大江戸散策徒然噺 Introducing Japanese culture and history

豊かな歴史に彩られた日本の文化と歴史を紹介

真夏の小江戸・川越の歴史散策(其の六)~天海・家康公・家光公そして春日局ゆかりの川越大師・喜多院~

2012年08月01日 11時17分17秒 | 地方の歴史散策・埼玉小江戸川越
川越歴史散策の中で仙波東照宮と並んで見どころが多い「喜多院」は川越を代表する歴史遺産の一つです。

喜多院慈恵堂(本堂)

そもそもの喜多院の開基は奈良時代にまでさかのぼると言われていますが、正確な記録を紐解くと平安時代の830年頃、ここに慈覚大師円仁が勅願所として創建した場所に阿弥陀如来、不動明王、毘沙門天を祀り、無量寿寺と名付けた歴史があります。

その後、無量寿寺は元久2年(1205)兵火で炎上焼失の後、永仁4年(1296)伏見天皇の御世に尊海僧正が再興したとき、慈恵大師(元三大師)をお祀りし官田50石を寄せられ関東天台の中心となりました。

正安3年(1301)に後伏見天皇が東国580ヶ寺の本山たる勅書を下し、さらに後奈良天皇は「星野山-現在の山号」の勅額を下しました。しかし天文6年(1537)北条氏綱、上杉朝定の兵火で炎上焼失してしまいました。これにより無量寿寺はしばらくの間、寺勢が衰え、次の再興まで待たなければなりませんでした。

そしていよいよ再興の時期が訪れます。慶長4年(1599)あの天海僧正(慈眼大師)が第27世の法灯を継ぎ、家康公がほぼ天下を平定し徳川幕府の基礎ができあがる慶長16年(1611)11月に家康公が川越を訪れ、天海僧正と会見したことで寺領4万8000坪及び500石を賜り、寺名を喜多院と改め、壮大な伽藍が完成したと同時に寺勢が蘇ったのです。

しかし家光公の御世の寛永15年(1638)1月に発生した川越の大火により喜多院の伽藍はそのほとんどを焼失してしまいます。関東天台の本山として、更には家康公没後に執り行われた盛大な追悼供養などで、喜多院の重要性をしっている家光公は時の藩主である堀田加賀守正盛に命じてすぐに復興に取りかかります。

江戸城から客殿や書院を移築したり、いち早く東照宮を再建したり、そのほか現在見ることができる慈恵堂、多宝塔、慈眼堂、鐘楼門などを再建していきます。

慈眼堂へつづく石段

仙波東照宮から喜多院の境内に入ると、すぐ左手の小高い丘の上に現れるのが天海僧正を祀る「慈眼堂(国重要文化財)」です。丘の上へと石段がつづいています。木々の緑に覆われた石段を上るとほぼ四角の御堂が現れます。御堂の屋根は本瓦葺の四方へと美しい流れを見せる宝行(ほうぎょう)造りの様式です。御堂の中には厨子が収まり、この厨子の中に天海僧正の木造が安置されています。

慈眼堂
慈眼堂
慈眼堂内の厨子

再び石段を下りていくと前方に見えてくるのが「鐘楼門(国重要文化財)」です。2層造りの美しい姿の鐘楼門はもともと仙波東照宮の門として建立されたものです。

鐘楼門
鐘楼門二層部分

そして境内の中でひときわその存在感を持ってどっしりと構える建造物が慈恵堂(県指定有形文化財)です。この慈恵堂は比叡山延暦寺第18代座主の慈恵大師良源(元三大師)をまつる堂宇なのですが、大師堂として親しまれ潮音殿とも呼ばれています。喜多院のご本堂らしく堂々とした姿を見せています。

慈恵堂
慈恵堂

この慈恵堂の裏手に明和4年(1767)から慶応2年(1866)まで川越藩主であった松平大和守家歴代藩主の墓がある廟所(びょうしょ)が置かれています。木々に覆われ夏の陽射しが木漏れ日となって射し込む場所に、まさに藩主の墓所らしく石の柵と立派な門が佇んでいます。

