大江戸散策徒然噺 Introducing Japanese culture and history

豊かな歴史に彩られた日本の文化と歴史を紹介

中野・上高田の萬昌院功運寺は多くの歴史人物が眠る寺

2012年07月18日 11時49分05秒 | 中野区・歴史散策
板倉重昌殿が眠る「宝泉寺」の隣に山門を構えるのが中野の名刹「萬昌院功運寺」です。通りから少し奥まった位置に見事な山門が構え、名刹らしい威厳と風格を醸し出しています。



境内に幼稚園が併設されているためか、境内への参拝や見学に際しては安全上の措置として山門脇で記帳を要求されます。その山門に至る途中に当寺に眠る歴史人物の名前が立札に列記されています。名だたる人物ばかりで当寺の権威を感じさせてくれます。



吉良上野介義央
水野重郎左衛門(旗本奴・白柄組盟主)
今川(一月)長得(義元ノ子)
長沼国郷綱郷(直心影流開祖)
歌川豊国(浮世絵師、初代、二代、三代)
栗崎道有(南蛮外科医)=吉良上野介の首と胴体を縫合した医者
林芙美子(女流作家)

萬昌院功運寺山門

さてここ功運寺は曹洞宗の寺で、開基は天正2年(1574)に遡ります。寺名は萬昌院功運寺となっていますが、昭和23年までは久寶山萬昌院と竜谷功運寺という、べつべつの寺名を持つ寺でした。久寶山萬昌院は戦国大名の今川家を開基とし、もともとはお江戸府内の半蔵門の近くに山門を構えていたのですが、その後、幾度かの移転を経て大正3年(1914)、牛込より中野に移ってきました。

一方、竜谷功運寺は慶長三年(1598)に、永井尚政が父尚勝・祖父重元のため、黙室芳�泙禅師をまねいて桜田門外に開いた寺です。尚勝・尚政の親子は、徳川家康につかえて活躍した大名です。功運寺がいくどか移転をし、三田からいまの場所に移ったのは、大正11年(1922)のことです。

山門をくぐると左手に鐘楼堂、そして山門から直線上にどっしりとしたご本堂が構えています。ご本堂はそれほど古さを感じませんが、禅宗のお寺らしい裳階を持っています。

ご本堂

ご本堂と客殿の間の道を進んで行くと、ちょうどご本殿の裏手に広い墓地が現れます。墓地への入口に丁寧な案内板が掲げられ、上記の歴史人物の墓の位置を図で示してくれています。当然のことながらこれらの人物たちの墓が一か所にまとまっているわけではないので、結果的に墓地全体を歩き回ることになります。

とはいえこれだけの人物と巡り合える機会はめったにありません。炎天下の暑さをおしてゆっくりと巡ることにしました。

まずは赤穂浪士討ち入りで名高いあの吉良上野介義央(吉良家17代)と祖父義弥(15代)、曾祖父義定(14代)、父義冬(16代)が眠る墓地へと向かいました。案内図に従って進んで行くと、墓への通路入口に標が建てられており、迷わずに行き着くことができます。

吉良家墓地

何故、吉良家の墓が?と素朴な疑問が湧いてくるのですが、実は寛永2年(1625)吉良義定(14代)の夫人を萬昌院に葬ってから吉良家との関係が生まれました。その関係で上野介の墓も置かれたのです。墓地の中では比較的広いスペースを確保された吉良家の墓域で、他の墓を圧倒するような大きな宝篋印塔が4基置かれています。義央の墓石面には「元禄十五年壬午十二月十五日」と刻まれているのを見ると、「時は元禄15年、師走の15日」の名句が頭によぎってきます。また墓域には「吉良家忠臣供養塔」と「吉良邸討死忠臣墓誌」が建てられています。右端が上野介の墓です。

