大江戸散策徒然噺 Introducing Japanese culture and history

豊かな歴史に彩られた日本の文化と歴史を紹介

お江戸下町・深川七福神「その2」(~新年恒例の深川七福神めぐりのための得々情報~【本所深川七福神】

2010年11月25日 21時55分38秒 | 江東区・歴史散策
龍光院の毘沙門天にお参りをして、いよいよ残すところ四神詣でに歩を進めていきましょう。龍光院から右方向へ住宅街を歩くこと数分の所に、またまた日本史に登場する偉人の墓が現れます。気付かなければ通り越してしまいそうな佇まいです。歩道からちょっと奥まった場所にひっそりと目立たない居ずまいで佇んでいるのですが、実は樺太が島であることと、間宮海峡を発見した「間宮林蔵」の墓なのです。へえ~、こんな所にぽつねんとして墓が置かれていたのですね。

間宮林蔵の墓を過ぎると、すぐに右方向へと道を曲がります。まもなくすると右手に比較的大きな寺院が現れます。大きな鐘楼を持つ寺でお江戸の十大祖師の一つに数えられている名刹「浄心寺」です。浄心寺の敷地が途切れる辺りに現れるのが大黒天を祀る「円珠院」です。

円珠院本堂
円珠院ご本堂内部

それほど大きな寺院ではありません。山門からご本堂まではほんのわずかな距離で、ご本堂の左手に大黒天の石像が置かれています。本堂には木造の大黒天が安置されています。江戸時代から深川の大黒天として知られています。

円珠院:大黒天
福徳:有福蓄財

円珠院の周辺にはたくさんの寺院が点在し、深川寺町の風情を醸し出しています。それでは歩を進めて先を急ぎましょう。円珠院からの道筋は静かな住宅街を抜け、再び清澄通りへ合流し仙台掘川を越えて、次の目的地、福禄寿を祀る心行寺です。

清澄通りに沿って左へと進行方向を変えると、歩道脇に小さな記念碑が現れます。これも言われなけらば気が付かずに通り越してしまうほど目立たない存在です。あの「南総里見八犬伝」の滝沢馬琴生誕の地の碑です。

滝沢馬琴生誕の地碑

この馬琴生誕の地の碑を過ぎると前方に橋が見えてきます。仙台掘川に架かる「海辺橋」です。この橋の反対側に芭蕉のもう一つの庵「採茶庵(さいとあん)」跡が記念碑として造られています。小さな庵の前に芭蕉が縁側に座っているという史蹟です。

採茶庵(さいとあん)跡

江東区内には至る所に「芭蕉」の足跡が残っています。七福神詣でをしながら芭蕉所縁の地を巡ることができるのも深川七福神のいいところです。

こんな風景を愉しみながら、そぞろ歩きをしているとまもなく福禄寿を祀る「心行寺」です。清澄通りに面して立派な山門と、境内の奥にご本堂がどっしりと構えています。当地、深川には寛永10年(1633)に京橋八丁堀寺町から移ったという由緒ある名刹です。福禄寿は境内の六角堂に安置されています。

心行寺山門
福禄寿六角堂

心行寺:福禄寿
福徳:人望福徳

この心行寺の隣には七福神ではないのですが、是非立ち寄っていただきたいお寺があります。寺名は法乗院ですが、深川閻魔堂の方が名前が知れているようです。左手の大きなお堂の中にあの怖い閻魔様がどっしりと鎮座しています。閻魔様から有り難いお言葉をいただける仕掛けがあるのですが、これは是非ご自分で体験してみてください。けっこう楽しい閻魔様ですよ。

法乗院
閻魔堂
閻魔様

法乗院の閻魔様詣でを終えて、葛西橋通りへと入ってきます。この葛西橋通りにそって弁財天を祭る冬木弁天堂へと進んで行きましょう。この途中に個人的にお勧めしたい行列ができる人気のラーメン店があります。「蘭丸」という店名で、魚介系のあっさりスープが人気を博しています。是非ご賞味あれ。

この蘭丸からわずかな距離にあるのが、冬木弁天堂です。交通量の多い葛西橋通りに面してこじんまりとした居ずまいで佇んでいます。「こんな場所にあるの!」といった感じの弁天堂ですが、毎年ご開帳の元旦から15日まで狭~い境内は沢山の参拝客で押すな押すなの大盛況です。

冬木弁天堂
冬木弁天堂

冬木弁天堂:弁財天
福徳:芸道富有

それではいよいよ7番目の恵比寿神を祀る富岡八幡宮へと歩を進めていきましょう。冬木弁財天の前の葛西橋通りを渡ると、富岡八幡宮はもうすぐです。恵比寿神の祠は八幡宮の社殿の裏手に置かれています。3つの祠が並んでますが、真ん中の祠に恵比寿神と大黒様が合祀されています。この静かな境内がお正月にはたくさんの参拝客で賑わいます。

 
恵比寿・大黒合祀社

富岡八幡宮:恵比寿神
福徳:愛敬

恵比寿神の参詣を終えたあと、八幡様の社殿へと進み七福神巡りが無事終えたことをご報告し、大鳥居へと向かいましょう。お正月は八幡様の参道の両側にはたくさんの屋台が並び、下町の総鎮守は善男善女でたいそうな賑わいとなります。早~く来い来い、お正月。

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お江戸下町・深川七福神「その1」(~新年恒例の深川七福神めぐりのための得々情報~【本所深川七福神】

2010年11月25日 15時35分20秒 | 江東区・歴史散策
今年も残すところあと1ヶ月余りとなってしまいました。ちょっと気が早いのですが、初めて深川七福めぐりを予定されている方々のために、初詣がてらルート上で是非立ち寄っていただきたい場所やお勧めのお店などを簡単に紹介してまいります。七福神めぐりの旅は森下駅から至近の「深川神明宮」からです。



森下といえば、けっこう名が知れているパン屋さんがあるんです。何をして有名かと言うと美味しいカレーパンで知られています。甘口と辛口の2種類があるのですが、いずれもお勧めです。外側の皮がパリパリとして、たっぷりの具が溢れ出さんばかりに詰まっています。歩きながら口にほお張るのもお勧めかも!
そうそうお店の名前ですが、「元祖カレーパンのカトレア」と言います。但し、正月3が日はおそらく休業しているかと思います。1個168円です。

