大江戸散策徒然噺 Introducing Japanese culture and history

豊かな歴史に彩られた日本の文化と歴史を紹介

上野池之端・三菱創始者岩崎家本邸と無縁坂の古刹「講安寺」

2011年02月18日 13時05分52秒 | 台東区・歴史散策
土佐の地下浪人の階級の家に生まれ、幕末の激動期に下士の身分でありながら土佐藩執政の吉田東洋の下で、甥の後藤象二郎との交友を深めた岩崎弥太郎は当時としては先進的な「武家の商法」をいち早く取り入れた逸材だったのです。

龍馬が設立した亀山社中は土佐藩肝いりの土佐商会が一緒になって海援隊となっていくのですが、土佐商会は後藤象二郎の放漫経営で大赤字。そんな時に、土佐藩内では「土佐商会の救済には岩崎弥太郎以外に、この任に当たるべきものなし」といわれるほど、弥太郎は経営感覚を身に付けていたのです。

龍馬が殺され、海援隊は鳥羽・伏見の戦いの後に解散するのですが、その事後処理も土佐商会を任された弥太郎が引き受けたのです。

維新後、後藤象二郎が大阪府知事になるや弥太郎も大阪に移り、明治3年(1870)に「大阪土佐商会」の運営を任されます。この時点で土佐商会は民営的経営へと移行し、社名も「九十九商会」となります。

九十九商会は土佐藩から汽船4隻を借り入れて「海運業」を始めますが、この船を借りっぱなしのまま明治6年(1873)に完全な民営会社「三菱商会」へと移行します。

その後の三菱商会は明治新政府の国策と密接に絡みながら、日本の海運を独占する財閥へと成長していったのです。

旧岩崎邸洋館正面

そんな大財閥となった岩崎家は江戸時代の大名家の庭園を買い取り、私邸や三菱商会の厚生施設に造り変えています。都内に残る代表的な岩崎家のお屋敷や庭園は六義園と清澄庭園そして上野池之端の旧岩崎邸なのです。

冬晴れのこの日、久しぶりに上野池之端の旧岩崎邸を訪れました。江戸時代には、越後高田藩榊原家の中屋敷だったところです。正門を入り、木々の間から木漏れ日が射すなだらかな坂道を進むとすぐに旧岩崎邸の洋館正面に出てきます。



洋館正面の車寄せ広場には椰子の木が植えられ、異国情緒を漂わす洋館と妙にマッチしています。邸内へは靴を脱いで、備え付けのビニール袋に靴を入れて持ちながらの見学です。寒い冬の日の邸内見学は絨毯が敷かれているにもかかわらず、足元から冷えがじわじわと伝わってきます。



邸内の見学は順路に従って1階と2階を巡っていきます。邸内の写真撮影は禁止されているので画像がありませんが、当時の岩崎家の栄華を偲ばせる贅沢なインテリアはいつ見ても目を見張るものがあります。
足元からの冷えを我慢しながら1階から2階へと移動すると、やっと外光が降り注ぐベランダに出ることができます。燦燦と降り注ぐ陽射しを受けながら、しばしベランダで暖をとる始末。ベランダからは広々とした園内を俯瞰できます。

このあと2階から1階へと移動し、隣接する和館の廊下を進みます。和館には喫茶室があるのですが、暖房もなく冷えきった空気の中でお茶や菓子を食べるという気持ちの余裕はありませんでした。
※冬季の訪問の際には、厚手の靴下を持参されることをお薦めいたします。

和館

和館を退出して冬日射す園内を散策しながら和館や洋館の外観をゆっくりと鑑賞しました。ジョサイア・コンドルが設計し、明治29年(1896)に完成した洋館は全体的にイギリス・ルネサンス様式で洋館南側は列柱を持つベランダが設けられています。1階列柱はトスカナ式、2階列柱はイオニア式の装飾を持ち、米国・ペンシルべニアのカントリーハウスのイメージも採り入れられているとのことです。庭の一角に大名庭園の名残りを感じさせる巨大な灯籠が一基置かれています。

 
 


園内の端には三角屋根を持つ撞球室(ビリヤード)が別棟で置かれています。この建物もジョサイア・コンドルが設計したものですが、一見すると西部劇に登場するファームハウスに似ています。

撞球室
撞球室内部

洋館前の広場の脇に袖塀(そでべい)が残っています。袖塀には岩崎家の家紋の「三階菱」が描かれています。そもそも海援隊のマークは土佐藩の紋所である「三つ柏」によったものだったのですが、弥太郎はその柏の部分を自らの家紋「三階菱」に入れ替えたのです。これが現在の三菱の社章スリー・ダイヤのマークの誕生の謂れです。

袖塀

旧岩崎邸の塀沿いに伸びる坂は「無縁坂」と呼ばれています。命名の由来は「さだまさし」が名付け親ではなく、坂の上に「無縁寺」があることからなのですが、現在の無縁坂は瀟洒なコンドミニアムが並ぶ閑静な住宅地となっています。この無縁坂の途中に小さいながらも古い歴史を持つ古刹が静かな佇まいを見せています。

講安寺山門


黒門の山門を持つ講安寺は将軍徳川家斉の息女溶姫の生母であるお美代の方が明治5年77歳で亡くなるまで住んでいたそうです。溶姫は前田家12代藩主前田斉泰公に嫁いだ方です。その輿入れの際に前田家に建てられたのがあの東大の「赤門」なのです。ここ池之端からはかつての加賀前田家の上屋敷までは目と鼻の先の距離です。そんな立地にある講安寺ゆえ、お美代の方は可愛い娘が嫁いだ前田家に近いこの場所を選んだのではないでしょうか?

