川越歴史散策の中で仙波東照宮と並んで見どころが多い「喜多院」は川越を代表する歴史遺産の一つです。
喜多院慈恵堂(本堂)
そもそもの喜多院の開基は奈良時代にまでさかのぼると言われていますが、正確な記録を紐解くと平安時代の830年頃、ここに慈覚大師円仁が勅願所として創建した場所に阿弥陀如来、不動明王、毘沙門天を祀り、無量寿寺と名付けた歴史があります。
その後、無量寿寺は元久2年(1205)兵火で炎上焼失の後、永仁4年(1296)伏見天皇の御世に尊海僧正が再興したとき、慈恵大師(元三大師)をお祀りし官田50石を寄せられ関東天台の中心となりました。
正安3年(1301)に後伏見天皇が東国580ヶ寺の本山たる勅書を下し、さらに後奈良天皇は「星野山-現在の山号」の勅額を下しました。しかし天文6年(1537)北条氏綱、上杉朝定の兵火で炎上焼失してしまいました。これにより無量寿寺はしばらくの間、寺勢が衰え、次の再興まで待たなければなりませんでした。
そしていよいよ再興の時期が訪れます。慶長4年(1599)あの天海僧正(慈眼大師)が第27世の法灯を継ぎ、家康公がほぼ天下を平定し徳川幕府の基礎ができあがる慶長16年(1611)11月に家康公が川越を訪れ、天海僧正と会見したことで寺領4万8000坪及び500石を賜り、寺名を喜多院と改め、壮大な伽藍が完成したと同時に寺勢が蘇ったのです。
しかし家光公の御世の寛永15年(1638)1月に発生した川越の大火により喜多院の伽藍はそのほとんどを焼失してしまいます。関東天台の本山として、更には家康公没後に執り行われた盛大な追悼供養などで、喜多院の重要性をしっている家光公は時の藩主である堀田加賀守正盛に命じてすぐに復興に取りかかります。
江戸城から客殿や書院を移築したり、いち早く東照宮を再建したり、そのほか現在見ることができる慈恵堂、多宝塔、慈眼堂、鐘楼門などを再建していきます。
慈眼堂へつづく石段
仙波東照宮から喜多院の境内に入ると、すぐ左手の小高い丘の上に現れるのが天海僧正を祀る「慈眼堂(国重要文化財)」です。丘の上へと石段がつづいています。木々の緑に覆われた石段を上るとほぼ四角の御堂が現れます。御堂の屋根は本瓦葺の四方へと美しい流れを見せる宝行(ほうぎょう)造りの様式です。御堂の中には厨子が収まり、この厨子の中に天海僧正の木造が安置されています。
慈眼堂
慈眼堂
慈眼堂内の厨子
再び石段を下りていくと前方に見えてくるのが「鐘楼門(国重要文化財)」です。2層造りの美しい姿の鐘楼門はもともと仙波東照宮の門として建立されたものです。
鐘楼門
鐘楼門二層部分
そして境内の中でひときわその存在感を持ってどっしりと構える建造物が慈恵堂(県指定有形文化財)です。この慈恵堂は比叡山延暦寺第18代座主の慈恵大師良源(元三大師)をまつる堂宇なのですが、大師堂として親しまれ潮音殿とも呼ばれています。喜多院のご本堂らしく堂々とした姿を見せています。
慈恵堂
慈恵堂
この慈恵堂の裏手に明和4年(1767)から慶応2年(1866)まで川越藩主であった松平大和守家歴代藩主の墓がある廟所(びょうしょ)が置かれています。木々に覆われ夏の陽射しが木漏れ日となって射し込む場所に、まさに藩主の墓所らしく石の柵と立派な門が佇んでいます。
墓所の門
松平大和守家は、徳川家康公の次男結城秀康(ゆうきひでやす)の子直基(なおもと)を藩祖とします。同家が川越藩主であった7代100年の間に川越で亡くなった5人の藩主、朝矩(とものり)、直恒(なおつね)、直温(なおのぶ)、斉典(なりつね)、直候(なおよし)が葬られています。墓所には入ることができないので、石の柵の間から眺めることになります。墓所には五人の藩主の五輪塔が整然と並んでいます。