カトレア:江東区森下1-6-10 (電話)03-3635-1464
定休日:日曜日・祝祭日にあたる月曜日

清澄通りから路地を入ると、すぐ右手に大きな鳥居が現れます。鳥居の傍らに由来書が刻まれた大きな石碑が立っています。その碑面にはこんな由来が書かれています。
「大阪摂津の深川八郎右衛門が、この付近に深川村を開拓し、その鎮守の宮として慶長元年(1596)伊勢皇大神宮の御分霊をまつって創建しました。あるとき徳川家康がこの村に来て、村名を尋ねたがないので深川八郎右衛門の姓をとって深川村と命名せよといわれ以来、深川村が発展し深川地区の各町に冠せられたりし、深川の地名のもとになった由。」
鳥居をくぐり、直進し右奥に寿老神を祀る祠が置かれています。
深まる秋の風情を感じさせてくれるように、境内の銀杏は鮮やかな黄金色で彩られていました。

神明宮由来書碑
神明宮鳥居
神明宮・寿老神祠

深川神明宮:寿老神
福徳:延命長寿

深川神明宮で旅の無事を祈願し、歩を進めて行く事にいたしましょう。次の深川稲荷神社まではこのルート上では歩行距離が一番長い移動行程ですが、その代わりに別の見どころが楽しめる散策ルートです。
また、神明宮からさほど離れていない場所に、「深川めし」の老舗で有名な「みやこ」があります。深川めしを食べさせる店は、ルート途中の江戸資料館通りや、もちろん富岡八幡宮がある門前仲町にも店がありますので、お好みの場所で召し上がることは可能です。

さて、神明宮から隅田川の流れる方向へと進むと、突き当たりに見えるのが「芭蕉記念館」です。この記念館の前を走る道が萬年橋通りと呼ばれています。お江戸元禄の時代の赤穂浪士が吉良邸討入りの後、高輪の泉岳寺へ向かう際に通った道なのです。併せて、芭蕉記念館が置かれているように、かつて芭蕉が庵をむすんだ場所が萬年橋の袂だったのです。まあ、芭蕉ファンにとっては見逃せない場所になっています。

萬年橋に向かって右側の歩道を歩いていきましょう。萬年橋を渡る手前の路地を右に折れると、赤い幟がはためく小さな稲荷神社が現れます。この神社が「芭蕉稲荷」です。

芭蕉稲荷

そしてこの路地をさらに奥へと進むと、左手に出来物、腫れ物に絶大なご利益があるとされる正木神社の社があります。さらに奥へと進むと隅田川の堤防に突き当たります。堤防の脇にそれらしい木造の門があり、階段が堤防の上へと延びています。せっかくですから階段を上っていきましょう。小名木川と隅田川の流れがここで合流するのですが、下流の方向には清洲橋と中央区の高層ビル群が広がり、絵葉書のような景色が展開します。ここには是非立ち寄っていただきたいお勧めの場所です。そして堤防の上に造られた小さな公園には俳聖芭蕉翁の坐像が置かれています。

芭蕉翁坐像

それでは小名木川に架かる萬年橋を渡って深川稲荷神社へと進んでいきましょう。尚、公衆トイレは萬年橋を渡って左側にあります。萬年橋を渡った辺りには北の湖部屋、旧大鵬部屋などの相撲部屋が点在しています。深川稲荷神社はちょうど道が交差する四つ角にちょこんと置かれたかわいらしい祠です。深川稲荷神社は寛永7年(1630)の創立で深川地区では創立の古い神社の一つです。

深川稲荷神社

深川稲荷神社:布袋尊
福徳:清廉度量

深川稲荷神社を後に、清洲橋通りへと向かいますが、その道筋の左手にレンガ色のビルが現れます。もと寺尾関が親方をしている「錣山部屋」の建物です。清洲橋通りを渡り清澄白河駅方面へ進んでいきましょう。
この清澄通りに面して芭蕉ゆかりの寺「臨川寺」があります。萬年橋袂に庵をむすんだ芭蕉は、この臨川寺にたびたび参禅に訪れています。当寺の堂内には芭蕉像が安置されています。

臨川寺

賑やかな清澄白河の交差点を渡り、清澄通りを南下し深川の寺町へと進んでいきましょう。右手に木々の木立が見える場所が清澄庭園です。清澄通りから左へ折れる「江戸資料館通り」へと入ると、すぐ左手に現れるのが「霊巌寺」です。この寺には江戸時代に寛政の改革を断行した老中「松平定信公(楽翁)」の墓があります。また江戸六地藏の一つとして、大きな地藏様が境内に鎮座しています。

定信公の墓

霊巌寺を過ぎると、左手に江戸資料館の建物が現れます。この辺りで少し休憩をしたいとお考えであれば、資料館ロビーの椅子に掛けてしばし休息を!また綺麗なトイレもありますので利用する事をお勧めいたします。
尚、展示物の参観は有料です。

資料館通りの商店街を見ながら、龍光院(毘沙門天)へと歩を進めていきましょう。資料館通りから右へ折れるとすぐに現れるのが雲光院です。山門脇に「阿茶の局の墓」と刻まれた石柱が立っています。当寺にはかの家康公の側室であった「阿茶の局」の墓があるのです。また、山門を入って右手に進むと古い墓石が3体並んでいます。その真中の墓石がなんと、江戸時代の遊廓「吉原」をつくったと言われる「庄司甚衛門」の墓です。

阿茶の局墓
庄司甚衛門墓(中央)

こんな歴史の人物に想いを馳せながら、歩いていくと間もなく龍光院(毘沙門天)に到着です。龍光院は浄土宗雲光院の塔頭寺院で、慶長16年(1611)馬喰町(中央区)に創立、明暦3年(1657)の振袖火事で焼失し、岩井町(千代田区)に移転、その後天和2年(1682)の大火で再び焼失し、その年ここ深川の地に移転しました。

龍光院ご本堂

龍光院:毘沙門天
福徳:勇気授福

この後、大黒天の円珠院、福禄寿の心行寺、弁財天の冬木弁天堂そして恵比寿神の富岡八幡は「その2」でご案内いたします。

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お江戸といったら浅草、浅草といったら今や人種のるつぼの国際的観光地【何度来ても飽きない浅草】

