大江戸散策徒然噺 Introducing Japanese culture and history

豊かな歴史に彩られた日本の文化と歴史を紹介

またまた浅草浅草寺・年の暮れ歳時記~納めの観音、羽子板市の盛況~

2011年12月19日 16時02分42秒 | 台東区・歴史散策
今年もあと10日余りと迫った年の暮れ。お江戸下町の風物詩、浅草浅草寺の納めの観音と羽子板板が盛大に執り行なわれています。

煌びやかな羽子板

17日から始まった羽子板市は本日19日が千秋楽。どれほどの盛況ぶりかを肌で感じるため今年も行ってまいりました。

羽子板市の看板

雷門からつづく仲見世は月曜日にもかかわらず大勢の人出でごった返しています。いつも変わらぬ浅草の光景なのですが、来る新年のための飾りが抜けるような青空の下で仲見世通りの軒先に浮かんでいます。

仲見世通りの賑わい
招き猫の飾り
絵馬の飾り

羽子板市は宝蔵門と伝法院の間の狭い路地に20軒ほどの老舗羽子板屋の小屋が軒を連ねています。店先に並ぶ羽子板はどれも万単位で販売されているものばかりで、私にとっては「高嶺の花」でとても手が出るものではありません。

軒を連ねる小屋
煌びやかな羽子板

毎年、この羽子板にはその年に脚光を浴びた人がデザインされた「変わり羽子板」が店先を飾っているのですが、今年はやはり「なでしこジャパン」の澤さんや親日家のロック歌手レディ・ガガ、人気アニメ「ワンピース」のキャラクターたちが伝統的な助六や歌舞伎役者、花魁などの羽子板に混じってひときわ輝いていました。

なでしこジャパン羽子板
レディ・ガガ羽子板
ワンピース羽子板

一年の最後を締めくくる浅草の行事である羽子板市が終わると、浅草浅草寺は新年の初詣の準備が本格的に始まります。

猛暑の中の浅草四万六千日御祈祷礼~浅草寺ほおづき市
浅草寺僧坊・伝法院庭園の枝垂れ桜も満開ですよ!
浅草観音・浅草寺~納めの観音ご縁日・羽子板市~
今日は浅草・浅草寺のほおづき市~四万六千日のお縁日~
初冬の浅草金龍山「浅草寺境内」~黄金と朱の絶妙な色景色~
めったに見られない!浅草浅草寺の寺宝「大絵馬」と伝法院庭園の拝観
お江戸淺草歳の市~お江戸の風情「羽子板市」の賑わい~【淺草浅草寺境内】
お江戸といったら浅草、浅草といったら今や人種のるつぼの国際的観光地【何度来ても飽きない浅草】





日本史 ブログランキングへ

神社・仏閣 ブログランキングへ

お城・史跡 ブログランキングへ

初冬の浅草金龍山「浅草寺境内」~黄金と朱の絶妙な色景色~

2011年12月13日 15時54分54秒 | 台東区・歴史散策
師走も半ばの今日、下町浅草寺はクリスマスを飛び越えてもう新年の飾りつけが始まっています。賑やかさを取り戻しつつある仲見世の軒先にはお正月の縁起物である「羽子板」や「大入り袋」などのデコレーションが備え付けられています。

仲見世飾りつけ
仲見世飾りつけ

仲見世通りと交差する「伝法院通り」に並ぶ江戸風情漂う店先もはやお正月の準備が始まっています。

伝法院通り

平日にもかかわらず多くの参拝者や観光客で賑わう仲見世通りを抜けて宝蔵門に辿り着きます。いつ来ても宝蔵門から見る五重塔の姿は絵になります。雲ひとつない紺碧の空の下で、宝蔵門と五重塔の朱色がくっきりと映えています。

宝蔵門と五重塔
黄葉と五重塔
境内の黄葉

境内にある銀杏の木が12月半ばだというのに見事な黄金色に染まり、空の碧、ご本堂をはじめ境内の堂宇の朱と絶妙なコントラストを見せています。この黄金の色模様も師走の寒風でここ数日内で落葉してしまうのではないでしょうか。

ご本堂と黄葉
ご本堂
五重塔とスカイツリー

そしてご本堂の右に目を移すと、三社祭の祭祀で有名な「浅草神社」の鳥居と黄金色に染まる銀杏の木が飛び込んできます。さらに浅草神社の脇にたつ二天門も美しい黄葉に彩られていました。

浅草神社鳥居と黄葉
浅草神社鳥居
二天門と黄葉
二天門と黄葉

境内東南隅の小高い丘の上に構える弁天堂と「時の鐘」を彩る銀杏の黄葉は訪れる人もない静かな空気の中で、散り行く葉音だけが寂しく響いていました。

時の鐘と黄葉
時の鐘
弁天堂

お江戸・浅草金龍山はほんとうに遅い秋を惜しむように全山色付いています。境内は初冬の寒風の中で黄金色に染まった葉がとめどなく地表に舞い落ち、舞い落ちた葉がサラサラと心地よい音色を奏でています。

