埼玉の吉見町に不思議な岩窟があるという。画像で見るかぎり、小高い山全体に小さな穴が穿かれており、まるでトルコのカッパドキアの岩窟住居にも似ているような気がします。この岩窟は吉見百穴と呼ばれる古墳時代(6世紀末から7世紀末)に造られた横穴墓で大正12年に国指定史跡になっています。
そんなイメージを頭に描きながら、春の陽気に誘われて吉見町へ行ってみることにしました。
吉見百穴(よしみひゃくあな)
所在地:埼玉県比企郡吉見町大字北吉見324
電話:0493-54-4541
営業時間:午前8時30分~午後5時
入園料:中学生以上300円(シニア料金なし)
電車でのアクセス方法:
東武東上線の東松山駅東口から川越観光バスの「免許センター行き」に乗って「百穴入口」で下車。
徒歩約5分で百穴に到着。
※JR高崎線「鴻巣駅」から川越観光バスの「東松山駅行き」に乗って「武蔵丘短大」または「百穴入口」で下車。
池袋から東武東上線の快速に乗って50分で東松山に到着です。駅舎の2階に観光案内所があるので、百穴までのアクセスについて確認したところ、前述のようにバスが運行しているのですが、それほど便数がありません。
初めて訪れた東松山(吉見町)ということで、町並みを眺めながら徒歩で百穴へ向かうことにしました。
駅前からは1本道をまっすぐ歩いていけば、そのまま百穴に到着できるということで約2キロの道筋をテクテク。
駅から1.3キロ地点の百穴前交差点を渡り直進し、次の信号を右へ折れると市野川に架かる橋にさしかかります。
橋上から前方に木々が生い茂る小高い山が見えますが、かつてこの山一帯には松山城が置かれていました。そしてやや左手に目を移すと白っぽい砂岩の山肌にいくつもの小さな穴が穿かれた吉見百穴も眺めることができます。
また市野川の土手には桜並木がつづいていますが、開花まではまだ少し時間がかかりそう。満開の時期には花見の客で賑わう場所ではないでしょうか。
市野川を渡り左折し、道なりに進むと「吉見百穴」の入口に到着です。
入口の受付で入園料を支払います。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/07/f6/481c7422af85bfad69090dee139eec52.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/73/64/8499444d231353c9d8699a2150bf4f60.jpg)
まずは敷地内に併設されている「埋蔵文化財センター」を見学しました。館内に入ると、目に飛び込んでくるのが吉見百穴の発掘の歴史が漫画で描かれたパネルが置かれています。絵と文字で描かれているので、分かりやすく、読みきってしまいました。これを読むと、吉見百穴は明治20年に発掘調査が始まったことが分かりました。
埋蔵文化センターでそれなりの知識を得て、いよいよ百穴の見学へ向かいます。どういうわけか敷地内の個人経営の売店が2軒あり、そのうちの1軒には店内の一画に百穴から出土したという発掘品がガラスケースの中にこれみよがしに展示されているのですが、これって「ありなのか?」とつい思いたくなってしまいます。
この出土品が本物であれば、埋蔵文化センターに展示されるべきものなのでは………?
さあ!百穴を間近に見ることにしましょう。
百穴
百穴
百穴
間近でみる百穴は砂岩の地肌が剥き出しの斜面にそれほどの間隔をあけず、無数に点在しています。現在、この砂岩の斜面い219個の穴が確認されています。おそらく古代からこの一帯の山肌は土に覆われずに砂岩の岩盤が露出していたのではないかと勝手に想像してしまいます。そしてそれぞれの穴はほぼ水平に掘られた横穴式になっています。
現在、この穴は墓として造られたと断定されているようです。
墓の内部を見ると、壁際に20cmほどの段差がつけられています。この段は死者を安置した場所と言われています。
そしてこの段は墓内に2つあるので、一つの墓に複数の死者が安置されていたと判断されています。このことは「追葬」を意味していると言われています。
百穴
百穴
さて百穴とは別に、砂岩の岩盤にひときわ大きな穴が口を開けています。実はこの百穴と周辺の丘の地下に終戦間もない昭和19年から20年にかけて軍需工場が造られました。その軍需工場の入口が百穴のある斜面の麓に開けられています。
工場の目的は中島飛行機のエンジン部品の製造だったようですが、本格稼働の前に終戦を迎えたといいます。
この地下軍需工場はかなり大きく、4工区に分かれていたといいます。そしてこの地下工場を造るにあたっては、日本全国から3,000人~3,500人の朝鮮人労働者を集め、昼夜を通した突貫工事が行われたそうです。
地下軍需工場跡入口
そんな地下軍需工場の中へと入ってみました。入口からほんの少し進むと、内部の空気はひんやりとしてかなり寒く感じます。
地下トンネル1
地下トンネル2
地下トンネル3
地下トンネル4
ここ百穴にはもう一つ珍しいものがあります。それが「ヒカリゴケ」という苔の一種です。この苔が生息しているのも横穴墓の中ですが、すべての墓の中に生息しているわけではありません。
墓の内部を覗いてみると、うっすらと緑色に光を放っているのが認識できました。ただ写真にとれるほどはっきりとは見えませんでした。
日本国内でこのような形態の墓はこれまで見たことがありませんでした。それなりに満足した時間を過ごすことができました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/31/ad/e684f0f4619ea5407c52c65d4f5c0c14.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/36/e3/cf23692bdc07c2291b2b6eb316d45c80.jpg)
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そんなイメージを頭に描きながら、春の陽気に誘われて吉見町へ行ってみることにしました。
吉見百穴(よしみひゃくあな)
所在地:埼玉県比企郡吉見町大字北吉見324
電話:0493-54-4541
営業時間:午前8時30分~午後5時
入園料:中学生以上300円(シニア料金なし)
電車でのアクセス方法:
東武東上線の東松山駅東口から川越観光バスの「免許センター行き」に乗って「百穴入口」で下車。
徒歩約5分で百穴に到着。
※JR高崎線「鴻巣駅」から川越観光バスの「東松山駅行き」に乗って「武蔵丘短大」または「百穴入口」で下車。