2010年11月20日 16時43分45秒 | 台東区・歴史散策
お江戸の風情を残すさまざまな名所、名跡をとりあげてきた私のブログではありますが、浅草だけがスコーンと抜けていたのです。とは言っても、浅草を紹介する切り口があまりに多岐にわたり、掴みどころがないことが悩みの種でございまして、これまでブログに登場することがなかったのです。本日は淺草街区の紹介第一弾ということで、徒然なるままに書き連ねてみました。

下町を代表する大観光地「浅草」には、あのスカイツリーへのアクセス拠点としてここ最近これまでに増してたくさんの人が訪れているようです。雷門の前ではさまざまな言語が飛び交い、ここは一体どこの国なのかと戸惑うくらい賑やかな光景を呈しています。

色とりどりの小さなお店が軒を連ねる「仲見世通り」はそれこそ芋洗い状態の人出で賑わい見せています。きっとお江戸の時代にも同じような光景が繰り広げられていたのではないかと想いを馳せながら、その賑わいを楽しめるのが仲見世通りです。江戸の川柳で「仲見世は お六どこやに 聞き飽きる」と詠われたように、お江戸の時代に茶屋の看板娘お六を探しまわるたくさんの庶民の姿が、仲見世を歩いていると頭によぎってくるのです。

そこでお江戸の時代から今に伝わる伝統的なからくり玩具「どんだりはねたり」が仲見世で売っているのを先日見つけました。お江戸の文化を調べているうちに、この「とんだりはねたり」の絵柄を見たのですが、実物がどういうものだかは分からなかったのです。そこで浅草なら、ということで仲見世通りの江戸玩具を扱う店に行ってみることにしました。確かにありました。

とんだりはねたり玩具

仲見世通りを雷門から進んで、そろそろ通りが終わる右側の小さなお店「助六」には江戸時代の可愛らしい玩具が並んでいます。「とんだりはねたり」は竹の台座の上に被り物をかぶった人形が置かれ、バネの力で人形が跳ね上がると、その勢いで被り物も飛びはねて、中から人形が顔をだす」というからくり人形です。この仕草を見て、笑い転げるといったものではないのですが、デジタル化された現代のおもちゃに比べ、なんともアナログチックな素朴さを感じる逸品ではないかと思います。ただちょっと値段が高いので購入は諦めました。

浅草にはいくつもの「通り」がまるで碁盤の目のように縦横に走っています。仲見世通りはその代表的な通りなのですが、私が好きな通りの一つに「伝法院通り」があります。

仲見世側から見た伝法院通り

仲見世通りの途中から左へはいる道なのですが、この通りの両側にはお江戸の町並を再現したかのような造りのお店や、戦後の闇市のような佇まいをみせる屋台の店などが並び、なんでもありの浅草を象徴しているかのような雰囲気が感じられるのです。

伝法院通りの店

かつてお江戸の時代にはこの辺りに「二十間茶屋」が並んでいたらしいのですが、明和の三大美人の一人で水茶屋『蔦屋』の「お芳」や宝暦の美人・櫛巻のお六がいた場所なのです。

そして伝法院山門前の角にあるのが浅草公会堂ですが、この建物の前には昭和を飾ったスター達の「手形」が埋め込まれているんです。米国ハリウッドのグローマンズ・チャイニーズシアター前のものを真似たものなのでしょう。平成生まれの若い方にはそれほど馴染みがないスターが多いかもしれませんが、昭和生まれの私にとってはそれはそれは懐かしいスターの手形が並び、ついスターの手形に自分の手を重ねてしまいます。

伝法院門前
ビートたけしの手形

伝法院通りを抜けて、これまた浅草らしいホルモン通り、そして場末の演芸劇場が並ぶ奧山通りへと進むと、浅草寺本堂と五重塔、宝蔵門が目の前に現れてきます。
やはり淺草の象徴はこの3つの建物でしょう。ご本堂の屋根はチタン製の瓦に葺き替えられ堂々とした姿を見せています。そしてこれまた堂々とした居ずまいの宝蔵門と美しい五重塔が見る者を圧倒するかのように迎えてくれます。

宝蔵門
五重塔
浅草寺ご本堂

また正観音とは切っても切れない「三社様」も忘れてはならない存在です。浅草寺ご本堂のちょうど右手奥に置かれている「三社様」にも是非参詣されてください。

三社様鳥居
三社様狛犬

三社様の鳥居を出て、左へ進むと二天門。もともとは浅草寺境内に建立された東照宮の随身門だったもので、国の重要文化財に指定されています。

東照宮の石橋
二天門

お江戸の時代には、吉原への道筋を教えるのにこんな風に言われていました。「二天門出ては左、左へ大門へ」
これは二天門を出るとすぐに馬道。馬道を左へ進み、そして土手八丁に付き当たり、それを左へ行くと見返り柳が見えてくる。といった具合に道筋を教えてくれたのです。

まあ、本日のところはこのへんでお開きにしたいと思います。また近いうちに淺草の裏話を紹介いたしましょう。

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お江戸今戸の聖天様は「娘の拝む神でなし」の意味【浅草猿若・日本三大聖天待乳山】

2010年11月19日 11時44分03秒 | 台東区・歴史散策
日本三大聖天とは、熊谷市の妻沼聖天と浅草の待乳山聖天 と奈良県の生駒聖天の3ヶ寺であると言われてます。そして関東三大聖天なるものもあるんですね。関東では前述の妻沼聖天と平井聖天そして今戸の待乳山聖天であると言われています。

お江戸の時代の庶民の人気の遊山地を調べていると、まず出てくるのが「隅田川」です。長谷川雪旦(せったん)による絵画「江戸名所図会」の中には53の小見出で隅田川沿いの各地を紹介しています。そしてこの江戸名所図会を編纂を行ったのは斉藤月岑(げっしん)で、彼の書いた小見出しでは吾妻橋から千住大橋までの上流部分について、隅田川そのものを名所と考えていたことがうかがえます。
そして月岑のかいた日記「斉藤月岑日記」の中で記述された江戸の名所としてもっとも多く登場するのが、浅草寺と待乳山聖天への参詣です。

