大江戸散策徒然噺 Introducing Japanese culture and history

豊かな歴史に彩られた日本の文化と歴史を紹介

牛天神は小石川の隠れた梅の名所~梅香薫る北野神社~

2012年03月16日 11時00分13秒 | 文京区・歴史散策
小石川といえばこの時期、観梅の名所はやはり水戸徳川家の上屋敷であった「小石川後楽園」なのですが、実は隠れた梅の名所があるんです。

地下鉄丸の内線の後楽園駅から「小石川後楽園」の長い塀を見ながら歩くこと5分程度で「牛天神下」の三叉路の信号にさしかかります。この三叉路の一番右の道を登り、最初の角を右手に折れると北野神社(牛天神)への石段が見えてきます。

北野神社ご社殿

石段下から見上げると、石段を覆うように満開の梅の花が咲き誇っています。

石段の梅の花
石段の梅の花

ここ北野神社は別名「牛天神」と呼ばれているのですが、その由緒は源頼朝が1184年の東征の際にここの入り江の松に船をつなぎ波風が静まるのを待つ間に見た夢の中に、菅神(道真公)が牛に乗って現れ、頼朝に二つの吉事があると告げたといいます。
夢の中に現れた道真公は頼朝に武運満足の後は社を営むべしと告げ、夢から覚めると牛の形をした石が残されていたといいます。そんな夢のご利益で、その後頼家が生まれ、宿敵平氏を西に追うことができたことで、この場所に社殿を造営した云われが残っています。ご祭神はもちろん「菅原道真公」です。

今は小石川の高台に鎮座する北野神社ですが、その昔は川なのか、海なのかわかりませんが水辺に面した場所だったのでしょう。この小高い丘の上に社殿が置かれています。

それほど広くない境内全体が梅の木で覆われ、そのすべての梅の木に満開の梅の花が咲き誇っています。訪れる人もまばらな北野神社では、満開の梅の花を独り占めできるのです。

社殿前の梅の花
青空に映える梅の花
社殿前の梅の花
境内俯瞰

社殿前には道真公が牛に乗って現れた夢を表すように2頭の牛が狛犬の代わりに置かれています。時折、吹く北風に満開の梅の花をつけた枝が揺れ、そのたびに花弁が境内を舞う様子はなんとも趣を感じる瞬間です。

牛と社殿と梅の花
末社の大田神社

牛天神の満開の梅の花も今が盛りのようです。明日土曜日は生憎の雨模様の予想ですが、小石川後楽園の観梅のついでに、ここ牛天神の梅も愛でてみてはいかがでしょうか。





日本史 ブログランキングへ

神社・仏閣 ブログランキングへ

お城・史跡 ブログランキングへ

護国寺は桂昌院殿のあくなき帰依の証~綱吉公とその母の夢の跡~

2012年03月15日 23時50分54秒 | 文京区・歴史散策
東京文京区大塚の地に護国寺は将軍綱吉公とその生母である桂昌院の権勢を今に伝えるよう、威厳を持った佇まいを見せています。

護国寺観音堂

徳川将軍家の菩提寺は将軍墓所を持つ上野寛永寺(天台宗)と芝増上寺(浄土宗)なのですが、この他に徳川家に縁のある方々が埋葬されている小石川の傳通院も菩提寺として位置づけられています。

しかしここ護国寺は五代将軍綱吉公の時代(天和元年/1681年)に、仏の教えに深く帰依した綱吉公の母である桂昌院殿の個人的な発願で建立されたもので、菩提寺としての位置づけではなく、桂昌院殿の念持仏である琥珀如意輪観音を本尊とするあくまでも桂昌院殿の祈願寺だったのです。穿った見方をすれば、桂昌院殿の護国寺建立の発願も、綱吉に取り入った僧「隆光」の入れ知恵だったのかもしれませんが……?

桂昌院殿の祈願寺といっても、やはり将軍生母の肝いりで建立した寺だけのことはあります。先の大戦でも焼失を免れた堂宇が広い境内に点在し、将軍生母のあくなき帰依の証を目の当たりにすることができます。上野寛永寺の堂宇はことごとく失われ、当時の様子を知るものは何もありません。一方、芝増上寺も創建当時の堂宇は山門である「解脱門」しか残っていません。

護国寺にはかなり以前になりますが一度訪れたことがあるのですが、境内をゆっくりと散策した覚えがありません。また当時は護国寺のバックグランドを知らずにただ立ち寄っただけにすぎなかったため境内の様子すらはっきりと覚えていませんでした。

地下鉄有楽町線の護国寺駅はそれこそ護国寺正面に建つ「仁王門」そばに出入り口があります。キョロキョロと探すこともなく、堂々とした「仁王門」が目の前に現れます。

仁王門

深い朱色で彩られた大きな仁王門は江戸時代の元禄期の建立と伝えられています。正面両脇に金剛力士像(右に吽形、左に阿形)、そして背面両脇には二天像(右に増長天、左に広目天)が安置されています。