猛暑の中の浅草四万六千日御祈祷礼~浅草寺ほおづき市
浅草寺僧坊・伝法院庭園の枝垂れ桜も満開ですよ!
浅草観音・浅草寺~納めの観音ご縁日・羽子板市~
今日は浅草・浅草寺のほおづき市~四万六千日のお縁日~
またまた浅草浅草寺・年の暮れ歳時記~納めの観音、羽子板市の盛況~
めったに見られない!浅草浅草寺の寺宝「大絵馬」と伝法院庭園の拝観
お江戸淺草歳の市~お江戸の風情「羽子板市」の賑わい~【淺草浅草寺境内】
お江戸といったら浅草、浅草といったら今や人種のるつぼの国際的観光地【何度来ても飽きない浅草】





日本史 ブログランキングへ

神社・仏閣 ブログランキングへ

お城・史跡 ブログランキングへ

私本東海道五十三次道中記~川崎宿から神奈川宿~

2011年12月12日 16時07分07秒 | 私本東海道五十三次道中記
道としての東海道は古くは律令時代には早くも整備されていたのですが、本格的な街道として東海道が誕生するのは慶長6年(1601)の家康公の「五街道整備」によって、お江戸日本橋から京の三条大橋にいたる間に五十三箇所の宿駅を設けたことに始まります。そしてこの間126里6丁1間(492km)の間に置かれた五十三の宿駅がいわゆる東海道五十三次なのです。

六郷渡舟

大江戸散策徒然噺では花のお江戸の風土記と併せ、「私本東海道中膝栗毛」と題しお江戸日本橋から十一宿の三島宿まで気ままに旅をつづけてまいりたいと考えています。まず旅の始まりの道中区間は弐番宿の川崎から参番宿の神奈川宿までの約9.8km。雲ひとつない初冬の空の下、賑やかな川崎駅南口から市役所通りを南下し旧街道との交差点である「小土呂」を目指します。

小土呂交差点を左折すると道は旧街道を偲ばせるように急に細くなります。とは言っても、今は歴史街道の風情を感じさせるような建造物はまったく見当たりません。かつての川崎宿は久根崎(くねざき)、新宿(しんしゅく)、砂子、小土呂(こどろ)の4村で構成され、本陣2軒、脇本陣0軒、旅籠72軒を構えていました。尚、川崎宿の成立は東海道の中では最も遅く1623年の頃です。

歩き始めた小土呂は本来の川崎宿の西に位置し、すぐに京都側の入口である「京口」を過ぎてしまいます。その昔は京口をでるとそこは街道の両側に田畑が広がり景色へと変わります。そんな景色をいつしか「八丁畷(はっちょうなわて)」と呼ぶようになりました。畷(なわて)とは田の間の道という意味なのですが、川崎宿を抜けた東海道は広々とした田畑の間を八丁の長さ(約870m)の道が真っ直ぐに延びていたのでしょう。

芭蕉句碑
芭蕉句碑

お江戸の響きを残す八丁畷は現在も京急線の駅名としてそのまま使われています。この八丁畷駅の50mほど手前の街道脇に置かれているのが「芭蕉の句碑」です。

元禄7年(1694)五月、芭蕉は江戸深川の芭蕉庵を立って、郷里の伊賀へと旅立ちます。体力的にも衰えが目立つ芭蕉を慮って、多くの弟子たちは六郷川(現在の多摩川)を越え、川崎宿を通り抜けたここ八丁畷まで来てしまいました。そしてここにあった腰掛茶屋で別れを惜しみつつ、句を詠みあったのです。

その時、芭蕉が弟子たちに返した句が「麦の穂をたよりにつかむ別れかな」という惜別の句なのです。前述のように当寺はこのあたり一帯は麦畑に覆われ、初夏五月の風にそよぐ麦の穂に寄せて、いつまた再会できるかという別れに堪える気持ちを表現したものです。

芭蕉を見送りにきていた弟子「曽良(そら)」は頼りなげな芭蕉を気遣い、さらに二泊して箱根の関所まで送ったのです。芭蕉が関所を越え、その姿が見えなくなるまで見送ってから曽良は一人江戸へ戻るのですが、その時に詠った句が「ふつと来て関より帰る五月雨」。本来であれば六郷手前で別れるはずが、曽良はあしかけ三日もかけて箱根の関所までやってきてしまったのです。

尚、芭蕉はこの年元禄7年の十月に「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」の句を残して五十一歳の生涯を閉じています。ここ八丁畷の句碑は1830年に俳人の一種によって京口付近に建てられたのですが、、その後何度か移動し現在の場所に落ち着いています。

京急線の八丁畷駅の踏み切りを渡ってすぐ左手に置かれているのが「無縁塚」です。江戸時代に川崎宿で震災、大火、飢餓、疫病などで身元不明の死者が出たとき、この場所にまとめて埋葬したらしく、たくさんの人骨が出てきたといいます。その方々を弔うために慰霊塔が建てられています。

