土佐の地下浪人の階級の家に生まれ、幕末の激動期に下士の身分でありながら土佐藩執政の吉田東洋の下で、甥の後藤象二郎との交友を深めた岩崎弥太郎は当時としては先進的な「武家の商法」をいち早く取り入れた逸材だったのです。
龍馬が設立した亀山社中は土佐藩肝いりの土佐商会が一緒になって海援隊となっていくのですが、土佐商会は後藤象二郎の放漫経営で大赤字。そんな時に、土佐藩内では「土佐商会の救済には岩崎弥太郎以外に、この任に当たるべきものなし」といわれるほど、弥太郎は経営感覚を身に付けていたのです。
龍馬が殺され、海援隊は鳥羽・伏見の戦いの後に解散するのですが、その事後処理も土佐商会を任された弥太郎が引き受けたのです。
維新後、後藤象二郎が大阪府知事になるや弥太郎も大阪に移り、明治3年(1870)に「大阪土佐商会」の運営を任されます。この時点で土佐商会は民営的経営へと移行し、社名も「九十九商会」となります。
九十九商会は土佐藩から汽船4隻を借り入れて「海運業」を始めますが、この船を借りっぱなしのまま明治6年(1873)に完全な民営会社「三菱商会」へと移行します。
その後の三菱商会は明治新政府の国策と密接に絡みながら、日本の海運を独占する財閥へと成長していったのです。
旧岩崎邸洋館正面
そんな大財閥となった岩崎家は江戸時代の大名家の庭園を買い取り、私邸や三菱商会の厚生施設に造り変えています。都内に残る代表的な岩崎家のお屋敷や庭園は六義園と清澄庭園そして上野池之端の旧岩崎邸なのです。
冬晴れのこの日、久しぶりに上野池之端の旧岩崎邸を訪れました。江戸時代には、越後高田藩榊原家の中屋敷だったところです。正門を入り、木々の間から木漏れ日が射すなだらかな坂道を進むとすぐに旧岩崎邸の洋館正面に出てきます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/73/45/ffd412b3eb14506d0d615bd3789539d9.jpg)
洋館正面の車寄せ広場には椰子の木が植えられ、異国情緒を漂わす洋館と妙にマッチしています。邸内へは靴を脱いで、備え付けのビニール袋に靴を入れて持ちながらの見学です。寒い冬の日の邸内見学は絨毯が敷かれているにもかかわらず、足元から冷えがじわじわと伝わってきます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/09/5f/202575830d200a906523b286c443d958.jpg)
邸内の見学は順路に従って1階と2階を巡っていきます。邸内の写真撮影は禁止されているので画像がありませんが、当時の岩崎家の栄華を偲ばせる贅沢なインテリアはいつ見ても目を見張るものがあります。
足元からの冷えを我慢しながら1階から2階へと移動すると、やっと外光が降り注ぐベランダに出ることができます。燦燦と降り注ぐ陽射しを受けながら、しばしベランダで暖をとる始末。ベランダからは広々とした園内を俯瞰できます。
このあと2階から1階へと移動し、隣接する和館の廊下を進みます。和館には喫茶室があるのですが、暖房もなく冷えきった空気の中でお茶や菓子を食べるという気持ちの余裕はありませんでした。
※冬季の訪問の際には、厚手の靴下を持参されることをお薦めいたします。
和館
和館を退出して冬日射す園内を散策しながら和館や洋館の外観をゆっくりと鑑賞しました。ジョサイア・コンドルが設計し、明治29年(1896)に完成した洋館は全体的にイギリス・ルネサンス様式で洋館南側は列柱を持つベランダが設けられています。1階列柱はトスカナ式、2階列柱はイオニア式の装飾を持ち、米国・ペンシルべニアのカントリーハウスのイメージも採り入れられているとのことです。庭の一角に大名庭園の名残りを感じさせる巨大な灯籠が一基置かれています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5c/c8/d27121bff5a2e89387e8fc9fbfb72032.jpg)
園内の端には三角屋根を持つ撞球室(ビリヤード)が別棟で置かれています。この建物もジョサイア・コンドルが設計したものですが、一見すると西部劇に登場するファームハウスに似ています。
