関西本線に乗り換えなければなりません。しかもかなりの時間を要します。

私本東海道五十三次道中記 第31回 第1日目 井田川駅前から亀山宿をぬけて関宿へ
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私本東海道五十三次道中記 第31回 第2日目 関宿から坂下宿、鈴鹿を越えて土山宿へ(その二)

2015年11月13日 18時15分33秒 | 私本東海道五十三次道中記


心配していた積雪もそれほどでもなく、うっすらと白くなっている程度でした。鈴鹿峠は海抜379mで、伊勢国と近江国との国境です。私たちはなんなく鈴鹿越えを果たしたのです!!峠を越えると、街道脇に伊勢の国と近江の国の国境の標石が置かれています。

国境の標石

私たちは三重県側の鈴鹿峠を越えて、いよいよ滋賀県(近江国)へと入ってきました。
そんな場所にかつて置かれていたのが「澤立場」です。立場には松葉屋・鉄屋・伊勢屋・井筒屋・堺屋・山崎屋という6軒の茶屋があり甘酒が名物だったといいます。鈴鹿峠を往来する旅人は足を休めつつ、甘酒にほっと一息ついたことでしょう。残念ながら往時の様子を窺い知ることはできませんが、わずかに石垣等の遺構が残存しています。そして街道の左脇には土山茶の茶畑が広がっています。

茶畑

少し行くと巨大な石積みの常夜燈が建っていて、トイレやベンチのある休憩所になっています。巨大な石積みの常夜燈は万人講常夜燈で、重さ38トン、高さは5.44mもある常夜燈です。270年前に四国金比羅神社の講中が建てたものですが、旧山中村高畑山天ケ谷産の粗削りの大きな自然石をそのまま使って、山中村を始め、坂下宿、甲賀谷の3000人が結集して造ったものと伝えられています。

万人講常夜燈

常夜燈は当初は旧街道沿いに置かれていましたが、国道トンネル工事のため、現在地に移されました。またこの辺りは茶畑が広がっていて、土山茶の産地になっています。
また土山町は今回の合併で、狸で有名な信楽町、甲賀忍術で有名な甲賀町、水口宿のある水口町などと一緒になって、甲賀市(こうかし)になりました。



峠道を下って行くと、鈴鹿トンネルを抜けて来た国道1号線が道の右下に走っています。そして峠道はこの先で国号1号と合流します。楢木橋から続いてきた旧東海道の道筋はここで終わり、この後は十楽寺までは国道1号に沿って、だらだらと坂道を下っていきます。下り坂ということで喜んでいたのですが、やおら雲行きがあやしくなってきました。
「坂は照る照る鈴鹿は曇る あいの土山雨が降る」の通り、峠を越えて土山側に入るや否や、突然天気が変わってきました。それも雨ではなく、横殴りの吹雪が私たちを待ち構えていました。

そんな大雪の中で、だらだらとした坂道を下っていきますが、途中には集落は現れません。無粋な国道1号線沿いを歩いていくのですが、周辺の景色も、ほんの先も見えないくらいの吹雪の中でカメラも構えることできません。
そんなことでこの先、しばらくはアップする画像がありませんので、ご容赦ください。



山中交差点にさしかかると国道1号線に沿って集落が現れます。山中の集落です。鈴鹿の峠を越えて山を下っているのですが、山中交差点の標高はまだ327mあります。先ほどの万人常夜燈辺りが標高370mだったので1キロ強の距離で高度は40m強下がったことになります。 そうこうしているうちに、降りしきる雪はさらにひどくなり、やむ気配すらありません。

国道1号線の左右の景色はまだ鈴鹿連山のつづきのような低い山並が連なっています。山中交差点から200mほど歩くと左側の小山が国道にせりだしてくる場所にさしかかります。この辺りに近江山中氏の発祥の地の山中城があったようです。 

山中城は鎌倉時代の建久5年(1194)に山中新五郎俊直によって築城されました。この年に山中新五郎俊直は幕府から鈴鹿山守護として、鈴鹿山賊、盗賊を鎮める役命を受けています。また山中氏は伊勢神宮祭司によって伊勢神宮柏木御厨の地頭職に補任され、幕府からも公卿勅使儲役、鈴鹿峠警固役を公認されていました。 

それほど見どころがない国道1号を進んで行くと、左側に十楽寺が堂宇を構えています。十楽寺にさしかかる辺りで本日の歩行距離は11.5キロを超えます。「十楽寺」の標識の脇に「南無阿弥陀仏」の石碑が立っています。
十楽寺はもともと天台宗の寺院でしたが、信長の兵火によって焼失してしまいますが、寛文年間(1661~)に巡化僧広誉により再建された寺で、現在は浄土宗知恩院の末寺です。丈六阿弥陀如来を本尊としますが、十一面千手観音などの仏像も安置されています。境内の常夜燈は天保3年の建立です。
降りやまぬ雪の中をもくもくと歩きつづけます。本日の終着地点の道の駅土山まではまだ4キロ以上あります。



旧東海道は12キロ地点を過ぎると国道1号線からいったん右手へ分岐します。鈴鹿峠を越えてからはずっと国道一号線の左側の歩道を歩いています。この先で右手に分岐するので、その前に国道1号の右側へ移動しなければなりません。

道筋が右手へ分岐していく手前に国道1号をくぐる地下道があるので、これを使って右側へ移動しましょう。
国道1号から分岐すると小田川に架かる小田川橋にさしかかります。この橋を渡ると小さな公園があり「東海道 鈴鹿山中」の石碑と石灯籠が建っています。
右側には「坂は照る照る鈴鹿は曇る あいの土山雨が降る」と刻まれた「鈴鹿馬子唄」の大きな石碑があります。晴れていれば公園の東屋で腰をかけて一休みしたいところなのですが、なにせ降りしきる雪の中ではそんな気持ちの余裕がありません。ということで先を急ぐことにします。 

再び街道を進むと、少し先の右側に「地蔵大菩薩」の常夜燈と祠が置かれています。 
前方には第二名神高速道路の橋の上を走っている車が見えてきますが、民家がなくなると両側は畑で、その先で巨大な第二名神高速道路の高架橋の下をくぐります。

雪に煙る高架橋

その先で旧東海道筋は国道1号と再び合流します。合流点にも小さな公園があり、「山中一里塚公園」の標石が置かれています。山中一里塚は江戸から109番目の一里塚です。江戸日本橋から約428km、京三条大橋からは16番目(約66km)となる一里塚です。ちなみにこの辺りの標高はまだ286mもあります。

山中一里塚公園
山中一里塚跡碑

公園内には「いちゐのくわんおん道 」と刻まれた道標が置かれています。
道標の側面には虚白の「盡十方(つくすとも) 世にはえゆきや 大悲心」という句が刻まれています。
「いちゐのくわんおん道は櫟野(いちいの)観音道のことです。 

観音道は東海道から分岐して旧神村、旧櫟野村に至る道で大原道とも呼ばれていました。ここはその道の追分にあたる場所です。



江戸時代の東海道の道筋は山中一里塚あたりから土山宿までは右に左にくねくねと曲がりながら続いていましたが、国道1号線が旧街道の道筋を突っ切るように一直線に敷かれ、旧街道はずたずたに分断されてしまいました。その結果、旧街道の筋道は跡形もなく失われてしまっています。国道は「東京まで437km」の標識のあたりから左へカーブし下っていきます。

右側に民家が見え始めると猪鼻交差点で、江戸時代は猪鼻村だったところです。この交差点を右折していくと、わずかに残っている旧東海道の道筋を歩くことができます。㉓の地図のⒷ地点からⒹ地点までの区間が旧東海道の筋道です。 

Ⓐ地点で国道1号から逸れⒷ地点で左折すると、右側に「浄福寺」があります。その門前には大高源吾の句碑が置かれています。大高源吾は赤穂浪士の一人で、俳号を子葉と名乗っていました。「いの花や 早稲のまもるる 山おろし」

浄福寺を過ぎると木々に包まれた家があり、表札には「猪鼻村旅籠中屋武助」とあります。木々の中に「旅籠中屋跡」の石柱と「明治天皇聖蹟碑」がありますが、明治天皇が立ち寄られ休憩されたところです。
その先のS字のカーブの坂を上ると再び国道1号に合流します。

猪鼻集落は鈴鹿峠方面から降りてくるイノシシ除けの垣根があったことに地名の由来があるらしいのですが、かつては東海道の立場で草餅や強飯(もち米を蒸した飯)が名物だったようです。

国道1号線はⒹ地点から緩やかな上り坂に変り、その先で今度は緩やかな下り坂になります。



国道1号に合流して500mほど行くと左前方に町が見えてきて「道の駅 あいの土山1㎞ 」の表示板が置かれています。 
そしてこの先で旧東海道の道筋は国道1号から右手に分岐します。その分岐する場所の右手に「白川社」の石柱があり、鳥居の先に「白川神社御旅所」の石柱と小さな社殿が二つあります。道の脇に南土山案内板があり、「国道の右側を下りた小道が江戸時代の東海道で、その先でなくなっています。また、蟹塚がある。」とあります。
 
さあ!土山宿が間近に迫ってきました。ここから土山宿まで800m程の距離です。道筋はこの先で高尾金属工業の敷地内を通るように進んでいきます。工場を過ぎると正面に駐車場が見えてきます。そして50m程歩くと右側に大小の碑があり、小さい石柱が「蟹坂古戦場跡」の石碑です。

戦国時代の天文11年(1542)、伊勢の北畠具教(とものり)は甲賀制圧を目指して軍を進め、一隊を割いて鈴鹿を越えさせ、山中城を攻めさせました。山中城主の山中秀国は善戦の末、北畠勢を敗走させました。 
これを知った北畠具教は一旦兵を引かせましたが、すぐに軍を増強させて、再び山中城攻略にかかりました。 
山中秀国は近江守護の六角定頼に援軍を要請したことで、ついには北畠と六角との戦に発展してしまいます。 
12000人の北畠軍に対し、10000に満たない山中、六角連合軍は善戦し、ついに北畠勢を敗走させ、北畠具教の甲賀進出を阻止しました。この合戦の主戦場がここ「蟹坂」なのです。

「蟹が坂」という地名の由来ですが、北側に田村川、南側に唐戸川が流れるこの地には大蟹が住みつき、道行く旅人や村人に危害を加え怖れられていたといいます。そしてここを通りかかった比叡山の高僧が、大蟹に対して往生要集(平安時代中期、恵心院の僧都源信が撰述した仏教書)を説いたところ、大蟹は甲羅が八つに割れて往生したといいます。
村人はその高僧の教えに従い蟹塚を築き、割れた甲羅を模した飴を作って厄除けにしたといいます。土山名物の一つ、蟹が坂飴の発祥とされる伝説です。



