大江戸散策徒然噺 Introducing Japanese culture and history

豊かな歴史に彩られた日本の文化と歴史を紹介

まるで京の古刹の佇まい~お江戸上井草の宝珠山観泉寺は名家・今川氏の菩提寺~

2015年08月28日 12時22分52秒 | 杉並区・歴史散策
こんな名刹があったとは今の今まで知りませんでした。お江戸の府内から遠く離れたここ上井草は江戸時代にはどんな風景が広がっていたのでしょう。青梅街道からは少し奥まった位置にありながら、この土地はあの戦国時代の名家である今川氏の所領が広がっていました。

今川氏がここに所領を得たのは13代直房の頃で、時は正保2年(1645)といわれています。この年、直房は将軍家光公の命を受けて、開幕の祖である神君家康公の宮号宣下、すなわち「東照大権現」の宮号宣下の使者を勤め、その功績を評価され井草村を含め近在三か村併せて500石の加増を賜ったそうです。そして井草の地にすでにあった曹洞宗の寺院である観音寺を自らの菩提寺としたのです。



観音寺は直房が加増された年(正保2年)に現在の場所に移り寺号も観泉寺と改め、祖父氏真を開基としました。その後萬昌院(現中野区)から祖父氏真の墓所を当寺に改葬した経緯があります。

そんな由緒ある観泉寺はJR荻窪駅からバスで10分ほどの距離に、かつての寺領をそのまま保持しているかのような広い境内に美しい伽藍が配置されている名刹なのです。

折しも梅雨明けと同時に山門へと通じる参道脇は濃い緑の葉で覆われた木々が茂り、まるで森の中に埋もれるように静かな佇まいを見せています。どこかで見たような風景はあたかも京都の仏閣を思い起させるように静かな時間が流れています。

山門へと通じる参道脇には道祖神や青面金剛を刻んだ石造りの庚申塔を納めた祠が置かれています。そして参道を挟んで反対側に建つ門構えを覗くと、一番奥まった場所に六地蔵が鎮座しています。

庚申堂
六地蔵

そして山門へと近づくと、その傍らに「今川氏代々墓」と刻まれた石柱が立っています。左右に延びる長い塀を従えるようにして建つ山門の姿は日本の仏教建築の美しさを具現化し、限りなく幽玄、且つ芸術性に富んだ空間を造りだしています。その美しさが伝わるかどうかわかりませんが、どうですか下の写真。あまりにも美しすぎると思いませんか?

今川氏代々之墓石柱
どうですか?この雰囲気

山門を抜け目の前に現れるのは見事に手入れされた寺院庭園の極致。これほどまでにこだわったお庭の造成を見た瞬間、胸が締め付けられるような感動を覚えます。

これもどうですか?

もう一度、どうですか? この極上の空間美。とんでもなく美しい世界が目の前に広がっています。おそらく春夏秋冬、それぞれの季節ごとにこの極上のお庭はさまざまに彩りを変え、訪れる人の目を楽しまさせてくれるんでしょう。気が早いのですが、晩秋の彩りはきっと目を見張るものがあると思います。

ご本堂
観音堂
閻魔堂
鐘楼堂

美しい境内のお庭をくまなく拝見したあと、鐘楼堂の裏手に広がる「竹林」へ進んでいきました。ほんとうにまるで京都にいる感覚です。これほどまでに美しい竹林を都内で見られるとは思ってもいなかったのです。しかも竹林を囲む芝垣根の趣といい、うっそうと茂る竹林に射し込む陽射しが竹林に濃淡を描き出し、それこそここも幽玄な世界を造りだしているのです。ほんとうに感動ものです。

竹林
竹林

お庭の美しさの余韻を楽しみながら、閻魔堂の裏手の道を辿り墓地へと進むことにします。目指すはもちろん「今川氏代々之墓」です。その墓は墓地に入ってすぐ左手に玉垣に囲まれ、たくさんの墓石がコの字型に整然と並ぶ姿で現れます。どの墓石が誰のものかは判別できませんでしたので、カメラを構えて各コーナー毎にシャッターを落としてみました。それが下の写真です。

今川氏墓所
今川氏墓所
今川氏墓所

江戸時代には吉良家と並ぶ高家として、朝廷の勅使饗応や儀礼を担当した今川氏の栄華をほんの少し垣間見ることができる墓所なのです。

竹林へと続く道
境内俯瞰

こんな素晴らしい境内とお庭を持つ観泉寺なのに、私以外には誰一人訪れる参拝客がいないのは不思議です。その代りこの至高の空間を独り占めできた時間を十分に楽しむことができたことは久しぶりの充実感です。併せて、私の家の宗派である曹洞宗の寺院であることにある種の誇りすら感じてしまいます。

住所:東京都杉並区今川2-16-1

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私本東海道五十三次道中記 第27回 第3日目 JR小坂井駅から御油そして赤坂へ

2015年08月24日 16時58分30秒 | 私本東海道五十三次道中記


最終日の三日目の旅は昨日の終着地点のJR飯田線・小坂井駅から始まります。

すでに愛知県(三河)に入って二川、吉田(豊橋)を辿ってきました。本日はここJR飯田線・小坂井駅から35番目の宿場町である「御油」、36番目の「赤坂」を経て、東名高速の音羽インター至近の「えびせん共和国」までの11kmを歩きます。途中、御油から赤坂の間には日本の名松100選に選ばれている「御油の松並木」を堪能していただきます。それでは出立です。

その前に昨日参拝した兎足神社の徐福伝説について復習しておきます。

莵足神社社殿
莵足神社の莵の神輿

《兎足神社の徐福伝説》
今から2000年前、縄文時代から弥生時代へと時代が変わる頃、中国大陸の秦帝国に徐福という人物がいました。
徐福は始皇帝に遥か東の海に蓬莱(ほうらい)、方丈(ほうじょう)、瀛洲(えいしゅう)三神山があり、そこには仙人が住み、不老長寿の薬があるというので、是非行ってみたいと申し出ました。
そして大船団を組み、東方へと船出をし、何日もの航海の後、どこかの島に到着しました。実際に徐福がどこの島に到着したかは定かではありませんが、日本各地にこの徐福の伝説が残っています。
尚、徐福の子孫は日本で秦氏を称しています。



