大江戸散策徒然噺 Introducing Japanese culture and history

豊かな歴史に彩られた日本の文化と歴史を紹介

江戸の南西裏鬼門・芝増上寺の東照宮

2011年10月26日 16時28分14秒 | 港区・歴史散策
ご存知のように江戸を政治の中心地とする上で、神君家康公は天海僧正の類い稀なる風水の知識を取り入れ、四神相応を基本理念とした結界を江戸市中に張り巡らしたのです。

芝東照宮

これにより江戸城の北東にあたる重要な鬼門として浅草の浅草寺を置き、その延長上にこれまた重要な東の叡山として東叡山・寛永寺の造営を寛永年間に完成させました。

一方、江戸の裏鬼門をなす西南には結界を繋ぐ五色不動の一つである「目黒不動」を置き、更に寛永寺から江戸城本丸を繋ぐ直線を延長した所に徳川家菩提寺である増上寺を配したのです。

このように江戸の結界を構築した天海僧正は更に強力な鬼門として日光東照宮を造営し、神となった家康公の力を借りて江戸を守護するための結界を完成させたのです。そして家康公を尊敬してやまない三代将軍家光公の御代に江戸の重要な鬼門である上野寛永寺境内に壮麗な社殿をもつ東照宮を造営、さらには西南の鬼門である増上寺領内に家康公の寿像を祀る社殿「安国殿」を設け、大権現家康公の神力をもって江戸の守護と繁栄を願ったのです。

さて現存する上野東照宮の社殿は創建当時の絢爛豪華な粧いで現代に生きる私たちにも神君家康公の神力を授けてくれています。しかし増上寺の東照宮は長い歴史の中で紆余曲折を経て、その姿は上野東照宮の絢爛さの足元に及ばないほど地味なものになっています。

増上寺の東照宮のそもそもの始まりは、神君家康公の遺言により家康公が自ら造らせたご自分の像である「寿像」を増上寺に祀るための堂を創ったことに始まります。その堂は家康公の院号の頭をとつて「安国殿」と付けられ、家光公によってほぼ現在の東照宮が置かれている場所に壮麗な建造物が造営されたのです。その際に家光公がお手植えされた銀杏の木が今でも残り、樹齢300年の堂々とした姿を見ることができます。

現在の安国殿

江戸時代を通じて増上寺の中の堂宇の一つとし大切に扱われてきましたが、徳川幕府崩壊後の明治になってから大権現を祀る安国殿を神仏分離政策により東照宮と名を改めて、本来の安国殿は家康公の守り本尊である「黒本尊」を祀るため改めて増上寺大殿の脇に移され現在に至っています。

そして家康公の寿像を祀る東照宮は明治、大正、昭和とその壮麗な社殿を引き継いでいったのですが、昭和20年の大空襲により灰燼にきしてしまうのです。その際、御神体の寿像はからくも助かったのですが、現在その所在ははっきりしていません。一説によると増上寺に近い芝大神宮に保管されているらしいのですが真意のほどは謎のままです。尚、寿像のレプリカは両国の江戸博物館に展示されています。

芝東照宮石柱

現在の東照宮の社殿は昭和44年に完成したものです。
賑やかな日比谷通りに面して目立たない存在で東照宮の石柱が立っています。ほとんどの方はここに東照宮が置かれていることすら気付かずに通り過ぎてしまいます。日比谷通りから社殿に続く参道が伸び、その参道に鳥居が立っていることで何らかの神社が置かれていることは認識できます。

東照宮参道

その鳥居には東照宮の扁額が掲げられ、その扁額の文字を書いた人物である「家達」という名前が読み取れます。この人物こそ十五代将軍慶喜公の後の徳川宗家を引き継いだ田安亀之助こと家達氏なのです。

東照宮鳥居
鳥居の扁額

家達氏は幼少時にあの天璋院篤姫が手許に置き、養育をしたことで知られています。明治に入り増上寺に東照宮を勧請したことで、徳川宗家を引き継いだ家達氏が扁額の文字を書いたことはしごく当然のように思われます。

鳥居をくぐり石段を登ると東照宮境内に入ります。まず右手には前述の三代将軍家光公がお手植えの大銀杏の木が目に飛び込んできます。現在この木は都の天然記念物の指定されています。おりからの「江」人気に便乗して、木の根元には「社宝・公孫樹 お江の御子三代将軍家光公お手植え」と書かれた板が置かれています。秋深まり紅葉の季節には、この大銀杏も黄金色に染まり美しい姿を見せてくれます。

東照宮境内
家光公お手植えの銀杏
銀杏越しに見える東京タワー

新しく造営された社殿はこじんまりとした佇まいで、絢爛豪華な装いとは言いがたいのですが、拝殿とその後ろに本殿が連結された造りになっています。彩色も地味で向背部分も極彩色の色使いはまったくありません。

東照宮拝殿
東照宮拝殿
扁額

空襲で焼ける前は、おそらく権現造りの素晴らしい拝幣殿、中門そして本殿が配置されていたことでしょう。この東照宮だけでなく終戦間際の大空襲で増上寺境内の徳川家の壮麗な霊廟群もことごとく灰になってしまいました。当寺には現在、国宝にまで指定された霊廟郡の建造物もわずか二代将軍秀忠公の旧台徳院惣門、十二代将軍家慶公の霊廟前に置かれた二天門など数えるほどしか残っていません。

旧台徳院惣門
現徳川家霊廟前の鋳抜門

もし、これら霊廟群が現代まで残っていたのなら、日光東照宮に匹敵する国宝として私たちの目を楽しませてくれたことでしょう。

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「江」が眠る芝・増上寺、戦後初の三門特別公開に行ってきました。

2011年10月25日 18時36分50秒 | 港区・歴史散策
NHK大河ドラマ「江」も終盤に入ってきました。今週10月23日(日)は慶長19年(1614)の大阪冬の陣が舞台となり、いよいよ淀殿と秀頼が追い詰められ、家康公が目論む徳川将軍家による天下統治が目の前に迫ってきました。冬の陣の年、江はすでに42歳となっており、長男竹千代君(三代将軍家光公の幼名)も10歳を数えます。

増上寺三門

江の享年は54歳ですからドラマの中では残すところ12年間しかありません。この12年の間には元和元年(1615)の大阪夏の陣、元和2年(1616)の家康公死去、元和6年(1620)の五女・和子の入内、元和9年(1623)の家光公の三代将軍宣下と歴史に残る出来事が次から次へと起こってきます。

そして寛永3年(1626)後水尾天皇の二条城行幸にあたって秀忠、家光、忠長の父子は揃って京都へ向かいます。この記念すべき天皇行幸の日が迫る中で、江の危篤が京へ知らされます。しかし大御所・秀忠も将軍家光も大切な行事をすっぽかして江戸に戻ることができません。ただ次男の忠長だけは特段の許しを得て江戸に向かうのですが、結局、江の臨終には間に合わなかったのです。将軍御台様、将軍の母、ましてや天皇家に嫁いだ娘の母親である江の臨終に夫にも子供達にも会うことができなかったのです。江、54年の人生に幕を降ろした年が寛永3年です。

江の葬儀は死後一ヶ月を経過して、増上寺から少し離れた場所に荼毘所を設け、江戸市中の寺から集まった千人の僧侶が弔いの行列を作り、荼毘所で燃やされた香の煙は空高く立ちのぼり、遥か遠くからでもみることができたと言います。そんな盛大な葬儀にも将軍家光公は参列していません。また夫である秀忠公も京都から大阪へ移動し、葬儀の時はまだ江戸に戻っていませんでした。

そんな「江」が眠る増上寺では現在、徳川将軍家霊廟と三門の特別公開を開催中です。特に三門の内部公開は極めて稀で、今回は戦後初の催しで次回はいつになるかわからないほど貴重な機会です。