高尾金属工業の駐車場と左側の田圃に挟まれた道を直進すると田村川の袂にさしかかります。
田村川に架かる海道橋には擬宝珠が付けられています。江戸時代の板橋を再現したというもので、平成17年7月に完成しました。

海道橋
雪の海道橋にて
 
田村川に板橋が架けられたのは安永4年(1775)のことです。板橋の巾は二間一尺五寸(約4.1m)、長さは二十間三尺(約37.3m)で、橋を渡ると右側に橋番所があり、橋のたもとには高札場があったといいます。それ以前の東海道は川の手前で左折して、国道1号に出る道(現存)で、現在は国道で道は途切れていますが、国道の約50m先で田村川を徒歩で渡り、「道の駅・あいの土山」の先の左側(現存)にある道に合流していました。東海道は板橋の完成により安永四年(1775)からは田村川橋を渡って、田村神社の境内に入り、神社の参道で直角に曲がって、 土山宿(つちやましゅく)へ向かいました。

安藤広重の東海道「土山宿 」の浮世絵は「春の雨」と題して、雨の中、笠を目深にかぶり、合羽を羽織った大名行列の一行が 背を丸めながら、増水した田村川の板橋を渡り、田村神社の杜の中を宿場にむかう構図で描いています。江戸時代には土山は雨が多い土地柄という印象が強かったようで、広重の絵でも雨の情景が描かれています。

広重の土山の景

田村神社の境内に入ると右側に田村神社の二の鳥居、常夜燈、狛犬が並んで立っています。

田村神社の参道鳥居

田村神社は平安時代の弘仁十三年(822)の創建と伝えられる古社で、蝦夷征討で功績のあった坂上田村麻呂と嵯峨天皇、倭姫命を祀っています。東海道名所図会には「祭神、中央、将軍田村麻呂、相殿、東の方、嵯峨天皇、西の方、鈴鹿御前」とあります。鬱蒼とした樹林に囲まれた参道を神社に向って歩いていくと正面に見えるのが「拝殿」です。

田村神社は垂仁(崇神)天皇の御代(紀元前47年)に「鈴鹿大神」として、倭姫命を祀ったことが創始と伝えられています。その後、弘仁13年(822)に嵯峨上皇が坂上田村麻呂の霊を鈴鹿社に合祀して、社号を田村神社と定めたというものです。田村麻呂が祀られているのは、弘仁元年(810)田村麻呂が嵯峨天皇の勅を奉じて鈴鹿の悪鬼を討伐したことによります。このため当社は厄よけの神として有名のようです。

田村神社の参道は国道1号線に向かって一直線につづいています。参道の両側は鬱蒼とした杉木立になっています。国道1号線にでると歩道橋のある交差点になっています。国道1号線を渡ると本日の終着地点の「道の駅・あいの土山」です。鈴鹿峠を越えてから降り続いていた雪も道の駅についた頃はいくぶん小降りとなりましたが、周辺の畑は白銀の世界が広がっていました。

道の駅・あいの土山

そして交差点の角に1軒の店があります。この店では土山に残る伝説「蟹が坂」に出てくる「かにが坂飴」を販売しています。

かにが坂飴
かにが坂飴販売所

私本東海道五十三次道中記 第31回 第1日目 井田川駅前から亀山宿をぬけて関宿へ
私本東海道五十三次道中記 第31回 第2日目 関宿から坂下宿、鈴鹿を越えて土山宿へ(その一)
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私本東海道五十三次道中記 第31回 第2日目 関宿から坂下宿、鈴鹿を越えて土山宿へ(その一)

2015年11月13日 15時56分26秒 | 私本東海道五十三次道中記


第2日目の出発地点は昨日の終着地点である「道の駅関宿」です。
本日はここ「道の駅関宿」から「道の駅土山」までの15.8㎞を歩きます。途中、鈴鹿峠の麓の坂下宿を辿り、東海道中でも箱根に次ぐ難所として知られていた「鈴鹿峠越え」を体験します。それでは道の駅関宿から関宿の中心へと進んで行きましょう。

関宿の家並み

関宿は天保十四年の東海道宿村大概帳に総戸数が632戸、人口は約2000人、本陣が2軒、脇本陣2軒、旅籠が42軒とあり、かなり大きな宿場でした。今も380軒もの古い家が残り、軒を連ねている様は壮観です。
これらの貴重な建物は昭和59年に、旧東海道の宿場町の町並みを留める地区として、国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されました。宿内で最も古い建物は18世紀中期のもので、江戸から明治のものが全体の約45パーセントを占めています。更に昭和戦前までのものを加えると実に全体の約7割を占めるといいます。

広重の関宿の景



中町は関宿の中心で、宿場の中枢的施設が集中している地区です。中町には比較的建ちが高く、塗篭、虫篭窓を基調とした特色ある町屋が残されています。「関まちなみ資料館」は江戸時代末期に建築された町家を公開したものです。 
鶴屋脇本陣(波多野家)は西尾吉兵衛を名乗っていたので、西尾脇本陣とも呼ばれていました。
二階避面の千鳥破風がその格式を示しています。川北本陣があった場所には石碑が立っているだけで、今はなにも残っていません。

隣には「問屋場」があったことを示す石碑があり、奥は山車倉になっています。

山車倉

山車が曳き出される夏祭りは関の名を有名にしました。そして「関の山」という言葉は関宿の山車からきています。「関の山」の山は「山車」のことです。関町の祇園祭で引き出される山車は大変立派なもので、これ以上の贅沢な山車は作れないだろうと思われ、精一杯の限度を「関の山」というようになったといいます。
最盛期には16台の山車があったといいますが、現在でも4台が残り、4ヶ所に山車倉があります。ちょうど中町の入口に立派な三番町山車倉が置かれています。

中町は関宿の中では中心的な場所で本陣、脇本陣、問屋場をはじめ関宿を代表するような旅籠など宿場の主要な施設が集中していました。
中町に入ってすぐ、街道の左側に「百六里庭(ひゃくろくりてい)」の標をつけた家が現れます。百六里庭とはここ関宿がお江戸日本橋から百六里あることから名付けられています。
別名は眺関亭(ちょうかんてい)というようですが、これはこの建物の2階部分から関宿の町並みを眺められるからなのです。2階に上がると宿内の細い道筋の両側に隙間なく並ぶ家並みと甍の波を見ることができます。遥か左手を見ると、これから私たちが登る鈴鹿の山並みがくっきりと現れます。

眺関亭からの眺め

百六里庭の左隣は、関宿のもう一つの「伊藤本陣」の建物です。歴史建造物ですが、現在は「松井家」の屋敷として使われています。
本陣の間口は11間、建坪は69坪だったといい、西隣の表門は唐破風造りの檜皮葺きです。現在残っている建物は家族の居住に供された部分と大名宿泊時に道具置き場になっていたスペースです。

伊藤本陣の建物を過ぎると立派な建物が右手に現れます。街道時代に関宿で一二を争う有名旅籠として知られた「玉屋」の建物です。

玉屋

玉屋は「関で泊まるなら鶴屋か玉屋、まだも泊まるなら会津屋か」といわれた有名旅籠です。
道に面した主屋は慶應元年(1865)建築の木造二階建てで、外観は漆喰で塗籠る形式ですが、江戸時代の建物としては軒が高く、宝珠を形取った虫籠窓が印象的です。旅籠の建物が一体になって残っているのは珍しく、江戸時代の様子を今に残す貴重な遺構として、関町が持ち主の村山家から有償で譲受け、旅籠玉屋として修復したもので、現在は旅籠玉屋資料館として公開されています。(有料:大人300円)
玉屋が創業した時期ははっきりしませんが、寛政12年(1800)には宿場絵図に記されているので、その頃には現在地で営業していたといえます。

玉屋(旅籠玉屋資料館)

玉屋に入ると土間(とおりどま)があり、左側に板の間の店の間と帳場があります。右側の二室はこみせで、右側の二階部分が家族や奉公人の部屋だったようです。
たたきには竈などが置かれ、客に出す炊事が行われた。左側の二階の部屋は客室として使われていたが、今は旅籠で使われた道具が展示されています。
主屋に続く離れには整然と6部屋が並び、部屋には玉屋12代主人作という欄間彫刻や池田雲樵による襖絵があり、部屋のなかではもっとも上等な間だったのです。土蔵は元文4年(1739)の建物で、広重の浮世絵などが展示されています。 
関宿には大きな旅籠が10軒もあったといいますが、こうした大旅籠では多いときには200名ほどの旅人を泊めたと思われ、玉屋に残っている宿帳に100名近い団体客の記録が残っている、とのことです。

中町の建物は二階壁面も塗篭めて、虫篭窓を明けるものが多く、二階壁面を真壁とした新所や木崎の町屋に比べ、意匠的により華やかです。また、間口が大きく、主屋の横には庭を設けて高塀を廻すのがみられますが、その主屋や高塀群は意匠的にも質が高く、町屋の細部意匠としては漆喰細工や屋根瓦に見るべきものが多いのです。 
漆喰彫刻の鯉の滝昇り、虎、龍、亀、鶴など、縁起を担ぐものが多く 細工瓦には職業に使う道具を意匠にしたものなどもあります。

旅籠玉屋資料館のほぼ正面に「関の戸」の看板を掲げる深川屋服部家は三代将軍家光公の時代から370年を誇る菓子司です。

寛永年間に初代によって考案された餅菓子「関の戸」は関宿を代表する名菓として名高く、天保2年に京都御所から陸奥大掾(むつだいじょう)の名を賜っています。看板は庵看板という瓦屋根の付いた立派なもので、看板の関の戸の文字は、歩いている方向に「ひらがな文字」が見えれば京都方面、「漢字」が見えればその先は江戸方向を示しています。

歴史ある和菓子店ですが、実は服部一族、伊賀忍者の服部半蔵の末裔にあたるそうです。ご自宅兼店舗はまさに忍者屋敷を思わせるもので、築233年という造りもさることながら、その2階にはカラクリがあり、ある部屋の畳をめくると1階に下りるための階段がかつてはあったのだそうです。

