大江戸散策徒然噺 Introducing Japanese culture and history

豊かな歴史に彩られた日本の文化と歴史を紹介

木曽路十五宿街道めぐり (其の十一) 上松~寝覚の床

2015年08月18日 12時08分21秒 | 木曽路十五宿街道めぐり
上松宿は木曽11宿でちょうど真ん中の宿場であると同時にお江戸から数えて38番目の宿場町です。江戸時代には宿場よりも材木の集散地として栄えたところです。しかし木材産出の町の宿命というか、これまでに多くの大火を経験しており、昭和25年の大火では、町役場を含め600軒以上が類焼しています。 

上松宿の宿内の距離は五町三十一間(約540m)と比較的短い距離の宿場ですが、宿内の本町、仲町、下町も被害を受け、原脇本陣や塚本脇本陣を始め、ほとんどの建物が燃えてしまいました。

このため宿場らしい雰囲気や風情を感じることなくあっというまに通りすぎてしまった感があります。

さあ!第2回の木曽路15宿街道めぐりが始まります。本日の起点はここJR中央本線の上松駅前から寝覚の床を経由してJR中央本線の倉本駅前までのおよそ7.3キロの道程です。

上松駅前



駅前とはいえ、ガランとした感じで高層ビルは全くなく、空が大きく見えます。私たちは昨日辿った上松のメインストリートへ向かうことにします。駅前からまっすぐに延びる道を進み、広小路の信号交差点を右へ曲がります。

木曽の山の中の小さな町「上松」は赤沢自然休養林が近隣にあるため、当駅を拠点に見学に訪れる方が多いようです。そんな拠点駅であるが故に、駅前には観光案内所が設けられ、こんな小さな駅にもかかわらず客待ちのタクシーも数台並んでいます。
私たちはそんな上松の町を歩きながら、下町の交差点へ進んで行きます。
道筋は下町の交差点の先の横断歩道橋の脇の細い坂道へと向かいます。



スロープ状の坂道を上りながら、ふと後ろを振り返ると上松の町並みが眼下に広がっています。



この細い坂道を上りきると、下町の交差点から迂回してやってくる道に合流します。
そしてゆるやかな上り坂を更に進むと、四つ角にさしかかります。その四つ角を渡った左側には上松小学校の校舎が現れます。
小学校の角には「斉藤茂吉の歌碑」が置かれ、小学校の正門へとつづく短い坂道を上ると藤村の文学碑が置かれています。

藤村文学碑

茂吉の歌碑には「駒ヶ嶽見て そめけゐを背後にし 小さき汽車は 峡に入りゆく」と刻まれ、藤村の文学碑には藤村が愛誦していた芭蕉の西落堂の記の一節を自ら書いたといわれる文学碑で「山は静かにして性をやしない、水は動いて情をなぐさむ」と刻まれています。

小学校の正門を過ぎ、ほんの僅かな距離を進むと、左手に幟が見えてきます。幟には「五社神社」の文字が染められています。その幟が立つちょっと手前に木の枝に隠れるように「尾張藩材木役所御陣屋跡」と刻まれた石碑と説明板が置かれています。

尾張藩材木役所御陣屋跡

五社神社幟

上松は木曾五木の産地ですが、江戸時代に尾張藩の領地になりました。寛文五年(1665)に藩直属の材木役所が設けられ、木曾五木は山林奉行の厳しい監視下に置かれました。 
役所は南北180m、東西100m、敷地面積は10000㎡強あって、その中に奉行所、奥長屋などがあり「上松の御陣屋」とも呼ばれていましたが、明治に入り廃藩置県によって御陣屋は廃止されました。その陣屋跡の一部が現在の上松小学校になっています。

木曽五木(きそごぼく):木曽節にも唄われた、木曽の五種類の銘木です。
木曽の山々は、古くから優秀な木材を産出することで知られていましたが、江戸時代の初期に城下町の建設などで濫伐が進み、荒廃してしまいました。このため、当時木曽の山を管理していた尾張藩により「木一本、首一つ」といわれる厳しい保護政策がとられました。その際伐採が禁止され、保護された5種類の樹木がいわゆる「木曽五木」でした。
①木曽ひのき ②さわら ③ねずこ ④ひば ⑤こうやまき

そしてこの御陣屋跡碑の傍に諏訪神社の鳥居があり、石段を登って行くと、上松小学校のグランドが広がっています。なんとグランドを横切った向こうに諏訪神社と五社神社の社殿が置かれています。
向かって正面が諏訪神社で、左側に置かれている社殿が五社神社です。

諏訪神社

五社神社

五社神社は江戸時代には、中山道沿いに建っていた材木役所の中庭にあったそうですが、明治4年、材木役所が廃止された時、諏訪神社境内に移されたものです。天明年間に時の材木奉行が、木曽山川の安全と働く人々の無事故を願って建立したもので、木材役所の名残といえるものです。

この辺りは上松の高台に位置しているため、街道の右手は下り坂となり、谷間を越えた向こうに山並みが連なっています。

上松小学校を過ぎて、街道を進んでいくとやがて道筋は下り坂へと変ります。



坂を下ると、中沢に架かる中沢橋にさしかかります。まだ住宅街がつづきますが、周囲の景色は徐々に変化してきます。
歩き始めて1キロを過ぎると、道筋の前方が開けてきます。ここから1km先に有名な「寝覚の床」があります。