墓所の門

松平大和守家は、徳川家康公の次男結城秀康(ゆうきひでやす)の子直基(なおもと)を藩祖とします。同家が川越藩主であった7代100年の間に川越で亡くなった5人の藩主、朝矩(とものり)、直恒(なおつね)、直温(なおのぶ)、斉典(なりつね)、直候(なおよし)が葬られています。墓所には入ることができないので、石の柵の間から眺めることになります。墓所には五人の藩主の五輪塔が整然と並んでいます。

松平大和守家墓所
松平大和守家墓所

松平大和守家の墓所を辞して、再び慈恵堂前を通り庫裏へと進みます。その庫裏と慈恵堂の間の敷地には天海僧正のお手植えの槇の大木が聳えています。

天海僧正お手植えの槇の木

庫裏は客殿と書院に渡り廊下でつながっており、家光公誕生の間や春日局化粧の間へと進むことができるのですが、現在修復中ということで見学を割愛しました。

庫裏と本堂の渡廊下

この庫裏にほぼ隣接して建つのが美しい姿の「多宝塔(県指定有形文化財)」です。この多宝塔はもともとこの場所にあったのではなく、昭和48年(1973)に現在の場所に移築されたものです。高さ13m、上下2層に宝行造りの美しい屋根が特徴的です。

多宝塔
五百羅漢

このあと五百羅漢様が鎮座する場所の前を通り、喜多院の山門(国指定重要文化財)へと進みます。典型的な四脚門で屋根は切妻造りで本瓦葺の建造物です。寛永9年(1632)に天海僧正により建立されたもので寛永15年(1639)の川越の大火で焼失を免れ、喜多院では最古の建物です。喜多院の境内へとつづく道はさまざまあるのですが、この山門が正式な正門です。

山門

夏のぎらぎらした陽射しの下での広い境内の散策はかなり体にこたえます。乾いた喉を潤すために境内の茶屋の日陰でしばし休憩しながら眩しい太陽の下で青空を背景に浮き上がる堂宇を眺めていました。そして喜多院と深い関わりをもった家康公をはじめ、天海僧正の偉業、歴代の川越藩主の喜多院への崇敬の深さを頭に巡らした瞬間でした。

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真夏の小江戸・川越の歴史散策(其の伍)~小江戸川越の蔵の街と菓子屋横丁~

2012年07月31日 18時44分32秒 | 地方の歴史散策・埼玉小江戸川越
本丸御殿と三芳野神社のある場所から再び小江戸巡回バスに乗って、川越の街を代表する景観を楽しめる蔵の街へと進みます。
バスは氷川神社前そしてかつての川越城の大手門があった場所を経由して、時の鐘の塔の真下を通って蔵の街バス停に到着します。

蔵の街の通りは南の仲町交差点から北の札の辻交差点までの間に昔懐かしい蔵造りの家並みがつづくことで知られています。特に景観が優れているのはこの通りには電柱と電線が地下に埋設されているため、空がものすごく広く感じられ、蔵造りの家々が青空を背景にくっきりと浮かびあがるのです。

川越時の鐘

まずは蔵の街のシンボル的存在の「時の鐘」に向かうことにします。平日に訪れたこの日、日本人もさることながらどういうわけか中国人とおぼしき人たちが結構多いことに驚きました。その中国人とおぼしき人たちが時の鐘の下に大勢たむろしている姿に、川越の歴史景観地区もかなり国際化してきたんだなあ、と一人つぶやいた次第です。

川越時の鐘

川越の時の鐘の始まりは江戸時代の寛永年間(1624~44)に川越城主酒井忠勝が城下多賀町 (いまの幸町)に建てたものが最初といわれています。オリジナルの時の鐘の塔は明治26年(1893)の川越の大火で焼失してしまい、翌年の明治27年に再建されたものです。
とはいえ蔵の街にひときわ高くそびえる時の鐘の塔は歴史景観に色を添えるばかりか、現在でも1日に4回(午前6時・正午・午後3時・午後6時)に時を告げてくれています。

川越時の鐘

時の鐘の周辺にも蔵造りの家々が並んでいますが、やはり通りに面して建つ蔵造りの美しい景観を見なければここに来た甲斐がありません。通りにはひっきりなしに車が行き交い、ここぞと思う場所で写真を撮ろうとすると車が入り込み、蔵造りの家を邪魔してしまうのです。