そんな服部家に伝わる家宝は「朱漆螺鈿担箱」です。総螺鈿づくりの菓子箱に「関の戸」を入れて京都御所へ納めていたといいます。それに際して朝廷から賜った称号が「陸奥大掾」です。この称号とともに箱には菊の御紋がついているため、大名行列と鉢合わせたしたときにはその列を止め、先に行くことができたそうです。

ところでこの菓子箱、服部一族の諜報活動にも使われていたというのです。江戸時代、一族はいろんな職業に扮しながら全国を飛びまわっていたそうです。徳川方だった服部の忍びたちは朝廷に出入りするため、和菓子屋を隠れ蓑にしていたのではないかとのこと。


和菓子「関の戸」は赤小豆のこし餡をぎゅうひ餅で包み、阿波特産の「和三盆」をまぶした、一口大の餅菓子です。
6個入り500円(税込)
深川屋:0595-96-0008 09:00~18:00(木曜定休)


関宿の本店のみで扱っている化粧箱入りの限定商品です。6個入りで500円です。
この化粧箱は京都御所へ「関の戸」を納める際に使った「荷担箱(にないばこ)」を模したものです。

「関の戸」を過ぎると、関宿のほぼ中心にある関郵便局の前には「道路元標」が置かれています。

郵便局前

関郵便局がある場所には天正20年(1592)、徳川家康が休息した「御茶屋御殿」がありました。江戸幕府初期には代官陣屋があったところで、亀山藩になってからは藩役人の詰所が置かれていました。

郵便局前

古い家並みが残るここ関宿で百五銀行や郵便局は周りに調和した建造物になっています。 

関郵便局の先の路地を右に曲がったところに堂宇を構えるのが福蔵寺です。創建は天正11年(1583)、織田信長の三男織田信孝の菩提寺として開かれたのが始まりとされます。信孝は信長が本能寺の変で倒れると豊臣秀吉と家督争いで対立し、後見人だった柴田勝家が賤ヶ岳の戦いで敗れると、秀吉と組んだ二男織田信雄によって居城であった岐阜城を攻められ、その結果降伏し、大御堂寺で切腹しました。そして検視役だった大塚俄左衛門が信孝の遺骸を福蔵寺に持ち帰り篤く葬ったと伝えられています。
また、第1日目で案内した仇討ち烈女といわれた小萬の墓も当寺にあります。



関宿の家並み
関宿の家並み

関宿の中町の家並が途切れると、広場の奥にお堂が建っています。道路に面したところには「歴史の道」という大きな石碑と大正3年に建てられた「停車場道」の道標があり、享保16年(1731)に建てられた常夜燈には「せきのちそう」と刻まれています。

地蔵堂

そのお堂は地蔵院と呼ばれています。地蔵院は「関の地蔵に振り袖着せて 奈良の大仏むこ取ろう」という俗謡で名高い「関地蔵」が祀られている寺で、天平13年(741)、行基が当時流行った天然痘から人々を救うため、この地に地蔵をきざんで安置したのが始まりです。地蔵院本堂に安置される地蔵菩薩は我国最古のものといわれています。地蔵院本堂は四代目で元禄13年(1700)、将軍綱吉が母、桂昌院のため建立したものです。

隣の愛染堂は室町初期の建立で、享徳元年(1452)、愛染堂の大修理の際、開眼法要したのが一休禅師です。本堂、愛染堂ともに国の重要文化財に指定されています。境内には「一休禅師」の石像が置かれています。鐘楼の鐘は知行付の鐘と呼ばれ、寛文11年(1671)に建立されたもので、鐘楼の近くには「明治天皇御行在所」の石碑が建っています。

地蔵院の前に江戸時代、鶴屋、玉屋とともに関宿の有数の旅籠だった会津屋(森元家)があります。

会津屋
会津屋

鈴鹿馬子唄に「関の小万が亀山通ひ 月に雪駄が二十五足」と謡われた仇討ちの烈女、小萬は明和から天明にかけて、この旅籠山田屋(後の会津屋)で育ったといわれています。現在は街道そばなどの食事処になっています。
 
東海道は地蔵院のところで緩やかにカーブしていますが、地蔵院の東側が中町で、西側が新所町です。新所町の大半の建物が仕舞屋(しもたや)ふうの平屋なので、全体としてはやや地味ですが、落着きのある町並みになっています。また格子や庇の幕板などの伝統的な細部意匠が新所の家々には比較的よく残されています。

新所町の家並み

新所町に入り歩いて行くと、右側に説明板の付いた家があります。松葉屋という屋号で火縄屋を営んでいた田中家です。江戸時代の関宿の名物、特産品に「火縄(ひなわ)」がありましたが、田中家は松葉屋という屋号で火縄屋を営んでいた家で、今でも播州林田御用火縄所という看板が残っています。火縄は火奴ともいい、鉄砲に用いたため大名の御用が多くありましたが、道中の旅人が煙草などに使うためにも購入したといいます。

※関の火縄つくりの起源の詳細は不明ですが、宿場全盛の頃には、ここ新所の他、中町、木崎に数十軒の火縄屋があったといいます。火縄の商売は時代遅れとなり、明治維新と共にすたれ、ほとんどが廃業しました。

その先の間口15間半の総格子の表構えの家は大正初期に建てられた田中屋の住宅です。
田中屋は代々庄太夫を名乗り、醤油醸造業を営んでいた家です。30尺のの通し柱の母屋や煉瓦作りの麹部屋や煙突など7年がかりで建設されたという関町でも最も大きな町屋のひとつです。

その先の右手にある関西山観音院(せきにしやま)は東海道の関宿の守仏として、西国三十三ヶ所の霊場となった寺です。

関西山観音院

観音院は天台真盛宗の寺院で、古くは関西山福聚寺といい城山の西方にありました。もともとこのお堂は戦国時代に焼失した福聚寺という寺の流れを組むものですが、寛文年間(1661~1672)に現在地に移転しお堂を建て、関西山観音院と名称を変えました。そして関宿の守り仏として、後には西国三十三ヶ所の霊場となりました。寺の奥にある観音山は景勝地として知られていたといい、東海道に面したところに大正15年に建てられたという「観音山公園道」と刻まれた道標があります。

観音院をすぎると、まもなく関宿の西の追分にさしかかります。その西の追分の手前の右側にある井口家は南禅寺の屋号で、豆腐料理を名物にする料亭だったといいます。連子格子、塗りごめの中二階がある建物で幕末の文久年間(1861~1865)の頃に建てられた建物です。

井口家の建物

観音院から西の追分までは150mほどの距離があります。江戸時代には民家や見附土居や御馳走場、松並木が続いていました。関宿が終わるこの場所には「西の追分・休憩施設」があります。この先、トイレがしばらくないので、ここで済まされたほうがいいでしょう。

さあ!いよいよ関宿ともお別れです。
西の追分には「法悦供養塔道標」といわれる高さ2,9mの石の道標が置かれています。元禄14年(1691)に谷口長右衛門が旅人の道中安全を祈願して建立したもので、道標には「南妙法蓮華経」の下に「ひたりはいかやまとみち」と髭文字で刻まれています。伊賀大和道とは加太(かぶと)峠を越えて、伊賀上野、奈良に至る大和街道のことです。

大和街道は加太越えとも呼ばれる峠越えの山道です。本能寺の変の際、堺から京都へ向かう途次にあった徳川家康は、その報せを聞き僅かな供を連れて畿内を脱出、三河へ帰還しました。世に言う「神君伊賀越え」です。その逃避行に通ったとされるのが「加太越えの大和街道」です。

加太越えによって現在の鈴鹿市の白子に辿りついた家康公は白子の浜師である小川孫三の舟で対岸知多半島へ渡り、無事岡崎へと戻ることができました。そして、後日家康公はこの恩に報いて、故郷へ戻ることができなくなった孫三に藤枝宿の一画に土地を与え、諸役御免の特権を与えました。

この場所は伊賀大和道の追分であるとともに関宿の京側入口でもあったのです。江戸時代はここで関宿は終わり、この先には険しい鈴鹿の峠が待ち構えています。現在は「西追分」と書かれた案内板のあるところが国道25号と国道1号の分かれ道になっています。

関宿の西追分



旧東海道は大和街道と分岐する新所交差点の先で国道1号線に合流します。関宿に別れを告げて、いよいよ鈴鹿峠道への道筋を辿ることになります。関ロッジ出入口ゲートをくぐると国道1号と合流します。



そして周囲は間近に山並みが連ねる景色へと変貌します。さあ!ここからは民家も人通りもない、山道への旅が始まります。

鈴鹿峠への道筋

国道1号に合流して間もなく、国道沿いの駐車場内に転石(ころびいし)が置かれています。その昔、山の上から転げ落ちてきたという大石で、夜な夜な不気味な音をたてたり、何度除けても街道へ転び出てきたとか。弘法大師の供養によっておとなしくなったとの伝説が残っています。小夜の中山の「夜泣き石」に似てますな!

国道を進み市瀬交差点を通過(標高104m)し、その先250mで市瀬橋手前にさしかかります。この辺りの標高が103mです。旧東海道は市瀬橋の手前で国道と別れて右側の道に入っていきます。国道1号線から分岐して鈴鹿川沿いに進むと旧街道は左へカーブして小さな橋にさしかかります。江戸時代には旧街道筋はこの橋の手前で川を渡っていたが、今は道も橋も残っていません。私たちは市瀬橋を渡り、市瀬の集落へと入っていきます。

市瀬集落は江戸時代立場だったところで、道の両側には古い家が並んでいます。市瀬集落はS字形になっていますが、途中で国道1号に分断されています。国道1号を渡って集落の中を進むと、先で国道1号と合流します。

(注意)旧街道と国道1号が合流する地点には信号機が設置されていません。横断する場合は車の往来に十分気をつけてください。尚、国道1号を渡って旧街道へと進んでしまうと、僅かな距離で再び国道1号に合流します。
合流すると、しばらくの間、国道1号にはガードレールのない歩道をあるきます。そしてこの先で右へと移動するのですが、信号や横断歩道がなく、交通量の多い国道1号をグループで渡ることは非常に危険です。このため、前述の信号機のない合流地点で国道1号を横断せずに、そのまま1号に沿って右側の歩道を歩くことを勧めます。

国道1号を渡るとすぐ左側に山門を構えるのが浄土宗本願寺派の西願寺で、その先で市瀬集落は終わり、旧街道はすぐに国道に合流します。1号線は緩やかな登り坂になり、右手に鈴鹿川と山並が迫ってきます。