上松の町からさほど離れていない場所なのですが、日本の原風景といった美しい山並みが目の前に現れます。
木曽川は遥か右手を流れており、その姿を見ることができませんが、道筋は徐々に寝覚の床へと向かっています。





上松の駅前を出立して僅か1.8キロで寝覚の床への入口にさしかかります。
そんな場所に古めかしい家が2軒仲良く並んでいます。
街道時代にはここ寝覚の床には立場が置かれ、旅人達の休息の場所として賑わっていました。
手前の建物は「たせや」で街道時代は立場茶屋・多瀬屋の商号で商売をしていた店で300年もつづく老舗です。

街道側から見る姿からはそれほど奥行がないのかな、と思うのですが、方向を変えてみるとかなり奥行のある建物です。
その建物の脇に薪が積まれ、白い障子窓が美しいコントラストを見せ、家の前に置かれた赤い郵便ポストが時代を感じさせてくれます。

たせや

そして路地を挟んで建つもう一つの古めかしい建物は「越前屋」で国内では三番目に古い蕎麦屋と言われています。
昭和41年ころまでこの場所で蕎麦を供していましたが、現在は19号線沿いに移転して営業を続けています。

越前屋

この越前屋は藤村の小説「夜明け前」にも登場します。

「木曽の寝覚で昼、とはよく言われる。半蔵等のやうに福島から立ってきたものでも、あるひは西から来たものでも、昼食の時を寝覚に送ろうとして道を急ぐことは、木曽路を踏んで見るもののひとしく経験するところである。そこに名物の蕎麦がある。 春とは言ひながら石を載せた板屋根に残った雪、街道の側み繋いである駄馬、壁を泄れる煙 - 寝覚の蕎麦屋あたりもまだ冬籠りの状態から完全に抜けきらないやうに見えてゐた。半蔵は福島の立ち方がおそかったから、そこへ着いて足を休めやうと思ふ頃には、そろそろ食事を終って出発するやうな伊勢参宮の講中もある。 
黒の半合羽を着たまま奥の方に腰掛け、膳を前にして、供の男を相 手にしきりに箸を動かしてゐる客もいる。その人が中津川の景蔵だった。」と、この蕎麦屋「越前屋」のことを書いています。

「たせや」「越前屋」まで約1.8キロを歩いてきました。この先、本日の終着点である倉本駅前までは5.5キロです。ただこの先にはトイレ休憩をする場所がまったくありません。
このため、寝覚の床でトイレ休憩をせざるを得ません。それでは路地を下ってセブンイレブンへと向かうことにします。

「寝覚の床」は木曽八景の一つで、大正13年(1923)に史跡名勝天然記念物 に指定されました。「木曽八景・寝覚の夜雨」としてあまりに有名なので、多くの文人墨客が訪れているところで、その昔は中山道を歩く旅人の憩いの場として賑わい、現在は観光スポットとして多くの客が訪れています。

寝覚の床
 
約1.5㎞にわたって象岩や烏帽子岩といった奇岩が連なり、吸い込まれそうンエメラルドグリーンの水と白い岩、連なる山並みの木々の緑が見事に調和しています。

浦島太郎と寝覚の床
寝覚の床は風光明媚な景勝地として知られていると同時に、浦島太郎伝説(竜宮伝説)が伝わる場所としても知られています。
浦島伝説又は竜宮伝説は日本各地にあります。
ここ寝覚の床は竜宮城から戻った浦島太郎が玉手箱を開けた場所といわれ、中央の岩の上には浦島堂が建っています。
尚、臨川寺は浦島太郎が使っていたとされる釣竿を所蔵しています。

ところで東海道を旅している途中、武蔵野国の横浜市神奈川区にも「浦島太郎伝説」が残っていることを覚えているでしょうか?神奈川区の浦島伝説では太郎は相模の国の三浦にいた浦島太夫の息子という設定です。

太夫は仕事のため丹後国に赴任しているときに、あの亀にめぐりあったのです。
亀を助けた太郎が竜宮城へ召され過ごしたのは、全国に散らばる浦島伝説と同じです。
しかし、神奈川版では竜宮から帰った太郎は玉手箱を開けてしまいます。白い煙に巻かれ、あっという間い老人になってしまった太郎は自分の両親の墓が武蔵野国の白幡にあることを聞いたのです。白幡とは現在の子安辺りです。
やっとことで両親の墓を見つけた太郎は場所に庵をつくり、竜宮から持ち帰った聖観世音菩薩を収め、そこに住んだと言われています。そしてその庵が後の観福寿寺です。しかし、観福寿寺は明治になって廃寺になり、観世音菩薩は浦島寺と呼ばれている慶運寺に安置されています。

白幡の庵に住んだ太郎はその後、放浪の旅にでます。それが木曽路なのですが、木曽路を歩いていると木曽川の畔に美しい場所を見つけました。木曽川の美しい流れの中に奇岩が連なっています。この世のものとは思えないほどの景観に、太郎がこれまでに経験したことが「夢」であったと自覚し、長い夢から現実に戻されたといいます。これが夢から覚めた場所であることから「寝覚の床」と言われる所以です。

木曽路十五宿街道めぐり(其の一)塩尻~洗馬
木曽路十五宿街道めぐり(其の二)洗馬~本山
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木曽路十五宿街道めぐり(其の四)日出塩駅~贄川(にえかわ)
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