山門

さて今日のお題「浅草猿若・日本三大聖天待乳山」ですが、ご本尊の聖天さまは「歓喜天」とも呼ばれ、お姿は象頭人身で男女2体の像が抱擁しているという特異なものなのです。このため男女の秘め事を連想させる故に、お江戸の時代には「聖天は娘の拝む神でなし」と川柳に詠まれているくらいです。

しかしこの場所はあのお江戸の桃源郷「新吉原」の入口にあたり、大川端から猪牙船にのって今戸橋にやってきた旦那衆は、この場所で船を下り、土手八丁を徒歩で吉原大門を目指したのです。その際に、男女和合の聖天様に今宵の首尾の願掛けを心の中で祈っていたと言われています。

浅草裏にあたるこの辺りは浅草寺界隈の賑わいはまったく感じない閑静な土地柄です。墨堤を下り道を隔てたところに聖天様の山門が見えてきます。山門を入ると深閑とした佇まいのお庭が現れます。それほど広い庭ではないのですが、なにやら聖天様への願掛けの前に「心静めよ」と訴えかけられるような雰囲気を醸し出しています。

庭園

お庭からは奥の石壇にそって続く築地塀に沿って高台に置かれているご本堂へと行く事ができるのですが、私はいったんお庭を退出し、右へ進んだ階段を登る事にしました。
この階段に沿って趣ある築地塀が続いています。江戸時代の名残を今に伝えるもので、全長二十五間(約45m)に渡って続いています。

築地塀

実はこの聖天様のシンボルは「大根」と「巾着」なのですが、大根は身体を丈夫にし、良縁を成就し、夫婦仲良く末永く一家の和合を御加護するという功徳を表しているといいます。一方、巾着は財宝で商売繁盛を表し、聖天さまの信仰のご利益が大きいことを示したものと言われています。
このため、境内の至る所に大根と巾着のレリーフやそれを形どった置物が目に飛び込んできます。

階段に彫られた大根
同じく巾着

特に大根のモチーフはまさに男女和合をシンボライズしているかのように、二股の大根が交差しているというなんとも意味ありげなものまであるんですね。男女の性をおおらかに表現するなんとも楽しい聖天様です。
余談ですが、この聖天さまはもともとインドのヒンドゥ教の絶対神「ガネーシュ」にあたり、「産めや増やせよ」を標榜するヒンドゥーの教えからすれば、さして不思議ではないのかもしれません。
かつてインドを旅した時にヒンドゥ寺院を訪れると、例外なく寺院に置かれていたのが男根と女陰を形どったリンガとヨーニ。更にはカジュラホの寺院群の壁面にはなんと男女和合の姿が写実的に彫られている有様。まあ~、これに比べれば聖天様のシンボルはそれほど刺激的ではありませんが……。

こんなことはどうでもいいのですが、
本堂へと向かう階段にも大根と巾着のレリーフが施されています。階段を上り左手にはお地蔵さまが沢山並んでいます。歓喜地蔵尊と呼ばれています。古くから「子育て地蔵」として伝授され、霊顕あらかたな尊として信仰されています。

歓喜地蔵尊

そして少し歩を進めると右手に台座に置かれ見上げるように祀られているのが「出世観音像」です。昭和11年の境内整地の時に、頭の部分だけ出土し、ここに再建したことが伝えられています。足利末期(千六百年頃)の作と鑑定された学業・芸道に志す者の尊信をあつめています。

出世観音像

最後にご本堂に到着。このご本堂の至る所に「大根」と「巾着」があしらわれています。本堂内を覗くと生の大根が山積みになって備えられていました。

本堂

ご本堂は一番高い場所に置かれています。ここから眺める風情は今でこそ、周辺には高層のビルが立ち並び、更には隅田川の堤防が邪魔をして、かつて「隅田川の名所」と謳われた風向明媚な装いはまったく感じられませんでした。

錦繍の隅田墨堤秋巡り~三囲社・待乳山聖天・時の鐘~
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お江戸元禄事件簿・そろそろ季節がやってくる!「忠臣蔵・赤穂浪士討入り」の裏話【本所吉良邸と谷中観音寺

2010年11月18日 15時49分15秒 | 台東区・歴史散策
「時は元禄15年、師走の14日」で始まる赤穂浪士の討入りですが、見事上野介の首をあげ主君の仇討ちの本懐をとげたというこの事件は「忠臣蔵」の噺の中で今日まで言い伝えられています。そして今年もそろそろその季節となってきました。

本所松坂町吉良邸跡
吉良邸内の首洗い井戸

今日のお題、「忠臣蔵・赤穂浪士討入り」の裏話となるのですが、本所吉良邸跡や本懐を遂げた後、高輪の泉岳寺までの移動ルートについての記述は山ほど転がっていて、裏話になるようなものはもう出尽くした感があります。

そこでさまざま調べて行くうちに、こんなマイナーな噺と史蹟が転がっていました。私がよく通うあの谷中の寺町の細い路地に佇む古刹の境内にあったのです。谷中さんさき坂のなだらかな坂道を谷中墓地へと進み、ほぼ坂を登りきったあたりの狭い路地を左に折れると、そこは谷中の寺町の風情が漂う一角へと入り込みます。
この路地を進んだところ、左手にある古刹「観音寺」にあるのが「赤穂浪士供養塔」なのです。



 

観音寺門前
赤穂浪士由緒書

どうしてこんな所に?と由緒書にはこんなことが書かれていました。
『四十七士に名をつらねる近松勘六行重と奥田貞右衛門行高は、当寺で修行していた文良の兄と弟であった。文良とは、のち当寺第6世となった朝山大和尚のことである。寺伝によれば、文良は浪士らにでき得る限りの便宜をはかり、寺内でしばしば彼らの会合が開かれたという。明治末の福本日南の著作「元禄快挙録」には、勘六は死にのぞみ「今日の仕儀勘六喜んで身罷ったと、長福寺の文良へお伝え下されたい」と遺言したという。』

本堂に向かって右側に置かれている「宝篋印塔」が四十七士慰霊塔として古くから伝えられいます。

観音寺本堂
四十七士慰霊塔

12月に入ると義士祭が行われる本所吉良邸跡は、まだ訪れる人もなくひっそりとした佇まいをみせています。
そして泉岳寺へと向かう浪士一行が辿った道筋を永代橋袂まで歩いてみました。
吉良邸を跡に、一行は整然と列をなし、まず竪川にかかる橋「一の橋」を渡り、お江戸の時代には大川沿いに造られた御船蔵脇を歩き新大橋方面へと南下していきます。