市瀬の集落の辺りの標高は112mあります。道筋は少しづつ勾配を高めているようですが、この辺りはまだ緩やかな坂道となっているので、それほど体に負担かありません。ただ季節が真冬ということで、降り始めた雨はにわかに雪へと変ります。気温は0度。
鈴鹿の峠の序盤戦での雪の洗礼はこの先の行程が心配になってきます。もし、この道筋で積雪を伴うような大雪になった場合、歩道帯があるにもしても徒歩での行軍はかなり危険を感じるはずです。大雪になれば鈴鹿峠越えの国道1号は当然通行止めになります。

市瀬から国道を800mほど進むと街道は左へとカーブしていきます。その正面に三角おにぎりのような姿をした山が見えてきます。これが有名な「筆捨山(ふですてやま)」です。

筆捨山
筆捨山

室町時代の絵師、狩野法眼元信がこの山の風景を描こうとしたところ、雲や靄がたちこめ、 風景がめまぐるしく変わったため、ついに描くことができず、筆を捨てたという伝説が残っています。この山の正式な名前は岩根山だったようですが、上記の伝説から筆捨山と名付けられたという山です。

坂を上りきると筆捨山のバス停があり、筆捨茶屋集落が現れます。国道1号から右手に分岐する細い道筋が残っています。おそらくこの道筋は旧東海道の名残ではないでしょうか。

細い道筋

その細い道筋の入り口に「筆捨山」についての案内板が置かれています。そしてその道筋の先にはほんの少し街道の雰囲気を残した民家もあります。広重は東海道五十三次の「坂之下宿」の絵で「筆捨山」を描いています。

広重の筆捨山の景



国道1号線から分岐した旧街道の名残りの細い道を抜けると、再び国道1号線と合流します。ここから1号線は下りになり、右、左とカーブを描きながら、鈴鹿川に架かる弁天橋へと進んでいきます。折り重なる様に連なる鈴鹿の山並みの谷間を穿くようにつづく街道を進んで行きます。雪が舞い散る鈴鹿の山中を歩いている人は我々以外に誰も見かけません。

弁天橋を渡る手前にかつての立場であった新茶屋跡があります。私たちは国道1号の右側を歩いているため、左側に置かれている「新茶屋跡」には行きません。

弁天橋を渡ると、少し先の国道1号の左側の民家の隣に「沓掛一里塚跡」の石柱が置かれています。江戸日本橋から107番目(約420km)、京三条大橋からは18番目(約75km)です。この一里塚も国道1号の左側に置かれているので、行くことをあきらめました。

旧東海道筋は楢木橋の手前で車の往来が激しい国道1号とやっとお別れです。そして右手へと分岐する狭い道に入っていきます。ここまで国道1号に沿って1.5キロほど歩きました。猛スピードで走り抜ける大型トラックが撒き散らす騒音からやっと解放されます。狭い道筋に入ると街道の雰囲気は一変します。杉木立が街道脇に現れ、旧街道らしい雰囲気に満ちています。

杉木立の中の街道

楢木バス停から700mほど行くと楢木集落より大きな沓掛集落に入ります。沓掛は山道で沓(草鞋)が壊れ、新品に取り替えた際、道沿いの木に、古い草鞋をひっかけて行ったことが名の由来です。沓掛集落は江戸時代に立場茶屋があったところですが、古い家屋はあまりありません。右側に超泉寺があり、その先に沓掛バス停があります。超泉寺は旅人が草鞋を掛けて旅の安全を祈願した寺ではないでしょうか?

沓掛の集落

「沓掛」は近畿以東の各地に見られる地名です。特に中山道碓氷峠の西側にあった沓掛宿は有名です。沓とは旅人や馬の草鞋を指し、旅の道中で履き替えた草鞋を神社や寺の枝木等に掛け、旅の安全を祈願する風習です。



沓掛集落を過ぎると、めっきりと人家が少なくなります。家屋は主に街道の右側にありますが、そのほとんどが新しく建てられたように見えます。そんな家並みの中に坂下簡易郵便局がありますが、普通の民家のような郵便局です。

このあたりから道は穏やかな上り坂になります。郵便局から500m程行くと道は三叉路になり、東海道は右側の狭い急な坂を登っていきます。その坂道にそって左側に東海道五十三次の宿場名が書かれた木柱が並んで立っていて、その奥にサッカーボールのような建物が建っています。このサッカーボールのような建物が「鈴鹿馬子唄会館」で、館内には「鈴鹿馬子唄」の哀調を帯びたメロディが流れています。

鈴鹿馬子唄会館 

「鈴鹿馬子唄」は旅人を乗せた駄賃馬を引く馬子(まご)が、鈴の音に合わせて「坂は照る照る鈴鹿は曇る あいの土山雨が降る」と口ずさんだ民謡で、伊勢湾側の「鈴鹿(坂下宿)」は晴れていても、峠を越えた近江側の「土山宿」では雨が降っている、という気象の違いを謡ったものです。

展示物

鈴鹿馬子唄会館 (09:00-15:00、入場無料、月曜日は休館) 坂下宿についての展示があります。
※会館内は季節を問わず、空調がありません。

右側には昔懐かしい造りの建物があります。この建物は昭和13年(1938)坂下尋常高等小学校の校舎として建てられたもので、昭和54年(1979)に廃校となり、現在は年間を通じて鈴鹿峠自然の家と名付けられ、宿泊研修施設として活用されています。但し、施設内は冷暖房の設備がなく、真冬の時期の利用はあまりないようです。この校舎は松下奈緒主演のテレビドラマ「二十四の瞳」の撮影に使われたとか。

坂下尋常高等小学校

鈴鹿馬子唄には「坂は照る照る」とありますが、どんでもございません。日が照るどころか、大雪に見舞われています。坂下尋常高等小学校の校庭は一面の白銀の世界です。鈴鹿峠越えはまだ先なのですが、峠の雪が少し心配になってきました。鈴鹿馬子唄会館でトイレ休憩を済ませ、出立です。ここから次の坂下宿(さかのした)までは1キロほどの距離です。
高台にある馬子唄会館から下りの坂道をおりていきます。その坂道にも東海道の宿場町を記した柱が並んでいます。





そして旧街道筋に入り1kmほど歩くと小さな川に架かる河原谷橋にさしかかります。この川が沓掛と坂下の境にあたり、橋を渡ると48番目の坂下宿(さかのしたしゅく)に入ります。
坂下宿は鈴鹿峠の登り口にある宿場町で、天保十四年の東海道宿村大概帳によると、宿内軒数は153軒、人口は564人、本陣が3軒、脇本陣は1軒、旅籠は48軒の規模を持っていました。

人口の割に本陣、脇本陣が多いこと、そして全戸数から割り出すと3軒に1軒が旅籠だったことになります。旅籠の数の多さはこれから鈴鹿峠を越えようとする旅人の多くがここ坂下宿に泊まることを想定してのことと判断します。 
鈴鹿越えの客で賑やかな宿場だった坂下宿は、明治時代に入ると東海道の宿駅制が廃止され、更に東海道線の開通で、人の流れが変ったことで一変、坂下宿には立ち寄る人もいなくなってしまい、すっかり寂れてしまいました。 
今ではひっそり佇む山あいの集落の一つです。現在残る街道の道幅が二車線となっていますが、この道幅は当時からのものです。ここ坂下宿は当寺物産の集積地だったので、他の東海道より広かったようです。
左側に坂下公民館があり、伊勢坂下バス停前には「松屋本陣跡」と刻まれた石柱が置かれています。

その先に行くと茶畑をはさんで、「大竹屋本陣跡」「梅屋本陣跡」の石碑が置かれています。

梅屋本陣跡

大竹屋本陣は宿場一であると同時に、東海道中随一の大店として知られていましたが、現在ではこのあたり一帯が茶畑になっていて、かつての大きさを想像するのは難しい状況です。梅屋本陣の道の反対側に「法安寺」が堂宇を構えています。山門の下には「南無阿弥陀佛」という大きな石碑と「西国三十三所順拝写」と書かれた石碑が置かれています。

法安寺

石段を上っていくと山門の左側には「庚申堂」があります。そして山門をくぐって入ると正面にご本堂があり、右側に庫裏が置かれています。そして寺には立派な玄関が……。実はこの玄関は松屋本陣から移築したもので、ここ坂下宿で当時を偲ぶ唯一の遺構なのです。

玄関

法安寺の先にある中ノ橋を渡ると右側に「小竹屋脇本陣跡」の石柱が置かれています。鈴鹿馬子唄に歌われた小竹屋脇本陣跡ですが「大竹小竹」の大竹とは本陣の大竹屋を指しており、本陣に宿をとるのは無理だが、せめて脇本陣の小竹屋には泊まってみたいという意が込められているといいます。「坂の下では大竹小竹 宿がとりたや小竹屋に」

小竹屋脇本陣跡



山中橋を渡り林を通過すると右側に民家があり、国道1号線に合流する手前に「大道場岩屋十一面観世音菩薩」と刻まれた石柱が建っていて、その脇に閉じられている鉄製の門があります。



江戸時代の「伊勢街道名所図会」の「坂下宿」に崖下に観音堂があり、その脇に滝が落ちている絵が描かれていますが、岩屋観音あるいは清滝の観音というものです。

万治年間(1658-1660)に実参(じっさん)和尚が巨岩に穴を穿ち阿弥陀如来・十一面観音・延命地蔵を安置したというのが岩屋観音です。御堂の横に清滝の水が落ち別名を清滝観音とも言います。葛飾北斎の錦絵「諸国滝廻り」全8図のうちの一つに取り上げられ、「東海道坂ノ下 清滝(きよたき)くわんおん」の画題で描かれています。 

旧東海道と国道1号の側道合流地点付近に荒井谷一里塚があったといいますが、国道敷設の際に撤去され、その遺構はもちろんのこと、跡地を示すものすらありません。江戸日本橋から108里目(約424km)、京三条大橋からは17番目(約71km地点)となる一里塚です。

鈴鹿峠への道筋
鈴鹿峠への道筋

私たちはこの先で旧街道筋から分岐して、300mほど歩いて本日の昼食場所である「バーベキュー鈴鹿峠」へと向かいます。
関宿の新所のはずれを出てから、鈴鹿の山中を辿ってきましたがコンビニはおろか一般の商店すらなく、ましてや食事をする場所は全くありませんでした。トイレは坂下宿の手前の「馬子唄会館」で済ますことができるくらいです。
要するに関宿から坂下宿を辿り、土山宿にいたるまで食事をする場所が、ここ「バーベキュー鈴鹿峠」しかないのです。
さあ!お腹もすいたでしょう。バーベキューと謳っていますが、冬季は寒いので屋外でのバーベキューを楽しむことができません。寒い時期はぬくぬくとした温かい屋内でニジマスの塩焼き、山菜の天ぷら、アツアツの赤味噌仕立ての味噌汁そして温かいご飯を楽しむことができます。