JR飯田線の小坂井駅前から旧街道筋へ進んでいきましょう。歩き始めるとすぐにJR飯田線の踏切を渡ります。踏切の左手には小坂井駅の小さな駅舎が見えます。私たちの旅でJR飯田線の線路を跨ぐ機会はこれが最初で最後です。
これからの道筋は名鉄名古屋本線の路線とほぼ並行して進んでいきます。

《JR飯田線》
JR飯田線は豊橋駅と中央本線辰野駅を結ぶ195.7kmのローカル線です。営業区間内に起終点駅を含んで94もの駅があり、平均駅間距離は約2.1km。全線を乗り通すと所要約6時間かかります。そして飯田線は、全国の鉄道ファンが一度は乗ってみたいと憧れる「聖地」でもあります。
豊川稲荷の最寄り駅である豊川を出ると、線路は単線となりにわかにローカルムードが漂うようになってきます。

飯田線のほとんどの駅は無人駅で、駅前には洒落た商店もなく閑散としています。また車掌さんが各駅で降りて、ホームで切符を回収したり、社内では切符販売と忙しく動き回っています。

踏切を渡るとすぐに道がカーブします。そのカーブする角に松の木があり、その下に秋葉常夜燈と秋葉神社の祠が置かれています。



東海道の道筋は宿地区(江戸時代の宿村)へとさしかかります。この辺りは吉田宿と御油宿との中間地点にあたるので、江戸時代には旅人達が休息をとる「茶屋」があったところです。

街道の右手にアクティブコーポレーションあんじゅ宿の建物を過ぎて、最初の角を左へ進むと、およそ400m先にこんどは名鉄名古屋本線の伊那駅があります。

街道は茶屋地区へとはいってきます。茶屋という地名からこの辺りに立場があり茶屋が置かれていたのでしょう。宿場ではなかったのですが、街道脇には「宿場寿し」が店を構えています。

フードオアシスあつみを過ぎると街道の左側の駐車場の脇に伊奈立場茶屋加藤家跡と書かれた貧弱な標柱が置かれています。ここが茶屋本陣、加藤家の跡です。加藤家は「良香散」という腹薬を売っていたことで有名でした。



駐車場の中の左側に金網に囲まれた一角があり、説明板と当時の井戸跡と芭蕉と烏巣(うそう)句碑が建っています。
「かくさぬそ宿は菜汁に唐が羅し」(芭蕉)
「ももの花さかひしまらぬかきね哉」(烏巣)

烏巣は加藤家の生まれで、京都で医者を営んでいたが、芭蕉とは親交があった俳人です。

「かくさぬそ宿は菜汁に唐が羅し」(芭蕉)
芭蕉が烏巣の家に泊まった時、客人にも質素な菜汁と唐辛子しかでてこないことに感銘したという意味。

ちなみに唐辛子江戸時代に信州高遠藩主内藤氏の江戸藩邸下屋敷(現在の新宿御苑)の菜園で栽培を始めたのを発端に、近郊の農村でも盛んに栽培されていました。江戸野菜の一つに数えられています。
「ももの花さかひしまらぬかきね哉」(烏巣)
隣家との境にある桃の木は花の盛りを迎えている。その花はどちらからでも愛でることができて、隣家との境も桃の木の所有者もはっきりしないという意味。



少し歩くと右側に「山本太鼓」が店を構えています。その太鼓屋の前に一里塚跡の標柱が建っています。 江戸から数えて75番目の「伊奈一里塚」です。

山本太鼓
伊奈一里塚跡

街道脇に店を構える山本太鼓店ですが、店構えはしっかりしたもので、店内を覗くと綺麗に整理され、太鼓や祭り用具などが陳列されています。これだけの店構えを維持することができるということは、それなりに商売が成り立っていることの証ですが、どれほどの需要があるのでしょうか?

近くには須佐之男神社がありますが、ここ一社では山本太鼓店の商売は成り立たないはずです。まあ、どうでもいいことなのですが。

さあ!この先にある佐奈川の佐奈橋を渡ると小田淵で豊川市に入ります。



名鉄名古屋本線小田渕駅の近くは古い民家が残っています。街道右側の少し入ったところに、冷泉為村の「散り残る 花もやあると 桜村 青葉の木かげ 立ちぞやすらふ」という 歌碑が置かれています。

冷泉為村(1712~1774)は江戸時代の冷泉家の当主で冷泉家中興の祖と言われています。この歌は彼が一度だけ江戸に行った際、当地桜町で詠んだものです。

白川に架かる五六橋を渡り、更に細い川幅の西古瀬川に架かる西古瀬橋で渡ると、街道の左右には工場郡が現れます。



工場群を眺めながら進んで行くと、31号線に突き当たります。本来であればこのまま真っ直ぐ進んで行けるはずなのですが東海道筋はここで分断されています。いったん右か左へ迂回し、向う側へと渡らなければなりません。左右どちらへ行ってもいいのですが、右折して京次西交差点へ進む方が距離的には短いはずです。

いずれにしても31号線を渡り、再び旧街道筋に戻り進んで行くと、この先で国道1号に合流します。合流後しばらくは国道1号に沿って歩くことになります。



白鳥5丁目西で旧街道は国道1号と合流します。合流すると道筋はほんの少し上りとなり、名鉄名古屋本線の線路を跨ぐように先へ延びていきます。水田が広がる景色を眺めながら、国府(こう)の町へと進んでいきます。

国府(こう)は古くから開けた場所で、「穂の国」の中心にあったことで知られています。奈良時代には三河の国府が置かれ、国分寺、国分尼寺が建てられ、総社(県社八幡宮)も造営されました。
尚、三河の一の宮は豊川市の「砥鹿(とが)神社」です。

国府町藪下交差点で旧街道筋は国道1号から左手に分岐します。車の往来が激しい国道1号の道筋に比べて、旧街道は静けさを取り戻したように落ち着いた雰囲気を醸し出し古い趣ある家が散見されます。



少し歩くと道の傍らに、半増坊大権現と書かれた石柱の上に、注連縄(しめなわ)を付けた小さな社が 祀られています。

半僧坊大権現は浜松市引佐にある奥山半僧坊のこと。半僧坊は方広寺の守り神で明治14年の山火事で本堂などの建物が焼けましたが、半僧坊仮堂と開山円明大師墓地が焼け残ったことから、火除けの神として全国に広がったとあるので、この石柱もその頃、建てられたのではないでしょうか?

