大江戸散策徒然噺 Introducing Japanese culture and history

豊かな歴史に彩られた日本の文化と歴史を紹介

行秋の奈良~飛鳥の白鳳伽藍「薬師寺」

2015年10月31日 19時26分20秒 | 行く秋の奈良探訪
東大寺・大仏殿を辞して、近鉄奈良駅へと向かう途中、奈良市内から薬師寺へのバスが運行していることが判明しました。
ちょうど奈良県庁前に停留所があったので、ここからバスに乗車し、およそ30分で薬師寺に到着しました。

薬師寺西塔

バス停からほんのわずかな距離で北入山口(受付)に到着です。ここで拝観料を納めます。

拝観料チケット
薬師寺パンフレット
薬師寺境内図

かつて50年前に訪れた時の記憶はまったくないので、ここ薬師寺も初めての訪問といってもいいくらいです。

北受付から境内へと入るのですが、まず目に飛び込んでくるのが境内の工事中の柵や建屋です。北受付から入るとすぐに「食堂復興工事」とやたら目立つのが国宝「東塔」の解体修理の大きな建屋です。これらの工事や修理作業はいたしかたないのですが、せっかくの美しい伽藍の様子が興ざめしてしまうくらいの景観になっています。

そんな様子を横目でみながら、薬師寺の境内の散策を始めることにしました。平日の午後ということもあるのですが、参拝客はほとんどいません。
私たちは北受付からの入場をしたので、まずは境内の南端にある南門へ進み、そこから北方向へ移動することにしました。

薬師寺の境内の伽藍の配置は南門から直線状に中門、金堂、大講堂そして食堂跡が並び、西塔と東塔、西僧坊と東僧坊が左右対称になるように配置されています。(境内図参照)

南門からは中門が真正面に見ることができます。

南門から中門を背景に

中門は昭和59年(1984)に再建されたもので、平成3年(1991)には中門の両側に二天王像が復元安置されています。

二天王像
二天王像

中門からは直線状にどうどうとした姿の「金堂」が構えています。

金堂
金堂
金堂を背景に

金堂は昭和51年(1976)に再建されたものです。この金堂の堂内には国宝の薬師三尊像(薬師如来・日光菩薩・月光菩薩)が安置されています。

そしてこの金堂前の広場の東西に二つの塔が置かれているのですが、前述のように国宝の東塔は修理解体中とのことで大きな建屋の中に隠れています。修理解体が終わるのが4年後の平成31年です。

東塔に相対するように置かれているのが「西塔」ですが、こちらは昭和56年(1981)に復興されたものです。

西塔
西塔
西塔
西塔

美しいお姿の薬師三尊像を拝んで、大講堂へと向かいます。そして振り返ると金堂と西塔が浮かび上がります。

金堂と西塔

そして現れるのが美しい大講堂です。

大講堂
大講堂

真新しい大講堂は平成15年(2003)に再建されたものです。正面41メートル、奥行20メートル、高さ17メートルあり、薬師寺の白鳳伽藍最大の建物です。大講堂には弥勒三尊が安置されています。

薬師寺白鳳伽藍群を見て回りましたが、ほとんどの建造物が昭和そして平成に再建されたものが多く、古(いにしえ)の香りと古さを感じることができませんでした。とはいえ、天平の時代にはおそらくこんな風に堂宇が立ち並んでいたんだろう、という思いは強く感じました。
これら再建された建造物も数百年後には重要文化財または国宝に指定されることを願いつつ、玄奘三蔵院伽藍へと移動することにします。

北受付から白鳳伽藍を退出し、道を隔てて北側一帯の敷地が玄奘三蔵院伽藍になっています。この施設は平成3年(1991)に造られたもので、その中心をなす建造物が玄奘塔です。法隆寺の夢殿を思わせるような建物です。

広い敷地のはるか向こうに玄奘塔が置かれています。

玄奘三蔵院伽藍
玄奘塔

玄奘塔には法相宗の始祖である玄奘三蔵の遺骨を真身舎利(しんじんしゃり)として奉安され、須弥壇には玄奘三蔵訳経像を祀っています。
尚、玄奘塔は写真撮影が禁止されているため、至近からの画像はありません。

当施設の中で、玄奘塔の裏手にある大唐西域壁画殿には日本画家・平山郁夫が30年をかけて制作した、縦2.2メートル、長さが49メートル(合計13枚の絵)からなる「大唐西域壁画」が展示されています。これは一見の価値があります。

ほとんど記憶に残っていない50年前の薬師寺の姿とは大きく変わってしまったのかもしれませんが、薬師寺が抱き続ける白鳳時代への回帰の神髄に触れたことに感動した今回の訪問でした。
そして伽藍の完全復元を願うとともに、遠い将来まで薬師寺の伽藍建築が伝え残されることを期待しています。

私たちはこのあと、奈良訪問の最大の目的である唐招提寺へと向かいます。

行秋の奈良~東大寺大仏殿・正倉院・二月堂~
行秋の奈良~天平の甍「唐招提寺」



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行秋の奈良~東大寺大仏殿・正倉院・二月堂~

2015年10月31日 10時16分03秒 | 行く秋の奈良探訪
毎年の恒例となった夫婦そろっての京都旅行を10月28日から10月30日の2泊3日で楽しんできました。今年は京都市内の観光は二の次に奈良、姫路、神戸(三ノ宮)と京都の郊外の宇治を巡ることにしました。

大仏殿

そんな旅は京都から奈良への近鉄特急(奈良線)から始まります。京都駅に09:08に到着後、09:30の近鉄特急奈良行きに乗車し、所要35分でモダンな造りの近鉄奈良駅に到着しました。

近鉄奈良駅前

私にとって奈良訪問は中学校時代の修学旅行以来およそ50年ぶり。当時訪れたはずの東大寺・大仏殿をはじめ主要な寺社についてはほとんど記憶に残っていないので、今回の奈良訪問は記憶に残る旅になることは間違いありません。

近鉄奈良駅から東大寺エリアまでは1.5kmということなので登大路をそぞろ歩きしながら大仏殿を目指すことにしました。その道筋の途中には、興福寺があるのですが今回は割愛しました。そしてその道筋を進むと、左手に奈良国立博物館があるのですが、ちょうど正倉院展の開催中でたくさんの見学者が列をつくって並んでいました。

時間に余裕があれば正倉院展を見たいのですが、長蛇の列を見て入場まで相当な時間がかかると判断してこれも割愛。

近鉄奈良駅から奈良国立博物館が途切れるあたりの「大仏殿交差点」までほぼ1kmです。ここまで歩いてくるうちに、奈良名物のシカが我が物顔で歩道を歩きまわっていました。

大仏殿交差点で横断歩道を渡り左折し、いわゆる大仏殿への参道を歩き、いよいよ東大寺南大門へと進んでいきます。
参道左側にはお土産を売るお店が並んでいます。そしてその道筋の右側に「世界遺産・古都奈良の文化財 東大寺」と刻まれた大きな石碑が置かれています。

石碑前にて

そして前方に堂々とした姿の国宝の「南大門」が現れます。南大門は鎌倉時代の正治元年(1199)に復興されたものです。門の両側には大きな金剛力士像が安置されています。

南大門

南大門の石段を上がったところに1頭のシカが!

南大門とシカ


南大門をくぐると、前方に朱色の門が現れます。中門(重要文化財)と呼ばれている門です。中門は江戸時代の享保元年(1716)に再建された建造物です。
その中門の柵の間から真正面に大仏殿の美しい姿を眺めることができます。

中門から見る大仏殿

さあ!はやる気持ちを抑えつつ、大仏殿へと進んでいきますが、拝観料を納める場所は中門から左手に少し行ったところに置かれています。

入館チケット

チケット購入していよいよ大仏殿を囲む回廊へと進んでいきます。その回廊から大仏殿がまるで浮かび上がっているかのように美しい姿を見せています。

回廊からみる大仏殿

正式名は東大寺金堂ですが、一般的に大仏殿と呼ばれています。江戸時代の宝永6年(1709)に再建されたもので、間口(東西方向)57.01メートル、奥行(南北方向)50.48メートル、高さ48.74メートルの大きさがある日本最大級の木造建築物です。高さと奥行は創建当時とほぼ同じですが、幅は創建時(約86メートル)の約3分の2になっています。
現在の大仏殿は創建から三代目にあたるものです。

大仏殿
大仏殿

広い参道を進んで行くと大仏殿前に国宝の金銅八角燈籠が置かれています。

金銅八角燈籠

それでは国宝の盧舎那仏と50年ぶりの対面です。…が堂内はあまりの人の多さに静かな雰囲気の中での参拝とはいかず、人ごみに押されながらの慌ただしい参拝となってしまいました。

盧舎那仏

盧舎那仏の左にはこれまで大きな虚空蔵菩薩像(重要文化財)が鎮座しています。この虚空蔵菩薩像は江戸時代の宝暦年間に造られたものです。

盧舎那仏を左に回り込むようにして進んでいきます。

盧舎那仏

そして本堂の北西角奥に置かれているのがこれまた大きな広目天の像です。大仏殿の広目天は、「左手に巻物を持ち、右手に持った筆で何かを書き留める」という天平時代の広目天の形式となっています。

広目天像

広目天像が置かれている辺りからは盧舎那仏の後ろ姿を見ることができます。後ろ姿といっても大きな光背しか見えませんが…。

盧舎那仏の光背

そして盧舎那仏の背後を通って本堂の北東に進むと、そこには大きな多聞天の像が置かれています。

多聞天像

盧舎那仏を一周して正面へと戻ると、大仏の右手には如意輪観音像(重要文化財)が鎮座しています。この如意輪観音像も江戸時代の元文年間につくられたものです。

如意輪観音像

仏に対して「素晴らしい」という表現が適切ではないかもしれませんが、盧舎那仏の柔和なお顔と威厳に満ちたその居ずまいと所作に心が洗われる思いです。

感動を胸に大仏殿を辞し、せっかくなので大仏殿の裏手にある正倉院へと向かうことにしました。有名な高床式校倉造りの建造物でもちろん国宝に指定されています。ちょうど正倉院展が開催されていることから、正門が解放されて敷地内までは入ることができました。

天平時代の756年に完成した建造物ということらしいのですが、寄棟造りの屋根のなだらかな傾斜と校倉造りの外壁の見事な融合美にただ感心するばかりです。

正倉院
正倉院

私たちは限られた時間の中での大仏殿そして正倉院訪問でしたが、ふと境内地図を見ると二月堂が至近にあることに気が付き、是非参拝に訪れようということになりました。

大仏殿の回廊に沿ってもと来た道を辿ってくると、左手にのびる石段が現れます。この石段を登っていくと二月堂へと至る道筋になっています。

二月堂への石段

石段を上りきると美しい姿の鐘楼堂が現れます。

鐘楼堂

鐘楼堂を過ぎて左手に延びる石段をさらに上がっていくと、懸造(かけづくり)で知られる二月堂(国宝)の真下に出てきます。

二月堂への石段
二月堂
二月堂

二月堂の参拝を終えて、同じ道を辿り大仏殿の中門、南大門を抜けて近鉄奈良駅へと戻ることにしました。
このあと、私たちは奈良滞在のもう一つの目的地である薬師寺、唐招提寺へと移動します。

行秋の奈良~飛鳥の白鳳伽藍「薬師寺」
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私本東海道五十三次道中記 第30回 第3日目 石薬師、庄野を辿り関西本線・井田川駅前まで

2015年10月26日 13時18分12秒 | 私本東海道五十三次道中記


第三日目の出発地点はここ采女のサークルK前からです。
サークルKは幹線道路の国道1号に面しています。ひっきりなしに大型のトラックが行き交っています。そんな1号線に沿って歩き始めることにしましょう。
本日はここから44番目の石薬師宿、45番目の庄野宿を経て関西本線の井田川駅までの11キロを踏破いたします。

采女のサークルK前





采女サークルKを出立して、国道1号線に沿って500mほどで采女南交差点があります。交差点を左折すると国分の集落があり、西の畑の中に「伊勢国分寺跡」があります。

ところで「采女」とは珍しい地名ですね。その発祥は定かではありませんが、飛鳥時代(592年~710年)に地方の豪族たちが自分の娘を天皇家に献上するしきたりがあったといいます。その娘たちのことを采女と呼んでいました。
これはある種の人質の意味合いが含まれ、豪族たちが天皇に服従したことを示すものであったのです。
采女は主に天皇の食事の際の配膳が主な業務とされていますが、天皇の側に仕える事や諸国から容姿に優れた者が献上されていたため、妻妾としての役割を果たす事も多く、その子供を産む者もいたようです。

采女は地方豪族という比較的低い身分の出身ながら容姿端麗で高い教養を持っていると認識されており、天皇のみ手が触れる事が許される存在と言う事もあり、古来より男性の憧れの対象となっていました。

ここ三重県の采女の地名は21代雄略天皇(古墳時代の456~480)に仕えていた三重出身の采女が天皇の許しを得てこの地の名前にしたといわれています。

さて、国分寺ですが天平13(741)年、45代聖武天皇の詔により各国に建てられた官営の寺院で、一般的に僧寺と尼寺が置かれました。伊勢国の国分寺は鈴鹿市国分町にありました。

この国分寺があった場所は鈴鹿川左岸の標高43m前後の段丘の上にあり、眺望がよく且つ水害の恐れのない土地です。大正11年10月12日に、国分町字堂跡一帯の37、180㎡が史跡伊勢国分寺跡として指定されました。この遺跡は僧寺跡と考えられています。

奈良時代中期の伊勢国の役所である国府は鈴鹿市広瀬町にあったため、国分寺とは約7km離れています。国府は現在の鈴鹿郡、国分寺は河曲郡(かわのぐん)と分かれて置かれていたようです。国分寺跡は街道筋からかなり逸れているので、訪問は割愛します。

采女南の交差点の先はデーラー(自動車販売店)やガソリンスタンドが並んで続いています。采女南交差点から400m程歩くと鈴鹿市国分町で、小谷バス停手前の三叉路で国道1号線と別れて左の道に入るのが東海道です。
国分町信号交差点を過ぎると、四日市市から鈴鹿市へと入ります。右側に二つのお堂がある前を通り、少し歩くと下り坂になり、木田町大谷交叉点で国道1号線に合流します。



坂を下りきり、信号手前の右手の地下道を使って国道の反対側に出ると右手は自由が丘団地です。国道の歩道を100mほど歩くと団地が終わります。このあたりから道は左にカーブを始めます。浪瀬川を渡ると国道は上りながら大きく左にカーブしますが、その先で道筋が二股に分かれます。旧東海道筋は右の細い道で、団地の端から150m程です。そしてここがお江戸から44番目の宿場町、石薬師宿(いしやくししゅく) の入口です。

国道1号と分岐して旧街道筋が右手へと延びています。その分岐点に石薬師宿と刻まれた石柱が置かれています。この場所には「北町の地蔵堂」がありますが、ここが石薬師宿の江戸方出入口にあたります。このお堂には延命地蔵が祀られています。

石薬師宿江戸方
北町の地蔵堂

東海道石薬師宿の石碑の傍らに「信綱かるた道」と称して佐佐木信綱の歌の色紙が36首掲示されています。来年(2015年)にはこれを50首まで増やすそうです。 
「四日市の 時雨蛤(しぐれ)日永の 長餅の 家土産(いえずと)まつと 父は待ちにき」

ここ石薬師宿は宿場町としての歴史地区であると同時に、明治から大正、昭和にわたって歌人、歌学者として活躍した佐佐木信綱の生誕地として知られています。そんな場所柄から宿内は信綱にかかわる建造物が残っています。 

安藤広重の「石薬師宿」の景は石薬師寺と山を背景に数軒の藁屋根の家が描かれています。そして石薬師宿は元和2年(1616)に四日市宿と亀山宿の間が長いために造られた新宿です。しかし、多くの旅人が伊勢神宮詣でのために「日永の追分」から伊勢街道へと向かい、その後、脇街道を利用して「関宿」へと辿ったことで、宿が成立したにもかかわらず、旅人達の利用は少なかったと言われています。そんなことで宿場の経営は厳しかったようです。早く言えば「寂れた宿場」だったようです。

石薬師宿景

石薬師宿は幕府領(天領)であり、宿場ができるまでは高宮村と呼ばれていましたが、宿場ができても総家数は241軒、宿内人口は990人と宿場の規模が小さかったのです。本陣は3軒ありましたが、脇本陣はなく、時代によって異なりますが旅籠が15軒に対し百姓が130軒で、石薬師宿は農村的な性格を有していたのです。



江戸方から少しの間は上り坂で、上りきったあたり(マルフク辺り)から石薬師宿で、古い家が残っています。右側に大木神社の鳥居が現れますが、社殿は200m程奥にあります。

大木神社の鳥居

大木神社は延喜式に記載されている古い神社で、蒲冠者といわれた頼朝の弟、源範頼とゆかりのある神社です。実は宿場の京寄りに堂宇を構える石薬師寺の近くに「御曹司社」という小さな祠があります。この御曹司社は大木神社の末社です。
この御曹司社は源範頼を祀っていますが、御曹司社の近くに範頼ゆかりの「蒲桜」があります。蒲桜は範頼と深い関係があるのですが、この話は後ほど説明いたします。