講安寺の本堂は、外壁が漆喰で何度も塗り込められた土蔵造りが特徴です。「火事に悩んだ江戸の人たちの防火対策の知恵」とのことです。建造から300年経った今も健在なのはこの土蔵造りのお陰なのです。



小さな境内は訪れる人もなく、無縁坂の響きと相まって静かな空気が流れていました。

お江戸名園シリーズ~六義園・将軍綱吉の庇護の下、権勢を誇った柳沢吉保の庭【岩槻街道御成道沿い】
お江戸名園シリーズ~小石川後楽園(旧水戸徳川家大名庭園)光國が愛した天下の名園~【小石川】
お江戸名園シリーズ~清澄庭園・紀伊国屋文左衛門も、岩崎弥太郎も愛でた深川の名園~【深川清澄白河】
浜御殿を彩る白銀の世界~雪に覆われた徳川将軍家のお庭(浜離宮)~





日本史 ブログランキングへ

神社・仏閣 ブログランキングへ

お城・史跡 ブログランキングへ

お江戸向島の百花園の梅はどんな具合かな?ついでにスカイツリーも!

2011年02月16日 16時37分15秒 | 墨田区・歴史散策
昨日は亀戸天満宮境内の観梅、さてはてお江戸庶民の庭園「向島百花園」の梅もそろそろ見ごろを迎えているころではないか、と思い立ち早速いってきました。

春を思わせる陽気にさすが多くの方々が観梅に訪れていました。おそらく江戸時代にも「通」をきどる多くの江戸庶民が冷たい川風を袂に入れながら隅田川を舟で渡り、風向明媚な向島の百花園で観梅を楽しんだのでしょう。そして男衆は観梅にかこつけて、川縁竹屋の渡しから向うは今戸の山谷堀。あとは決まりの「土手八丁」。勇んでめざすは吉原桃源郷、なんてね。

こんな無粋な噺はともかくとして、まずは園内の観梅散策とまいりましょう。入口で開花状況を尋ねると、早咲きの梅が咲きはじめました、とのこと。ということはまだ見ごろではないのかと訝りながら園内へ。



園内の梅の木は紅梅と白梅がバランスよく配置され、本数としてもかなりあるように思えます。すべての梅の木が満開状態ではないのですが、早咲きの梅の木には可愛らしい花弁と大きく膨らんだ蕾が枝についています。

 

 



そしてふと足元を見ると、水仙、春の七草、鮮やかな黄色の花弁が愛らしい「ふくじゅそう」が土から顔をだしています。池の水も少しは温んできたようで、こんな様子を見るにつけ、春は確実に近づいているようです。

水仙
春の七草
ふくじゅそう
園内の池

百花園で江戸の風情を堪能し、目と鼻の先に聳えるスカイツリーへと足をのばしました。今日の高さは584m。隣接して建つ高層ビルもおおかた出来上がってきたようです。3月を思わせる日和となった今日、相も変わらずスカイツリー詣での観光客で業平側、押上側とも大盛況でした。

 



スカイツリー直下の十間川の水面にも「逆さスカイツリー」が…。右の台船がちょっと邪魔かな?



お江戸名園シリーズ~六義園・将軍綱吉の庇護の下、権勢を誇った柳沢吉保の庭【岩槻街道御成道沿い】
お江戸名園シリーズ~小石川後楽園(旧水戸徳川家大名庭園)光國が愛した天下の名園~【小石川】
お江戸名園シリーズ~清澄庭園・紀伊国屋文左衛門も、岩崎弥太郎も愛でた深川の名園~【深川清澄白河】
浜御殿を彩る白銀の世界~雪に覆われた徳川将軍家のお庭(浜離宮)~





日本史 ブログランキングへ

神社・仏閣 ブログランキングへ

お城・史跡 ブログランキングへ

お江戸亀戸天満宮の梅の花は「あるじなしとて春を忘れていないようです」

2011年02月15日 16時52分33秒 | 江東区・歴史散策
「雪の朝(あした)は裸で洗濯」なんぞの諺がありますが、昨晩から降り始めた雪がうっすらと積もり、冬日が射し始めるころは昨日とは打って変わって暖かなお日よりとなりました。そんな天気に誘われて、梅の花見に出かけてみました。

2月も半ばとなり、都内の梅の名所はそろそろ見ごろを迎えている頃でしょう。湯島の白梅もほぼ咲きそろったころだと思いますが、お江戸下町・江東区には亀戸天満宮という梅の名所があるんです。



亀戸天満宮は菅原道真公を祀るがゆえに、やはり梅の花とは切っても切れない縁があります。四季おりおりに花を愛でることができる天満宮境内では、2月の季節ならではの梅の花が七分から八分といった開花を見せています。

紅梅
白梅

境内を取り囲むように梅の木が植えられ、紅白の可愛らしい花弁が枝一杯に咲き誇っています。ときおり黄色の蝋梅が紅白の梅の花に混じって、存在感を強調するように芳しい香りを漂わせています。

蝋梅

梅の枝越に目と鼻の先に聳えるスカイツリーがカメラのアングルに飛び込んできます。社殿越しに聳えるスカイツリーの姿を久しぶりにカメラに収めてみました。

枝越しに見えるスカイツリー
社殿越しに見えるスカイツリー

かつて江戸時代に天満宮の裏手に広重が描いた名所江戸百景に現れる「亀戸梅屋舗」なるものがあって、その百景に描かれている「臥竜梅」がなんとあのゴッホの絵の中に模写されるほどに有名な梅の名所だったのです。その梅屋舗も明治43年(1910)の大洪水で梅の木は全滅してしまいました。

その梅屋舗がない現在、「こちふかばにほひおこせよ梅の花 あるじなしとて春をわするな」の通り、道真公を祀る亀戸天満宮には今や盛りと芳しい梅の香りが満ちています。

東都花見絵図~深川霊巌寺・芭蕉記念公園・安田庭園・亀戸萩寺・亀戸天神~
お江戸の二大天神様の梅はちょうど見ごろ~亀戸天神と湯島天神~
亀戸天神社恒例の「うそ替え神事」
亀戸天神の菊祭りと秋雲の下でひときわ輝く東京スカイツリー
お江戸亀戸天神社・そろそろ満開かな…菊祭り【亀戸天神社境内】
お江戸下町天神様・スカイツリーを間近に仰ぐ亀戸天神社境内散策【お江戸亀戸梅屋敷】