その先には、高さ2メートル5センチの大きな秋葉常夜燈が建っています。この常夜燈は江戸時代に火除けの神として信仰を集めた秋葉山の常夜燈で寛政十二庚申(1800)に国府村民達の手で建立したものです。

国府は宿場町ではないのですが、吉田宿(豊橋)と御油宿の間に立場が置かれた場所です。旧街道筋は名鉄名古屋本線の国府駅からは離れていますが、細い道筋の両側に商店が並んでいます。おそらく以前は賑やかな商店街として多くの買い物客で賑わっていたのではないでしょうか。

道筋は新栄町2丁目の交差点にさしかかりますが、ちょうど交差点手前辺りが街道時代に「立場」が置かれていた場所です。新栄町2丁目の交差点を渡ると、街道の左奥に高膳寺が堂宇を構えています。

実はこの高膳寺がある辺りに「田沼意次」の「田沼陣屋」が置かれていました。「賂政治」であまりにも有名な田沼意次は安永元年(1772)に老中筆頭となり、ここ国府村も領地の一部として拝領しました。寺の境内には田沼の領地の境界を示す「従是南相良領」の石標が残されています。
ちなみに意次時代の所領の総石高は5万7千石ですが、これは相良藩だけの石高ではなく、駿河・下総・相良・三河・和泉・河内の7か国に跨って拝領した石高です。

尚、藤枝市の久遠の松で知られている「大慶寺」には天明6年(1786)に田沼意次が失脚した後、相良城は破却されるのですが、城内の屋敷の一部が解体され大慶寺に移築されています。

その先に白い土塀と石垣、そして大きな樹木が見えてきます。近づくにつれてものすごく大きな境内を持つ神社であることが分かります。大きな樹木が繁茂している立派な神社で「大社神社(おおやしろ)」といいます。

大社神社
大社神社参道入り口
大社神社鳥居
大社神社社殿

石垣と白い土塀は旧街道に沿って100mにわたってつづいています。その土塀を支える石垣は近くにあった田沼陣屋(老中田沼意次の所領)の石垣を移築したものです。

「社伝によると、天元・永観(978~985)の頃、時の国司 大江定基卿が三河守としての在任に際して、三河国の安泰を祈念して、出雲国大社より大国主命を勧請し、合わせて三河国中の諸社の神々をも祀られたとある」。
社蔵応永7年(1400)奉納の大般若経典書には、奉再興杜宮大社大神奉拝600年と有る事から、天元・永観以前より当社地には何らか堂宇が存在し、そこへ改めて出雲より勧請して、神社造営をしたものと考えられる。
また14代将軍家茂公が第二次長州征伐に際して、慶応元年(1865)5月8日に戦勝祈願をされ、短刀を奉納したと伝わっています。また、明治5年(1872)には大社神社は国府村の総氏神となっています。

ということで、祭神は出雲の大国主命(大國霊神、大己貴命)。拝殿の鬼瓦には「菊」の紋がついています。夏には手筒花火の奉納が行われるようです。

社殿向って左手奥に、進雄神社(すさのおじんじゃ)(天王宮)と、御鍬稲荷神社(みくわいなりじんじゃ)が祀られています。進雄神社には進雄神(すさのおのみこと)(牛頭天王)、櫛稲田姫命(くしなだひめのみこと)の三柱が祀られています。

そして御鍬稲荷神社には天照坐皇大御神(あまてらしますすめらおおかみ)、宇賀御魂神(うかのみたまのかみ)、豊受大神(とようけのおおかみ)の三柱が祀られています。神社の表参道を入ってすぐのところにも左右に秋葉神社、金毘羅神社が祀られています。
尚、この地は国府であったことから国分寺が置かれていたのですが、国分寺跡は国府駅の東に置かれていました。

大社神社を過ぎてすぐ右側の信用金庫の駐車場の一角にお江戸から76番目の「御油一里塚跡」の標柱が置かれています。



御油一里塚跡を過ぎると、その先に比較的大きな交差点が現れます。この交差点が姫街道と東海道の追分です。万葉集に高市黒人が「妹もわれも 一つなれかも 三河なる 二見の道ゆ 別れかねつ る」と詠んだ「二見の道」がここだといいます。

姫街道は東海道の脇往還で本坂道とも呼ばれ、ここ御油から豊川、本坂、三ケ日、気賀を経て、天竜川の手前の萱場で東海道に合し遠州見附宿(磐田市)に至る約60キロの行程です。私たちは見附宿で東側の姫街道の始点をすでに見ています。そして女改めが厳しかった新居関を避ける女性たちが通ったことから姫街道と言われていました。

右側に中日新聞販売所があり、その隣に大きな常夜燈と二つの道標が建っていますが、以前は道の反対の東側にあったもので、右側の道標には「國幣小社砥鹿神社道 是ヨリ汎二里卅町 (明治十三年建立)」と記されていますが、 砥鹿神社とは三河国一の宮のことです。

左側の道標には秋葉山三尺坊大権現道と刻まれていて、遠州にある秋葉山への道標で明治16年の建立です。 
秋葉山三尺坊は三尺坊大権現を祀る秋葉社と、観世音菩薩を本尊とする秋葉寺(あきはでら、しゅうようじ)とが同じ境内にある神仏混淆の寺院で人々には秋葉大権現や秋葉山などと呼ばれていました。道標の脇にあるのは御油の人達が建てた秋葉山永代常夜燈で「右○○、左ほうらいじ」と書かれています。

秋葉三尺坊は剣難、火難、水難に効くという信仰で、江戸中期に大流行し、一に大神宮、二に秋葉、三に春日大社と言われ、江戸中期から明治初期までに各地で秋葉神社の勧請や常夜燈が造られました。 

追分を過ぎると街道左手に小高い山並みが見えてきます。国府の町からそれほど離れていないのですが、なにやら長閑な雰囲気が漂ってきます。さあ!御油宿は目と鼻の先です。
まもなくすると音羽川に架かる御油橋(旧五井橋)が見えてきます。小さな橋を渡ると御油宿です。
御油橋を渡るとすぐ左に若宮八幡社の石柱がありますが、小さな社と一対の狛犬と桜の木があるだけです。

