大江戸散策徒然噺 Introducing Japanese culture and history

豊かな歴史に彩られた日本の文化と歴史を紹介

行秋のお江戸・浜離宮恩賜庭園探訪

2015年11月06日 16時37分06秒 | 中央区・歴史散策
秋晴れの下、久しぶりにお江戸の名勝として知られる浜離宮恩賜庭園へ行ってきました。というのも大江戸散策徒然噺の散策イベントで浜離宮恩賜庭園のガイドをするための下見を兼ねての訪問です。
前回の訪問からおよそ1年以上は経過していると思います。

浜離宮恩賜庭園

地下鉄大江戸線の汐留駅を降りて浜離宮を目指すのですが、ご存じのように汐留界隈は「シオサイト」と言われる高層ビルが林立するエリアに変貌しています。東京に住んでいても皆目方向が分からないくらいにビル群がひしめき、空も隠れるほどの摩天楼街となっています。

地下鉄から浜離宮への案内指示に従って地上にでるのですが、まったく方向がわかりません。もし案内当日にこのありさまではまず道に迷ってしまいます。
まずは勘を頼りに浜離宮方面へ歩を進めます。幸運にも勘が当たったのですが、浜離宮の大手門付近はなにやら大きな工事をしているらしく、簡単に道を横切れない状況です。

ひとまずもと来た道を引き返し、今度は中の御門へ向かう道筋を探します。ここで気が付いたのですが、大手門を目指すよりはビルの谷間を抜けて、中の御門へ向かう方が道路の横断がたやすくできることでした。

中の御門から入城して、園内を一周して大手門から退場しても全く問題はありません。

中の御門にも入場券を買う受付があります。私事ですが今月11月下旬で65歳になります。本日11月6日の入場ではありますが、もう65歳と同じなので「65歳です」と告げると入場料は150円になりました。入場券にも65歳以上と入っています。

入場券
浜離宮のパンフレット

さて、中の御門からまずは花木園へと向かいます。ここには大きな東屋があり休憩場所になっています。そんな東屋の傍らに小さな茶屋が店を構えていました。以前はなかったのですが、新しくできたようです。

茶屋

さて、ここ浜離宮について簡単に説明しておきましょう。
この庭園ができたのは江戸時代の承応3年(1654)に甲府宰相綱重公がそれまで徳川将軍家の鷹狩場であった場所を埋めたてて造ったのが始まりです。
この綱重公は三代将軍家光公の子供で異母兄弟には四代将軍になった家綱公と五代将軍になった綱吉公がいます。
ということはこの綱重公だけが将軍になれなかった人物なのですが、順当にいけば当然将軍になった方です。しかし不幸にも四代将軍家綱公が亡くなる2年前に綱重公は亡くなってしまったのです。

異母兄弟の家綱公が慶安4年(1651)に将軍に宣下されたのはまだ11歳の頃です。次男である綱重公は家綱公が将軍になったときはまだ7歳の坊やですが、将軍の兄弟ということで幕府は綱重公に破格の待遇を与えています。なんと若き綱重公に甲斐の甲府に25万石を与え、徳川御三家に準ずる家紋大名としたのです。

ですから綱重公がここ浜離宮に土地を拝領したのは10歳の時なのです。当時は浜離宮という名称ではなく、綱重公の別宅として甲府お浜御殿と言われていました。
しかし、思いもよらず綱重公の子供の綱豊が六代将軍家宣となります。家宣公は将軍になるや否や、父である綱重が造ったお浜御殿を徳川将軍家直属の屋敷庭園に格上げし、むしろ江戸城の出城のような性格にしてしまったのです。

これ以降、お浜御殿は将軍家のお庭として、将軍や御台所の遊興の場、さらには朝廷からの勅使の饗応の場としての役割を担い、徳川幕府終焉の幕末まで存続したのです。

将軍家のお庭は明治維新を迎えてから新政府の迎賓館として姿を変えていきます。これによって浜離宮と名を変えていきます。

そんな歴史を思い浮かべながらお庭の散策とまいりましょう。

花木園から木々に覆われた道筋を辿っていきましょう。



木々に覆われた道筋を抜けると目の前に現れるのが浜離宮の中でも中心的な場所である「潮入り池(大泉水)」です。
その池のほとりにはかつて置かれたいた茶屋が復元されています。一つは松の茶屋です。

松の茶屋

もう一つが燕の茶屋です。以前来たときはこの茶屋はなかったのですが、まだ復元されて間もないような佇まいです。

燕の茶屋

この2つの茶屋は昭和19年まではオリジナルとして残っていたのですが、戦争末期の米軍の空襲で焼失してしまったのです。
かつての装いで復元されているのですが、外見は白木の白さが目立ち、それほど趣を感じません。難を言えば、ガラス戸になっているのが何とも無粋なのです。
いたしかたありません。なにせ平成の時代の建材を使っての復元ですから……。

それでは潮入り池に架かる「お伝い橋」を渡ることにしましょう。

お伝い橋

お伝い橋の上からは潮入り池の広がりと池の端の景色が一望できます。

潮入り池
潮入り池
燕の茶屋
小の字島

お伝い橋を進んで行くとなかほどの中の島へと繋がります。中の島には大きな茶屋があり、ここでは有料の茶菓子を提供しています。江戸時代にもここに茶屋が置かれ、将軍、御台所がここから庭を眺めたと言われています。

中の島茶屋
中の島茶屋
中の島茶屋

お伝い橋を渡りきると、前方に小高い築山が現れます。これが富士見山です。階段があるので登っています。富士見と名付けられているので、かつてはここから富士山を遠望できたのでしょう。今では高層ビル群が邪魔をして富士山を見ることはできません。

富士見山から
富士見山から

富士見山を下り、道筋を右手へ進むと運河の縁へと出てきます。江戸時代にはここは江戸湾に面していた場所です。

運河の縁

運河の縁から再び潮入り池へと戻り、少し進むとかつて「海手茶屋」があった場所にでてきます。

海手茶屋跡

もしかしたらこの場所に海手茶屋が復元されるかもしれませんね……。
この辺りで潮入り家に架かるもう一つの橋である「海手お伝い橋」を渡り反対側へ移動します。
すると前方に面白い形の築山が見えてきます。