日本史 ブログランキングへ

神社・仏閣 ブログランキングへ

お城・史跡 ブログランキングへ

お江戸元麻布の善福寺に幕末アメリカ公使館跡の名残りを偲ぶ

2011年02月15日 11時24分41秒 | 港区・歴史散策
お洒落な雰囲気を漂わす麻布十番をそぞろ歩きしながら、お江戸の時代からこの界隈は門前町としての賑わいを見せていたのです。そんな様子を今に伝える「江戸名所図絵」には古刹「善福寺」の山門にいたる麻布十番通りの町屋の連なりや参詣に訪れる人々が描かれています。

江戸名所図絵「善福寺」

江戸名所図絵にも麻布十番通りと思える道が善福寺山惣門までつづき、惣門から勅使門(中門)へと参道がのび、石段をのぼっていくとご本堂が構える構図は現在見る姿と寸分の違いもありません。そして参道に沿って善福寺の塔中や子院が並んでいる様子は現在も変わっていません。

最初のアメリカ公使館の石柱

善福寺は麻布の中心ともいえる寺で江戸府内では淺草の浅草寺に次ぐ古刹です。山号は麻布山。
この古刹がさらに有名になるのは幕末に日本で最初のアメリカ合衆国公使館となったことです。安政5年(1858)六月に締結された日米修好通商条約でそれまで下田にいたアメリカ総領事ハリスは公使に昇格し、翌六年八月に幕府が米国の公使館とした善福寺に入居しました。通訳官ヒュースケンら一行20名がここ善福寺に在留し、執務は奥書院と客殿を使っていましたが、文久3年(1863)の水戸浪士による放火で焼失してしまいました。その後は本堂や開山堂を居所や応接間に利用していました。

勅使門
本堂
開山堂
鐘楼

境内には推定樹齢750年以上、幹回りが10.4メートルもの都内最大の銀杏の木(国指定天然記念物)や墓地の入口付近には越路吹雪の碑が置かれています。

大銀杏
越路吹雪の碑

そしてかつてこの寺が最初のアメリカ合衆国公使館であったことを示す「ハリス記念碑」が本堂前広場に建てられています。一枚岩の立派な記念碑にはハリスの肖像と最初のアメリカ公使館がこの寺に置かれたことを記述した英文が刻まれています。

ハリス記念碑
碑面

ON THIS SPOT
TOWNSEND HARRIS OPENED
THE FIRST AMERICAN LEGATION
IN JAPAN JULY 7 1859 

尚、ここ善福寺に置かれたアメリカ合衆国公使館は明治8年(1875)12月に築地の外国人居留地内に移ります。維新後、8年余りはここ善福寺が日米の外交の舞台となるのですが、おそらく山門には星条旗がたなびき、麻布十番の門前町は外交官が乗る馬車や多くの外国人が行き交う国際色豊かな地域であったのではないかと思いつつ、善福寺を後にしました。





日本史 ブログランキングへ

神社・仏閣 ブログランキングへ

お城・史跡 ブログランキングへ

お江戸幕末・激動の歴史を刻むイギリス公使館「東禅寺」に漂う京を思わせる古刹の佇まい

2011年02月14日 12時35分24秒 | 港区・歴史散策
高輪に残る幕末の残照を巡りながら、ふと思い出したのがお江戸の内府に設けられた異国の公使館跡を訪ねてみることです。

幕末といえば尊皇攘夷の掛け声とともに、その最右翼でもあった水戸、長州の藩士や浪士による外国人や外国公館への度重なる襲撃を思い出します。安政5年(1858)6月に幕府は歴史的な日米修好通商条約が違勅という形で締結されるや、同年7月に蘭、露、英、9月には仏と次々に条約を締結していきます。
そして翌年安政6年5月には神奈川、長崎、函館の三港を開き、露、仏、英、蘭、米の五ヶ国に貿易の許可を与える事になったのです。これらはあの安政の大獄が激しさを増している最中の出来事です。

西欧列強との条約調印がなった安政6年から顕著になったのが「夷人斬り」と言われる外国人殺傷事件です。最初の「夷人斬り」は同年7月に起きたロシア艦隊の士官と水夫3名の殺傷事件です。10月にはフランス公使館の清国人、元号が変わり翌年万延元年の正月7日にはイギリス公使館付きの通詞・伝吉が刺殺、そして12月にはハリスの片腕で米国の通訳官ヒュースケンが襲撃され落命するという惨劇が繰り返されます。

東禅寺門前の石柱

そしてここ東禅寺を舞台とした事件が起きたのが文久2年5月(1861)の第一次東禅寺事件と呼ばれる襲撃事件です。イギリスの仮公使館として使われていた東禅寺が水戸浪士ら14名に襲撃されたこの事件は公使オールコックが長崎から日本国内を旅行して江戸に戻ってきた翌日に起こったのです。襲撃理由は夷人が国内を歩き回ったことで「神州が汚された」と考えたから。

さらに1年後の文久3年5月(1862)には同公使館の警備にあたっていた松本藩士が館内に侵入し、水兵2名を殺傷する事件が起こります。これが第二次東禅寺事件と呼ばれるものです。

こんな幕末「夷人斬り」の舞台となった東禅寺は今、150年前の凄惨な事件があったことが嘘のように静かな空気に包まれ、まるで京の古刹が東京にやってきたような雰囲気を漂わせていました。