それでは御油宿内へと進んでいきましょう。静かな雰囲気を漂わす宿内ですが、街道時代を感じさせるような古い家並みは残っていません。御油橋から220mほど歩くと道の右側に「ベルツ花夫人ゆかりの地」の案内板がぽつんと置かれています。
ベルツ花夫人は元治元年(1864)に東京神田で生まれ江戸・明治・大正・昭和を生きた人物です。そして明治政府がドイツから招いた日本近代医学の祖といわれるベルツ博士と結婚した女性です。
明治38年(1905)に任期を終えたベルツ博士と共にドイツへ渡りましたが、博士が亡くなってから大正11年(1922)に帰国して昭和11年(1936)に74歳で亡くなりました。
夫人の父親の生まれた家がこの場所にあった戸田屋という旅籠だったことから、花夫人は御油とゆかりがあるんですね。

尚、ベルツ博士は日本の医術の進歩に貢献した方で、特に草津温泉の効能を理解し草津の温泉療法を世に広めたことで有名です。このことから「草津温泉の恩人」とも言われています。草津温泉にはベルツ記念館があります。

ベルツ花夫人の案内板が置かれている三叉路は江戸時代には宿場特有の鉤型(曲手)なっていたようで、ここを右折し、少し進むと右側の空地に問屋場跡の表示が置かれています。

空地になっているところに安藤広重の御油宿絵のレリーフがあります。広重の浮世絵は太った留女が旅人を強引に宿に引っ込もうとしている場面です。

御油宿は徳川幕府が慶長6年(1601)に整備した東海道と同時に誕生した宿場ですが、開宿当時の伝馬朱印状には赤坂宿と御油宿の二宿が併記されていました。
朱印状の伝馬継立に関する定めには「下り伝馬は藤川の馬を五井(御油)まで通し、五井(御油)の馬にて吉田まで届可申候。上り伝馬は吉田の馬を赤坂まで通し、赤坂の馬にて藤川まで届可申候」と記述されていました。
よって開宿当時は御油と赤坂は一宿扱いされていたようですが、ほどなくしてそれぞれ独立した宿場になったようです。

天保14年(1843)に編纂された東海道宿村大概帳 によると宿内九町三十二間(1298m)に本陣4軒、316軒の家が並んでいましたが、旅篭が62軒と家数から比較すると旅籠の占める割合が高い宿場だったようです。旅籠の数が多かったので旅籠同士の客引きが盛んで、広重が描いたように「留め女」が客引きを行う光景がよく見られたのでしょう。
道筋が突き当たる場所が宿場の中心であった「仲町」です。街道時代には本陣や定飛脚所などが置かれていた場所です。

さて、ここで御油の名を天下に知らしめている「松並木」に関わる資料館があるので、街道からほんの少し外れて立ち寄ることにしましょう。

御油の松並木資料館
国の天然記念物に指定されている御油の松並木と東海道五十三次35番目の宿場として栄えた御油宿に関する資料が展示されています。江戸時代の御油宿の街並みの復元模型や広重の浮世絵版画、近世交通文書や、旅装束などの資料約130点のほか、入口には亀甲模様のついた巨大な松の根っこ(樹齢380年)がシンボルとして置かれています。
※資料館の入口脇に舌代(ぜつだい)と記された案内板が置かれています。:舌代とは口で言う代わりに文書にしたもの。(申し上げますの意味)
■開館時間:10:00~16:00(12:30~13:30は休館)
■休館日:月曜日
■入館料:無料
■問い合わせ:0533-88-5120
■トイレあり

松並木資料館を辞して街道筋へと戻ることにします。街道を直進していくと「イチビキ」 という味噌とたまり醤油の製造会社が現れます。そのイチビキの駐車場の前に本陣跡碑と表示看板が建っています。御油宿にあった四軒の本陣の一つです。なお、御油宿には脇本陣はありません。

右側にイチビキ第1工場があり、漆喰壁の倉の脇に旅籠大津屋の表示が置かれています。 
街道時代に大津屋という名で旅籠を経営していましたが、飯盛り女を多く抱えていたことで知られています。
そんな大津屋にはこんな逸話が残っています。
ある時、飯盛り女五人が集団自殺してしまったことがあり、主人はすっかり「飯盛り旅籠家業」が嫌になり、味噌屋さんに転業したという話が伝えられています。

「イチビキ」の創業は安永元年(1772)ですが、当時の味噌作りは原始的なものだったようで、明治時代に東大卒の子孫が技術的な改革をしたことで今日まで続いているとあります。



イチビキを過ぎると、街道左手に「東林寺」への参道入り口が現れます。この辺りが御油宿の西のはずれです。

さあ!それでは御油宿から次の宿場・赤坂宿へ向かうことにしましょう。隣の赤坂宿までは僅かに16町、たった1700mの距離です。御油宿を出ると上五井という地域にはいります。 
あの有名な松並木の手前には公民館があり、その前には国道沿いに点在していた馬頭観音などが一か所に集められて並んでいます。

※上五井:行基がここを通ったとき、5つの井戸を掘ったといいます。
五つの井戸、すなわち「五井」が「御油」に変じたのではないでしょうか。

街道を歩いて行くと左側に十王堂が建っています。十王は冥界で死者の罪業を裁判する十人の王のことで、彼等の裁判を受けて次に生まれてくる場所が決まると伝えられています。この思想は平安後期に日本に伝えられ、鎌倉時代に全国に伝わったようです。このお堂は明治中期に火災に遭い再建されたものですが、江戸時代の絵図に描かれているので十王堂は古くからあったようです。

さあ!いよいよお待ちかねの「御油の松並木(日本の名松100撰の一つ)」へと進んでいきましょう。これまでの街道旅でそれなりの松並木を歩いてきました。直近では舞阪の松並木を歩いてきましたが、個人的にはここ御油の松並木がその美しさは勝っているのではと………。

松並木は慶長9年(1604)に整備されたもので昭和19年11月に国の天然記念物に指定されています。

松並木入口

天然記念物に指定されるだけのことがあり、その背丈は高く幹も太くなった松が整然と並んでいます。そして並木の長さはなんと600m、松の木は280本も続いています。尚、当初は600本以上あったといいます。 