撞球室
撞球室内部
洋館前の広場の脇に袖塀(そでべい)が残っています。袖塀には岩崎家の家紋の「三階菱」が描かれています。そもそも海援隊のマークは土佐藩の紋所である「三つ柏」によったものだったのですが、弥太郎はその柏の部分を自らの家紋「三階菱」に入れ替えたのです。これが現在の三菱の社章スリー・ダイヤのマークの誕生の謂れです。
袖塀
旧岩崎邸の塀沿いに伸びる坂は「無縁坂」と呼ばれています。命名の由来は「さだまさし」が名付け親ではなく、坂の上に「無縁寺」があることからなのですが、現在の無縁坂は瀟洒なコンドミニアムが並ぶ閑静な住宅地となっています。この無縁坂の途中に小さいながらも古い歴史を持つ古刹が静かな佇まいを見せています。
講安寺山門
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/10/4f/59db504e76e0dd567f21c8cca44bddec.jpg)
黒門の山門を持つ講安寺は将軍徳川家斉の息女溶姫の生母であるお美代の方が明治5年77歳で亡くなるまで住んでいたそうです。溶姫は前田家12代藩主前田斉泰公に嫁いだ方です。その輿入れの際に前田家に建てられたのがあの東大の「赤門」なのです。ここ池之端からはかつての加賀前田家の上屋敷までは目と鼻の先の距離です。そんな立地にある講安寺ゆえ、お美代の方は可愛い娘が嫁いだ前田家に近いこの場所を選んだのではないでしょうか?
講安寺の本堂は、外壁が漆喰で何度も塗り込められた土蔵造りが特徴です。「火事に悩んだ江戸の人たちの防火対策の知恵」とのことです。建造から300年経った今も健在なのはこの土蔵造りのお陰なのです。
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小さな境内は訪れる人もなく、無縁坂の響きと相まって静かな空気が流れていました。
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龍馬が設立した亀山社中は土佐藩肝いりの土佐商会が一緒になって海援隊となっていくのですが、土佐商会は後藤象二郎の放漫経営で大赤字。そんな時に、土佐藩内では「土佐商会の救済には岩崎弥太郎以外に、この任に当たるべきものなし」といわれるほど、弥太郎は経営感覚を身に付けていたのです。
龍馬が殺され、海援隊は鳥羽・伏見の戦いの後に解散するのですが、その事後処理も土佐商会を任された弥太郎が引き受けたのです。
維新後、後藤象二郎が大阪府知事になるや弥太郎も大阪に移り、明治3年(1870)に「大阪土佐商会」の運営を任されます。この時点で土佐商会は民営的経営へと移行し、社名も「九十九商会」となります。
九十九商会は土佐藩から汽船4隻を借り入れて「海運業」を始めますが、この船を借りっぱなしのまま明治6年(1873)に完全な民営会社「三菱商会」へと移行します。
その後の三菱商会は明治新政府の国策と密接に絡みながら、日本の海運を独占する財閥へと成長していったのです。
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そんな大財閥となった岩崎家は江戸時代の大名家の庭園を買い取り、私邸や三菱商会の厚生施設に造り変えています。都内に残る代表的な岩崎家のお屋敷や庭園は六義園と清澄庭園そして上野池之端の旧岩崎邸なのです。
冬晴れのこの日、久しぶりに上野池之端の旧岩崎邸を訪れました。江戸時代には、越後高田藩榊原家の中屋敷だったところです。正門を入り、木々の間から木漏れ日が射すなだらかな坂道を進むとすぐに旧岩崎邸の洋館正面に出てきます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/73/45/ffd412b3eb14506d0d615bd3789539d9.jpg)
洋館正面の車寄せ広場には椰子の木が植えられ、異国情緒を漂わす洋館と妙にマッチしています。邸内へは靴を脱いで、備え付けのビニール袋に靴を入れて持ちながらの見学です。寒い冬の日の邸内見学は絨毯が敷かれているにもかかわらず、足元から冷えがじわじわと伝わってきます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/09/5f/202575830d200a906523b286c443d958.jpg)