吉良家墓地
吉良家墓地

ちなみに首をあげられた上野介の遺体は泉岳寺より変換された首を胴体とつなぎ合わせ、ねんごろに埋葬されたといいます。その首と胴体をつなぎ合わせたのが、当時の蘭学医である栗崎道有という医者でした。この栗崎道有の墓も当寺の墓地に置かれています。

ふと思うのは毎年師走の15日は泉岳寺及び本所吉良邸跡では「義士祭」が行われているのですが、ここでは何か催しが行われるのか調べてみたいものです。

さて日本の歴史上、数多い名家の中でも一二を争う家系である今川家代々の墓が当寺にあるのです。今川家の墓はお江戸には杉並区今川の宝珠山観泉寺(曹洞宗)と杉並区和田の萬昌山長延寺(曹洞宗)と点在しています。(近日中に観泉寺と長延寺に取材予定です。)ここ中野の萬昌山の開基が今川長得であったことから菩提寺になったものと思われます。

今川家墓地

長得は戦国大名今川義元の三男で、長得の兄今川氏真もはじめは萬昌院に葬られました。また、吉良家は今川家と先祖を同じくする一族で、江戸時代初期には吉良と今川は極めて近い姻戚関係にあったようです。お江戸の中野で戦国大名の流れをくむ今川家の墓を拝見できたことに感慨ひとしおの気分です。長得の墓は墓域の一番奥の五輪塔です。

今川家墓地

そしてこんな人の墓も!日本の侠客の元祖ともいえるあの幡随院長兵衛(ばんずいんちょうべい)を殺害した、旗本奴・水野重郎左衛門こと水野 成之(みずの なりゆき)が眠っています。まあ、お江戸の町の不良旗本の代表格である水野重郎左衛門は公道を闊歩し、連日暴行の限りを尽くしていた人物です。

水野重郎左衛門之墓

こんな行状から町奴の代表格である幡随院長兵衛と対立し、その結果長兵衛を殺してしまうのです。時は明暦3年7月18日の頃のお噺です。この事件では水野重郎左衛門はお咎めなしだったのですが、同月の28日に評定所に召喚されたところ、月代を剃らず着流しの伊達姿で出頭し、あまりにも不敬なので即日に切腹となってしまいました。享年35です。35にもなってアホやな! それでも歴史上の人物として墓の前には「水野重郎左衛門之墓」ときちんと標があること自体、死んでも名を残すあっぱれな奴です。

このほか、浮世絵師であった歌川豊国(初代から三代)の墓や、『放浪記』『浮雲』などの名作を残した「林芙美子」の墓が点在しています。

歌川豊国初代から三代の墓
林芙美子の墓

お江戸の語り部として思うことは萬昌院功運寺の墓詣でだけで、お江戸の歴史散策を演出できそうです。でもお墓の中で2時間の歴史散策はドン引きかも!

家康公の近習「板倉重昌」が眠る中野の名刹・宝泉寺
中野・願正寺には日米修好通商条約批准交換使節の正使「新見豊前守正興」が眠っていました
仏が守る早稲田通りはお寺の散歩道~新井白石が眠る高徳寺~





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家康公の近習「板倉重昌」が眠る中野の名刹・宝泉寺

2012年07月18日 00時03分06秒 | 中野区・歴史散策
なんでこんなにお寺が多いのだろう? と思うほど次から次へと歴史を感じる名刹・古刹が目の前に現れてくるのが中野区の上高田周辺である。高台にある願正寺からなだらかな坂を下ると、門前に阿吽の二像が安置されている仁王門を構える古刹・宝泉寺がふいに現れます。

宝泉寺山門
仁王門



仁王門の向こうに客殿とご本堂が並んでいます。

客殿とご本堂

仁王門に近づくとその傍らになにやら案内板が置かれています。「どれどれ」と読み進むと当寺にはなんと神君家康公の近習を務めた「板倉重昌」の墓があるという。そもそも板倉重昌とはいかなる人物か? というと、ほんの少し父親である板倉勝重について語らなければなりません。
※近習(きんじゅう):主君の側近にあって 奉仕する役のことをいうのですが、これに似たもので「小姓」があります。小姓は主君の身の回りの世話係、一方、近習は主君の身の警護係りと判断した方がいいでしょう。