一の橋

現在の新大橋通りを横切り、萬年橋通りへとはいっていきます。そして小名木川にさしかかると、大川との合流地点を眺めながら、美しい曲線を描く萬年橋を渡っていきます。

萬年橋

萬年橋を渡ると本所佐賀町へとさしかかってきます。佐賀町河岸沿いに一行は永代橋東詰めへと歩を進めていきます。そして冷え切った体を暖めた、味噌屋乳熊屋での甘酒の振る舞いの噺が残る「赤穂浪士休息の碑」。

赤穂浪士休息の碑


このあと一行は永代を渡り、ご府内に入り泉岳寺を目指したのです。大願成就となった日、お江戸の町は一面の雪化粧であったと思います。降り積もった雪の上を踏みしめながら、本所松坂町の吉良邸から高輪の泉岳寺までのおよそ10km以上の行程は、肉体的にも精神的にもかなり大変だったのではないでしょうか?





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お江戸根津の荘厳社殿は将軍家の大普請~根津神社~【もう一つの天下祭り】

2010年11月17日 10時52分21秒 | 文京区・歴史散策
地下鉄根津駅から賑やかな不忍通りに沿って千駄木方面へと進んでいきましょう。途中、細い路地を左に入り静かな住宅街の中を進むと右手に社名を刻んだ立派な石柱と鳥居が目の前に現れてきます。



この鳥居が立つ場所が根津神社の表参道です。この表参道の前の道は大きく蛇行しながらなだらかな坂をつくっています。この坂道は新坂、権現坂、またはS坂と呼ばれています。S坂という呼び名はあの明治の文豪「森鴎外」の小説、青年の中で名付けられています。

さて本日のお題の根津神社ですが、実は別ページで紹介した神田明神と山王権現(現日枝神社)と並んで「天下祭り」を挙行した神社であったことについてその背景を紹介していきたいと思います。

神田明神は平将門を祀る庶民の崇敬の的、一方山王権現が武家の崇敬を集めたことで、幕府が意図的にこの二つの祭りを競わせて、所謂「ガス抜き」効果を狙ったものであると推測されるのですが、この根津神社に関してはまったく異なる次元で当社の祭山車が御城に繰り出したことが見えてくるのです。

それではその背景を簡単に紹介いたしましょう。
宝永2年(1705)、五代将軍綱吉公は兄の甲府宰相綱重の子、綱豊を養嗣子と定めます。その当時、現在の根津神社のある場所には綱重公の下屋敷が置かれていました。境内には屋敷として使われていた頃の綱豊公産湯井戸が非公開ですが残っているといいます。この綱豊公が第六代将軍家宣に宣下されると、それまで千駄木(団子坂上)に置かれていた根津神社を家宣公の産土神としてここ根津の綱重公の屋敷に移すべく、世に天下普請と言われる大造営を行ったのです。

翌年、宝永3年(1706)に完成した根津の社は壮麗を極め、あたかも日光東照宮が再現されたような佇まいを見せていたと言われています。現在でもその片鱗を残す権現造りの本殿、幣殿、拝殿、唐門、西門、透塀、楼門は将軍家の神社としての権威を今に伝え、その全てがオリジナルのままの姿で残っています。ちなみにこれら全てが重要文化財に指定されています。

南側に位置する大きな鳥居をくぐると参道は大きく右へとカーブを描き、左手の丘陵地帯には低木が一面に広がっています。この木が有名な根津神社の「つつじ園」なのです。毎年4月から5月には盛大な「つつじ祭り」がここで開催されています。

丘陵に広がるつつじ園

参道を進むと、目の前に大きく視界が広がります。並みの神社ではない広い境内をもっていることがすぐに分かります。緑色に塗られた神橋を渡ると堂々とした造りの「楼門」が歩みを遮るようにして立ちふさがっています。随身門と呼ばれていますが、門の左右に2体の像が祀られています。定かではないのですが、左側が綱吉公、右側がなんと水戸光圀公がモデル?と言われています。

楼門
楼門上の扁額
水戸光国像?

楼門をくぐると目の前に現れるのが唐門です。格調高い気品に満ちた門で、唐破風を備え権現造りの神社洋式を見事に示しています。この唐門の左右にのびる透塀は本殿地域をぐるりと囲み神域の威厳を保つ工夫がされています。当時の職人たちの技術の優位性が今に伝わる傑作の一つがこの透塀です。

唐門
唐門
透塀
透塀

そして唐門をくぐると拝殿前の広場にでてきます。1対の青銅製の燈篭が配置されていますが、この燈篭は藤堂高敏が奉納したもので、これも重要文化財に指定されています。

拝殿

拝殿はその背後に幣殿、本殿を控えそれらが一つの屋根で覆う権現造りの完成品であり、大変貴重な歴史建造物として重要文化財に指定されています。

拝殿

このようにかつての壮麗豪奢を今に伝える根津権現の「天下祭り」ですが、前述のように綱豊公(第六代将軍家宣公)の産土神として崇敬されていたことで、家宣公は幕制をもって当社の祭礼を定め、正徳4年(1714)にお江戸の全町から山車を出させ、世に言う「天下祭り」と呼ばれる壮大な祭礼を挙行しました。この祭礼は後にも先にもこれ一回限りのもので、隔年で催行された神田明神と山王権現の天下祭りとは性格が異なるものです。

神楽殿と境内俯瞰

また、家宣公生誕の地であることから、家宣公の胞衣塚(えなづか)なるものが境内の千本鳥居の中ほどに置かれています。胞衣塚(えなづか)はこの当時の慣習により、六代将軍家宣公の胎盤が納められているものです。

家宣公の胞衣塚

家宣公とは関係ないのですが、透塀にそった道筋の脇に「水飲み場」があります。この水飲み場の台座のことを「鴎外の石」と呼んでいます。実はこの台座は日露戦争の時の砲弾を置いていたもので、台座の裏に「森林太郎」の名前が刻まれています。