築山

これは江戸時代にここで鴨狩を行った場所で、庚申堂鴨場と呼ばれています。
この鴨場には潮入り池とは別の独立した池があります。この池は当時から鴨の生息場所だったようです。
そんな鴨を狩るためにつくった仕掛けといったほうがいいのかもしれません。

鴨場の仕掛け

鴨場を過ぎると前方に別の築山が見えてきます。樋の口山と呼ばれています。この場所も当時は江戸湾の美しい景色をながめるためにつくられた展望台です。

樋の口山

この樋の口山の側には新樋の口山と呼ばれる別の築山があります。樋の口山には登れませんが、新樋の口山には登ることができます。築山の上から右手を眺めるとレインボーブリッジが見えます。

新樋の口山から

新樋の口山へ登る手前にあるのが「水門」です。この水門は江戸時代からあるもので、海水を取り込むためのもので、潮の干満による水位の高さで潮入り池の様子が変わるように調整していたようです。

水門

新樋の口山を下り、運河の縁を進むと階段状の石段が見えてきます。ここが「将軍お上がりの場」と言われている場所です。
当時から水辺にあったのですが、水辺に造られていたということは、船がこの場所に着いたことを意味します。
しかも「将軍お上がりの場」ということですから、将軍だけが使用した船着き場といえます。

将軍お上がりの場
将軍お上がりの場

六代将軍家宣公以降の各将軍がお浜御殿に来る際、必ず船を使ったかは定かではありませんが、将軍家には将軍専用の御座船があります。その御座船を直接この「お上がりの場」に接岸したのかどうか。

六代将軍家宣公以降、13代家定公まではここお浜御殿はさぞ楽しい場所だったに違いありません。しかし14代家茂公と15代慶喜公にとっては悲しく、やるせない場所になってしまいます。

家茂公は幕末の長州征伐のため大阪に滞在中、21歳の若さで急死してしまいます。そして遺骸は大坂から船で運ばれ、ここお浜御殿の将軍お上がりの場に着いたのです。
また、慶喜公は慶応4年1月の鳥羽伏見の戦いで官軍に敗れ、大阪から船で江戸に逃げ帰ってきます。そして着いたのがここお浜御殿の将軍お上がりの場です。

浜離宮庭園の散策も将軍お上がりの場を過ぎると終盤を迎えます。将軍お上がりの場の側には現代の船着き場があります。この船着き場は浅草とお台場を結ぶ水上バスと東京観光汽船の船が発着します。

さあ!大手門へ向けて進んでいきましょう。前方にはシオサイトの高層ビル群がまるで屏風のように立ちふさがっています。



大手門に着く手間に見事な松の木が現れます。300年の松と呼ばれているものです。この松は六代将軍の家宣公がここを将軍家の専用の庭にしたときにお手植えされたものと言われています。そう考えれば確かに300年は経っています。

300年の松
300年の松

300年の松を過ぎると、お浜御殿の正門として使われていた大手門に到着です。

大手門

秋晴れのこの日、平日の浜離宮ですが、園内にはたくさんの外人旅行客が訪れていました。日本人よりもはるかに多い数です。
都心のど真ん中に位置し、且つ外国人に人気の築地中央卸売市場(築地魚河岸)にも近いことで、浜離宮はアクセスしやすいのでしょう。いずれにしても美しく整備された浜離宮は私たち日本人にとっても自慢できる名勝・史跡です。





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お江戸日本橋の袂の桜も満開

2013年03月22日 10時55分00秒 | 中央区・歴史散策
お江戸の昔から五街道の起点として賑わう日本橋の袂に植えられている2本の桜が満開の時期を迎えています。

乙姫広場の桜
乙姫広場の桜
乙姫広場の桜

1本は「乙姫広場」、もう1本は橋を渡り交番が置かれている広場にあります。双方ともに今を盛りと満開の花をつけています。

交番前の桜

思い起こせば昨年は日本橋から品川への東海道五十三次街道めぐりの初日にここ日本橋の桜は満開を迎えていたのですが、調べてみるとなんと4月7日のことでした。それを考えると今年の満開日は昨年に比べて2週間以上も早いことになります。

日本橋の橋の付近には2本しか桜の木がないので、道行く人もそれほど興味を示さないのかもしれませんが、日本のすべての街道の起点である日本橋に艶やかな装いを演出する桜花に愛おしさを感じる一瞬です。

日本銀行前の桜
日本銀行前の桜

そして中央通りを三越方面へと進み、中央三井信託銀行の角から常盤橋の日本銀行へとつづく桜並木も美しい花を咲かせています。

私本東海道中膝栗毛~お江戸日本橋から壱番宿品川之巻~(其の壱)
私本東海道中膝栗毛~お江戸日本橋から壱番宿品川之巻~(其の弐)





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お江戸銀座のクリスマスイルミネーション~銀座中央通りの煌めき~

2012年12月01日 21時12分08秒 | 中央区・歴史散策
師走に入り銀座中央通りを飾るクリスマスイルミネーションの競演が始まりました。毎年、銀座中央通りに軒を連ねるデパートや専門店が趣向を凝らした煌びやかなクリスマスイルミネーションを競っています。

昨年は東日本大震災の年でもあり、どことなく自粛ムードが漂っていましたが、今年はいつものような派手なイルミネーションが復活したようです。

特に銀座中央通りは今や世界の有名ブランドが居並ぶショッピングストリートになっています。そしてそれらのブランド店が自らの存在感を誇示するようにド派手な飾り付けを競いあっています。

そんな銀座中央通りの道筋で最も圧巻なのが、銀座2丁目交差点界隈のブランド店のイルミネーションの競演です。
この2丁目交差点の四隅にはカルティエ、ブルガリ、シャネル、ルイヴィトンとティファニーといった超高級店がひしめき合っています。

まずはカルティエの昼と夜の顔をご覧いただきましょう。カルティエのビルは昼間でもかなり目立つ色合いで他を圧倒しているのですが、これが日没後になるとビル全体に大きなリボンをかけたようなイルミネーションが輝きます。
通りを歩く多くの人たちが2丁目交差点に立ち止り、つい写真を撮りたくなくような光景が目に飛び込んできます。