看板
バーベキュー鈴鹿(団体用の建物)
店先の景色
個人客用の店内風景
個人客用の店内風景

お腹もいっぱいになり、体も温まり、本日のハイライトある鈴鹿峠の頂へ向かうことにしましょう。先ほどの分岐点まで戻り、片山神社の石柱が立っている場所まで戻ります。



さあ!いよいよ鈴鹿峠越えの始まりです。緩やかな上り坂の左右は杉木立で、道の左側には清流が流れています。実はこの辺りは江戸時代初期に「坂下宿」があった所で、「古町」と呼ばれています。

いよいよ鈴鹿峠越え
鈴鹿峠越え

坂下宿は慶安3年(1650)九月の大洪水でここにあった宿場が壊滅的な被害に遭い、 山川、田畑、民家が全て頽廃したため、翌年、十町(1キロ余)下に移転しました。江戸時代の寛永14年(1637)に寺社の他111軒の人家があったことが当時の検地帳から確認できるといいますが、現在は古町(ふるまち)という地名が残るのみで、平成の時代には家一軒すら見当たらない寂しい山道に姿を変えています。 
深閑とした林の中の細い上り坂進み、小さな石橋を渡ると「片山神社」の石柱と鳥居が見えてきます。

片山神社

片山神社は三子山に鎮座していましたが、度々の水害、火災により、永仁五年に現在地に移つたと伝える神社で、延喜式内社片山神社とあるように歴史は古く、坂上田村麻呂の山賊退治にまつわる女性である鈴鹿御前を祀ったのが始めともいわれ、古来鈴鹿大明神、江戸時代には鈴鹿大権現とも呼ばれてきました。 

※片山神社の祭神、鈴鹿明神は水害や火事の神様なのですが、皮肉なことに社殿は平成11年(1999)の放火により神楽殿を残して焼失。

現在も本殿は再建されず荒れ果てた状態です。石段を上ったところにある大きな常夜燈は文化12年の建立で、石段下の鳥居の周りの常夜燈は天保7年や文化12年の建立です。

東海道はこの神社から「八丁二十七曲がり」と呼ばれた鈴鹿峠越えが始まります。片山神社の鳥居を右折すると急坂を登る道へと入って行きます。

片山神社から峠越えへ

曲がりくねった山道は途中に一部だけ石畳が残りますが、大部分はコンクリートで補強しています。道はかなりの急坂ですが、登って行くと頭上に国道の橋桁が見えてきます。

峠越えの急階段
峠越えの急階段

その下をくぐり登っていくと国道の横の広場に出ます。そこには 「東海自然歩道」の大きな看板が建っていて、「坂下から鈴鹿峠までは2.1km、35分」と表示されています。看板の横には鈴鹿峠の上り口の石段があります。石段の左側に「芭蕉」の「ほっしんの 初にこゆる 鈴鹿山」という句碑が立っています。

国道横の広場

また西行法師は武家の地位を捨てて旅にでましたが、鈴鹿峠ではその心情を歌に詠んでいます。 
「鈴鹿山 浮き世をよそに ふり捨てて いかになりゆく わが身なるらむ」  
芭蕉は、西行法師の和歌が頭にあって、上記の句を詠んだのではないでしょうか?

峠越えの道筋
峠からの眺め

広場から更に上り坂を上がって行きます。ちょっとキツイなと思っていると、突然平坦な場所にでてしまいます。
「えっ!もう終わったの?」とつい言ってしまうほどの「あっけない」峠越えです。片山神社から峠を越えるまで所要15分~20分といったところです。

峠の頂

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私本東海道五十三次道中記 第31回 第1日目 井田川駅前から亀山宿をぬけて関宿へ

2015年11月10日 10時22分08秒 | 私本東海道五十三次道中記


31回目を迎える今回はここ鈴鹿市の関西本線の井田川駅前から旅が始まります。比較的新しい駅舎は街道の風情を漂わす造りになっています。駅前は小奇麗なロータリーになっていますが、商店街らしきものはありません。地方の田舎の駅といった雰囲気が漂っています。

第一日目はここ井田川駅前を出立して、46番目の亀山宿をぬけて東海道中で最も宿場の雰囲気を残している47番目の関宿の道の駅まで11.2kmを歩きます。

そして第2日目は関宿内を散策した後、いよいよ私たちは鈴鹿の山並みの中へと足を踏み入れます。久しぶりの峠越えが待っています。徐々に標高を上げながら進む道筋は箱根以来の峠越えですが、箱根よりは体に負担がないなだらかな勾配がつづきます。そして峠を越えると伊勢の国から近江の国へと入っていきます。近江の国に入って最初の宿場が土山宿です。
関宿から土山宿までは15.8キロです。

第3日目は関宿ほどではありませんが、古い家並みが残る静かな土山の宿を散策し、次の水口宿へと歩を進めていきますが、水口まではちょっと距離があるので、土山大野の三好赤甫旧跡までの7.2キロを歩きます。

新しい年を迎え、本格的な寒さがやってくるそんな季節の中での街道歩きが始まります。

駅前のロータリーに面して「日本武尊」の像が置かれています。
前回、私たちは「日本武尊」にまつわる「杖衝坂(つえつきざか)」を登りました。
杖衝坂は日本武尊が東国からの帰路に、伊吹山(いぶきやま)に住まう荒ぶる神を倒すために向かうのですが、逆に神の怒りに触れて病となり下山します。

※伊吹山(いぶきやま):滋賀県米原市、岐阜県揖斐郡揖斐川町、不破郡関ケ原町にまたがる山で標高1377m。東海道新幹線は伊吹山の麓を走ります。

そして病身のまま故郷大和の地へと向かうのですが、途中、傷ついた身体を引きずり、喘ぎながら山道を登ったと言われ、その時に自らの剣を杖の代わりにしたという伝説が残っています。そんなことから杖衝坂と呼ばれるようになったのです。

『吾足如三重勾而甚疲』(わがあしは みえのまがりのごとくして はなはだつかれたり)と日本武尊は詠んでいます。この歌の中に現れる「三重」から三重県の名の由来と言われています。

そして病が癒えぬ体を引きずりながら、日本武尊は大和国へと向かうのですが、結局は故郷に辿りつくことができず、この近くの能褒野(のぼの)で亡くなったと伝えられています。
能褒野には「景行天皇王子日本武尊墓」が置かれています。この地方にはこんな伝承が残り、墓まであることで駅前に像が置かれているのです。



井田川駅前を後にして旧街道を進んで行きましょう。街道右側には物流センターがありますが、この場所には以前、井田川小学校がありました。昭和54年(1979)に廃校になりました。そんな名残なのでしょうか、1本の門柱と二宮金次郎像が寂しげに置かれています。

井田川小学校跡

物流センターに沿って進んで行くと、道筋は大きく右へカーブを切るとすぐに国道1号を跨ぐ歩道橋下へと出てきます。私たちはこの歩道橋を渡って、その先へとつづく旧街道へと進んでいきます。

本日の道筋はほとんどの部分が旧街道です。無粋な国道1号線に沿ってあるく行程はまったくありません。
歩道橋を渡って旧街道を進むと、すぎに道は2又に分かれます。私たちは左へ折れてつづく旧街道へと入っていきます。

街道の右側に真宗高田派の西信寺が堂宇を構えています。西信寺を過ぎて進んで行くと、ほんの少し古い家が現れます。そしてこの先で椋川(むくかわ)に架かる川合椋川橋に出てきます。川合の地名はこの椋川(むくかわ)と鈴鹿川が合流する土地であることに由来しています。

その昔、この川は度々氾濫をくりかえし、河岸の家屋が浸水したため、江戸時代の安永年間(1624~1644)、亀山藩士「生田現左衛門」が私財を投げうって、川の流れを南に変え、橋を架け替えたので「現左衛門橋」と呼ばれたことがあったようです。現在は川合椋川橋と呼ばれています。



亀山市川合町に入って間もなくすると、国道1号の亀山バイパスの下をくぐります。バイパスの下をくぐり、200mほど行くと「谷口法悦題目塔(たにぐちほうえつ)」と呼ばれる大きな石碑が現れます。

谷口法悦題目塔

この供養塔は東海道の川合と和田の境にあり、昔から川合の「焼け地蔵さん」、「法界坊さん」と呼ばれ親しまれてきました。南無妙法蓮華経と書かれた2.59mの大きな石碑は江戸時代中期の貞享から元禄年間の頃、京都の日蓮宗の篤信者である谷口法悦によって、日蓮宗の布教と国家安泰を願いつつ、各地の刑場跡や主要街道の分岐点などに建立された題目塔の一つです。

その先の交差点を渡り、細い道を進んで行くと、細い路地に入る角の左の歩道上に鉄枠で補強された「和田道標」が置かれています。この道標は東海道と神戸道の分岐点(追分)に建っているもので、市内最古の道標です。正面に「従是神戸白子若松道」、脇に「元禄三庚午正月吉辰」とあり、元禄3年(1690)に建てられたことが分かります。 
江戸時代には神戸白子若松道は亀山城下から亀山藩下の若松港へ通じる重要道路だったのです。

※白子という地名について、藤枝宿にあった白子町と関係がありますが覚えていますか?
時は天正10年(1582)、あの本能寺の変で信長公が光秀に討たれた時、家康公はわずかな供を連れて、堺の見物をしていたのですが、身の危険を感じて堺から伊賀越えで伊勢の白子の浜に逃れたのです。
そして白子の浜師「小川孫三」の助けで家康一行を船に乗せて対岸の知多半島へと運んだのです。
その後、家康公は孫三の恩に報いる為、孫三に藤枝宿の一画に土地を与え、諸役御免(伝馬役などの宿場の業務を免除すること)の特権を与えたのです。
孫三は藤枝宿に居住し、町名を故郷の名と同じ白子町としました。現在、藤枝市の白子町は本町と名を変えていますが、ご子孫は小川医院を経営しています。

和田道標からほんの僅かな距離で県道28号と合流しますが、すぐに旧街道は大きく北方向へ曲がります。

旧街道は緩やかな登り坂となりますが、坂が始まってすぐの左側に「井尻道」の道標が置かれています。この道標は明治中期に亀山で製糸業を始めた実業家田中音吉の寄付によって建立されたものです。

