大江戸散策徒然噺 Introducing Japanese culture and history

豊かな歴史に彩られた日本の文化と歴史を紹介

お江戸名園シリーズ~六義園・将軍綱吉の庇護の下、権勢を誇った柳沢吉保の庭【岩槻街道御成道沿い】

2010年12月10日 19時48分47秒 | お江戸名園シリーズ
お江戸(東京)に残る大名庭園の中でもその規模と美しさの点で一二を争うほどの名園として知られているのが「六義園」ではないでしょうか。
江戸城の外堀からはるか外側に位置する六義園は、お江戸の頃には岩槻街道(現本郷通り)と呼ばれ、あの日光道中へとつながる重要な幹線であった街道のすぐ脇に造られています。すなわち、将軍の日光参詣には必ず通る街道だったのです。日光・奥州道中の最初の宿場町は千住で、六義園のある駒込からはまだ先なのですが、お江戸の時代には参勤交代行列や日光参詣へ向かう人々がここ六義園脇の街道を賑やかに往来していたのではないでしょうか。

そんな立地にある六義園は五代将軍綱吉公の御代に側用人として権勢を誇った「柳沢吉保」の私邸として造られた庭園なのです。築園は元禄15年(1702)といいますから、あの赤穂浪士が吉良邸に討入りをした年です。吉保はことのほか綱吉からの寵愛を受けて、元禄時代には大老格として幕政を主導するまでに至り、加えて綱吉公の「吉」を与えられ吉保と名前を変えています。そして吉保は綱吉の後継に甲府徳川家の徳川家宣が決まると、家宣の後任として甲府藩(山梨県甲府市)15万石の藩主となるという大出世を果たしています。ちなみに甲府藩主になれるのは徳川の家紋大名にしか与えられない特別な地位だったのです。

しかしこのような生活は綱吉公の薨去で一変します。六代将軍家宣とその幕閣である新井白石が権勢を握るようになると、綱吉近臣派の勢いは失われていきます。そして宝永6年(1709)に吉保は幕府の役職を辞するとともに長男の吉里に柳沢家の家督を譲って隠居します。隠居後、ここ江戸本駒込の六義園で悠々自適の生活を送ったそうです。

こんな背景をもつ六義園は秋薫る晴れ渡ったこの日、柔らかい陽射しの中で園内の紅葉が美しい彩りを配し、鏡のような大泉水にその彩りを映す様は、さすが大名庭園の極致といった風情を醸し出しています。

六義園パンフレット
六義園正門

正門を入り、最初の門をくぐると右手に有名な「しだれ桜」の木が私たちを迎えてくれます。晩秋のこの日、落葉した幹と枝だけが、冬の訪れを感じさせるような佇まいを見せています。



しだれ桜の木

そしてお庭に入る内庭大門を抜けると、目の前に大泉水と中の島の雄大な景色が広がります。まずは大泉水を見ながら右回りに歩を進めていくことにします。大きな石燈篭の脇を進むと、2枚の一枚岩を組み合わせた「渡月橋」が現れます。橋の脇に赤く色づいた紅葉の葉が秋の陽射しに映えています。

内庭大門

大泉水

石燈篭

渡月橋



渡月橋を渡ると、それまでの風景とは一変するようなうっそうとした木々に覆われた場所に出てきます。深山幽谷を思わせるような深閑とした空気が漂い、小鳥のさえずりだけが耳に届きます。そして渓谷を思わせる谷あいには美しい日本画を眺めているような「秋の美しい光景」が広がっています。





 

谷の両岸にはあたかもグラデーション効果をもたせたかのような色合いの紅葉が次々と現れ、まさに秋薫る美しい世界が描き出されています。その光景が以下の写真です。どうぞご覧ください。

つつじ茶屋から吹上峰の背後に回りこみ滝見の茶屋へ至り、その後大泉水の美しい水面に浮かぶ中の島が見える出汐の湊へと戻ってきます。

つつじ茶屋と紅葉

滝見の茶屋

大泉水

大泉水

本格的な冬の訪れの前の残り少ない秋の風情を都会のど真中で味わう贅沢なひとときでした。

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お江戸名園シリーズ~小石川後楽園(旧水戸徳川家大名庭園)光國が愛した天下の名園~【小石川】

2010年12月09日 23時13分07秒 | お江戸名園シリーズ
徳川御三家の一つである水戸徳川家のお江戸上屋敷であった小石川後楽園は東京の中で最も保存状態のいい大名屋敷です。後楽園の東京ドームに隣接しているにもかかわらず、都心の喧噪から隔絶したように静かな佇まいをみせています。