街道を進んで行くと、右側に立派な建物が見えてきます。この建物は本陣だった小澤家です。

小澤家

案内板には「昔はもっと広い屋敷だったというが、国学者・萱生由章はこの家の出で、元禄の宿帳には赤穂藩浅野内匠頭の名も見える。」と記されています。

小澤家の少し先の右側にあるのが天野記念館です。この建物はタイムレコーダーで有名なアマノ(株)の創業者がふるさとのために建てて贈ったものです。

天野記念館
天野記念館碑

天野記念館の左隣は佐佐木信綱が昭和7年(1932)に故郷に寄贈した「石薬師文庫」で、建物前の四角い石碑には「佐佐木信綱」「佐佐木幸綱」の歌が刻まれています。

石薬師文庫

佐佐木信綱は明治から大正、昭和にわたって歌人、歌学者として、万葉集の研究にあたった人物で、佐佐木幸綱は彼の孫にあたります。佐佐木信綱は石薬師文庫を贈るにあたり「これのふぐら良き文庫たれ 故郷のさと人のために若人のために」という歌を詠みました。建物の右側に地元の人たちが昭和40年の信綱死後2年祭に上記の歌を刻んだ記念碑を建てています。

石薬師文庫の左側にある連子格子の二階建ての家が佐々木信綱の生家で、信綱は一家が松坂に移住するまでの幼少期をこの家で過ごしました。生家の前には佐佐木信綱の歌碑があります。その隣には佐佐木信綱資料館があります。

佐佐木信綱資料館
資料館内部
資料館内部
資料館前の街道

佐佐木信綱資料館を後にして、人通りもなく閑散とした街道を進んでいきましょう。資料館先の交差点を渡ると左側に山門を構えるのが真宗高田派「浄福寺」です。ご本尊は阿弥陀如来で、佐佐木家の菩提寺だった寺です。山門入口の左側には佐佐木信綱の父、佐佐木弘綱の記念碑があり、彼の歌が刻まれています。

浄福寺
浄福寺



浄福寺を過ぎると、街道の両側は住宅がつづき、古い家並みはまったく現れません。道はその先で左にカーブし、その向こうに国道1号を跨ぐ瑠璃光橋があり、橋を渡ると右手に石薬師寺が堂宇を構えています。

瑠璃光橋

東海道名所図会に「高宮山瑠璃光院石薬師寺」とある寺で、本尊は弘法大師が自ら彫ったと伝えられる石仏薬師如来で、菊面石に彫刻してあるといい、石薬師宿という名は全国的に有名なこの寺から付けられたと伝えられています。



石薬師寺の由来記には「今から約1200年前の聖武天皇の神亀3年(726)に泰澄がこの地を訪れ、堂を建てたのが始まりと伝わっています。そして嵯峨天皇の弘仁3年(812)に弘法大師が自ら薬師如来像を刻んで開眼供養をされました。そして嵯峨天皇によって当寺が勅願寺になり、この時期に堂坊も整い、その規模も塔頭寺院も十二ヵ寺院、寺領も三町に達するほどの大寺院となりました。   
しかし天正3年(1575)の織田軍による兵火で諸堂坊舎はことごとく灰燼に帰したましたが、幸いにも本尊の薬師如来は難を免れましたた。その後、神戸(かんべ)藩5万石の城主「一柳監物直盛(ひとつやなぎなおもり)」が江戸時代の寛永11年(1626)に諸堂諸坊を再建し現在に至っています。

石薬師ご本堂

境内には佐佐木信綱が昭和7年8月にこの寺で詠んだ歌碑が置かれています。
「峰時雨 石薬師寺は広重の 画に見るがごと みどり深にし」

ご本堂
鐘楼堂
境内
境内

その他にも西行法師や一休禅師、西行法師、松尾芭蕉の歌碑が置かれています。 
「名も高き 誓いも重き 石薬師 瑠璃の光は あらたなりけり」(一休禅師) 
「柴の庵に よるよる梅の 匂い手やさしき方もある 住いかな」(西行法師) 
「春なれや 名もなき山の 薄霞」(松尾芭蕉) 
石薬師寺を出ると石薬師宿は終わります。

石薬師寺の山門を出てまっすぐ(東方面) 行くと左側に「蒲冠者範頼之社」と書かれた石柱が建つ神社があります。

蒲冠者範頼之社

蒲冠者範頼は源頼朝の弟ですが、武道、学問に優れていたので、それらの願望成就の神様として祀られてきたもので、地元では「御曹子社」と呼ばれています。また神社の南約60mのところに「蒲桜」と呼ばれる山桜があります。
伝聞によると寿永年間(1182~1184)の頃、源範頼が平家追討のため、西に向かう途中、石薬師寺で戦勝を祈り、鞭にしていた桜の枝を地面に逆さにさしたところ、芽を出してこの桜になったといわれています。

石薬師寺の前からは道はなだらかな下り坂になっています。坂が終わると左に古い家があるところで、道が二又になっています。私たちは右の道筋へと進んで行くと蒲川橋へとさしかかります。

蒲川橋を渡ると左側に大きな石標と常夜燈が立っています。案内板には「ここは石薬師の一里塚があったところで、江戸時代には榎の木が植えられていたが、昭和34年の伊勢湾台風で倒れてしまった。」と記されています。
お江戸日本橋から102番目(約401km)、京都三条大橋からは23番目(約96km)に位置に置かれた一里塚です。昭和52年(1977)に新たに榎を植え40年経った今、こんなに大きく育ちました。

石薬師一里塚遠望



一里塚を過ぎると、にわかに周辺の風景は変わってきます。それまでの住宅街の様相は一変し、田園地帯へと入っていきます。
旧街道筋がこんなところに通っていたとは思えない道筋です。といのも関西本線の線路の敷設や国道1号が造られたことによって、本来の道筋が大きく変わってしまったことによるものです。とはいえ、これまで旧東海道を歩いてきて、こんな一面の畑の中を歩くのは小夜の中山の茶畑の中を歩いたことを除いてあまりありません。

畑の中の東海道
畑の中の東海道

本来の旧東海道はJR関西本線の線路を斜めに横切るようにできていましたが、現在その道は消滅しています。かつての東海道筋ではありませんが、私たちは一里塚跡からゆるやかな坂道を進み、その先のJR関西本線の線路下のガードをくぐります。ガードくぐると目の前は広々とした畑が現れます。その畑の縁の農道のような道を進んで行きます。
 
道はゆるやかに左にカーブしながら右手の国道1号線に沿って進みますが、道筋はその先で国道1号下のガードをくぐります。


 
ガードをくぐったらすぐに左へ折れ、その先で右へ曲がります。そして畑の中を進んで行くとT字路にさしかかりますが、右手にはJR関西線の踏切があります。私たちは左へ曲がって小さな川を渡り、その先の陸橋下をくぐって進んで行くと国道1号線に合流します。ここから庄野宿の入口までは1.4km程の距離です。





あまり面白味のない国道1号にそって進んでいきましょう。庄野宿の東木戸までは国道1号線に沿って進んでいきます。1号線の左側には鈴鹿川が流れています。道筋は緩やかな勾配の登り坂となり、右手には日本コンクリート工業の大きな工場の敷地が見えてきます。そして、国道1号は大型のトラックがスピードを上げて走り抜けていきます。日本コンクリート工業の敷地が途切れる庄野北交差点で右折しやっと国道1号とお別れです。そしてすぐに現れる庄野町西の信号交差点が庄野宿(しょうのしゅく)の江戸方の出入口です。

一級河川の鈴鹿川は三重県と滋賀県の県境にある鈴鹿山脈の那須ケ原岳(標高800m)の東麓に源を発して、三重県の北部を東進しながら四日市の南端の伊勢湾に注ぎ込んでいます。川の総延長は約40kmです。

庄野宿江戸方

庄野宿は江戸から45番目の宿場ですが、宿場が成立したのは寛永元年(1624)とかなり遅い時期です。天領(幕府直轄地)だったこの地に鈴鹿川東の古庄野から移住させられてきた人を合わせ、70戸で宿場を立ち上げた、といいます。草分け36戸、宿立て70戸といわれる言葉のように宿場作りにはかなり苦労したようです。宿場は南北八町(約1000m)の長さで、加茂町、中町、上町の三町から構成されていました。宿場の規模は総家数211軒、宿内人口は855人、本陣は1軒、脇本陣が1軒、 旅籠は15軒しかありませんでした。安藤広重の庄野宿の景は「庄野の白雨(にわかあめ)」です。



広重の庄野の景は東海道五十三次中の傑作とされ、庄野宿を「雨の中を急ぐ旅人と薮の中の数軒の人家」という構図で描いています。宿の入口の石柱からなだらかな上り坂になっていて、道の両脇にはわずかながら古い家が残っています。



静かな雰囲気を漂わす宿内を進んでいきますが、宿場であった風情が感じられません。道筋に古い家並みが残っていないからなのでしょう。そんな道筋を歩いていくと、やおら立派な仕舞屋風の建物が現れます。

庄野資料館パンフレット

この建物が平成10年に公開された庄野宿資料館です。この建物は江戸時代に油問屋を営んだ小林家の跡です。立派な連子格子の建物は屋敷の一部を創建当時の姿に復元し、庄野宿に残る膨大な宿場関係資料を展示しています。

庄野宿資料館

その先の民家の壁に問屋場跡を表示した案内板があります。庄野宿は四日市宿と亀山宿間が長かったので新設された宿場ですが、石薬師宿からわずか3キロ弱と短いことに加えて、伊勢詣の旅人たちは手前(東)の日永追分やこの先(西)の関宿で伊勢街道に入ってしまうため、庄野宿内の通行量が少なく、宿泊者は三分の一と大変少なかったようです。石薬師宿と同じような憂き目にあっていたのです。 

問屋場は御伝馬所ともいい、問屋2名、年寄4名、書記(帳付)、馬差各45名が半数で交替してつめていました。宿場の経営は難しかったようで、幕府は宿場の不振を理由に文化12年(1815)、石薬師と庄野の二宿に対し、配備しなければならない人足百人、伝馬百疋の定めを半減させ、人足五十人、伝馬五十疋に削る処置を行っています。そんな歴史的な背景を思うと、庄野宿はこじんまりとした宿場で申し訳なさそうに佇んでいるといった印象です。右側の庄野集会所の前に「庄野宿本陣跡」の標柱が立っています。

庄野宿本陣跡

標柱には「本陣は寛永元年(1624)には沢田家が担当し、 間口十四間一尺、奥行二十一間一尺、二百二十九 坪の家だった。」と記されています。また隣りには「距津市元標九里拾九町」と書かれた「道路元標」が建っていて、これによると「亀山へは二里三町」の距離です。

交差点の右角に「高札場跡」の表示が置かれています。交差点を過ぎて少し行った右側の床屋の壁に「郷会所跡」の表示板があります。郷会所は助郷の割当を受けた各村の代表(庄屋や肝煎)が集会する場所です。江戸後期になると、助郷人馬の割当が多くなり、減免陳情のための会合が繰り返されたそうです。

郷会所跡を過ぎると街道の右奥に常楽寺がちらりと見えます。そしてその先の右側に「延喜式内川俣神社」と彫られた大きな石柱があり、常夜燈には「天保十五甲辰歳小春」と刻まれています。鳥居をくぐって川俣神社に入ると右手には大きく育ったスダジイの巨木が存在感を示しています。「スダジイはブナ科の常緑樹で、樹齢300年、高さ11m、幹周り6mの古木で、県の天然記念物に指定されています。」

川俣神社のスダジイ

街道に戻り、少し行くと庄野宿の東の入口にあったのと同じ、庄野宿の石柱が現れます。その先は汲川原町で国道と交差し立体交差になっています。ここの庄野宿の石柱が京側の入口で、ここで庄野宿は終わってしまいます。あっけなく終わってしまったという感じです。



旧道街道筋は汲川原町交差点で国道1号と637号線が交わります。ここでも旧東海道筋は637号と国道1号によってズタズタに分断されています。本来の東海道同筋は斜め左へと直進していたのですが、かつての道筋は消滅しています。立体交差になっているので、まず県道637号を渡り、再び国道1号線を渡ってタイヤショップ側へ進みます。タイヤショップの脇の道を下りていくと旧東海道へと入ります。

東海道はここから亀山まで国道1号線と平行しながら残っています。田畑の道を道なりに行くと汲川原東バス停がある集落に出ます。左側の民家の角には「平野道」の道標があります。平野は鈴鹿川対岸の平野町のことです。ここは江戸時代は汲川原村だったところで、道の反対に高札場があったようですが、その面影はなく古い家もありません。

街道の左側に本願寺派の「真福寺」があり、少し行くと道の左前方に大きな椿の木があり、その横に女人堤防碑が立っています。汲川原村は鈴鹿川と安楽川の合流地点であったため、村人は度重なる水害に悩まされていました。その洪水に悩まされていた村民たちが神戸藩に堤防の補強を願い出ましたが、対岸の神戸藩は城下町を守るため、堤防の補強は許可しませんでした。このため汲川原村の村民たちは打ち首覚悟で六年の歳月をかけ、約400mの堤防を造りました。そして面白いのは男性が作業を行うと目立つので、女性が夜間にひそかに堤防を造ったと言われています。今から170年前の文政12年(1829)のことです。 

女人堤防碑の近くに「従是東神戸領」と刻まれている「領棒石」と「燈籠」が立っています。領棒石は亀山藩中富田との境界からここに移設したものです。右側には「山神碑」と「常夜燈」があります。山神碑は江戸時代からここにあったといいます。「手洗石」は文化10年(1813)のもので、その他、「常夜燈」もあり、道の裏には「古墓群」もあります。そしてその先へと進むと中富田町(旧中富田村)に入ります。



少し先の三叉路では右の道を行くと100m程先の左側に「式内川俣神社」があり、鳥居の左側には大正15年の「常夜燈」、右側の石柵の中には「中富田一里塚跡碑」「従是西亀山領」と書かれた領棒石が立っています。江戸から103番目(約404㎞)、京都三条から22番目(約91㎞)に置かれた一里塚です。
なぜか社殿が街道に背を向けて建てられています。

中富田一里塚跡碑

享和3年(1803)発行の「東海道亀山宿分間絵図」には「汲川原村との境に領棒石が置かれ、その右(西の方角)に 中富田一里塚、高札場、そして、川俣神社」という順に描かれています。また「高札場の前には大名や公家を接待する御馳走場があった。」ことも記されています。境内には樹齢600年の楠の大木や山神碑、安政三年の手洗石があります。そして江戸時代にはここから亀山藩領となっていました。 

西富田町(旧西富田村)に入ると両脇は住宅地で、右側に天台真盛宗の「常念寺」が山門を構えています。かつてここには延命地蔵尊を祀る平建寺がありましたが、安政地震後に常念寺が移転してきたといいます。その先の四つ角には「ひろせ道」と書かれた道標がありますが、右折して北方に行くと広瀬町があります。広瀬町にはここ伊勢の国の国府が置かれていた場所です。
 
上り気味の坂道を進んで行くと、前方に堤防が近づいてきます。その登り坂の左側に「川俣神社」が社殿を構えています。この辺りに川俣神社が多いのは各村が鈴鹿川系の河川の水害から逃れようと建てたことによるのでしょう。
鳥居の脇の常夜燈は慶応2年(1866)のものですが、元は大筒川辺にあったらしいとのこと。近くの道標には「右 ひろせ 左 はたけ」と刻まれています。 

境内には戦国時代当時の神戸城主、織田信孝(信長の三男)が愛した「無上冷水井」跡の石碑が建っています。ここには「庚申塚」「献燈」(1803年)「座標」の石柱「和泉橋」の橋柱などが置かれています。 

実は戦国時代にはこのあたりは神戸氏が治めていた土地なのですが、この神戸氏は永禄11年(1568)に信長の侵攻を受けると、その時
の当主である真盛は信長の三男である信孝を養子に迎えることを条件に和睦に応じました。その後、真盛は信長の家臣として活躍しました。
一方、養子となった信孝は15歳で元服をした後、神戸の当主となるのですが、天正10年(1582)の本能寺の変の後、織田家の跡目を狙って織田姓に戻しています。信長なき後、信孝は柴田勝家とお市の方の結婚を取り持ち、そのことから結局は柴田勝家ともども秀吉の軍門に下ることになり、最終的には自害に追い込まれています。

そんな信孝が神戸にいたころに飲んでいた井戸水のことを「無上冷水井」と呼んでいたようですが、この無上冷水の意味がよくわかりません。無上ですから、この上なくといった意味だと思います。そして冷水ですから、「この上なく冷たい水?」ほんとかいな?