昼のカルティエビル
夜のカルティエビル
夜のカルティエビル

中央通りを挟んで、このカルティエのド真ん前に店を構えるのがブルガリです。日没前の明るい時間帯にこのブルガリの建物を見ると、巨大な2匹の蛇を形どった張りぼてがビルに巻き付いています。そう言えば、来年は巳年ということで、道行く人たちが度肝を抜かすような飾り付けにしたのではないでしょうか。

昼のブルガリビル
夜のブルガリビル
夜のブルガリビル

この大蛇が日没後は縁起のいい白く輝く「白蛇」に変身するのです。昼間に見る姿とはうって変わり2匹の美しい大蛇が頭を下にして道行く人の頭上に迫ってきます。

ブルガリの左隣に緑の葉に覆われたような店構えを見せるのが、あの有名な宝飾店であるティファニーカンパニーです。
店先を覆う緑の葉の中には小さなLEDランプが散りばめられています。そして入口を入ったロビーには背丈のあるクリスマスツリーが輝いています。夜になると小さなLEDランプが入口壁面全体に煌めき、上品な装いを醸し出しています。

ティファニーカンパニー
ティファニーカンパニー

ブルガリの並びの次のブロックは銀座松屋のメタリックな外観がつづきます。その角には多くの女性の憧れのルイヴィトンが松屋の一角を占めています。ルイヴィトンは松屋の一画ということもあって独自のイルミネーションは展開していません。

ルイヴィトン

そのルイヴィトンの対面には同じく多くの女性の憧れブランドだるシャネルがド~ンと店を構えています。総ガラス張りの建物の壁面全体がイルミネーションになっており、さまざまな絵柄がその壁面に次から次へと現れてきます。

シャネルビル

そして銀座中央通りの名物が真珠の御木本のクリスマスツリーです。今年も大きなモミの木が置かれています。そのモミの木には御木本らしい大きなパールのネックレスが巻かれています。

御木本パールのクリスマスツリー

尚、銀座中央通りの歩道脇には別のイルミネーションを準備しているようです。まもなくその工事も終わり、近日中には銀座通りはまさに光のページェントと化し、クリスマスシーズンをさらに彩ってくれるはずです。





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春爛漫のお江戸日本橋界隈

2012年04月05日 19時01分44秒 | 中央区・歴史散策
一昨日の春の嵐が過ぎ、お江戸はいよいよ春爛漫の季節を迎えています。お江戸といえば日本橋。暖かい春の陽射しに誘われて、まずは日本橋の袂の桜を愛でに行きました。

日本橋袂の桜
日本橋袂の桜
日本橋乙姫広場から
日本橋元標広場から

くっきりと晴れ上がった空の下、日本橋交番前の桜は見事に満開の状態です。交番側の橋袂からは、この時期だけ運航する「花見クルーズ」の船が繋留されています。

日本橋川に浮かぶクルーズ船

ちなみに運航日は6日(金)、9日(月)、10日(火)、11日(水)、12日(木)、13日(金)
出航時間は10:30 12:00 13:15 14:30
乗船料:大人2000円 子供1000円 未就学児童は大人一名につき一名無料
運航コース:日本橋~隅田川~深川~日本橋(川沿いの桜とスカイツリー遠望) 所要時間60分
※各便先着40名
※飲食持ち込みOK(ドリンク船内販売あり)
※尚、4月12日(木)、13日(金)にはこの2日間限定の夜桜リバークルーズが運航されます。
出航時間は18:00、19:00
乗船料:大人1500円
運航コース:日本橋~隅田川~深川~日本橋

お問合せ: 03-5679-7311
www.ss3.jp

日本橋の袂から三越側へと歩き、三越と中央三井信託銀行の間の江戸桜通りへと向かいます。江戸桜通りというくらいなので、もちろん桜の並木が続いています。ちょうど三越の陰となる通りなので日当たりが悪く、染井吉野の桜の花はまだ見頃ではありません。

江戸桜通り
江戸桜通りの桜

しかし江戸桜通りを進んで日本銀行本店へとさしかかると、桜の花はちょうど見頃となっています。

日本銀行本店前の桜
日本銀行本店前の桜
日本銀行本店前の桜

明日6日、そして7日、8日と天候も恵まれそうです。また7日(土)と8日(日)は日本橋の袂で「桜祭り」が行われます。春爛漫のひと時を日本橋界隈で過ごされてみてはいかがでしょうか?





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浜御殿を彩る白銀の世界~雪に覆われた徳川将軍家のお庭(浜離宮)~

2012年01月24日 16時10分59秒 | 中央区・歴史散策
昨夜来から降り始めた東京の雪は久しぶりに積雪4cmを記録しました。朝のワイドショーでは都内の雪景色の映像をしきりに流し、いつものように雪に弱い東京をやたらと報道したがるテレビ局の意図がありありと感じます。

幸いに今回の積雪は交通機関にさほど大きな影響を与えていないとのことで、電車に乗って都内にある名園の雪景色を堪能することとしました。

汐入池畔の松の茶屋

その名園は徳川将軍家のプライベートの御殿として第六代将軍家宣公が整備した御浜御殿(浜離宮)ですが、かねてより雪に覆われた浜離宮の美しい姿を一度見てみたいと思い、開園時間に合わせ出掛けました。

汐留のビル群

到着したのは開園時間をちょっと過ぎた頃、大手門から眺める園内には人影はまったくありません。はやる気持ちを抑えつつ、まだ誰も歩いていない真っ白な雪の上を歩きながら、冬ならではの名園散策を楽しむことにしました。

汐留のビル群

雪化粧をした御浜御殿を散策できることはめったにありません。しかもほとんど人気のない園内を独り占めしているようなチャンスもめったにありません。大寒を過ぎたこの季節には、園内を彩る花はせいぜい寒椿ぐらいなものです。落葉樹の葉はなく、寒々とした枝だけの景色が広がるのが冬の庭園なのですが、そんな味気のない冬の庭園がひとたび美しい白銀の衣装を纏うやいなや、人の手ではけっして描くことができない別の世界が現出していることがはっきりと判ります。