仁王門をくぐり広い参道を進むと左右に水盤舎が対で置かれ、その向こうに石段がつづきます。石段を登りきったところに建つのが「不老門」です。この門は昭和13年に建立されたものですが、扁額の文字はご維新後の徳川宗家を継いだ田安家の徳川家達氏のご執筆とのことです。

水盤舎(左側)
水盤舎(右側)
不老門

この不老門をくぐると広い境内が目の前に広がります。その真正面に当山のご本堂である「観音堂」が立派な姿を現します。

観音堂(ご本堂)

境内左手には二重の多宝塔が美しい姿を見せています。この多宝塔は昭和13年に建立されたもので、近江(滋賀県)の石山寺の多宝塔を模したものです。

多宝塔
多宝塔と月光殿

そして多宝塔と対峙するように置かれているのが仏像です。仏像の奥には石積みの土台を持つ鐘楼が置かれています。入母屋造りの鐘楼堂は江戸時代の中ごろの建立で、梵鐘は天和2年(1682)に寄進されたものです。

仏像
鐘楼堂

鐘楼堂の裏手の石段を下りると、これまた歴史を感じさせるお堂が一つ置かれています。宗祖弘法大師を祀る大師堂なのですが、元禄14年(1701)に再営された旧薬師堂を、大正15年(1926)の火災以降に大修理し、現在地に移築して大師堂としたものだそうです。

大師堂

そして当山の象徴的な建物がご本堂である「観音堂」です。このお堂に桂昌院殿自身が信仰する念持仏「如意輪観世音菩薩(絶対秘仏)」が納められています。お堂を支える太い木の柱や梁には創建当時の木目が鮮やかに浮かび上がり、元禄時代の建立の証を今に伝えています。

観音堂
観音堂

観音堂の左脇にもう一つのお堂があります。小さいながらも歴史を感じさせるもので「薬師堂」と呼ばれています。このお堂も建造は古く、元禄4年(1691)に遡ります。江戸時代の元禄にまで遡る建造物が残る護国寺は将軍家菩提寺ではないにしろ、将軍綱吉公とその母桂昌院殿の仏に帰依する思いの深さを感じさせるものがあります。

薬師堂

そんな護国寺は明治に入ると、その墓地の大半が皇族(宮家)のものとなります。ご本堂のちょうど裏手には幕末(文久3年)のクーデター・八月十八日の政変により朝廷を追われ、京都を逃れて長州へ移った「七卿落ち」の一人「三条 実美(さんじょう さねとみ)」の墓もあります。

また、明治の元勲「大隈重信」の墓所が周囲から隔絶されたように頑丈な門に閉ざされ、墓所の奥まった場所にりっぱな墓石が置かれています。

大隈重信の墓域
大隈重信の墓石

ついでながら、墓地を歩いていると極真空手の大山倍達(おおやま ますたつ)の墓がありました。

大山倍達の墓

護国寺を辞して、地下鉄大塚駅方面へ進むとすぐ左手に現れるのが、護国寺の惣門です。どっしりとした風格のある門なのですが、寺院の門というよりか武家の屋敷門のような雰囲気を漂わせています。実は五万石以上の大名クラスの門に相当する造りということなのですが、当山が幕府の厚い庇護を得ていたことの証となる門構えなのです。

護国寺惣門

そしてこの惣門に隣接するようにもう一つ門が構えています。これこそ武家の屋敷門そのものといった造りなのですが、特に説明書きが見当たりません。目を凝らして良く見ると、瓦に菊の御紋章らしきものが形どられています。おそらく護国寺には皇族(宮家)の墓地があるため、この門は皇族(宮家)の方々の専用の門ではと推察いたしますが……?



まあ、それにしても桂昌院殿は護国寺を建立するためにどれほどの幕府公金を費やしたのでしょうか?
綱吉公も僧隆光のために護持院をはじめいくつもの寺を建立するなどの大盤振る舞いをしたため、幕府の財政はかなり厳しくなっていたといいます。そんなこんなで明暦の大火で焼失した江戸城の天守の再建も財政事情悪化で中止せざるを得なくなるほど、桂昌院殿と綱吉公は神頼みならぬ、仏頼みに熱中していたのかもしれません。





日本史 ブログランキングへ

神社・仏閣 ブログランキングへ

お城・史跡 ブログランキングへ

錦秋に輝く根津の社殿~秋色に装う根津神社~

2011年11月25日 18時26分46秒 | 文京区・歴史散策
都内に数ある神社の中でも個人的に最も好きなのが「根津神社」です。東照宮とみまがうほどの壮麗な楼門、唐門そして社殿を配した境内の大銀杏は秋深まるこの時期に見事な黄葉を見せてくれます。

