大江戸散策徒然噺 Introducing Japanese culture and history

豊かな歴史に彩られた日本の文化と歴史を紹介

奈良・御笠山の大社、春日大社 Kasuga Grand Shrine in Nara

2017年11月27日 13時06分05秒 | 行く秋の奈良探訪
Built as the family shrine of the Fujiwara Family, Kasuga Shrine has become famous for its graceful wisteria blossomes which almost sweep the ground at the south
side of Utsushidono Hall.
The rows fo approximately 2,000 stone lanterns along the pathways, and the over 1,000 hanging lanterns of the Main Hall and cloister create a breathtaking spectacle of lights.

奈良斑鳩里・法隆寺から奈良市内へ戻ってきました。というのもこれまで一度も訪れていなかった春日大社へ詣でることを目的としました。私の記憶によると中学時代の修学旅行でも春日大社は含まれていなかったのです。そんなことで何はともあれ、JR奈良駅から市内行のバスに乗り、春日大社表参道まで移動することにしました。

春日大社は御笠山の中腹に社殿を構える神社ですが、山麓から社殿まではかなりの距離があります。私たちが乗ったバスの春日大社表参道停留所は山の麓にありました。ここから1キロほどの距離を歩いて、御本殿まで行かなければなりません。
参道を進んで行くと、あちらこちらに鹿が群れて、観光客の鹿せんべいを狙っています。市内に戻ってくると、さすがに観光客の数は増えて、春日大社の参道には日本人より外国人の方が多く、さまざまな言語が飛び交っています。

そんな様子を見ながら、なだらかな坂道を上っていくと、二の鳥居にさしかかります。

二の鳥居

この二の鳥居の手前に「世界遺産 古都奈良の文化財・春日大社」の石碑が置かれています。

春日大社の石碑

ここまでくれば御本殿まではほんの僅かな距離です。鳥居をくぐり、なだらかなスロープを進んで行くと左手に朱色の南門が現れます。南門は春日大社正面の楼門で、大社境内で最大の門です。

南門

南門をくぐると右手に拝観受付があります。ここで拝観料(500円)を納め、いよいよ朱色と吊るし燈籠で有名な回廊へと進みます。
回廊へ進む途中に中門・御廊(ちゅうもん・おろう)が現れます。中門は御本殿への楼門です。御廊は中門を中心にして左右にのびる建造物です。見事な造りなので御本殿と間違ってしまいます。

中門
中門

私たちは東回廊へと進んで行きます。春日大社といえば、回廊と吊るし燈籠と言われるほど有名になっています。その回廊は見事なまでの鮮やかな朱色で塗られ、あまりの派手さに感動以前に若干の違和感すら感じます。

東回廊
東回廊
東回廊
東回廊
東回廊
東回廊

尚、御本殿(内陣)の参拝は現在行われていません。御本殿(四所神殿)は奈良時代の西暦768年に平城京鎮護を目的として創建されたと伝えられています。

◆御本殿に祀られている御祭神
第一殿:武甕槌命(たけみかづちのみこと)
第二殿:経津主命(ふつぬしのみこと)
第三殿:天児屋根命(あめのこやねのみこと)
第四殿:比売神(ひめがみ)

回廊を巡りつつ境内を見ると、紅葉は今まさに真っ盛りで、回廊の朱色と相まって紅葉の色合いがさらに映えています。

境内のモミジ
境内のモミジ
境内の風景

それなりなのか、見事というべきか、歴史的建造物として見る春日大社は一見の価値はあります。そして晩秋を彩る紅葉との競演はこの時期ならではの絶景でした。

春日大社から近鉄奈良駅への帰路、猿沢の池の畔に出てみました。池越しに見る興福寺の塔がまるで絵葉書のような趣を醸し出していました。

猿沢池
猿沢池





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晩秋の斑鳩里・法隆寺伽藍 Horyuji Temple at Ikaruga in the late fall

2017年11月27日 08時46分52秒 | 行く秋の奈良探訪
The five-story pagoda, Kindo, and Chumon of Horyuji Temple, the world's oldest 7th century wooden structure, draws a beautiful line with a gentle roof slope
and reflects in the landscape of Ikaruga-no-sato.

毎年恒例の夫婦での京都・奈良の旅は今回で4回目(2017/11/23~11/25)となります。これまでの旅で奈良は昨年につづいて2度目の訪問です。今回は奈良市内から少し離れた斑鳩里へ足を運びました。

斑鳩里といえば、まず頭に浮かぶのが我が国最初の世界遺産に認定された法隆寺の伽藍です。法隆寺訪問はかつて中学校時代の修学旅行の時に遡るので、実に50年ぶりの再訪です。再訪といっても、当時の記憶はまったくなく、半世紀ぶりとはいえほぼ初めて訪問するような期待感を胸に膨らませながら法隆寺へ向かいました。

京都駅からJR奈良線に乗り、約1時間で奈良駅に到着します。奈良駅でJR大和路快速に乗り換えると3駅目が法隆寺駅です。
法隆寺駅からは奈良交通のバス(72系統)で10分ほどで法隆寺門前に到着します。

雲一つない快晴の空の下、晩秋らしい冷たい空気を肌に感じながら、法隆寺門前の停留所から南大門へとつづく参道を進んでいきます。参道の両側には土産屋や飲食店が並んでいます。はやる気持ちを抑えつつ参道を進んでいくと、法隆寺の玄関にあたる国宝の南大門が現れます。

