大江戸散策徒然噺 Introducing Japanese culture and history

豊かな歴史に彩られた日本の文化と歴史を紹介

日本一小さい大神宮には見事な灯明台が~下総船橋の意富比神社(船橋大神宮)~

2012年02月22日 11時27分06秒 | 地方の歴史散策・千葉県船橋市
下総船橋には日本一小さな東照宮と並んで、もう一つ「日本一小さい大神宮」が鎮座するという。
そうであればと、船橋東照宮からさほど離れていない場所に社殿を構える大神宮へと足を延ばすことにしました。

船橋大神宮本社殿

船橋東照宮が鎮座する御殿通りから、船橋の南を東西に貫く本町通りを東へと進むことわずか300mほどで裏参道と思われる鳥居が立つ神宮下交差点に突き当たります。

神宮下からつづく石段

どれほど小さい大神宮なのか、と思いきやこんもりとした木々に覆われた鎮守の森が広がっているではありませんか。境内へとつづく石段を登っていくと、その傍らに「漁師町講中」と刻まれた石標が置かれています。

漁師町講中の石標

ここ船橋は江戸時代から江戸湾に面した漁師町で、現在でも東京湾の汐の香りが漂う昔ながらの港町といった風情を漂わせています。そんな船橋の猟師たちが集まってつくった組合は「漁師町講中」と呼ばれていました。そして猟師たちが海辺に面した小高い丘の上にたつ当社を信仰の対象としていたことを覗わせる記念碑なのではないでしょうか。おそらく丘の上に鎮座する大神宮は海上に浮かぶ船からの目印であったり、更には遠見台としてたいへん重要な場所だったのでしょう。

石段を登るとやはり本社殿の裏側又は脇の参道がつづいており、その参道脇には祠や神輿蔵が並んでいます。

境内の祠
祠と神輿蔵

その裏参道から回りこむように進むと、本社殿がこんもりとした木々の中に静かに佇んでいます。「日本一小さい大神宮」と称される当社ですが、立派な社殿を見るかぎり、なぜ「日本一小さい」のか理解に苦しみます。

本社殿

当社の創建は遥か昔の貞観5年(863)に遡ります。正式な名は太陽神である「意富比神(大日神)」を祀っていたことから「意富比神社」が創建当時からの名称のようですが、時代の変遷で御神体として「天照皇大神」を祀るようになり、次第に意富比神社の社名が忘れられ、船橋神明又は船橋大神宮と呼ばれるようになったと言われています。尚、当社には神君家康公、二代将軍秀忠公も合祀しています。

船橋大神宮の長い歴史の中で、朝廷や将軍家からの崇敬を受け、あの平将門、源頼朝そして神君家康公からも社領の寄進や社殿の造営などがなされた由緒ある神社なのです。

社殿に向かって右手に進んでいくと、さらに小高い場所に立っているのがなんと「灯明台」、すなわち「燈台」があるではありませんか。境内の中の小高い丘は標高27mの高さがあるということなのですが、なぜここに燈台があるのかというと、前述のようにここ船橋は江戸の昔からの漁師町だったことから、海を臨む高台に位置する当社の境内には夜間に漁に出る猟師たちの航海の目安となる「常夜の鐘」がもともと置かれていたそうです。

灯明台
灯明台

しかし幕末の慶応4年(1868)の戊辰戦役によってこの「常夜の鐘」は焼失してしまったらしいのです。その後、明治13年(1880)に地元の猟師たちや有志らの手によりこの小高い丘の上に灯明台が建設され、現在にいたっています。

尚、この灯明台は設置後15年間にわたって使用していたのですが、なんと当時としてはかなり優秀な燈台で光は11km(6海里)先まで届く能力を持っていたそうです。外見をみると、1階と2階が和風造りで、3階の灯室が西洋風の和洋折衷様式の魅力ある姿を見ることができます。

外宮神域

かなり広い境内には「外宮」の神域が設けられ、表参道側の入口には大鳥居が構えています。

表参道の鳥居
意富比神社の石標
本社殿へつづく表参道

これほどの神社であれば、なぜ当境内に東照宮を勧請しなかったのかと疑問を持つと同時に、それなりの由緒、格式をもった当船橋大神宮がなぜ「日本一小さい大神宮」と呼ばれているのかの理由がわからないまま中途半端な気持ちで辞することにしました。