国の天然記念物に指定されているわりには、美しい並木にそぐわない現代の駕籠(車)が多数行き交い、排気ガスでやられないのかと心配です。280本のうち100年以上が30本、補植松が250本あります。
尚、遠州・舞坂の松並木は700mの長さに340本の松が残っています。

松並木
松並木
松並木
松並木
松並木

十辺舎一九の東海道中膝栗毛で弥次さん、喜多さんが旅籠の留め女に「この先の松並木には悪い狐がいて旅人を化かすから、ここに泊まった方がよい」と脅されるのですが、先にたった喜多さんを追って松並木にさしかかると、喜多さんが松の根っこに座って待っていました。弥次さんはキツネが喜多さんに化けたと思い、取り押さえ、手ぬぐいで縛り上げて赤坂宿へ連れていった」という場面が記述されています。そんな場面を思い浮かべながら美しい松並木の下を歩いていきましょう。



御油の松並木を抜けるとすぐに赤坂宿の東見附があった場所にさしかかります。見附とは宿場の入口に石垣を積み、松などを植えた土居を築き、旅人の出人を監視したところです。赤坂宿では江戸方(東)は関川地内の東海道を挟む両側にあり、京方(西)はその先の八幡社入口の片側にありました。 

東の見附は寛政8年(1796)代官辻甚太郎のとき、ここからちょっと先の関川神社前に移されたようですが、その後再びここに戻されました。なお見附は明治6年に一里塚などと共に廃止されています。

少し歩くと左側に関川神社が鳥居を構えています。関川神社は平安時代に三河国司となった大江定基の命をうけた赤坂の長者、宮道弥太次郎長富がクスノキのそばに、市杵島媛命(宗像三女神のうちの一柱)を祭ったのが始めと伝えられています。社殿脇の大クスは推定樹齢約800年といわれる大木です。
木の根元からえぐられている部分は、慶長14年の十王堂付近の火災の火の粉が飛び「焦げたもの」と伝えられています。

関川神社

境内には芭蕉の句碑が置かれています。

芭蕉句碑

「夏農月(夏の月) 御油よ季いてゝ(御油よりいでで) 赤坂や」 
この句は夏の夜の短さをわずか16丁(1.7km)で隣接する、赤坂と御油間の距離の短さにかけて詠ったものです。 
この句の通り、御油宿から赤阪宿まではあの美しい松並木がなければ一つの宿場かと思ってしまうほどの近さです。

街道の右手の郵便局を過ぎると、左手に長福寺の山門が構えています。平安時代のころ三河の国司だった大江定基を想いつつ病気で死んだ赤坂の長者の娘「力寿姫(遊女)」の菩提を弔うために建てられた寺で、山門の門額には三頭山と書かれています。
大江定基が寄進した恵心僧都の手によると伝えられる聖観世音菩薩が祀られています。

【大江定基と力寿姫の悲恋】
東海道を歩いていると、時の為政者や武将と白拍子、遊女との浅からぬ関係の話がいくつも出てきます。
ここ三河の国にもこれに似た話があります。それが大江定基と力寿姫との悲恋のお話しです。

時は平安時代の中頃に溯ります。京の都から三河の国造(くにのみやつこ)としてやってきた大江定基(中級貴族)という実在の人物にまつわる話です。
大江定基は豊川の菟足神社の「風まつり」の生贄の話ですでに登場しています。
「風まつり」の生贄の話から定基という人物は心優しい人柄であったことが窺がわれます。

そんな定基がある日、家来をつれて領内を見回っていたところ、透きとおった優しい笛の音が聞こえてきました。定基は笛の音に引き寄せられるように足を進めていくと、そこは赤坂の長福という長者の屋敷でした。垣根越に笛を吹く一人の美しい娘が見えました。

その娘は長福の娘で名は「力寿(りきじゅ)」いいます。定基は力寿の美しさに見とれてしまいました。
そして収穫の祝に力寿を呼び、定基は自らが弾く琵琶と、力寿が奏でる笛を合わせました。
二人の奏でる音は息のあったものでした。

それからというもの、定基は力寿のことを思うようになり、力寿もしだいに定基に心を寄せていきます。
そんな幸せな時が4年ほど過ぎ、いよいよ定基は国司の任期を終えて京の都へ帰ることになります。
力寿は定基との別れのことを思いつめ、そのことがもとで重い病気にかかってしまいました。
定基は力寿の回復を念じ、必死に看病したのですが、力及ばず力寿は亡くなってしまいます。
力寿を心から愛していた定基は、亡骸に7晩添い寝して「口吸い」=キスしたところ、もはや異臭を放つことに気づき、泣く泣く埋葬し、後に出家したといいます。
※定基は日本で記録に残る最初に「キス(くちづけ)」をした人。

定基は力寿の菩提を弔うために赤坂に長福寺を建て、寺の裏手の高台に力寿の墓を建てました。
さらに豊川市にある財賀寺に「文殊楼(力寿山舌根寺/ぜっこんじ)」を建てました。(長福寺から東北方面に5㎞)
※舌根寺は廃寺となり、現在は財賀寺が法灯を引き継いでいます。
※舌根とは欲望を断つという意味

この後、定基は出家し寂照(じゃくしょう)を名乗り、比叡山に学び、その後、宋にわたり彼の地で亡くなったと伝えられています。

まもなくすると赤坂紅里(べにさと)の交差点にさしかかります。この交差点を右へ進むと名電赤坂駅です。紅里とはかっての色町を連想させる地名ですが、このあたりが赤坂宿の中心だったところです。街道の左に置かれた立派な門の近くに、松平彦十郎本陣跡と表示された案内板があります。

松平彦十郎は当時、本陣と問屋を兼務していましたが、文化年間より問屋は弥一左衛門に代わり、幕末には弥一左衛門と五郎左衛門の二人で執り行なわれていました。赤坂宿には本陣は1軒、脇本陣3軒ありました。
また、旅籠数は62軒(置屋、茶屋を含めると80戸を超えていました)、人口1304人で御油宿とほぼ同じ規模です。

紅里交差点を過ぎてまもなくすると街道左に「伊藤本陣跡」があり、伊藤本陣跡の隣には街道の風情を思いっきり漂わせている旅館「大橋屋」が現れます。

大橋屋

江戸時代には「旅籠伊右衛門鯉(こい)屋」という屋号で旅籠を営んでいた家系で、東海道で唯一、営業を続けていた最後の旅籠でしたが、残念なことに創業366年目の2015年3月に店を閉じることになりました。