第一京浜からなだらかな坂道を少し進んだ高台の中腹に位置する門前には「最初のイギリス公使宿館跡」の石柱が建ち、その背後に二天像を従えた山門が威厳を感じさせるように構えています。山門をくぐると木々に覆われた参道が境内へとのびています。この参道を襲撃浪士たちが走りぬけていったのかと思うと感慨深いものがあります。

東禅寺山門
二天像
二天像
境内へつづく参道

境内に入り、眼に飛び込んでくるのが立派な三重塔とご本堂です。ご本堂には海上禅林の額が掲げられています。禅林とあることからこの古刹が禅寺であることがわかります。この海上禅林の名の由来はかつては眼前に江戸湾が広がっていたことから名付けられたようです。幕末の頃、江戸湾の波打ち際は現在のJRが走っている線路の辺りだったのです。東禅寺を背にしてわずか数百メートル先に江戸湾の風向明媚な光景が広がっていたのでしょう。

>鐘楼
本堂
三重塔


特に三重塔は高輪という地の一角にありながらそれほど目だった存在ではないのです。外部の喧噪から隔絶されたような静かな境内は京都の寺に迷いこんだような錯覚に陥ります。

境内俯瞰





日本史 ブログランキングへ

神社・仏閣 ブログランキングへ

お城・史跡 ブログランキングへ

お江戸五之橋・幕末外国人殺傷事件ヒュースケンが眠る光林寺

2011年02月13日 21時49分29秒 | 港区・歴史散策
ペリーの浦賀来航により、幕内は260年の永きに渡る鎖国政策の是非を問う喧喧諤諤の論議が始まります。その魁としてペリー来航の翌年(安政元年/1854)に日米和親条約が締結され、いよいよ日本は西欧列強との本格的な外交が始まります。

そしてついに幕府大老・井伊直弼は違勅を顧みず、米国との間で日米修好条約を調印を皮切りに、堰を切るように西欧列強との間で条約の調印を進めていったのです。

この条約調印に伴い、それまで江戸から離れていた場所に置かれていた各国の公館が江戸市中に移設され、そのほとんどが寺院の中に開設されていきました。そんな各国の公館となっていた寺院がお江戸の高輪に集中していることはそれなりに理由があったはずです。

その大きな理由として、高輪という土地は今でもそうなのですが起伏の多い高台となっているのです。その高台には「石を投げれば寺にあたる」というくらいに寺が密集しているのです。
この土地が高台であることから、天然の要衝として独立性が高く、そのため不穏な行動に対して防衛しやすいという利点があったと考えるべきでしょう。幕府は攘夷が吹き荒れる当時の状況を勘案した結果、高輪の高台に各国の公館を集め、攘夷派の攻撃に対処しようとしたのです。そして幾つかの寺院が公館として選ばれたのです。

幕府の思惑に反して、攘夷派による外国人襲撃と寺院攻撃は次から次へと起こり、その度毎に幕府は各国に陳謝、そして賠償金支払いを繰り返していたのです。

そんな幕末に起きた外国人襲撃事件の中から、今日は初代米国総領事タウンゼント・ハリスに雇われて来日し、ハリスの秘書兼通訳を務め若干28歳で攘夷派志士のよって殺害されたヒュースケンを取り上げてみました。

ヒュースケンが日本にやってきたのは幕末の安政3年(1856)、彼が24歳の頃です。西欧列強が植民地政策を推し進めていた時代に、24歳の若きヒュースケンにとってはまだ見ぬ極東の島国「日本」という国は彼自身の興味と探究心を満たしてくれる恰好の世界だったのではないでしょうか。

大国アメリカの総領事であるハリスの後ろ盾があればこそ、ヒュースケンの若気のいたりともいうべき行動の中に、ある種驕り的な振る舞いもあったのではないでしょうか。その一例として自分の愛馬に跨り、有頂天になって走り回っている様子が絵に残されています。そんな姿を見た攘夷派志士たちはおそらく腹立たしさで煮えくりかえっていたのではないのかと想像します。

そして事件が起こるのです。万延元年(1861)12月、その日、ヒュースケンは芝赤羽接遇所(港区三田)のプロシア使節宿舎でプロシア全権大使オイレンブルグと一緒に食事をしたのでした。食後、アメリカ公使館のある高輪の善福寺へと向うのですが、芝赤羽接遇所を出て百歩足らずのところで攘夷派の薩摩藩士、伊牟田尚平・樋渡八兵衛ら7名の志士に襲われたのです。
幕府の役人が護衛についていながら、いとも簡単に襲われ、外交官が命を落としてしまう参劇に在留外国人たちは恐怖におののいたことでしょう。わずか4年の在日期間、母国に帰ることなく28歳の若さで異国の地で短い生涯を閉じたのです。

ヒュースケンの墓は米国の公使館があった善福寺ではなく、同じ高輪の光林寺に置かれています。これは善福寺では土葬が禁じられていたため、キリスト教徒であるヒュースケンは土葬可能な光林寺に埋葬されたのです。

光林寺山門
光林寺山門


光林寺は古川の流れに架かる五之橋を渡った袂に建っています。黄色の築地塀に歴史を感じさせる山門が迎えてくれます。山門をくぐると正面に立派な装いの「方丈」がど~んと構えています。方丈の庭先の梅の木には冬の陽射しの中で可憐な紅梅の花が静かに揺れています。

方丈
方丈前の梅

寺の境内に入る前に、ヒュースケンの墓の位置を確認しておかないと、見つからないほど墓は簡素なものです。想像を裏切るといってもいいくらいに、墓は隅に追いやられたように侘しく佇んでいます。和洋折衷のような墓石に刻まれた十字架と名前、誕生地、没地がうっすらと読み取れます。

ヒュースケンの墓
墓石に刻まれた文字

SACREDto the memory of
HENRYC JHEUSKEN
Interprcter to the AMERICAN LECATION
in Japan