無縁塚

この慰霊塔を過ぎると川崎市から横浜市鶴見区へと地名は変わり、町名が「市場」となります。「市場」の名の由来は江戸開幕のはるか以前の天文年間頃(1532~1554)にこの辺りで海産物の市が開かれていたことによります。そして江戸時代には米の粉で餡(あんこ)を包んだ「米饅頭(よねまんじゅう)が名物となり、ここ市場村には米饅頭屋が40軒ほどあったといいます。小腹を減らした旅人がここらあたりで休憩がてらに饅頭をほおばっていた光景が目に浮かんできます。

そんな市場町に沿って歩いていると右手に現れるのが「熊野神社」です。街道沿いに立つ鳥居から見るとまるで丸裸にされてしまったかのように木々がまったくない境内の奥に社殿がぽつねんと置かれています。かつてはおそらく鎮守の森に覆われていたのではないでしょうか?

熊野神社
熊野神社鳥居と社殿

そんな熊野神社はその昔、小田原北条氏を攻め滅ぼし、家康公が関八州を秀吉から賜り江戸に初入府する際に当社に立ち寄り武運を祈ったと言われています。ですから、それなりに由緒ある神社なのですが、境内の佇まいからは趣がまったく感じられません。

そして市場町の西のはずれにあたる場所にお江戸日本橋から数えて五番目の「一里塚」が残っています。この一つ手前の4番目の一里塚は六郷、一つ先は東子安の一里塚になるのですが、ここ市場一里塚は京浜間で唯一残っているものです。

市場一里塚

一里塚をすぎるとまもなく鶴見川に架かる鶴見橋を渡ります。鶴見橋の上から右手を望むと、曹洞宗の本山である総持寺の甍とその遥か後方に白く雪をいただいた富士の嶺が初冬の青空にくっきりと映えていました。橋の西詰めには「鶴見橋関門跡」の碑が置かれています。

鶴見橋関門跡

この関門はあの安政の大獄(1858)によって浪士による外国人殺傷事件が頻繁に発生したことで、浪士取締りのために設けた7つの関門の一つです。ここ鶴見橋関門は井伊直弼が暗殺された桜田門外の変が起こった年である万延元年(1860)の四月に設置されましたが、なんとこの2年後の文久2年(1862)には生麦事件が起こってしまいます。生麦事件を受けて、幕府は川崎から保土ヶ谷までの間に警備強化のため見張り番所が二十ヶ所も設置されています。

鶴見橋を渡るとそれまで歩道がなかった街道はきれいに整備され、電信柱もないすっきりとした道筋に姿を変えます。そんな歩道の脇に見つけたのが石造りの「寺尾稲荷道標」です。この場所がちょうど東海道と小杉道、寺尾道の分岐点にあたります。

寺尾稲荷道標

旧東海道はこの先で国道15号線と交差し、いよいよ「生麦」へとさしかかってきます。生麦の名の由来は二代将軍秀忠公の頃、将軍の行列の際、ぬかるんでいた道に生麦を刈り取って敷いたことから付けられたと言われています。その後、この生麦の地は漁業を営む権利を幕府より与えられ幕府に魚を献上する「御菜八ヶ村」の一つとして、また間の宿としてたいそう賑わっていました。街道の海側の家の裏手はすぐ海で、漁師たちが捕れた魚、蛤、タコ、イカなどを売っていました。

現在でもここ生麦の旧街道沿いには魚介を扱う仲買人の店(80軒)が連なり、生麦魚河岸通りと呼ばれ、往時を彷彿とさせるような賑わいを見せています。

魚河岸通りを進んでいくと右手に現れるのが「道念稲荷」です。円形の大きな石標に「道念稲荷」と刻まれ、その石標の脇から稲荷祠にまっすぐに参道が延びています。その参道には氏子が寄進した朱色の鳥居が並んでいます。

道念稲荷石標

ここ道念稲荷では三百年に渡って伝わる「蛇も蚊も祭り(じゃもかもまつり)」が行われています。この祭りは悪疫が流行したとき、萱(かや)で作った蛇体に悪霊を封じ海に流したことに始まります。また生麦が農漁村であったことから、豊作・豊漁を祈るお祭りでもあったのです。

道念稲荷鳥居
氏子寄進の鳥居
道念稲荷祠

さて生麦といえば、あの幕末に薩摩藩島津久光公の行列の行く手を邪魔をしたとして起こった英国人殺傷事件がまず頭に思い浮かびます。時の幕府が朝廷に約束した「攘夷」を薩摩がいち早く決行したとして攘夷派を喜ばせた事件だったのですが、あにはからんや、薩摩を攘夷から開国へと大きく転換させた「薩英戦争」のきっかけともなった歴史のターニングポイントだったのです。