増上寺での江フェアと山門公開の知らせ
江フェアのポスター

増上寺の伽藍建築の中でも創建当時の姿を唯一残す三門は国の重要文化財に指定されています。今回の特別公開では三門の楼上二階部分に安置されている天正末期から慶長前半時代に製作された釈迦如来像をはじめ、普賢菩薩像、文殊菩薩像、羅漢像(16体)、歴代の増上寺上人様の像を拝することができるチャンスなのです。

増上寺三門石柱

江戸時代を通じて増上寺の参拝は一般の江戸庶民には許されていませんでした。ただ年に数回だけ江戸庶民に山門への登楼が許されていました。その数回のチャンスに多くの江戸庶民が増上寺に押しかけ、三門の中に鎮座する仏様や羅漢様を拝み、その際に三門の階上から江戸湾の美しい景色や、遥か房総を眺め楽しんだと言います。

三門脚

これまで多くの寺院で三門や楼門を見てきましたが、登った経験はまったくありません。今回初めて寺院の楼門に登ることができたのですが、記念に是非内部の画像をカメラに収めたいとおもったのですが、写真撮影が厳しく制限されて仏像、羅漢様をカメラに収めることができませんでした。

三門の袖口で拝観料(500円)を払い、楼上へと続く細い階段を登っていきます。階段は一方通行となっているので下りの人が降りてくることはありません。

楼上への狭い階段
楼上の回廊から

狭い階段を登りきると、三門の二階部分に設けられている釈迦如来と羅漢様が鎮座する広い板の間に出てきます。創建以来、どれほどの数の人がこの板の間を踏みしめたのか、時の流れと歴史の深みを湛えるような空間が広がっています。

外光だけが射し込む楼上の板の間の片側に黄金に輝く釈迦如来、普賢菩薩、文殊菩薩、羅漢像、歴代上人像が居並ぶように座しています。三門の楼上に人しれず安置された仏様と対面しながら、寺院の入口に置かれた三門の意味を改めて思い知らされた瞬間でした。寺院に参拝するものがまず煩悩を捨てる場所として三門をくぐり、浄土へと誘われる入口が即ち山門であるということ。そのために三門楼上に仏像が安置されているということだったのです。

階上の窓から、かつて江戸庶民が見たと思われる江戸湾の方向にカメラを向けてシャッターを落としました。ファインダーの向こうには大門と浜松町の街並みが広がっています。

楼上から見た浜松町方面

この三門の一般公開は本年11月30日(水)まで行われています。めったにない機会ですので、是非参拝されることをお薦めいたします。

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三河本宿・旧東海道脇の名刹「法蔵寺」は家康公幼少の頃の手習い所

2011年10月25日 08時53分17秒 | 地方の歴史散策・愛知県岡崎市
岡崎の観光ガイドブックを眺めていると、旧東海道と藤川宿というページにふと目がいき、そのページの下段に小さく「法蔵寺」という記事が掲載されているのに気がつきました。

法蔵寺境内

わずか数行の説明文なのですが、なんと神君家康公が幼少の頃にここ法蔵寺で手習いを受けたことが記されていました。

ちょうど名鉄線で東岡崎から豊橋へと戻る途中にある本宿駅からさほど離れていないということで法蔵寺を訪れてみることにしました。そういえば名鉄線に乗って東岡崎へ向かう途中、この本宿駅にさしかかると車窓からかなり規模の大きな寺が見えていました。いったいどんなお寺なのだろうと気にはなっていたのですが、ガイドブックに掲載されている寺であることは今回の訪問で初めて知った次第です。

本宿駅を下り改札口をでると目の前に国道1号線が走っています。比較的交通量が多く、長距離のトラック便がひっきりなしに通過していきます。駅前ということで商店街などがあるのかと思いきや、それらしい商店街がなく静かな田舎町といった風情が漂っています。

駅前には法蔵寺への道案内もなく、どの方向へ行ったらよいのかわからず、すかさずi-Padのナビに頼ることにしました。駅から法蔵寺まではおよそ400mくらいなので、徒歩でゆっくり歩いても7~8分といったところです。

国道1号をわたり、さらに進むと旧東海道との交差点にさしかかります。この交差点の角に石造りの常夜灯が置かれ、その向かいには古い商家の建物が旧街道に色を添えるように建っています。

この旧東海道を豊橋方面に向かって歩くと右手に目指す法蔵寺の参道が現れます。その参道口に「東海道」と刻まれた石柱がぽつねんと立てられています。

東海道石柱

また参道入口の左側に神君家康公のお手植えと言われる「御草紙掛松」という松の木がありました。この名の由来は家康公の幼少の頃、竹千代時代にここ法蔵寺での手習いの際に、この松に草紙を掛けたといわれています。尚、この松はその時代のものではなく4代目となっているとのことです。

御草紙掛松

家康公と浅からぬ関係にあるこの法蔵寺前を通る東海道では、江戸時代には必ず下馬して通らなければならなったそうです。

法蔵寺山門
法蔵寺山門

法蔵寺の山門は旧東海道から少し奥まった場所に構えています。堂宇は小高い丘の中腹に配置されているようで、ご本堂の大きな屋根は目線を上にあげた位置に見ることができます。山寺ではないのですが、寺の背後は木々の緑で覆われた山が迫っています。擬宝珠を奉じた赤い欄干の小さな橋を渡ると、時代を感じさせるような古さを滲ませた木造の総門(三門)が現れます。

法蔵時の総門(山門は)知恵の門「少しでも前進の生活を」、慈悲の門「やさしい心で生活を」、方便の門「仏に正直な生活を」の3つを意味しています

総門(三門)をくぐると石段がつづき、見上げると鐘楼と門を兼ねた「鐘楼門」が迎えてくれます。この鐘楼門は境内に現存する建造物の中で最も古いものです。

鐘楼門

法蔵寺の創建は古く、大宝(701)に開基はあの有名は行基です。そして至徳4年(1387)に松平・徳川氏の祖である親氏(ちかうじ)によって本格的な伽藍が建立された古刹なのです。そして家康公の幼少の頃、竹千代はここ法蔵寺に入学し、時の住職である教翁に師事し手習いを受けたのです。

法蔵寺本堂
方丈
本堂
本堂内

鐘楼門の正面に立派な本堂、本堂の右手には方丈(客殿)が控え、本堂の左手には回廊で結ばれた六角堂が建っています。

六角堂

お堂には聖観音、十一面観音、千手観音、不空羂索(ふくうけんじゃく)、馬頭観音、如意輪観音が祀られています。
この六角堂は前九年の役で奥州へ向かう源頼義が永承6年(1051)に戦勝祈願をし、自らの甲冑を奉納しています。

また家康公は長篠合戦の出陣に際して必勝祈願し、これ以後開運の観音様と呼ばれ親しまれています。
現在の六角堂は江戸時代の享保13年(1728)に再建されたもので、平成12年に回廊を含め大修理を行っています。

そして六角堂の脇から傾斜角のある坂道を進むと境内を見下ろすような場所に思いがけない人物の塚が現れてきます。というのもここ法蔵寺境内を歩いているときに、「誠」の旗印が目についていたのですが、やっと判明しました。そこには幕末に活躍したあの新撰組隊長「近藤勇」の胸像とその脇には彼の首を埋めたとされる「首塚」が置かれていました。

近藤勇像と首塚
近藤勇像

なぜこんな場所に近藤勇の首塚があるのか?
近藤勇はあの戊辰戦争の始まりである鳥羽伏見の戦いの後、武蔵の流山で官軍に捕らえられ、慶応4年(1868)に東京の板橋で打ち首になっています。その首は塩漬けにされ京都に送られ、三条大橋に晒されていました。それを見た新撰組同志によって密かに首が持ち出され、近藤勇が親しくしていた京都新京極裏寺町の称空義太夫和尚に供養してもらうつもりだったのですが、そのとき称空義太夫和尚がここ本宿の法蔵寺の貫主となっていたことがわかり、首は本宿まで運ばれたそうです。