鐘つき通りの道標

車の流れが途切れた瞬間にシャッターチャンスが訪れます。とはいってもゆっくり三脚を使って撮ったものではないので、若干不満の残る画像ですがご覧ください。また、逆光にならないように撮ったため、方角がすべて同じになってしまいました。

蔵造りの家
蔵造りの家並み

それでも東京都心ではまったく見ることができない町家の姿に、かつて日本橋本町界隈にはこのような蔵造りの町家が軒を連ねていたことを頭に浮かべながらそぞろ歩きを楽しみました。

蔵造りの家並み
路地裏から見た蔵造り
蔵造りの家

この蔵造りの家並みの裏側の路地にも興味が沸いたので行ってみることにしました。江戸の町づくりを思い返すと、通りに面して店(たな)が並び、店の裏側には長屋が軒を連ねているなんて光景を江戸の町のイラストで見た覚えがあります。だからといって平成の世に江戸の町と同じように、店(たな)の裏手に長屋が並んでいるなんてことはありません。

養寿院山門

その路地を進んでいくと由緒ありげなお寺の山門が現れました。ほんとうに見事な山門です。寺名を確認すると「曹洞宗養寿院」とあります。山門は扉を固く閉じているため、右手に回り境内へと進みます。正面にご本堂、右手に客殿とおぼしき古めかしい建物がたっています。境内は綺麗に整備され、緑濃い木々が境内に彩りを添えています。

ご本堂
客殿

境内の裏手に板東八平氏の一つで秩父氏の出の川越太郎重頼の墓があると看板がでていました。川越氏のなんたるかは存じ上げなかったのですが、興味本位に行ってみることにしました。本堂の左手の細い道を進んで行くと左前方にほんの少し土をもったような場所が現れます。その盛り土の奥に小さな五輪塔が立っています。

川越太郎重頼墓所

これが川越太郎重頼の墓なのだそうですが、一応、言い伝えということらしいのです。重頼のことを調べてみると、時代は源平の頃に遡ります。源頼朝が挙兵した当時、川越氏は平家方だったようです。しかし重頼の妻が頼朝の乳母である比企禅尼の娘だったことで、ついには頼朝方について平氏追悼に加わり、鎌倉幕府に尽力した方と言われています。

尚、重頼の娘はなんと義経の正妻に選ばれ、そして上洛することとなったのですが、頼朝と義経の仲たがいでどういうわけか重頼は誅殺され、所領まで没収されてしまったのです。そんな悲運の重頼の五輪塔は木漏れ日の中に静かに佇んでいました。

川越太郎重頼の五輪塔

養寿院をあとに、さらに路地を進むと川越の観光名所の一つである「菓子屋横丁」の入口に辿りつきます。平日の午後ということで人影もまばらで、お店も開店休業状態のようです。

菓子屋横丁
菓子屋横丁

今回の川越の旅は一人旅のため、どこかで美味しいものを食べるにしても一人では心もとないので、菓子屋横丁のバス停から小江戸巡回バスに乗り川越駅へと戻ることにしました。夏の陽射しで火照った体にバス車内の冷房はなんとも心地よいものです。炎天下の川越観光には是非、小江戸巡回バスをご利用されることをお勧めいたします。

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真夏の小江戸・川越の歴史散策(其の四)~童歌「通りゃんせ」の故郷・三芳野神社~

2012年07月31日 16時28分11秒 | 地方の歴史散策・埼玉小江戸川越
川越城本丸御殿のちょうど目の前に、なんとあの「通りゃんせ」で知られる童歌の発祥の地があるではありませんか。

三芳野神社社殿

通りゃんせ 通りゃんせ
ここはどこの 細通じゃ
天神様の 細道じゃ
ちっと通して 下しゃんせ
御用のないもの 通しゃせぬ
この子の七つの お祝いに
お札を納めに 参ります
行きはよいよい 帰りはこわい
こわいながらも
通りゃんせ 通りゃんせ