春日通りにそってつづく屋敷塀の向こう側に、静かな佇まいを感じさせる鬱蒼とした木々の重なりが眼に飛び込んできます。塀を廻りこむようにしてかなりの距離を歩き、やっと正門に辿りつきます。

小石川後楽園正門

秋深まる今日、木々の葉の色づきが12月初旬までは十分楽しめる小石川の大名庭園は最後のあでやかさで見るものを愉しませてくれました。水戸徳川家の上屋敷であった小石川後楽園の歴史的な事象については、すでにご承知のことと思いますので、あえて詳しい説明は割愛させていただき、その代わりに艶やかな秋の装いを纏った庭園の様子を画像でたっぷりと愉しんでいただきたいと思います。

艶やかな紅葉と白壁

四季折々に趣ある姿を愉しませてくれるのが日本の庭園の特徴ではないでしょうか。山紫水明の世界を回遊式庭園の中に繊細な心づかいで描きあげる日本庭園の手法は、季節が移ろうごとに日本人の心に宿る精神世界を具現化しているように思えるほど計算し尽くされたものだと考えます。

例外なくここ水戸徳川家の庭園も計算し尽くされた美しさが感じられます。庭園の中心に置かれた大泉水を囲むように、精神世界が処々に配置され、四季折々に訪れるものを飽きさせない美の世界を造り出しています。
それでは秋色薫る美の世界へご案内いたしましょう。

秋から冬へと季節が移ろう頃、園内には可憐な「冬桜」の花が柔らかい秋の陽射しの中で花弁を開いていました。

冬桜

まずは渡月橋をわたり朱色が鮮やかに映える通天橋へと歩を進めていきましょう。常緑樹の木々の間に色鮮やかな朱を流し込んだように紅葉の赤が映えています。

通天橋と紅葉

通天橋の擬宝珠の向こうに紅葉の色づきが秋の趣を添えています。

通天橋と擬宝珠紅葉

通天橋をわたるとうっそうとした木々に覆われるように「得仁堂」が静かな佇まいを見せています。この得仁堂には光國18歳の時、史記「伯夷列伝」を読み感銘を受け、伯夷(はくい)叔斉(しゅくせい)の木造を安置しています。

得仁堂

得仁堂から木々の間を縫うように進んでいくと目の前に中国風の橋が現れます。水面に映る姿が満月のように見えることから「円月橋」と呼ばれています。明の儒学者「朱舜水」の設計と言われています。

円月橋

円月橋を後に園内を一望できる高台「八卦堂跡」を辿り、緩やかな坂をおりて梅林へと向かいましょう。梅林を抜けて神田上水跡の流れを越えると、前方に九八屋の休憩所が現れます。

八卦堂跡から見る紅葉
神田上水跡
神田上水から見る紅葉
黄葉と九八屋
九八屋

九八屋の前方には鏡面のような大泉水の水面がひろがり、その水面に周囲の木々が姿を映しています。大泉水の池端を飾る美しい秋の彩りの画像をお楽しみください。

 

 

 



大泉水の美しい水面にしばし別れて、園の一番奥に位置する「内庭」へと向かいましょう。内庭には中之島を配した池が静かな水面を湛え、静かな空気に包まれています。東京ドームを借景にしたような光景が広がっています。

内庭と東京ドーム

内庭の処々に秋の装いを感じさせる紅葉がまるで赤色の水彩を流したように目に飛び込んできます。



内庭から深山幽谷を思わせる木曽川沿いの遊歩道を進み、再び大泉水が見える紅葉林へと戻ってきます。ここからは大泉水に浮かぶ蓬莱島が俯瞰できます。



ほぼ園内を一周し、「一つ松」へと戻ります。園内の紅葉は今週末くらいまでは十分に楽しめるはずです。是非、訪れてみてはいかがでしょうか。

雪吊りが施された一つ松

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お江戸名園シリーズ~清澄庭園・紀伊国屋文左衛門も、岩崎弥太郎も愛でた深川の名園~【深川清澄白河】

2010年12月08日 17時34分02秒 | お江戸名園シリーズ
地下鉄清澄白河駅前を走る清澄通りに沿ってこんもりと繁った木々に覆われた一角が現れます。路地を抜けて進んでいくと立派な門が向かえてくれます。お江戸深川の清澄庭園です。