首は目立たぬように土に埋められ隠されていたために、その存在すら忘れ去られていましたが、昭和33年(1958)に発掘されました。現在、その場所には近藤勇の胸像と首塚の石碑そして新撰組の隊旗が置かれています。

この近藤勇の首塚の前に、思わせぶりな、何か重要な人物と関わりがありそうな小さな広場があります。石畳で敷き詰められたこの広場には古めかしい大きさの異なる「五輪塔」が並んでいます。一番大きな五輪塔が家康公の父君である広忠公の墓です。

松平広忠と一族の墓

なんとこの場所が家康公の父君である松平広忠公とその一族の方々が眠る墓所だったのです。以前、岡崎市内にある松平家の菩提寺である大樹寺を訪れたときに、広忠公の墓を見たような記憶があるのですが…。

東照宮社殿
社殿扁額


そしてさらに細い傾斜道を登っていくと、ここにもあった「東照宮」といった感じで社殿が姿を現します。確かに神君家康公の幼少の頃にここ法蔵寺で手習いを受けたという関わりがある以上、東照宮が勧請されていてもおかしくはないのですが、境内を見下ろす一番高い場所に置かれている東照宮の本殿は絢爛豪華とは言いがたく、朱色の彩色は目立つものの、そのほかの彩色は若干色褪せ、石灯籠もなく寂しくぽつねんと置かれているような佇まいでした。

法蔵寺境内俯瞰

この東照宮が置かれた高台からは法蔵寺の境内全体を見下ろすことができ、遥か彼方に連なる山並みまで一望にすることができました。

《三河・岡崎にある東照宮》
■滝山東照宮(一応、日光、久能山と並ぶ日本三大東照宮の一つと言われている)
三代将軍・家光公は祖父の家康公が生まれた岡崎にも東照宮を勧請したいと考え、正保原燃(1644)に酒井忠勝、松平正剛に命じて建立場所を選定させました。そして岡崎の郊外にある古刹滝山寺に正保3年(1646)に創建されました。
■東三河・本長篠の鳳来寺山東照宮(飯田線の本長篠駅):標高695m 1425段の石段をのぼる
家康公の父「広忠」は子供がいないことを憂い、母である伝通院(於大の方)と共に鳳来寺峯薬師へ子宝祈願をしました。その後願いが叶い、家康公が誕生しました。そんなことで家光公は慶安元年(1648)に東照宮造営を命じ、4代家綱公の時代の慶安4年(1651)に落成しました。

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三河岡崎の東照宮とみまがう六所神社の壮麗な社殿

2011年10月24日 11時10分10秒 | 地方の歴史散策・愛知県岡崎市
念願の瀧山東照宮の参拝を終えて、再び名鉄東岡崎駅前に戻ってきました。市内に点在する三河松平、徳川氏に縁のある主な寺社はこれまでの岡崎訪問で参拝を終えていたのですが、実はたいへん重要な神社が名鉄東岡崎駅からほんの僅かな距離にあったのです。駅から近い場所にあることから、いつでも行けると思って参拝が後回しになっていたので、今回は瀧山東照宮と共に必ず訪問する場所に決めていました。

六所神社楼門

神君家康公の故郷である岡崎はほんとうに街全体が松平氏と徳川氏ゆかりの寺社が多数残り、まるで野外博物館のような様相を呈しています。

名鉄東岡崎駅の西側には緑に覆われた小高い丘が広がっています。その緑濃い木々に囲まれた丘に歴史に彩られた六所神社の壮麗な社殿が鎮座しています。この六所神社の創立は古く、斎明天皇(655~661)の勅願により、奥州塩竃六所大明神を勧請されたことに遡ります。そして時代が下り、三河を治める松平氏の時代に家康公(竹千代君)誕生の折に「産土神(うぶすなかみ)」としてここ六所神社に拝礼された由緒ある神社なのです。

神君家康公の産土神を祀る神社であることから、慶長7年(1602)には家康公じきじきにご朱印状が下され、新たに社殿が造営されるほど徳川家から厚い庇護を受けています。そして三代将軍家光公の上洛の際(寛永11年/1634)には、岡崎城内にて六所神社にむけて遥拝を行い、寛永11年から13年にかけて本殿、幣殿、拝殿を連結し、絢爛豪華な彩色を施した権現造りの社殿が完成したのです。その後、貞亨5年(1688)には見事な楼門が建てられています。

六所神社大鳥居

名鉄の線路脇から続く参道を進むと前方に二基の石灯篭を従えた大鳥居が目に飛び込んできます。鳥居の向こうは鬱蒼とした木々に覆われ、その木々の間からさす木漏れ日の中に水盤舎と神馬の像が静かに佇んでいます。

水盤舎
神馬像

この水盤舎と神馬が置かれている場所の左手にかなりの勾配の見上げるような石段が続いています。かつて江戸時代にはこの石段は五万石以上の大名しか登ることができなかったと言われています。その石段を登りきったところに構えるのが社殿入口に構える「楼門」です。この楼門は四代将軍家綱公が寄進したものと伝えられており、重要文化財に指定されています。

石段と楼門

石段の下から仰ぎ見る楼門の姿は「どこかで見たような」姿が頭によぎります。これまでに見た家康公縁の寺社の中で、あの久能山東照宮の楼門と酷似しているのです。朱塗りの堂々とした楼門の姿に徳川将軍家の並々ならぬ庇護の証を感じ取ることができます。楼門の左右にはおそらく二天像か随身像が置かれていたのではないかと思われる壇があるのですが、どういうわけか何も置かれていませんでした。

楼門
楼門

楼門をくぐると左手にこけら葺きの屋根の歴史を感じさせる「神供所(しんぐしょ)」が置かれています。どのような目的のための建物かというと、神様にお供えする供物を準備するためのものなのですが、以前訪れたことがある岡崎の伊賀八幡宮にも同じような目的で置かれている「御供所(ごくしょ)」があったことを思い出しました。

神供所

そしてこの神供所と並ぶように建つのが神楽殿です。それほど古いものではなさそうですが境内にアクセントをつけているかのように慎ましく佇んでいます。

神楽殿

圧巻はやはり拝殿、幣殿とその背後に連なる本殿が一体化した権現造りの社殿群の姿です。さきの楼門の姿といい、社殿群はそんじょそこいらの東照宮が足元に及ばないくらいの豪華さと威厳を湛えています。朱色と黒を基調とした色使いの中に、金、青、緑がバランスよく配色されている社殿の彩色は、日光東照宮、大猷院廟、久能山東照宮の社殿に匹敵するかのような贅沢な美しさを表しています。拝殿、幣殿、本殿、神供所ともに国の重要文化財に指定されているのですが、それなりの価値があることは疑いのないところです。

拝殿
拝殿の向背部分
拝殿と本殿
社殿を囲む透塀
神君家康公の手形

静かな境内でふと思うことは、これほどまでに徳川将軍家の庇護を受けていた六所神社にどうして東照宮を勧請しなかったのかという疑問なのです。瀧山東照宮の創建理由ももっともながら、ここ六所神社の社殿の造りはまさしくそれなりの地位と格式をもつ権現造りであることと、併せて神君家康公の産土神を祀る当社であれば東照宮としての社格が与えられていてもなんら不思議ではないという思いがふつふつと湧き上がってくるのは私だけでしょうか。

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名刹滝山寺と神君家康公を祀る瀧山東照宮の佇まい

2011年10月21日 17時48分39秒 | 地方の歴史散策・愛知県岡崎市
久しぶりに三河岡崎に戻ってきました。今回はかねてより是非訪れたいと考えていた瀧山東照宮をまず目指しました。

瀧山東照宮拝殿・幣殿

東照宮といえば、最も有名なのが日光東照宮、そして二番目には家康公が亡くなってすぐに埋葬された静岡の久能山にある東照宮なのですが、三番目というとかなり曖昧になってきます。前述の日光と久能山の両東照宮は家康公の亡骸が実際に運ばれたことで、お墓というイメージが強くそのために霊的な聖地として崇められているという印象があります。