堤防に上ると安楽川の水の流れと共に長閑な田舎の風景が目に飛び込んできます。そして安楽川に架かる和泉橋が対岸へと延びています。江戸時代には土橋が架けられていたとあり、出水の時は渡しとなったといいます。



それでは幅の広い河川敷を伴う安楽川にかかる長い和泉橋を渡り、和泉町へ入っていきましょう。橋を渡ると正面に井田川小学校があります。橋を渡ったら右折して堤防の上の道を川に沿って100m程進んでいきましょう。右手には安楽川の流れと対岸の笹林、そしてその背後に連なる鈴鹿連山がまるで一枚の絵のように美しい景色を見せてくれます。
そして土手道から左へと向かう道筋へ入っていきます。安楽川と別れて左へカーブする道に入ると和泉町の集落ですが、古い家はほとんどありません。

右にカーブする手前の右側の狭い道の両側に「右 のぼ道」と刻まれた「道標」が置かれています。左は江戸時代のもの、右は大正3年のもので、「のぼの」とは能褒野神社(のぼのじんじゃ)のことでしょう。ここから能褒野神社まで直線で約2.2キロの距離があります。

※能褒野は日本武尊が死去した地と伝えられています。ここに置かれているのが能褒野神社です。神社の周辺には日本武尊の陵墓と言われる古墳がいくつかあったのですが、明治12年(1879)に時の内務省が「王塚」あるいは「丁字塚」と呼ばれていた前方後円墳を日本武尊の墓であると治定し、能褒野陵としました。

この道標をすぎると、本日の歩行距離も10キロに達します。さあ!本日の終着地点まで残すところ1キロに迫ってきました。



旧東海道筋はこの先で641号線に合流します。合流する手前の右側の小高い場所に「極楽山地福寺」が堂宇を構えています。地福寺の右側の空地に「明治天皇御小休所」の碑が立っています。そして道筋は少し下り坂となり641号線へと合流します。

合流後、すぐに関西本線の踏切を渡ると道筋は大きく左へとカーブを切っていきます。そして鈴鹿市から亀山市へと入ります。踏切を渡り500m進むと関西本線の井田川駅前に到着です。駅舎は比較的最近に整備された様子で、駅前には綺麗なロータリーがあります。
そしてここ井田川駅から日本武尊ゆかりの能褒野(のぼの)神社まで直線で約2キロと近いことから、ロータリーの脇に日本武尊の像が置かれています。
とはいえ、駅前は閑散として商店らしきものはまったくありません。エンディングの場所としては寂しさを感じます。

私本東海道五十三次道中記 第30回 第1日目 桑名七里の渡しから四日市富田へ
私本東海道五十三次道中記 第30回 第2日目 四日市富田から四日市宿を抜けて采女のサークルKまで

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私本東海道五十三次道中記 第30回 第2日目 四日市富田から四日市宿を抜けて采女のサークルKまで

2015年10月23日 07時35分04秒 | 私本東海道五十三次道中記


さあ!第二日目が始まります。
昨日の終着地点である「フレスポ四日市富田」が本日の出発地点です。

本日はここフレスポ四日市富田を出立して、まずは5.5キロ先の四日市宿を目指します。その後、お江戸からちょうど100番目の「日永一里塚」を経て、東海道と伊勢街道の分岐点の追分を抜け、日本武尊ゆかりの「杖衝坂(つえつきざか)」を越えて、采女のサークルKまで15.5キロを歩きます。
ちょっと長めの行程ですが、晩秋の伊勢街道を辿ってまいります。



四日市富田は比較的大きな町で、なんと三岐鉄道、関西本線そして近鉄名古屋線が交わるターミナルで、町全体に賑やかな雰囲気が漂っています。旧街道は住宅街を縫うようにくねくねと曲がりながらつづいています。

歩き始めるとすぐに三岐鉄道と近鉄の高架をくぐります。昔は庚申橋といっていた小さな一里塚橋があり、橋を渡った右側に目立たない存在で98番目の「冨田一里塚跡」の碑が置かれています。

冨田一里塚跡

江戸時代初期に東海道が開設され、大名行列や伊勢参りなどの多くの旅人が行きかい、 同時に立場になっていた冨田(とみだ)はたいへんな賑わいを見せていました。

その当時、冨田には多く茶屋があったそうですが、茶屋の名物が焼き蛤だったのです。十返舎一九の「東海道中膝栗毛」では喜多八が茶屋の名物の焼き蛤で騒動を起こしています。

膝栗毛には「富田の立場にいたりけるに ここはことに焼はまぐりの名物、両側に茶屋軒を並べ往来を呼びたつる声にひかれて茶屋に立ち寄り」とあり、冨田の茶屋の競争が激しかった様子が描かれています。

弥次郎兵衛と喜多八が焼き蛤でめしを食ったまではいいが、焼き蛤が喜多八のへその下に落ちてやけどするはめになり、「膏薬は まだ入れねども はまぐりの やけどにつけて よむたはれうた」という狂歌が落ちになっています。

道をすすむと左側に八幡神社が現れます。八幡神社の祭神は応神天皇で明治42年の神社統合令で鳥出神社に合祀されましたが、昭和49年、現在地に社殿を建てて再建されたものです。八幡神社の境内には力比べに使われたというおよそ100㎏の横長の丸い石(力石)が置かれています。

八幡神社

江戸時代には八幡神社が富田の西端で、鬱蒼とした鎮守の森で覆われ昼でも暗かったと伝えられています。現在は私鉄の近鉄が通っていることからこの辺りは開発が進み、民家が密集しています。道をそのまま進むと正泉寺に突き当たってしまうので、手前の三叉路のクリーニング屋の角を右に曲がります。



三叉路を右へ曲がると、商店が並ぶ仲町通りへと入って行きます。道筋の先の右側に富田地区市民センターが見えてきます。
その前に「右 富田一色、東洋紡績、川越村」と書かれた道標が置かれています。これは大正6年10月に建てられたものです。また富田小の正門脇には「明治天皇御駐れん跡」の立派な石碑も置かれています。

明治天皇は明治元年(1868)9月20日、京都を発ち、25日に富田茶屋町の広瀬五郎兵衛方に御少憩になり、富田の焼き蛤を賞味なられた。そして同年12月19日、京都に戻られる途中も小休止されました。更に明治2年に神器を奉じて東京に遷都されたときと、明治13年陸軍大演習で行幸された際もここに立ち寄られています。そんな折に明治天皇は富田の焼きハマグリをご賞味されたといいます。
明治天皇が休憩された屋敷は東海道に沿った現在の富田小学校から富田地区市民センターにかけてあった。」という説明板があります。

道筋は十四川へとさしかかってきますが、川を渡る手前の左側に大きなお寺が堂宇を構えています。真宗高田派の寺院で善教寺といいます。

善教寺本堂

当寺には重要文化財に指定されているご本尊の阿弥陀如来立像が祀られています。以前は国宝に指定されていました。この立像の製作年代は鎌倉時代中期(1240年代)に溯ります。また立像内部には鎌倉時代の文書が多数納入されているのが発見されました。門前にはかつて阿弥陀如来像が国宝に指定されていたことを示す大きな石碑が置かれています。

善教寺石碑

その先には十四川が流れています。この河岸には桜並木が両岸1.2㎞にわたって、ソメイヨシノが約800本植えられています。この桜並木は日本の桜の会より全国表彰を受けたことがあります。

十四橋を渡ると南富田(旧茂福村)となり、街道右側に薬師寺が山門を構えています。当寺には弘法大師が彫った60年に一度開帳される秘仏の薬師如来が祀られています。この薬師如来は大同年間(806~810)に疫病に苦しんでいた住民のために弘法大師が自ら彫られてものだそうです。

薬師寺からほんの僅かな距離を歩くと、街道右側に立派なお寺が現れます。真宗本願寺派の光明院常照寺です。
開山は天文7年(1538)、寛文年間(1661~1673)に天台宗から浄土真宗本願寺派に改宗しました。
ご本堂は明治42年(1909)の再建で、鐘楼と山門も明治末期の建築です。鐘楼の鐘は昭和27年(1952)の四日市大博覧会で展示されていた「平和の鐘」を譲り受けたものです。

常照寺ご本堂

常照寺を過ぎると、道筋は明らかに「鉤の手」状に鋭角的に曲がります。その曲りに「新設用水道碑」という大きな石碑と、その脇に「力石(19kgと120kg)」が置いてあります。茂福町(もちぶくまち)の力石と呼ばれているものです。

力石
力石

「明治時代中期、二つの寺の御堂を再建するため土台石の奉納があった。その際、地固めに集まった人達の間で、休憩時に奉納された石を持ち上げ力競べを行なわれた。茂福地区ではその後も大正の終わりまで力競べが続いた。」と説明版に記されています。

鉤の手を左に曲がると、再び大きく右手に曲がる次の鉤の手が現れます。その右角の一画に堂宇を構える立派なお寺があります。本願寺派の林光山證圓寺(とうしょうじ)といいます。

證圓寺山門
證圓寺境内

天文年間(1532~1555)に浄土真宗本願寺派に改宗したお寺です。戦国時代末期、茂福城主の茂福盈豊(もちぶくみつとよ)が織田信長家臣の滝川一益に伊勢長島で謀殺され、後に茂福城は落城します。その後、盈豊(みつとよ)の遺児は家臣に匿われて逃れ、後にその子孫が證圓寺住職を務めたといいます。

しばらく行くと右側に茂福(もちぶく)神社の石柱が立っています。茂福の産土神として地元では崇敬されています。茂福神社は元禄16年(1703)頃の東海道分間絵図に天王社と記載されていましたが、明治28年(1895)に現社名の茂福神社に改称されました。その後、明治42年(1909)に鳥出神社にいったん合祀されましたが、昭和25年(1950)に鳥出神社からご祭神を分祀し、茂福神社が再興されました。茂福神社は路地を入って300m程行かなければなりません。

茂福神社の参道入口を過ぎると、本日の歩行距離は2キロに達します。



そのまま進むと産業道路64号線と交叉する八田三丁目西交差点にでます。このあたりは自動車販売店や工場が多く、これまで歩いてきた道筋の風景とは異なる雰囲気が漂っています。

無味乾燥なあまり面白味のない道筋を進み、前方の米洗川(よないかわ)を渡る手前の右側に「羽津の常夜燈」といわれた燈籠が置かれています。

これまでとはちょっと異なる風景が続く中を進むと、米洗川(よないがわ)があり、橋を渡ると八田町へと入ってきます。

米洗川という川名ですが、「こめあらいかわ」とつい読んでしまいがちですが、「よない」と読むようです。
川の名の由来は志氐神社(しでじんじゃ)の天武天皇伝説に関係があるようです。志氏の氏の下に一を付けるのが本当のようです。米洗(よない)の名は、古の時代、天武天皇が伊勢神宮遥拝に供える御神酒を作るため、住民に麹づくりを教え、この川で麹にする米を洗ったことに因んでいます。

※志氐神社の参道入口が米洗川から約1キロ先のあります。

志氐(しで)とは珍しい名前です。その由来は天武天皇が皇子であった時に、壬申の難をさけて、吉野から鈴鹿を経て桑名の頓宮(とんぐう)にお出ましの途中、迹太川(とおがわ)の辺で天照皇大神宮を遥拝するため、ここに木綿(ゆふ)取重(しで)て御身の禊(みそぎ)をなされたので「志氐」の名がおこり、神社の名となったと伝えられいます。
そしてここでいう「シデ」とは神道のお祓いで神主さんがもつ「御幣(ごへい)」のことを指します。シデを「紙垂」と書くこともあります。

米洗川を渡ると、道筋は住宅街へと入ってきます。道筋にはちらほらと「窯」の文字が現れてきます。というのも四日市は万古焼の故郷ということもあり、街道筋に窯元が点在しています。そんな道筋を進んで行くと、街道右手に小さなお堂がぽつねんと置かれています。

地蔵堂

このお堂は地蔵堂でその傍らに伊勢国八幡神社碑があります。かつては八幡村という村名の由来になった八幡神社が鎮座していましたが、この八幡神社は明治41年(1908)に志氐神社に合祀されています。



桑名から旅を始めて、街道を飾る往還松の並木はほとんど姿を消してしまい、見ることができませんでした。かつては畷道にそって美しい松並木が並んでいたのですが、昭和34年の伊勢湾台風で被害を受けて姿を消してしまったといいます。
そんな往還松の名残である1本の松の木はこのあたりの地名が「川原須」ということから「かわらずの松」と命名され、街道脇に現れます。樹齢200数十年の古木ですが、寂しげに街道脇に聳えています。

かわらずの松

そして、しばらく歩くと享保10年(1725)に建てられという志氐(しで)神社の鳥居が現れます。
志氐神社の創建は定かではありませんが、社伝によると垂仁天皇の御世(前29~70年)ともいわれています。

志氐神社の鳥居

この志氐(しで)神社への参道入口が東海道筋にあることで、ここには面白い石が置かれています。この石は妋石(みよといし)と呼ばれているもので、街道を挟んで2つ置かれています。志氐(しで)神社にはイザナギ・イザナミという夫婦の神様が祀られていることから、縁結び、夫婦円満のご神徳があります。そのことから古来より、東海道を行き交う多くの旅人はこの妋石(みよといし)をなでて縁結び、夫婦円満を祈願したといいます。

妋石
妋石

志氐(しで)神社の鳥居からほんの少し進むと、街道右手に「八十宮(やそのみや)御遺跡」という大きな石碑がある光明寺が山門が現れます。光明寺は真宗本願寺派の寺です。

光明寺山門前
光明寺山門

時代は江戸時代の正徳の頃(1700年代の前半)のお話です。八十宮は吉子内親王(よしこないしんのう)の幼称で、異母兄に東山天皇、同母兄に有栖川宮職仁親王(よりひと)がいます。八十宮は生後1ヵ月で時の7代将軍、徳川家継公と婚約しましたが、夫となる家継もわずか6歳でした。しかし婚約した2年後に家継が死去したため史上初の武家への皇女降嫁、関東下向には至らなかったのです。

ということは八十宮自身、僅か1歳7か月で後家となってしまったのです。その後、八十宮吉子内親王は出家し、法号を浄琳院宮(じょうりんいんのみや)と称され、45歳で亡くなりました。ちなみに墓所は京都の知恩院にあります。

八十宮と光明寺の関係なのですが、宮は出家後、青蓮院(皇室と関わりが深い京都にある天台宗総本山比叡山延暦寺の三門跡の一つ)所属の別殿に住まわれましたが、その時、光明寺第5世俊応の妹つね(宮名:岡田)が宮付きの青蓮院御曹司として召されました。宮は宝暦8年(1758)8月に薨去され、その際に、位牌と遺物3品がつね女に下賜されました。これらの品々は光明寺に奉安されていましたが、昭和20年(1945)の四日市空襲の際に収蔵庫が罹災し焼失してしまいました。

光明寺を過ぎると道が左へカーブ、すぐに右カーブ、そして国道1号線に合流します。ここから車の往来が激しい国道1号に沿って1キロ弱歩いていきます。ここまで来ると四日市市街までは目と鼻の先です。



金場町の交差点には小さな道標が立っています。
道標の表面には「右くわな 左四日市道」、右面には「右四日市、大矢知道」とあり、左面には「大正12年1月3日」、陰刻に「羽津四区除雪紀・・」と刻まれています。三ツ谷町交差点の角には四日市名物の「なが餅」を販売する「笹井屋」の支店が店を構えています。笹井屋の本店はこの先の「三滝川」を渡った袂に店を構えています。

金場町の交差点から700mほど歩くと、国道1号から分岐するように道筋が左へと入って行きます。その道筋に入る左手に「多度神社」が祠を構えています。明治18年(1885)に創建された神社です。
伊勢の国の二宮に列せられる多度神社の分社です。主祭神はアマテラスとスサノオの誓約で生まれたアマツヒコネノミコトです。
このことから神宮との関係も深く、「お伊勢参らば お多度もかけよ お多度かければ片参り」と言われ、古くから伊勢神宮に参拝するにあたって、多度神社も併せて参ることで「両参り」になるよう言い伝えられています。

そのまま進んで行くと海蔵川に突き当たり、東海道筋はいったん途切れてしまいます。「三ツ谷一里塚跡(99)」の石碑が海蔵川の土手際に置かれています。
江戸日本橋から99番目(約389km)、京三条大橋からは26番目(約110km)となる一里塚です。

三ツ谷一里塚跡

江戸時代の東海道の海蔵川には土橋が架かっていました。元禄3年(1690)の「東海道分間之図」には海蔵川に突き出た辺りに一里塚が記されています。昭和20年に川を拡張した際、一里塚だったところは川の中に入ってしまいました。土手際にあるこの石碑は最近になって建てられたものです。

東海道分間之図には海蔵川を「かいぞ川」と書いてありますが、国道に架かる橋には「かいぞうばし」と刻まれています。 
国道にかかる海蔵橋を渡ったらすぐ左折します。その少し先で道筋は二股になるので、右側へとつづく道が東海道です。とはいっても、この道筋は古い家がある訳でもなく民家と商店が続くだけです。

かいぞ川の眺め
かいぞうばし



かつての宿場のエリアへと入っていきますが、ここもご多分に漏れず、古い家並みはまったくのこっていません。国道1号線は旧街道にそって右手を走っています。

旧東海道筋を南下していくと、大きな信号交差点を渡ります。ほんの少し行くと、街道右手に宝来軒という和菓子屋が現れます。当店の名物は「大入道せんべい」です。

大入道とは日本古来の妖怪なのです。実は市内に社殿を構える諏訪神社で行われる例祭で使われる山車の中に「大入道山車」があります。この山車にはからくり人形が乗せられているのですが、首をのばしたり、舌をだしたり、目を剥くなどの仕掛けが施され、祭りに訪れた人々の目を楽しませたといいます。

諏訪神社で使われていた山車はかつては30基ほどあったのですが、戦災でそのほとんどが焼失してしまいました。幸いにも大入道山車は焼失を免れ、現在でも毎年8月第1日曜日に行われる「大四日市まつり」で登場します。

交差点から200mほど行くと小さな川の袂に「嶋小のだんご」の看板を掲げた「嶋小餅」が店を構えています。江戸時代の文政年間の創業。

更に進むと、三滝川に架かる三滝橋が見えてきます。その橋の袂にも「創業元禄 文蔵餅 三滝屋」の看板を掲げた店が現れます。

三滝川

さあ!この三滝橋を渡るといよいよお江戸から43番目の宿場町「四日市」の東木戸です。

広重の四日市宿の浮世絵は、川に突き出た縄手道の上に突然強風が吹き、吹き飛ばされた笠を追う男と 板橋を歩いて平然と立ち去る男を描いていますが、浮世絵にある三重川は三滝川のことで、海蔵橋から700mほどの距離です。