根津神社楼門

秋晴れの今日、下町根津へ足を運んでみました。この時期の都内の紅葉、黄葉はその地域によってちょうど見ごろであったり、まだ少し早いのかな、とまちまちなのですが、ここ根津神社境内は銀杏の葉の黄葉がまさに見ごろといったところです。

朱色の大鳥居に覆いかぶさるように黄金色の葉を纏った銀杏が素晴らしいコントラストを描いて迎えてくれます。

根津神社大鳥居
鳥居と黄葉
楼門
楼門
根津神社境内俯瞰

神橋の向こうにどっしりと構える朱色の楼門が色付いた銀杏の葉と絶妙な絵柄を見せています。比較的広い境内なのですが、どこからカメラを構えても黄金色に色付いた銀杏の木がアングルの中に収まります。

神楽殿
透塀
唐門
社殿前
楼門

そんな錦秋たけなわの根津神社境内の様子をお届けします。





日本史 ブログランキングへ

神社・仏閣 ブログランキングへ

お城・史跡 ブログランキングへ

梅雨の彩り「紫陽花」が咲きほこる白山神社

2011年06月23日 11時02分33秒 | 文京区・歴史散策
梅雨といえば紫陽花の季節です。都内の庭園や寺社の境内には少なからず紫陽花がその彩りを添えているのが今の季節です。

夏至を迎え、梅雨の晴れ間の暑い陽射しの中、涼を求めて都内では有数の紫陽花の名所として知られている文京区白山に鎮座する白山神社へ散策を愉しみました。

白山神社本殿

ここ白山神社では恒例の文京あじさい祭りが行われるのですが、すでに祭りの期間は終わり、訪れる人もかなり少なく境内は閑散としていました。祭りの期間は終わっているのですが、境内の処々には満足できるだけの紫陽花の花弁が私たちを癒してくれます。

境内には3000株の紫陽花が植えられているといいます。初めて訪れてみたのですが境内には期待するほどの紫陽花の乱舞はありませんでした。物足りなさを感じながら社殿の裏側(白山公園)に回ると、社殿裏の植え込みに紫陽花の花が乱舞していました。







社殿の裏手には浅間神社の富士塚があり、塚全体にも紫陽花が植えられています。ただ塚に登れるのは「あじさい祭り」の期間中だけで、すでに門は閉まっていました。





神社の本殿を背景にして咲く紫陽花の花が鎮守の杜にそよと吹く風にゆらりと揺れている風情は、まもなくやってくる本格的な夏の到来を告げているような趣を感じました。





日本史 ブログランキングへ

神社・仏閣 ブログランキングへ

お城・史跡 ブログランキングへ

お江戸掘坂小石川・こんにゃく閻魔は眼病・歯痛にご利益あり【掘坂小石川】

2010年12月13日 12時50分17秒 | 文京区・歴史散策
徳川家菩提寺「伝通院」からさほど離れていないところに、珍しい名前の閻魔堂があります。通称「こんにゃく閻魔様」と呼ばれ、眼病を癒していただけるという有難い閻魔様です。

こんにゃくえんま石柱

寺名は常光山源覚寺(文京区小石川2-23-14)です。白山通りの西片交差点を左に入るとこんにゃく閻魔さまの山門が見えてきます。山門入口は間口もそれほど広くなく、気が付かなければ通り過ぎてしまいそうな控えめな佇まいです。

閻魔堂

由来を紐解くと、お江戸宝暦年間のこと、眼病をわずらった老婆が思い余って閻魔大王に21日間 の祈願をこめたところ、夢枕に閻魔大王が現れ 「願掛けの満願成就の暁には、私の両目の内、一つをそなたに差し上げよう」 と告げられたといいます。 すると不思議な事に満願の日老婆の眼は治癒していたと…。老婆は閻魔大王の恵みに感謝して、あらためて本堂の像を見ると閻魔大王の右眼が ひび割れ盲目となっていたそうです。それ以来、老婆は好物であった「こんにゃく」を断ち、それを 閻魔様に供えるようになりました。 このことから、眼病治癒の閻魔様として江戸庶民の信仰を集めたそうです。但し、江戸の三閻魔には数えられていません。

狭い参道を進むと、それほど広くない境内の奥に閻魔堂が置かれて居ます。閻魔様が鎮座されている閻魔堂の扉は少し開けられ中を穿うことができます。前述の謂れの通り、閻魔様の右目がひび割れているのかを確かめてみましたが、言われてみれば「そうかな?」という感じでした。私自身、それなりの年齢がゆえに正真正銘の「老眼」で日常の生活でも読み書きに難儀しています。少しでも老眼が治ればと思い、こんにゃくを買って閻魔様へ捧げお願いをした次第です。