そして街道の右側に福善寺が堂宇を構えています。坂道は少し傾斜がきつくなると右側に石垣があり、幟がひらめく石上寺(せきじょうじ)が山門を構えています。石上寺は高野山真言宗の寺で本尊は子安延命地蔵菩薩です。

石上寺
石上寺ご本堂
石上寺前の街道

石上寺は延暦15年(796)に紀真龍(きのまたつ)が石上神宮(いそのかみじんぐう)の神告により、この地へ那智山熊野権現を勧請し、新熊野三社として祀ったのが、新熊野権現社の起源で、同年8月弘法大師が真龍の元を訪れ、地蔵菩薩を刻み一宇を建立して、那智山石上寺と名付けたのが、当山の始まりとされています。

鎌倉時代に将軍家の祈祷所となり広大な寺領と伽藍からなる大寺院でしたが、織田信長の伊勢侵攻により焼失して寺勢は衰えたといいます。鎌倉から室町期にかけての古文書20通が残り、三重県有形文化財に指定されています。現在の建物は明和三年(1766)に再建されたものです。尚、和泉式部が参籠したという言い伝えもあり、付近には式部の梅や式部の井戸が残っています。



石上寺を辞して、旧街道へ戻りましょう。だらだらとした坂道はまだ続きますが、それほど長くはありません。坂を登りきると、街道右側に江戸から104番目、京都三条大橋から21番目(87㎞)の「和田一里塚」が置かれています。
といっても、一里塚があった東側に近接する場所に平成5年に復元された一里塚です。昭和59年に道路が拡張されるまでは一里塚の一部が残されていたようですが、区画整理で消えてしまいました。

和田一里塚
和田一里塚

旧東海道筋は次の栄町交差点までは道幅も広く歩きやすいのですが、栄町交差点を過ぎると狭い道筋へと変ります。栄町交差点から先の道筋は旧東海道でもあり、別名「巡見街道」と呼ばれています。尚、この先に東海道と巡見街道の分岐点があるので、そこで詳しく説明しましょう。

巡見街道に入ると、すぐ左側には私たちが日ごろお世話になっている「亀山ローソク」の工場があります。亀山ローソクは現代の亀山の特産品です。

亀山ローソクの工場が途切れ、少し行くと右側に大きな能褒野(のぼの)神社二の鳥居があり、鳥居の下には地元の人が書いた「従是西亀山宿」木札が置かれています。ただし正式な亀山宿の江戸口門はもう少し先にあります。

能褒野神社二の鳥居
能褒野神社二の鳥居

能褒野神社は「日本武尊墓陵」とされる塚の傍らに建てられた日本武尊を主祭神とする神社で、社殿はここから約5キロ北東の亀山市田村町の能褒野橋北側の森の中にあります。
明治12年(1879)、当時の内務省が森の中にある全長約90m、後円径54m、 高さ約9mの王塚とか、丁字塚と呼ばれていた三重県北部最大の前方後円墳を日本武尊の墓であると認定し、以後宮内庁が能褒野陵として管理しています。



そして、ほんの僅か進んで打田釣具店の斜め向かいにあるのが「露心庵跡」です。

露心庵跡

本能寺の変から2年後の天正12年(1584)、明智光秀や柴田勝家を滅ぼし勢力を拡大する羽柴秀吉に対し、織田信長の次男信雄と徳川家康が手を組み対立を深めていた時代の頃のお話です。
ちょうどその頃、信雄方の神戸正武が秀吉方の関万鉄が守る亀山城を急襲、関万鉄は蒲生氏郷や堀秀政の支援を受けて神戸の軍勢を退けました。この合戦での戦死者を供養するために関氏一門の露心が仏庵を開いたのがこの場所です。元々は友松庵の名でしたが、人々は建立者の名から露心庵と呼んだといます。明治期に廃寺とってしまいました。

露心庵跡を過ぎると街道右側に「橘屋跡」の民家が現れます。実は亀山と隣のでは「東海道のおひなさまin亀山宿・関宿」という催しを行っているのですが、この橘屋跡がお雛様飾りをする最初のお家です。

さあ!道筋を進んで行きましょう。前方に比較的大きな信号交差点が現れます。ここで東海道から巡見道が分岐していました。この旧巡見道は菰野を経て濃州道と合流し、関ヶ原で中山道に繋がる約60kmの道程で、江戸時代に幕府の巡見使が通ったことから巡見道の名で呼ばれていました。巡見使は江戸時代の寛永10年(1631)に始まった制度です。

巡見道

《巡見使》
江戸幕府が諸国の大名・旗本の監視と情勢調査のために派遣した上使のこと。大きく分けると、公儀御料(天領)及び旗本知行所を監察する御料巡見使と諸藩の大名を監察する諸国巡見使がありました。

尚、関東には関東取締出役(八州廻り・八州取締役)なるお役目がありましたが、これも天領・私領内を巡回し、治安の維持、犯罪の取締り、風俗取締りを行っていました。但し、関東内の水戸藩は御三家のため取締りから除外されていました。


亀山宿の入口にあたる江戸口までは目と鼻の先です。江戸口跡に至る道筋の民家には過ぎ去った時代の屋号が掲げられています。そんな道筋を歩いていると、街道右手になにやら堂々とした「城の天守?」「櫓?」らしきものが……。亀山城まではちょっと距離があるのですが?実は呉服屋さんのランドマークです。屋号もなんと「衣城しもむら」というそうです。
この辺りから街道筋は商店街らしい雰囲気が出てきますが、商店が軒を連ねているわけではありません。

衣城しもむら

旧街道はこの先の「後藤米穀」で大きく左にカーブし、亀山城下の東側出入口にあたる「江戸口門跡」へと進んでいきます。
往時は東西120m、南北70mの敷地に水堀や土塁・土塀を巡らし、門と番所を据えて通行人を監視していました。そんな江戸口門跡は鉤手のように鋭角的に折れ曲がる旧街道の角にそれらしいモニュメントが置かれているだけです。



かつての江戸口門を入ると亀山宿に入ります。宿の入口でもあり、城下町への入口でもあったところです。
天保14年の東海道宿村大概帳によると、亀山宿は家数567軒、宿内人口は1549人、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠21軒の規模です。 
もちろん亀山藩の城下町でもあったので、参勤交代の大名も旅人はこうした城下町の堅苦しさを嫌って亀山宿に泊まるのを敬遠していたといいます。東町は亀山宿の中心で旅籠や本陣、脇本陣、東問屋場があったところですが、今は商店街になっていて、古い家はほとんど残っていません。賑やかな商店街といった雰囲気はありませんが、一応、メインストリートかな、といったところです。東町商店街はちょっとしたアーケード造りになっています。

商店街に入って右手に折れる細い路地の奥に黒い板塀で囲まれた「福泉寺」「法因寺」が堂宇を構えています。

福泉寺山門
福泉寺山門前

福泉寺の創建は不詳ですが15世紀半ばに天台宗から真宗高田派に改宗した古刹です。山門は寛政7年(1795)に建てられたもので、入母屋、本瓦葺、一間一戸、楼門形式、格式が高く屋根正面には唐破風、軒の両側には鯱が設えられています。亀山市内に残る数少ない寺院楼門建築の遺構として貴重なことから平成8年に亀山市指定文化財に指定されています。

商店街の左側には樋口太郎兵衛が務めた本陣や椿屋弥次郎の脇本陣跡があります。
旧東海道は江ヶ室交番前交差点を左折して狭い道に入ります。カラーモール化された東海道筋は亀山城を大きく迂回するため、鉤の手に曲がるようになっています。
この鉤の手を曲がり、すこし進んだ突き当たりを右折し、そしてすぐに左折して坂を下ると左側に「遍照寺」と「誓昌院」が堂宇を構えています。遍照寺の本堂入口部分は亀山城の二の丸御殿の玄関部分を移築したものと言われています。

その先はなだらかな下り坂です。道が大きく左にカーブするところに大きな古い家が残っています。この辺りの道筋のほんの僅かな部分に宿場町らしい建物が数軒残っています。

宿内の家
宿内の家

そんな道筋にあるのが御菓子司出雲屋です。かつてはこの場所に万屋と大坂屋がありました。出雲屋は昭和5年(1930)創業という老舗の和菓子屋で、三重県産の餅米を使用した生切り餅タガネ餅をはじめ、みたらし団子、五平餅、大判焼き等を製造販売しています。

※タガネ餅:餅米とうるち米をまぜてついた切り餅に時雨のたまり醤油をつけたもの。このタガネ餅の切り餅が「せんべい」に姿を変えていきます。

出雲屋を過ぎると旧街道は302号線で分断されます。旧街道は302号線を渡って先につづいています。私たちはせっかくなので亀山城址へと立ち寄るため、旧街道から逸れて、302号線に沿ってなだらかな坂を上がっていきます。坂の右側には大きな池のような亀山城の濠が広がっています。

亀山城の濠

亀山城の濠に沿って城址へ進んで行くと、前方に亀山城の石垣と多門櫓が見えてきます。

亀山城多門櫓

なだらかな坂道の途中、濠側に石碑が置かれています。碑面には「石井兄弟仇討ち」と刻まれています。



江戸時代初期の延宝(1673-1680)年間に石井源蔵、半蔵兄弟が大坂城代青山家の家臣だった父石井宗春の仇討ちで、亀山城外で本懐を遂げたという話です。江戸三大仇討ちの一つと言われています。

※石井兄弟仇討ち
時は元禄の頃、青山因幡守の家中、石井宇衛門(宗春)が武術の遺恨によって、赤堀源右衛門に討たれました。その時の遺児、半蔵(15歳)、三男の源蔵(3歳)は苦節28年、宿敵である赤堀を亀山城外で討った話です。この話は「元禄曽我」として大評判を博しました。

日本三大仇討は「曽我兄弟の仇討」「荒木又右衛門 鍵屋ノ辻」「赤穂浪士 吉良邸討ち入り」ですが、江戸三代仇討とは「浄瑠璃坂の仇討」」「荒木又右衛門 鍵屋ノ辻」「赤穂浪士 吉良邸討ち入り」のことを指します。

「石井兄弟仇討ち」の石碑を過ぎると、亀山城の多門櫓が大きく迫ってきます。

亀山城多門櫓
亀山城址の石柱

その昔、亀山城の濠から左手は城壁で囲まれていて、西の丸があったといいますが、現在ではその場所は学校や住宅地になっています。道の左側に「亀山城址」の石碑が建っていて、多門櫓と石垣が見えます。