四日市の景

四日市宿は三滝橋を渡ったところから諏訪神社の手前までの六町二十間(約700m)の短い宿場町ですが、宿内人口は6890人 、家数1561軒、本陣2軒、旅籠111軒と比較的多いのです。

これは四日市が伊勢参詣に使われる伊勢街道の追分(分岐点)にあり、陸海交通の要所で商業が盛んな土地だったことによります。
江戸時代の寛永年間に刊行された「東海道名所図会」には「当駅海陸都会の地にして商人多く、宿中繁花にして、旅舎に招婦見えていと賑はし」と書かれています。

三滝橋を渡ると右側に「笹井屋菓子店」が店を構えています。

笹井屋

笹井屋は名物の「なが餅」を売る店で、創業は天文19年(1550)という極め付けの老舗菓子店です。日永(ひなが)の餅、長餅、笹餅などと呼ばれていましたが、現在は「なが餅」になっています。
津藩36万石藤堂家の始祖、藤堂高虎が足軽時代から「吾れ武運の長き餅を食うは幸先よし」と好んで食べたという菓子で、長き餅の名の通り、細長い餅の中に餡を入れて焼いた素朴な味で、程よい甘さが残ります。
なが餅(画像は笹井屋さんのHPから)
なが餅
◆笹井屋
住所:三重県四日市市北町5-13
電話:059-351-8800
◆なが餅7個(竹紙包み)¥648円(税込)

四日市はかっては浜辺の美しいところで、諸国の物産が集散する港町として栄えたところです。江戸時代以前から数多くの市場が開かれ、やがて毎月四日に立つようになったそうです。そこから四日市の名がついたと言われています。 

現在の四日市は空襲によって市内の大部分が壊滅しました。そしてその後の石油コンビナートによる海岸部の埋め立てにより、江戸時代の姿を思い浮かべること全く出来ません。街道の左右には普通の家やビルが建ち並び、古い建物は皆無です。

そんな雰囲気の旧街道の右側の福生医院が「問屋場跡」で、近藤建材店が「帯や本陣跡」、その先にある黒川農薬商会が「黒川本陣跡」です。しかしながらどれも解説板もないので不親切きわまりないのです。



旧街道はその先で164号線と交わる交差点にでてきますが、交差点を渡ると正面に「田中仏具」の看板があるビルの交叉点に出さしかかります。道はここで右にカーブするのですが、カーブする左側に「すぐ江戸道」の道標が立っています。

「すぐ江戸道」の道標

この道標には「すぐ江戸道」「すぐ京いせ道」>、「京いせ道・ゑどみち」、「文化庚午冬十二月建」と刻まれた道標で、文化7年に造られたものです。この先の「江戸の辻」に建っていたものを昭和28年に複製し、当地に置いたもので本物は個人蔵とのことです。「すぐ」とは「まっすぐ」の略です。

江戸時代の東海道はここから諏訪神社の前に向かって斜めに横断していましたが、区画整理で様相を一変し、それを辿ることはできません。この道標がある仏壇屋周辺がかつての宿場の中心地だったと思われます。道標のところで右に曲がり、国道1号線に出たら左折、最初の信号で国道を渡り、正面にあるアーケード形式の「スワマエ表参道商店街」に入ります。

スワマエ表参道のアーケードに入るとすぐ右側に「諏訪神社」が社殿を構えています。諏訪神社は建仁2年(1202)、信州諏訪の諏訪大社に勧請し分祀した神社で、当地の産土社です。また江戸時代の四日市宿の京側入口は諏訪神社でした。

諏訪神社社殿

私たちは諏訪神社に立ち寄り、その後、賑々しい飾り付けが施されたアーケード内を歩き四日市駅へと通じる中央通りへと向かいます。
アーケード内を貫く旧街道に「大入道」の大きなからくり人形が置かれ、首を伸ばしたり、縮めたりして注目を浴びています。
中央通に出ると右手奥に近鉄の四日市駅のターミナルビルが現れます。さすが三重県を代表する人口31万の都市の表玄関といった感じです。

この辺りは大変賑やかなエリアで駅ビルには百貨店が併設され、周辺には飲食店やホテルなども並び、さすが近鉄の駅前といったところです。私たちの本日の昼食は中央通りに面して店を構える「たまゆら」和食御膳を楽しみます。

昼食後、私たちは中央通を駅方面へ進み、ガードをくぐり反対側へ移動し、鵜森神社へと向かいます。。近鉄四日市駅の西側にある鵜森神社の周囲は、室町時代には浜田城があったところです。浜田城は現在の鵜ノ森公園のところに文明2年(1470)、田原孫太郎景信の三男の田原美作守忠秀が築城し、その後、藤綱、元綱など四代続きましたが、織田信長の部将、滝川一益に攻略されて落城しました。なお田原孫太郎景信は俵藤太秀郷の子孫とされ、鵜ノ森神社には、俵藤太秀郷が祀られています。

鵜森神社社殿
俵藤太稲荷
俵藤太稲荷



鵜森神社から別のルートを辿り、再び旧街道筋へ戻ることにします。中浜田町に入ると、道幅も狭くなり、これまでよりも古い家が筋道に現れます。この辺りは戦災を免れたのかもしれません。街道はゆるやかに右へカーブをします。その先で街道は四日市あすなろう鉄道内部(うつべ)線と並行して走ります。そして内部線の赤堀駅入口へとさしかかります。

古い街並みが続くこのあたりは赤堀集落と呼ばれ、 慶応年間(1865~1868)頃には居酒屋や傘屋、種屋、畳屋など多くの商家が立ち並んでいたといいます。右側に立派な古い建物があり、案内板に「寛延3年(1750)創業・鈴木薬局(旧鈴木製薬所)」とあります。

鈴木家は300年近く続く家柄で、第4代の勘三郎高春が寛永3年(1750)、蘭学の盛んな長崎に赴き、漢方を伝授され、赤万能即治膏萬金丹などの膏薬を製造、販売する旧家です。現在残る建物は嘉永5年(1852)に建てられたもので、がっちりした建物には歴史の重みが感じられます。 



赤堀駅を過ぎて、小さな落合川を渡ると前方が小高くなってきます。その一段高い所にあるのが「鹿化川(かばけがわ)」です。川を渡ると街道は「大宮神明社」へとつづく参道入口にさしかかります。

大宮神明社
大宮神明社鳥居
大宮神明社参道

「大宮神明社」は垂仁天皇の時代に倭姫命が天照大神を伊勢に遷す際、この社に一時留まったという伝えがあり、名所記に「松林のうちに、天照太神の社あり」と記されている神社です。
前身は500mほど西の岡山の地(現在の四日市南高校辺り)にあった「舟付明神」で、400年ほど前に炎上した後、現在の地に移ってきました。当時の岡山は海に面していた。と案内板に記されています。
尚、摂社の二柱大神社は大己貴命(おおなむちのみこと)少彦名命(すくなびこなのみこと)を祭神に祀り、病気平癒の神として名を知られています。鳥居からまっすぐにのびる参道の向こうに社殿が見えます。

大宮神明社への参道入口の先に信号交差点があり、右手に行くと内部線の日永駅があります。このあたりは相変わらず古い街並みがつづきます。更に進むと右側に真宗高田派の興正寺が山門を構えています。

興正寺山門

興正寺は貞観6年(864)の創建といわれる古刹です。天正2年(1574)に旧地(津の一身田)より現在地へ移って以来、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の保護を受けました。天白川の流れが境内の西・南辺を囲むように流れているのは、天白川築堤の際、滝川一益の命により堀の役目とするよう川筋を曲げたことが理由と伝わり、昔の人はこの堤を滝川堤と呼んだといいます。その先の小高い所を流れているのが天白川です。



天白川に架かる橋を渡ると右側に両聖寺が堂宇を構えています。信号交差点を越えると右側に名所記に「ひなの村。この村にも太神宮の御やしろあり」と記されている日永神社が社殿を構えています。

日永神社鳥居

神戸藩主本多家の崇敬が厚かったという日永神社はその昔、南神明社といった古い神社でしたが、創建の時期はよく分かりません。明治40年に周囲の神社を合祀して現在の名前になったとあります。 

境内の片隅にある「石柱」は日永追分の神宮遥拝鳥居の傍らに立っていた道標です。案内板には「嘉永弐年(1849)に現在の道標に替えられた時、この道標が不用になり、近くの追分神明社に移され、明治の神社統合により追分神明社が合祀された際、道標もここに移されたと推定される。と記されています。石柱の正面には「大神宮いせおいわけ」 右側に「京」 左側に「山田」 、裏面に「明暦二丙申三月吉日 南無阿弥陀仏 專心」と刻まれていて、明暦2年(1656)に專心という僧侶の手で建てられたことが分かります。 

隣にある長命山薬師堂薬師如来像は平安末期から鎌倉期のものといわれ、市の有形文化財に指定されています。 

さあ!いよいよ感動のお江戸日本橋から数えて100番目の一里塚が近づいてきます。一里塚といってもいつものように跡を示す石柱なのですが、その佇まいがなんとも寂しいのです。記念すべき100番目の石柱は建物と建物の間の狭いスペースに目立たない存在で私たちの前に突然現れます。気が付かなければ通り過ぎてしまいます。

いずれにしても江戸から100番目となる「日永(ひな)一里塚跡」の碑が立っています。記念すべき100番目の一里塚跡なのですが、その佇まいからまったく感動を覚えません。
江戸日本橋から100番目(約393km)、京三条大橋からは25番目(約105km)となる日永(ひな)一里塚跡です。

日永一里塚跡



「日永一里塚跡」から1㎞強歩くと、旧街道は国道1号と合流します。国道1号と合流してから150mほど進むと、三叉路にさしかかります。ここが「日永(ひな)の追分」です。

日永追分

日永(ひな)の追分は東海道と伊勢参宮道との分岐点で、東海道中の四日市宿と石薬師宿の間に位置することから間の宿ともよばれ、街道時代には周辺にたくさんの旅籠や立場茶屋などが並んでいたといいます。

現在の分岐点には三角形の敷地が造られ大きな鳥居が置かれています。

追分の鳥居

日永(ひな)の鳥居は安永3年(1774)、久居出身の渡辺六兵衛という商人が江戸から京都に行く途中、ここから伊勢神宮を遥拝するのに鳥居がないのは残念と、この土地を購入し江戸の伊勢出身者に募って建立したものです。

桑名の一の鳥居に対し二の鳥居といわれるもので、この鳥居も伊勢神宮の遷宮に合わせて、二十年毎に建て替えられることになっています。現在の鳥居は昭和48年(1973)の式年遷宮の際に、伊勢神宮内宮の別宮の一社、伊雑宮(いざわのみや)の鳥居を昭和50年に移設したもので9代目にあたります。

鳥居の脇には常夜燈や道標等が立っていますが、嘉永2年(1849)建立の道標には「右 京大坂道」、「左 いせ参宮道」と刻まれています。伊勢街道は鳥居の下を通っていましたが、道路改修の際、現在のように道がずらされ、三角地は小公園になってしまいました。
鳥居の脇にはなんと湧き水が!飲めるようです。

追分の湧水

江戸時代にはこの付近に数軒の茶屋があり、鈴鹿を目指す者も伊勢に向かう者もここで休憩して身支度をしたり、腹ごしらえをしたのでたいへん賑わった場所なのです。また団扇が特産で、特に夏には日永団扇を土産物として買い求める旅人が多かったといいます。
日永追分から右に分かれる道が東海道筋で、左へ行くのが伊勢街道で、伊勢神宮に至ります。

日永のうちわ



道標通り右へ行くと内部線の追分駅があり、内部線の踏み切りを渡ったらすぐ左の細い道に入ります。4年前まではこの細い道に入るとすぐに「追分まんじゅう」の岩嶋屋があったのですが、今はありません。残念!

ここ追分茶屋の名物は「まんじゅう」だったのです。東海道中膝栗毛」の中で弥次さん喜多さんは「名物の饅頭のぬくといのをあがりやあせ。お雑煮もござります。」と茶屋の客引きにあい、美人のいる鍵屋に入ったのだが、居合わせた金毘羅参り途中の旅人と饅頭の食べ比べをすることになり、賭けに負けてしまう。相手は手品を使い食べた振りをしていたのが後で分かり悔しがる、という話です。

道筋はマセ美容室を過ぎると、やや左へとカーブを切っていきます。その先に堂宇を構えるのが大蓮寺、そして隣接するように慈王山観音寺があります。

観音寺門前

観音寺は禅宗の一派の黄檗宗の末寺です。山門は四脚門形式で、屋根の両端に異国風のマカラを上げています。観音寺の左脇の路地を入って行くと小許(古)曽神社(おごそじんじゃ)が社殿を構えています。観音寺を過ぎ、東海道筋は鋭角的に右へ曲がります。



旧小古曽村の集落を進むと、旧街道は連続して鉤の手のように曲げられます。この鉤の手は街道時代からももので、かつてこの辺りに大きな寺院があり、このため街道の道筋を寺院の境内に沿ってつけたことで、このように鋭角的に曲げられたと言われています。最初の角を右に折れると、その道の奥に真宗高田派の願誓寺の山門が見えます。

旧小古曽村は河村家が代々、庄屋を務めており、江戸時代の寛政年間(1789~1801)には「大人良薬 天元養気円」や「小児薬 健脾円」を自ら開発、販売を手掛けたといいます。これらの薬は上方で人気が高まり、その後、広く世間に広まったといいます。

願誓寺の山門を見ながら、今度は左へ折れて進んで行くと、前方にこの辺りでは唯一の立派な建物として目立つ山中病院が見えてきます。この山中病院を過ぎると、左奥に四日市あすなろう鉄道・内部線の終点駅「内部駅」があります。

内部駅

ターミナルステーションなのですが、ローカル線そのものの小さな、小さなほったて小屋のような駅舎で、駅周辺に商店街があるわけではありません。洒落たコーヒーショップもコンビニもありません。このためトイレを借りるには困る場所です。
緊急の場合は内部駅のホームにトイレがあるので、駅員にお願いすれば借りることは可能です。

そんな内部駅を横目で見ながら小古曽三丁目交差点を渡り、旧街道筋へと入り、進んでいくとまもなく内部川に架かる橋の袂へとさしかかります。そして内部川に架かる内部橋を渡ります。
橋上から眺める景色は、大都市四日市の香りは薄れ、ローカル色を漂わせるような雰囲気に変わります。そして私たちが進む方向には小高い山が控えています。



内部川は古には三重川と呼ばれたようで、万葉集の第九巻に「わが畳 三重の河原の磯うらに 斯くしもがもと 鳴くかはづかも」(伊保麻呂)と詠われています。江戸時代には橋があったといいますが、旧道は橋の袂でいったん途切れているので、左側に走る国道1号の内部橋を渡って対岸へ向かいます。対岸は四日市市采女町です。 

采女とは宮廷で天皇に仕えていた給仕など雑用をする女官のことで、地方豪族から未婚の美女がつかわされました。地名の「采女」は21代雄略天皇に仕えていた三重出身の采女が天皇の許しを得てこの地の名前にしたといわれています。 

橋を渡り終えたら右側の階段で下に降りて国道の下をくぐりぬけ、直ぐに右折すると国道に平行する小道で、青い橋で川を渡ると左側にマックスバリュの駐車場があります。駐車場の脇の道を進み直進していきます。
そしてこの先にあの日本武尊が傷ついた体を曳きづりながら登ったという杖衝(つえつき)坂へと延びています。日本武尊は第12代景行天皇の皇子で各地を征討した武人です。

マックスバリュのあるところから、ほんの少し登り坂のような道筋を進み、突き当たったところで右折し、国道1号にでる手前(Ⓐ地点)を左へ曲がります。少し行くと道の正面の小高くなっているところに「金比羅堂(Ⓑ地点)」が建っています。金比羅堂の境内には日本武尊の墓と伝えられるものがあります。

古事記には「日本武尊は幾多の苦難の末に東国を平定して帰途についたが、伊吹山で荒ぶる神の祟りを受けて深手を負った。大和に帰るため伊勢国に入り、このあたりまで来た時、急坂で登れなくなり、持っていた剣を杖してようやく登ることができた。」と伝わっています。このことからこの坂を「杖衝坂(つえつきざか)」と呼んだようです。
日本武尊はこの時、「吾か足は三重の勾がり(まがり)の如くして、はなはだ疲れたり」といったといいます。この「三重」が現在の三重県の名の由来といわれています。

尚、日本武尊の墓はここ杖衝(つえつき)坂には置かれていません。傷ついた体を引きずりながら、杖衝(つえつき)坂を登り、伊勢国能褒野(ノボノ)にたどり着くも、ここで力尽きてしまいます。故郷を想う日本武尊の魂は白鳥となり、大和に舞い降りると、さらに天高く飛び立っていったそうです。

そして伊勢国能褒野で亡くなられたという古事記、日本書紀の記述に基づき、全長90m、後円部の径54m、同高さ9mと三重北部最大の前方後円墳が、明治12年に内務省により「日本武尊御墓」と定められ、現在も宮内庁により管理されています。