空と雪とビル群

まるで借景のように園の背後に林立する汐留地区の高層ビル群がターコイズブルーの空と地表に降り積もった白い雪の間で鮮やかなコントラストを見せています。

松の茶屋

御浜御殿を代表する絶景ポイントはなんといっても汐入りの池周辺の景色でしょう。その池の畔に復元なった茶屋(松の茶屋)が屋根に雪をあしらい佇んでいます。

>鏡面のような汐入池

波一つない汐入の池はまるで鏡面のように輝き、周囲の景色を見事に映し出しています。その池を囲む遊歩道にも一面に雪が降り積もり、白い絨毯を上を歩いているかのような錯覚に陥ります。遊歩道の脇の雪に覆われたなだらかなスロープに趣きを感じさせてくれるかのように松の木が青い空に映えています。

お伝い橋と中ノ島
松の茶屋遠望
汐入池の畔
青空に映える松ノ木
青空に映える松ノ木

御浜御殿名物の梅園の木々も枝々に雪を纏い趣きある風情を醸し出しています。

梅林

梅園脇の遊歩道を進むと網に覆われた広場が現れます。この場所は春の季節には数十万株の菜の花が黄色の絨毯を敷き詰めたように咲き誇ります。地表にはもう菜の花の若葉が顔を出していますが、昨夜来の雪がその若葉の上に痛々しく降り積もっていました。

菜の花畑とビル群

雪のあしたは裸で洗濯、と良く言われますが、真っ白い雪の上に降り注ぐ冬の陽射しが優しく感じる御浜御殿でのひとときでした。

お江戸名園シリーズ~六義園・将軍綱吉の庇護の下、権勢を誇った柳沢吉保の庭【岩槻街道御成道沿い】
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お江戸築地周辺の江戸そして幕末・明治の遺産巡り

2011年02月09日 16時03分34秒 | 中央区・歴史散策
連日多くの人の来場で賑わう築地市場の場内・場外の周辺には江戸時代から明治にかけてこの場所を飾ったさまざまな施設があったことをご存知でしょうか?



そもそもここ築地という土地が築かれたのはいつ頃だったのかを検証してみましょう。
それは今から350年ほど遡った明暦の時代のことです。江戸時代を通じて未曾有の大惨事となったあの「明暦の大火(1657)」で江戸の市中の三分の二が焼失し、約10万人もの死傷者をだしてしまいました。

これほどまでに被害が拡大した大きな理由として、第一にあげられることが「あまりに江戸市中の建物が密集していたこと」と言われています。開幕以来、発展してきた江戸の町は家康、秀忠、家光の三代にわたる「天下普請」によって寛永12年(1635)頃にはほぼ街としての基盤が完成しました。しかしながら、江戸に押し寄せる地方からやってくる多くの人々を受け入れるだけの余裕ある都市計画が追いつかず、江戸の町は「密集地帯」と化していたのです。そんな時に起きたのが「明暦の大火」だったのです。

幕府はそれまでの都市造りの考え方を構造的に変えなければと考え、まず内郭(内掘)に集中していた武家屋敷を内郭の外へと分散させ、併せて寺社地の郊外への移封を断行していきます。
そして、新たな土地の開墾を行うべく江戸湾の埋め立てを開始します。その工事で造成されたのが、地を築いた場所のとおり「築地」だったのです。

そして地を築く工事の過程での出来事があります。大火の後、万治年間(1658~61)にかけての埋め立て大工事は困難を極めます。ある日、工事をしていると海中から稲荷明神様の像が現れ、これを祀ったところ、江戸湾の波浪がおさまり工事がはかどった、という故事から創建されたのが現在、海幸橋至近にある読んで字のごとく波を除ける「波除稲荷神社」なのです。

波除神社本殿
波除神社獅子頭(雌)
波除神社獅子頭(雄)

この神社には天保時代に奉納された「天水鉢」があります。実は江戸時代今の築地市場の南半分に位置するあたりが尾張徳川家の蔵屋敷があったのです。藏屋敷には国表から運ばれる米や特産品が定期的に運ばれてきたのですが、この天水鉢は尾張藩の船が無事航海できるよう祈願して荷揚げ人夫たちが奉納したものです。

ついでにこの波除神社に至近にある海幸橋の親柱の由来についてご紹介しましょう。かつてはこの場所には旧築地川東支川が流れ、市場内への入口にあたることから、豊魚を祈願して「海幸橋」と名付けられました。
現在、川は埋め立てられその面影はほとんど残っていませんが、かつての橋が架けられていた4隅に親柱が残されています。そのうち2基が非常に趣あるデザインのもので鋼鉄製で造られています。
実はこの鋼鉄製の親柱はアムステルダム派のデザインを取り入れたもので昭和2年に設置され、現在中央区の文化財として保存されています。

波除神社脇の親柱
市場入口脇の親柱

さて、江戸時代の寛政の頃、ここ築地市場があった場所にそれはそれは見事な造りの名園があったのですが、ここでいう名園はお隣にある「浜離宮(浜御殿)」のことではありません。
実は寛政4年(1792)にこの地を拝領した松平定信公(楽翁)が工夫を凝らして造り上げた「浴恩園」という浜屋敷があったのです。今となってはその欠片すら見当たりませんが、当時の園内には「春風池」と「秋風池」という2つの池を配し、その池の周囲には築山が築かれていたといいます。そんな様子を刻んだ銅版画が市場内の水神社の土台部分の目立たない場所に嵌め込まれています。

浴恩園絵図
浴恩園銅版画

そしてこの浴恩園の屋敷は明治5年に、海軍省が置かれることになります。そして浴恩園に築かれた「築山」には「海軍卿旗(かいぐんきょうき)」が掲揚されたことで、この築山を「旗山」と呼ばれるようになったのです。この海軍発祥之地である築地市場内の水神社の入口にはこれを記念して石碑が立っています。その碑面には「旗山」の文字がくっきりと刻まれています。

市場内の水神社
旗山碑

それでは海幸橋口から市場を退出し、晴海通りへと進んでいきましょう。晴海通りに出てすぐに右へ折れた歩道脇に立てられているのが「軍艦操練所跡」の説明書です。
これは幕末に幕府が運営した操練所のことなのですが、この操練所が開設される前はご存知のように長崎に開設された「海軍伝習所」が前身です。長崎の海軍伝習所では勝海舟や榎本武揚らが学んだことは有名な話です。
しかし安政4年に長崎はあまりに遠くて不便であることから、ここ築地にあった幕府講武所内に軍艦教授所を新たに設け、旗本や御家人などを対象に軍艦の操舵技術を学ばせたのでした。安政6年には軍艦操練所と改称され、あの勝海舟が教授方頭取となったのです。