閻魔様に捧げたこんにゃく

ちなみに「こんにゃく」は「困厄」に通じるということで、「こんにゃく」をお供えして閻魔様に身替りを請い「困厄」 から逃れることを願う意味が込められているそうです。

そしてもう一つ、閻魔堂の右手に小さな祠があります。その祠には遠目でも2体のお地蔵様がいらっしゃることが分かるのですが、そのお地蔵様の足元から腰あたりまで、まるで雪が積もっているように白いものが覆っているのです。
祠の脇に「塩地藏尊」と書かれた由緒書が立っています。由緒書にはこんなことが書かれていました。

塩地藏様

歯痛で苦しむ人が塩を備えてお地蔵さんに祈り、なおったら塩を倍にしてお地蔵さんにお礼参りをする。という言い伝えがあるそうです。昔から「塩」で歯を磨くという慣習はあった訳ですから、日ごろの習慣として塩を使ってということではないにしろ、きちんと歯を磨きなさいという教えが込められているような気がします。

境内に目と歯に御利益がある有難い閻魔様とお地蔵様がいるのであれば、ついでに耳に効く何かがあればと見回したところ、私の勝手な解釈ですがあったんですね。なんと「毘沙門天」の祠です。

毘沙門天(多聞天)御堂

ご存知のように「毘沙門天」は別名「多聞天」とも言われています。常に仏を守護してその説法を多く聞くことから「多聞天」と名付けられているということは…、当然「耳」に関係しているのでは?
顔の中の目、歯(口)、耳の三つが境内に揃い有難い御利益が得られるのでは、と本当に勝手な解釈なのですが一理あると思われませんか?大変失礼しました。





日本史 ブログランキングへ

神社・仏閣 ブログランキングへ

お城・史跡 ブログランキングへ

お江戸の鎮護不動尊「府内五色不動」の一つ「目赤不動」の佇まい【本郷本駒込】

2010年12月12日 10時30分12秒 | 文京区・歴史散策
広いお江戸にはその鎮護と天下泰平を祈願して市中の周囲五つの方角に不動尊を選んで割り当てた「五色不動【五眼不動】(目白、目赤、目黒、目青、目黄)」があるんです。この五色不動を具申したのが、上野寛永寺創建で知られる天海僧正なのですが、当時江戸府内にあった名のある不動尊を指定したものです。



江戸城鎮護のために不動明王像を造立し、王城鎮護の四神にならい江戸城の四方に配置したのが目黒・目白・日赤・目青の四不動で、これを後になって徳川将軍家光が、四不動に目黄不動尊を加えた五つの不動尊を「五眼不動」としてお江戸の結界を造りあげていたのです。即ちこの五色とは「目の色」にあるのではなく、東西南北中央の五方角を色で示したもののようです。
しかしながら明治以降、各寺が統廃合や移転などで、そもそもの江戸時代の結界はくずれて本来の役目は終わってしまっていると言われています。

ご本堂

不動明王は悪魔を降伏するために恐ろしい姿で、すべての障害を打ち砕き、おとなしく仏道に従わないものを無理矢理にでも導き救済するという役目を持つ「大日如来」の使者なのです。憤怒の形相で、右手に宝剣を持ち左手に縄を持つ恐い姿をしていますが、その心は人々を救済しようとする厳しくもやさしい慈悲に満ちているのです。

本郷通りを歩いているうちに、以前からお参りをしたいと思っていた目赤不動様にたまたま行き当たったのです。「本郷もかきやすまでは江戸の内」と詠まれたように、江戸の府内の線引きの内側に位置する目赤不動様は確かにお江戸の結界の重要なポイントをなしていたように思われます。

天台宗大聖山南谷寺が正式な寺名です。開基は元和年間(1615~24)、万行和尚が伊勢国赤目山で、不動明王像を授けられ、その後、尊像を護持して諸国をめぐり、駒込村の動坂に庵を開き赤目不動と号したと言われています。



本堂通りに面して南谷寺と目赤不動尊とそれぞれ異なった色の文字で刻まれた門柱が立っています。山門からやや下るような参道を入っていくと、右手に不動明王を祀るお堂が静かに佇んでいます。

 



お堂に近づいて行くと、扉が半開きになっていて、誰でもが扉を開けて不動明王のお顔を拝めるようになっていました。薄暗いお堂の中で蝋燭の淡い光に反射した怖い目が微妙に輝いていました。



お堂の前に鎮座する右側の狛犬の台座に興味ある文字が刻まれていました。「神刀流開祖 天下無敵 日比野雷風 同正明」とありました。はじめて見聞きする流派「神刀流」とは一体なんなのか?調べてみました。

 