松平大和守家墓所
松平大和守家墓所
松平大和守家の墓所を辞して、再び慈恵堂前を通り庫裏へと進みます。その庫裏と慈恵堂の間の敷地には天海僧正のお手植えの槇の大木が聳えています。
天海僧正お手植えの槇の木
庫裏は客殿と書院に渡り廊下でつながっており、家光公誕生の間や春日局化粧の間へと進むことができるのですが、現在修復中ということで見学を割愛しました。
庫裏と本堂の渡廊下
この庫裏にほぼ隣接して建つのが美しい姿の「多宝塔(県指定有形文化財)」です。この多宝塔はもともとこの場所にあったのではなく、昭和48年(1973)に現在の場所に移築されたものです。高さ13m、上下2層に宝行造りの美しい屋根が特徴的です。
多宝塔
五百羅漢
このあと五百羅漢様が鎮座する場所の前を通り、喜多院の山門(国指定重要文化財)へと進みます。典型的な四脚門で屋根は切妻造りで本瓦葺の建造物です。寛永9年(1632)に天海僧正により建立されたもので寛永15年(1639)の川越の大火で焼失を免れ、喜多院では最古の建物です。喜多院の境内へとつづく道はさまざまあるのですが、この山門が正式な正門です。
山門
夏のぎらぎらした陽射しの下での広い境内の散策はかなり体にこたえます。乾いた喉を潤すために境内の茶屋の日陰でしばし休憩しながら眩しい太陽の下で青空を背景に浮き上がる堂宇を眺めていました。そして喜多院と深い関わりをもった家康公をはじめ、天海僧正の偉業、歴代の川越藩主の喜多院への崇敬の深さを頭に巡らした瞬間でした。
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真夏の小江戸・川越の歴史散策(其の参)~本丸御殿に在りし日の栄華を偲ぶ~
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真夏の小江戸・川越の歴史散策(其の伍)~小江戸川越の蔵の街と菓子屋横丁~
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喜多院慈恵堂(本堂)
そもそもの喜多院の開基は奈良時代にまでさかのぼると言われていますが、正確な記録を紐解くと平安時代の830年頃、ここに慈覚大師円仁が勅願所として創建した場所に阿弥陀如来、不動明王、毘沙門天を祀り、無量寿寺と名付けた歴史があります。
その後、無量寿寺は元久2年(1205)兵火で炎上焼失の後、永仁4年(1296)伏見天皇の御世に尊海僧正が再興したとき、慈恵大師(元三大師)をお祀りし官田50石を寄せられ関東天台の中心となりました。
正安3年(1301)に後伏見天皇が東国580ヶ寺の本山たる勅書を下し、さらに後奈良天皇は「星野山-現在の山号」の勅額を下しました。しかし天文6年(1537)北条氏綱、上杉朝定の兵火で炎上焼失してしまいました。これにより無量寿寺はしばらくの間、寺勢が衰え、次の再興まで待たなければなりませんでした。
そしていよいよ再興の時期が訪れます。慶長4年(1599)あの天海僧正(慈眼大師)が第27世の法灯を継ぎ、家康公がほぼ天下を平定し徳川幕府の基礎ができあがる慶長16年(1611)11月に家康公が川越を訪れ、天海僧正と会見したことで寺領4万8000坪及び500石を賜り、寺名を喜多院と改め、壮大な伽藍が完成したと同時に寺勢が蘇ったのです。
しかし家光公の御世の寛永15年(1638)1月に発生した川越の大火により喜多院の伽藍はそのほとんどを焼失してしまいます。関東天台の本山として、更には家康公没後に執り行われた盛大な追悼供養などで、喜多院の重要性をしっている家光公は時の藩主である堀田加賀守正盛に命じてすぐに復興に取りかかります。