しかしこの日光と久能山以外に日本全国にはなんと200ヶ所以上の東照宮が存在しているのです。家康公が立ち寄ったという理由で創った東照宮や、家康公が座った「ムシロ」を祀る東照宮など、家康公とほんの僅かでも関わりがあれば、その場所に東照宮を創ってしまったためこれだけの数の東照宮が日本全国に散在することになってしまったのです。

こうなると三つ目の東照宮を選ぶ根拠となる理由を見つけるのがかなり困難になるのですが、実はここに論理的に納得がいく理由で選ばれた三つ目の東照宮があるんです。理由は後述いたしますが、その東照宮こそ愛知県岡崎市の郊外に鎮座する「滝山東照宮」なのです。

名鉄の東岡崎駅前のバスターミナル4番乗り場から滝団地行きのバスに乗り、途中の滝団地口で下車するのが一番便利です。所要約20分で滝団地口に到着です。ここから徒歩で瀧山東照宮を目指します。

バスを降りると前方に大きな交差点がありますが、交差点を渡り直進します。前方に滝山寺の大きな山門が見えてきますので迷うことはないでしょう。この仁王門(現在修復工事中)を過ぎると右手に青木川が流れ、長閑な景色が現れてきます。緑濃い山並みに囲まれた静かな雰囲気の中で青木川のせせらぎの音だけが心地良い音色を響かせています。

バスを降りて10分ほどで左手に大きな石柱が現れます。いよいよ滝山寺と東照宮の入口に到着です。石柱には「瀧山東照宮」の文字が刻まれています。寺と東照宮へと続く道のりはかなりの段数の石段を登らなければならないことは覚悟していたのですが、鳥居から見上げるように続く石段を見てすぐにわかりました。

瀧山東照宮石柱
瀧山東照宮大鳥居
東照宮への石段

久能山ほども段数ではないのですが、やはり足腰が弱った体にはこたえます。しかし最後の石段を登りきるとそれまでの疲れが吹き飛ぶような美しいシルエットの建造物が目の前に現れます広い境内にその存在感を示すように建つのが当山、滝山寺のご本堂(重要文化財)なのですが、緩やかな反りをもつ屋根が特徴的で寄棟造、檜皮葺きの優雅な姿を見せています。室町時代の前期に建立されたもので、江戸時代のものとは建築様式があきらかに違うことがわかります。

滝山寺ご本堂

そもそも滝山寺の創建は古く、奈良時代の天武天皇の御世にまで遡ります。開基は当時の呪術者である役行者(えんのぎょうじゃ)とのこと。役行者草創の伝承をもつ寺院の多くは山岳信仰、水源信仰に関わる山寺なので、ここ滝山寺も山懐に抱かれた場所にあることから山岳信仰の場として崇められてきたのでしょう。

滝山寺ご本堂

そして時代が下り鎌倉時代には、当寺の住職である寛伝が源頼朝の従兄弟であるということから、鎌倉幕府の庇護を受け、頼朝の死後の三回忌に追善のため仏師運慶と湛慶親子に観音菩薩と両脇侍像を作らせ、現在も寺に伝わっているとのこと。その後、南北朝時代には足利尊氏の庇護、江戸時代には徳川家の厚い庇護を受けた歴史を持っています。

ご本堂内部

それぞれの時代ごとに為政者の庇護を受けた当寺には、近世の支配者である徳川家将軍家のご威光が見え隠れします。その一つに寺に寄進された鐘楼と梵鐘です。本堂に向かって左手に配置されているこの鐘楼と梵鐘は五代将軍綱吉公から寄進されたものだそうです。もちろんここ滝山寺の境内の一角に東照宮が勧請されてからの寄進なのですが、徳川将軍家が当寺を庇護していた証となるものです。その鐘楼の奥には徳川家の御紋がついた石灯篭が整然と並んでいます。

鐘楼と梵鐘
綱吉公寄進の梵鐘
鐘楼の奥に並ぶ石灯篭

それではいよいよ本来の目的である東照宮へと進んでまいりましょう。本堂と隣接するように右手に東照宮の拝殿、本殿が配置されています。日本三大東照宮の一つに数えられている社殿がいかに壮麗なのか、高鳴る気持ちを押さえつつ社殿入口の鳥居へと進んでいきます。

東照宮の鳥居
鳥居の扁額
東照宮拝殿・幣殿
拝殿の向背部分
水屋
中門
本殿

冒頭でここ瀧山東照宮が三つ目の東照宮として、それなりの論理的理由があると記述しましたが、その理由は家康公が生まれた地である岡崎城に近い場所であることなのです。日光東照宮は家康公の遺骸が最終的に葬むられている場所、久能山東照宮は駿府城で亡くなった家康公の遺骸が最初に葬むられている場所であることから、生誕の地である岡崎に将軍家が認める東照宮が置かれることはしごく自然ではないかと考えるからです。

瀧山東照宮の起源は家康公を深く崇めていた三代将軍家光公が前述のように家康公が生まれた岡崎城の近くにも東照宮を勧請したいという考えに基づき、酒井忠勝と松平正綱らに命じ、その場所の選定にあたらせたところ、岡崎郊外の古跡、名刹として名高い滝山寺が選ばれ、正保3年(1646)に創建されました。

このように肝いりで創建された瀧山東照宮なのですが、つい日光や久能山のそれと比較したくなってしまいます。見るからに日光と久能山に比べて、小振り、地味といった第一印象です。まあ、三番目というとやはり地味になってしまうのでしょうか?

東照宮拝殿・幣殿
拝殿横に並ぶ石灯篭
滝山寺境内俯瞰(右奥が東照宮神域)

それでも境内には重要文化財に指定されている拝殿・幣殿、中門、本殿、水屋が連なり、神域といった雰囲気が漂っています。各社殿の装飾や色彩は日光、久能山よりはかなり地味な感じです。

ともすれば上野の東照宮、川越喜多院の東照宮とどっこいかなといった印象です。それでも神君・家康公と深い関わりのある岡崎に祀られている大権現様に御参りできたことを幸いに思いつつ下山の途へ就いた次第です。

江戸の南西裏鬼門・芝増上寺の東照宮
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悲しきかな彰義隊が眠る下谷の円通寺

2011年10月17日 17時26分20秒 | 荒川区・歴史散策
徳川幕府が終焉を迎える慶応4年(1868)、その年の1月3日に勃発した鳥羽・伏見の戦いで幕府軍はあえなく敗れてしまいます。敗軍の将となり、賊軍の汚名まできせられた最後の将軍、慶喜公は密かに大阪から江戸へ逃げ帰り、そのまま恭順の意を表すために上野寛永寺大慈院へと身を潜めます。

そしてこの年の3月13、14の両日に渡って江戸総攻撃を回避するために行われたあの歴史的な西郷と勝の会談を経て、4月11日に江戸城無血開城が決定されたのです。この記念すべき4月11日のまだ夜が明けない午前3時に慶喜公は寛永寺大慈院を出て、ご自分の故郷である水戸へと落ちていったのです。

将軍なき江戸に残されて徹底抗戦を掲げる旧幕臣、家臣、旗本たちが結成した「彰義隊」は徳川家の菩提寺である上野寛永寺に集結し、新政府軍との市街戦を繰り広げることになるのです。

江戸城無血開城の日から1ヶ月余りすぎた5月15日の午前7時、いよいよ新政府軍と旧幕府軍の戦闘が上野の山を舞台に繰り広げられます。新政府軍の兵力は1万人、かたや旧幕府軍の開戦時の兵力はわずか1000人(最終的には4000人)とその差は歴然としています。そして圧倒的な違いは新政府軍が装備した兵器の威力です。当時最強とされた武器「アームストロング砲」を擁する新政府軍は始終優勢に戦いを進め、その日の夕方5時には戦闘は終結し、彰義隊はほぼ全滅してしまったのです。