南大門

南大門をくぐると、法隆寺西院伽藍へとつづく参道がまっすぐに延びています。参道の両側には趣ある土塀がつづいています。

西院伽藍へとつづく参道

本来であればこの参道の一番奥に美しい姿の中門が目視できるのですが、残念ながら中門は修復中ということで建屋に覆われています。中門の脇に「日本最初の世界文化遺産・法隆寺」と刻まれた石碑が置かれています。

日本最初の世界文化遺産・法隆寺の石碑

さあ!法隆寺伽藍の中でも最も見応えのある西院伽藍の金堂と五重塔へ向かう前に、左隣にある国宝の三経院・西室へ行ってみました。

三経院・西室

それでは金堂、五重塔、大講堂、回廊、鐘楼などの建造物が並ぶ西院伽藍へと進んで行きましょう。入口で拝観料(1500円)を納めます。拝観券は西院伽藍、宝物館(大宝蔵院)、東院伽藍(夢殿)に共通しています。

拝観券

法隆寺境内図

拝観受付を抜けると、西院伽藍を囲む長い回廊(国宝)が現れます。等間隔に置かれた柱と壁面の格子が見事なコントラストを見せています。

回廊

そして金堂五重塔が伽藍の中核として圧倒的な存在感を示しています。金堂(国宝)は西院伽藍の中で最古の建造物で、建立時期は飛鳥時代に遡ります。そして五重塔(国宝)も飛鳥時代の創建で日本最古の塔です。そして金堂と五重塔の配置は計算された空間美を演出しています。晩秋のこの時期、観光旅行や修学旅行の団体がいないので、静かな空気が流れる中で法隆寺伽藍を堪能することができました。

法隆寺金堂と五重塔
五重塔
金堂と五重塔
金堂と五重塔
金堂と五重塔

金堂内部にはここ法隆寺の御本尊である金剛釈迦三尊像(飛鳥時代)、金剛薬師如来座像(飛鳥時代)をはじめ、四天王像などが薄暗い堂内に鎮座しています。

回廊を右回りに進んで行くと、角に経蔵(国宝)が置かれています。経蔵はもともと経典を納めることを目的とした建物です。

経蔵

そして伽藍の一番奥にあるのが大講堂(国宝)です。大講堂は仏教の学問を学んだり、法要を行うために建立されたものです。堂内には薬師三尊像、四天王像が安置されています。

大講堂
大講堂
大講堂と鐘楼

後ろ髪を引かれる思いで回廊から退出し、夢殿が置かれている東院伽藍へと向かうことにします。夢殿に行く途中、法隆寺の寺宝を保管する大宝蔵院に立ち寄ります。

西院伽藍には東室(国宝)、妻室(国宝)と呼ばれる南北に長い建物があります。この建物は飛鳥時代創建の僧坊で、法隆寺に住む僧たちが生活をしていました。

聖霊院
妻室

大宝蔵院へつづく細い道筋の右手には高床式の建物があります。この建物は綱封蔵(国宝)と呼ばれているもので、寺宝を保管するための蔵です。

綱封蔵

大宝蔵院は平成10年に完成した新しい建物で、法隆寺の寺宝を代表する百済観音像玉虫厨子をはじめ、数多くの文化財が展示されている博物館です。

大宝蔵院前
大宝蔵院前

玉虫厨子も見応えがあるのですが、百済観音像の優美なお姿とその表情は見るものを魅了します。飛鳥時代にこれほどまでに美しい観音像を造った当時の仏師の力量に感心するばかりです。撮影禁止のため、パンフレットから引用しました。

百済観音像(パンフレットから引用)

時が経つのも忘れて、大宝蔵院の寺宝を鑑賞した後、いよいよ夢殿がある東院伽藍へと進んで行きます。西院伽藍から東院伽藍へは東大門(国宝)を抜けて進んで行きます。参道の両側は古い土壁がつづき、古の香りが漂っています。
法隆寺の境内の特徴として木々に覆われていないため、参道を歩くと空が広く見えます。もちろん電信柱も電線もないので、すっきりとしています。雲一つない青空の下、参詣客がまばらな参道をゆっくりと進んでいきます。

夢殿につづく参道

そして西院と東院の間に置かれているのが国宝の東大門(中ノ門)です。東大門の先に夢殿の甍を望むことができます。

夢殿につづく参道

東大門

東大門を抜けると、いよいよ夢殿山門に到着です。

夢殿山門

夢殿が置かれている場所は聖徳太子の斑鳩の宮の跡で、朝廷の信任厚かった高僧行信(ぎょうしん)が宮跡の荒廃ぶりを嘆いて太子供養の伽藍の建立を発願し、天平20年(748)に聖霊会(しょうりょうえ)を始行したとされる太子信仰の聖地です。

夢殿

この八角円堂の建物が東院のご本堂で、天平時代創建の建造物です。甍の上には宝珠が秋の陽に映えています。このような様式の円堂は日本各地にありますが、ここ法隆寺の夢殿の美しい姿は格別です。

夢殿
夢殿の回廊
夢殿
夢殿の回廊
夢殿

50年ぶりの法隆寺訪問の機会を得て、約2時間を要して西院そして東院の両伽藍をくまなく巡りました。我が国の至宝の建造物である法隆寺伽藍は日本の宝であると同時に世界の宝でもあります。若いときに訪れたときには、それほど興味をもたずに伽藍を眺めていたのでしょう。あれから50年たって、今再びの奈良・法隆寺は圧倒的な迫力と存在感で私たちを迎えてくれました。