BORN AT AMSTERUAM
January 20 1832

DIED AT YEDO
January 16 1861

そしてヒュースケンの墓のそばにイギリス公使オールコック付きの日本人通詞伝吉/小林伝吉の墓が置かれています。

伝吉の墓

ボーイの伝吉は、あのジョセフ・ヒコと同じ船(栄力丸)で遭難した漂流民である。アメリカ船に助けられ、のちに中国に渡りイギリス公使館付通訳として帰国を果たしました。しかし彼は驕慢な性格の持ち主で、また日本人女性を外国人に斡旋していたことが発覚したことから攘夷派浪士に狙われるところとなり、安政七年(1860)一月、イギリス公使館が置かれていた東禅寺門前で何者かに刺殺されました。

伝吉の墓に刻まれた英文字

伝吉の墓石の裏面にも英文で名前が刻まれていました。





日本史 ブログランキングへ

神社・仏閣 ブログランキングへ

お城・史跡 ブログランキングへ

お江戸三田魚藍坂・赤穂浪士切腹を唱えた荻生徂徠先生が眠る長松寺

2011年02月11日 23時03分24秒 | 港区・歴史散策
日本橋茅場町のど真中、永代通りに面する場所に蕉門十哲と言われた宝井其角の草庵・江戸座があったのですが、なんとその草庵に隣接して徂徠先生の屋敷が広がっていたといいます。ちょうどこの界隈には江戸時代から庶民の人気の寺社として有名な茅場町薬師や日枝神社が鎮座しているところです。

茅場町に建つ其角住居跡碑

徂徠先生が茅場町に屋敷を構えたのは将軍綱吉公の死後、側用人であった柳沢吉保の失脚とともに徂徠はそれまで世話になっていた吉保の屋敷を去らなければならない事情があったからです。
そして44歳になった徂徠先生がこの茅場町に開いたのが「�擂園塾」です。前述の其角とご近所づきあいがあったのかどうかは定かではありませんが、隣に屋敷を構える徂徠先生に親しみを感じていたような其角の句があります。
「梅が香や隣は荻生惣右衛門」

荻生徂徠像

そんな徂徠先生は儒学者・思想家・文献学者として幕府の御用学者として名声を博し、将軍吉宗公には従来の儒教思想を発展させた政治と宗教道徳を分離する政治改革論「政談」を提出したことは良く知られています。

また、あの元禄の大事件「赤穂浪士討入り」後の幕府内での処分裁定論議では強硬に義士切腹論を唱えた事で知られています。「武士たる者が美しく咲いた以上は、見事に散らせるのも情けのうち。武士の大刀は敵の為に、小刀は自らのためにある。」と浪士たちをおもんばかっての自論を展開をしたのです。

そんな徂徠先生は多くの門弟を育て、享保13年(1728)に63歳で亡くなり、桜田通り沿いの三田魚藍坂に近い長松寺の墓地に眠っています。

荻生徂徠墓の石柱

長松寺はやや急な坂を登ったところに山門を持つ高台の古刹です。その坂道が始まる歩道脇に「荻生徂徠の墓」の石柱が建っています。山門を入るとそれほど広くない境内の右手にご本堂が建ち、境内の一番奥に墓地が広がっています。

坂上の高台に建つ長松寺山門
長松寺ご本堂

その墓地の一角にそれらしい墓石が並ぶ場所があります。お墓は徂徠先生単独の墓石だけかと思っていたのですが、実は荻生家代々の方々のお墓が一角にまとめられていました。
徂徠先生の墓はどこに置かれているのか、一瞬戸惑いましたが、墓域の説明書が掲示されていたのですぐに判明しました。

荻生家の墓域
徂徠先生の墓

静寂に包まれた荻生家の墓域は幕府の御用学者という崇高な香りを漂わすように、それぞれの墓石には偉大な業績を称えるように「先生」という文字が刻まれています。

長松寺からさほど離れていない路地の入口に「幽霊坂」の道しるべが建てられ、そこから一直線に細い坂道が伸びています。

>幽霊坂の道しるべ

いまでこそコンドミニアムや住宅が立ち並ぶ地域なのですが、かつてはお寺がこの路地に沿ってたくさん密集していたようです。お寺と言えば、お墓があります。このためお寺が密集する場所に通じる坂道であることから「幽霊坂」と名付けられたのです。
興味本位にこの坂道を上がってみました。確かにお寺が次ぎから次へと現れてきました。昔は日没後はちょっと気持ち悪い坂道だったことでしょう。





日本史 ブログランキングへ

神社・仏閣 ブログランキングへ

お城・史跡 ブログランキングへ

お江戸高輪・天下のご意見番「大久保彦左衛門」所縁の寺~立行寺

2011年02月10日 21時50分11秒 | 港区・歴史散策
東京でも一二を争うほどのお洒落な住宅地高輪、白金には由緒ある寺院が密集していることで知られています。瀟洒なコンドミニアムが似合う高輪界隈の路地を徘徊していると、角ごとに次から次へとお寺が顔を出すといった具合です。寺好きの私にとっては高輪、白金地区はまさに歴史散策の素材の宝庫といったことろです。

立行寺山門

その高輪、白金地区で是非訪れてみたかった寺が立行寺なのですが、当寺にはお江戸の初期の頃に活躍したあの直参旗本「大久保彦左衛門」の墓があるのです。私にとって、大久保彦左衛門は幼い頃に連れていかれた映画の中でしょっちゅう登場してくれた人物であったのですが、父親に毎週日曜日に連れていってもらった映画館で上映されていたのが東映の時代劇で、ストーリーも判らず見ていた画面にしばしば登場したのが、どういうわけか大久保彦左衛門と一心太助だったのです。そしておぼろげながら一心太助役がいつも堺駿二(堺正章のお父さん)であったことを覚えています。しかしあの映画の題名はいったい何だったのか知るよしはありませんが、大久保彦左衛門が登場していたことから考えると、おそらく家康、秀忠そして家光公の時代の物語だったのでしょう。