という文言の中にでてくる天神様が本丸御殿の目の前にその社殿を構えています。



その天神様が三芳野神社です。創建は古く平安時代初期の大同2年(807)に遡ります。川越城が築城される前から社を構えていたことになるのですが、神社の場所はそれこそ本丸御殿のすぐ脇ということは、この神社はお城の中に取り込まれていたことになるのです。

このため川越城築城当初から城内の鎮守として歴代の城主たちから崇敬されてきたことになります。ということはこの三芳野神社は一般庶民がおいそれと参詣に訪れることができない場所に鎮座していたことになります。

説明書きによると、江戸時代にこの天神様にお参りするには、川越城の南大手門から入り、田郭門をとおり、富士見櫓を左手に見てさらに天神門をくぐり、東へ向かう小道を進み、三芳野神社に直進する細い道を通ってお参りしたそうです。この細い道が「通りゃんせ」の歌詞の発祥の地であると言われています。この道程を本丸住居絵図に照らしてみるとかなりの距離になることがわかります。

三芳野神社への「細道(参道)」
三芳野神社

そんな長い距離があるにもかかわらず、「通りゃんせ」の歌のように庶民が「子供の七つのお祝いに御札を納めに行く」ために城内を歩くことが許されていたことに面白さを感じるとともに、城主の粋な計らいに感心してしまいます。

わらべ歌発祥の所碑

尚、「行きはよいよい 帰りはこわい」の意味はさまざまに解釈されるようですが、一般的には城内の様子を見てしまったはずの庶民にとって、見てはいけないものもあるはずなのです。そんな城内の秘密めいたものや、参詣客に紛れた敵の間者が簡単に城外へ出てしまわないよう出口で厳しく取り締まったことを「帰りはこわい」で表現したのでは、と一人想像をめぐらしたしだいです。

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真夏の小江戸・川越の歴史散策(其の参)~本丸御殿に在りし日の栄華を偲ぶ~

2012年07月30日 14時31分51秒 | 地方の歴史散策・埼玉小江戸川越
仙波東照宮のご社殿への参拝を終えてから隣接する川越大師こと「喜多院」の境内へすすみ、つぶさに見学とご本堂への参拝を済ませた後、かねてから訪れてみたいと思っていた「川越城本丸御殿」へ小江戸巡回バスに乗って向かうことにしました。

本丸御殿玄関

喜多院から狭い道を何度も曲がりながらおよそ10分弱のバスの旅で本丸御殿に到着します。巡回バスの停留所は本丸御殿の脇にあるので、これまた長い距離を歩かずに正面玄関(入口)に行くことができます。

本丸御殿

重厚な佇まいを見せる御殿正面の姿はさすが関東の雄藩である川越の城といった雰囲気を漂わせています。見事な唐破風屋根が設けられている間口3間の幅を持つ玄関はさすが17万石の大名御殿らしい威厳と風格を感じさせてくれます。玄関で靴を脱ぎ、廊下をほんの少し左へと行ったところにチケット販売所が置かれています。入館料は大人一人100円です。

御殿玄関
御殿内の廊下

さて現在みることができる川越城の本丸御殿は幕末の嘉永元年(1848)に建てられたもので、その当時の本丸部分の建物の数は16棟を数え、その広さは1025坪に及んだといわれています。すなわち藩の政治を行う「表」、藩主の私的空間であった「中奥」そして女性たちスペースであった「奥」もあったのではないかと思われます。

しかし維新後はこれら本丸の建物の多くが移築されたり、解体されたりして大きく姿を変えてしまいます。明治4年の廃藩置県で川越に入間県の県庁が置かれた際に、本丸御殿の玄関と大広間が県庁舎として利用されることになります。その後、入間郡の公会所となったり、煙草工場になったり、武道場になったり、戦後は中学校の仮校舎や屋内運動場として使われ、御殿であったことすら忘れ去られてしまうほどに姿を変えていきました。

そんな川越城本丸御殿は昭和42年に本来の姿を少しでも復活すべく大規模修理を行い、当時の規模とは比べ物にならないのですが本丸御殿の一部として現在、一般公開されています。

御殿内廊下

かなりの復元大修理のお蔭で、現在は往時の屋敷らしさをほんの少し感じます。玄関からつづく幅の広い廊下とその廊下に面していくつもの部屋が並んでいます。これらの部屋もかつての「本丸住居絵図」をみるとほぼ正確に復元されています。そして各部屋にはそれぞれなんのための部屋だったかを記しています。