大橋屋の創業は古く、慶安2年(1649)に溯ります。建物自体は正徳6年(1716)頃の建築で、間口9間(約16m)、奥行23間(約41m)ほどの大きさですが、赤坂の旅籠では比較的大きい方であったといいます。 
入口の見世間や階段、二階の部屋は往時の様子を留めています。
この貴重な歴史建造物は豊川市に寄贈され、その後は一般公開されるとのことです。

◆問い合わせ
大橋屋  TEL:0533-87-2450
旅籠大橋屋 見学について(要予約)
見学時間 10:00~16:00

大橋屋
大橋屋

赤坂宿は享保18年(1733)の頃の家数は349軒です。小さな宿場にもかかわらず旅籠が83軒もあった上、隣の御油宿とは僅かに、16丁(1.7km)しか離れていないので、客の奪い合いが激しかったと言われています。このため旅籠家業だけでは食べていけないため、飯盛り女を抱える飯盛り旅籠が必然的に増えていきました。このような現象は御油でも同じなのですが…。

「御油や赤坂、吉田がなけりゃ、なんのよしみで江戸通い」、「御油や赤坂、吉田がなけりや、親の勘当受けやせぬ」と、俗謡で詠われたように赤坂宿の繁栄は飯盛女によるところが大きかったようで、音羽町(旧赤坂町、旧長沢村、旧萩村が合併し誕生)の資料によると、飯盛女の多くは、近隣の村々の農家や街道筋の宿場町出身の娘たちでした。
寛政元年(1789)の『奉公人請状之事』には「年貢に差しつまり、娘を飯盛奉公に差し出します。今年で11歳、年季は12年と決め、只今御給金1両2分確かに受け取り、御年貢を上納いたしました。とあり住民の生活が豊かでなかったことから、子女を飯盛女として奉公させざるを得ない状況だったといいます。

大橋屋の隣に「高札場の木柱」が目立たない存在で置かれています。注意しないと通り過ぎてしまいます。

伊藤本陣跡の裏にあるのが浄泉寺で、境内に大きなソテツがあります。
安藤広重の「赤坂 旅舎招婦図」には赤坂宿の旅籠風景が描かれていますが、この絵の中に旅籠鯉屋の庭のソテツが描かれています。 
しかし明治20年頃の道路拡張により、旅籠から浄泉寺境内に移植されたもので推定樹齢は260年という「ソテツ」です。
本堂と離れて建っている薬師堂は赤坂薬師といい赤い幟が林立しています。

街道をほんの少し進むと左側に赤坂休憩所「よらまい館」が現れます。平成14年にオープンした赤坂宿の旅籠をイメージした休憩施設です。
当時の建築様式を再現し2階には赤坂宿を描いた浮世絵を展示しており、宿場町として栄えた江戸時代の様子を観覧できます。
また内外にベンチを配し旅行者が足をのばしてくつろげる空間になっており、トイレ・駐車場なども設置してあります。
■休館日:月曜日
■問い合わせ:豊川市観光協会(0533-89-2206)

よらまい館の先の右側に「赤坂陣屋跡」の表示が置かれています。
三河国の天領を管理するため幕府が設けたもので、国領半兵衛が代官のときに豊川市の牛久保から移ってきました。幕末から明治にかけては、三河県の成立にともない三河県役所となり、明治2年6月に伊那県に編入されると、静岡藩赤坂郡代役所と改めました。明治4年の廃藩 置県により伊那県が額田県に合併されると赤坂陣屋は廃止されました。

赤坂陣屋跡を過ぎると、すぐに赤坂宿の西のはずれにさしかかります。そんな場所の街道脇に西見附の標柱が現れ赤坂宿は終わります。



赤坂宿を抜けると、次の宿場町は藤川宿です。道筋は山間の道を進んで行きます。
赤坂宿の西見付の標を右手に進むと「郷社八幡宮」の鳥居があります。鳥居をくぐると杉の森八幡宮が社殿を構えています。

当社は大宝二年(702)、持統上皇が東国御巡幸の折、勧請したと伝えられる古い神社です。寛和2年(986)の棟礼が現存するといいます。境内には一つの根株から二本の幹が出ていることから、夫婦楠と呼ばれる大クスは、推定樹齢千年を数える風格ある古木です。

それでは街道を進んでいきましょう。そのまま歩いていくと、家並みもめっきりと少なくなり、車もほとんど通らない静かな道に変ります。右側に音羽中学校の校舎が見えてきます。右側に開運毘沙門天王尊の石柱が細い道の角に建っています。その先に医院があり、その先には薬局が店を構えています。左側の道傍には栄善寺の石碑が建っています。

栄善寺は西暦1272年に円空上人の開基で、弘法大師がこの地で大日仏を刻み、盲目の男を治したという伝説が残っている寺です。

さらに街道を進むと長沢(旧長沢村)に入ってきます。道の左側に八王子神社の石柱が建ち、左側の秋葉山常夜燈は寛政12年の建立です。



さあ!まもなく第27回の旅のエンディングが近づいてきました。街道を進むと小川に架かる八王子橋を渡ります。
橋の手前に「一里山庚申道是ヨリ……」と書かれた道標があります。
橋を渡ると前方に有料道路の「三河湾オレンジロード」が走っています。旧街道はオレンジロートのガードをくぐって前方へつづいていきます。
私たちはオレンジロードをくぐったらすぐ右へ折れて、国道1号線の「音羽蒲郡インター」の交差点方向へ向かいます。そして今回の旅の終着地点の「えびせん共和国」へと進んでいきます。

2泊3日の行程で総歩行距離32キロを歩き通しました。たいへんお疲れさまでした。

私本東海道五十三次道中記 第27回 第1日目 白須賀宿から二川宿(本陣)
私本東海道五十三次道中記 第27回 第2日目 二川宿(本陣)から莵足神社

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私本東海道五十三次道中記 第27回 第2日目 JR二川駅前からJR小坂井駅まで