この軍艦操練所跡地のすぐ側に、幕末の慶応4年(すなわち明治元年)になんと日本初の本格的洋風ホテルが建てられました。その名を「築地ホテル館」といいます。和洋折衷様式の築地ホテル館は当時では非常に珍しく、連日多くの人が見物に訪れたといいます。建設には現在の清水建設の前身である「清水組」が担当しています。
しかし残念な事に完成してからわずか4年足らずで焼失してしまったため、「幻のホテル」と言われています。

築地ホテル館

さらに晴海通りを勝鬨橋方向へ進んでいきましょう。ちょうど勝鬨橋を渡る手前右側にガス灯と石碑が置かれています。この石碑が「海軍経理学校の碑」です。明治7年(1874)に芝に海軍会計学舎が開設されたのが海軍経理学校の始まりです。明治21年に築地にあった海軍兵学校が広島の江田島に移転したことに伴い、浴恩園跡地に海軍会計学舎が移ってきました。そして明治40年に海軍経理学校となり大正を経て、昭和20年9月敗戦と共に歴史を閉じています。

海軍経理学校の碑
かちどきの渡しの碑
勝鬨橋俯瞰

このように築地周辺には江戸後期から幕末にかけて、新しい時代への礎ともなる海軍関係の施設が集中していたことになります。江戸湾に面する良好の地であった築地は幕末から明治の国防の要として「日本海軍」の聖地であったのではないでしょうか。

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お江戸京橋界隈あれこれ噺

2011年02月08日 14時54分02秒 | 中央区・歴史散策
江戸時代には日本橋、新橋と並ぶ御公儀橋3橋のうちの一つとして、御公儀橋を表す擬宝珠が橋の欄干に掲げられていました。平成の御代、すでに京橋という名の橋はなく、かつて川が流れていた上には日本橋と同様に首都高速が走っています。

そんな京橋界隈に江戸の名残り探しに出かけてみました。現在の京橋界隈は日本橋地域の再開発と張り合うように至る所でビルの解体と新築工事が目白押しの状態です。ちょうど鍛治橋通りと中央通りが交差する角では中央通りを挟んで大規模ビルの建設が始まり、歩道の脇には工事のための囲いがつづき町の景観が大きく変わっています。

その工事現場を囲う塀に過ぎ去った時代の京橋の様子を撮った写真が掲示され、つい見入ってしまうほどです。
かつての京橋が架けられていた場所は、現在の町名で「京橋3丁目」にあたり、ちょうど高速道路が中央通りを跨いでいるところです。すなわち銀座1丁目のちょっと手前の位置です。

この場所に京橋にまつわる歴史的な事象を記念するモニュメントや碑があちこちに立っているのをご存知でしょうか。中央通りを足早に行き交う人々もつい見逃してしまいそうなこれらのモニュメントたちは江戸から明治そして大正、昭和へと時代が移る中で、「この場所に確かに存在したんだぞ」と言いたげに佇んでいます。

まず銀座方面に向って左側の歩道を歩き、ちょうど警察博物館の前辺りまで進んでみましょう。頭上には高速道路が走り、その高架の下には「銀座ミカレディ」の店舗入口がある辺りに置かれているのが「京橋の親柱」です。

京橋の親柱

江戸時代は木橋だった京橋は明治に入り石造アーチ橋となり、明治後期には鉄橋に架け替わり、大正時代にはアールデコ調のモダンな装いになったといいます。しかし昭和34年(1959)の京橋川の埋め立てに伴い橋は撤去されてしまいました。

現在、中央通り沿いの歩道には石造親柱が3基残され、このうち擬宝珠を持つ2基の親柱は明治8年にアーチ橋となったときのものです。それぞれに「京橋」と「きやうはし」と刻まれています。

「きやうはし」の親柱

また照明装置がついた親柱は大正11年の架け替え時のもので、なにやらロマンを感じる時代ものです。
この大正時代の親柱のデザインをそのまま模した交番が中央通りを挟んで置かれています。東京警視庁もなかなか味なことをするもんだと感心した次第です。

大正時代の親柱
親柱のデザインをそのまま模した交番

この親柱のすぐ脇に置かれているのが、「煉瓦銀座の碑」です。はて煉瓦銀座とはいったい何のことをいっているのかというと、実は明治5年に銀座一体は大火に見舞われたのです。この大火後、銀座一体は大規模な区画整理を行うと同時に、銀座煉瓦街の建設に着手しました。このときの街並みを設計したのが英国人トーマス・J・ウォートルスという方で、銀座の街並みはジョージアン様式の煉瓦造りの建物が並んでいたのです。大火の翌年には銀座通りの煉瓦街が完成したといいます。

煉瓦銀座の碑
煉瓦銀座の碑の銘板

それでは中央通りを渡り、京橋の親柱のデザインを模した交番がたつ側へと向いましょう。高速道路下に設けられている小さな喫煙場所に立てられているのが「江戸歌舞伎発祥の地碑」です。かなり立派なものですが、中央通りの歩道から若干それているので、気が付かないで通り過ぎてしまう恐れがあります。

江戸歌舞伎発祥の地碑
江戸歌舞伎発祥の地碑
中村座紋

そもそも江戸歌舞伎の発祥は江戸初期の寛永元年(1624)の頃といいます。その始まりは猿若勘三郎(初代中村勘三郎)が当時の中橋南地(現在の京橋)に猿若座の櫓をあげたことです。この櫓をあげるということは、幕府の許しを得たうえで興業ができるということを意味しています。
そしてこの櫓には座紋をあしらい、どこの芝居小屋であるかを表しています。ちなみに中村座は「隅切角に逆さ銀杏」を採用されています。もともと中村座の座紋は「鶴が空から舞い降りてくる」デザインでしたが、元禄三年に、将軍家に生まれたお姫様に鶴姫という名が付けられたのをはばかり、銀杏の葉に変えました。面白いことに銀杏の葉を逆さにすると、鶴が翼を拡げた形に似ているんですね。