父・勝重は戦国時代から江戸時代初期に活躍した人物で、実は幼いころから仏門に入り、武家とは無縁な立場にあったのですが、勝重36歳のとき、板倉家を継ぐものがいなくなり、家康公の命により還俗して跡を継ぎ再び武家の世界へ戻ったという変わり者なのです。41歳で駿府町奉行、45歳の時、家康公の江戸初入府(1590)とともに江戸町奉行と、とんとん拍子に出世街道を驀進しています。

その後、関ヶ原の戦いで家康公が天下をほぼ手中に収めると、勝重は京都所司代まで上り詰めます。そして1620年まで所司代を務めるのですが、その間に大阪の陣の原因ともなった方広寺鐘銘問題では金地院崇伝らと共に裏でことを進め、徳川方に有利になるよう策を弄しています。

そんな人物であった勝重の三男が今回のお題である「板倉重昌殿」なのです。重昌が家康公の近習となったのが家康公が征夷大将軍に宣下された年、すなわち1603年の頃です。そして大阪冬の陣では和議交渉の軍師として、大阪城に赴き秀頼公より誓紙を受け取っています。

1624年に父・勝重が亡くなると、父の遺領を分け与えられ、三河深溝1万9千石の領主、すなわち大名に列せられるのです。まあ、ここまでは順風満帆といった風で、それなりに出世街道を歩いてきたかのように思われるのですが、彼の人生を大きく変える事件が起こるのです。

それは1637年に起こった島原の乱です。三代将軍家光公の命で追討使に任ぜられ、一機盛んに出陣するも思うように戦果が上がりません。上がらぬどころか一揆勢の激しい抵抗で徳川軍は数百人の死者をだす大敗北を喫してしまいます。

そして焦りは状況をさらに悪化させていくのですが、その焦りは無計画な総攻撃をしかけたことで徳川軍は再び大敗北を喫してしまいます。そんな状況を見ていた重昌は自ら陣頭に立ち指揮をするのですが、敵方の銃弾を受け無念の戦死を遂げてしまいます。

重昌の墓は三河西尾の長円寺にもあるそうです。西尾の墓は見る限りでは非常に簡素なのですが、ここ宝泉寺のものは立派な五輪塔形式で、彼につき従うように夫人たちの墓が3基並んでいます。

重昌殿の五輪塔

中野の寺巡りでは思いがけない歴史人物にたびたび巡り会える機会を得たことに感動しています。次はいったい誰に会えるのか楽しみです。

中野・願正寺には日米修好通商条約批准交換使節の正使「新見豊前守正興」が眠っていました
仏が守る早稲田通りはお寺の散歩道~新井白石が眠る高徳寺~





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中野・願正寺には日米修好通商条約批准交換使節の正使「新見豊前守正興」が眠っていました

2012年07月17日 20時52分14秒 | 中野区・歴史散策
中野・上高田界隈の寺巡りをすすめるうちに、早稲田通りからはそれた道筋にふいに現れたのが願正寺です。気が付かなければ通り過ぎてしまいそうな場所に願正寺の山門が構えています。

願正寺の山門

というのも狭い路地から石段がつづいているのですが、路傍の案内を見落としてしまうとここに願正寺があることは気が付きません。事前の下調べなく気ままに寺巡りをしているので、ここ願正寺がどのようないわれのあるお寺なのかは皆目わからないまま石段をのぼっていきます。

石段を上るにつれ、境内を覆う木々の緑が目に飛び込んできます。舗装道路の照り返しでかなりバテ気味な体には木々の緑の木陰で休息は何にもまして清涼感を与えてくれます。

願正寺境内

石段を上りきると山門そして境内の奥には木々の緑に覆われるようにご本堂が佇み、夏の日差しが木漏れ日となって境内に射し込んでいます。その山門脇になにやら案内板が置かれています。