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下総船橋の日本一小さな東照宮

2012年02月21日 17時04分42秒 | 地方の歴史散策・千葉県船橋市
先日、都内及び近郊の歴史散策のネタ探しをしていたところ、なんと千葉県の船橋市に「日本一小さな東照宮」があるというではありませんか。船橋と神君家康公との繋がりも興味が湧くところではありますが、それ以上に「日本一小さい」と強調していることに居たたまれず、早速でかけることにしました。

船橋東照宮鳥居

久しぶりに気温10度を超え、風もない小春日和の中、東京メトロの東西線に乗り一路西船橋へと向かいます。西船橋でJRに乗り換えると次の駅が船橋です。東京の東に位置する江東区に住む私にとっては、西船橋まではものの20分程度の距離です。

賑やかな西船橋駅を下りて、海側に開けた繁華街をしばらく南下します。京成線のガードをくぐるとすぐ左に折れる狭い路地が現れます。この路地がかつて「御殿通り」と呼ばれていた道なのですが、なぜ御殿通りと呼ばれていたのでしょうか。

実はここで神君家康公とこの御殿通りが繋がってくるのです。開幕後、家康公は2年足らずで征夷大将軍を息子である秀忠に譲り、その後は大御所として二代将軍秀忠公の政を後見しつつ、駿府と江戸をしきりに往還する日々を過ごしていたようです。

将軍職を秀忠公に譲ったものの、元気そのものの家康公は秀忠を連れて大好きな鷹狩を行いながら、地方の巡検を精力的に行っていたようです。そんな鷹狩の場所は江戸川を越えた下総、そして更には上総にまで足をのばすのですが、当然のことながら大御所や将軍が休息や宿泊する場所をそのルート状に設けなければなりません。その場所のことを「御茶屋」又は「御殿」と名付ていました。

家康公は慶長19年(1614)に上総土気(とけ)そして東金で鷹狩を挙したことが記録で残っています。そして翌年の元和元年(1615)に家康公は再び上総東金へ鷹狩に出掛けるのですが、その時に船橋に設けられた「御殿」に宿泊しています。家康公が船橋御殿に宿泊されたのは、この時が最初で最後だったのですが、秀忠公はその後もたびたび船橋の御殿で宿泊されていたようです。

そんな歴史をもつ船橋御殿へと通じる道筋が現在でも「御殿通り」と呼ばれ残っているのですが、かつて御殿があったと思われる場所は、民家が連なる住宅地へと変貌しています。

尚、徳川将軍家の上総東金での鷹狩は家光公の御代である寛永7年(1630)頃には終わり、船橋御殿の敷地は船橋大神宮の宮司に与えられ、その後開墾されて畑となったと伝えられています。

神君家康公がこの地、船橋御殿で宿泊されたという縁があるがゆえに前述の船橋大神宮の宮司が貞享年間(1684~1687)に船橋御殿の跡地に造ったのが、船橋東照宮なのです。

住宅街の中につづく御殿通りを進んでいくと、特に東照宮を指し示す道標も見当たりません。おそらく誰もが道に迷うのではと思いつつ、私も道を折れずに直進し行き過ぎてしまいました。すぐに気がついて戻ると、自動販売機の陰に小さな道標が立っているではありませんか。

路地奥の船橋東照宮

やっと辿り着けるという思いでさらに細い路地を進んでいくと、前方にそれらしい鳥居が見えてきます。「日本一小さい」ということは最初からわかっていることなのですが、それにしても本当に小さいのです。敷地もさることながら、拝殿なんてものじゃなく、小さな祠といった感じです。

一応東照宮の社殿

ただ救われるのは徳川将軍家の葵のご紋が入った幕が祠にかかっていること。東照宮といえば、権現造りの御社殿をイメージするのですが、ここの東照宮はお稲荷さん程度の祠で極彩色の社殿なんて到底イメージできるものではありません。

東照宮
東照宮

祠の中を覗いてみると、なにやら文章が見えます。その文章はまごうことなくあの神君家康公の有名な遺訓。「人の一生は、重荷を負うて遠き道を行くが如し、急ぐべからず。 不自由 を常と思えば不足なし、心に望み起らば困窮したるときを思い出すべし。」



猫の額ほどの境内の一角にある手水舎の柱に「東照大権現家康公、徳川二代秀忠公に感謝します」と書かれた木製の札が立てられています。

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