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町全体が伝統的建造物保存地区・奈良橿原の今井町 Imaicho~The whole town is like an open air museum of historical buildings

2016年11月02日 08時50分22秒 | 行く秋の奈良探訪
2016年10月27日
飛鳥路の旅を終え、そのまま京都へ戻る予定だったのですが、橿原神宮前駅から二つ目の近鉄八木西口駅(又は近鉄大和八木駅)至近に古い町並みが残るエリアが二つあることに気が付きました。
一つが重要伝統的建造物保存地区に指定されている「今井町」ともう一つが「八木町」なのですが、飛鳥路を巡って疲れている体で2つのエリアを歩くのは、キツイということで「今井町」だけを散策することにしました。

「今井町」の観光パンフレットを見ると、なんと今井町全域が重要伝統的建造物保存地区ではありませんか。町全体が野外博物館のような佇まいを見せる今井町は期待大ということで、胸をときめかせながら足を進めました。町の入口に流れる飛鳥川に架かる赤い欄干の蘇武橋を渡ると、古い町並みらしき風情が漂い始めます。

今井町パンフレット

奈良にこんな場所があることなど、初めて知ったのですが、今井町の形成の歴史を辿ると「なるほど」とうなずけるものがあります。

今井町の成立は戦国時代に遡ります。天文年間(1532~1555)にこの場所に一向宗本願寺坊主であった今井豊寿なる人物によって本願寺の今井道場が建設されたことに始まります。天文年間という時代は各地で一向一揆が起こった時代で、あの家康公も桶狭間の戦い後の三河平定の過程で一向宗徒との戦で苦労していました。もちろん尾張の信長公も一向一揆には手を焼き、各地で一向宗徒と壮絶な戦いを繰り広げています。
そして町全体を要塞化するために、濠をめぐらしました。
その後、本願寺と信長公との確執が深まり、反信長を旗印に壮絶な戦いへと発展していきます。そしてこの信長との戦いの中で、今井もこれに呼応し、戦禍に巻き込まれていきます。

しかし信長公の容赦ない攻撃に天正3年(1575)に今井は降伏したのですが、信長公は今井に対して温情を施したのです。信長公から今井に対して赦免の朱印状を下し、「万事大阪同前」として自治特権が許されたのです。前述の今井道場が今井御坊称念寺となるのは文禄年間(1592~1595)の頃です。

その後、今井は大商業地である大阪や境と交流を深め、それまでの要塞都市から商業都市へと変貌を遂げていきます。江戸時代に入ると、南大和最大の在郷町となり、今井札(銀札)を発行するまで発展しました。江戸時代に商業都市として発展した今井町の規模は東西600m、南北310m、町内の戸数1100軒、人口約4000を越える財力豊かな町でした。

さあ!それでは江戸時代の町並みへタイムスリップとまいりましょう。
古い町並みに足を踏み入れると、まず気が付くのが電信柱と電線がないこと。このため目障りとなるものがないので家並みがスッキリしています。



町全体に張り巡らされた道筋は正確な碁盤の目ではないのですが、ほとんどが直線で曲がりくねった道筋はありません。
このためかなり先まで見通せるようになっています。また、家並みの高さが統一されているので、スッキリしています。




ここ今井町は重要伝統的建造物保存地区に指定されてはいますが、すべての家は住居として使われているものです。といっても路地を歩いていても、住民らしき方と出会うことがありません。歩いてるのは観光客くらいですが、この日は平日ということもあり、観光客でごった返しているということもありません。

また、これほどの町並みを残す今井の保存地区には観光客相手の土産屋や飲食店はほとんどありません。私たちも美味しい甘味を期待していたのですが空振りでした。

町全体が歴史的建造物なのですが、一部〇〇家住宅と案内板が置かれた屋敷が現れます。といってもすべての住宅の中に入れるわけではありません。そのうちの一軒の家に入ることができたので、お邪魔しました。



地図を片手にいくつもの路地を折れ曲がりながら、今井の町を探索していきました。これまで東海道や中山道などの街道を歩いてきましたが、街道の宿場町でもこれほどまでの規模で古い町並みが残っているのは多くありません。宿場町の場合は宿場を貫く街道に沿って家並みが残っている場合がありますが、ここ今井町は東西600m、南北310mのエリア全体に古い町並みがそっくりそのまま残っているのは珍しいのではないでしょうか。






幾つもの路地を折れ曲がりながら、今井町の中心的存在の称念寺(国重文)山門前に到着しました。現在、当寺は修復工事中のため、ご本堂及び付属施設は見ることができません。

称念寺山門
称念寺
称念寺

称念寺を後に、趣ある家並みを眺めながら近鉄八木西口駅へ戻ることにします。

町の床屋さん








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奈良・飛鳥路探訪

2016年10月31日 16時23分55秒 | 行く秋の奈良探訪
2016年10月27日
毎年恒例の秋の京都・奈良の旅を夫婦で楽しみました。旅の始まりは奈良の飛鳥路探訪です。
個人的には奈良の飛鳥路は初体験で、想像するに古の香り漂う長閑な土地柄ではないかと思いをめぐらしていました。

京都駅について、近鉄橿原線の特急で橿原へ向かい、橿原で電車を乗り換え「飛鳥」へ。
田舎の駅といった可愛らしい駅舎が私たちを迎えてくれました。駅前には商店街らしきものはありません。