亀山城は文永2年(1265)、関実忠により若山(現亀山市若山町)に築城されましたが、その後、現在地に移されています。天正18年(1590)に入城した岡本宗憲が天守、本丸、二の丸、三の丸などを造ったとされています。江戸時代に入り、城主は目まぐるしく変わります。元和5年(1620)に藩主となった三宅康信の時代だけが1万石でしたが、その他の藩主はおおむね六万石の石高の藩主でした。
そんな1万石の藩主であった三宅康信の時代の頃の話です。寛永9年(1633)に丹波亀山城の天守を解体するよう命じられた松江藩主の堀尾忠晴は、何を間違ったか伊勢亀山城の三層の天守閣のほうを破却してしまいました。間違いでは済まされない失態ですよね。
しかし一説によると、天守の破却は勘違いではなく、わずか1万石の藩主には不釣り合いな天守であったための措置とも言われています。

尚、江戸時代にはいってからの伊勢亀山藩主は明治維新までに15家が入れ替わり、立ち代わり変わっています。

江戸初期に天守を失った伊勢亀山城ですが、本丸や二の丸、三の丸は残りました。そして寛永13年(1636)に城主となった本多俊次による大改修が行われ、天守なき天守台に多門櫓が造られました。当時は粉蝶城(こちょうじょう)とも呼ばれ、その優美さで知られた名城でした。

明治6年(1873)の廃城令により場内の建物は破却されましたが、現在残されている遺構は天守台・多聞櫓・石垣・堀・土塁などのほんの一部です。尚、多聞櫓は原位置のまま残る中核的城郭建築として三重県下では唯一の遺存例で、現存する多聞櫓として全国的にも数少ないものです。

多門櫓の裏手一帯は公園になっていて、園内には蒸気機関車が展示されています。

蒸気機関車

そして公園に隣接して亀山神社の境内があり、その参道入り口に鳥居が建っています。

亀山神社鳥居

さあ!それでは城址に別れを告げて、再び旧東海道筋へ戻ることにしましょう。高台にある城址から今度は坂道を下っていきます。坂の右手には亀山中学校の広いグランドが見えます。坂の途中から振り返ると、先ほどの多門櫓の漆喰塗の白壁が冬の低い太陽に照らされ、ひときわ輝いて見えます。



多聞櫓からなだらかな坂を下ってきます。池の側橋に戻ってくると、302号線で分断された旧東海道はほんの少し上り坂となって右手の細い道筋へ入っていきます。その細い道筋の坂道を登ると、道は右にカーブし、西町になりますが、坂を登りきったあたりに若林又右衛門が務めた「西問屋」があったといわれています。

坂を登りきると真っ直ぐな道筋となります。この辺りの民家には江戸時代の屋号が掲げられています。街道左手に岡田屋本店が店を構えています。屋号札はやはり「おかだや」。江戸時代からの屋号を引き継ぎ、現在はオーガニック食料品店。「東海道亀山宿」と書かれた立て札の両脇には弥次さんと喜多さんかな?

岡田屋を過ぎると旧西町の四つ角にさしかかります。その角に置かれているのが東海道・停車場道標(左角)左郡役所 右東海道(右角)の道標です。明治23年(1890)西町南側に関西鉄道の亀山停車場(現 JR亀山駅)が設置されて以来、西町は亀山の表玄関として栄えました。この四つ角を右へ入ると二の丸へとつづく道筋に置かれていた「青木門」があったようです。

そして旧西町の西村屋跡飯沼慾斎(いいぬまよくさい)の生家です。飯沼慾斎は天明3年(1783)西村守安の次男として生まれ、12歳の時に美濃大垣の飯沼家へ身を寄せて後、養子に入った。京都で漢方医学と本草学、江戸で蘭学を修めて大垣で医者として開業しました。50歳で引退した後は植物の研究に没頭し、リンネ分類法による植物分類を行って「草木図説前篇」を著しました。その先に蔵造りと立派な旧家が見えてきます。旧舘家住宅(桝屋)です。この旧舘家でも「おひなさまの展示」を行っています。見事な吊るし雛や雛壇飾りが展示されます。

旧舘家住宅の先で道筋はT字路となり、いわゆる鉤型になっています。ここを右折します。そんな道筋に馬持備屋跡(うまもちそなえや)の木札が下がっています。この意味はおそらく上級藩士等の馬を世話する人が住んでいた家か物置だと考えられます。文久3年(1863)作成とみられる”宿内軒別書上帳”により、西之丸外堀に面する旧東海道沿いに6軒の馬持備屋が並んでいたことがわかります。

馬持備屋跡の先ですぐ左折します。左折すると、すぐ右手に亀山城西之丸外堀遺構が現れます。東海道と接する外堀の一部分を保存しています。往時は水堀だったのですが、遺構面を保護するために約1mかさ上げし、往時の水面の高さを表現しています。

外堀遺構
外堀遺構

旧東海道はそのまま直進していきます。西ノ丸外堀遺構からほんのわずかな距離で亀山宿の西の出入り口である「京口門跡」にさしかかります。そして道筋は下り坂となり「梅厳寺」の前に出てきます。梅厳寺の入口には「十一面千手千眼観世音菩薩」の石柱があり、「京口門跡」の説明が置かれています。

京口門は亀山宿の西端の竜川(たつかわ)左岸の崖の上に置かれていました。亀山藩主、板倉重常が寛文12年(1672)、亀山宿の西入口として造らせたもので、石垣に冠木門を設け、亀山城の一部としての機能を備え、棟門と白壁の番所が付いていました。坂道の両側にはカラタチが植えられ、下から見上げると門や番所が聳え立つ姿は壮麗を極め、「亀山に過ぎたるものが二つあり、伊勢屋の蘇鉄と京口御門」と詠われました。

※伊勢屋の蘇鉄
元々、この蘇鉄の木は亀山宿の旅籠「伊勢屋」の庭にあったのですが、昭和59年の道路拡幅工事にため亀山市に寄贈され、市の文化会館の玄関前に植えられました。株回りが約5mの立派なものです。
尚、あの京口御門ができたのが江戸時代の寛文12年(1672)であるので、300年を超える樹齢を誇っています。

広重亀山の景

広重が描いた東海道の浮世絵の「亀山宿」は大名行列が雪の中、急な京口坂を登っていく風景が描かれています。絵の右上には石垣と亀山城の櫓らしきものが見えます。絵の中の大名行列の一行は急坂の雪道をどのように歩いていったのでしょうか? 江戸時代にはこの達(竜)川には橋が架かっていなかったので、坂を下って、いったん川まで降りて、そして再び坂を登って亀山宿へと入って行ったのです。

京口門跡の解説板(亀山市教育委員会設置)には京口門古写真があります。大正3年(1914)に京口橋が架けられるまで、広重が浮世絵に描いたような風景が残っていたのです。

橋を渡ると右手に「照光寺」が山門を構えています。境内には石井兄弟の仇討の相手である「赤堀水之助(源五右衛門)」の石碑があります。 
彼は京口門外で兄弟の手によって討たれましたが、哀れに思った人達がこの寺に墓を建てたそうです。尚、この石碑は平成に入って造られたものです。

さあ!この照光寺辺りで歩き始めて5.5キロに達します。ちょうど本日の歩行距離の半分を歩いたことになります。それでは亀山宿をあとに、次の宿場である「関宿」を目指すことにしましょう。宿場を抜けたのですが、街道沿いの様子はまだ宿内にいるような趣のある家が点在しています。

街道の家並み
街道の家並み
街道の家並み
街道の家並み



6キロ地点を過ぎると角に焼肉長次郎が店を構える交差点にさしかかります。この交差点を過ぎると街道の右手前方に立派な一里塚が現れます。江戸から数えて105番目、京都三条大橋から20番目(三条大橋から約83㎞)に置かれた「野村一里塚」です。

野村一里塚
野村一里塚

ここの一里塚は榎ではなく椋(むく)の木を植えた珍しいもので、国の史跡に指定されています。現存するのは北塚だけでで、その上に植えられた椋の木は樹齢300年を越し、幹周り5m、 高さ20mの大木です。南塚は大正12年に倒されています。

野村一里塚を過ぎると、道幅は車1台しか通れないような細い道筋へと変ります。そして町名は「布気町」になります。

そんな道筋の空き地に「大庄屋 打田権四郎昌克宅跡」 と書かれた木柱が建っています。
江戸時代初期に近江国から野尻村に土着したという打田家は、亀山藩主本多家の時に代官を任ぜられ、後に大庄屋を務めました。寛永19年(1642)に生まれた権四郎昌克は、打田家17代当主の時に亀山藩領86ヶ村を見聞し、地誌「九々五集」を著しました。

道はこの先で左にカーブしていくと三叉路にさしかかります。旧街道は右手に進んでいきます。ここまで一里塚から700mほどです。



東海道の道筋には道案内があります。右へとつづく道が東海道で「布気皇舘太神社 能古茶屋跡」の標があります。このあたりには江戸時代、立場茶屋があったところで、元禄3年(1690)に開かれた能古(のんこ)茶屋が有名だったそうです。
亭主の禅僧「道心坊能古」は奈良の茶飯や家伝の味噌、煮豆で旅人をもてなし、好評をえたと伝えられています。松尾芭蕉も能古の友人で「枯枝に鳥とまりたるや秋の暮」という句を残しています。

道は緩やかに左にカーブしていますが、すぐ左側の杜の中に「布気皇舘太(ふけこうたつだい)神社」が社殿を構えています。街道に面して石灯籠と鳥居が置かれています。
布気皇舘太神社は延喜式神名帳に小布気神社とある式内社で、祭神は天照皇御神、豊受大神、猿田彦命をはじめ23柱を祀っています。日本の八百万の神を代表する神々が合祀されているというか、神々としてはベストメンバーなので、なんでもかんでも叶えてくれるのではないでしょうか。

布気皇舘太神社の参道入り口

当神社がある場所は雄略天皇(456~479)のころ、豊受大神宮が御饌都神(みけつかみ)として丹波の国から伊勢国に遷座されたとき、鈴鹿郡で一宿した行宮の旧跡とされています。現在当社は布気皇舘太神社と呼ばれています。江戸時代には高野大神宮、高宮、神戸神社などいくつも名があったようですが、江戸時代の享保8年(1723)頃から、皇舘大神宮と呼ばれるようになったと伝えられています。
中世の頃には土地の豪族であった板淵氏や地頭の関氏が守護し、江戸時代にはこの地を治めていた亀山藩から手厚い保護を受けていました。