隅切角に逆さ銀杏
両国江戸博の芝居小屋

尚、中村座は幕府の方針により度々小屋が移動します。寛永9年(1632)には禰宜町、慶安4年(1651)には上堺町へと移転し長く興業をしていたのですが、天保の改革により天保13年(1842)に淺草浅草寺の裏手の猿若町へ強制的に移転させられてしまいます。そして明治22年(1872)に歌舞伎座が開場し今に至っています。

この「江戸歌舞伎発祥の地碑」のすぐ側にもう一つ碑が立っています。「京橋大根河岸青物市場跡碑」です。日本橋界隈が魚河岸で賑わったように、ここ京橋界隈は江戸時代から大根を中心とした野菜の荷揚げ場で、江戸の庶民のための青物市場が開かれていました。

京橋大根河岸青物市場跡碑
京橋大根河岸青物市場跡碑銘板

この青物市場は関東大震災で壊滅し、魚河岸とともに築地の市場に移転しています。ですから築地市場には鮮魚部門と青果部門が並存しているわけです。
大正時代とはいえ、東京のど真中の日本橋と京橋に鮮魚と青果の市場があったなんて、周辺地域はなんと生臭かったことか……。

最後に京橋界隈ではないのですが、中央通りが終わる8丁目、すなわち新橋に近いところにこんな歴史があることを発見しました。ちょうど天麩羅の天国の角を曲がり、最初の路地の入口にそれこそ目立たない存在で碑が置かれています。「芝口御門跡」といわれるものです。ほんとうに目立ちません。実は江戸時代の宝永の頃のお噺です。

芝口御門跡
銅版

朝鮮通信使の江戸参府に際して、我が国、日本いや将軍家の権威や威光を示すため、新橋の北詰に城郭の門と同じ様な「桝形門」がこの場所に築かれたのです。この門は「芝口御門」と呼ばれていましたが、享保9年に火災で焼失し、その後再建されなかったといいます。このため石垣も撤去されてしまいました。現在、この芝口御門を記念して当時の門の様子を描いた銅版が埋め込まれています。





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お江戸日本橋あれこれと一石橋のおもしろ由来

2011年02月08日 11時48分35秒 | 中央区・歴史散策
お江戸といったらまずは日本橋(橋のことです。)およそ420年前の天正18年(1590)に関八州を治めることを秀吉から任ぜられた家康公が始めて江戸に入府した時に見た景色は、葦が生い茂る潮の浜が広がる海辺の寒村だったのです。そんな土地に移封された家康公はどんな思いでこの景色を眺めていたのでしょうか?

当時、今の日比谷辺りは深く入りこんだ入り江で、江戸湾の波が打ち寄せる海岸だったのです。そしてこの日比谷入り江の東側には江戸湾に長く突き出した「江戸前島」といわれる半島が横たわっていました。この江戸前島は現在の神田から新橋までに達する長さの半島で、日本橋にあたる場所はこの半島のちょうど中央に位置しています。



そして家康公の江戸入府から13年後の慶長8年(1603)に征夷大将軍の宣下を受け、ついに江戸に幕府を開きます。これとともに家康公はいよいよ本格的に江戸の町づくりに着手します。まず、現在の駿河台近くにあった「神田山」を取り崩し、日比谷入り江を埋め立て陸地をつくり、江戸前島を中心に日本橋や京橋などの町屋(町人地)が造られていきました。なんと日本橋はこんな町づくりが始まった慶長8年には架橋されていたのです。

同時に江戸城の普請が進み、元和2年(1617)には現在の神田川にあたる堀割が開削されています。もちろんインフラの整備も進み、上水路や幹線道路が造られ、現在の平川(現在の日本橋川)が東へ延長され隅田川へと注ぎ込む川となっていきます。

日本橋が完成した翌年の慶長9年(1604)には一里塚が設置され、日本橋は五街道(東海道、甲州街道、中仙道、奥州・日光道中)の起点と定められ、日本橋を中心とした地域は名実共に江戸の中心地として繁栄していきます。

江戸城を中心とする江戸の町がほぼ完成するのは寛永12年(1635)の家光公の時代です。このことを家康、秀忠、家光三代にわたる江戸の大普請と呼ばれているものです。

この間に日本橋には魚市場(魚河岸)、京橋には青物市場(大根河岸)が設置されその賑わいは一日千両を稼ぎ出すと言われるほどでした。同時に伊勢や近江といった関西出身の商人たちが江戸店を開店し、現在の本町、大伝馬町、横山町、馬喰町から日本橋、京橋、銀座、新橋にいたる地域が商店街へと発展していきました。

こんな賑わいの様子を生き生きとした筆使いで描いた絵があります。『熈代勝覧』といわれるもので、江戸時代の文化2年の頃の今川橋から日本橋にいたる約760mに亘る88軒の問屋、店、および行き交う男1439人、女200人、子ども32人、犬20匹、馬13頭、牛4頭、猿1匹、鷹2羽、ならびに屋号や商標が書かれた暖簾、看板、旗、などが克明に描かれています。


熈代勝覧の日本橋魚河岸の賑わいの部分

この『熈代勝覧』は日本橋三越へ通じる地下鉄コンコースに複製が展示されていますので是非ご覧になってみてはいかがでしょうか。当時の様子が手にとるように理解できるもので、できるものなら絵の中に飛び込んであの時代を体験してみたいと思うほどの出来栄えです。

さて、現在の日本橋ですがどっしりとした石造り2連のアーチ橋の姿をしています。明治44年に完成したもので、装飾部分には麒麟と獅子のブロンズ彫刻が施されています。明治時代の野外彫刻の代表的作品なのですが、橋の中央部分にある麒麟像は完成当時の東京市の繁栄を表現し、橋の四隅の獅子像は橋の守護を表現しています。

日本橋俯瞰
麒麟像
獅子像

明治44年に建てられた「東京市道路元標」と「日本国道路元標(レプリカ)」が日本橋室町よりの橋詰広場に展示されています。また、京橋寄りの橋詰広場は江戸時代には高札が掲げられた場所で、現在高札を真似た日本橋由緒書きが当時を偲ばせてくれます。

東京市道路元標
日本国道路元標

そして「日本橋魚市場発祥之碑」も建っています。記念碑の後ろには竜宮城の住人でもある「魚」がことごとく日本橋の魚市場に集ったことを表す「乙姫」の像が置かれています。