読み進むうちになんとも幕末好きの私にとって、マイナーではないにしろ日米修好通商条約締結の時の外国奉行であった「新見正興」が当寺に眠っていることを初めて知ったのです。

日米修好通商条約締結は安政5年6月19日(1858年7月29日)のことです。そして新見正興が外国奉行に就任するのはの安政6年(1860)7月でその翌月には神奈川奉行を兼任しています。翌安政7年3月3日には井伊直助が桜田門外で暗殺され、この年3月18日に安政は万延と元号を変えます。

新見が晴れの条約批准交換使節として日本を出発したのは桜田門外の変が起こる2か月弱まえの安政7年1月22日のことです。一行の正使が新見、副使が「村垣範正(淡路守)」、監察は「小栗忠順(豊後守)」で、横浜よりアメリカ軍艦ポーハタン号に乗り込みハワイを経由し太平洋を横断、サンフランシスコに到着します。大陸横断鉄道はまだ完成していなかったため、ポーハタン号でパナマへ向かい、完成間もないパナマ地峡鉄道で横断した後、ロアノーク号(USS Roanoke)に乗り換えてワシントンD.C.に万延元年閏3月25日(1860年5月15日)に到着するというものでした。

ワシントンD.C.でブキャナン大統領と謁見し、4月3日(1860年5月23日)国務長官のキャスと批准書交換をします。「サムライ」一行はフィラデルフィアやニューヨークで熱烈な歓迎を受け、5月12日(1860年6月30日)にアメリカ軍艦ナイアガラ号に乗船し、大西洋からインド洋に入り、9月27日(1860年11月9日)に日本に帰国しました。その功績により300石加増され10月に外国奉行専任となります。

帰国後、文久2年(1862年)6月側衆となり、伊勢守に叙されますが、元治元年(1864年)9月に免職となります。慶応2年(1866年)12月に隠居し閑水と号し、明治元年(1868年)上総国人見村(現君津市人見)へ帰農しました。しかし翌年4月病気療養のため再び上京し10月に病没します。享年48。戒名は正興院殿釈閑水遊翁大居士。

記念樹
石碑

そんな新見と浅からぬ関係のある願正寺の境内には「日米修好記念樹」が2本と「日米修好100周年」を記念した大きな石碑が置かれています。昭和35年5月24日にここ願正寺で当時の駐日大使ダグラス・マッカサーを招いて100周年記念式典を行い、その記念として日本の山桜と米国の国の木であるハナミヅキを石碑に添えて植樹したものです。

左:正興墓
左:正興墓

そして新見正興の墓は墓地の奥の方に新見家之墓と並んで別に建てられています。ともすれば日米修好通商条約批准交換使節の業績は幕末期の中では華々しく扱われていないように思われます。その時代背景として万延から文久にかけては幕府の権威はほとんど失墜し、攘夷の嵐がますます激しく吹き荒れる時代へと変わっていきます。そんな攘夷の嵐の中で条約批准のため米国へ出かけて行ったこと自体、攘夷派から命を狙われてもいたしかたない状況だったのではないでしょうか。このため幕府は意図的に条約批准交換使節を目立たない存在にしてしまったのではないでしょうか。

あれから150年余りの時が流れ、日米は一時的に不幸な時代を迎えたにしても、堅固な同盟関係を構築しつつ、政治、経済、文化を共有していることは、あの幕末に締結した和親条約そして修好通商条約の礎があったからではないでしょうか。

住所:東京都中野区上高田4-10-1
地下鉄東西線「落合駅」より徒歩10分
JR・地下鉄「東中野駅」より徒歩15分

家康公の近習「板倉重昌」が眠る中野の名刹・宝泉寺
仏が守る早稲田通りはお寺の散歩道~新井白石が眠る高徳寺~





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仏が守る早稲田通りはお寺の散歩道~新井白石が眠る高徳寺~