その事件が起こった場所がいつ目の前に現れるのか心待ちにして歩いていたのですが、なんとその場所は街道筋の民家の塀に説明版が一枚貼ってあるだけの寂しいものだったのです。あの大事件の発生場所にもかかわらずこの程度か。と思わせるような扱いだったことに驚き、期待はずれの感。

生麦事件石碑
生麦事件石碑

とおもいきや、旧街道はキリンビールの工場の敷地脇へと入ってきます。すると期待通りの石碑がきちんと置かれているではありませんか。もともとは現在の場所とは違う所に置かれていたのですが、道路工事のため移転してきたとあります。綺麗に整備された敷地に建つ真新しい木造の祠の中に石碑が置かれています。

石碑が置かれている旧東海道は左手にキリンビールの工場の広大な敷地に沿ってつづき、ちょうどキリンビアビレッジの入口辺りで国道15号線と合流します。次の神奈川宿入口まではさしたる見どころがなく、しばらく国道15号線に沿って歩くことになります。次回は神奈川宿から保土ヶ谷宿を踏破します。





日本史 ブログランキングへ

神社・仏閣 ブログランキングへ

お城・史跡 ブログランキングへ

見つけた!上野桜木・浄名院に鎮座する六番目の江戸六地蔵

2011年12月09日 12時49分30秒 | 台東区・歴史散策
先日、秋色に染まる上野桜木の寛永寺の裏通りの寺町の散策を楽しみました。寛永寺境内の銀杏の木は今を盛りと黄金色の葉でおおわれ、去り行く秋を惜しむように色付いた葉が木漏れ日の中を一枚、また一枚と舞い落ちていきます。

そんな寛永寺境内からさほど離れていない場所に静かに佇むのが東叡山三十六坊の古刹・浄名院なのです。言問通りに面して寺領が広がっているのですが、山門は通りから石段を降りた位置に構えています。ちょうど上野の山の北側にあたる場所で、この辺りから根津、千駄木の谷あいへと下り始める地勢となっています。

言問通りから見る山門

この浄名院は寛文6年(1666)創建の古刹ですが、もともとは浄円院という院号でしたが享保8年(1823)に現在の浄名院に改称しています。歴史を感じる山門は享保年間に建立されたものです。

浄名院山門
浄名院山号

当院は地蔵信仰の聖地として知られており、境内には夥しい数の地蔵が祀られています。当院の由緒書によると、明治9年の頃、当院の三十八世妙運大和尚がインドの阿育王が建立した八万四千体の石宝塔に習い、これと同数の石地蔵建立の発願を行い、和尚はなんと八万四千体分の地蔵尊の真影を拝写し、八万四千人に授与したのです。そしてこの真影を授けられた人は地蔵一体を建立できるよう誓願されたのです。地蔵を奉納した方々の中には近衛、一条、小松の各宮家に始まり徳川、毛利の旧殿上人、更には陸奥宗光、大山元帥、三井や安田の財閥、梨園の花形などが名を連ねています。

夥しい数の石地蔵

境内の左手一帯にそれはそれは夥しい数の石地蔵が並んでいます。実際に八万四千体の地蔵が並んでいるのかは定かではありませんが、奉納された方々のなみなみならぬ仏への帰依を肌で感じます。

総本尊地蔵

そんなお地蔵様が並ぶ中にひときわ高みに鎮座する大きな地蔵一体があります。このお地蔵様こそ江戸六地蔵第六番の生まれ代わりなのですが、実は江戸六地蔵六番は深川にあった富岡八幡宮の別当寺の永代寺に鎮座していました。しかし明治の神仏分離令によって永代寺が廃寺となり、その際に永代寺に鎮座していた六番地蔵尊も破壊されてしまったのです。その後、明治39年に日露戦争の戦没者を慰霊するために、ここ浄名院境内に新たに建立されたものです。現在残る他の五体に比べ、やや小振りに造られたお地蔵様です。

江戸六地蔵六番
江戸六地蔵六番
台座に刻まれた六番の文字

江戸時代に建立された六地蔵はすべて、街道筋(東海道、甲州街道、日光奥州街道、中仙道、千葉街道)の寺院の境内に鎮座しています。これは街道を往来する旅人の安全を祈願するものだったのですが、ここ浄名院の地蔵六番は街道筋とはいっても言問通りで、本来の目的とは異なりその役割も薄れてしまっているような気がします。廃棄されてしまった江戸六地蔵六番の生まれ変わりのお姿を拝見できたことは個人的に喜ばしいことなのですが……。





日本史 ブログランキングへ

神社・仏閣 ブログランキングへ

お城・史跡 ブログランキングへ

完成間近!江戸湊の新しい名物橋「東京ゲートブリッジ(Tokyo Gate Bridge)」

2011年12月07日 15時20分08秒 | 江東区・歴史散策
アメリカのペリー艦隊が4隻の黒船を率いて江戸湾に現れたのが今から158年前の嘉永6年(1853)のこと。時の幕府は外国艦隊からの攻撃に備えるために、江戸湾に砲台を設置し江戸の防備に努めたのです。幸運にもその砲台からは砲弾が発射されたことはないのですが、その砲台跡が江戸湾の「お台場」として現在もその姿を残しています。