鴎外の石

秋深まるこの日、境内の木々の葉が色づき朱色の社殿や楼門と絶妙な色のコントラストを見せてくれました。根津、千駄木界隈の散策の途中に是非立ち寄っていただきたい場所としてお勧めいたします。静かな空気に包まれた境内でお江戸の昔を思い起こすことができる場所ではないでしょうか。





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お江戸谷中の水茶屋「鍵屋の看板娘・おせん」を探して~明和の三美人~【谷中感応寺・笠森稲荷】

2010年11月16日 19時08分30秒 | 台東区・歴史散策
地下鉄千駄木駅から谷中へとのびるなだらかな坂道を「さんさき坂」と呼んでいます。それほど広い道ではないのですが、さんさき坂入るとすぐに左へ折れる道があります。この道が谷中界隈で有名な「夜店通り」で夜店通りを上がって行くと「谷中銀座」入口へと至ります。



このさんさき坂に沿ってまるで小京都を歩いているかのように、次から次へと名刹、古刹が現れお寺好きにはたまらない場所です。晴れた日の散策にはうってつけの場所で、都内でも私が一番好きな場所の一つと言ってもいいでしょう。

さて明和の三大美人といえば、浅草寺奥山の楊枝屋・柳屋のお藤、同じく浅草二十間茶屋の水茶屋・蔦谷のおよし、それと今日のお題の谷中の笠森稲荷門前の水茶屋・鍵屋のおせんですが、この三人の中でも特に名の知れた「おせん」について以前から興味をもっていました。

というのも江戸の浮世絵に描かれた「ほっそりタイプ」の美人画の代表が「おせん」だからなのです。
当時の浮世絵の中で、おせんを描いたのが 錦絵の発案者である「鈴木春信」ですが、彼の筆で描く美人画は全て「ほっそりタイプ」の女性なのです。一方、同時代に活躍した鳥居清長のそれは「八頭身のスレンダータイプ」、そして誰もが知っている歌麿に至っては「ナイスボディタイプ」とそれぞれに特徴があります。

そんな「ほっそりタイプ」のおせんさんを探しに谷中界隈を歩いてみました。おせん縁の感応寺はすでになく、現在は天王寺と名を変えています。そして感応寺境内にあったはずの笠森稲荷もないのですが、実は同じ谷中にある別の寺の境内に置かれています。そもそも谷中感応寺は広大な寺領を有し、笠森稲荷はその寺領のほんの一角に置かれていたといわれています。その一角であった場所が現在笠森稲荷が置かれている「功徳林寺」らしいのです。
とは言っても、水茶屋「鍵屋」があるわけでもないのですが、谷中の墓地からさほど離れていない場所に功徳林寺は確かにありました。

現天王寺門前
天王寺山門
天王寺境内

目立たない寺の入口から奥へと延びる参道を進むと、真っ正面に赤い幟が立てられた祠が現れます。特に笠森稲荷という名が表示されてはいないのですが、かつてこの辺りにあったということでお寺の境内に合祀されています。

功徳林寺門
功徳林寺の笠森稲荷

それでは何故、稲荷のすぐ側に水茶屋があったのか?なんて疑問が湧いてくるのは私だけではないはず‥‥。実は感応寺はお江戸の三富といって富くじを扱える官許のお寺だったのです。ということは富くじ販売の日はたくさんの人出で賑わったことが想像できます。そして人出でがあるということは、様々な商売がこの辺りで営まれていたことも想像できるわけです。その中で特異な商売がここ谷中にもあったのです。それが水茶屋なのですが、この業態は単にお茶を提供する場ではなく、「春を売る」ことを生業としていたのです。そこには当然多くの男衆が集まり、そこで働いていた給仕役の美人娘が男衆の間で評判となっていくこととなるのです。

余談ですが、この水茶屋の客の多くが武家と坊主だったらしい。というのも谷中はご存知のように寺社が多い土地柄。本来女性との交わりを控えるはずの坊主が谷中界隈の水茶屋に足しげく通ったことが史実として残っているんですね。まあ~、侍も人べんを取れば寺になるがごとくといったところでしょうか。
いつしか笠森稲荷門前の水茶屋「鍵屋」の美人看板娘おせんの評判は当時の人気絵師である鈴木春信の耳に達します。売れっ子の人気絵師手にかかれば、おせんの絵は瞬く間にお江戸の中はもちろんのこと、江戸土産として売れに売れ、同時におせんの評判はうなぎ登り状態となり、連日おせん見たさに大賑わい。

しかしある日突然、おせんさんが姿をくらまします。おせん贔屓の男衆は上へ下への大騒ぎ。実はおせんさん、なんと公儀のお庭番「倉地甚左衛門」に嫁いでしまったのです。お庭番ということは隠密稼業と同じこと。住む場所も御城に近い特別の場所。そんなことでおせんさんも人前に出ることなく籠の鳥状態となってしまったのです。その後、おせんは9人の子どもに恵まれ、77歳でこの世を去ったと言います。

ところで「おせん」さんに関係するお寺がこの「さんさき坂」沿いにあるんです。寺名は「大円寺」。一説によると当寺に笠森稲荷を合祀していると言われているのですが、前述のように功徳林寺の境内にも笠森稲荷が合祀されています。どちらかほんとうなのかい?と思うのが当然の疑問。

大円寺本堂

実は大円寺の笠森稲荷は、ほんとうは瘡守(かさもり)稲荷と呼ぶらしいのです。ですがこの寺の境内に大正8年に2つの碑が建てられたのです。一つが「笠森阿仙の碑」で小説家永井荷風の撰、もう一つが例の浮世絵師、「錦絵開祖鈴木春信」碑です。

笠森阿仙の碑
笠森阿仙の碑
錦絵開祖鈴木春信碑
錦絵開祖鈴木春信碑

なにやら「おせん」さんに関してはややこしい話になってしまうのですが、男心をくすぐったお江戸の美人は死しても今尚、惑わせてくれています。

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お江戸湯島・幕府のエリート校「昌平坂学問所(湯島聖堂)」【明神様を後ろに神田川を望む】

