板倉重昌殿が眠る「宝泉寺」の隣に山門を構えるのが中野の名刹「萬昌院功運寺」です。通りから少し奥まった位置に見事な山門が構え、名刹らしい威厳と風格を醸し出しています。
境内に幼稚園が併設されているためか、境内への参拝や見学に際しては安全上の措置として山門脇で記帳を要求されます。その山門に至る途中に当寺に眠る歴史人物の名前が立札に列記されています。名だたる人物ばかりで当寺の権威を感じさせてくれます。
吉良上野介義央
水野重郎左衛門(旗本奴・白柄組盟主)
今川(一月)長得(義元ノ子)
長沼国郷綱郷(直心影流開祖)
歌川豊国(浮世絵師、初代、二代、三代)
栗崎道有(南蛮外科医)=吉良上野介の首と胴体を縫合した医者
林芙美子(女流作家)
萬昌院功運寺山門
さてここ功運寺は曹洞宗の寺で、開基は天正2年(1574)に遡ります。寺名は萬昌院功運寺となっていますが、昭和23年までは久寶山萬昌院と竜谷功運寺という、べつべつの寺名を持つ寺でした。久寶山萬昌院は戦国大名の今川家を開基とし、もともとはお江戸府内の半蔵門の近くに山門を構えていたのですが、その後、幾度かの移転を経て大正3年(1914)、牛込より中野に移ってきました。
一方、竜谷功運寺は慶長三年(1598)に、永井尚政が父尚勝・祖父重元のため、黙室芳�泙禅師をまねいて桜田門外に開いた寺です。尚勝・尚政の親子は、徳川家康につかえて活躍した大名です。功運寺がいくどか移転をし、三田からいまの場所に移ったのは、大正11年(1922)のことです。
山門をくぐると左手に鐘楼堂、そして山門から直線上にどっしりとしたご本堂が構えています。ご本堂はそれほど古さを感じませんが、禅宗のお寺らしい裳階を持っています。
ご本堂
ご本堂と客殿の間の道を進んで行くと、ちょうどご本殿の裏手に広い墓地が現れます。墓地への入口に丁寧な案内板が掲げられ、上記の歴史人物の墓の位置を図で示してくれています。当然のことながらこれらの人物たちの墓が一か所にまとまっているわけではないので、結果的に墓地全体を歩き回ることになります。
とはいえこれだけの人物と巡り合える機会はめったにありません。炎天下の暑さをおしてゆっくりと巡ることにしました。
まずは赤穂浪士討ち入りで名高いあの吉良上野介義央(吉良家17代)と祖父義弥(15代)、曾祖父義定(14代)、父義冬(16代)が眠る墓地へと向かいました。案内図に従って進んで行くと、墓への通路入口に標が建てられており、迷わずに行き着くことができます。
吉良家墓地
何故、吉良家の墓が?と素朴な疑問が湧いてくるのですが、実は寛永2年(1625)吉良義定(14代)の夫人を萬昌院に葬ってから吉良家との関係が生まれました。その関係で上野介の墓も置かれたのです。墓地の中では比較的広いスペースを確保された吉良家の墓域で、他の墓を圧倒するような大きな宝篋印塔が4基置かれています。義央の墓石面には「元禄十五年壬午十二月十五日」と刻まれているのを見ると、「時は元禄15年、師走の15日」の名句が頭によぎってきます。また墓域には「吉良家忠臣供養塔」と「吉良邸討死忠臣墓誌」が建てられています。右端が上野介の墓です。
吉良家墓地
吉良家墓地
ちなみに首をあげられた上野介の遺体は泉岳寺より変換された首を胴体とつなぎ合わせ、ねんごろに埋葬されたといいます。その首と胴体をつなぎ合わせたのが、当時の蘭学医である栗崎道有という医者でした。この栗崎道有の墓も当寺の墓地に置かれています。
ふと思うのは毎年師走の15日は泉岳寺及び本所吉良邸跡では「義士祭」が行われているのですが、ここでは何か催しが行われるのか調べてみたいものです。
さて日本の歴史上、数多い名家の中でも一二を争う家系である今川家代々の墓が当寺にあるのです。今川家の墓はお江戸には杉並区今川の宝珠山観泉寺(曹洞宗)と杉並区和田の萬昌山長延寺(曹洞宗)と点在しています。(近日中に観泉寺と長延寺に取材予定です。)ここ中野の萬昌山の開基が今川長得であったことから菩提寺になったものと思われます。