そんな時代からおよそ160年が経ち、江戸湾の様子は大きく様変わりしています。よく「江戸前の海」なんていうことを言いますが、一般的には深川洲崎(現在の木場辺り)洲崎神社とと品川洲崎の利田(かがた)神社を直線で結んだ内側の海を指していました。

この海域では江戸前の新鮮な魚が豊富に獲れ、その中でも江戸前のアナゴ、コハダそしてウナギなどはその代表として現在でも江戸前寿司のネタになっています。

私が住む東京の江東区は江戸の昔から荒川の流れに沿って江戸湾方向に埋め立てられた場所で、砂村新田と呼ばれた干拓地域です。今でこそ東西線が走り、都心の日本橋までは地下鉄で15分ほどの便利な場所になっています。江戸湾の埋め立て事業は江戸から明治、その後の大正、昭和そして平成の時代に引き継がれ、ますます盛んになっているようです。

その埋め立て地のほとんどが江東区内といっても過言ではありません。東京都が東日本大震災の被災地の瓦礫の焼却を引き受けていますが、その焼却灰はおそらく江東区の埋め立てに利用されているのではないでしょうか。

この埋立地に平成の新しい名物が完成しようとしています。墨田区のスカイツリーほどメジャーではないのですが、江東区の水辺のリクレーション施設として有名な若洲から大田区の城南島を結ぶ東京港臨海道路の一部として架橋される「東京ゲートブリッジ」です。



我が家からマウンテンバイクで一路若洲を目指すこと約30分。若洲のゴルフ場脇のサイクリングロードから遥か東に広がる舞浜のディズニーランドの景色を見ながら埋立地の最南端に到着すると、眼前に現れるのが「東京ゲートブリッジ」の雄姿です。晩秋の靄の中に浮き上がる巨大な建造物に圧倒されてしまいます。

灯台と東京ゲートブリッジ

2頭の恐竜が向き合っているような特異な外観をしているので「恐竜橋」とも呼ばれています。
外観からほぼ完成しているように思えるのですが、若洲側中央部トラス桁の架設後に溶接の割れや鉄骨の変形が発見され、桁の架け直しのため完成が半年ほど遅れたようです。

東京ゲートブリッジ

橋の長さは全長2933m。海上を跨ぐ区間の長さが1618mでレインボーブリッジの2倍を誇っています。歩道も敷設されるようなので、完成の暁には是非歩いてみたいものです。開通は来年2012年2月12日の予定です。

掲載した画像のような東京ゲートブリッジをご覧になるには若洲まで行かなければなりません。ただし若洲までのアクセスは非常に不便なので車で行くことをお勧めいたします。





日本史 ブログランキングへ

神社・仏閣 ブログランキングへ

お城・史跡 ブログランキングへ

隅田墨堤の晩秋の彩りを探して…

2011年12月06日 12時26分57秒 | 墨田区・歴史散策
雲一つない穏やかなこの日(12月5日)、師走の隅田墨堤の「秋色」を探しに出掛けました。朝夕の冷え込みが厳しくなってきたこの頃ではあるのですが、都内の黄葉、紅葉の時期は12月初旬まで楽しむことができます。

そんなことでまずは墨田区側の墨堤の名所の一つである「三囲神社」へと急ぎました。三囲神社はお江戸の花町で有名な「向島」の料亭街を貫く「検番通り」に面して鎮座する神社です。

三囲神社の秋模様

神社の由緒を見ると、その昔、この神社を建てるときに土の中から壷がでてきたので中を開けてみると、白狐にまたがった老翁の像が入っていました。その時、突然「白狐」が現れ、その像の周りを三度回ったことで「三囲(みめぐり)神社」と呼ばれるようになったと伝えられています。隅田川七福神の大國神と恵比寿神を祀っています。

また境内には元禄時代に活躍した芭蕉の弟子である宝井其角が詠んだ「雨乞いの一句」の碑が置かれています。
「ゆうだちや田のみめぐりの神ならば」

検番通りから斜めにのびる参道の入口には鳥居が構え、その鳥居の脇に黄色く色付いた銀杏の大木が立っています。参道を進むと境内にはまるで黄色い絨毯を敷き詰めたように銀杏の葉が土面を覆っています。

三囲神社の鳥居
境内の落葉
三囲神社本殿

ご本堂右手に鎮座する稲荷祠前の赤鳥居には鮮やかに紅葉したもみじの葉が晩秋の木漏れ日の中で鳥居の赤と競演していました。

稲荷祠前の赤鳥居

三囲の社を後に、検番通りを進み墨堤にひときわ目立つ存在でその姿を見せるお江戸の黄檗派寺院である「牛頭山弘福寺」に向かいます。当寺の境内にはご本堂裏手の小さなお庭以外には目立った木々がありません。ご本堂の黒々とした甍が真っ青な晩秋の空の下で輝いていました。