近鉄飛鳥駅

駅前のロータリーに隣接して「レンタサイクル」があります。自転車の保有台数もかなりあり、飛鳥路をサイクリングする人たちが多いことを物語っています。私たちが巡る飛鳥路はすべて平坦な道ではないとのことで、体のことを考えて電動アシスト自転車を借りることにしました。
私たちはここ飛鳥駅前で自転車を借り、サイクリングの終着地点である橿原神宮駅前で返却することにしました。

さあ!いよいよ出立です。晴れ上がった秋空の下、爽やかな風を受けながらサイクリングを楽しみます。

まず目指すのは高松塚古墳です。飛鳥駅から209号線を自転車で5分ほど走ると、道の左側に「国営飛鳥歴史公園館」の駐車場が現れます。この駐車場の中に入り、走ってきた道の下をくぐるトンネルをくぐり高松塚古墳へと進んで行きます。古墳までの道筋はすべて舗装されています。駐車場の端に自転車置き場があるのですが、自転車に乗ったまま高松塚古墳の真下まで進むことにします。

あとから気が付いたのですが、駐車場から徒歩で進むと、起伏のある道筋をかなり歩かなければならないので、自転車を利用することをお勧めします。自転車で高松塚古墳のちょうど下まで行くことができます。爽やかな秋の風を受けながら、綺麗に整備された歴史公園内を走っていきます。

高松塚古墳

ちょうどプリンのような形をした古墳で、見事なまでにきれいに整備されています。小高い丘に囲まれた場所に「ポツン」と置かれた古墳です。いまでこそ綺麗に整備されていますが、発掘当時は古墳全体が竹林で覆われていたようです。
古墳を一周するように遊歩道が造られています。古墳の内部には入ることができないので、遊歩道を一周して駐輪場へ戻ってきます。

高松塚古墳の築造は7世紀末から8世紀にかけての頃です。直径23m(下段)及び18m(上段)、高さ5mの二段式の円墳です。さて、高松塚古墳といえば極彩色の壁画で有名です。この壁画は1972年3月21日に発見されました。その後、壁画の劣化が進行し、現在は壁画は別の場所に移動し、保存修理が行われているとのことです。

駐輪場からほんのわずかな距離に「高松塚壁画館」があります。ここまできて古墳だけでは物足らないので、壁画館に入館することにしました。

高松塚壁画館
◆高松塚壁画館
入館料:大人250円
開館時間:09:00~17:00
休館日:12月29日~1月3日



実際の彩色壁画はたいへん貴重なもので国宝に指定されています。発見後、劣化が進み、現在は別の場所に移動し修理しているとのこと。
小さな施設ですが、館内には石郭内部に描かれている壁画を忠実に模写したレプリカが展示されています。レプリカといっても、あまりにリアルで本物を見ているようです。今から1300年も前、ここ飛鳥の都に住み暮らした人々がいたという事実を改めて実感します。そして女性たちが纏う衣服や髪型が当時の最先端のファッションであったのでは思うと、いつの時代の女性も「美」に対して敏感だったことを物語っているようです。

高松塚古墳彩色壁画(高松塚壁画館のパンフレット)

さて、高松塚古墳をあとにして、飛鳥路の旅をつづけましょう。再び209号線に戻り、「亀石」を目指すことにします。
途中、天武・持統天皇陵の表示があったので立ち寄ってみました。
40代天武天皇、41代持統天皇は天皇と皇后の間柄です。天武天皇は西暦673年から686年まで在位しています。一方、持統天皇は西暦690年から697年まで在位していた女帝です。天武天皇といえば「壬申の乱」で大海人皇子に勝利して天皇に即位したことで有名です。

両天皇陵墓は209号線から小高い丘を登るようにづづく石段を上がっていきます。石段を上がりきると、陵墓の前に置かれた祭壇が現れます。

天武・持統天皇陵墓前にて

天武・持統天皇陵墓からさらに209号線に沿って走ります。道筋は登り坂に変わり、坂を上りきった辺りに亀石への道標が置かれています。亀石は209号を反対側へ渡り、未舗装の細い道筋に入った場所に置かれています。

飛鳥を巡る観光マップにもかなり目立つように表記されているので、どんなものかと期待はしていたのですが、巨岩が一つ置かれているといった印象です。説明版によると、亀に似た彫刻が施されているとあるのですが、どうみても「蛙」です。建造時期、その目的は謎のようです。

亀石

亀石の脇に小さなお店があります。自動販売機と休憩用のベンチも置かれています。またこの辺りで採れた野菜や果物なども販売しています。

亀石からさらに未舗装の細い道(かつては畑の中の1本道だったと思われる)を進み、橘寺へと向かいます。飛鳥の地を走って気が付くのは、まず民家が少ないことと高層のビルがまったくないこと。自転車で走っていると広々とした畑の中に寺院の甍が見え隠れし、目指す場所が一目瞭然にわかることです。まさに古の時代の景色がそのまま残っているといった感じです。都会に住む私たちにとっては古代日本の歴史を育んだ飛鳥という地が、むやみやたらに開発されずに、少なくとも今のまま残っていてほしいと願うばかりです。

橘寺への道
橘寺山門

橘寺は聖徳太子が生まれた地に太子自ら建立したといわれる寺です。現在の堂宇は江戸時代に再建されたもののようです。
私たちは橘寺の山門前から飛鳥の最大のハイライトである「石舞台」を目指すことにしました。