この方、大久保彦左衛門は十六歳で元服し、家康の元で大阪の陣にいたるまで数々の武功を挙げてきました。開幕間もない頃に駿府にいた家康公に召し出され、そのときに直参旗本に任ぜられ、三河国額田郡坂崎の千石を賜りました。そしてその後に千石が加増され知行(領地)二千石の旗本となりました。
とはいえ、たかだか二千石の貧乏旗本であった彦左衛門が「天下のご意見番」と言われる理由には、実は徳川家康が臨終のとき、彦左衛門に残した遺言があるのです。
「彦左衛門のわがまま無礼を許す。今後将軍に心得違いがあるときは、彦左衛門に意見させよ」-これが「天下のご意見番」ならしめた理由なのです。
それがゆえに結構めちゃくちゃなことも平気でできたのしょう。それは有名な「たらいに乗ってのご登城」の話です。旗本以下の駕籠を使っての登城が禁止されたことに対し、「年寄りや病人など足の不自由な者もいるのに、それをとどめるとは言語道断」。彼はそう言って、大たらいに乗ってで登城したそうな。それを見とがめた役人に「たらいは駕篭にあらず」と一喝。でも、この噺は真実かどうかわかりません。

こんな破天荒な方の墓はきっと期待を裏切らないだろうと勇んで立行寺へと向った次第です。立行寺は地下鉄南北線の白金高輪駅から徒歩数分の距離にあります。桜田通りから角を曲がると前方に山門が見えてきます。赤く塗られた山門を見る限り、この寺が江戸初期の寛永7年(1630)に創建された名刹とは思えない雰囲気を漂わせています。そもそも当寺は寛永7年(1630)に現在の六本木の土地に「大久保彦左衛門」によって創建されました。このため別名「大久保寺」と呼ばれています。

立行寺山門

山門をくぐると正面にご本堂、そして境内の左手に鐘楼が配置されています。境内には大きな一枚岩の「大久保彦左衛門忠教頌徳碑」とこの碑の傍らに「一心太助碑」が仲良く並んでいます。

立行寺ご本堂
鐘楼
大久保彦左衛門忠教頌徳碑
一心太助碑

この一心太助という人物ですが、そもそも鶴屋南北の弟子河竹黙阿弥(1816-1893)が書いた歌舞伎の演目で世に知られるようになり、その後講談・小説などに登場した実は架空のキャラクターなのです。ですが、ここ立行寺には一心太助のお墓らしきものが、彦左衛門の墓のすぐ側に置かれているんですね。一説によると、一心太助なる人物は彦左衛門の草履取りだったとも言われているのですが、はたして事実かどうか?

ご本堂の左手一体が墓地が広がっているのですが、さすが彦左衛門自らが創建した寺ということもあって、大久保家の墓地は鞘堂付となっているのですぐに判ります。

墓地内に建つ大久保家の鞘堂付墓地
大久保家の鞘堂付墓地

どれどれどんな意匠のお墓かな?と鞘堂へと石段をのぼっていきます。鞘堂内には幾つもの宝塔が並び、大久保家代々の方々が眠っています。
さ~て、彦左衛門爺の墓はどれかな?
なんと扉の付いたお堂の中に納まっているではありませんか。お堂の扉には大久保家の家紋「のぼり藤に大」が嵌め込まれています。彦左衛門の宝塔はお堂の扉に遮られて、よく見えませんでした。
そして、大久保家の鞘堂の脇に、一心太助なる人物の「石塔」が置かれています。

木製のお堂が彦左衛門の墓
大久保家の家紋
一心太助の石塔
境内の梅の花

尚、大久保彦左衛門の江戸屋敷は現在のJR御茶ノ水駅から至近の杏雲堂病院が建つ場所にありました。





日本史 ブログランキングへ

神社・仏閣 ブログランキングへ

お城・史跡 ブログランキングへ

お江戸築地周辺の江戸そして幕末・明治の遺産巡り

2011年02月09日 16時03分34秒 | 中央区・歴史散策
連日多くの人の来場で賑わう築地市場の場内・場外の周辺には江戸時代から明治にかけてこの場所を飾ったさまざまな施設があったことをご存知でしょうか?



そもそもここ築地という土地が築かれたのはいつ頃だったのかを検証してみましょう。
それは今から350年ほど遡った明暦の時代のことです。江戸時代を通じて未曾有の大惨事となったあの「明暦の大火(1657)」で江戸の市中の三分の二が焼失し、約10万人もの死傷者をだしてしまいました。

これほどまでに被害が拡大した大きな理由として、第一にあげられることが「あまりに江戸市中の建物が密集していたこと」と言われています。開幕以来、発展してきた江戸の町は家康、秀忠、家光の三代にわたる「天下普請」によって寛永12年(1635)頃にはほぼ街としての基盤が完成しました。しかしながら、江戸に押し寄せる地方からやってくる多くの人々を受け入れるだけの余裕ある都市計画が追いつかず、江戸の町は「密集地帯」と化していたのです。そんな時に起きたのが「明暦の大火」だったのです。

幕府はそれまでの都市造りの考え方を構造的に変えなければと考え、まず内郭(内掘)に集中していた武家屋敷を内郭の外へと分散させ、併せて寺社地の郊外への移封を断行していきます。
そして、新たな土地の開墾を行うべく江戸湾の埋め立てを開始します。その工事で造成されたのが、地を築いた場所のとおり「築地」だったのです。

そして地を築く工事の過程での出来事があります。大火の後、万治年間(1658~61)にかけての埋め立て大工事は困難を極めます。ある日、工事をしていると海中から稲荷明神様の像が現れ、これを祀ったところ、江戸湾の波浪がおさまり工事がはかどった、という故事から創建されたのが現在、海幸橋至近にある読んで字のごとく波を除ける「波除稲荷神社」なのです。