金比羅様の前を過ぎると杖衝坂は左右とカーブし勾配が急に険しくなってきます。杖衝坂の長さは200m程ですが、高低差が50~60mとかなりの急坂です。

坂の中腹には昭和4年(1929)に県が建てた「杖衝坂」の石碑があり、その先に「芭蕉句碑」が置かれています。

杖衝坂の石碑
芭蕉句碑

芭蕉の「笈の小文」に「貞亨4年(1687)、 美濃より十里の川舟に乗りて、むかしも桑名よりくはでと詠る 日長の里に馬かりて杖つき坂をのぼるほどに 荷駄打ちかへりて 馬上がり 落ちぬ 」とあり、「歩行(かち)ならば 杖つき坂を 落馬かな」という季語がない句を詠んでいます。句碑を建てたのは、村田鵤州(かくしゅう)で、宝暦6年(1756)のことです。

芭蕉の句の意味は「歩いて登ればこんなしくじりをしなかったのに、庶民(芭蕉を指す)の身ながら、おこがましくも馬に乗ったばっかりに、急な坂で荷鞍が打ち返り、落馬してしまった。この坂は遠い昔、景行天皇の皇子、日本武尊が重い病をおして、都に帰りたい一心から、腰の剣を杖にして、吾が足三重に曲がる程疲れたとおっしゃりながらも、あえぎあえぎ越えられたのだった。 歩いてのぼればよかったのにもったいないことをした。」ということのようです。

杖衝坂には弘法大師の伝説も残っています。水に窮していた村人が、弘法大師が杖で指し示す場所を掘ったところ、清水が湧き出たという「弘法の井戸」が今も残っています。



その井戸の下手にもう一つ井戸があり、こちらは「大日の井戸」と呼ばれています。地元の伝承ではかつて坂の中腹にあった大日堂の閼伽水(あかみず、仏に手向ける水のこと)として使われた井戸と伝えられています。



急坂を登りつめると「血塚社」があります。日本武尊が坂をようやくの思いvで登り終え、血止めをしたところといわれています。

坂を登りきると道筋はほぼ平坦となり、その先で旧街道は国道1号と合流します。合流するちょっと手前にちょっとした広場が現れます。その広場から右手後方っvを眺めると、四日市のコンビナートの煙突や市街がパノラマのように広がっています。
私たちが進む道筋の右側は国道1号が走っています。



「采女一里塚碑」は国道1号を隔てた反対側にある出光のガソリンスタンドとマルエイ設備の間に置かれています。江戸日本橋から101番目(約397km)、京三条大橋からは24番目(約100km)となる一里塚跡です。国道1号線の反対側にあるため遠目でしか見ることができませんが、僅かばかりの石碑が置かれているだけで、旧東海道の面影も残っていません。

道の左側にある「豊冨稲荷神社」は平安時代後期の寛治2年(1088)創建の古社で、江戸時代には参勤交代の大名が通行する際に庶民や旅人が土下座する土下座場があったといいます。
江戸時代の街道の道幅は場所によって違いはありますが、一般的におおよそ3間(約5.4m)は確保されていたといいます。しかし場所によっては3間を確保できず狭い道幅の個所があったようです。
そんな場所に行列を邪魔しないように、道幅を一部膨らませ、土下座する場所を造ったようです。

ただし大名行列に遭遇した場合、かならずしも土下座をしなければならないということではなかったようです。よく「した~に、した~に」と言いますが、これは将軍家、御三家、一部の雄藩の行列で使われたもので、この場合は土下座をする必要があります。
一般の大名の場合は「かたよれ、かたよれ」と言ったようで、この場合は街道脇に控えて、土下座する必要はありませんでした。

さあ!まもなく第二日目の終着地点の采女のサークルK前に到着です。近鉄富田駅周辺からここまでちょっと長めの15.5キロの歩行距離でした。

第三日目の出発地点はここ采女のサークルK前からです。明日はここから44番目の石薬師宿、45番目の庄野宿を経て関西本線の小さな駅・井田川までの11キロを踏破いたします。

私本東海道五十三次道中記 第30回 第1日目 桑名七里の渡しから四日市富田へ
私本東海道五十三次道中記 第30回 第3日目 石薬師、庄野を辿り関西本線・井田川駅前まで

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私本東海道五十三次道中記 第30回 第1日目 桑名七里の渡しから四日市富田へ

2015年10月21日 10時17分12秒 | 私本東海道五十三次道中記


前回の3日目は東海道の街道めぐりの旅の中でも最も感動的な「海上七里」の船旅を体験しました。
尾張の国の「宮の渡し」から桑名までの、およそ2時間30分の船旅は徒歩の旅とは違った趣と江戸時代の旅人と同じような気分で束の間の休息を味わえたのではないでしょうか。
そして私たちはいよいよ伊勢国へと足を踏み入れます。思えば遠くへ来たもんだ!私たちの東海道の旅も残すところ伊勢国、近江国、山城国の三か国になりました。
そんな伊勢国は私たちにどんな感動を与えてくれるのでしょうか?それでは出立です。

桑名住吉浦

おっと!出立前に大切なことを忘れていました。
桑名と言えば、ご存じ「焼き蛤」。当然、これを食してからの出立とまいりましょう。

焼き蛤

江戸時代の初期、慶長6年(1601)に幕府は東海道の宮宿と桑名宿の間は海上七里を船で渡ると定めたのです。
明治維新で街道の様々な施設や渡しが廃止され「七里の渡し」も姿を消してしまいました。
このため前回のような船をチャーターする以外は宮の宿場から桑名の宿場へと辿るためには、国道1号または26号を歩くか、名古屋から近鉄線に乗って桑名へ移動するしかありません。
ちなみに宮宿から桑名宿までの陸路での距離はおよそ28キロ(7里)あります。

30回を迎える私たちの東海道の旅はここ桑名宿の入口に近い「住吉神社」が出立地点となります。
神社前の2基の常夜燈は材木商達が寄進したもので「天明八戌申年十二月吉日」と刻まれています。

桑名は古くから伊勢湾、木曽三川を利用した広域的な舟運の拠点港として、十楽の津と呼ばれ、米や木材などいろいろな物資が集散する商業都市として発達していました。住吉浦には全国から多くの廻船業者が集まり、これらの人達によって航海の安全を祈り、江戸時代の中期に大阪の住吉大社から勧請して住吉神社を建立したのです。ちなみに住吉大社は航海の神、湊の神を祀っています。

住吉浦の駐車場の前の道を挟んで反対側にあるのが「六華苑」です。六華苑はここ桑名の名家として知られていた諸戸清六氏の屋敷跡です。諸戸氏の御先祖は長島一向一揆の時から大庄屋で、かつての木曽岬町(現在の長島)に居を構えていました。
しかし清六氏の父、清九郎が幕末の弘化4年(1847)に塩問屋の商売に失敗し、ここ桑名に移ってきました。その時、父が残した借金は千両以上で、手元に残ったものは二十石積みの小さな船が一艘だけでした。清六は債権者に「無利子10か年」の返済を頼み込んで、寝る間も惜しんで、コメの仲買業に励み、なんと3年で借金を完済してしまいました。
折しも、明治維新を迎え、時代が大きく変わって行く中で、清六は事業を更に拡大させ、その後はとんとん拍子に運が開け、多くの政府要人、三菱財閥の岩崎弥太郎などの信頼を得て、明治11年(1878)には大蔵省御用商人になりました。
そして明治18年にこの場所に土地を購入し、居を構えたのです。清六は明治39年に61歳で亡くなっています。

◆大正2年(1913)に完成した建物はジョサイヤ・コンドルの設計。洋館と和館が連結された様式で上野池之端の旧岩崎邸に似ている。庭園は国の名勝に指定されています。

安藤広重の「東海道・桑名」の絵は桑名城を背景に七里の渡しの帆掛け舟が描かれています。
桑名宿は東海道五十三次で42番目の宿場で、旅籠では宮宿に次いで2番目に多い宿場でした。元禄14年の東海道宿村大概帳によると宿内の総家数2544軒、宿内人口は、男子4390人、女子4458人、計8848とあり、本陣が2軒、脇本陣が4軒、旅籠は120軒あったと記されています。

前述の通り、江戸時代には尾張から桑名にくるには海路の「七里の渡し」によるか、川路の佐屋街道を利用するいずれかの方法を利用していました。
街道時代には京や大阪に向かう人の他、お伊勢さん詣の旅人の利用が多かったので、桑名宿の賑わいはたいそうなものだったと思われます。

そして 明治に入り徒歩の旅から列車の旅へと変っても、しばらくは揖斐川上流の大垣との間に人荷の流通があり、船着き場は客船や荷物船の発着場となっていました。しかし鉄道網の整備が進み、さらには陸路での輸送手段が発展するとともに、これら船を利用する運搬手段は廃れていってしまいました。



かつての船着き場があった場所には伊勢神宮遙拝用の一の鳥居が建っています。

七里の渡し碑
かつての船着き場
伊勢神宮遙拝用の一の鳥居

江戸時代の天明年間(1781~1789)に伊勢国のはじめの地にふさわしい鳥居をと願い、矢田甚右衛門と大塚与六郎が関東諸国に勧進して建てたのが始まりです。明治以降は20年に一度の伊勢神宮の式年遷宮のたびに伊勢神宮の宇治橋外側の鳥居(一の鳥居)を削って建て直されています。

その脇にある常夜燈(常燈明)は江戸や桑名の人達の寄進によって天保4年(1833)建立されたもので、以前は鍛冶町の東海道筋に置かれていましたが、交通の邪魔になるのでここへ移築されたといいます。
昭和37年の伊勢湾台風で倒壊した後、元のままの台石に安政3年(1856)銘がある上部を多度大社から移して再建しました。

一の鳥居の先にお城の櫓のような建物が見えています。実はこのあたりにはかつてこの場所にあった桑名城の三の丸がありました。
城内にあったことを示す櫓が再現されていますが、この櫓は蟠龍櫓(ばんりゅうやぐら)と呼ばれています。

蟠龍櫓
蟠龍櫓

桑名城には元禄大火後に51の櫓があったと記録されています。その中で河口に位置する七里の渡に面して建てられていた蟠龍櫓は、東海道を行き交う人々が必ず目にする桑名のシンボルでした。広重の桑名の景でも、海上の名城と謳われた桑名を表すためにこの櫓を象徴的に描いています。

「蟠龍」とは天に昇る前のうずくまった状態の龍のことです。龍は水を司る聖獣として、中国では寺院や廟などの装飾モチーフとして広く用いられています。この「蟠龍」をかたどった瓦があったことから、蟠龍櫓と呼ばれています。
◇利用可能時間(2階展望室一般開放時間):午前9時30分~午後3時
◇休館日:月曜日
尚、この櫓は「水門統合管理所」として使用されているものですが、内部には展示物が数点置かれています。また見晴のきく大きな窓がないので、眺めはイマイチ!

さて住吉神社から旧船着場へと歩いてくると、右手に大きな料亭風の建物が見えてきます。
この建物は江戸時代に大塚本陣がおかれていた「料亭船津屋」の建物です。尚、現在、船津屋は結婚式場に姿を変え、その名称もモダンな「THE FUNATSUYA」と英語表記になっています。

THE FUNATSUYA
THE FUNATSUYA

そしてその隣に「山月」と看板がでているのが「料理旅館」として営業をしていた「山月」です。「営業をしていた」と記述したように、現在は店を閉じています。ここ山月のある場所はかつて「駿河屋本陣」が置かれていました。

その山月の玄関口にも石碑が置かれています。石碑には「勢州桑名に 過ぎたるものは 銅の鳥居に 二朱の女郎」と刻まれています。「銅の鳥居」はこの先の春日神社の青銅の鳥居のことです。また「二朱の女郎」については、「二朱」は「二朱判銀」で二枚で銀一分に、八枚で金貨一両にかわります。一分以上掛かる遊女が高級遊女で「二朱女郎」は一段落ちる遊女なのです。

【泉鏡花の歌行燈と船津屋】
明治42年秋、泉鏡花は講演旅行のため、後藤宙外(ごとうちゅうがい)、笹川臨風(ささかわりんぷう)らとともに桑名を訪れました。小説『歌行燈』は、その時の旅情をモチーフにした作品。そして、彼らの泊まった船津屋は、主要舞台のーつとなる湊屋のモデルとなった。この小説は十返舎一九の「東海道中膝栗毛」を参考にして書かれています。登場人物も弥次郎兵衛、捻平という老人たちを主人公に、2人の滑稽なやりとりで進行していきます。そして作品の中で弥次郎兵衛と捻平が馬車で湊屋へ向かう場面では、板塀や土塀、枯れ柳にちらつく星、軒に白く浮かぶ掛行灯など、鏡花は町の表情を印象的に描いています。

船津屋の塀のくぼんだ所に句碑が一つ置かれています。鏡花の歌行燈を戯曲化した久保田万太郎の歌が刻まれていいます。
「かわうそに 火をぬすまれた あけやすき」
「かわうそ」は歌行燈に登場します。久保田は鏡花を偲んで、とうとう一夜を語り明かしてしまったという意味です。「あけやすき」は「夜が明けるのが早い」という意味です。

さあ!出立です。かつての船着場から東海道を南下することにしましょう。
船着場から春日神社あたりまでは、船宿や旅籠が軒を連ねていました。その先の右側には泉鏡花の歌行燈と書いたうどん屋があり、さらにその先の交差点の左角にある明治4年(1871)創業の柿安本店が店を構えています。柿安は文明開化以来の牛鍋屋の老舗です。

旧街道に沿った家並は古い建造物はほとんどなく、新しい家並みに変わっています。また賑やかさはほとんど感じません。
現在の桑名の繁華街はJR桑名駅と近鉄桑名駅がある駅前周辺にあります。駅からはちょっと離れた場所にある旧宿場町はちょっと寂れた感じさえします。

柿安の角を左折すると多聞橋舟入橋があり、それらを渡ると左手に鹿の角をあしらった兜を被った本多忠勝の大きな銅像が置かれています。

それでは関ヶ原以降の江戸時代の桑名藩について簡単に説明しておきましょう。

関ヶ原の戦いの翌年(慶長6年/1601)、家康公は徳川四天王の一人本多忠勝を上総大多喜藩から桑名10万石に封じます。忠勝はすぐさま四層六重の天守をはじめ、51基の櫓と46基の多聞を備えた桑名城を築城し、更に葦が生え茂った湿地帯に城下町を整備したことで「桑名の基礎」を築いた人物として評価されています。

本多家は忠勝、忠政の2代にわたり桑名を治めたのち、忠政は大阪の陣後の元和2年(1616)に播磨姫路藩に15万石で移封されます。

本多家の後、元和2年(1616)に家康の異父弟である久松松平家(親藩)松平定勝が山城伏見藩5万石から6万石加増の11万石で入封します。

松平定勝は戦国時代に刈谷城主であった水野忠政の娘である「於大の方」久松俊勝と再婚して儲けた子供です。
御存じのように、於大の方は三河の松平広忠と結婚し、儲けた子供が竹千代(後の家康公)です。
戦国時代の一時期、水野家は松平家とともに駿河の今川側として三河一帯を治めていましたが、忠政の死後、水野家を継いだ次男の信元は親今川から尾張の織田信秀と同盟を結びます。
これにより、水野家から松平広忠へ嫁いだ於大の方は広忠から離縁を言い渡され、実家の水野家へ戻ることになります。このとき竹千代(家康公)はまだ2歳です。

そして広忠と離縁した於大の方は3年後に信元の意向で知多郡阿古居城の城主である久松俊勝と再婚し、三男三女を儲けます。その三男の一人が久松松平家の定勝です。ということは定勝は家康公と異父弟ということから、徳川家とはかなり血筋が濃いため久松家は「松平」の姓を与えられ親藩格の大名として明治維新まで存続します。

さて、久松松平家の桑名支配は定勝、定行、定綱、定良、定重と5代94年間にわたってつづきました。定重の代の宝永7年(1710)に11万3千石で越後高田藩に移封されます。

久松松平の後、宝永7年(1710)に奥平松平家(親藩格)の松平忠雅が備後福山藩から10万石で桑名に入封します。この奥平松平家は家康公の重臣である奥平信昌と家康の長女・亀姫との間に生まれた四男・松平忠明の系統のお家柄です。家康公の長女の嫁ぎ先であるので奥平家も当然、親藩格の大名です。そして奥平松平家は忠雅以降、7代113年にわたって桑名を治めます。

そして時代は江戸後期へとさしかかる文政6年(1823)、再び久松松平家定永が陸奥白河藩から11万石で桑名に入封します。この久松松平の2回目の桑名支配時代を第2次久松松平時代といいます。
定永はあの寛政の改革を断行した松平定信の嫡男です。どうして陸奥白河藩の久松松平が再び桑名藩主に返り咲いたかというと、あの定信公が先祖伝来の桑名に戻りたい旨を時の将軍である家斉に願い出たところ、寛政の改革の功労に報いる形で実現したといいます。
しかし、これを希望した定信公は高齢を理由に桑名にくることはありませんでした。

第2次久松松平家の桑名支配は5代45年にわたり続きましたが、時は幕末から明治維新へと激動の時代へと進んでいきます。
そして幕末の安政6年(1859)に美濃高須藩の松平定敬(さだあき)が久松松平家の婿養子として迎えられ、第4代桑名藩主となります。
定敬は御三家筆頭の尾張藩主・徳川慶勝徳川茂徳会津藩主・松平容保石見浜田藩主・松平武成らの実弟にあたることで、徳川親藩格の藩主です。そんな血筋の良さが災いしてか、定敬は元治元年(1864)に京都所司代に任命されます。
この時、兄の松平容保は京都守護職にあり、兄弟そろって京都の治安維持に奔走していたのです。