橘寺から参道を下り、舗装道路へ出ると、川原寺跡の前にでてきます。かつてここには川原寺という大きな寺があったのですが、現在は寺の基壇が残るのみです。
歩道道路の道筋はすぐに岡信号交差点にさしかかります。この交差点で右手にのびる道筋へと進んでいきます。道の右側には飛鳥川が流れています。道筋はわずかながら登り坂に変わります。

坂を上りきると、観光地特有の雰囲気が漂っています。ということは石舞台の至近に着いたということを示しています。私たちは道の脇の休憩所に自転車を停めて、石舞台入口へと進んでいきます。



◆石舞台古墳
入場料:250円
入場時間:08:30~17:00
休場日:年中無休



入口受付で入場料を支払い、進んで行くと巨大な石積みが突然現れます。小高い丘の上に置かれている石舞台の周囲は掘割で囲まれているようです。その堀割にいったん降りて、再び昇るような階段を使って石舞台が置かれている場所へと進んでいきます。

始めてみる石舞台の規模の大きさに驚きました。日本最大の石室をもつ石舞台はその築造は7世紀に遡るという。現在は石積みとして残っていますが、初期の頃は盛り土がなされ墳丘の形状だったといいます。長い年月の間に石積みを覆っていた土が雨風で流出してしまったのではないでしょうか?

私たちが現在見る石積みは全部で30個、総重量2300トンもあるといわれています。そんな立派なお墓に誰が眠っていたのでしょうか。一説によると蘇我馬子であるとも言われています。

石舞台
石舞台
石舞台
石舞台
石室入口
石室入口
石室内部
石室内部

古代飛鳥の時代を偲びながら、石積みの周囲を何度もめぐり、後ろ髪を引かれる思いで石舞台を辞することにしました。

飛鳥路の旅もいよいよ終盤に近づいてきました。ここ石舞台に至るまでに飛鳥の里に点在する史跡はいくらでもあるのですが、今回は代表的な史跡のみを巡りました。さあ!今回の飛鳥路での最後の目的地は「飛鳥寺」です。

石舞台から同じ道を戻り、途中飛鳥寺の表示に従って道を逸れていきます。住宅街の中を進んで行くと、道の両側に千本格子と仕舞屋風の家並みがつづく一画にさしかかります。どういう町なのかはわかりませんが、絵になる光景です。

そんな家並みを過ぎると、道筋には田園風景が広がり、しばらくすると道の左手に堂宇の甍が見えてきます。飛鳥寺の門前に到着です。特に参道があるわけでもなく、道脇の広場の奥に山門が構えています。

飛鳥寺山門
飛鳥寺山門

飛鳥寺は飛鳥を代表する寺の一つです。当寺は西暦596年に蘇我馬子が発願して創建した日本最古の寺といわれています。要するに蘇我氏の菩提寺だったわけです。現在のお堂は江戸時代に再建したものです。現在見る飛鳥寺はこじんまりとした境内にお堂が一つ建っているだけですが、創建当時は東西200m、南北300mの敷地に金堂と回廊がめぐらされた大寺院だったのです。



◆飛鳥寺
拝観料:350円
拝観時間:4月1日~9月30日 09:00~17:30
10月1日~3月31日 09:00~17:00
休業日:4月7日~4月9日

飛鳥寺
飛鳥寺ご本堂
飛鳥寺ご本堂

当寺を有名にしているのは日本最古の寺であるとともに、もう一つ、堂内に安置されている御本尊「飛鳥大仏」です。この大仏は西暦606年に推古天皇が中国から渡来した鞍作止利仏師に造らせたと言われています。あの東大寺の大仏よりも古く、大仏よりも150年前に造られています。

仏教伝来間もないころの仏ということで、その顔つきはその後に造られた仏とは明らかに異なります。一見するとその顔つきはちょっと「きつい」感じがします。というのも一般的な日本の仏のお顔は総じて「柔和」な表情なのですが、ここ飛鳥寺の仏は細面で鼻筋が通り、細い体つきが特徴で、むしろ写実的な造りになっていることです。

飛鳥大仏
飛鳥大仏
飛鳥大仏

鼻筋が高いお顔から、ガンダーラ様式の仏陀なのでしょう。薄暗いお堂の中に鎮座する仏は1400年の時を経て、何を思っているのでしょうか。大化の改新で蘇我入鹿が暗殺され、蘇我氏の権勢は衰えていくわけですが、同時に蘇我氏の菩提寺である飛鳥寺も衰退が免れなったのではと考えられます。

飛鳥寺の衰退と同時に御本尊である飛鳥大仏も見捨てられ、風雨にさらされ、無残にも砕け、しまいには土中に埋もれてしまったといいます。その後、地中に埋もれたいた大仏のパーツを見つけだし、繋ぎ合わせたのが現在見る飛鳥大仏です。大仏をよく見ると「つぎはぎ」の跡を見ることができます。

尚、2016年11月11日の報道に下記のような記事がありましたので、参考までに抜粋して掲載させていただきます。

文献上、日本で鋳造された最初の仏像だが鎌倉時代に火災に遭った記録がある奈良県明日香村、飛鳥寺の本尊・飛鳥大仏について、藤岡穣(ゆたか)・大阪大教授(東洋美術史)らの研究グループが調査し、「顔部分のほとんどは7世紀の造立当初のものとみられる」と判断した。

像の大部分が後世の補作だとするなど諸説あったが、重要な部分が古代の姿のままだったことになる。
調査は今年6月、大阪大や東京文化財研究所、韓国国立中央博物館などの研究者約30人により行われた。