波除神社本殿
波除神社獅子頭(雌)
波除神社獅子頭(雄)

この神社には天保時代に奉納された「天水鉢」があります。実は江戸時代今の築地市場の南半分に位置するあたりが尾張徳川家の蔵屋敷があったのです。藏屋敷には国表から運ばれる米や特産品が定期的に運ばれてきたのですが、この天水鉢は尾張藩の船が無事航海できるよう祈願して荷揚げ人夫たちが奉納したものです。

ついでにこの波除神社に至近にある海幸橋の親柱の由来についてご紹介しましょう。かつてはこの場所には旧築地川東支川が流れ、市場内への入口にあたることから、豊魚を祈願して「海幸橋」と名付けられました。
現在、川は埋め立てられその面影はほとんど残っていませんが、かつての橋が架けられていた4隅に親柱が残されています。そのうち2基が非常に趣あるデザインのもので鋼鉄製で造られています。
実はこの鋼鉄製の親柱はアムステルダム派のデザインを取り入れたもので昭和2年に設置され、現在中央区の文化財として保存されています。

波除神社脇の親柱
市場入口脇の親柱

さて、江戸時代の寛政の頃、ここ築地市場があった場所にそれはそれは見事な造りの名園があったのですが、ここでいう名園はお隣にある「浜離宮(浜御殿)」のことではありません。
実は寛政4年(1792)にこの地を拝領した松平定信公(楽翁)が工夫を凝らして造り上げた「浴恩園」という浜屋敷があったのです。今となってはその欠片すら見当たりませんが、当時の園内には「春風池」と「秋風池」という2つの池を配し、その池の周囲には築山が築かれていたといいます。そんな様子を刻んだ銅版画が市場内の水神社の土台部分の目立たない場所に嵌め込まれています。

浴恩園絵図
浴恩園銅版画

そしてこの浴恩園の屋敷は明治5年に、海軍省が置かれることになります。そして浴恩園に築かれた「築山」には「海軍卿旗(かいぐんきょうき)」が掲揚されたことで、この築山を「旗山」と呼ばれるようになったのです。この海軍発祥之地である築地市場内の水神社の入口にはこれを記念して石碑が立っています。その碑面には「旗山」の文字がくっきりと刻まれています。

市場内の水神社
旗山碑

それでは海幸橋口から市場を退出し、晴海通りへと進んでいきましょう。晴海通りに出てすぐに右へ折れた歩道脇に立てられているのが「軍艦操練所跡」の説明書です。
これは幕末に幕府が運営した操練所のことなのですが、この操練所が開設される前はご存知のように長崎に開設された「海軍伝習所」が前身です。長崎の海軍伝習所では勝海舟や榎本武揚らが学んだことは有名な話です。
しかし安政4年に長崎はあまりに遠くて不便であることから、ここ築地にあった幕府講武所内に軍艦教授所を新たに設け、旗本や御家人などを対象に軍艦の操舵技術を学ばせたのでした。安政6年には軍艦操練所と改称され、あの勝海舟が教授方頭取となったのです。

この軍艦操練所跡地のすぐ側に、幕末の慶応4年(すなわち明治元年)になんと日本初の本格的洋風ホテルが建てられました。その名を「築地ホテル館」といいます。和洋折衷様式の築地ホテル館は当時では非常に珍しく、連日多くの人が見物に訪れたといいます。建設には現在の清水建設の前身である「清水組」が担当しています。
しかし残念な事に完成してからわずか4年足らずで焼失してしまったため、「幻のホテル」と言われています。

築地ホテル館

さらに晴海通りを勝鬨橋方向へ進んでいきましょう。ちょうど勝鬨橋を渡る手前右側にガス灯と石碑が置かれています。この石碑が「海軍経理学校の碑」です。明治7年(1874)に芝に海軍会計学舎が開設されたのが海軍経理学校の始まりです。明治21年に築地にあった海軍兵学校が広島の江田島に移転したことに伴い、浴恩園跡地に海軍会計学舎が移ってきました。そして明治40年に海軍経理学校となり大正を経て、昭和20年9月敗戦と共に歴史を閉じています。

海軍経理学校の碑
かちどきの渡しの碑
勝鬨橋俯瞰

このように築地周辺には江戸後期から幕末にかけて、新しい時代への礎ともなる海軍関係の施設が集中していたことになります。江戸湾に面する良好の地であった築地は幕末から明治の国防の要として「日本海軍」の聖地であったのではないでしょうか。

佃を望む明石町に明治を偲ぶ外国人居留地跡を訪ねる
隅田川の流れと石川島そして中央大橋周辺の史蹟探訪
お江戸佃の冬景色【江戸前佃島】
お江戸の台所・築地魚がし場外市場裏路地紹介
お江戸の台所・築地中央卸売市場内の魚がし横丁お薦めのお店
森孫右衛門を知ればお江戸の魚河岸が見えてくる!【お江戸日本橋と佃島】





日本史 ブログランキングへ

神社・仏閣 ブログランキングへ

お城・史跡 ブログランキングへ

お江戸京橋界隈あれこれ噺

2011年02月08日 14時54分02秒 | 中央区・歴史散策
江戸時代には日本橋、新橋と並ぶ御公儀橋3橋のうちの一つとして、御公儀橋を表す擬宝珠が橋の欄干に掲げられていました。平成の御代、すでに京橋という名の橋はなく、かつて川が流れていた上には日本橋と同様に首都高速が走っています。

そんな京橋界隈に江戸の名残り探しに出かけてみました。現在の京橋界隈は日本橋地域の再開発と張り合うように至る所でビルの解体と新築工事が目白押しの状態です。ちょうど鍛治橋通りと中央通りが交差する角では中央通りを挟んで大規模ビルの建設が始まり、歩道の脇には工事のための囲いがつづき町の景観が大きく変わっています。