比較的新しい流派で、明治23年開祖日比野雷風によって、創案された剣武術と居合の流派です。剣武とは詩吟にあわせてその詩の内容を舞で表現するものです。

開祖日比野雷風は幕末の激動期の元治元年(1864)に鹿児島で誕生。雷風のお父さんは刀鍛治で新徴組お抱えの刀剣鍛冶だったのです。そんなことで「刀」とは浅からぬ関係を持ちつづけた雷風は明治23年、神刀流剣武術(剣武・居合)を大成させたのです。東郷平八郎、乃木希典、伊藤博文、伊藤祐亭、徳川達孝、徳富蘇峰、頭山満、渋沢栄一、寺内正毅等、当時の名士たちに愛され、お屋敷に招かれては演技を披露したと伝えられています。そんな方の名が台座に刻まれた狛犬がなぜ当寺に寄進されたかの理由は定かではありません。

もう一つの目黄不動~江戸川・平井「最勝寺」~
お江戸府内の結界の一つ・目青不動を訪ねて~竹園山最勝寺教学院~
お江戸府内の結界を守る名刹・目黒不動尊(龍泉寺)





日本史 ブログランキングへ

神社・仏閣 ブログランキングへ

お城・史跡 ブログランキングへ

お江戸巣鴨のとげぬき地藏~すげえ!ここは婆さんばかりのパラダイス~【巣鴨岩槻御成道沿い】

2010年12月11日 23時09分55秒 | 文京区・歴史散策
JR巣鴨駅の改札口を抜け、白山通りにでるとそこはもう婆さんたちのパラダイス。何が可笑しいのか、楽しげに笑う婆ちゃん達の笑い声が聞こえてくる。旦那を家に置き去りにして、仲良し婆ちゃんが三人寄れば漢字の文字のようになんとも「姦しい」。

かなり昔に一度お参りにきた記憶があるのだが、これほどまでに婆ちゃんが群れている光景はなかったように思う。いったいいつ頃から「婆ちゃんたちの原宿」状態になったのだろうか?
聞きしに勝る婆ちゃんパワーが駅前広場にも溢れている。こんなパワーを駅前で発散するだけの元気があれば、わざわざ「とげぬき地藏」に長生きの願掛けをする必要もないのでは……と邪推する始末。

婆ちゃんたちの列の流れに身をまかせ、地藏通り商店街へと歩を進めていくことにしましょう。歩きながら婆ちゃんたちは、「○○のお煎餅は一袋5枚入りで90円で安いのよ。」「○○のお茶屋では無料で何杯もお茶を飲めるのよ。」「果てはあそこの○○は美味しくないから買わないほうがいいわよ。」なんて取るに足らない会話がいやでも耳に入ってくる。この会話の内容から、婆ちゃんたちは暇さえあれば巣鴨の原宿に遊びに来てるんだということを理解したのです。

それほど巣鴨とげぬき地藏は婆ちゃんたちにとっては楽しいところなのだろうか?婆ちゃんたちの楽しい話をかいま聞きながら歩くいて行くと、もう巣鴨地藏通り商店街の入口にさしかかってきました。

巣鴨地藏通り商店街入口

商店街のアーチをくぐると、そこは門前町の賑わいを通りこして、アメ横の賑やかさが巣鴨に出現したかのような様相。確かにお煎餅屋さんが通りの左右にちらほらとでてきます。5枚入り90円の煎餅屋さんはどこにあるのかな、と興味本位につい探してしまいます。

婆ちゃん好みの衣料品のお店には「赤」づくしの肌着や靴下などを売っています。これって還暦の祝いのためのものなのでしょうか?

通りの左右に軒を連ねるお店を眺めながら進んでいくと、とげぬき地藏の山門が右手に見えてきます。さて「とげぬき地藏」ですが正式の寺名は曹洞宗萬頂山高岩寺で、開基は今から約400年前の慶長元年(1596)の押しも押されぬ名刹・古刹なのです。



山門

当初、江戸湯島の地に開かれましたが、明暦の大火の前年に下谷屏風坂に移りました。明治に入って24年にここ巣鴨に移転し今に至っています。ご本尊は「とげぬき地蔵」として霊験あらたかな延命地蔵尊(秘仏)です。

心のトゲ、心の罪(トガ)まで抜いてくれると言われ、御影(おみかげ)は縦4cm、横1.5cmの和紙の中央に、高さ2.3cmの尊像が描かれています。のどに魚の骨がささった時、飲んだり痛いところに貼ると治ると言わています。まあ、年輪を重ね人間が丸くなった婆ちゃんたちには今更といった感もあるのですが、魚の骨よりも「入れ歯」が喉にささることのほうが心配ですよね。

ご本堂の左手に婆ちゃんたちの長い列ができていました。

洗い観音前の列

何の列かと列の先頭まで行ってみると、婆ちゃんたちが黒い観音様を水を含めた白い布で無心というより、何かにとりつかれたように撫でていました。

洗い観音

この観音様が「とげぬき地藏」かと列に並んでいる婆ちゃんに尋ねたところ、「ちがうわよ!洗い観音様よ。」「あんたも痛い場所があるんなら、観音様の体の同じ場所を布で洗ってさしあげなさい。そうしたら治るわよ。」へえ~。医者いらずの観音様だったんだ。