そして容保と定敬の良き理解者であった孝明天皇が崩御されると幕府の権威は一気に失墜し、王政復古の大号令、大政奉還、そして鳥羽伏見の戦いへと進み、会津と桑名藩は薩長と激突することになります。

鳥羽伏見の戦いで賊軍の汚名をきせられ、慶喜公と共に江戸へと逃げ帰ることになります。江戸に移った定敬は兄の容保とともに徹底抗戦を主張しましたが、慶喜公が恭順派に回った上に、戦の責任を容保と定敬になすりつけるという愚挙に出たのです。
新政府軍が決めた朝敵5等級で会津の容保と桑名の定敬は第2等級、慶喜公は第1等級です。
慶喜公に見捨てられた定敬は兄の会津藩主容保と共に新政府軍に対して徹底抗戦を行うことを決定しました。

会津戦争は新政府軍の勝利となり、敗軍の将となった定敬は榎本武揚とともに函館に渡ります。
新政府軍が五稜郭に迫る中で、桑名藩の家老職であった酒井孫八郎は単身、五稜郭に潜入し定敬を連れ出し、船に乗せ江戸へ向かわせようとするのですが、定敬はなんと上海へ逃亡しようと計画します。しかし路銀がままならず新政府軍に降伏することになりました。

戊辰戦争で敗れた旧幕軍の中でも、新政府軍から徹底的にいじめられたのが会津と桑名です。このため桑名城は新政府軍により焼き払われ、櫓もすべて灰燼に帰してしまいました。
桑名城があった場所は現在「九華公園」となっていますが、新たに整備された堀垣は古さをまったく感じることができず、無数の堀の中にただ空地があるという公園になっています。

私たちの街道めぐりの旅では九華公園には入らず、旧街道筋を直進します。街道を歩いていると「井」の字を刻んだ白っぽい石が嵌めこまれている場所があります。これは「通り井」というもので、過ぎ去った時代の水道の跡を示すものです。桑名は地下水に海水が混じるため、寛永3年(1626)に町屋川から水を引いた水道をつくり、町内の主要道路の地下に筒を埋め、所々の道路中央に正方形の升を開けて、一般の人々が利用した。これを「通り井」と言います。

静かな雰囲気を漂わす旧街道を進んでいきましょう。柿安本店がある角から街道をさらに南下すると、右側に延びる参道入口に大きな青銅製の鳥居が立っています。春日神社の鳥居です。
「勢州桑名に 過ぎたるものは 銅の鳥居に 二朱の女郎」と詠われたのがこの鳥居です。
街道時代はこの鳥居前は広小路になっていて、宿内の盛り場として賑わっていたといいます。現在の門前は静かな雰囲気を漂わせています。

春日神社の鳥居

春日神社は桑名宗社ともいわれる神社で、 旧桑名神社(祭神三崎大明神)と中臣神社(祭神春日大明神)を合祀した桑名の総鎮守社です。このため本殿が二つに分かれており、桑名・中臣の両社を祀っています。中臣神社は古来から桑名で崇敬されている地主神ですが、永仁四年(1296)に奈良から春日四柱を勧請し合祀してから春日大明神と言われるようになりました。そして8月の石取祭は春日神社の祭りです。
向かって右側の社殿が旧桑名神社、左側が中臣神社(なかとみ)です。

青銅鳥居は高さ7.6mの大きなもので、寛文7年(1667)に第1次久松松平家の5代藩主「久松松平定重」250両もの大金を投じて、辻内善右衛門に命じ建立したものです。その後、何度も天災や戦災で被害を受けましたが、その都度修復されて今日に至っています。

鳥居の左側前の大きな石柱は「しるべ石」といわれるもので、江戸時代の迷子の捜索板です。
「しるべ石」は人が多く集まる場所に立てられました。「たづぬるかた」面に尋ね人の特徴を書いた紙を貼りだし、心当たりのある人が「おしゆるかた」面へ、その旨を記した紙を貼るようにしてあります。お江戸浅草浅草寺境内にもあります。

鳥居の先の楼門(随神門)は天保4年(1833)年に第2次久松松平家の第1代藩主松平定永の建立したものだったのですが、昭和20年の空襲で焼失してしまい、平成7年(1995)に再建したものです。神社の境内には文化3年と刻まれた常夜灯や明治天皇に供した御膳水の井戸があります。この井戸は水質が悪かった桑名では良質な水を提供していた井戸です。

春日神社随身門
春日神社社殿
春日神社前の旧街道

春日神社から更に東海道を南下していきます。すると左側の掘割に沿って「歴史ふれあい公園」と名付けられた細長い公園が現れます。公園の入口には「日本橋」を形どったミニチュアの橋が架かっています。遊歩道がつづく公園内を進むと、東海道筋に現れる名所がデホルメされて置かれています。そして公園が終わる場所には東海道の最終地点の三条大橋のミニチュアが置かれています。

日本橋のミニチュア
三条大橋のミニチュア

「歴史ふれあい公園」にそって濠がつづいています。この堀は桑名城を囲む城壁の一部で、正面の堀川東岸の城壁は川口樋門(揖斐川に出る)から南大戸橋に至る約500メートルが残っています。
この小公園を過ぎると道は突き当り、左側にあるのが「南大手橋」です。東海道はここで右折します。
少し行くと右側に石取会館(入場無料)があり、石取祭のビデオや祭に参加する山車のミニチュアを展示しています。

◆石取祭
石取祭の起源は江戸時代初期の頃で、神社の祭場へ町屋川の石を奉納した神事といわれ、毎年8月第1土曜日の午前0時から日曜日深夜まで行われます。町内毎に大太鼓一張と鉦を4~6個持つ山車があり、それが30数台集まって、東海道筋を練り歩きます。
そして全山車が桑名宗社(春日神社)への渡祭(とさい)が終了するまでの二日間、お囃子を打ち鳴らして練り歩くので、「日本一やかましい祭」といわれています。

石取祭のいわれには3つの説があります。
①石占い:石を持って重く感じるか、軽く感じるかで神意を判断する
②社地(境内)の修理:川が近く土地が低いため、石を持ってきて社地を敷き直した
③境内で行われる流鏑馬の馬場を修理するために、川から石を運んだ

旧街道筋は613号線との京町交差点にさしかかります。その交差点の左側には桑名市博物館(入場無料)があり、その壁際に石の道標が置かれています。「右 京いせ道、左 江戸道」と書かれた石道標で下の方は欠けているようですが、東海道筋に置かれていたものをここに移設した、とあります。

京町交差点を渡り、最初の四つ角の右側に「毘沙門堂」があります。そのまま真っ直ぐ進むと小さな「京町公園」があります。この場所が「京町見附跡」です。

京町公園

毘沙門天堂の角を左折して「よつや通り」へと進んでいきましょう。よつや通りが通る吉津屋(よつや)町にはやたら仏壇屋が多いのです。それもそのはずこの先には寺町と言われるほど寺が密集しています。



この先の信号交差点を渡ると「鍛治町」と町名が変ります。この先で街道の筋道は城下町や宿場町特有の「鉤型」になっている場所にさしかかります。道筋は鉤型と言われているように、くねくねと折れ曲がっています。そんな道筋を進むと右側に桑名名物の佃煮の「しぐれ煮」を扱う老舗の「貝増商店」が店舗を構えています。

桑名の名物の蛤を土産にと願う声が高まり誕生したのが、蛤を溜まり醤油で煮て作った佃煮で「桑名の殿様 しぐれで 茶々漬 」と唄われるほどの人気ぶりだったようです。

「桑名の殿さんしぐれで茶々漬け」と歌われている殿さんとはいったい誰なんでしょう?

実はこの歌に出てくる「殿さん」は江戸時代の桑名の殿様ではありません。ここ桑名には明治から大正にかけて米の取引所が開設され、米相場で大もうけをした大旦那衆がたくさんいたそうです。その旦那衆が儲けた金をもって東京の赤坂や日本橋の芸者衆と大いに遊んだそうです。そして酒宴の最後に旦那衆は「しぐれのお茶漬け」を好んで食べたことで芸者衆がこのような歌を作ったといわれています

東海道名所図会にも「初冬の頃美味なるゆえの時雨蛤の名あり、溜まりにて製す」とありますが、時雨蛤という風情ある名前は芭蕉門下の各務至考の考案らしいです。

その先の四差路を左へ曲がると民家の前に「鍛冶町常夜燈跡」の説明板があります。
「常夜燈は七ッ橋近くにあり、天保4年(1833)、江戸、名古屋、桑名241人の寄進で多度神社の常夜燈として建てられたもので、戦後道路拡張で七里の渡し跡に移した。」とあります。ということは七里の渡しで見た常夜燈は実はここにあったのです。なお七ッ橋は埋められて今はありません。

「いもや本店」のある四つ角を右折して、そのまま旧街道を進んでいきましょう。町名はすぐに「新町」へと変ります。右側の教宗寺の先に「泡洲崎八幡社」があり、「右 きやういせみち 左 ふなばみち」の道標が置かれています。
桑名の地形は古い時代には町屋川の流れにより、自凝(おのころ)洲崎、加良(から)洲崎、 泡(あわ)洲崎の三洲に分かれていたといいます。ちょうどこの辺りは泡洲崎と呼ばれていた場所で、泡洲崎八幡社はこの辺りの鎮守社だったといわれています。

泡洲崎八幡社

新町を歩いていると、街道沿いに寺院がいくつも現れます。というのも江戸初期の桑名藩主であった本多忠勝が桑名城の守備として寺院を配置したといわれています。桑名の城下に限らず、多くの城下町でも同じように、ご城下のちょっと離れた場所に意図的に寺院を配置し、有事の際には境内に兵を駐屯させ、防備にあたらせていたのです。
教宗寺から1ブロック進むと、右手に堂宇を構えるのが光明寺です。光明寺には「円光大師遺跡」の石碑が建ち、七里の渡しの海難事故で亡くなった旅人の供養塔が置かれています。

光明寺の次に現れるのが光徳寺です。光徳寺には万古焼創始者の沼山弄山(ぬなみろうざん/1718~77)やその後継者の加賀月華(1888~1937)の墓があります。

沼山弄山墓

そしてその先に堂宇を構える十念寺には「桑名藩義士森陣明翁墓所」という大きな石柱が立っています。
森陣明(もりつらあき)は桑名藩主松平定敬(さだあき)の京都所司代在任中公用人として勤皇佐幕に心をくだき、戊辰戦争には定敬公に従い函館に立て篭もった人です。
函館戦争の後、投獄されましたが、その後桑名藩に引き渡され、藩主の定敬公を守るため、全責任を負って江戸の旧藩邸で切腹しました。享年44歳。江戸における森陣明の墓は東京江東区の霊厳寺にあります。
ここ十念寺の墓には「うれしさよ つくすまことの あらわれて 君にかわれる 死出の旅立」という彼の辞世の句碑が立っています。

十念寺門前

まるで寺町のような道筋を進んで行くと、比較的道幅のある401号線にさしかかります。

右手に伝馬公園が見えますが、東海道は道の反対側の斜め左へと入る道筋として残っています。
旧街道の右側は寺院(長圓寺と新恩寺)の高い塀がつづいています。そんな道筋を進むと、旧街道の道筋は613号といったん合流します。道の反対にある日進小学校、日進幼稚園は「七曲見附」の跡で、江戸時代には七曲門があり番所が置かれていました。
東海道はこのあたりで「鉤型」になっていたのですが、現在、道は残っていないので、日進小学校前交差点を右折します。 
東海道はここから矢田の火の見櫓までほぼ直線の道です。少し進んだ右側に鳥居を構えるのは「天武天皇社」です。

天武天皇社鳥居
天武天皇社殿

天武天皇社は壬申の乱(672)の時、大海人皇子(後の天武天皇)が一時を過ごしたとされる場所に後年になって創建された神社で、当初は隣の旧本願寺村にありましたが、天和年間(1681~1684)にこの地に移されました。  天武天皇、持統天皇と天武天皇の第一皇子の高市皇子が祀られています。天武天皇を祭祀する全国で唯一の神社です。

天武天皇社の社殿は天皇を祀るにしては極めて質素な佇まいです。それほど広い境内ではありませんが、木々に囲まれ、厳かな雰囲気が漂っています。
壬申の乱とは西暦672年、天智天皇の弟の大海人皇子が近江大津朝を継いだ大友皇子に対し反乱を起こした戦いです。大海人皇子は隠れていた吉野を出て伊賀を通ってこの地に陣を置き、伊勢や尾張の兵を集めて美濃に進出して不破の地で全戦線の指揮をとりましたが、同行した妻の鵜野皇女(うののひめみこ/後の持統天皇)はこの地に留まり、伊勢の勢力を固めたといわれています。戦いに勝った大海人皇子はその後、即位し、第40代の天武天皇となったのです。」 



天武天皇社からほんの少し進んだ左側の空き地に入った左側に「梅花佛鑑塔(ばいかぶつかがみとう)」が置かれています。この場所にはかつて「本願寺」という寺があったそうですが、今はありません。そんな場所に俳聖芭蕉の門人の一人「各務支考(かがみしこう)」の分骨供養塔が置かれています。
碑面には「今日ばかり 人も年よれ 初時雨」と句が刻まれています。

この句の意味は「時雨の寂しさは枯淡の境地に達した老いの心にふさわしい。折しも降り出した初時雨に若い人たちよ、今日ばかりは年寄りの気持ちになって、この寂びた情緒を味わってほしいものだ」

支考は蕉門十哲の1人で、美濃派の創始者で美濃国だけに限らず近国に多数の門弟を抱えていました。支考は享保16年(1731)に亡くなった後、門人の手によって美濃地方の北野村に墓を建てたのですが、支考ほどの人物の墓が美濃の片田舎に置かれているのは惜しいということで、北伊勢の門人の手により東海道筋の本願寺に分骨墓を建てたのです。
各務(かがみ)の名に因んで墓石は「鏡」のように丸い形をしています。


そしてその先の広場に「善光寺一分如来碑」が置かれています。「善光寺一分如来 世話人万屋吉兵衛」と刻まれていて、寛政12年(1800)の建立です。その先の右側には「左 東海道渡船場道」「右 西京伊勢道」と刻まれた明治20年建立の道標がります。 その道標の向かいに珍しい名の神社、「一目連神社(いちもくれんじんじゃ)」が祠を構えています。

一目連神社

一目連とは珍しい名ですが、桑名の北の多度大社にも同名の一目連神社があります。多度の一目連神社は多度大社の別宮で、祭神は本宮の祭神である天津彦根神(あまつひこねのみこと)の子神の天目一箇命(あめのまひとつのみこと)で金工鍛冶の神、作金者の神、鉱山師の神として崇められています。
祭神の天目一箇命の「目一箇」は片目という意味のようで、鍛冶が鉄の色でその温度をみるのに片目をつぶっていたことからと説があるようです。桑名城下の鋳物に従事する人達が多度大社に勧請してこの場所に一目連神社を建てたのでしょう。

尚、多度神社は天照大神の第3子である天津彦根命を主祭神としています。このため伊勢神宮とは深い関係があり「お伊勢参らばお多度をかけよ お多度かけねば片参り」と言われています。

このあたりの地名は以前は鍋屋町(現在は東鍋屋町)で、鋳物に従事する職人が多く住んでいたことから、この町名になったといわれています。そして街道を進んでいくと地名は西鍋屋町に変わります。このあたりにも寺院が多く、明円寺、教覚寺が堂宇を構えています。

私たちはいよいよ桑名宿の西のはずれにさしかかります。小さな四つ角に火の見櫓が置かれています。この辺りは街道時代に立場が置かれていました。

火の見櫓

そしてこのあたりは「八曲」といわれる鉤型の道筋になっていて、桑名宿の西のはずれの出入口になっていました。 西国の大名が通行する際には桑名藩の役人がここで出迎えて案内をしました。 
また、旅人を引き止めるため客引小屋もあったといいます。さあ!桑名宿はここで終わります。



火の見櫓から700メートルほど歩くと立派な構えの浄土真宗本願寺派の「了順寺」が山門を構えています。この立派な山門は桑名城の遺物と伝えられています。

了順寺山門
了順寺ご本堂

その先に「江崎松原跡」の案内板が置かれています。
「七里の渡しから大福までの東海道の両側には家が建ち並んでいたが、江場から安永にかけての192間(約345m)は両側とも家がなく、松並木になっていた。眺望がよく、西には鈴鹿山脈が遠望され、東には伊勢湾が見られた。松並木は昭和34年の伊勢湾台風頃までは残っていた。」とあります。
しかし現在は松の木が一本もなく、両脇には家が建ち並んでいるので、ここで書かれているような風景を見ることはできません。

了順寺から700メートル位歩くと「大神宮の一の鳥居下賜」と刻まれた石碑が建つ「城南神社(じょうなん)」があります。

城南神社一の鳥居
城南神社石柱

城南神社は伊勢神宮に天照大神豊受大御神が鎮座する前この地に仮座したことから、式年遷宮後の鳥居と建物の一部が下賜されるといいます。実はここ城南神社の地は11代垂仁天皇の御世に、天照を祀る場所を探し求めて群行した倭姫が頓宮として立ち寄った場所とされています。そんなことで当社の主祭神は天照大神です。