牛頭山弘福寺本堂

弘福寺に隣接して山門を構える長命寺から名物の言問団子の店先を通り隅田川堤へとあがっていきます。有名な堤の桜並木はわずかばかりの葉の彩りを残し、そのほとんどが散っていました。江戸時代から隅田川を行きかう舟の目印となっていた「常夜灯」の脇の紅葉が川面をなでる風に寂しく揺れていました。

常夜灯と紅葉

この後、桜橋をわたり台東区側へと向かうことにしました。橋を渡るとそこはかつて隅田川の渡しで有名な「竹屋の渡し」があったところです。この竹屋の渡しは吉原へとつづく山谷掘りに架かる今戸橋の袂から対岸の三囲神社あたりに店を構えていた船宿「竹家」を結んでいました。

桜橋を渡りきり、堤を下るとすぐに「幟」が並び立つ一画が見えてきます。近づいてみると幟には「平成中村座」の文字が染め上げられています。「あ~、ここがあの中村勘三郎が主宰する平成の歌舞伎小屋なんだ」と初めて知りました。

平成中村座芝居小屋

桜橋を渡りきった今戸から言問橋へ向かうと、江戸時代の天保以降に江戸三座である中村座・市村座・森田座が芝居小屋を連ねた猿若町があった場所です。そんな猿若町に近い場所に平成の芝居小屋を建てた勘三郎さんの「粋」を感じます。

芝居小屋越しに見えるスカイツリー

この平成中村座の小屋と道を挟んで建つのが「大根」と「巾着」をシンボルとし、「大聖歓喜天」を祀る待乳山聖天様です。

待乳山聖天山門

隅田川岸の小高い丘の上にお堂を構える待乳山聖天は遠目からでも境内の銀杏の葉の色付きを見ることができます。山門脇からつづく石段を見上げると、そこには黄葉を纏った銀杏の大木が聳え立っています。石段の縁につづく江戸時代から残る「築地塀」の瓦屋根に降り積もった落ち葉が一段を秋の深まりを感じさせてくれます。

石段から見る銀杏の黄葉
築地塀

石段を登りきり境内へと進むと、そこは一面の秋景色が広がっています。境内の水屋、舞殿、そしてご本堂が黄金色に染まる銀杏の木々と絶妙なコントラストを描いています。

境内の黄葉
境内の黄葉
舞殿と黄葉
黄葉越しの本堂

境内からは紅葉に染まる木々の向こうにスカイツリーの雄姿を眺めることができます。

境内から見るスカイツリー

待乳山聖天様の見事な秋色を堪能した後、近くに鎮座する今戸神社へと足を延ばしました。今戸神社は新撰組の沖田総司終焉之地として知られています。広々とした境内にはそれほど多くの木々はありませんが、鳥居脇と境内の真ん中に立つ銀杏の木は満身の黄金の衣を纏っていました。

今戸神社
今戸神社境内の大銀杏

台東区側の秋景色を堪能し、再び桜橋を渡り墨田区側へと戻り、水戸街道を東向島方向へと歩を進め隅田川七福神の寿老人を祀る「白髭神社」へと向かいました。

白髭神社

水戸街道脇に鎮座する白髭神社も参道を飾る大銀杏が黄金の衣装を纏い、静かな境内は黄色い絨毯を敷き詰めたような彩りを見せていました。

白髭神社
白髭神社本殿

ここ白髭神社までくると、残すところは「向島百花苑」です。事前に東京都の公園案内のホームページで苑内の色付き具合を調べたところ「これから」となっていました。せっかくなので入苑してみましたが、苑内にはモミジの木はわずか9本しかなく、その色付きは盛りとはいえませんでした。

向島百花苑の秋景色

とはいえ、すでに師走も初旬。都内の紅葉、黄葉は峠を越え季節は寒風が吹く冬が早足でやってきます。お江戸散策も寒空の下ではその風景はなんとも寂しく、寒々とした画像がしばらく続いてしまうことご容赦いただきたく存じます。





日本史 ブログランキングへ

神社・仏閣 ブログランキングへ

お城・史跡 ブログランキングへ

甲州街道の宿場町「府中」・今に残す街道の風情と弁慶縁の寺「高安寺」

2011年12月02日 11時29分16秒 | 府中市・歴史散策
武蔵野国の守り神「大國魂神社」の大鳥居のそばを走るのが江戸五街道の一つである甲州街道です。500mに渡るケヤキ並木はこの甲州街道を横切り大國魂神社の社殿へと続いています。

旧甲州街道と大國魂神社参道

ここ武蔵野国の府中は街道の起点である日本橋から数えて4番目の宿場町としてたいそう栄えていたそうです。かつての府中宿とは「新宿」「番場宿」「本町」の3町を合わせての総称で、本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠29軒などを含んで140軒以上の家が何らかの商いに関わっていたかなりの規模の宿場町だったのです。