若くもないので体中痛いところばかりなのですが、あまりの長蛇の列でいつ順番が回ってくるかわからないので、次の機会ということで「とげぬき地藏様」をあとにしました。





日本史 ブログランキングへ

神社・仏閣 ブログランキングへ

お城・史跡 ブログランキングへ

お江戸八百屋お七所縁の寺・円乗寺のお七の墓に詣でる【文京白山】

2010年12月11日 09時22分50秒 | 文京区・歴史散策
本郷通りからそれるように斜めに続く旧白山通りのなだらかな坂を下りきったところにお七を祀る円乗寺があります。林立するマンションの谷間にひっそりとした面持ちで円乗寺は佇んでいます。山門というほどのものも無く、門柱の脇に八百屋お七墓と刻まれた石碑が立てられています。





天和3年(1683)3月29日に八百屋お七は鈴ヶ森刑場で火あぶりの刑に処せられました。
江戸本郷の八百屋太郎兵衛の娘として生まれたお七は幼い恋慕の挙げ句に放火未遂事件を起こしたことで知られています。そもそものいきさつは天和2年(1682)12月28日の大火(おそらく天和の大火)で檀那寺(駒込の円乗寺、正仙院とする説もあるようです)に避難した際、そこの寺小姓生田庄之助(吉三もしくは吉三郎とも、または武士であり左兵衛とする説もあります)と恋仲となってしまいます。翌年、彼女は恋慕の余りその寺小姓との再会を願って自分の家に放火未遂を起した罪で捕らえられ、鈴ヶ森刑場で火刑に処されたのです。これが一般的に伝わっているお七の恋道の末路なのです。

尚、貞享年間(1684~1688)に発行された「天和笑委集」によるとお七の父親は本郷森川宿の八百屋市左衛門と記され、避稚した寺は正仙院としています。お七の恋の相手は寺小姓の生田庄之助で、お七は近所の商家に放火し捕えられて火刑に処されました。一方、庄之助は自殺を図ったのですが、思い直し高野山に登ったという。付け加えて、正仙院に該当する寺は駒込界隈には存在しません。

お七処刑から3年後の貞享3年(1686)に井原西鶴がこの事件を『好色五人女』の巻四に取り上げたことでお七は日本全国で有名となり、以後浄瑠璃や歌舞伎の題材となっている事はご承知のことでしょう。

円乗寺ご本堂

そんな逸話の残るお七を訪ねて円乗寺を訪ねてみました。ビルの間に埋もれるように佇む円乗寺には境内らしきものがなく、参道とも単なる道とも言えるような所を進むと、本堂手前の左手に社が現れます。この社にお七の墓が置かれています。墓地の中の一角ではなく、あえて造ったといった風情の墓です。

円乗寺の参道?

社には3つの石碑?が並んでいます。真ん中の丸い石が寺の住職が供養のため建てたもので、右側は歌舞伎役者岩井半四郎が建立したもの、左側は近所の有志が建立したものです。

 

 



火付けといっても放火未遂の犯罪で、市中引き回しの上、火あぶりの刑はあまりの極刑。恋こがれる相手と会いたいがための無謀な行動であったと言ってしまうには余りに無情、無慈悲。こんな一途な女性はいつの時代でも男にとっては魅力があるのかもしれません。私が円乗寺境内にいる間にも、若い男性が何人もお七の墓に詣でる姿を垣間見ました。ということは、現代の平成の世においても、お七のような女性に出会いたいと思う男性がたくさんいるのかなあ、と勝手に想像した次第です。





日本史 ブログランキングへ

神社・仏閣 ブログランキングへ

お城・史跡 ブログランキングへ

お江戸駒込・吉祥寺は歴史を飾った偉い方々の集う場所【本郷通りの一大名刹】

2010年12月10日 22時14分33秒 | 文京区・歴史散策
江戸時代の寺社地としてあまた寺院が並んでいた本郷、駒込の中で、特筆すべき名刹がります。将軍御成道として名高い岩槻街道(現本郷通り)に面して立派な山門が構えています。山門の額には「旃檀林」の文字、寺名は吉祥寺。中央線の駅名にある吉祥寺と同じ名前なのですが、まったく別物です。

吉祥寺山門

寺の由来ですが、太田道灌による江戸城築城時にまで遡る歴史を持っています。家康の江戸入府後、駿河台に寺領を持っていましたが、明暦の大火で焼失後、ここ駒込に移転したといいます。額に記されていた「旃檀林」は幕府の学問所の意味で、あの昌平坂学問所(湯島聖堂)と肩を並べていたほどの寺格であったようです。

参道

山門を入ると都心では考えられないくらいの、長い長い参道が本堂へまっすぐに伸びています。参道の右手には墓地が広がっています。参道の途中、左手に真新しい塚が立っています。塚の表面には「お七、吉三郎 比翼塚」の文字が刻まれています。ということは、あの八百屋お七とお七が恋焦がれた吉三郎のことでは?しかし比翼塚は墓ではないので、いったいどうしてここにあの火事の主人公の名が刻まれた塚があるのか?