この戦いで新政府軍側の死者は100人、かたや旧幕府軍側は266人を数えるのですが、敗走した彰義隊の生き残りは戊辰戦争が終結する過程で行われた関東、北陸、東北の各地で転戦を余儀なくされたのです。

戦闘が終わった後、上野の山には「賊軍」がゆえに彰義隊の方々の遺体は葬むられることなく散乱し、放置されたままであったと伝えられています。目を覆いたくなるような惨状に、なんとか供養しなければと立ち上がった僧侶がいたのです。その僧侶こそ下谷の円通寺の二十三世「大禅佛磨大和尚」だったのです。

新政府軍の官許を得ずに供養を行ったことで、一時は新政府軍に拘束されてしまうのですが、最終的に円通寺に埋葬供養を許すという官許をいただくことができたのです。これにより明治時代には円通寺は賊軍の法要をおおっぴらにできる唯一の寺として、旧幕臣の方々の信仰を集めることとなったのです。

円通寺山門

そんな円通寺は地下鉄三ノ輪駅からJRの陸橋をくぐり、日光街道をほんの少し進んだ左側に山門を構えています。当寺の創建は古く、延暦10年(791)年に遡ります。江戸時代には「下谷の三寺」と呼ばれ、下谷・廣徳寺、入谷・鬼子母神と共に江戸庶民の信仰の場所として知られていました。

円通寺の境内で最も目立つのが、やはり彰義隊士の墓なのですが、山門から眺めると隊士の墓の手前に黒色の柵のようなものが置かれています。これが有名な上野の山に建っていた寛永寺の総門(黒門)です。近づいてみると当時の激戦の名残でしょうか、無数の弾痕がまるで蜂の巣のように残っています。これだけの数の銃弾が浴びせられたのであれば、彰義隊の方々はひとたまりもないでしょう。この門を死守しようとして戦った彰義隊の方々の怒声が聞こえてくるようです。

黒門
門に残る弾痕
黒門

この黒門に守られるように背後に置かれているのが彰義隊の方々の墓域です。個人名の墓碑も散見されるのですが、266体の遺骸を荼毘にふして埋葬した五輪塔タイプの墓が墓域の奥に置かれています。

彰義隊の墓
彰義隊の墓域

更には彰義隊士ではないのですが、彰義隊の遺骸の収容を手伝い、慶喜公とは浅からぬ縁のある「新門辰五郎碑」も墓域の中に建てられています。

新門辰五郎碑

そして当寺の境内には彰義隊の墓の他に、平安時代後期の武将である八幡太郎義家が奥羽征伐して賊首四十八をこの場所に埋め四十八塚を築いた「塚」が残っています。このことからこの辺りのことを「刑場」として知られている呼び名である「小塚原」となっているのです。

四十八塚
鷹見の松

この塚のすぐ脇に植えられている枯れかけたような松の木が一本立っています。実はこの松は「鷹見の松」と呼ばれているのですが、その名の由来は寛永2年(1625)に三代将軍家光公が鷹狩を行った際に、円通寺の境内の松に鷹がとまったことから名付けられたそうです。なにやらとってつけたようなお話ですが…。





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吉原の遊女が眠る浄閑寺~生きては苦界、死しては浄閑寺~

2011年10月15日 19時09分19秒 | 荒川区・歴史散策
かつて桃源郷と呼ばれた吉原遊里からさほど離れていない場所に、吉原遊女と深く関わりのある一つの寺があります。

吉原の入口にある「見返柳」の脇を走る日本堤(土手八町)を三ノ輪方面へ進んでいきましょう。かつて吉原への道として多くの遊客が通った日本堤が行きどまる場所に山門を構えるのが、通称三ノ輪の「投げ込み寺」と呼ばれている浄閑寺です。開基は古く江戸の明暦元年(1655)ですから、新吉原誕生の2年前のことです。創建当時から投げ込み寺と呼ばれていたわけではなく、安政の大地震の時に多くの吉原遊女が投げ込まれたことがその由来となっています。

浄閑寺山門

投げ込み寺とは一般的には宿場町の飯盛女や遊女が無縁仏として埋葬された寺のことを指すのです。もっと残酷な言い方をすれば、身寄りのない遊女たちが亡くなると人目につかないように密かに寺へと運ばれ、寺男が掘った墓穴に投げ込まれ、回向供養を一切行わないことを意味しています。一応過去帖には記されていたようですが、これも「○○売女」「○○遊女」といったもので、死んでまでも売女、遊女呼ばわりされていたのです。

そんな扱いをされながらも、江戸一番の遊里であった吉原で働く遊女たちが来世での平穏な生活を約束された場所、「浄閑寺」に二万五千人もの遊女が葬られています。

山門脇に顔が磨り減った黒ずんだお地蔵様が置かれています。お地蔵様の名は小夜衣(さよぎぬ)と言います。そしてこの小夜衣さんは吉原の遊女で、遊郭の主人に放火の罪をかぶせられ 火炙りにされ亡くなったと伝わっています。山門に入るときから、かなり気持ちが暗くなるお寺なのです。

小夜衣地蔵

山門を抜けると前方に本堂がど~んと構えています。本堂の手前左手に廟域へと通じる門があります。その門をくぐるとすぐ右手に置かれている墓があるのですが、これもまた吉原の遊女の墓です。

浄閑寺本堂
若紫の墓

通常、遊女の墓が単独で置かれることは珍しいのですが、これには訳があるのです。この墓の主は明治時代に吉原の有名な妓楼「角海老楼」の「若紫」という遊妓だったのです。この若紫は5年間の年季明けをあと5日後に控え、年季明けには晴れて所帯を持つことを約束していた男性がいたのでした。しかし彼女には5日後はやってこなかったのです。というのも、偶然登楼した客の凶刃に倒れてしまったのです。若紫に惚れていた客だったのか、トバッチリか理由は判らないのですが、幸せが手の届く所に来ていたのに、その夢もはかなく消えてしまったのです。

22歳という若さで亡くなってしまった若紫を哀れと思い、角海老楼が法名「紫雲清蓮真女」を号し手厚く葬むり単独の墓を建てることにしたのです。墓石の上部には角海老の文字がくっきりと残っています。

角海老の文字

墓域を進み、ご本堂の裏手に回るとすぐに目に飛び込んでくるのが立派な石積みの塔です。これが新吉原総霊塔です。この塔は遊女たちの霊を慰めるために建てられたもので、基壇の中には骨壷が積み重なり異様な雰囲気を漂わせています。霊感の強い方はかなり感じる場所ではないでしょうか。その基壇には「生まれては苦界、死しては浄閑寺」と刻まれた石版が埋め込まれています。

新吉原総霊塔
石版

霊感がそれほど強くない私でも、ここ浄閑寺が醸し出す雰囲気はどうも好きになれません。山門に立った時から、気のせいなのかもしれませんが何やらよどんだような空気を感じてしまいます。

江戸っ子たちの桃源郷「長編・吉原今昔物語」





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江戸っ子たちの桃源郷「長編・吉原今昔物語」

2011年10月15日 16時10分16秒 | 台東区・歴史散策
お江戸の文化を語る中で、良い悪いは別として避けて通れない場所が「吉原」なのですが、これまで当ブログで取り上げた記事中に度々「旧吉原と新吉原」に関わるは話題を補足的にさまざま記述してきました。

そうであればこの際、吉原(現在は吉原という地名はありません)に焦点をあてて詳しく紹介してみようと取材を試みました。歴史散策を目的にこの地を訪れても、かつての妓楼や揚屋の建物、そして吉原の傾城全体を囲んでいた「おはぐろどぶ」も忘却の彼方へ消え去り、その昔、この場所が江戸っ子、いや全国的に名を馳せた桃源郷であったことを偲ばせるものがほとんどないことを予め申し上げておきます。

それでは「吉原」の歴史を紐解いてみましょう。
そもそも吉原の始まりは、浅草裏ではなく現在の日本橋・人形町に元和4年(1618)11月から遊女屋17軒、揚屋24軒で営業が開始されたのです。この人形町に傾城町を作ったのが「庄司甚右衛門」なる御仁です。先見の明があった御仁と言えば確かにそうかもしれませんが、実は甚右衛門が傾城町を作る下地が当時の江戸にあったのです。