街道に面して立派な鳥居が構えています。この鳥居が伊勢神宮の一の鳥居で、式年遷宮の際に桑名宿の七里の渡しの鳥居になり、その後、城南神社の鳥居として下賜されているのです。いわゆる使い回しのリサイクル鳥居です。
 
国道258号線に出たら地下道を通って向こう側へ渡ってそのまま直進します。道は少し上りになりややカーブしているが、右側に古い家が残っています。

江戸時代の安永(やすなが)は東海道の桑名宿の入口にあった立場で、町屋川(員弁川/いなべがわ)の水運の船の発着場だったところです。街道の左側の藤棚のある料理旅館の「玉喜」は江戸時代には茶屋を営み、街道を往来する旅人相手に名物の安永餅(やすながもち)を売っていたといいます。

◆現在の安永餅「株式会社永餅屋老舗」
〒511-0079 三重県桑名市有楽町35
☎0594-22-0327
当店は寛永11年(1634)に創業し桑名の安永で「やすながもち」を販売してきました。現在の店は安永の地から桑名市内へ移転しています。
やすながもち
10本入(紙箱):1180円
紙箱入は10本~50本まで各種あります。

実はこの「やすながもち」とよく似た餅菓子が四日市にもあります。四日市の餅は「なが餅」と呼ばれるもので、こちらは創業天文19年(1550)の笹井屋さんが取り扱っています。
桑名では「やすながもち」を買う時間がなかったので、四日市でなが餅の笹井屋さんに立ち寄ることにします。
四日市のなが餅
7個(箱入):750円
箱入は7個~33個まで各種あります。

左手に国道1号が見えてきますが、小道を直進すると左側に樹齢200年の老木の楠があり、注連縄(しめなわ)が結ばれています。



玉喜を過ぎたところの右側の石積の上に「常夜燈」、その前に「石造里程標」が立っています。

常夜燈

常夜燈は東海道の灯標として伊勢神宮の祈願を込め、桑名、岐阜の材木商により文化元年(1818)に寄進された「伊勢両宮常夜燈」で、桑名の根来市蔵という石工が彫ったものです。
石造里程標は明治26年の建立で、正面に「従町屋川 中央北 桑名郡 」、左面に「距三重県県庁舎拾一里口町余」と刻まれています。

そのまま進むと「安永第一公園」で、町屋川(員弁川)が見えるところで行き止まりとなります。
東海道の案内板があり「寛永12年(1635)にここから対岸に橋が架かった。川の中州を利用し、大小二つの板橋だったり、 一つの板橋だったりした。中央に馬がすれ違えるように広くなっていた。昭和12年に国道1号線の橋が架かり、その橋はなくなった」と記されています。 
十返舎一九は町屋川を「待つ」にかけて、「旅人を 茶屋の暖簾に 招かせて のぼりくだりを まち屋川かな」と詠んでいます。
常夜灯の向かいに「料理屋すし清」が店を構えています。その入口あたりにクスノキの大木があります。幹回りが3.5m、樹高25m、枝張20mの大木です。

桑名市はここまでで、川を渡ると三重県の中で最も面積が小さい自治体の三重郡朝日町に入ります。

町屋川(員弁川)
橋の袂のススキ

旧東海道筋は「すし清」の先へ延び、町屋川に架かる木橋につながっていたのですが、かつての橋は現在ないので、私たちは国道1号線の町屋橋を渡ることにします。町屋川は桑名宿内の春日神社の石取祭りで使われる「石」を採取することで知られています。
旧街道筋へは橋を渡り終えたところで、右に曲がって坂を下り、すぐに左折して細い道に入ります。ここから近鉄伊勢朝日駅まで約850メートルの距離です。道はやや上りで、江戸時代には「だらだら坂」と呼ばれたようです。

街道の右側に「十一面観世音菩薩」の石柱があり、その奥に金光寺が堂宇を構えています。そしてその先の右側には真光寺が山門を構えています。
さらに先の左側に「一里塚跡」の石柱がありますが、お江戸から数えて97番目の「縄尾(なお)の一里塚」があった場所です。
私たちは尾張の宮の渡しから海上七里を船で渡ってきました。ということは宮の一里塚が89番目だったので、90番から96番目の一里塚は欠番となります。そして久し振りにあらわれたのが97番目の縄尾の一里塚です。
 


歩き始めて5キロ地点を過ぎると、街道右側に「富士の光 清鷹」の看板を上げた安達本家という造り酒屋が現れます。

安達本家

酒屋の前を通り過ぎると、東芝の工場が右にあり、左側に近鉄の伊勢朝日駅があります。

東芝工場
近鉄伊勢朝日駅

踏み切りを渡ると左側にある「旧東海道」の石碑は宿駅四百年記念に建てた新しいものです。

【ここは東海道】
『打興じてなを村おぶけ村にたどりつく。此あたりも蛤の名物、旅人をみかけて、火鉢の灰を仰立て仰立て女「おはいりなさいまアせ。諸白もおめしもございまアす。おしたくなさりまアせ」・・・・・・』
とは十返舎一九の東海道中膝栗毛の一部です。
ここ朝日は東海道に沿ってできた町です。昔は多くの旅人がひっきりなしに往来していました。「膝栗毛」に登場する弥次さん、喜多さんもそのひとりでした。
道筋には、わらぶき茅ぶきの農家がならび、村はずれには見事な松の並木がみられました。桑名の宿から一里(約4km)の地点に位置する縄生村には一里塚もありました。
また、小向村(おぶけ)には桑名や富田とならんで焼き蛤を名物として商う茶屋がありました。火鉢に松かさを燃やして蛤を焼き、店先では大声で客を呼込んでいました。旅籠も数軒あり、男たちは、「往還かせぎ」といって駕籠かきや馬方などをしていました。

ここから10m先の榎(エノキ)は樹齢300年余で、東海道の並木の一本だったといわれています。

その先の右側に連子格子が素晴らしい家が街道脇にあります。
そして、その先は旧小向村(おぶけ)で、右側に「東海道」の道標と「御厨小向神社」の石柱が建っています。小向(おぶけ)村は古萬古焼の発祥の地として知られています。 
さらにその先の左側角に「橘守部旧蹟」の表示があります。  
「橘守部はこの地の庄屋の家に生まれましたが、父親が一揆加担の容疑を受け、家が破産してここを追われました。守部はその後、独学で国学を学び、香川景樹、平田篤胤、伴信友とともに天保の国学四大家の一人に数えられました。
本居宣長を痛烈に批判し、古事記よりも日本書紀を重んじ、神話の伝説的な部分と史実の区分の必要性を説いた人です。」
嘉永二年(1849)に69歳で没しました。お墓は東京都台東区向島の長命水や桜餅で有名な長命寺にあります。



その先の右側の「浄泉坊」は浄土真宗本願寺派の寺院ですが、山門や瓦に徳川家の三葉葵の紋がついています。
徳川家とゆかりのある桑名藩の奥方の菩提寺になっていたことがあり、東海道を通る大名は駕籠を下りて黙礼をしたと伝えられる寺院です。尚、当寺には400年前の桑名城の建物が移築されて書院として使われているといいます。おそらく明治初年に桑名城が破却される際に払い下げられたのではないでしょうか?
また屋根の鬼瓦の一つには桑名藩主であった奥平家の九曜梅鉢紋と同じく藩主であった久松家の五輪梅鉢紋が彫られています。
 
浄泉坊

「朝日跨線橋東交差点」を渡ると、その先に石垣に白壁が美しい真宗大谷派の「西光寺」が現れます。白壁の塀の中に松の木が植えられていますが、これらの松は街道松の名残と言われています。

西光寺
西光寺
西光寺
西光寺

右側の細い道の角に「JR関西線朝日駅入口」の表示板があり、100m奥に無人駅があります。

駅前を過ぎると右側の柳屋という雑貨屋の先で道が二又になっています。東海道は左折しますが、道はすぐに右へカーブします。 
ここからは一本道で、しばらく民家が続きます。民家がなくなったところから桜並木がつづきます。 
伊勢湾岸道路のガートをくぐると朝明川(あさけがわ)に出ます。
橋を渡る手前の右側の土手脇に多賀大社の常夜灯が置かれています。

多賀大社は滋賀県の多賀町にある神社です。この多賀神社は「お伊勢参らばお多賀へ参れ、お伊勢、お多賀の子でござる」と詠われ、多賀大社も伊勢神宮と深い関係があります。
その理由は多賀大社の主祭神がイザナミとイザナギでこの二神から生まれたのが天照大神なのです。
そんなことで「伊勢へ七たび、熊野へ三たび、お多賀様には月まいり」とも言われ、江戸時代から伊勢詣でと並んで多くの参詣客を集めていました。



朝明川(あさけがわ)は鈴鹿山脈の釈迦ヶ岳にその源を発して、最終的には伊勢湾に注ぐ川です。歴史的には東征中の日本武尊が当地で夜明けを迎え、朝明川の水で口をすすいだことから川の名が付いたと伝わっています。また壬申の乱の際、大海人皇子が伊勢神宮に遥拝し、戦勝を祈願した遼太川がこの朝明川とも伝えられてきました。

伊勢湾岸道路と北勢バイパスのガードをくぐり、橋を渡ると四日市市へと入り、地名は松寺になります。道の右側の狭い道角に「御厨神明社」の大きな石柱が建っています。御厨神明社は伊勢神宮の御厨の地に建てられたことでこのような社名になっています。御厨とは本来、「台所」という意味ですが、ここでは伊勢神宮に納める穀物や野菜などを栽培する土地のことをいいます。御厨という地名は全国に点在していますが、伊勢神宮が鎮座する伊勢国だけに、いたるところに「御厨」があります。この先、ほんの僅かな距離に別の御厨神明社があります。

少し進むと左側にはタカハシ酒造という造り酒屋があります。タカハシ酒造は江戸時代の末の文久2年(1862)創業で、昭和8年以来、伊勢神宮をはじめ県下800の神社にお神酒を奉納しています。
また当酒造の発泡日本酒「伊勢の白酒(しろき)」は以前、SMAP X SMAP」の「ビストロ・スマップ」で紹介された話題の酒です。
発泡日本酒なので、口に含むと泡がピチピチとはじける不思議な酒ですが、味は日本酒そのものです。
酒蔵に隣接する直売所「伊勢の蔵」では数種類のお酒を試飲することができます。

◆伊勢の蔵の営業時間
☎059-365-0205
09:00~12:00
13:00~16:00
日曜祝日は定休

タカハシ酒造を過ぎると「伊勢松寺の立場跡」と案内板が街道脇に置かれています。



タカハシ酒造から500mで蒔田集落に入り、100m先の右側には御厨神明神社宝性寺があります。前述のように御厨神明神社は伊勢神宮の御厨の地に建てられたのでその名があり、以来、神明社は蒔田村の氏神として信仰されてきました。 

神明社と隣接する宝性寺は天平12年(740)、聖武天皇の勅願で創建されたと伝えられる由緒ある寺で、別名「蒔田観音」と呼ばれています。永禄11年(1568)の伊勢長島の一揆で焼失、その後建てられたものも焼失しました。現在の建物は江戸時代の文化11年(1814)の建設です。 

宝性寺の先には立派な塀と堀に囲まれている浄土真宗本願寺派の長明寺が堂宇を構えています。街道から50mほど奥まった場所にあるので立ち寄りは割愛しました。
当寺の創立年代及び開基は不明ですが、慶長9年(1604)現在の寺号を称し、その後、慶安4年(1651)領主松平隠岐守より現在の寺地を賜わり今日に至っています。尚、長明寺がある場所は文治年間(1185~90)には蒔田相模守宗勝が築いた蒔田城があった場所と言われています。蒔田相模守宗勝は時の後鳥羽院守護職としてこの地を治めた人物です。
境内は濠と築塀に囲まれ、参道正面入口に文化3年(1806)に築造された参詣橋が架かり、その奥に昭和初年に建立された山門が構えています。山門をくぐると正面中央に昭和31年(1956)再建された入母屋造の大きなご本堂があります。山門左脇に建つ鐘楼は寺誌では延宝年間(1637~80)に建立したと伝えられています。

長明寺から300mほど進んだあたりの街道左側の民家の前に聖武天皇ゆかりの遺跡「鏡ヶ池(笠取り池)」の石碑が置かれています。

【聖武天皇ゆかりの遺跡「鏡ヶ池(笠取り池」】
『続日本紀』によると、聖武天皇は、奈良時代の天平12年(740)に伊勢国を行幸になり、11月に一志郡河口をたち、鈴鹿郡赤坂の頓宮を経て、23日に朝明郡の頓宮に着かれたとある。
その場所の所在は不明であるが、当地近辺であり、松原町のもと松原姓を名乗っていた旧家田村氏宅に伝わる話では、聖武天皇が行幸の際に松原を通られると一陣の風が吹き、天皇の笠が池の中に落ちた。ちょうどその時、傍に洗濯をしていた娘がその笠を拾って差し上げたため、これが縁となって天皇はこの田村家に宿をとられたという。明くる朝、旅立ちの日は風もなし、空は真っ青に澄んで、馬上の天皇の姿と、見送る娘の姿とが、鏡のような池の上にともに映えて、一幅の絵を見るような光景になった。以来、この池を「鏡ヶ池」とも呼ぶようになったといわれる。
 
そこから400m先で三岐鉄道の高架下にあるJR関西本線の踏切を渡ります。 
踏切を渡り80mほど進むと、右手に三光寺が堂宇を構えています。この三光寺には前述の蒔田城を築いた蒔田相模守宗勝の墓があります。

三光寺の門前入口から120mほど進むと四差路にさしかかります。ここを左折して旧街道を進んでいきます。
さあ!第一日目の終着地点まで、あとわずかな距離です。



川平内科を過ぎて、次の信号を右へ曲がると、第一日目の終着地点のスーパーマーケット「フレスポ四日市富田」前に到着です。桑名の七里の渡しからここまで9.3キロの距離です。お疲れさまでした。

私本東海道五十三次道中記 第30回 第2日目 四日市富田から四日市宿を抜けて采女のサークルKまで
私本東海道五十三次道中記 第30回 第3日目 石薬師、庄野を辿り関西本線・井田川駅前まで

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私本東海道五十三次道中記 第29回 第3日目 富部神社から宮の渡し、そして桑名へ

2015年10月02日 16時45分41秒 | 私本東海道五十三次道中記


さあ! 第三日目が始まります。
出発地点は昨日の終着点である「富部神社」の参道入口です。本日の行程はここから熱田の宮の渡し跡までの、わずか4.3キロです。

富部神社は慶長8年(1603)に津島神社の牛頭天王を勧請し創建された神社ですが、尾張の領主、松平忠吉(徳川家康の四男)の病気快癒により、百石の所領を拝領し、本殿、祭文殿、回廊が建てられました。本殿は一間社造で、桧皮葺き、正面の蟇股、破風、懸がい等は桃山様式を伝えており、国の重要文化財に指定されています。祭文殿も回廊もほとんど当時のまま残っています。明治維新の神仏分離で神宮寺が廃された時、神社もその目に遭いそうになったのですが、素盞鳴命(すさのうのみこと)を祀るということで、その難を免れ今に至っています。

昨日に引き続いて旧街道筋を辿ることにしましょう。江戸時代には旧東海道が通っていた道筋の左側は呼続浜と呼ばれ、長い海岸線の向こうに伊勢湾が広がっていました。そしてこの浜で作られた塩は、星崎あたりから北にのびて飯田街道に接続する塩付街道を通って小牧や信州に運ばれていました。



呼続小学校前の信号交差点を渡り、旧東海道はさらに北へとつづいていきます。昔、このあたりは「あゆち潟」と呼ばれ、知多の浦を望む勝景の地で、万葉集に、『桜田へ 鶴鳴き渡る 年魚市潟 潮干にけらし 鶴鳴き渡る』
『年魚市潟 潮干にけらし 知多の浦に 朝漕ぐ舟も 沖に寄る見ゆ』
と歌われ、歌の枕詞に使われるほどの名勝だったのです。そして愛知県の「あいち」は、上記の歌の年魚市潟(あゆちがた)に由来するといわれ「あゆち」「あいち」に転じたと言われています。

このあたりから呼続(よびつぎ)の地名が始まります。呼続という地名は、宮の宿より渡し舟の出港を「呼びついた」ことからといわれています。また江戸時代は、四方を川と海に囲まれた、陸の浮島のようなところだったらしく、巨松が生い茂っていたことから、松の巨嶋(こじま)と呼ばれていました。



呼続小学校前の信号交差点を渡り、住宅街を進んでいきます。この先が「山崎の長坂」と呼ばれている場所で、それほどキツクない坂道がつづきますが、西へ向かう私たちにとっては緩やかな下り坂なので助かります。山崎の長坂のちょうど上に鎮座するのが熊野三社です。江戸期の山崎村は山崎橋近くを橋町、長坂から熊野三社にかけてを坂町、それより湯浴地蔵までを新町、更に南側を南町と分けて呼んでいました。この山崎の地名は、名鉄名古屋本線を渡った反対側に残る「山崎城址」に由来します。この城址には現在、安泰寺が堂宇を構えています。この山崎城は信長の家臣であった佐久間信盛が一時居城としたと伝えられています。





旧東海道筋は国道1号線と交差する松田橋信号にさしかかります。松田橋信号交差点では国道1号と都市高速道路が交差し、かなりの交通量があります。この交差点には横断歩道橋があるのでこれを渡ります。歩道橋を渡り300mほど歩いたところで旧街道は国道1号から分かれます。そしてさらに300mほどで久しぶりに東海道線の踏切にさしかかります。踏切を渡ると、その先に熱田橋が架かっています。