2015年08月24日 12時02分43秒 | 私本東海道五十三次道中記


第二日目の出立地点は昨日の終着地点のJR二川駅です。本日はここJR二川駅前から吉田宿(現豊橋)を経由して、御油宿手前のJR飯田線の小さな駅・小坂井駅までの12.2キロを歩きます。

JR二川駅舎





比較的新しい駅舎が印象的な二川駅を通り過ぎると、道は緩やかにカーブしながら3号線と交差する火打坂交差点へとさしかかります。交差点から前方を見るとそれほどのキツサではないのですが、いくぶん上り坂になっているのが分かります。東海道の旧道は交差点を渡り、そのまま直進して行きますが、左折すると岩屋観音へ向かう道筋です。

《岩屋観音》
岩屋緑地は南アルプスから続いてきた弓張山系の南端で、市街地の中に緑の二つの小山が浮かんでおり、誰もが直ぐに見つけることが出来ます。岩屋緑地は豊橋市の風致公園で、風致地区46.1haのうち緑地が約21haを占めています。
主峰の大蔵山が標高100m、もう一方の峰は岩屋山で山上に聖観音立像が建てられており、中腹にある岩屋観音と共に昔から街道を行く旅人の尊信を集めています。
天平2年(730)行基が諸国巡行のさい、この地に来て岩屋山の景観に魅せられ一尺一寸の千手観音像を刻み、岩穴に安置したのが岩屋観音の起源とされています。岩屋観音の像は1754年の吉田大橋(豊橋市役所北)掛け替えにともなう霊験のお礼として1765年にたてられました。しかし、それは太平洋戦争のときに供出されており、現在のものは1950年につくられたものです。また、もともとここは古くから東海道を旅する人の目印となっていたところで、1704~11の宝永年間には岡山藩主、池田綱政から、観音の霊夢により宝永の大地震の際に津波の難を逃れたお礼として、絵馬、黄金灯籠などがおくられている。それらはいずれも貴重なもので、豊橋市の文化財に指定され、大岩寺に保管されている。(この絵馬や黄金燈籠は白須賀の潮見観音に奉納するものであったが、まかり間違って岩屋観音に奉納されてしまいました。)

江戸時代の旅行案内の東海道名所図絵に「亀見山窟堂(きけんざん、いわやどう)と号す。大巌、堂後にあり、高さ八丈、幅廿丈余、岩形亀に似たり。故に山号とす」とあるところで、大きな岩山の上に観音像が立っているのが遠くからも見えるはずです。

窟(いわや)は直立50mもある大岩で、その岩の上に聖観音像が立っています。現在の観音像は、昭和25年(1950)に地元の寄進により再建されたものです。私たちは先を急ぐので岩屋観音の参拝は割愛して街道を進んでいきましょう。

だらだらした坂道を登っていきましょう。火打坂の交差点辺りが標高26mですが、私たちは標高差23mを克服し、標高49mのⒹ地点を目指しましょう。
本来であれば、この先の大岩北交差点まで行くのですが、ここから「ガーデンガーデン」裏手の道を通りショートカットルートを辿ることにします。そして再び、旧街道筋に合流します。

《火打坂》
その昔にはおそらく山深い寂しい道筋だったと思われます。
その名の由来は江戸時代、旅人たちは次の宿場である吉田(豊橋)に向かう途中、季節によってはこのあたりで薄暗くなったのではないでしょうか。
そして提灯に灯りをともすために「火打石」をカチカチと鳴らしたので、この名前が付いたといいます。

再び旧街道に合流し、私たちはほんの少しの間、木々の緑に覆われた岩屋山のちょうど麓の縁に沿って歩くことになります。



二川の宿場からすでに1キロ強を歩いていますが、街道の両側は何の変哲もない住宅街へと姿を変えてきます。
道幅は広くなり、街道らしい風情はあまり感じません。昭和30年代まではこの道筋には見事な松並木が並んでいたといいますが、その名残はまったくありません。

歩き始めて2km辺りの歩道に旧東海道の「クロマツの跡」が現れます。平成19年までは往還松の名残として1本の大きな松の木がこの場所に立っていたのですが、現在は切株だけが寂しげに残っています。
樹齢は150年、高さは11m、幹周りは2.34mの松の大木だったようです。



飯村南2丁目の交差点を越えると、道は狭くなり、車線区分がなくなり、道に白線を引って歩道帯にしています。安心して歩けるのは、側溝のブロックの上だけですので、歩行には十分気を付けてください。
ほんの少し先に「二軒茶屋こども公園」と書かれた小さな空き地があります。「茶屋」と名前がついているということは、この辺りが吉田宿と二川宿の中間地点であることから、立場茶屋があったのではないでしょうか。

この辺りで歩き始めて2.5キロを超えました。もしトイレが必要であれば、スギドラッグ(10:00~)又はサークルKを利用することをお勧めします。




住宅街の中を進む旧東海道の道筋はやがて柳生川に架かる殿田橋にさしかかります。江戸時代には73番目の飯村一里塚(いむれ)があったところで、それを示す石柱が殿田橋を渡った先の交差点の一角に目立たない存在で置かれています。

そして旧街道は殿田橋交差点で国道1号線と合流します。しばらくの間は単調な国道1号に沿って歩くことになります。

飯村一里塚から2.5km強で吉田宿(豊橋)の東総門跡に到着します。
右側にセガワールドが現れ、その後は国道1号に沿って東三輪、山中橋を渡り、三の輪町、伝馬町、そして円六橋と続いていきます。豊橋市街に近づいているので、国道1号に沿って賑やかな雰囲気が漂っています。



それほど印象に残らない国道1号に沿って進んで行きますが、歩き始めて5キロ地点を過ぎた辺りが「瓦町」の交差点です。三河は三州瓦で有名ですが、「瓦町」という地名から、昔から瓦職人が多く住んでいた地域だったのでしょう。その瓦町交差点手前の右側に立派な門構えのお寺が現れます。寺名は寿泉寺で宗派は臨済宗のようです。詳しい歴史などが分かりませんが、境内の三重塔が印象的です。





豊橋市の現在の人口は378,530人。古くから「穂の国」と呼ばれています。というのも古代、この地に存在した「豊な実」を意味しています。現在でも東三河一帯を「穂の国」と呼んでいます。
東三河一帯とは豊橋、豊川、蒲郡、田原、新城、設楽町、東栄町(とうえい)、豊根村(とよね)を指します。