2010年11月16日 09時29分36秒 | 千代田区・歴史散策
電気街の喧噪をあとに、昌平橋交差点からから続く外堀通りのなだらかな坂道をのぼると右手前方に歴史の趣を感じさせるような築地塀が見えてきます。この築地塀に囲まれているのが、お江戸の時代の幕府官学の拠点であった昌平坂学問所なのです。お江戸の時代にはここ湯島の高台から町屋の屋根や武家屋敷の甍が連なる景色や御城の櫓も俯瞰できたのではないでしょうか。

昌平坂指標
築地塀

ここで「昌平坂」の名の由来ですが、これは中国の儒学者・孔子の生地「昌平」から採ったもので、名付け親は五代将軍綱吉公です。昌平坂学問所として官学になったのは寛政9年(1797)で、それまでは昌平校という名の私塾だったのです。学問好きの綱吉公が代々、幕府の侍講(教授役)を務めた林家(りんけ)の家塾を上野忍ヶ丘から湯島に移し発展した歴史があります。その後、一時期は衰退したのですが、あの寛政の改革で松平定信公の「寛政異学の禁」なるお達しで、朱子学を幕府の正学としたことから息を吹き返しました。

寛政時代には「学問吟味」なるものすごく難しい試験がここ学問所で始まります。3年ごとに行われる試験で、結構な有名人が受験していたんです。合格した代表としてあの戯作・狂歌界の大物「太田南畝」は首席で合格。また北方探検家として名を残した「近藤重蔵」、そして旗本クラスでは名奉行と謳われた「遠山の金さん」のお父さん「遠山景晋(かげみち)」などが名を連ねています。合格すれば間違いなく出世をするという、エリートになるための「狭き門」がこの学問吟味だったのです。

迎高門

ちょうど湯島の高台から神田川の流れに落ち込むような傾斜地につくられた学問所の敷地は階段状になっており、その階層毎に建造物が配置されています。
神田川側に近い入口に建つ「迎高門」から入ると右手に事務所棟の建物、その棟が切れる辺りに堂々とした居ずまいで「孔子像」が立っています。昭和50年(1975)に中華民国台北市のライオンズ・クラブから寄贈されたもので、高さ4.75m、重さ約1.5トンは世界最大を誇っています。

孔子像

孔子像をあとに数段の階段を登ると前方に木造の門が見えてきます。聖堂敷地内では唯一の木造建造物で宝永元年(1704)建造されたものです。入徳門と名付けられています。

入徳門

この門をくぐると、石の階段が杏壇門へとつづいています。

杏壇門から大成殿前広場を見る

そして杏壇門をくぐると目の前に広々として中庭をもつ大成殿が現れます。漆黒塗りの堂々とした建物は見る者を圧倒します。大成とは、孔子廟の正殿の名称です。正殿の大きさは間口20メートル、奥行14.2メートル、高さ14.6メートルの堂々としたもので、殿内の中央の神龕(厨子)に孔子像、左右には四配として孟子・顔子・曽子・子思の四賢人が祀られています。

大成殿
 
大成殿(孔子廟)内部

秋深まる中で所内の木々の葉が色づき、築地塀に枝を落とす紅葉が秋風に揺れ心安らぐ風情を醸し出しています。



鯔背な神田、明神様の節分祭
お江戸神田の明神様は江戸城内までくりだした【鯔背な神田の天下祭りと水神様】





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お江戸神田の明神様は江戸城内までくりだした【鯔背な神田の天下祭りと水神様】

2010年11月16日 00時18分29秒 | 千代田区・歴史散策
七五三詣でで賑わうこの日、お江戸の総鎮守、神田の明神様境内はお宮参りの人出で溢れかえっていました。木々の葉が色づきはじめ深まる秋を愉しむお江戸の神社では、菊祭りと併せ七五三のお参りが重なり、どこもたいそうな賑わいを見せていました。

明神様の鳥居

お茶の水の聖橋をわたり、昌平坂の築地塀にそって坂を登りきるとそこは鯔背な神田が息づく明神様の鳥居が見えてきます。ひっきりなしに七五三参りの家族連れが鳥居をくぐり、参道の先の神門の中へと吸い込まれていきます。

明神様の神門

さて、こんな賑わいを横目で見ながら今日のお題はは明神様の天下祭りと境内に奉じられている「水神様」についてのお噺です。

江戸っ子は開幕からおよそ70年ほどたった天和の時代から公方様がおられた御城内にお祭りの行列を繰り込むことが許されていたことを誇りとしていました。この祭りを「天下祭り」といい、限られた2社の祭礼のみ、御城内での将軍上覧が許されていました。その2社とは、ここ神田明神様ともう一つ、山王権現社(現在の日枝神社)の祭礼を指しています。

天下祭りのしきたりとして、子・寅・辰・午・申・戌年の6月14日と15日が山王祭、丑・卯・巳・未・酉・亥年の9月15日が神田祭という隔年開催だったのです。
この2社が天下祭に選ばれた理由はお江戸の地理的要因からなのですが、神田川を境に北側の町々が明神様の氏子、そしてその南西側が権現様の氏子、というライバル意識がもたらしたものなのです。

本社殿
狛犬と本社殿

家康公が勧請した山王権現が武士の崇敬を集めたのに対し、神田明神は反逆者・平将門の怨霊を鎮魂する神社だったのです。すなわち山王様は御城の鎮守、将門様は江戸庶民、いわゆる弱者の守り神」という図式が生まれ、更には、神田川を境に北側の町々が神田明神様の氏子、その南西側が山王権現様の氏子とまさにライバル意識がこの2つの祭りを盛り上げていったのです。
今でこそ、こんな祭りの張り合いはないのですが、下町に今でも息づく粋、鯔背、張りの心意気と山手のお高くとまる意識が平成の世でも、心の奥底にライバル意識として残っているような気がしてならないのですが…。

さて、本日のもう一つのお題の水神社ですが、実は魚河岸とたいへん密接な関係をもっています。元和年間(1615)に神田神社と共に此の地に遷り、大市場交易神と称されその後、水神社と改称し更に明治24年(1891)魚河岸水神社と社名を変更し、日本橋魚市場の守護神として崇敬されています。なお、関東大震災後に日本橋から築地に移った築地中央卸売市場内には当社の魚河岸水神社遥拝所が建てられ、市場に関わる人々の篤い信仰を集めています。