今川家墓地
長得は戦国大名今川義元の三男で、長得の兄今川氏真もはじめは萬昌院に葬られました。また、吉良家は今川家と先祖を同じくする一族で、江戸時代初期には吉良と今川は極めて近い姻戚関係にあったようです。お江戸の中野で戦国大名の流れをくむ今川家の墓を拝見できたことに感慨ひとしおの気分です。長得の墓は墓域の一番奥の五輪塔です。
今川家墓地
そしてこんな人の墓も!日本の侠客の元祖ともいえるあの幡随院長兵衛(ばんずいんちょうべい)を殺害した、旗本奴・水野重郎左衛門こと水野 成之(みずの なりゆき)が眠っています。まあ、お江戸の町の不良旗本の代表格である水野重郎左衛門は公道を闊歩し、連日暴行の限りを尽くしていた人物です。
水野重郎左衛門之墓
こんな行状から町奴の代表格である幡随院長兵衛と対立し、その結果長兵衛を殺してしまうのです。時は明暦3年7月18日の頃のお噺です。この事件では水野重郎左衛門はお咎めなしだったのですが、同月の28日に評定所に召喚されたところ、月代を剃らず着流しの伊達姿で出頭し、あまりにも不敬なので即日に切腹となってしまいました。享年35です。35にもなってアホやな! それでも歴史上の人物として墓の前には「水野重郎左衛門之墓」ときちんと標があること自体、死んでも名を残すあっぱれな奴です。
このほか、浮世絵師であった歌川豊国(初代から三代)の墓や、『放浪記』『浮雲』などの名作を残した「林芙美子」の墓が点在しています。
歌川豊国初代から三代の墓
林芙美子の墓
お江戸の語り部として思うことは萬昌院功運寺の墓詣でだけで、お江戸の歴史散策を演出できそうです。でもお墓の中で2時間の歴史散策はドン引きかも!
家康公の近習「板倉重昌」が眠る中野の名刹・宝泉寺
中野・願正寺には日米修好通商条約批准交換使節の正使「新見豊前守正興」が眠っていました
仏が守る早稲田通りはお寺の散歩道~新井白石が眠る高徳寺~
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境内に幼稚園が併設されているためか、境内への参拝や見学に際しては安全上の措置として山門脇で記帳を要求されます。その山門に至る途中に当寺に眠る歴史人物の名前が立札に列記されています。名だたる人物ばかりで当寺の権威を感じさせてくれます。
吉良上野介義央
水野重郎左衛門(旗本奴・白柄組盟主)
今川(一月)長得(義元ノ子)
長沼国郷綱郷(直心影流開祖)
歌川豊国(浮世絵師、初代、二代、三代)
栗崎道有(南蛮外科医)=吉良上野介の首と胴体を縫合した医者
林芙美子(女流作家)
萬昌院功運寺山門
さてここ功運寺は曹洞宗の寺で、開基は天正2年(1574)に遡ります。寺名は萬昌院功運寺となっていますが、昭和23年までは久寶山萬昌院と竜谷功運寺という、べつべつの寺名を持つ寺でした。久寶山萬昌院は戦国大名の今川家を開基とし、もともとはお江戸府内の半蔵門の近くに山門を構えていたのですが、その後、幾度かの移転を経て大正3年(1914)、牛込より中野に移ってきました。
一方、竜谷功運寺は慶長三年(1598)に、永井尚政が父尚勝・祖父重元のため、黙室芳�泙禅師をまねいて桜田門外に開いた寺です。尚勝・尚政の親子は、徳川家康につかえて活躍した大名です。功運寺がいくどか移転をし、三田からいまの場所に移ったのは、大正11年(1922)のことです。
山門をくぐると左手に鐘楼堂、そして山門から直線上にどっしりとしたご本堂が構えています。ご本堂はそれほど古さを感じませんが、禅宗のお寺らしい裳階を持っています。
ご本堂
ご本堂と客殿の間の道を進んで行くと、ちょうどご本殿の裏手に広い墓地が現れます。墓地への入口に丁寧な案内板が掲げられ、上記の歴史人物の墓の位置を図で示してくれています。当然のことながらこれらの人物たちの墓が一か所にまとまっているわけではないので、結果的に墓地全体を歩き回ることになります。