乙姫像

日本橋架橋から今年は100周年を迎えます。これを記念して日本橋の化粧直しが行われ、長年の汚れが落ち一段と白さが増しています。綺麗になった日本橋ですが、一部茶色く変色した部分があるのを知っていますか?
これは大戦末期の米軍の空襲による猛火で焼けた跡なのです。焼夷弾の直撃があったのかは定かではありませんが、歴史の証人としてあえてこの焼痕は残したそうです。

焼痕

それでは日本橋を後に、上流に架けられている一石橋へと向いましょう。三越日本橋本店の裏手、外堀の水が日本橋側に合流する場所でかつて江戸時代には「金座」が置かれ、現在は日本銀行本店を臨む辺りに架けられているのが一石橋です。

一石橋由緒書
一石橋柱

一石橋の名の由来が面白いもので、江戸時代に橋の北側の本両替町に幕府金座御用の後藤庄三郎、南橋詰の呉服町に御用呉服商の後藤縫殿助(ゆいのすけ)の屋敷があり、当時の橋が破損した際に、これらの両後藤の援助により再建されました。そのため後藤の読みから「五斗」、「五斗+五斗で一石」ともじった洒落から一石橋と名付けられたと伝わっています。

この橋の袂に石標が一基忘れ去られたように建っています。「一石橋迷子しらせ石標」と呼ばれるものです。幕末の安政4年(1857)に建てられたもので、現在では柵で囲まれ、立ち止まって見る人もほとんどいない位に目立たない存在です。江戸時代には迷子は探し出すのには難しい時代で、親子が二度と逢えないことも少なくなかったようです。そこで迷子情報を張り出す掲示板のようなものが必要になったのです。石標の正面に「まよい子のしるべ」の文字が刻まれています。そして左側面の「たづぬる方」に迷子になった子供の特徴を記した紙を貼ります。一方、右側面の「志らする方」には迷子の所在を書いた紙を貼るといった情報伝達の手段として使われていたのです。この石標で何人の迷子が無事に見つかったのでしょうか?興味があるところです。

一石橋迷子しらせ石標
右側面
左側面





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佃を望む明石町に明治を偲ぶ外国人居留地跡を訪ねる

2011年01月27日 12時02分52秒 | 中央区・歴史散策
隅田川河岸から対岸に江戸時代の漁師町「佃」の町並が見えるあたりが、明治時代の初期の頃に外国人居留地として異国情緒を醸し出していた「明石町」です。明石町の名の由来は、対岸の佃島を淡路島に見立てると、播磨の国の明石にある「明石の浦」の風景に似ていることから名付けられたと言われています。
そんな風向明媚な明石の海岸沿いに造られたのがいわゆる「外国人の町」で、当時は西洋建築様式で建てられた学校や病院、教会、住宅が並ぶ、西洋文化の香りが色濃く漂う「ハイカラ」な場所だったのです。現在、その場所には聖路加国際病院がエキゾチックな佇まいを見せています。

そんな現在の明石町でかつての異国情緒の名残りを探してみました。

明石町と言えば、この地を代表する「聖路加国際病院」でしょう。この病院も外国人居留地と無縁ではありません。明治35年(1902)に宣教師トイスラーによって発足した病院です。当時は聖路加病院と呼ばれていましたが、大正6年(1917)に聖路加国際病院に改称しています。

現在、当病院の敷地内に宣教師館として建設された西洋風の建物「トイスラー記念館」が立っています。この建物は明治時代のものではありませんが、昭和8年に隅田川に面した場所に建てられたものです。2階建ての瀟洒な佇まいを見せています。尚、太平洋戦争末期の米軍の空襲では、ここ明石町が外国人居留地であったことで空襲からは免れ、この宣教師館も被災せずに残ったものです。平成10年に隅田川河畔から聖路加国際病院の敷地内に移築され復元されています。

トイスラー記念館
トイスラーの銘版

このトイスラー記念館の入口に通じる小道の脇に「アメリカ公使館跡の記念碑」が置かれています。
そもそも幕末の安政5年(1858)6月に締結された日米修好通商条約により、それまで下田にいた総領事ハリスを公使に昇格させ、翌年安政6年(1859)年東京港区麻布にある善福寺をアメリカ最初の公使宿館と決定、同年8月に初代公使ハリスが到着しました。

アメリカ公使館跡の記念碑

その後、明治8年(1875)に明石の外国人居留地に公館を新築し、公使館としての体裁を整えました。そして明治23年に現在の虎ノ門裏のアメリカ大使館へ移転しています。
伊豆半島の海岸で切り出された石材で造られた記念碑が5基置かれています。2基には当時のアメリカの国章である盾、1基には星と鷲と盾、2基には五陵の星が刻まれています。当時の公使館の様子は今となっては知るよしもありませんが、言い伝えによると木造2階建てのクリーム色で塗られた瀟洒な洋館だったようです。

そしてもう一つ、明石小学校の前にある堂々としたファサードの「カトリック築地教会聖堂」はまるでヨーロッパの街角にふと迷い込んでしまったような佇まいを見せています。



この教会は明治7年(1874)に長崎、横浜に次ぐキリスト教会として明石町の外国人居留地に建設されたものです。聖堂自体は明治11年に創建されましたが、関東大震災で焼失したため、昭和2年(1927)にフランスのパリにある聖マグダレナ天守堂を模して、ギリシャ神殿パルテノン様式で再建されました。正面ファサードを飾る6本のドーリア式の柱と正面切妻の壁にはバラとチューリップのレリーフが刻まれ、ヨーロッパの香りを感じる空間を演出しています。

カトリック築地教会聖堂
切妻のレリーフ

明石町一体にあった外国人居留地は幕府が欧米各国と締結した不平等条約改正を待って、明治32年(1900)に廃止されます。明石町の築地居留地は横浜の居留地に比べ、あまり発展はしなかったようです。横浜居留地が横浜港の発展とともに隆盛していった結果、商社などの外国企業も横浜に根を下ろしてしまって、東京へ移転しようとはしなかったためです。その反面キリスト教各宗派の宣教師たちが明石町に移住し、教会などを建設したり、現在の大学の礎となる私塾がここ明石町に開設されるなど、教育機関誕生の地としての役割を担っていました。