お七、吉三郎 比翼塚

実は後世になって「八百屋お七の火事」は井原西鶴の浮世草子「好色五人女」に記述されたり、河竹黙阿弥などが脚色し芝居や人形浄瑠璃によって八百屋お七は文学や芸能の世界で生きつづけことになります。そして話は面白おかしく作られていくのですが、この話の中で火元が吉祥寺ということになってしまったのです。事実とは異なる火元なのですが、お七愛好家たちが便宜上、ここ吉祥寺境内に比翼塚を建てたと言われています。
よってお七と吉三郎の墓はここ吉祥寺には存在しないのです。実はお七の墓は白山の円乗寺境内に置かれているのはご存知でしょうか。

お七と喜三郎の比翼塚のすぐ側には吉祥寺の大仏が濡れ仏の状態で鎮座しています。

濡れ仏(大仏)

大仏様にお参りしたあと、さらに参道を進むとすぐ左手に「二宮尊徳」の墓碑が現れます。

二宮尊徳墓碑
二宮尊徳墓

尊徳の墓は栃木県今市市の二宮神社にあると聞いているので、どうしてここにもあるのだろうかと疑問が残ります。墓碑と書かれているので、本来の墓の意味ではないのかもしれません。墓碑の横にドーム状のこんもりとした墓があるのですが、これが尊徳の墓ではないかとも言われています。

そして本堂を正面にして右手に鐘楼と歴史に彩られたようなお堂が境内を飾っています。鐘楼はともかくお堂はかなり歴史を刻んでいる風に見えます。お堂は「経蔵堂」と呼ばれているもので、伽藍の建造物の中で唯一戦災を免れたものです。

鐘楼
経蔵堂

本堂に向かって左側は広大な墓地が広がっています。本堂に近い墓地は比較的新しい墓石が並んでいるのですが、墓地の奥へ目を移すとなにやら由緒ありげな宝塔が夥しいと言ってもいいくらいに並んでいます。好奇心に負けて墓地の細い道を進んでいくと、目の前に現れたのはまぎれもなくお江戸の時代の由緒正しい大名家の方々の宝塔(墓)が並んでいたのです。

 

 



伝通院で見た徳川一門の宝塔とよく似た宝塔が林立しているといった表現が正しいかもしれません。一つ一つの宝塔に刻まれた院号では生前の名前がとんと判明しません。それにしてもあまりにも多すぎる数なのです。

このブログを記述する前に、これらの宝塔について調べてみた結果、おおよそ以下の方々の宝塔(墓)があることが判明しました。
蝦夷松前藩松前氏の墓所。
新発田藩溝口の墓所。
初代谷村藩主鳥居成次。山形藩の第2代藩主鳥居忠恒。筑後柳河藩二代田中忠政
備中松山藩板倉家の墓所。幕末の老中首座板倉勝静が有名。
常陸麻生藩の墓所。初代新庄直頼以下歴代藩主
肥前福江藩五島家の墓所。
信濃高島藩諏訪家。

これほどまでに諸藩の墓所がここ吉祥寺に置かれた理由はいったいどうしてなのか?調べてみたいものです。
この他、墓を見つけることができなかったのですが、幕末に函館五稜郭戦争で最後まで抵抗をした幕臣榎本武揚の墓や天保の改革であの水野忠邦の片腕として活躍し、南町奉行の要職にあった鳥居耀蔵の墓もあるのです。
ちなみにこの鳥居耀蔵はあの遠山の金さんと常に張り合った仲なのです。

鳥居耀蔵墓(一番右)と鳥居家の墓

タイトルにも書いたように、吉祥寺の墓地には歴史を彩ったそうそうたる人物の集う場所そのもの。あの世でどんな話をしているのか聴いて見たいものです。





日本史 ブログランキングへ

神社・仏閣 ブログランキングへ

お城・史跡 ブログランキングへ

お江戸根津の荘厳社殿は将軍家の大普請~根津神社~【もう一つの天下祭り】

2010年11月17日 10時52分21秒 | 文京区・歴史散策
地下鉄根津駅から賑やかな不忍通りに沿って千駄木方面へと進んでいきましょう。途中、細い路地を左に入り静かな住宅街の中を進むと右手に社名を刻んだ立派な石柱と鳥居が目の前に現れてきます。



この鳥居が立つ場所が根津神社の表参道です。この表参道の前の道は大きく蛇行しながらなだらかな坂をつくっています。この坂道は新坂、権現坂、またはS坂と呼ばれています。S坂という呼び名はあの明治の文豪「森鴎外」の小説、青年の中で名付けられています。