そんな名残りを探しに旧甲州街道に沿って西へ進むと、旧甲州街道と府中街道が交わる四つ角に現れたのがお江戸の風情を残す「高札場跡」です。交差点角を占めるように時代を醸し出すような高札場が残っています。朱色の木の柵に囲まれ、お上の権威を示すような立派な屋根のついた札懸けが目を引きます。この辺りが宿場町によくある「札の辻」と呼ばれていた場所なのです。尚、この高札場は維新後の明治3年(1870)に廃止されました。

高札場跡
高札場の札懸け
高札場柵

そしてこの高札場跡の真向かいに建つ黒塗りの蔵造りの建物が目につきます。現在は中久本店という酒屋さんになっていますが、この辺りが宿場町の問屋場があったところと言われています。

街道沿いの蔵造り

問屋場とは宿場町では最も重要な施設で、一つには人馬の継立業務で幕府の公用旅行者や大名などがその宿場を利用する際に必要な馬や人足を用意しておき、彼らの荷物を次の宿場まで運ぶという業務を担っていました。そしてもう一つは幕府公用の書状や品物を次の宿場に届ける飛脚業務である継飛脚(つぎびきゃく)を手配運営するという役割を担っていました。

高札場跡から旧甲州街道に沿って西へ進むこと100mほどのところに府中宿を構成した3町の一つである「番場宿」址の石碑が置かれています。

番場宿跡碑

この番場宿址碑から更に200mほど旧街道を進んだところに、府中宿の中では古刹、名刹を謳われる曹洞宗の高安寺が堂宇を構えています。

高安寺石柱

ここ高安寺が建つ場所はなんと平将門を討伐した田原藤太こと藤原秀郷の居館があったと伝えられています。その後、平安時代に秀郷の居館址に見性寺という寺院が建立され、鎌倉時代にはあの源義経一行が鎌倉入りを許されず、当寺にしばし滞在したという言い伝えが残っています。

更に当寺は鎌倉幕府滅亡を決定付けた「分倍河原の合戦」の際には、新田義貞軍の本陣が置かれ、そのため合戦の最中に当寺は焼失したと言われています。その後、焼失した見性寺の跡地に足利尊氏によって建立されたのが龍門山高安護国禅寺(臨済宗)で、足利幕府の庇護の下で寺勢が拡大していきました。

しかし時代が下り、戦国の世になると寺勢は衰え荒れ果てていきますが、江戸時代の初期の慶長年間に曹洞宗に改め、寺号も高安寺として再興し現在に至っています。

高安寺山門
山門向拝部分

旧甲州街道沿いの参道を進むと右手に立派な山門が構えています。禅宗のお寺特有の山門から本堂が直線状に配置されています。美しい二層の山門の左右には荒削りの二天が座しています。

二天(左)
二天(右)

山門をくぐると右手に現れるのが宿場町に時を告げた鐘「時の鐘」が置かれています。私が訪れた時間が午前11時30分だったのですが、ちょうど時を告げるように心地よい鐘の響きが耳に入ってきました。

時の鐘

ご本堂は禅宗らしい飾り気のない落ち着いた雰囲気を醸し出しています。そして見つけたのが「弁慶硯の井」と書かれた案内表示なのですが、前述のように当寺がまだ見性寺の時代、義経一行が鎌倉入りを許されずに当寺に滞在した謂れがあることはすでに記述いたしました。

ご本堂

義経が自身の潔白を記し、大江広元に送ったあの有名な「腰越状」は鎌倉の満福寺で書かれたものなのですが、結局は許されず義経一行は鎌倉を後にすることになります。その時にこの場所にあった見性寺に立ち寄り、弁慶らとともに「大般若経」を写経し、その硯を洗った井戸が残っているとのことなのです。

秀郷稲荷神社
秀郷稲荷神社

その井戸はご本堂の左手に広がる墓地の脇の道を進んでいきます。すると前方に小さなお社が現れます。そのお社はかつてこの場所が田原藤太の居館があったことで、それに因んで建てられた「秀郷稲荷神社」と名付けられています。由緒書きがないので、当社がいつごろの創建なのかとんとわかりません。

弁慶硯の井の石碑
弁慶硯の井

祠の右手に崖を下るように作られた細い道を降りていくと、武蔵坊弁慶が硯を洗ったという井戸が木々の葉に覆われた薄暗い場所に置かれています。こんな場所と言ってはなんなのですが、義経や弁慶にまつわる伝説は東日本各地に多く残っています。特にここ府中は鎌倉街道が通る要衝の地であることから、義経一行がここを訪れていたことはまんざら作り話ではないような気もします。





日本史 ブログランキングへ

神社・仏閣 ブログランキングへ

お城・史跡 ブログランキングへ

武蔵野国の守り神「大國魂神社」と小さな東照宮~秋色のけやき並と古社の佇まい~

2011年12月01日 16時28分25秒 | 府中市・歴史散策
東照宮詣でに明け暮れた今年一年を振り返りながら、ふと全国の東照宮リストなるものをウェブで眺めていると、東京西部の府中市に鎮座する「大國魂神社」の境内になんと東照宮があるではありませんか。この東照宮がどれほどの規模のものかは定かではなかったのですが、是非お参りをしなければと早速出掛けてみました。