研究グループは、顔と胴体の制作時期の前後関係を検討。顔の正面は、目や顎、額などに継ぎ目がなく、一体で造られた状態で残っており、ほとんどが当初のままと判断した。様式も奈良県内などに残る飛鳥仏と似ているという。顔に小さな銅板を留めてあるのは、当初に表面のムラを直した跡だとみている。

境内の裏手から100mほど進んで畑に囲まれた場所に蘇我入鹿の首塚(五輪塔)が寂しげに置かれています。

入鹿首塚
入鹿首塚

首塚のある場所から飛鳥寺の堂宇を俯瞰してみました。かつては堂宇につづく道筋は飛鳥寺の敷地だったところです。

入鹿首塚から飛鳥寺を俯瞰

秋の日差しは低く、あっという間に日暮れになってしまいます。入鹿の首塚の五輪塔が西日を受けて、長い影をつくっています。さあ!ここ飛鳥寺で飛鳥路の旅を終えることにします。この後、自転車で近鉄橿原神宮前駅へ向かうことにします。





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行秋の奈良~天平の甍「唐招提寺」

2015年11月01日 07時46分57秒 | 行く秋の奈良探訪
薬師寺のバス亭から徒歩でおよそ460mほど北へ進むと、鑑真和上ゆかりの唐招提寺の南大門前に到着します。

国宝金堂
唐招提寺南大門

南大門脇の受付で拝観料を納めます。

入山料チケット
唐招提寺パンフレット
境内図

南大門から境内へ入ると、幅広い参道がまっすぐに国宝の金堂正面に延びています。漂う空気と雰囲気は薬師寺の境内とはうってかわり落ち着いた雰囲気を醸し出しています。
その大きな違いはまず境内に木々があることと、伽藍・堂宇が彩色されていないことです。
といのも唐招提寺に残る堂宇・伽藍のほとんどが国宝に指定されているため、古の時代の香りが息づいているといった感じなのです。

参道脇に世界遺産・古都奈良の文化財・唐招提寺と刻まれた石碑が置かれています。

石碑前にて
参道にて

天平時代に思いを馳せながら、観光客がまばらな境内をゆっくりと見学し、お堂に鎮座する仏たちと対面します。

美しい姿の金堂に見とれながら参道を進んで行きます。国宝の金堂には薬師如来立像、盧舎那仏坐像、千手観音坐像をはじめ多くの仏が並んでいます。そしてこれらの仏たちのほとんどが国宝です。

金堂の右手には国宝の鼓楼が瀟洒な姿を見せています。

鼓楼

鼓楼の後側には南北に長く連なる建物があります。これは礼堂・東室と呼ばれている建物です。両堂ともに重要文化財に指定されています。南側部分が礼堂、北側部分が東室と呼ばれ、かつて僧侶が起居した僧坊として使用されていました。

東室
礼堂

そして金堂の後ろにあるのが国宝の講堂です。

講堂
講堂から金堂を見る

境内の一番奥の少し高い位置に置かれているのが開山堂です。

開山堂

開山堂には鑑真和上の御身代わり像が安置されています。国宝の鑑真坐像は毎年6月6日の開山忌舎利会の前後三日間のみ御影堂で開帳されます。このため常時、和上のお姿を見られるようにと開山堂内に坐像が鎮座しています。

鑑真和上像

このあと境内の裏手から御影堂の前を通り、鑑真和上御廟へと向かいます。境内裏手の鬱蒼とした木々の間の土道を行くと、美しい土塀が見えてきます。その土塀の途中に御廟への入口があります。

土塀
土塀と門

門を入ると苔むした地肌に木々の間からの木漏れ日が美しく映える敷地が眼前に現れます。

御廟敷地
御廟敷地
御廟敷地
御廟敷地

御廟への参道の先に置かれているのが「和上御廟」です。

御廟
御廟
苔むした御廟敷地

御廟から再び唐招提寺の境内へと戻ります。

するとここにも見事な校倉造りの蔵が二棟ならんでいます。これが唐招提寺の宝蔵と経蔵です。両蔵ともに国宝です。

経蔵
宝蔵
両蔵
境内俯瞰
境内俯瞰

後ろ髪を引かれる思いで唐招提寺を辞して、最寄りの尼ヶ辻駅へと向かうことにします。
線路脇の道を進んで行くと、思いがけず、11代天皇である垂仁天皇の前方後円墳型の御陵を眺めることができました。

垂仁天皇陵
垂仁天皇陵

田園地帯が広がる奈良の飛鳥の地はなんとも長閑な雰囲気を醸し出しでいます。おそらく50年前に訪れた時はこのあたりには民家もなく、周囲を山に囲まれた奈良盆地の美しい景色が広がっていたのでしょう。
そんなことを想起しながら尼ヶ辻駅に到着しました。

尼ヶ辻駅

行秋の奈良~東大寺大仏殿・正倉院・二月堂~
行秋の奈良~飛鳥の白鳳伽藍「薬師寺」



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行秋の奈良~飛鳥の白鳳伽藍「薬師寺」

2015年10月31日 19時26分20秒 | 行く秋の奈良探訪
東大寺・大仏殿を辞して、近鉄奈良駅へと向かう途中、奈良市内から薬師寺へのバスが運行していることが判明しました。
ちょうど奈良県庁前に停留所があったので、ここからバスに乗車し、およそ30分で薬師寺に到着しました。