2012年07月17日 17時58分02秒 | 中野区・歴史散策
ふと地図を眺めているうちに、中野区の上高田という地名の場所にお寺がまるでネックレスのように繋がっている通りを見つけました。その通りの名は「早稲田通り」となっています。この早稲田通りに面し中野方面に向い右側にお寺が綺麗に並んでいます。

これは一度伺ってみようということで、梅雨明けを思わせる炎天下にもかかわらず愛用のカメラを携え一路、中野の上高田へと向かいました。
上高田は東京メトロの東西線の「落合駅」が至近であるため、我が家からは乗り換えなしで一直線で行くことができるのです。

あまり下車することのない地下鉄「落合駅」から地上にでると、おそらく34度近くになっているであろう熱風が体全体に襲いかかってくる。息苦しささえ感じる今日の気温に、まずは水分の調達。

あまりの暑さに一瞬、お寺巡りをあきらめて帰宅しようかと思う反面、せっかく来たのだから一つ、二つのお寺を詣でてからでも遅くないと自分に言い聞かせ、寺巡りを開始しました。

まずはこんなところに、こんなメジャーな歴史の人物が眠っているという高徳寺へ伺うことにしました。ここ高徳寺にはなんと江戸時代の有名な儒学者である「新井白石(1657~1725)」が眠っているというではありませんか。

高徳寺ご本堂

高徳寺は親鸞聖人を宗祖とする真宗大谷派の寺院で中野に移転してくる前は浅草に堂宇を構えていたようです。明治41年に区画整理のために現在地に移転してきました。よって新井白石が亡くなった時代であるお江戸の享保時代は高徳寺は浅草にあったのです。白石先生と当寺の関係は先生が若いころ、二度に渡って当寺に寄宿され、ここで勉学に励まれたようです。そんな繋がりがあって、没後高徳寺に埋葬されてわけです。

早稲田通りに面して三門を構え、それほど広くない境内の奥に真新しいご本堂と隣接するように新井白石記念ホールが建っています。

ご本堂の左わきの細いスロープを下りていくと墓地へとつながっています。結構広い墓地を眺めながら、古めかしい墓石を目で追いながら、新井白石の墓石を探すのですが、おいそれとは見つからないのです。照り付ける日射を遮るものがない墓地の見学は結構しんどいものがあります。

意を決して、広い墓地の通路を一回りしてみましたがそれでも見つかりません。もう一度、今度は逆回りに進んでいくとなにやら立札らしきものが目に入ってきました。きっとそうだろう、と足を進めていくと立札には「新井白石墓」と墨で書かれています。

新井白石の墓立札

古めかしい墓石が整然と並び、その一番奥に玉垣に囲まれた墓域があるのですが、予想に反して立派な墓石が目視できないのです。先入観としてこれほどまでの歴史の人物であれば、それなりの墓石で造られているはず、とおもいきや、なんとも可愛らしい墓石が玉垣の中に置かれているではありませんか。見方によってはこの石は台座ではなかろうかとおもわれるほど、白石先生の墓とは思えないほど貧弱なものでした。

新井白石夫妻の墓

尚、玉垣の中には墓石が二つ置かれているのですが、おそらく白石夫妻のものではないでしょうか。そして白石先生の墓へと通じる道の両脇には一門の墓が並んでいます。

新井白石一門の墓

しかし、当寺は明治にここ中野に移ってきているので、白石先生の墓はおそらく「お骨」は入っていないのではないでしょうか?

住所:東京都中野区上高田1-2-9
東京メトロ東西線の落合駅から徒歩5分

家康公の近習「板倉重昌」が眠る中野の名刹・宝泉寺
中野・願正寺には日米修好通商条約批准交換使節の正使「新見豊前守正興」が眠っていました





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