さて本日のお題の根津神社ですが、実は別ページで紹介した神田明神と山王権現(現日枝神社)と並んで「天下祭り」を挙行した神社であったことについてその背景を紹介していきたいと思います。

神田明神は平将門を祀る庶民の崇敬の的、一方山王権現が武家の崇敬を集めたことで、幕府が意図的にこの二つの祭りを競わせて、所謂「ガス抜き」効果を狙ったものであると推測されるのですが、この根津神社に関してはまったく異なる次元で当社の祭山車が御城に繰り出したことが見えてくるのです。

それではその背景を簡単に紹介いたしましょう。
宝永2年(1705)、五代将軍綱吉公は兄の甲府宰相綱重の子、綱豊を養嗣子と定めます。その当時、現在の根津神社のある場所には綱重公の下屋敷が置かれていました。境内には屋敷として使われていた頃の綱豊公産湯井戸が非公開ですが残っているといいます。この綱豊公が第六代将軍家宣に宣下されると、それまで千駄木(団子坂上)に置かれていた根津神社を家宣公の産土神としてここ根津の綱重公の屋敷に移すべく、世に天下普請と言われる大造営を行ったのです。

翌年、宝永3年(1706)に完成した根津の社は壮麗を極め、あたかも日光東照宮が再現されたような佇まいを見せていたと言われています。現在でもその片鱗を残す権現造りの本殿、幣殿、拝殿、唐門、西門、透塀、楼門は将軍家の神社としての権威を今に伝え、その全てがオリジナルのままの姿で残っています。ちなみにこれら全てが重要文化財に指定されています。

南側に位置する大きな鳥居をくぐると参道は大きく右へとカーブを描き、左手の丘陵地帯には低木が一面に広がっています。この木が有名な根津神社の「つつじ園」なのです。毎年4月から5月には盛大な「つつじ祭り」がここで開催されています。

丘陵に広がるつつじ園

参道を進むと、目の前に大きく視界が広がります。並みの神社ではない広い境内をもっていることがすぐに分かります。緑色に塗られた神橋を渡ると堂々とした造りの「楼門」が歩みを遮るようにして立ちふさがっています。随身門と呼ばれていますが、門の左右に2体の像が祀られています。定かではないのですが、左側が綱吉公、右側がなんと水戸光圀公がモデル?と言われています。

楼門
楼門上の扁額
水戸光国像?

楼門をくぐると目の前に現れるのが唐門です。格調高い気品に満ちた門で、唐破風を備え権現造りの神社洋式を見事に示しています。この唐門の左右にのびる透塀は本殿地域をぐるりと囲み神域の威厳を保つ工夫がされています。当時の職人たちの技術の優位性が今に伝わる傑作の一つがこの透塀です。

唐門
唐門
透塀
透塀

そして唐門をくぐると拝殿前の広場にでてきます。1対の青銅製の燈篭が配置されていますが、この燈篭は藤堂高敏が奉納したもので、これも重要文化財に指定されています。

拝殿

拝殿はその背後に幣殿、本殿を控えそれらが一つの屋根で覆う権現造りの完成品であり、大変貴重な歴史建造物として重要文化財に指定されています。

拝殿

このようにかつての壮麗豪奢を今に伝える根津権現の「天下祭り」ですが、前述のように綱豊公(第六代将軍家宣公)の産土神として崇敬されていたことで、家宣公は幕制をもって当社の祭礼を定め、正徳4年(1714)にお江戸の全町から山車を出させ、世に言う「天下祭り」と呼ばれる壮大な祭礼を挙行しました。この祭礼は後にも先にもこれ一回限りのもので、隔年で催行された神田明神と山王権現の天下祭りとは性格が異なるものです。

神楽殿と境内俯瞰

また、家宣公生誕の地であることから、家宣公の胞衣塚(えなづか)なるものが境内の千本鳥居の中ほどに置かれています。胞衣塚(えなづか)はこの当時の慣習により、六代将軍家宣公の胎盤が納められているものです。

家宣公の胞衣塚

家宣公とは関係ないのですが、透塀にそった道筋の脇に「水飲み場」があります。この水飲み場の台座のことを「鴎外の石」と呼んでいます。実はこの台座は日露戦争の時の砲弾を置いていたもので、台座の裏に「森林太郎」の名前が刻まれています。

鴎外の石

秋深まるこの日、境内の木々の葉が色づき朱色の社殿や楼門と絶妙な色のコントラストを見せてくれました。根津、千駄木界隈の散策の途中に是非立ち寄っていただきたい場所としてお勧めいたします。静かな空気に包まれた境内でお江戸の昔を思い起こすことができる場所ではないでしょうか。





日本史 ブログランキングへ

神社・仏閣 ブログランキングへ

お城・史跡 ブログランキングへ