薬師寺西塔

バス停からほんのわずかな距離で北入山口(受付)に到着です。ここで拝観料を納めます。

拝観料チケット
薬師寺パンフレット
薬師寺境内図

かつて50年前に訪れた時の記憶はまったくないので、ここ薬師寺も初めての訪問といってもいいくらいです。

北受付から境内へと入るのですが、まず目に飛び込んでくるのが境内の工事中の柵や建屋です。北受付から入るとすぐに「食堂復興工事」とやたら目立つのが国宝「東塔」の解体修理の大きな建屋です。これらの工事や修理作業はいたしかたないのですが、せっかくの美しい伽藍の様子が興ざめしてしまうくらいの景観になっています。

そんな様子を横目でみながら、薬師寺の境内の散策を始めることにしました。平日の午後ということもあるのですが、参拝客はほとんどいません。
私たちは北受付からの入場をしたので、まずは境内の南端にある南門へ進み、そこから北方向へ移動することにしました。

薬師寺の境内の伽藍の配置は南門から直線状に中門、金堂、大講堂そして食堂跡が並び、西塔と東塔、西僧坊と東僧坊が左右対称になるように配置されています。(境内図参照)

南門からは中門が真正面に見ることができます。

南門から中門を背景に

中門は昭和59年(1984)に再建されたもので、平成3年(1991)には中門の両側に二天王像が復元安置されています。

二天王像
二天王像

中門からは直線状にどうどうとした姿の「金堂」が構えています。

金堂
金堂
金堂を背景に

金堂は昭和51年(1976)に再建されたものです。この金堂の堂内には国宝の薬師三尊像(薬師如来・日光菩薩・月光菩薩)が安置されています。

そしてこの金堂前の広場の東西に二つの塔が置かれているのですが、前述のように国宝の東塔は修理解体中とのことで大きな建屋の中に隠れています。修理解体が終わるのが4年後の平成31年です。

東塔に相対するように置かれているのが「西塔」ですが、こちらは昭和56年(1981)に復興されたものです。

西塔
西塔
西塔
西塔

美しいお姿の薬師三尊像を拝んで、大講堂へと向かいます。そして振り返ると金堂と西塔が浮かび上がります。

金堂と西塔

そして現れるのが美しい大講堂です。

大講堂
大講堂

真新しい大講堂は平成15年(2003)に再建されたものです。正面41メートル、奥行20メートル、高さ17メートルあり、薬師寺の白鳳伽藍最大の建物です。大講堂には弥勒三尊が安置されています。

薬師寺白鳳伽藍群を見て回りましたが、ほとんどの建造物が昭和そして平成に再建されたものが多く、古(いにしえ)の香りと古さを感じることができませんでした。とはいえ、天平の時代にはおそらくこんな風に堂宇が立ち並んでいたんだろう、という思いは強く感じました。
これら再建された建造物も数百年後には重要文化財または国宝に指定されることを願いつつ、玄奘三蔵院伽藍へと移動することにします。

北受付から白鳳伽藍を退出し、道を隔てて北側一帯の敷地が玄奘三蔵院伽藍になっています。この施設は平成3年(1991)に造られたもので、その中心をなす建造物が玄奘塔です。法隆寺の夢殿を思わせるような建物です。

広い敷地のはるか向こうに玄奘塔が置かれています。

玄奘三蔵院伽藍
玄奘塔

玄奘塔には法相宗の始祖である玄奘三蔵の遺骨を真身舎利(しんじんしゃり)として奉安され、須弥壇には玄奘三蔵訳経像を祀っています。
尚、玄奘塔は写真撮影が禁止されているため、至近からの画像はありません。

当施設の中で、玄奘塔の裏手にある大唐西域壁画殿には日本画家・平山郁夫が30年をかけて制作した、縦2.2メートル、長さが49メートル(合計13枚の絵)からなる「大唐西域壁画」が展示されています。これは一見の価値があります。

ほとんど記憶に残っていない50年前の薬師寺の姿とは大きく変わってしまったのかもしれませんが、薬師寺が抱き続ける白鳳時代への回帰の神髄に触れたことに感動した今回の訪問でした。
そして伽藍の完全復元を願うとともに、遠い将来まで薬師寺の伽藍建築が伝え残されることを期待しています。

私たちはこのあと、奈良訪問の最大の目的である唐招提寺へと向かいます。

行秋の奈良~東大寺大仏殿・正倉院・二月堂~
行秋の奈良~天平の甍「唐招提寺」



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行秋の奈良~東大寺大仏殿・正倉院・二月堂~

2015年10月31日 10時16分03秒 | 行く秋の奈良探訪
毎年の恒例となった夫婦そろっての京都旅行を10月28日から10月30日の2泊3日で楽しんできました。今年は京都市内の観光は二の次に奈良、姫路、神戸(三ノ宮)と京都の郊外の宇治を巡ることにしました。

大仏殿

そんな旅は京都から奈良への近鉄特急(奈良線)から始まります。京都駅に09:08に到着後、09:30の近鉄特急奈良行きに乗車し、所要35分でモダンな造りの近鉄奈良駅に到着しました。

近鉄奈良駅前

私にとって奈良訪問は中学校時代の修学旅行以来およそ50年ぶり。当時訪れたはずの東大寺・大仏殿をはじめ主要な寺社についてはほとんど記憶に残っていないので、今回の奈良訪問は記憶に残る旅になることは間違いありません。