家老詰所棟
家老詰所棟の畳廊下

前述の本丸住居絵図を見る限り、現在みることのできる本丸御殿はほんのごく一部にすぎません。広々とした廊下は御殿の各部屋を取り囲むようにつづいています。その途中に継ぎ足されたような棟へつづく廊下を渡ると、一応「家老詰所」と呼ばれている建物へと進んでいきます。この棟もいくつかの小さな部屋に区切られています。奥へ奥へと進むうち、ふいに3人の人影が現れます。一瞬、「ドキッ」とするのですが、これは人形でご家老が家臣2人となにやら会議をしている様子を表しています。

家老詰所

ふたたび元の棟へ戻り、廊下を進んで行きます。その途中に現れるのが36畳敷きの大広間です。かつての御殿の中でも2番目に大きかった部屋で、来客が藩主に会うまで待機するために使用されたものです。藩主との対面は今は残っていませんが、大書院で行われていたようです。

本丸庭
大広間

日本全国に点在する「城郭」でかつての遺構として本丸が残っているのは極めて僅かなのです。なおかつ掘割に囲まれた内郭に本丸が残っている例は京都二条城を除いては彦根城くらいなものでしょう。維新後、明治政府は廃藩置県、版籍奉還の名のもとに旧封建社会のシンボル的存在である天守や本丸はては大名屋敷までをも解体し、あたかも徳川幕藩体制の恨みを晴らすかのごとく徹底した粛清を行ったように思えます。

本丸外観

とはいえもし天守や本丸を当時の明治政府が残したとしても、おそらく第二次世界大戦の米軍の空襲で燃えてしまったのかもしれませんが…。それでも川越が在りし日の本丸の姿を僅かながらでも残していることは称賛に値するものではないでしょうか。

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真夏の小江戸・川越の歴史散策(其の弐)~神君家康公を祀る仙波東照宮~

2012年07月27日 11時49分40秒 | 地方の歴史散策・埼玉小江戸川越
これまで日本各地に点在する代表的な東照宮詣でをしてまいりましたが、灯台下暗しともいうべきか東京からさほど離れていない川越の東照宮が取材先から漏れていました。

江戸の風情に溢れている川越の中で最も取材をしてみたい場所が日本の三大東照宮と言われている「仙波東照宮」だったのです。先の中院からは徒歩で数分の距離に神君家康公は鎮座しています。中院からまっすぐに延びる道を歩いていくと、ふいに仙波東照宮と書かれた看板が目に飛び込んできます。

仙波東照宮参道入り口

私にとっての東照宮は尊敬する神君家康公を祀る社であると同時に、徳川将軍家の心の拠り所としても、江戸時代を通じて幕藩体制を堅固にした象徴的な特別な存在として威厳をもって迫ってくるのです。

川越の東照宮は元和3年(1617)、徳川家康の遺骸を久能山から日光に移送する途中、喜多院に4日間とう留して家康公の政策ブレーンであった天海僧正が大法要を営みました。そのことにより寛永10年(1633)に喜多院の境内に東照宮が創建されたのです。

そんな川越の仙波東照宮の佇まいは日光や久能山に比較するとかなり地味な装いで私を迎えてくれました。参道入り口からは東照宮の社殿を見ることができませんが、一直線にのびる参道の向こうに朱で塗られた門が置かれています。これが随身門と呼ばれる門です。

随身門

これまで詣でた東照宮の中ではかなり地味な色合いと華美にならない簡素な門といった印象です。かつては門の左右にはそれぞれ随身が置かれていたようですが、今はその姿を見ることができません。どこへ行ってしまったのでしょう?