清澄庭園入口

江東区内で最も人気のある観光スポットの一つ「清澄庭園」は春夏秋冬、季節を問わず常に観光客が訪れています。近隣には深川江戸資料館をはじめ、芭蕉所縁の地や名刹、古刹が点在しています。

清澄庭園の門を入ると、広々とした庭園の様子が垣間見ることができます。入園料は一般成人が150円、65歳以上は70円と非常に手ごろな料金です。

早朝の雨で秋空がさらに澄み渡った今日、師走の冷たい風が園内の木々の葉を揺らし、去りゆく秋を偲ぶように黄金色の銀杏の葉が真っ青な空に彩りを添えていました。

園内の銀杏の木

隅田川の流れが間近に迫るここ清澄庭園はお江戸の時代には今の倍の広さを誇り、隅田川の水を引き入れるにはたやすい場所だったのです。そしてお江戸の材木集積所であった木場に隣接していたこともあって、あの紀伊国屋文左衛門が最初にこの場所に別邸を置いたのでした。文左衛門が身代をつぶした後、享保の時代に下総国関宿の城主・久世大和守の下屋敷となり庭園が形づくられました。幕末には久世家も所領を離れた為、この下屋敷は荒れるがままの状態になってしまったとのこと。



明治の御世となって、明治11年に荒廃したこの屋敷跡をあの岩崎弥太郎が三菱社員の慰安や貴賓所にするため、庭園の造成を計画しましたが施工半ばで逝去してしまいます。その後、弟の弥之助が明治24年に「深川親睦園」として竣工後も造園工事は進められ、隅田川の水を引いた大泉水を造り、周囲には全国から取り寄せた名石を配した「回遊式林泉庭園」が完成しました。

大泉水と涼亭

三菱、すなわち岩崎弥太郎が明治の御世にある種、国策会社として国家と結びついた商売でしこたま稼ぎだした金は莫大なものだったと想像します。その財力を背景に弥太郎はさまざま投資を行い、金が金を産むようなシステムをつくり上げていったのです。これはこれで素晴らしいことだと思います。そして当時、社員の福利厚生という極めて先進的な考えの下に、三菱の名の下にこの庭園を整備した弥太郎の経営感覚は「さすが!」と言わざるを得ません。

今、この庭園を見てお江戸(東京)に残る大名庭園と比べても、その規模と様式において勝るとも劣らない内容を誇っているのではないかと思います。浜離宮ほどの広さはありませんが、小石川後楽園とどっこい位の規模ではないでしょうか?園内のどこからでも見える大きな大泉水は浜離宮の汐入の池を彷彿とさせます。

広々とした大泉水と水面に浮かぶ渡り鳥

大泉水の周囲には多種多様な木々が繁り、その木々の根元や遊歩道の傍らには全国から取り寄せた無数の名石が配置され、まるで石庭ではないのかと思うくらいです。

遊歩道傍らの名石

大泉水には小さな島が配され、まるで大海に浮かぶ島のようにすら見えます。そして泉水の岸辺にまるで一幅の絵を見るるような佇まいで数奇屋造りの茶屋が優雅に浮かび上がります。「涼亭」と呼ばれる建物で明治42年(1909)に国賓として来日した英国のキッチナー元帥を迎えるために建てたものです。さすが大財閥三菱ですね!若干の国からの助成もあったのかもしれませんが、岩崎家の庭園に国賓をむかえることができるわけですから。

涼亭

園内の一番南、すなわち大泉水の一番奥に朽ちかけた門があり、その門を入るとパッと開けたような広場が現れます。今はなにも建造物がない広場なのですが、おそらくかつては瀟洒な洋館が建っていたのではないかといった雰囲気を残しています。その広場の端に大きな一枚岩の芭蕉の句碑が置かれています。碑面にはあの有名な俳句「古池や かはづ飛び込む 水の音」が刻まれています。もともとは隅田川の岸辺にあったものを、護岸工事の際に、清澄庭園内に移したものです。

芭蕉句碑

大泉水を囲む遊歩道の傍らに石仏群と書かれた表示板がたっています。遊歩道から少し入り込んだ場所に、石仏が葉影の下にひっそりと佇んでいます。庚申塔、法印慶光供養塔、馬頭観音供養塔などが寄り添うように置かれています。

苔むした遊歩道
石仏群

秋風に泉水の水面はわずかながら揺らいでいます。その水面に大陸から飛来したと思われる渡り鳥が戯れています。泉水に置かれた飛び石に一羽の白鷺が優雅な姿を見せてくれました。秋の陽射しにその白さが際立っていました。



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