熱田橋を渡ったあたりは、その昔「宮縄手」と呼ばれ、松並木があったようですが、現在は松の木もなく当時の面影は残っていません。この先の鉄橋は名鉄常滑線です。鉄橋をくぐると、すぐ右側の小さな三角地に宮宿の案内板が置かれています。そしてこの辺りに「伝馬町一里塚(89番目)」があったようですが、その場所は確認できません。
少し歩くと、道の左側のコンクリート製の建物の前に「裁断橋」と書かれた橋状のものがあります。江戸時代には建物の手前に精進川が流れ「裁断橋」が架っていたようですが、川は大正15年に埋められ、今は暗渠になり川の姿はありません。裁断橋を渡るとそこはもう「宮宿」です。



裁断橋と姥堂

宮宿の東側の入口は今は流れていない精進川でした。裁断橋を渡ると左側に「姥堂」があります。 
姥堂は延文3年(1358)、法明上人により創建されたといい、かなり古いものだったのです。道の左側のコンクリート製の建物の前に「姥堂」と刻まれた石柱が建っていますが、これが現在の「姥堂」です。
ご本尊の「姥像」は熱田神社にあったものをここに移したと伝えられるもので、「オンバコさん」と呼ばれる高さが8尺(2m40cm)の坐像で「奈良の大仏を婿にとる!」と、江戸時代の俚謡に歌われ、併せて東海道筋にあったことからお参りに寄る旅人が多かったと言われています。しかし昭和20年3月の名古屋大空襲で建物も仏像も燃失しました。 
現在の仏像は平成に入り作成されたもので、40cm位と小さいものです。
左側には「旧裁断橋橋桁」と表示された石柱がありますが、川があった頃の橋桁の一部です。

裁断橋とは変な名前ですが、その名の由来は熱田神宮の社人が罪を犯したときに、この場所で裁断されたことにあるそうです。

現在の裁断橋はかつての三分の一の大きさで可愛らしく再現されています。その橋の欄干に擬宝珠が置かれています。その擬宝珠には文字が刻まれています。
これは天正18年(1590)の秀吉の小田原攻めに出陣した尾張の堀尾金助という青年を母親が裁断橋で見送ったのですが、息子は戦死して帰らぬ人となってしまいました。その後、息子の三十三回忌に母親が老朽化した裁断橋を架け替えを行い、その際に橋の擬宝珠に「かな文字の碑文」を刻んだのです。

かな文字の碑文
「小田原への御陣
 堀尾金助と申す
 十八になりたる子をたたせてよ
 又二目とも見ざる
 悲しみのあまりに
 いまこの橋を架けるなり
 母の身には落涙(らくるい)ともなり
 即身成仏し給え
 逸岩世俊(堀尾金助の戒名で「いつがんせいしゅう」と読みます)
 と後の世のまた後まで
 この書き付けを見る人は
 念仏申し給えや
 三十三年の供養なり」

なお本物の擬宝珠は市の博物館に保管されているといいます。川が無くなってしばらくして、姥堂前に三分の一のスケールの橋が復元されました。右奥には都々逸(どどいつ)の発祥の地の碑があります。

突然、都々逸の発祥地が宮宿の伝馬町にあらわれ、どう説明したらいいのか戸惑ってしまいます。
一説には熱田の地で生まれた「神戸(ごうど)節」から派生した「名古屋節」に「どどいつどいつ」という合いの手を入れたことらしいのですが、その起源はどうもはっきりしていないようです。
尚、神戸節とは熱田神宮の門前にあった神戸町の宿屋に私娼を置くことが許され、そこで働く女たちを「おかめ」と呼んでいました。
そして遊客の間で流行った歌に
「おかめ買うやつあたまで知れる 油つけずの二つ折り」
「そいつはどいつだ ドドイツドイドイ 浮世はサクサク」

という囃子言葉がつけられた歌が神戸節です。
この神戸節は地元ではすたれ、その後、江戸や上方に伝わり名古屋節と呼ばれるようになりました。
この歌の中の「二つ折り」とは当時流行した髪型で、油をつけず髷を二つ折りにしたものです。

さて、お江戸から41番目の宮宿は東海道一の宿場といわれ、熱田神宮の門前町であることに加え、佐屋、美濃、木曽の諸街道への追分であったことから、江戸時代後期には2900軒を越える家があり、人口も1万人を越えていました。 
宿内には本陣が2軒、脇本陣が1軒、旅籠は実に248軒もありました。 
あの駿府宿が人口14000人だったのですが、大御所家康の居城としての城下町だったので、宿場としての規模は宮宿が一番だと思います。

そしてちょっと行くと、鈴之御前社という神社が祠を構えています。「鈴の宮(れいのみや)」とも呼ばれ、昔は精進川がこの宮のかたわらを流れていました。
東海道を往来する旅人は、熱田の宮にお参りする前にここで身を清め、お祓いを受けてから本宮へ参拝する習わしでした。7月31日の例祭には夏越しの祓いである「茅の輪くぐり」の神事が行われます。

鈴之御前社鳥居

旧街道はその先で道幅のある道路にいったん分断されてしまいます。本来であればそのまま直進したいのですが、信号も横断歩道橋もないので、ちょっと迂回するルートをとります。右手の伝馬町交差点を渡り、反対側の旧東海道筋へ戻ることにしましょう。

反対側の旧街道に入るとアーケード街が現れるのですが、すぐ左手に亀屋芳広という菓子屋が目に飛び込んできます。名古屋では、名が通った和菓子屋です。そしてそのまま直進していくと、三叉路に突き当たります。その東南隅に「道標」が置かれています。

道標

この道標は東海道と美濃路(または佐屋道)の追分を示すもので、寛政2年(1790)に建てられたものです。 
道標の北と刻まれた下には「南 京いせ七里の渡し 是より北あつた本社弐丁道 」、東の下には「北 さやつしま 同みのち 道 」 西には「東 江戸かいとう 北なこやきそ 道 」とあり、南側に「寛政2庚戌年 」と建立された年号が刻まれています。 

突き当たりある小さな社には「ほうろく地蔵」が祀られている。ほうろくを売りにきた商人が天秤の重石の代わりしていた地蔵を捨てて行ったのを地元人が祀ったものです。

ほうろく地蔵

ほうろく地蔵は三河の国の重原村(現在の知立市)にあったのですが、野原の中に倒れ、捨て石のようになっていました。三河より焙烙を売りに尾張に出てきた商人が、この石仏を荷物の片方の重しにして運んできましたが、焙烙が売り切れた後、石仏を海岸のあし原に捨てて帰ってしまいました。地元の人が捨てられている地蔵を見つけ、動かそうとしましたが動きません。そしてその下の土中から台座が出てきたので、この地蔵を台座に乗せここに祀ることにしたそうです。

旧街道はここを左折し、ほんの少し歩くと国道247号と合流します。私たちは歩道橋を渡って反対側に移動します。
国道247号を越えて向こう側に渡ると、旧街道は斜め右手へと延びています。その先に「ひつまぶし」の「あつた蓬莱軒本店・蓬莱陣屋」」が店を構えています。あつた蓬莱軒はもう一つ、神宮南門店があります。 

かつてこのあたりに熱田奉行所(陣屋)がありました。宮宿には本陣が二つあり、それぞれが赤本陣白本陣と呼ばれていましたが、赤本陣は陣屋の北にあり236坪の規模でしたが空襲で消滅してしまいました。あつた蓬莱軒本店・蓬莱陣屋付近に陣屋と赤本陣があったと思われます。
ちょうどこの界隈が神戸町で、かつては旅籠(飯盛り旅籠)が集中していた場所で、あの神戸節の発祥の地です。

蓬莱軒本店・蓬莱陣屋の前の道を進んで行くと右側にモダンな寺「宝勝院」が現れます。 
名古屋市は戦後、神社の墓地を東山の平和公園に集めるという政策を推進したので、大部分の寺に墓地がないのです。寺院の建物も戦災にあったこともあり、古さを感じるものではなくマンションのような寺が多いのです。その建物の前に承応3年(1654)頃~明治24年(1891)まで、七里の渡しの常夜燈の燈明は当寺が管理していたと書かれた説明板が置かれています。
さあ!程なくすると掘川の岸にある「宮の渡し公園」に到着です。

「宮の渡し公園」は江戸時代の「七里の渡し」の跡地を整備したという公園で、「時の鐘」を鳴らす鐘堂が置かれています。

鐘楼堂

この時の鐘は延宝4年(1676)に尾張藩二代目「徳川光友公」の命により熱田蔵福寺に設置された鐘で、その正確な時刻は住民や七里の渡しを利用する旅人に重要な役割を果たしていました。
 
昭和20年の空襲で鐘楼は焼失しましたが、鐘は損傷もなく蔵福寺に現在も保存されています。 
昭和58年に往時の宮宿を想い起こすよすがとしてこの公園に建設されました。その先には七里の渡しの石柱と常夜燈が建っています。
常夜燈は寛永2年(1625)に熱田須賀浦太子堂に建立されましたが、その後承応3年(1654)に現位置に移り、前述の宝勝院に管理が委ねられました。寛政3年(1791)付近の民家からの出火で焼失し、成瀬正典によって再建されたが、その後荒廃し現在のものは昭和30年に復元されたものです。

桑名に渡る渡しは慶長6年(1601)に、東海道の宿駅制度が制定され、桑名宿と宮宿間は「海路七里の渡船」と定められたことにより誕生しました。しかし潮の満ち引きや海流の変化により左右され、所要時間は三時間から四時間かかったようです。 
「七里の渡し」は往々にして「しけ」にあって欠航することがあり、また船便を苦手にする人は陸路をとりました。それが佐屋道でここから北に道筋をとり、現在の新尾頭町から西へ向かい幾つかの川を渡って佐屋までの6里を歩き、そこから木曾川を船で下る海上3里で桑名へ出るルートだったのです。この道筋は「姫街道」と呼ばれていました。 
船着場跡には当時を再現して、船着場がありますが、伊勢湾台風以降、港湾の整備が進みすっかり景観が変ってしまい、渡し場という雰囲気は少しもありません。



現在の船着き場
七里の渡し碑
かつての渡し場跡
現在の渡し船
現在の渡し船
 
公園の前の道の反対に「熱田荘」という建物とその右側に江戸時代に脇本陣格だったという旅籠の建物が残っています。

私たちは現在の渡し船にのって伊勢湾を横切り、桑名まで2時間30分のチャーター船の旅を楽しみます。所要時間は平均的に2時間30分ですが、海上の状況によってこれ以上の時間がかかることがあります。
それでは現代の七里の渡しの船旅で伊勢の国の桑名へ渡ることにしましょう。

私たちが乗る船は洒落た名前の「トロワ・リヴェール号」です。最高速度7ノット、最大搭乗人数は55名です。写真にあるように客室部分は外気が入ってこないように覆われています。そして屋根の上には展望席が置かれています。展望席の椅子はちょっと座りにくい造りになっています。

デッキの様子
デッキの様子

船内は冬季であれば暖房が効いて、寒さを感じることはありません。ただ難をいえば、燃料の臭いが漂ってくるので、気分が悪くなることも……。

さあ!「船がでるぞ~、船がでるぞ~」

街道時代に使われていた船着き場に隣接する現代の船着き場からいよいよ出航です。この場所は伊勢湾の一番奥まった場所のため、水面は鏡面のような状態です。
船着き場から伊勢湾へと漕ぎ出しますが、ここからしばらくの間、周囲の景色はどこまでもつづく名古屋港の埠頭だけです。

出発して間もない風景

乗ってみて気が付くことですが、名古屋港の規模がこれほどまでに大きいとは思いもよらなかったという事実です。その規模は北から南に細長く続いていることです。現在見る埠頭の部分は江戸時代になかった土地で、後世になってから埋め立てられたものです。その埠頭には倉庫が途切れなく並び、何艘もの船が荷揚げ、荷卸しのために留まっています。
また、日本の自動車産業を代表する「トヨタ」の車を輸出する港として利用されているのが名古屋港で、トヨタの専用埠頭も見えてきます。

名古屋港の風景
名古屋港の風景

船は伊勢湾を跨ぐ「伊勢湾岸道路」の橋の下にさしかかります。海面から車が走る部分まで約60mという高さを誇っています。日本を代表する日本郵船会社の「飛鳥Ⅱ」がやっと潜り抜けることができるといいます。

伊勢湾岸道路の橋
伊勢湾岸道路の橋
伊勢湾岸道路の橋遠望

伊勢湾岸道路の橋をくぐってもまだ名古屋港のエリアを出ません。かなり沖合に出てきたと思うのですが、まだ埠頭がつづきます。コンテナ専門埠頭なのでしょう。大きなキリン型のクレーンが目に飛び込んできます。そしてコンテナを今まさに積み込んでいる大型の輸送船が埠頭に留まっています。

埠頭
コンテナ埠頭
コンテナ埠頭

船出してから、ちょうど1時間15分で名古屋港のエリアをでます。名古屋港のエリアを示す防波堤を出ると、いよいよ伊勢湾の大海原へと入ります。
名古屋港に入ることができない大型タンカーが沖合にたくさん浮いています。尚、名古屋港に石油タンカーの専用埠頭がなく、沖合で船から海底に敷き説された太いパイプラインに直接石油を流し込み、名古屋港や四日市工業地帯へと送り込んでいます。

ほんの少し波が立ってきたかなと感じます。そして時折、イルカの仲間のスナメリが顔をだします。
そしてそれまでと景色が変わってくるのが、沖合に海苔の養殖用の筏が見えてくることです。
かなり広範囲に筏が敷設されています。ということはこの辺りは遠浅の海だということがわかります。

そんな海苔の養殖場を大きく迂回するように船は桑名の渡し場へと向かいます。そして木曽川の河口の沖合を過ぎると、前方に見えてくるのが木曽川と長良川の間の島です。その島の先端には「長島スパランド」があり、シンボルともいえる大きな観覧車や龍のようにうねるジェットコースターが見えてきます。

長島スパランド

船はどんどん長島スパランドに近づいてきます。

長島スパランド

スパランドを右手に見ながら、船は長良川と揖斐川が合流した流れに逆らうように上流へと進んでいきます。まもなくすると国道23号線の橋の下をくぐります。そうすると海上七里の桑名側の船着場はもうすぐです。

桑名の船着き場
私たちの乗る現代の渡し船はかつての渡し場ではなく、ちょっと北の住吉神社の社殿が建つ辺りに着きます。

※2017年7月9日に3回目の七里の渡しを体験しました。過去2回は55名乗りの比較的大きな「トロワ・リヴェール号」を利用したのですが、今回は10人乗りの平船で桑名へ渡ることになりました。この日は大潮にあたり、本来の航路は水深が浅くなっていたため、すこし沖合を辿りながら桑名を目指しました。

平船の様子
名古屋港内
名古屋港内


平船なので屋根はついていません。乗船すると茣蓙が引いてある床に左右に分かれて座り、乗船中は立ち上がることもできず、足を投げ出して約2時間座りつづけます。たまたま乗船日は曇りの天気だったので、夏の強い日差しをまともに受けることはありませんでした。
風を切って進むので、乗船中はそれほど暑さを感じることはありませんでした。夏場は雨さえ降らなければ、平船での渡しは耐えられますが、冬場は避けた方がいいのでは……。

今回の船を運営している会社は桑名の「株式会社おおぜき」です。
10人くらいのグループで七里の渡しを計画されているかたは下記に連絡をしてみてはいかがでしょうか。
会社名:株式会社おおぜき
代表:平井裕美
住所:三重県桑名市田町33
電話:0594-22-4867
FAX:0594-22-9817

上記の「おおぜき」では乗船後、乗船者名を記載した「七里の渡し往来の証」を発行してくれます。

七里の渡し往来の証
桑名の船着き場

桑名は古くから伊勢湾、木曽三川を利用した広域的な舟運の拠点港として、十楽の津と呼ばれ、米や木材などいろいろな物資が集散する商業都市として発達してきました。住吉浦には全国から多くの廻船業者が集まり、これらの人達によって航海の安全を祈り目的で浪速の住吉神社から勧請して住吉神社を建立しました。

住吉神社

神社前の二基の石塔は材木商達が寄進したもので、「天明八戌申年十二月吉日」と刻まれています。
神社から眺めると揖斐川と長良川が流れ、その先で一つになって流れていく様はまるで巨大な姿の竜を感じさせてくれます。

揖斐長良川の眺め

七里の渡しの跡に立つ鳥居は、伊勢神宮の内宮へと通じる道筋で五十鈴川に架かる宇治橋の外側に立つ鳥居を移したもです。私たちはいよいよ伊勢の国へ入ってきました。伊勢と言えば、何と言っても本宮です。東海道を辿ってきた旅人たちは京都三条を目指すものもいれば、伊勢詣でへ向かうものが、ここ桑名湊から東海道を辿り、途中でそれぞれ分かれていったのでしょう。

伊勢神宮の一の鳥居
桑名側の七里の渡し碑
蟠龍櫓
蟠龍櫓



次回30回の東海道の旅はここ桑名の住吉神社前から始まります。そして桑名の「焼きはまぐり」の味覚も併せてお楽いただきます。

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私本東海道五十三次道中記 第29回 第2日目 富士松駅前から桶狭間古戦場、有松、鳴海宿を経て呼続の富部神社

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