大國魂神社中雀門

大國魂神社が鎮座する府中は京王線の府中駅が最寄の駅です。お洒落な駅ビルを抜けて地上に降り立つと、神社へ通じる見事な「ケヤキ並木」がまず目に入ります。かなりな樹齢を誇る「ケヤキの木」が神社の参道である道の両側に続いています。このケヤキ並木は国の指定天然記念物になっています。全長500mの神社参道に沿って150本のケヤキの木がトンネルのように続きます。

ケヤキ並木

実はこのケヤキの並木については次のような言い伝えが残っています。話は古くなりますが、時は康平5年(1062)の頃、源頼義(みなもとのよりよし)・義家(よしいえ)父子が奥州安倍一族の乱を鎮圧し、その帰途、けやきの苗1,000本を寄進したことに始まるといわれるのが、ここ「馬場大門けやき並木」なのです。そんな言い伝えが残る並木の一画に前述の源義家の像が置かれています。そして鎌倉時代には源頼朝が神社社殿を造営し、天下泰平の祈願所としています。

源義家像

また「馬場大門」という名前の由来ですが、古来より武蔵国は良質の馬を産するとされており、武蔵国府の馬市は権威ある存在だったのです。この国府があった場所が現在の大國魂神社の境内なのですが、そんな情報を知っていた家康公はここ国府の馬市で手に入れた馬のお陰で関ヶ原、大阪冬の陣、夏の陣で勝利を収めることができたことで、その勝利の礼として新たな馬場を寄進し、慶長11(1606)には社殿の造営を行っと伝えられています。そんなことで家康公と大國魂神社とは浅からぬ関係があったのです。

ケヤキ並木を進んでいくと旧甲州街道を挟んで向こう側に2本のケヤキの大木と大國魂神社の石柱そして大鳥居が現れます。

大國魂神社石柱

大鳥居をくぐり更に進んでいくと右手に「ふるさと府中歴史館」が見えてきます。この歴史館が建つ場所にあの大化の改新(645)の年に創設された武蔵国府が置かれていたのです。その場所には国府跡の石碑が立っています。

国府跡石碑

長い参道が終わる頃、前方に改築なった随身門が現れます。実は大國魂神社は今年(2011)は御鎮座壱千九百年の佳節年にあたり、この記念事業として随身門が改築され完成にいたりました。この随身門の手前には古めかしい鼓楼が置かれていますが、この鼓楼は慶長年間に家康公が江戸開幕を祝って本殿の造営とともに建立したものですが、正保3年(1646)の火災で焼失、その後、嘉永7年(1854)再建されたものです。

鼓楼
随身門

真新しい木材の香りが漂う随身門を抜けると鮮やかな朱色を施した中雀門が現れます。この中雀門は明治維新百年を記念して昭和44年に建て替えられたものです。

中雀門

中雀門を抜けると正面にどっしりとした構えの拝殿が置かれています。この拝殿は明治18年に完成したものです。

拝殿

この拝殿の右手奥に目指す「東照宮」が鎮座しています。拝殿と木々が茂る薄暗い場所に鎮座する「東照宮」は一瞬、目を疑うくらいの質素な、目立たない存在の門と社があるだけだったのです。門は唐門とは言いがたいくらいの、なんら装飾や彩色がない地味なものです。門の柱に東照宮と書かれた札が掲げられていることで、かろうじてこれが「東照宮」であることがわかります。

東照宮御社
東照宮御門
東照宮社殿
東照宮社殿

大國魂神社の境内に「東照宮」があるの?という理由ですが、確かに家康公とは浅からぬ関係の当社ですが、実は家康公歿後、駿河の国の久能山から下野の国二荒山に霊輿を遷された時、その途中にここ国府の斎場に一夜逗留をしたことで、元和4年(1618)に二代将軍秀忠公の命により造営されたとのことなのです。

このように家康公の亡骸が日光へと遷される途中に立ち寄った場所はかなりあると思うのですが、
同じ立ち寄った場所でも川越の喜多院の場合は天海僧正のお力ゆえに、それはそれは壮麗な東照宮が造営されているのに比べここ大國魂神社境内の東照宮は足元にも及びません。

日本各地には社殿の傍らに小さな東照宮を祭る神社が数多くあります。その由緒も家康公が鷹狩にこられた場所だから、とか家康公が鷹狩の途中で腰掛けた石があるとか、はたまた家康公が腰を下ろした「ムシロ」を御祭神にしたとか…、さまざまな云われを持つ東照宮があるようです。まあ、それに比べれば、ここ大國魂神社の東照宮はそれなりの由緒があるようなので、家康好きの私としては一応納得した次第です。





日本史 ブログランキングへ

神社・仏閣 ブログランキングへ

お城・史跡 ブログランキングへ