天正18年(1590)8月1日(八朔の日)、小田原北条氏を滅ぼした後に関八州を任されることになった家康公が江戸に初入府してから、それまで江戸湾に面した寒村に過ぎなかった江戸はこの日を境に一変していきます。関ヶ原合戦後、開幕を経て家康公は文化の中心を京から江戸へと移すため、将軍家の居城である江戸城の普請を精力的に推し進めていきます。

この普請には日本全国の諸大名が将軍家のために、資材はもちろんのこと多くの労役を提供したのですが、その労役を担ったのがほとんどが「男性」であったことで、遅かれ早かれ江戸の各地に娼館ができるのは自然の成り行きだったのです。

これに目をつけたのが「庄司甚右衛門」だったのですが、甚右衛門は慶長10年頃(1605)にはすでに江戸市中で遊女屋を営んでいたのです。この時期、甚右衛門の遊女屋以外にも江戸には散在していたのですが、幕府は江戸城増築を理由に遊女屋の移転を命令を出します。これを好機と見た多くの遊女屋ははじめて幕府に対して公許遊郭の創設を請願しましたが、このときは不許可となっています。その後、慶長17年(1612)にも同様の請願をしていますが、これも却下となります。そして元和2年(1616)に家康公が亡くなった翌年の元和3年(1617)にやっと公許遊郭の陳述が幕府に取り上げられ、条件を受け入れる代わりにめでたく公許の傾城町が誕生することになります。

幕府はこの傾城町のために現在の日本橋・人形町界隈の葦が生い茂る湿地帯を提供するのですが、手を加えなければとても使える土地ではなかったのです。甚右衛門をはじめとする遊女屋たちは1年余りかけて土地の整備を終え、元和4年(1618)11月に目出度く江戸唯一の幕府公認の遊里として営業開始にこぎつけたのです。

「吉原」の名の由来は、この場所が一面の葭(よし)の原で「葭原」と呼ばれていたのを、寛永3年(1626)に葭を「吉」に変えて「吉原」にしたという説が一つ、別に葦の茂る野原であることから「葦の原」、これが転じて「悪の原」では縁起が悪いということで「悪」を「吉」に変えて「吉原」にしたとも言われています。

しかしここ人形町の吉原はわずか40年余りで幕を閉じてしまいます。というのはあの江戸の大火で有名な明暦の大火により吉原は全焼してしまいます。この年、明暦3年(1657)の頃の江戸の町はほぼ完成し、江戸城を中心に武家地、寺社地、町屋が整然と区分けされ、特に人形町界隈は武家地として整備されていました。そんな武家地に近い場所に「悪所」と呼ばれる遊里があることに快く思っていなかった幕府は、この大火を機会に吉原をもっと江戸の端っこへ追いやることを目論んで、吉原の名主に隅田川の東の本所か浅草寺の裏の田圃のど真ん中への移転を命じたのです。
吉原の名主は幕府の命令に思案するのです。この当時はまだ両国橋が完成していないので、本所はとても不便であるということで、同じ地続きの浅草裏の田圃のほうがまだましであるという考えでしぶしぶ了承した場所こそ現在の「吉原」なのです。これが新吉原となるのですが、便宜上、それまでの日本橋の吉原は「元吉原」と呼ばれるようになったのです。この新吉原が本格営業を始めたのは明暦3年(1657)の8月からと言われています。

さて、この浅草裏手の田圃にできた新吉原への登楼の方法は主に4つで、裕福なものは舟、駕籠、馬を利用したのですが、一般の人たちは「徒歩」での通いだったのです。現在でも浅草に「馬道」という名が残っていますが、馬に乗って吉原に通った道の名残りなのです。



一方、舟での通いの場合のルートとしては、一般的に浅草橋、柳橋界隈の船宿から隅田川(大川)を遡り、「竹屋の渡し」があった今戸から山谷堀に漕ぎいれ、俗に言う「土手八町」の終点である大門口へ至るのです。

今戸橋

かつての山谷堀は今はなく、流れていた川は暗渠となり現在はその跡地は緑濃い細長い公園に姿を変えています。緑道を進むと一つの句碑が立っています。

山谷堀公園

正岡子規が詠んだ「牡丹載せて今戸へ帰る小舟かな」が刻まれています。

正岡子規の句碑

この「牡丹」はおそらく遊郭の女郎の名前ではないでしょうか。身請けし晴れて大門を抜け自由の身となった女郎「牡丹」を載せた小舟が山谷堀を進み今戸口へ向かっている様子を詠ったものなのでしょう。

緑道を進むと、かつてこの山谷堀に架かっていた小さな橋の橋柱がそのまま残っています。そんな橋柱の中に「紙洗橋」と刻まれた橋柱を見つけました。実はかつて山谷堀にそって「紙漉き屋」が店を構えており、特に使い古しの和紙を漉きなおしして再生紙をつくっていました。こんなことから紙を漉く店、すなわち紙を洗う店があった場所に架かっていたので「紙洗橋」と名付けられたのでしょう。

紙洗橋の橋柱

ところで紙を漉くときに古紙をいったん煮詰め、どろどろに溶かさなければなりません。そしていま一度漉くまでに「冷やかさなければ」ならないのだそうです。これがお店で買うこともなく、ただ見るだけのことを「ひやかし」と言う語源になったといいます。というのは、山谷堀の紙漉き屋の職人たちが、紙を冷やしている間に吉原妓楼の張見世前によく掛けていたといいます。遊ぶ金もない職人たちはただみるだけで買おうともしません。そこで女郎たちはどうして買わないのか?と職人たちに聞くと、「俺たちは紙漉きやの職人で、いま紙を冷やかしている時間を利用して見にきているだけなんだ」と。今、私たちがよく使う「ひやかしで…を見る」という言葉はここからきているのです。

さて、かつての吉原遊郭へはたった一つの入口しかありませんでした。どの通い方であっても必ず導かれる入口が「大門」と呼ばれる入口です。その大門は日本堤と呼ばれる街道筋から少し入ったところに構えているのですが、この日本堤に吉原を代表する名所が残っています。

見返柳碑
見返り柳

それは一夜を吉原で過ごした客が大門を出て現実の世界へ戻っていくとき、さまざまな思いを胸に込めて吉原を振り返ると、そこに一本の柳の木が。まるで一夜を一緒に過ごした遊女が別れを惜しんで手を振っているかのように枝を揺らす柳の木。それが「見返り柳」なのです。今見ることができる「見返り柳」は7代目ということですが、柳の木の根元には「見返り柳」の石碑がもの言わぬ歴史の証人のように静かに佇んでいます。

この見返り柳から吉原の正門である「大門」へと道が続いているのですが、当時から見返り柳がある土手道(日本堤)から大門が直接見えないように道が三曲がりになっており、現在でもその通りにS字型に道が湾曲しています。これは将軍が鷹狩りや日光への参詣の際に吉原遊郭のシンボルである大門が見えては恐れ多いとの配慮からこのような道の作り方になったといいます。

衣紋坂

見返り柳から最初のカーブはかつて「衣紋坂」と呼ばれ、遊客が遊女と会うために着物の衣紋を直しながら下ったことに因んでいます。そして衣紋坂を下るとかつての「五十間道」へとさしかかります。その名のとおり道の距離が50間あったからという説と、この道に沿って編笠茶屋が50軒並んでいたからとも。

五十間道

この五十間を過ぎると、大門は目と鼻の先。その入口を示すように現在でも大門を模した門柱が立っています。ここがかつての吉原遊郭の唯一の出入り口「大門」があった場所なのです。江戸時代にはこの大門を入った左側に町奉行所配下の番所、右側には吉原側が運営した「四郎兵衛番所」が置かれていました。現在は大門手前の右側に交番が置かれています。