明治41年に村社に列し近在の鎮守社を合祀したことで、もともと天照大神、豊受大神、伊吹戸主神(いぶきどぬし)の三神が祭神だったのですが、明治の合祀で二十三柱を祀るようになりました。そして能古茶屋はこの神社前にあったようです。

私たちは落針集落へと入って行きます。落針という地名は平家の落武者がこの地に住み着き、落逃村(おちのがれ)等と呼ばれたものが変化したと伝わっています。

観音坂の緩やかな下りの途中、街道の左側に祠を構えるのが「昼寝観音」です。
名の由来は昼寝をしていたがため、三十三観音霊場に入る機会を逸したという伝説が残る観音様です。

観音坂を下りきると、旧街道はこの先で国道565号とJR関西本線によっていったん分断されます。その先の旧街道へは歩道橋で国道とJR関西本線の線路を跨いで行かなければなりません。



JR関西本線の線路を渡ると、周りの景色は一変します。民家はほとんどなくなり、街道左手に流れる鈴鹿川を間近に眺めながら進んでいきます。前方に見えてくるのは名阪国道と東名阪道の高架です。田園の中に突如として現れる巨大建造物は真下にさしかかると橋脚の大きさ、高さもさることながら、湾曲して延びていくその姿に恐ろしいほどの威厳を感じます。

名阪国道と東名阪道の高架
名阪国道と東名阪道の高架

JR関西本線の線路を越えて700mほど進むと、「大岡寺畷(たいこうじなわて)」と書いた木標が置かれています。

大岡寺畷

畷とは直線道のことで、大岡寺畷は鈴鹿川の北堤で1946間(約3.5㎞)にわたる東海道一の長い畷だったと言われています。江戸時代には18町(約2㎞)にも及ぶ松並木の直線道だった大岡寺、里謡に「わしが思いは太岡寺 ほかにき(気)はない 松(待つ)ばかり」と謡われたというところです。

芭蕉はここでは珍しく和歌を詠んでいます。 
「から風の 太岡寺縄手 ふき通し 連もちからも みな坐頭なり」

尚、現在は松に代わって桜が植えられています。

鈴鹿川の流れ

畷の左側は鈴鹿川の流れと牧歌的な景色が広がり、街道時代と変わらぬ長閑な風景が残っています。



長かった畷道はJR関西本線の踏切で終わります。旧街道は踏切を越えると国道1号線に合流します。国道1号線を渡るために歩道橋を使います。歩道橋を渡った後、ほんの少し国道1号線に沿って歩きます。小野川橋を渡って250mほど行くと右に入る細い道があり、「関宿」と書いた大きな看板が建っていて、左側に「関の小萬のもたれ松」の説明板と最近植えたと思われる松があります。

関宿の看板

関の小萬は父の仇討を遂げた女性です。
江戸時代中期、九州久留米藩に牧藤左衛門という藩士がおり、遺恨あって同輩の小林軍太夫という者に殺されました。藤左衛門の妻は身重の体だったが、仇討ちを志して旅に出ます。鈴鹿峠を越え関宿に着いたところで行き倒れとなり、山田屋(現 会津屋)に保護されましたが、女子を生んで後に病没。この女子が小万です。
成長した小万は母の遺志を継ぎ、亀山城下で三年程武術を修行、天明3年(1783)に見事、仇敵小林軍太夫を討ち果たします。この一事によって「関の小万」の名は世間に知れ渡りました。
「小万のもたれ松」は亀山城下通いの小万が、若者の戯れを避けるため、ここの松にもたれ姿を隠していたとの言い伝えから。尚、小万は仇討成就後も山田屋に留まり、36歳で亡くなりました。墓は関宿内の福蔵寺にあります。

ここから400mほど歩くと左側に大きな木の鳥居が現れます。ここが関宿の江戸側の入口です。

伊勢神宮の大鳥居

さあ!関宿に到着です。関宿の入り口に立つ大鳥居は東海道を歩いてきた旅人で、伊勢神宮に立ち寄ることができない時に伊勢神宮に向かって遙拝するためのものです。20年に一度行われる伊勢神宮の式年遷宮の都度、伊勢神宮内宮の宇治橋南詰で使われていた鳥居をここに移築し建て替えられてきました。
現在見る大鳥居は平成7年(1995)に移築されたものです。2013年10月に伊勢神宮式年遷宮の遷御の儀が行われ、大きな話題となったことは記憶に新しいのですが、この時の大鳥居も平成27年中には建て替え予定とのことです。

鳥居の左側の小高いところは関一里塚の跡で、右側奥にそれを示す小さな「関一里塚跡」の石碑が建っています。

関一里塚跡

関宿はこの鳥居から西の追分まで、東西に1800mの帯状に伸びていた宿場町です。また東海道と伊勢詣での旅人が向う伊勢別街道との追分(分岐点)でもありました。伊勢別街道はいせみち、参宮道、山田道と呼ばれていました。ここから伊勢神宮まで4里26町の距離です。右側の一里塚は既になく、左側も原形は留めていませんが、常夜燈は置かれています。

伊勢神宮の鳥居が建つ場所から前方を眺めると、宿場内を貫く細い街道の両側に途切れなく家並みがつづいています。まるで時代劇のオープンセットが目の前に現れたような光景です。さあ!街道時代の世界へ入っていきましょう。



鳥居前の石垣上の家は「岩間家住宅」です。

岩間家住宅

説明には「岩間家は当時の屋号を白木屋といい、東追分で稼ぐ人足や人力車登場後は車夫の常宿だった。連子格子が素晴らしい建物は200年以上経っていて、むくり屋根が特徴である。屋根の曲面形状はそり(反り)とむくり(起り)に分類される。そり(反り)は下方に凸となったもの、むくり(起り)は上方に凸となったものである。 むくりは使われることが少ないが、数奇屋建築にはむくり屋根が好んで使われ、桂離宮などはその好例である。」

関宿は天保十四年の東海道宿村大概帳に総戸数が632戸、人口は約2000人、本陣が2軒、脇本陣2軒、旅籠が42軒とあり、かなり大きな宿場でした。今も380軒もの古い家が残り、軒を連ねている様は壮観です。

関宿の家並み
関宿の家並み
関宿の家並み
関宿の家並み
関宿の家並み

これらの貴重な建物は昭和59年に旧東海道の宿場町の町並みを留める地区として、国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されました。宿内で最も古い建物は18世紀中期のもので、江戸から明治のものが全体の約45パーセントを占めています。更に昭和戦前までのものを加えると実に全体の約7割を占めるといいます。
このように野外博物館のような町並みを残す関宿では貴重な建物の保全にはかなり力を入れており、街道から10m入った部分まで建物を勝手に手直しすることは禁止されています。例えば、家の戸に敷居すべりを貼ることも禁止されているようです。

さらに家々のクーラーの室外機は見栄えが悪いということで、ほとんどが木製のカバーで覆われ、ゴミの集積所も木製、郵便の投函ポストも「書状集箱」、また床屋さんの赤、白、青の看板もレトロ調と景観保全は徹底しています。

さて宿内は木崎町(こさき)、中町、新所町(しんじょ)の三つの町で構成されていますが、東木戸の鳥居に近いのが木崎町です。ここから先は道幅が狭くなり、車が1台だけ通れるだけの巾しかありません。また、宿内の街道には電信柱がまったくなく、古い家並みが途切れなく街道に沿ってつづく様子は、これまで歩いてきた東海道筋では初めてではないでしょうか。
とはいえ、街道に沿って多くのお土産屋さんや一般の商店が並んでいるかというと、そのほとんどが民家のようで、観光客相手のお店はあまり見かけません。時間帯によっても宿内の様子も違ってくるのかもしれませんが、暮れなずむ冬の夕刻時、宿内を歩く人もなく、ひっそりとした雰囲気が漂っています。

少し歩くと「御馳走場」と書かれたところにでてきます。ここは宿役人が関宿に出入りする大名や高僧、公家などを出迎えたり見送ったりしたところで、大名行列ではここから本陣まで行列を組んで進んだといいます。

御馳走場

御馳走場の前には「開雲楼」と「松鶴楼」という関を代表する芸妓置屋の建物が残されています。

開雲楼・松鶴楼
開雲楼・松鶴楼
開雲楼・松鶴楼

開雲楼・松鶴楼が建つ場所から上にのびる路地は関神社の参道の入口で、奥に関神社の社殿が構えています。関神社は関氏の始祖が紀伊国の熊野坐神社の分霊を勧請し、江戸時代には熊野三所権現と呼ばれていましたが、 明治時代に笛吹大神社や大井神社などを合祀して、関神社と名を改めました。境内のナギの木は熊野に縁があるといわれています。

静かな、静かな宿内を歩きながら、過ぎ去った時代の宿場の光景を頭に浮かべることができるひとときです。
その昔には夕暮どきともなると、旅籠の軒先には屋号を記した常夜燈が置かれ、淡くゆらめく灯が宿内の道筋を飾っていたのではと想像します。そして処々から「留女」の声が聞こえてきたのではないでしょうか?
そんな宿場の光景が蘇ってくる関宿は街道時代へタイムトリップしているかのような雰囲気を漂わせています。旧東海道筋に残る宿場町の中で、ほぼ完全な形で家並みが残っているのが「関宿」です。

街道に面して「百五銀行」が現れます。町並みの景観を損なわない配慮がなされた店舗です。周囲の景色に完全に溶け込んでいます。

百五銀行の建物
関宿の家並み
関宿の家並み
関宿の家並み
関宿の家並み

冬の関宿の夕暮はあっという間にやってきます。日は西に傾き、日没前の淡い夕焼けに宿内は徐々に染まっていきます。人通りが途絶えた宿内は間もなく帳が下りて静かな夜を迎えることでしょう。
第1日目は宿内の木崎地区で見学を終え、「道の駅・関宿」へ向かうことにします。明日もまた関宿内を散策します。

第3ステージの目次へ

私本東海道五十三次道中記 第31回 第2日目 関宿から坂下宿、鈴鹿を越えて土山宿へ(その一)
私本東海道五十三次道中記 第31回 第2日目 関宿から坂下宿、鈴鹿を越えて土山宿へ(その二)
私本東海道五十三次道中記 第31回 第3日目 静かな土山宿をぬけて土山大野の三好赤甫旧跡まで





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