参道と鳥居
鳥居に刻まれた文字

夏の陽射しを背中に受けながら随身門をくぐると前方に石造りの鳥居が建っています。三大東照宮にしてはその鳥居の規模も地味なのですが、長い歴史を刻んでいるような佇まいを見せています。鳥居には「寛永15年9月17日」の文字が刻まれています。かつては「東照大権現」の扁額も掲げられていたと思いますが、現在はその扁額すらありません。どうしてどうしょうか?この鳥居は寛永の大火の後、三大将軍家光公の命により東照宮の再建に当たった当時の川越城主であった堀田正盛が奉納したものです。

鳥居をくぐるとその向こうにはこんもりとした東照宮の杜が見えてきます。先ほどの随身門から鳥居を一直線に結んだ先に東照宮ご社殿へと通じる長い石段が見えます。

社殿へつづく石段

周囲の木々の緑に覆われた石段をのぼって行く瞬間は、いずこの東照宮参拝でも気持ちが引き締まる思いです。石段をのぼりきると大きな葵のご紋が掲げられた鉄扉が迎えてくれます。この葵のご紋に迎えられる気持ちは家康公好きの私にとっては何にもまして代えがたいものです。

社殿入口の門の葵の御紋

いよいよ東照宮社殿が居並ぶ神域へと入ってきます。ご社殿はまず拝幣殿、そしてその背後に平唐門とそれに付随する瑞垣、その瑞垣に囲まれた本殿の順で配置されています。全体的な雰囲気としては愛知県の鳳来山東照宮や同じく瀧山東照宮の佇まいに似ているような気がします。

拝幣殿
拝幣殿

現在見る東照宮の各殿の建物は寛永の大火後の再建の際に、江戸城内にあった空宮を解体しここに移築、再建したもので拝殿の向背部分の装飾は非常に地味で極彩色の彩りはありません。

拝幣殿の向背部分

拝殿の後方の唐門と本殿には近づくことができませんが、唐門とそれに付随する透塀、更にはその背後の本殿の姿はさすが三大東照宮の一つと言われる風格を感じさせてくれます。遠目でしかわかりませんが、本殿はきっと極彩色の彩りと見事な彫刻群で飾り立てられているのではないでしょうか?

唐門と本社殿

拝殿が置かれている敷地の左右にはたくさんの石灯籠がたっています。これらの石灯籠は歴代の川越城主が寄進したもので全部で26基並んでいます。

石燈籠群

特に歴史上の人物として名高い松平信綱(知恵伊豆として有名)をはじめ、歴代の川越城主であった松平輝綱、松平信輝、柳沢吉保、秋元喬房、秋元涼朝、松平直恒、松平斉典が奉納寄進した灯篭は拝殿後方の唐門手前にずらりと並んでいます。

唐門手前の石灯籠

尚、現存する東照宮の随身門、鳥居、拝幣殿、平唐門、瑞垣、本殿すべてが重要文化財に指定されています。

今回の仙波東照宮参拝をもって名だたる東照宮詣でがほぼ終了いたしました。これまで辿った東照宮詣でをリンクしましたので是非ご覧ください。

住所:埼玉県川越市小仙波町1-21-1
電話:049-224-3431
拝観時間:9時~16時
拝観料なし
通常は拝殿手前までは入場できます。

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真夏の小江戸・川越の歴史散策(其の壱)~天台宗別格本山・中院~

2012年07月27日 09時38分26秒 | 地方の歴史散策・埼玉小江戸川越
本格的な夏の到来で連日猛暑がつづき、炎天下での取材に二の足を踏んでしまう昨今なのですが、そうも言ってられず今日は覚悟の上で川越の歴史散策を敢行した次第です。

東武東上線の川越駅を降りた途端、肌にまとわりつくような熱気に「散策に耐えられるだろうか」という不安が頭によぎります。午前中にもかかわらず気温はもう30度を軽く超え、さすが関東内陸の猛暑地帯を実感。こんな環境ですべてを徒歩で巡ることはあまりにも無謀。それではと川越市内の見どころを効率よく巡ってくれるバスサービスを利用することにしました。

今回選択したバスサービスは「小江戸巡回バス」。レトロ感が漂うボンネットバスで知られるイーグルバスという会社が運行しています。小江戸巡回バスは区間ごとに乗車賃を支払いながら利用することができるのですが、お得な「1日フリー乗車券」を500円で購入すれば、何度でも乗り降りができるものです。1区間ごとの料金は170円ですから3回以上の乗り降りを予定している向きにはこの「1日フリー乗車券」が断然お得です。