その工事現場を囲う塀に過ぎ去った時代の京橋の様子を撮った写真が掲示され、つい見入ってしまうほどです。
かつての京橋が架けられていた場所は、現在の町名で「京橋3丁目」にあたり、ちょうど高速道路が中央通りを跨いでいるところです。すなわち銀座1丁目のちょっと手前の位置です。

この場所に京橋にまつわる歴史的な事象を記念するモニュメントや碑があちこちに立っているのをご存知でしょうか。中央通りを足早に行き交う人々もつい見逃してしまいそうなこれらのモニュメントたちは江戸から明治そして大正、昭和へと時代が移る中で、「この場所に確かに存在したんだぞ」と言いたげに佇んでいます。

まず銀座方面に向って左側の歩道を歩き、ちょうど警察博物館の前辺りまで進んでみましょう。頭上には高速道路が走り、その高架の下には「銀座ミカレディ」の店舗入口がある辺りに置かれているのが「京橋の親柱」です。

京橋の親柱

江戸時代は木橋だった京橋は明治に入り石造アーチ橋となり、明治後期には鉄橋に架け替わり、大正時代にはアールデコ調のモダンな装いになったといいます。しかし昭和34年(1959)の京橋川の埋め立てに伴い橋は撤去されてしまいました。

現在、中央通り沿いの歩道には石造親柱が3基残され、このうち擬宝珠を持つ2基の親柱は明治8年にアーチ橋となったときのものです。それぞれに「京橋」と「きやうはし」と刻まれています。

「きやうはし」の親柱

また照明装置がついた親柱は大正11年の架け替え時のもので、なにやらロマンを感じる時代ものです。
この大正時代の親柱のデザインをそのまま模した交番が中央通りを挟んで置かれています。東京警視庁もなかなか味なことをするもんだと感心した次第です。

大正時代の親柱
親柱のデザインをそのまま模した交番

この親柱のすぐ脇に置かれているのが、「煉瓦銀座の碑」です。はて煉瓦銀座とはいったい何のことをいっているのかというと、実は明治5年に銀座一体は大火に見舞われたのです。この大火後、銀座一体は大規模な区画整理を行うと同時に、銀座煉瓦街の建設に着手しました。このときの街並みを設計したのが英国人トーマス・J・ウォートルスという方で、銀座の街並みはジョージアン様式の煉瓦造りの建物が並んでいたのです。大火の翌年には銀座通りの煉瓦街が完成したといいます。

煉瓦銀座の碑
煉瓦銀座の碑の銘板

それでは中央通りを渡り、京橋の親柱のデザインを模した交番がたつ側へと向いましょう。高速道路下に設けられている小さな喫煙場所に立てられているのが「江戸歌舞伎発祥の地碑」です。かなり立派なものですが、中央通りの歩道から若干それているので、気が付かないで通り過ぎてしまう恐れがあります。

江戸歌舞伎発祥の地碑
江戸歌舞伎発祥の地碑
中村座紋

そもそも江戸歌舞伎の発祥は江戸初期の寛永元年(1624)の頃といいます。その始まりは猿若勘三郎(初代中村勘三郎)が当時の中橋南地(現在の京橋)に猿若座の櫓をあげたことです。この櫓をあげるということは、幕府の許しを得たうえで興業ができるということを意味しています。
そしてこの櫓には座紋をあしらい、どこの芝居小屋であるかを表しています。ちなみに中村座は「隅切角に逆さ銀杏」を採用されています。もともと中村座の座紋は「鶴が空から舞い降りてくる」デザインでしたが、元禄三年に、将軍家に生まれたお姫様に鶴姫という名が付けられたのをはばかり、銀杏の葉に変えました。面白いことに銀杏の葉を逆さにすると、鶴が翼を拡げた形に似ているんですね。

隅切角に逆さ銀杏
両国江戸博の芝居小屋

尚、中村座は幕府の方針により度々小屋が移動します。寛永9年(1632)には禰宜町、慶安4年(1651)には上堺町へと移転し長く興業をしていたのですが、天保の改革により天保13年(1842)に淺草浅草寺の裏手の猿若町へ強制的に移転させられてしまいます。そして明治22年(1872)に歌舞伎座が開場し今に至っています。

この「江戸歌舞伎発祥の地碑」のすぐ側にもう一つ碑が立っています。「京橋大根河岸青物市場跡碑」です。日本橋界隈が魚河岸で賑わったように、ここ京橋界隈は江戸時代から大根を中心とした野菜の荷揚げ場で、江戸の庶民のための青物市場が開かれていました。

京橋大根河岸青物市場跡碑
京橋大根河岸青物市場跡碑銘板

この青物市場は関東大震災で壊滅し、魚河岸とともに築地の市場に移転しています。ですから築地市場には鮮魚部門と青果部門が並存しているわけです。
大正時代とはいえ、東京のど真中の日本橋と京橋に鮮魚と青果の市場があったなんて、周辺地域はなんと生臭かったことか……。

最後に京橋界隈ではないのですが、中央通りが終わる8丁目、すなわち新橋に近いところにこんな歴史があることを発見しました。ちょうど天麩羅の天国の角を曲がり、最初の路地の入口にそれこそ目立たない存在で碑が置かれています。「芝口御門跡」といわれるものです。ほんとうに目立ちません。実は江戸時代の宝永の頃のお噺です。

芝口御門跡
銅版

朝鮮通信使の江戸参府に際して、我が国、日本いや将軍家の権威や威光を示すため、新橋の北詰に城郭の門と同じ様な「桝形門」がこの場所に築かれたのです。この門は「芝口御門」と呼ばれていましたが、享保9年に火災で焼失し、その後再建されなかったといいます。このため石垣も撤去されてしまいました。現在、この芝口御門を記念して当時の門の様子を描いた銅版が埋め込まれています。





日本史 ブログランキングへ

神社・仏閣 ブログランキングへ

お城・史跡 ブログランキングへ