現在の大門
現在の大門

大門を抜けると、そこはかつて吉原遊郭のど真ん中を走る中央大通り「仲之町」。大門を入った右側には一流の茶屋が七軒並び、俗に「七軒茶屋」と呼ばれていました。大見世に行くためには必ず茶屋を通さなければならなかったのですが、上客はこの茶屋を通じ、花魁を指名し、指名された花魁はこの茶屋まで客を迎えにくるのですが、この迎えにいく風景が吉原の「花魁道中」なのです。

そんな世界が繰り広げられていた現在の仲之町には現代の遊郭であるソープランドが派手な色使いの建物が軒を連ねています。

現在の仲之町

仲之町は大門からかつて水道尻(みとじり)と呼ばれ、遊郭のどんつきとなっていた場所まで真っ直ぐに延びています。このかつての水道尻があったそばにあるのが吉原神社です。

吉原神社
社殿

明暦3年に浅草裏に移ってきた吉原遊郭には古くから鎮座されていた玄徳(よしとく)稲荷社、それに廓内四隅の守護神である榎本稲荷社、明石稲荷社、開運稲荷社、九朗助稲荷社が祀られていました。この五社が明治5年に合祀され「吉原神社」として創建されたのがその起源です。

鳥居の左側に鎮座する狛犬の目に赤い石、そして右側の狛犬には透明の石が嵌め込まれているのに気がつきましたが、なぜ色のついた石が嵌め込まれているかの理由は定かではありません。

赤目の狛犬

吉原神社を辞して、吉原弁財天へ進んでいきましょう。吉原弁財天には大正12年の関東大震災で亡くなった吉原の遊女の方々を供養するために造られました。当時、この辺りには湿地が多く、池が多く点在していました。震災の際にその火炎から逃れるために多くの遊女たちがこの池に飛び込んで、溺死したということからこの場所に弁財天を祀り、亡くなった遊女の方々を供養しています。その供養塔が境内の真ん中に置かれています。

吉原弁財天
弁財天祠
震災供養塔

境内を囲む玉垣には当時有名な吉原の妓楼の屋号と主の名前が刻まれていることから、亡くなった遊女がこれら妓楼に属していたことがわかります。境内には江戸時代に吉原遊郭を作った代表的人物である「庄司甚衛門の碑」と「花の吉原名残の碑」が並んで置かれています。

妓楼三浦屋
妓楼角海老楼
庄司甚衛門の碑

それではかつての遊郭を囲んでいた「おはぐろどぶ」の痕跡を見つけにいきましょう。とはいっても「どぶ」がそのままの姿で残っているわけではありません。かつての「どぶ(堀)」はすべて舗装道路に姿を変えています。ただ1ヶ所だけ、かつて遊郭からドブ(堀)につながる石段があったと思われる段差が残っていました。下の写真の階段上は吉原公園になっています。この吉原公園のある位置がかつての遊郭の建物があった位置で、そして階段を下りきった位置に「おはぐろどぶ(堀)」があったのではと推測いたしました。

石段下が「おはぐろどぶ」

現在の吉原(千束という町名に変わっています)は、確かに風俗営業のお店が並ぶ場所に住宅街が隣接する奇妙な場所です。だからといって一大繁華街といったギンギン、ギラギラの町でもないのです。冒頭で申し上げたように、かつての吉原を感じる歴史的建造物も歴史的な佇まいが残っているわけでもありません。ただ娑婆から隔離されたように堀で囲まれた区画が現在も生きつづけていることが、僅かながらかつての吉原を感じる唯一のものといっていいでしょう。

吉原の遊女が眠る浄閑寺~生きては苦界、死しては浄閑寺~





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お江戸一の塩の町・行徳は下総一の寺の町(其の三)~権現道の寺社~

2011年10月12日 17時56分56秒 | 地方の歴史散策・千葉県市川
権現道は旧行徳街道と内匠堤と呼ばれる道に挟まれるように細い道がクネクネと続く歴史道です。とはいっても現在ある権現道は道幅は狭いものの、両側には住宅が軒を連ね、かつてその昔には江戸湾の波が押し寄せる海岸に沿った道であった面影はまったく残っていません。

権現道入口

権現道を歩いてみると、この道に沿って立つ寺のほとんどが権現道に面して山門を構えていることに気がつきます。権現道が先に敷かれたのか、はたまた寺院にそって権現道が敷かれたのかは定かではありませんが、行徳の寺社巡りのルートとしては権現道を歩くことで、この地域に点在する寺院のほとんどを踏破することができるのです。

権現道

権現道の入口から数えて3つ目のお寺「妙覚寺」に伺いました。日蓮宗中山法華経寺の末寺で天正十四年(1586)に創建された古刹です。山門脇の由緒書きにたいへん興味あることが書かれていました。実は当寺の境内に東日本ではたいへん珍しい「キリシタン燈籠」なるものがあるというのです。

妙覚寺山門
妙覚寺本堂

山門を抜けてすぐ右手にその燈籠は何の囲いもなく喫煙場所の一角に立っていました。一見するとその外観はごく普通の形に思えるのですが、燈籠の基壇となる部分の下のほうに長方形の窪みがあり、その窪みの中になにやら人をかたどった様な浮き彫りを見ることができます。人のような浮き彫りが実は靴を履いたバテレン(神父)の姿だというのです。

キリシタン燈籠
バテレンの姿

現在見るキリシタン燈籠はそのほとんどが地上に姿を現していますが、キリシタン禁制の時代には前述のバテレンの姿の部分は地中に隠れていたといいます。

ただ不思議に思うのはこの燈籠がいつの時代に作られ、いつこの妙覚寺に置かれたのかなのです。妙覚寺の創建は天正14年(1586)で家康公の江戸初入府の4年前です。そんな頃の行徳は幕府天領であったころとは違い、江戸湾の波が打ち寄せる寒村ではなかったのではないでしょうか。
塩産業が盛んになるのは家康公の入府以降のことで、開幕前の行徳の人口はそれほど多くはなかったはずです。そんな環境の中で開幕前にこのキリシタン燈籠が妙覚寺にあったとは考えにくいのです。ということは1613年の禁教令以降に行徳が塩産業で急速に発展し始めた頃に、外部から流れ込んできた人たちの中に隠れキリシタンがいたと考えたほうが自然のような気がします。こんな想像をめぐらしながら石燈籠の脇の石造りの腰掛にかけてしばし時を過ごしました。

円頓寺山門

妙覚寺からわずか40mほどで日蓮宗中山法華経寺の末寺「円頓寺」の山門が現れます。開基は天正12年(1584)と古いのですが、本堂はかなり新しいものです。当寺の歴史的建造物は唯一山門のみです。ただご本堂に掲げられた「海近山」の山号額の文字は江戸幕末の三筆と言われた「市河米庵」の筆とのことです。山号の海近山から確かに行徳は江戸湾の波が打ち寄せる海岸沿いにあったことが伺われます。文字を見ると「毎」の下に「水」と書いて「海」と読ませるのですね!