邸内の見学は順路に従って1階と2階を巡っていきます。邸内の写真撮影は禁止されているので画像がありませんが、当時の岩崎家の栄華を偲ばせる贅沢なインテリアはいつ見ても目を見張るものがあります。
足元からの冷えを我慢しながら1階から2階へと移動すると、やっと外光が降り注ぐベランダに出ることができます。燦燦と降り注ぐ陽射しを受けながら、しばしベランダで暖をとる始末。ベランダからは広々とした園内を俯瞰できます。
このあと2階から1階へと移動し、隣接する和館の廊下を進みます。和館には喫茶室があるのですが、暖房もなく冷えきった空気の中でお茶や菓子を食べるという気持ちの余裕はありませんでした。
※冬季の訪問の際には、厚手の靴下を持参されることをお薦めいたします。
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和館を退出して冬日射す園内を散策しながら和館や洋館の外観をゆっくりと鑑賞しました。ジョサイア・コンドルが設計し、明治29年(1896)に完成した洋館は全体的にイギリス・ルネサンス様式で洋館南側は列柱を持つベランダが設けられています。1階列柱はトスカナ式、2階列柱はイオニア式の装飾を持ち、米国・ペンシルべニアのカントリーハウスのイメージも採り入れられているとのことです。庭の一角に大名庭園の名残りを感じさせる巨大な灯籠が一基置かれています。
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園内の端には三角屋根を持つ撞球室(ビリヤード)が別棟で置かれています。この建物もジョサイア・コンドルが設計したものですが、一見すると西部劇に登場するファームハウスに似ています。
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洋館前の広場の脇に袖塀(そでべい)が残っています。袖塀には岩崎家の家紋の「三階菱」が描かれています。そもそも海援隊のマークは土佐藩の紋所である「三つ柏」によったものだったのですが、弥太郎はその柏の部分を自らの家紋「三階菱」に入れ替えたのです。これが現在の三菱の社章スリー・ダイヤのマークの誕生の謂れです。
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旧岩崎邸の塀沿いに伸びる坂は「無縁坂」と呼ばれています。命名の由来は「さだまさし」が名付け親ではなく、坂の上に「無縁寺」があることからなのですが、現在の無縁坂は瀟洒なコンドミニアムが並ぶ閑静な住宅地となっています。この無縁坂の途中に小さいながらも古い歴史を持つ古刹が静かな佇まいを見せています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/64/11/8640c9f2407d23df2761e2d3145a5d49.jpg)
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黒門の山門を持つ講安寺は将軍徳川家斉の息女溶姫の生母であるお美代の方が明治5年77歳で亡くなるまで住んでいたそうです。溶姫は前田家12代藩主前田斉泰公に嫁いだ方です。その輿入れの際に前田家に建てられたのがあの東大の「赤門」なのです。ここ池之端からはかつての加賀前田家の上屋敷までは目と鼻の先の距離です。そんな立地にある講安寺ゆえ、お美代の方は可愛い娘が嫁いだ前田家に近いこの場所を選んだのではないでしょうか?
講安寺の本堂は、外壁が漆喰で何度も塗り込められた土蔵造りが特徴です。「火事に悩んだ江戸の人たちの防火対策の知恵」とのことです。建造から300年経った今も健在なのはこの土蔵造りのお陰なのです。
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小さな境内は訪れる人もなく、無縁坂の響きと相まって静かな空気が流れていました。
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