水神社由緒書
水神社祠
水神社の鳥居

そこでもう一つ、魚河岸と歌舞伎俳優「市川団十郎」との深い関係を…。
市川家の歌舞伎十八番の一つにはお江戸の頃から「助六所縁江戸櫻」と決まっている。そして助六が花道から登場するときの「出端の唄」を伴奏する河東節(かとうぶし)の創始者が魚河岸出身の十寸見河東(ますみかとう)という人だったことから、団十郎が助六を上演するときには、その都度、団十郎が魚河岸に挨拶にいき、魚河岸からは助六のあの紫の鉢巻きと下駄を贈り、初日には魚河岸衆が総見にいくというしきたりがあるのだそうです。
そんなことでここ明神様境内の水神様のお社に、しょっちゅうではないのですが、鯔背な魚河岸衆と団十郎が一緒に参拝をしている姿が見られるらしいですよ。

もう一つ、境内には神田明神とは切っても切れないほど所縁のある「銭形平次」親分の碑も建っています。



鯔背な神田、明神様の節分祭





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家光をめぐる母「お江」と乳母「お福(春日局)」を偲ぶ本郷湯島の麟祥院・からたち寺【本郷湯島】

2010年11月15日 11時11分29秒 | 文京区・歴史散策
来年のNHK大河ドラマのお題は「お江」である。信長公の妹君「お市の方」が嫁いだ浅井長政との間にもうけた美人の三姉妹の一人だったのはご存知のことでしょう。浅井家が信長により滅ぼされた後、信長の庇護のもと安穏の日々を過ごしていたお市と姫様たちは、「本能寺の変」後に再び、時代に翻弄されていきます。
信長公の家臣であった柴田勝家との母・お市の方の再婚は秀吉により、無残にも壊されてしまいます。勝家と共に自害したお市が残した三姉妹はこの後、時の天下人「秀吉」そして、次代を築く家康公の思惑にさらに翻弄されていくのです。

長女である「茶々姫」は秀吉との間に嫡男「秀頼」を設け、淀君と称し絶大な権力をもったのですが、最終的には大阪の陣で秀頼と共に自害し果ててしまうという最悪の結末を迎えます。そして三女の「お江」は佐治一成を皮切りに、秀吉の養子である秀勝と再婚、しかし秀勝は朝鮮出兵中に病疫。失意の中で、お江は秀吉の命により家康公の三男、秀忠公へ嫁ぐことになるのです。

お江は秀忠公との間に設けた長女「千姫」を姉の茶々(淀殿)の産んだ秀頼に嫁がせるという、時代のいたずらにまたまた翻弄されていくのですが、千姫は大阪城落城の際に救出され、徳川家に戻ってきます。秀忠との間に三男四女を設けたお江ですが、何と言っても象徴的な事象は三代将軍家光公の生母であるということではないでしょうか。将軍御台所でもあり将軍生母であったのはこのお江しかいないのです。このため家光は「生まれながらにしての将軍」と豪語した由縁なのです。



この家光が将軍継嗣と決定するまでに活躍したのが今日のお題「麟祥院」に眠る「春日局」なのです。春日局を朝廷から授かる前は「お福」と呼ばれていたのですが、お福はお江と秀忠との間に生まれた長男・竹千代(後の家光)の乳母となります。我が子のように竹千代を懸命に養育したお福ですが、実は生母であるお江とはそりが合わなかったとも言われています。次男の忠長を次期将軍と考えていた秀忠、お江に対抗するように、お福は竹千代を守りたい一身で自ら駿府にいる家康公に直訴に及んだのです。家康公は江戸にのぼり、竹千代(家光)を次期将軍として遇し、片や忠長を家来扱いをしたために、家康公の鶴の一声で将軍職継承は家光に決定したといういきさつは誰もが知っている事実です。

このほかお福(春日局)にまつわる話はたくさんあります。大奥の基礎を作ったのが春日局、あの紫衣事件で家康の使者として後水尾天皇に退位を迫らせようとしたこと、外出して城の門限に遅れたとき、規則を守ることを手本とさせねばならぬとし、門前で一夜を明かしたこと、など逸話や男勝りの武勇伝が残っています。

麟祥院山門
春日局由緒書

そんなお福(春日局)が眠る麟祥院は賑やかな本郷の地にありながら、まるで京都にある名刹、古刹の風を湛えた佇まいの山門が私たちを向かえてくれます。山門をくぐると静まり返った空気が漂い、ご本堂と小さな鐘楼が目の前に現れてきます。苔むした庭の風情は古刹の風格を感じさせてくれます。

 
 
 


小さな庭を回りこむように墓地へと歩を進めて行きましょう。「春日局の墓」の指標に従って進んで行くと、それらしい石燈篭が春日局の墓へと導いてくれます。木々に囲まれ、差し込む陽射しが遮られ薄暗さが漂う中に、かの墓石が目線よりも高い位置に見えてきます。基壇の上に石柵で囲まれ凛とした雰囲気を漂わす墓には数段の階段が付され、階段を登った墓の入口には「葵のご紋」と春日局の実家である斉藤家(稲葉家)の家紋「折敷に三文字」がその権威を誇るように付けられています。

 


というのも「麟祥院」は春日局が幕府の恩恵に報いるために、本郷湯島に寺院を建立しようと思い立ち、これを知った家光公が、彼女の願いをかなえさせるために本郷湯島の土地を寺地として贈ったと記されています。願いがかなえられた春日局は、「報恩山天沢寺」と名付け、寛永7年(1630)渭川という高僧を新しく住職として迎え、改めて春日局自身の菩提寺としました。これを喜んだ家光公は、法号をもって寺号とするように命じたため、「天沢山麟祥院」と号するようになったそうです。

春日の局の墓には墓石と台石の四方に丸い穴があいているのが特徴です。これは「死して後も天下の政道を見守り之を直していかれるよう黄泉(よみ)から見通せる墓を作ってほしい」という春日局の遺言によると伝わっています。

 


家光の将軍生母である「お江」と家光を心から愛した「春日局」の女同士の確執が少なからず感じるこの二人の関係がふと頭によぎる瞬間を感じる場所、それが「麟祥院」です。

お江戸湯島・幕府のエリート校「昌平坂学問所(湯島聖堂)」【明神様を後ろに神田川を望む】





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