池袋から東武東上線の快速に乗って50分で東松山に到着です。駅舎の2階に観光案内所があるので、百穴までのアクセスについて確認したところ、前述のようにバスが運行しているのですが、それほど便数がありません。
初めて訪れた東松山(吉見町)ということで、町並みを眺めながら徒歩で百穴へ向かうことにしました。
駅前からは1本道をまっすぐ歩いていけば、そのまま百穴に到着できるということで約2キロの道筋をテクテク。
駅から1.3キロ地点の百穴前交差点を渡り直進し、次の信号を右へ折れると市野川に架かる橋にさしかかります。
橋上から前方に木々が生い茂る小高い山が見えますが、かつてこの山一帯には松山城が置かれていました。そしてやや左手に目を移すと白っぽい砂岩の山肌にいくつもの小さな穴が穿かれた吉見百穴も眺めることができます。
また市野川の土手には桜並木がつづいていますが、開花まではまだ少し時間がかかりそう。満開の時期には花見の客で賑わう場所ではないでしょうか。
市野川を渡り左折し、道なりに進むと「吉見百穴」の入口に到着です。
入口の受付で入園料を支払います。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/07/f6/481c7422af85bfad69090dee139eec52.jpg)
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まずは敷地内に併設されている「埋蔵文化財センター」を見学しました。館内に入ると、目に飛び込んでくるのが吉見百穴の発掘の歴史が漫画で描かれたパネルが置かれています。絵と文字で描かれているので、分かりやすく、読みきってしまいました。これを読むと、吉見百穴は明治20年に発掘調査が始まったことが分かりました。
埋蔵文化センターでそれなりの知識を得て、いよいよ百穴の見学へ向かいます。どういうわけか敷地内の個人経営の売店が2軒あり、そのうちの1軒には店内の一画に百穴から出土したという発掘品がガラスケースの中にこれみよがしに展示されているのですが、これって「ありなのか?」とつい思いたくなってしまいます。
この出土品が本物であれば、埋蔵文化センターに展示されるべきものなのでは………?
さあ!百穴を間近に見ることにしましょう。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/09/e4/a5b5c31163c2e828d1ce188c83ee7ffe.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/30/73/761f625efa6f24c3feeac50e98fed9e1.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/57/0e/d39c7dca9a7911d6f089949059f72f3f.jpg)
間近でみる百穴は砂岩の地肌が剥き出しの斜面にそれほどの間隔をあけず、無数に点在しています。現在、この砂岩の斜面い219個の穴が確認されています。おそらく古代からこの一帯の山肌は土に覆われずに砂岩の岩盤が露出していたのではないかと勝手に想像してしまいます。そしてそれぞれの穴はほぼ水平に掘られた横穴式になっています。
現在、この穴は墓として造られたと断定されているようです。
墓の内部を見ると、壁際に20cmほどの段差がつけられています。この段は死者を安置した場所と言われています。
そしてこの段は墓内に2つあるので、一つの墓に複数の死者が安置されていたと判断されています。このことは「追葬」を意味していると言われています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/60/84/d9a68c53cbbc6134966f4cb163c898f8.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2e/80/0272803cda65ebc6efe28105f63f6cb1.jpg)
さて百穴とは別に、砂岩の岩盤にひときわ大きな穴が口を開けています。実はこの百穴と周辺の丘の地下に終戦間もない昭和19年から20年にかけて軍需工場が造られました。その軍需工場の入口が百穴のある斜面の麓に開けられています。
工場の目的は中島飛行機のエンジン部品の製造だったようですが、本格稼働の前に終戦を迎えたといいます。
この地下軍需工場はかなり大きく、4工区に分かれていたといいます。そしてこの地下工場を造るにあたっては、日本全国から3,000人~3,500人の朝鮮人労働者を集め、昼夜を通した突貫工事が行われたそうです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5c/2c/d8f58ea8db8083cc47c1e29dd558ba54.jpg)
そんな地下軍需工場の中へと入ってみました。入口からほんの少し進むと、内部の空気はひんやりとしてかなり寒く感じます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4d/2d/4463419423da9a38a45f43d5d1b03d62.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6b/cd/960de4a61b57e35be57aadb1524194a8.jpg)
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![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3c/f9/9425180e6306b5c3b2fa47593f6b01bb.jpg)
ここ百穴にはもう一つ珍しいものがあります。それが「ヒカリゴケ」という苔の一種です。この苔が生息しているのも横穴墓の中ですが、すべての墓の中に生息しているわけではありません。
墓の内部を覗いてみると、うっすらと緑色に光を放っているのが認識できました。ただ写真にとれるほどはっきりとは見えませんでした。
日本国内でこのような形態の墓はこれまで見たことがありませんでした。それなりに満足した時間を過ごすことができました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/31/ad/e684f0f4619ea5407c52c65d4f5c0c14.jpg)
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