とはいえこれだけの人物と巡り合える機会はめったにありません。炎天下の暑さをおしてゆっくりと巡ることにしました。
まずは赤穂浪士討ち入りで名高いあの吉良上野介義央(吉良家17代)と祖父義弥(15代)、曾祖父義定(14代)、父義冬(16代)が眠る墓地へと向かいました。案内図に従って進んで行くと、墓への通路入口に標が建てられており、迷わずに行き着くことができます。
吉良家墓地
何故、吉良家の墓が?と素朴な疑問が湧いてくるのですが、実は寛永2年(1625)吉良義定(14代)の夫人を萬昌院に葬ってから吉良家との関係が生まれました。その関係で上野介の墓も置かれたのです。墓地の中では比較的広いスペースを確保された吉良家の墓域で、他の墓を圧倒するような大きな宝篋印塔が4基置かれています。義央の墓石面には「元禄十五年壬午十二月十五日」と刻まれているのを見ると、「時は元禄15年、師走の15日」の名句が頭によぎってきます。また墓域には「吉良家忠臣供養塔」と「吉良邸討死忠臣墓誌」が建てられています。右端が上野介の墓です。
吉良家墓地
吉良家墓地
ちなみに首をあげられた上野介の遺体は泉岳寺より変換された首を胴体とつなぎ合わせ、ねんごろに埋葬されたといいます。その首と胴体をつなぎ合わせたのが、当時の蘭学医である栗崎道有という医者でした。この栗崎道有の墓も当寺の墓地に置かれています。
ふと思うのは毎年師走の15日は泉岳寺及び本所吉良邸跡では「義士祭」が行われているのですが、ここでは何か催しが行われるのか調べてみたいものです。
さて日本の歴史上、数多い名家の中でも一二を争う家系である今川家代々の墓が当寺にあるのです。今川家の墓はお江戸には杉並区今川の宝珠山観泉寺(曹洞宗)と杉並区和田の萬昌山長延寺(曹洞宗)と点在しています。(近日中に観泉寺と長延寺に取材予定です。)ここ中野の萬昌山の開基が今川長得であったことから菩提寺になったものと思われます。
今川家墓地
長得は戦国大名今川義元の三男で、長得の兄今川氏真もはじめは萬昌院に葬られました。また、吉良家は今川家と先祖を同じくする一族で、江戸時代初期には吉良と今川は極めて近い姻戚関係にあったようです。お江戸の中野で戦国大名の流れをくむ今川家の墓を拝見できたことに感慨ひとしおの気分です。長得の墓は墓域の一番奥の五輪塔です。
今川家墓地
そしてこんな人の墓も!日本の侠客の元祖ともいえるあの幡随院長兵衛(ばんずいんちょうべい)を殺害した、旗本奴・水野重郎左衛門こと水野 成之(みずの なりゆき)が眠っています。まあ、お江戸の町の不良旗本の代表格である水野重郎左衛門は公道を闊歩し、連日暴行の限りを尽くしていた人物です。
水野重郎左衛門之墓
こんな行状から町奴の代表格である幡随院長兵衛と対立し、その結果長兵衛を殺してしまうのです。時は明暦3年7月18日の頃のお噺です。この事件では水野重郎左衛門はお咎めなしだったのですが、同月の28日に評定所に召喚されたところ、月代を剃らず着流しの伊達姿で出頭し、あまりにも不敬なので即日に切腹となってしまいました。享年35です。35にもなってアホやな! それでも歴史上の人物として墓の前には「水野重郎左衛門之墓」ときちんと標があること自体、死んでも名を残すあっぱれな奴です。
このほか、浮世絵師であった歌川豊国(初代から三代)の墓や、『放浪記』『浮雲』などの名作を残した「林芙美子」の墓が点在しています。
歌川豊国初代から三代の墓
林芙美子の墓
お江戸の語り部として思うことは萬昌院功運寺の墓詣でだけで、お江戸の歴史散策を演出できそうです。でもお墓の中で2時間の歴史散策はドン引きかも!
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