川越駅の西口の6番乗り場にボンネットバスが出発を待っています。最初の目的地を喜多院とその周辺にさだめ、いよいよ小江戸・川越の歴史散策というよりか、ボンネットバスの旅を始めることにします。

まずは喜多院や仙波東照宮からさほど離れていない場所に伽藍を構える「中院」へ向かうことにします。川越駅からボンネットバスでおよそ10数分の距離です。中院のバス停留所は川越総合高校のグランド脇を走る道に、それこそ中院の山門の真ん前に置かれています。

中院山門

中院は今から1200年前の830年頃にに慈覚大師、すなわち円仁が開基した天台宗の古刹です。その時に朝廷から賜った勅号が「星野山無量寿寺仏地院」すなわち中院なのです。しかしながらそれから110年後には天慶の乱(941)で寺運が衰え、その後の元久の乱で堂宇は灰燼に帰してしまいます。

中院が再び復興するには三百数十年の時を待たなければなりません。時は永仁4年(1296)に尊海僧正により仏地院が再建されます。その後、寺勢は盛んになり朝廷から関東天台の本山の勅許を得るまでになります。尊海僧正はその後、仏蔵院(北院=現喜多院)と多聞院(南院)を建立しています。ということはかつては3つの寺院が北から順番に中、南と並んでいた訳です。

山門はバス通りに面してどういうわけか2つ並んでいます。一つは色は若干褪せていますが朱色に塗られた門で、門柱に400年前に建立されたものであることが記された木札が貼ってあります。400年前といえば江戸時代の初期のころにあたるのですが、それ以上の詳しい記述がないのでこの朱色の門がここに置かれている由来がわかりません。

中院赤門

この朱色の門から左へわずか進んだところに中院の正門である「山門」が構えています。門の前には「天台宗星野山中院」の石柱が立っています。山門をくぐると境内に広がる手入れされた庭が現れます。綺麗に剪定された植え込みの緑がが夏の陽射しに映えて輝いています。

中院山門

ご本堂は境内の一番奥にどっしりとした姿で構えています。美しい庭と適度に配置された木々の緑が静かに佇むご本堂にアクセントを加えています。

境内から見る赤門と山門
中院庭園
ご本堂
ご本堂

境内の庭園の一角に「不染亭(ふせんてい)と書かれた額が掲げられた建物が置かれています。実は中院は島崎藤村と浅からぬ関係があり、この建物は藤村ゆかりの「茶室」だそうです。境内の墓地には藤村の義母である加藤みきの墓があります。。「不染亭」の前には、藤村の書による「不染之碑」が立っています。

不染之碑と不染亭
不染之碑

さらに境内を奥へ進むと木々の緑に覆われた場所にもう一つのお堂が建っています。釈迦堂と呼ばれている建物で比叡山延暦寺の西塔にある釈迦堂を模して建立されたものです。

釈迦堂

釈迦堂の傍らに置かれているのが「狭山茶発祥の地」の記念碑です。中院を開山した慈覚大師(円仁)は京都からお茶の実を持参し、この場所で茶の栽培を始め、このことで後世にお茶の栽培が普及し、埼玉県の代表茶である「狭山茶」が誕生したと言われています。

狭山茶発祥の地碑

こんな歴史に彩られた中院を辞して、次に神君家康公を祀る仙波東照宮へと向かうことにします。その途中の路傍に寂しく佇んでいるのがかつて南院があった場所に置かれた石塔婆の姿です。

南院跡の石塔婆群

前述のように無量寿寺には北院、中院、南院があり、永禄年間(1558~1570)頃までは3院が存在していました。ところが江戸時代はじめに川越大火があり多くの寺院が焼失し、かつて中院のあった場所には仙波東照宮が建てられた為、中院は200m南に移動し、一方南院は明治の初めに廃院となり、その場所には現在数十基の石塔婆がかつての栄華を偲ぶように置かれています。

住所:埼玉県川越市小仙波町5-15-1
電話:049-222-2170
アクセス:【電車】西武新宿線「本川越駅」より徒歩20分/【バス】川越駅西口、小江戸巡回バスで喜多院先回りコース「中院」下車
拝観:拝観料なし

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