近鉄奈良駅から東大寺エリアまでは1.5kmということなので登大路をそぞろ歩きしながら大仏殿を目指すことにしました。その道筋の途中には、興福寺があるのですが今回は割愛しました。そしてその道筋を進むと、左手に奈良国立博物館があるのですが、ちょうど正倉院展の開催中でたくさんの見学者が列をつくって並んでいました。

時間に余裕があれば正倉院展を見たいのですが、長蛇の列を見て入場まで相当な時間がかかると判断してこれも割愛。

近鉄奈良駅から奈良国立博物館が途切れるあたりの「大仏殿交差点」までほぼ1kmです。ここまで歩いてくるうちに、奈良名物のシカが我が物顔で歩道を歩きまわっていました。

大仏殿交差点で横断歩道を渡り左折し、いわゆる大仏殿への参道を歩き、いよいよ東大寺南大門へと進んでいきます。
参道左側にはお土産を売るお店が並んでいます。そしてその道筋の右側に「世界遺産・古都奈良の文化財 東大寺」と刻まれた大きな石碑が置かれています。

石碑前にて

そして前方に堂々とした姿の国宝の「南大門」が現れます。南大門は鎌倉時代の正治元年(1199)に復興されたものです。門の両側には大きな金剛力士像が安置されています。

南大門

南大門の石段を上がったところに1頭のシカが!

南大門とシカ


南大門をくぐると、前方に朱色の門が現れます。中門(重要文化財)と呼ばれている門です。中門は江戸時代の享保元年(1716)に再建された建造物です。
その中門の柵の間から真正面に大仏殿の美しい姿を眺めることができます。

中門から見る大仏殿

さあ!はやる気持ちを抑えつつ、大仏殿へと進んでいきますが、拝観料を納める場所は中門から左手に少し行ったところに置かれています。

入館チケット

チケット購入していよいよ大仏殿を囲む回廊へと進んでいきます。その回廊から大仏殿がまるで浮かび上がっているかのように美しい姿を見せています。

回廊からみる大仏殿

正式名は東大寺金堂ですが、一般的に大仏殿と呼ばれています。江戸時代の宝永6年(1709)に再建されたもので、間口(東西方向)57.01メートル、奥行(南北方向)50.48メートル、高さ48.74メートルの大きさがある日本最大級の木造建築物です。高さと奥行は創建当時とほぼ同じですが、幅は創建時(約86メートル)の約3分の2になっています。
現在の大仏殿は創建から三代目にあたるものです。

大仏殿
大仏殿

広い参道を進んで行くと大仏殿前に国宝の金銅八角燈籠が置かれています。

金銅八角燈籠

それでは国宝の盧舎那仏と50年ぶりの対面です。…が堂内はあまりの人の多さに静かな雰囲気の中での参拝とはいかず、人ごみに押されながらの慌ただしい参拝となってしまいました。

盧舎那仏

盧舎那仏の左にはこれまで大きな虚空蔵菩薩像(重要文化財)が鎮座しています。この虚空蔵菩薩像は江戸時代の宝暦年間に造られたものです。

盧舎那仏を左に回り込むようにして進んでいきます。

盧舎那仏

そして本堂の北西角奥に置かれているのがこれまた大きな広目天の像です。大仏殿の広目天は、「左手に巻物を持ち、右手に持った筆で何かを書き留める」という天平時代の広目天の形式となっています。

広目天像

広目天像が置かれている辺りからは盧舎那仏の後ろ姿を見ることができます。後ろ姿といっても大きな光背しか見えませんが…。

盧舎那仏の光背

そして盧舎那仏の背後を通って本堂の北東に進むと、そこには大きな多聞天の像が置かれています。

多聞天像

盧舎那仏を一周して正面へと戻ると、大仏の右手には如意輪観音像(重要文化財)が鎮座しています。この如意輪観音像も江戸時代の元文年間につくられたものです。

如意輪観音像

仏に対して「素晴らしい」という表現が適切ではないかもしれませんが、盧舎那仏の柔和なお顔と威厳に満ちたその居ずまいと所作に心が洗われる思いです。

感動を胸に大仏殿を辞し、せっかくなので大仏殿の裏手にある正倉院へと向かうことにしました。有名な高床式校倉造りの建造物でもちろん国宝に指定されています。ちょうど正倉院展が開催されていることから、正門が解放されて敷地内までは入ることができました。

天平時代の756年に完成した建造物ということらしいのですが、寄棟造りの屋根のなだらかな傾斜と校倉造りの外壁の見事な融合美にただ感心するばかりです。

正倉院
正倉院

私たちは限られた時間の中での大仏殿そして正倉院訪問でしたが、ふと境内地図を見ると二月堂が至近にあることに気が付き、是非参拝に訪れようということになりました。

大仏殿の回廊に沿ってもと来た道を辿ってくると、左手にのびる石段が現れます。この石段を登っていくと二月堂へと至る道筋になっています。

二月堂への石段

石段を上りきると美しい姿の鐘楼堂が現れます。

鐘楼堂

鐘楼堂を過ぎて左手に延びる石段をさらに上がっていくと、懸造(かけづくり)で知られる二月堂(国宝)の真下に出てきます。

二月堂への石段
二月堂
二月堂

二月堂の参拝を終えて、同じ道を辿り大仏殿の中門、南大門を抜けて近鉄奈良駅へと戻ることにしました。
このあと、私たちは奈良滞在のもう一つの目的地である薬師寺、唐招提寺へと移動します。

行秋の奈良~飛鳥の白鳳伽藍「薬師寺」
行秋の奈良~天平の甍「唐招提寺」



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