立教学院発祥の地碑

尚、外国人居留地の異国情緒溢れる建物は関東大震災でそのほとんどが焼失してしまい、見るべき洋風建築は残っていないのが非常に残念です。

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隅田川の流れと石川島そして中央大橋周辺の史蹟探訪

2011年01月26日 23時10分24秒 | 中央区・歴史散策
隅田川が江戸湾に流れ込む河口は江戸時代には江戸前の海と呼ばれていました。ちょうど現在の永代橋がかかるあたりを境にして江戸湾が広がっていたと考えていいでしょう。その永代橋の沖合いに浮かんでいたのが石川島と佃島、そして陸側には霊岸島、鉄砲洲そして明石の海岸が続いていました。

江戸時代の後期、11代将軍家斉公の時代に寛政の改革を断行した松平定信は火附盗賊改方長谷川平蔵宣以(鬼平)の建議によってここ石川島に「人足寄場」を創設したことで知られています。

今回は私が住む江東区からは門前仲町から越中島方面を目指し、中央区への入口にあたる相生橋を渡り、石川島そして佃島へと進むルートを辿ります。相生橋上からは石川島に林立する「リバーシティ21」の高層マンションの絶景が目に飛び込んできます。

相生橋を渡るとすぐに右方向へ進みます。この道を進むと前方に中央区の八丁堀方面へと繋がる「中央大橋」が見えてきます。隅田川に架かる橋の中でもかなり斬新なデザインで、現代感覚に溢れています。平成5年に竣工したもので、橋の主塔の上部は兜をイメージしてデザインされたものです。実は架橋地点はかつて「鎧島」と呼ばれていたため、鎧の対にあたる「兜」をデザインしたと言われています。

この中央大橋をデザインしたのはフランスの会社です。どうしてフランスの会社がデザインしたかというと、隅田川はフランスのパリ市内を流れるセーヌ川と友好関係にあります。このことからフランスのデザイン会社にデザインを発注したのではないでしょうか。
フランスのデザイン会社が「鎧島」のことを知っていたのかは定かではありませんが、外国人がイメージする日本はサムライの鎧と兜と考えれば、兜をデザインに取り入れた理由は確かにうなずけます。
また、中央大橋の主塔真下の台座の上に、当時、パリの市長であったシラク氏(後のフランス大統領)から贈られた「メッセンジャー像」が置かれています。メッセンジャー像はフランスでは航海の安全を司る神と言われています。

隅田川と中央大橋

この橋を渡る手前の石川島東部分の石川島公園にはあまり知られていないモニュメントが置かれています。パリ広場と呼ばれるもので、東京都とパリ市の友好関係を記念して造られたものです。なぜこんな所にあるのかと不思議に思うのですが、前述のようにパリとの関係はまず隅田川とセーヌ川が友好河川であるということ、シラク氏から贈られた3本のマロニエの木が石川島公園内に植えられていたということ、もう一つ、中央大橋の中ほどには、パリ市から贈られた「メッセンジャー像」が飾られていることに由来しているのではないでしょうか。パリ広場には子供達が手をつないだ様子をモチーフにした、銀色のアーチ型モニュメントがあります。「友情から未来へ」の銘板がモニュメントの上部に掲げられています。

パリ広場のモニュメント
友情から未来へ

このパリ広場のすぐ側には「日本初の民営洋式造船所 発祥の地」の碑が建っています。

日本初の民営洋式造船所 発祥の地
蒸気軍艦「千代田形」

碑文によると「米国ペリー艦隊が来航した嘉永6年(1853)に幕府の命を受けた水戸藩がこの地に石川島造船所を創設した。同造船所は洋式帆装軍艦「旭日丸」をはじめ、日本人によって設計、建造された最初の蒸気軍艦「千代田丸」など数多の艦船を次々と建造、造船技術を通じてわが国産業の近代化に大きく貢献した。
明治維新後の明治9年(1876)に平野富二によりわが国初の民営洋式造船所として再スタートし、その後明治22年(1889)には 渋沢 栄一などの協力により会社組織となり、有限責任石川島造船所、株式会社東京石川島造船所の社名の下、明治から大正・昭和にかけて多くの軍艦・商船を世に送り出してきた。この地での造船事業は昭和14年(1939)に造船部門が東京深川区豊洲へ移設したことで幕を閉じた。
その後、石川島重工業株式会社、石川島播磨重工業株式会社と社名が変更される中で当地は日本屈指の重機械類の専門工場として活躍してきたが昭和54年(1979)の工場大移転により、その長い歴史を終えた。」と書かれています。

中央大橋を渡り、かつての霊岸島側へ向いましょう。橋上から少し下流を眺めると奇妙な形のモニュメントが目に飛び込んできます。ちょうど亀島川が隅田川に注ぎ込むあたりです。



霊岸島検潮所・量水標跡」と呼ばれています。明治初期に利根川や隅田川、荒川などの主要河川に量水標を設置し、ここで得た平均水位を基準面として使用しました。東京近郊では明治6年(1873)にここ霊岸島に検潮所を設け東京湾の平均潮位を基準としたことで、これを記念したモニュメントです。
そして明治24年に現在の国会議事堂前にある憲政記念館敷地内に創設された「日本水準原点」の標高(24.4140m)はここ霊岸島検潮所の平均潮位を基準に決定したものです。

今でこそ隅田川のスーパー堤防がつづく霊岸島河岸ですが、かつては東京湾(江戸湾)の波が打ち寄せる海岸地帯であったことを伺わせる貴重な史蹟ではないでしょうか。

中央大橋を渡り、八丁堀方面へとほんの少し亀島川に沿って進むと、趣ある橋が現れます。一見しただけでも歴史を感じさせるデザインです。昭和7年に架けられた鉄橋で「南高橋」と呼ばれています。
橋の本体には旧両国橋の一部が使われているそうです。旧両国橋は明治37年(1904)に架けられた三連トラス橋で、関東大震災で被害を受けたため、中央部分を南高橋に移設、部分補強をして再利用したものです。この南高橋は都内に現存する明治期の鉄骨橋梁としては2番目に古いものだそうです。

南高橋

この橋を渡り隅田川に沿って南下すると鉄砲洲神社、そして聖路加国際病院へと進みます。

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