円頓寺本堂
円頓寺山号額

権現道はまだまだ続きます。ほぼ権現道の半分ほどのところにあるのが「浄閑寺」です。東京三ノ輪駅近くにある「生きて苦界、死して浄閑寺」と言われ、吉原の妓郎たちが投げ込まれた寺と同名ですが、ここ行徳の浄閑寺の創建は江戸初期の寛永3年(1626)で、なんと芝増上寺の末寺です。

浄閑寺参道

最盛時はかなり規模の大きなお寺だったそうで、かつて寺に流れていた内匠堀から直接船が入れる池まであったようですが、現在はその面影はのこっていません。ただ権現道沿いのお寺の中で唯一、旧行徳街道から参道で繋がっているお寺なのだそうです。
山門脇には明暦の大火(明暦3年/1657)の供養のために建立された「南無阿弥陀仏」と六面に刻み、その下にそれぞれ「地獄・飢餓・畜生・修羅・人道・天道」と六道を彫った、高さ2メートルほどの名号石・六面塔が立っています。塔の一面に明暦の文字が刻まれていました。そしてその傍らに風雨にさらされ風化が激しい半肉彫りの六地蔵が並んでいます。

六面塔
六面塔の明暦の文字
六地蔵
浄閑寺本堂

権現道の処々に古くから多くの人たちに崇められていた稲荷社が置かれています。名もない稲荷なのでしょうか、祠の瓦屋根は朽ちかけ、鳥居もなく、小さな狐の置物が祠を守っていました。

路傍の稲荷社

いよいよ権現道も終盤を迎えます。一番最後に山門を構えるのが真言密教の徳蔵寺です。開基は今から435年前の天正3年(1575)という古刹です。立派な山門を構え、山門をくぐって左手に不動明王を祀るお堂が置かれています。お堂の前にはおそらく行徳河岸(旧江戸川)に置かれていたであろう常夜灯がお堂を飾っています。常夜灯の台座には行徳が繁栄していた頃の土地の名士や大店の屋号、妓楼の屋号などが刻まれています。

徳蔵寺山門
徳蔵寺本堂
不動明王堂
常夜灯

寺院詣でのついでにもう一つ興味深い石碑を見つけました。「おかね塚」と呼ばれているものなのですが、実はこの「おかね」は人の名前であって、金銭を意味するものではなかったのです。
そしてこの塚は悲しい物語の主人公である「おかね」の供養碑だったのです。

おかね女の供養碑

その悲しい物語は、吉原の遊女であった「おかね」が行徳の船頭に恋をし、ここ行徳で待ち続け、ついにはその恋が成就せず「おかね」は亡くなってしまった、という悲恋の内容なのです。

内容をご紹介すると、押切の地が行徳の塩で栄えていた頃、押切の船着場には、製塩に使う燃料が上総から定期的に運ばれてきた。これら輸送船の船頭や人夫の中には停泊中に江戸吉原まで遊びに行く者もあり、その中のひとりが「かね」という遊女と親しくなって夫婦約束をするまでに至り、船頭との約束を堅く信じた「かね」は年季が明けるとすぐに押切に来て、上総から荷を運んで来る船頭に会えるのを楽しみに待った。しかし、船頭はいつになっても現れず、やがて「かね」は蓄えのお金を使い果たし、悲しみのため憔悴して、この地で亡くなった。これを聞いた吉原の遊女たち百余人は、「かね」の純情にうたれ、僅かばかりのお金を出しあい、供養のための碑を建てた。村人たちもこの薄幸な「かね」のため、花や線香を供えて供養したという、悲しいお話です。

お江戸一の塩の町・行徳は下総一の寺の町(其の一)~将軍家所縁の徳願寺~
お江戸一の塩の町・行徳は下総一の寺の町(其の二)~寺町通りの寺社~




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お江戸一の塩の町・行徳は下総一の寺の町(其の二)~寺町通りの寺社~

2011年10月12日 14時47分15秒 | 地方の歴史散策・千葉県市川
将軍家縁の徳願寺を後にして、いよいよ行徳の寺社巡りの旅へと歩を進めていきましょう。寺町通りは徳願寺から旧江戸川の手前を東西に走る行徳街道までのおよそ200m足らずの長さで、その間に3つのお寺が点在しています。



まず通りの右手に現れるのが妙応寺です。こじんまりとした境内のお寺ですが創建は今から450年前の永禄2年(1559)といいますから、織田信長が桶狭間の合戦で今川義元を滅ぼした前年にあたります。

妙応寺本堂

当寺は中山法華経寺の末寺で、本山の法華経時が鬼子母神を祀ることから喜寿道場として水子供養観世音菩薩を安置しています。また面白いことに七福神を勧請し、なんと七福神(恵比寿、大黒、毘沙門、弁財、布袋、福禄寿、寿老人)が一同に会し、境内の一角にこれら七神の石造が仲良く並んでいます。

一同に会する七福神

妙応寺からわずか50m歩いたところに山門を構えているのが、古刹「妙頂寺」です。日蓮宗派の寺院で創建は日蓮聖人の存命中の弘安元年(1278)といいますから、鎌倉時代の二度目の元寇の役である弘安の役の時代です。境内には樹齢200年の百日紅(さるすべり)の古木が初秋の空の下で紅色の花を咲かせていました。

妙頂寺山門
妙頂寺本堂
樹齢200年の百日紅の木

この妙頂寺をすぎると寺町通りは旧行徳街道と交差します。この交差点のすぐそばにあるのが神明(豊受)神社です。当神明社の起こりは金海法師という山伏が、伊勢内宮の土砂を中洲(江戸川区東篠崎町辺り)の地に運び、内外両皇大神宮を勧請して神明社を建立したのに始まるといいます。金海法師は土地の開発と人々の教化に努め、徳が高く行いが正しかったところから、多くの人々に「行徳さま」と崇め敬われたといいます。この「行徳さま」がこの地の名前の由来となったのですが、行徳さまがこの地にやってきたのはいつのころから定かではありません。
尚、前述の中洲からここ行徳に遷座してきたのは寛永十二年(1635)の三代将軍家光公の治世の頃です。

神明神社の鳥居と社殿
狛犬と社殿

境内には猿田彦大神を祀る大きな石碑が置かれていますが、本社が行徳街道の脇に置かれていることで、古くから旅の安全や道案内を司る猿田彦が祀られたのではないでしょうか。

猿田彦大神の石碑

この神明神社の脇に細い参道があるのですが、参道の奥に佇んでいるのが古刹「自性院」です。開基は天正16年(1588)ということで、家康公の江戸初入府の2年前のことです。

自性院本堂

実は当寺と幕末の超有名人である「勝海舟」とは少なからず縁があるようです。境内には勝海舟筆の熊谷伊助慰霊歌碑が立っています。これは勝が「よき友」であった熊谷伊助の死を悼んで建てたものだそうです。勝の「日記」の中には「松屋伊助」と記されており、伊助は睦奥国松沢(現岩手県一関市千厩町)の出身で、屋号の「松屋」はこれに由来しています。幕末の慶応年間に横浜のアメリカ商館の番頭の職を得た伊助は行徳出身の妻と結婚したと言われています。石碑には勝が伊助にたむけた句が刻まれています。
「よき友の消へしと聞くぞ、我この方心いたむるひとつなりたり」

自性院から寺町通りの路傍に置かれた興味深い道標へと戻ることにしました。この道標には「権現道」と記されています。さて権現とは、まさか家康公のことでは?と思い道標をよく見ると、やはり家康公と関わりのある道だったのです。というのは家康公が上総東金へ鷹狩りに向かうときに通った道だったので「権現道」と名付けられたようです。

権現道の道標
権権道の散策道

ご存知のように家康公は馬鹿がつくほどの鷹狩好きであったのですが、実はこの鷹狩は単なる趣味や武芸の鍛錬だけにとどまらず、軍事教練と領内視察を兼ねていたと言われています。ということは鷹狩りが自国の領土をつぶさに検分するという隠れた目的があったことを考えると、幕府が行徳を天領とするほど重要な場所であった行徳を家康公はおそらく度々鷹狩にかこつけて視察におとずれていたのではと考えられます。

今回の行徳の寺巡りで初めてわかったことなのですが、寺巡りの効率のいいコース選びはこの権現道を散策することです。道幅は狭いため車の進入はありません。そして次から次へと寺、神社そして稲荷の祠が現れ飽きることがありません。この権現道はまるでウォーキングトレイルのように整備され、初めての人でも迷わないように統一した石版が嵌め込まれ、この石版を辿れば間違いなく寺社巡りを楽しめるようになっています。権現道の寺社巡りは(其の三)でご紹介いたします。

お江戸一の塩の町・行徳は下総一の寺の町(其の一)~将軍家所縁の徳願寺~
お江戸一の塩の町・行徳は下総一の寺の町(其の三)~権現道の寺社~




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