江戸城から客殿や書院を移築したり、いち早く東照宮を再建したり、そのほか現在見ることができる慈恵堂、多宝塔、慈眼堂、鐘楼門などを再建していきます。
慈眼堂へつづく石段
仙波東照宮から喜多院の境内に入ると、すぐ左手の小高い丘の上に現れるのが天海僧正を祀る「慈眼堂(国重要文化財)」です。丘の上へと石段がつづいています。木々の緑に覆われた石段を上るとほぼ四角の御堂が現れます。御堂の屋根は本瓦葺の四方へと美しい流れを見せる宝行(ほうぎょう)造りの様式です。御堂の中には厨子が収まり、この厨子の中に天海僧正の木造が安置されています。
慈眼堂
慈眼堂
慈眼堂内の厨子
再び石段を下りていくと前方に見えてくるのが「鐘楼門(国重要文化財)」です。2層造りの美しい姿の鐘楼門はもともと仙波東照宮の門として建立されたものです。
鐘楼門
鐘楼門二層部分
そして境内の中でひときわその存在感を持ってどっしりと構える建造物が慈恵堂(県指定有形文化財)です。この慈恵堂は比叡山延暦寺第18代座主の慈恵大師良源(元三大師)をまつる堂宇なのですが、大師堂として親しまれ潮音殿とも呼ばれています。喜多院のご本堂らしく堂々とした姿を見せています。
慈恵堂
慈恵堂
この慈恵堂の裏手に明和4年(1767)から慶応2年(1866)まで川越藩主であった松平大和守家歴代藩主の墓がある廟所(びょうしょ)が置かれています。木々に覆われ夏の陽射しが木漏れ日となって射し込む場所に、まさに藩主の墓所らしく石の柵と立派な門が佇んでいます。
墓所の門
松平大和守家は、徳川家康公の次男結城秀康(ゆうきひでやす)の子直基(なおもと)を藩祖とします。同家が川越藩主であった7代100年の間に川越で亡くなった5人の藩主、朝矩(とものり)、直恒(なおつね)、直温(なおのぶ)、斉典(なりつね)、直候(なおよし)が葬られています。墓所には入ることができないので、石の柵の間から眺めることになります。墓所には五人の藩主の五輪塔が整然と並んでいます。
松平大和守家墓所
松平大和守家墓所
松平大和守家の墓所を辞して、再び慈恵堂前を通り庫裏へと進みます。その庫裏と慈恵堂の間の敷地には天海僧正のお手植えの槇の大木が聳えています。
天海僧正お手植えの槇の木
庫裏は客殿と書院に渡り廊下でつながっており、家光公誕生の間や春日局化粧の間へと進むことができるのですが、現在修復中ということで見学を割愛しました。
庫裏と本堂の渡廊下
この庫裏にほぼ隣接して建つのが美しい姿の「多宝塔(県指定有形文化財)」です。この多宝塔はもともとこの場所にあったのではなく、昭和48年(1973)に現在の場所に移築されたものです。高さ13m、上下2層に宝行造りの美しい屋根が特徴的です。
多宝塔
五百羅漢
このあと五百羅漢様が鎮座する場所の前を通り、喜多院の山門(国指定重要文化財)へと進みます。典型的な四脚門で屋根は切妻造りで本瓦葺の建造物です。寛永9年(1632)に天海僧正により建立されたもので寛永15年(1639)の川越の大火で焼失を免れ、喜多院では最古の建物です。喜多院の境内へとつづく道はさまざまあるのですが、この山門が正式な正門です。
山門
夏のぎらぎらした陽射しの下での広い境内の散策はかなり体にこたえます。乾いた喉を潤すために境内の茶屋の日陰でしばし休憩しながら眩しい太陽の下で青空を背景に浮き上がる堂宇を眺めていました。そして喜多院と深い関わりをもった家康公をはじめ、天海僧正の偉業、歴代の川越藩主の喜多院への崇敬の深さを頭に巡らした瞬間でした。
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