吉田宿は二川宿から6キロ御油宿へ10キロ強の距離に位置しています。 
当初は豊川に架けられた橋の名から、今橋と呼ばれていましたが、池田輝政が城主となった1600年頃、縁起のよい吉の文字を取り入れて吉田に名前を変えたのです。 

豊橋は明治維新後に繊維産業と軍事施設で栄えた町です。このため第二次世界大戦の末期の1945年6月20日の米軍による猛爆撃よって、中心部、吉田宿のほとんどが焼失し、古い建物はまったく残っていません。
町の中に置かれているモニュメントのほとんどが再建されたものです。

吉田は豊川の流れに近接して築城された吉田城を有する城下町であると同時に、東海道の中では比較的大きな宿場の一つだったのです。 

東海道は城下の入口の東新町(江戸時代の町名は元新町)のところで、鉤型になっていました。当時の東海道はここで左折し、一本目の道を右折し、突き当たったところを右折し、西新町(同新町)交差点に出たようです。

その先が東八町ですが、交差点の北東角に、文化2年(1805)に住民達の手で建てられたという秋葉山常夜燈が建っています。 
江戸時代にはその先に吉田城の東総門があったので門番が監視していましたが、現在は四差路の信号交差点に変り当時の様子やその痕跡は残っていません。

さあ!それでは吉田宿内へと進んでいきましょう。東八町の交差点を跨ぐ大きな歩道橋を渡り、旧市街側へと移動します。歩道橋の上からはかなり幅のある道筋が走り、地方都市らしい路面電車が走っています。

東八町の交差点

歩道橋を下りると東総門のレプリカが置かれています。
街道時代には東惣門は宿の東の入口にあり午前六時から午後10時まで開けられ、それ以外は閉門され、付近に番所などが置かれ警備にあたっていました。

東総門のレプリカ

東総門に隣接するように店を構えるのが「八町もちや」です。二川駅前からここまで約6kmを歩いてきたので、甘い和菓子とともに休憩しましょう。

東総門を背にして50mほど歩いたら最初の角を右へ曲がりましょう。そしてそのまま直進し丸八ストアの角を左へ曲がります。左へ曲がったら2つ目の角を右折すると鍛冶町の信号交差点にさしかかります。
鍛冶町交差点を過ぎて、次の曲尺手町交差点へと進みます。ここまで道筋は3曲がりです。掛川宿でも同じように東海道筋は城下をいくつも曲がりながらつづいていました。



そして次の信号交差点が曲尺手町です。中央に植え込みがある幅広い道が左右に延びています。右へ進むと豊橋公園です。進行方向右手の植え込みに「曲尺手門跡碑」、左側の植え込みには「吉田宿」と刻まれた石碑が置かれています。

曲尺手門跡碑

本来の旧東海道筋は曲尺手町交差点を渡り直進しますが、本日の昼食場所が豊橋公園内となるため、いったん街道を逸れ公園へ向かいます。曲尺手町交差点からおよそ290mほどで公園入口に到着です。

昼食後、公園内の鉄櫓(くろがねやぐら)と豊川の流れを眺められる展望台へご案内いたします。
その後、旧街道へ戻ることにいたします。
このため本日の実際の歩行距離はマップ上に表記された12.2kmに1kmを加えた13.2kmと長くなります。

吉田城は築城当時(16世紀初頭)は今橋城とよばれ、今川方の牧野古白(まきのこはく)によって築城された城です。永禄3年(1560)に今川義元が桶狭間で戦死すると、徳川(松平)家康が吉田城を取り、酒井忠次を城代として入れました。天正18年(1590)の小田原攻めの後、家康の関東移封により、吉田城は徳川氏の手から離れ、その代わりに豊臣秀吉配下の池田輝正が152,000石で入封しました。 

輝正は豊川の流れを背に、本丸を中心に二の丸、三の丸を配置し、それらを掘が同心円状に取り囲む半円郭式縄張りに拡張しましたが、慶長5年(1600)に姫路に移封となったため、工事は未完に終りました。 
吉田城には天守はなく、深溝松平時代に建てられた本丸御殿のみで、これも宝永の大地震で倒壊してしまいます。 四隅の石垣には櫓がありました。

江戸幕府成立後、家康は三河吉田藩の初代藩主に一族の松平(竹谷)家清(三万石)を任命しました。しかし嗣子が無く廃絶、代わりに松平深溝(ふこうず)忠利(三万石)が入りますがこれも二代で代わります。 
その後も藩主が目まぐるしく代わり、寛永2年(1749)に松平(大河内)の信復(のぶなお)が7万石で入り、ようやく藩主が安定し、明治維新まで七代続きました。(江戸時代を通じて三河吉田藩は11家が入れ替わりました。) 
大きな藩のように思えますが、実際は小藩で3万石から多くて7万石だったのです。
 
国道1号線の豊川に架かる吉田大橋の手前に、吉田大橋誕生の碑があります。それを見ると、明治政府の「いやがらせ」で吉田から豊橋に変えられた悔しさが読み取れます。 

というのも大政奉還の後、新政府は「吉田は伊予国(愛媛県)にもあるので、今までの吉田を改称し新しい名前を提出するように」と命じられます。そのとき豊橋、関屋、今橋の三つの中から豊橋が選ばれました。 
新政府に嫌がらせを受けた理由としては、吉田藩は将軍家に近い譜代大名であること、さらには尊皇でなかったことがあげられます。

吉田城は明治6年(1873)の失火により多くの建物が焼失し、その後陸軍の連隊が置かれましたが、現在は市役所と公園になっています。吉田城の遺構といえるのは城壁のみです。現在、城址にある櫓は昭和29年(1954)の豊橋産業文化大博覧会を記念して再建されたものです。

鉄櫓
鉄櫓
鉄櫓
櫓から眺める豊川の流れ

吉田城の櫓の見学を終えて、再び旧東海道筋へ戻ることにしましょう。
城址公園を出ると、右手に堂々とした建物が現れます。豊橋の公会堂です。

豊橋公会堂

戦前の昭和6年(1931)に市制25周年を記念して建設されたもので、現在国の登録有形文化財(平成10年に登録)に登録されています。
外観はロマネスク様式を基調とし、スペイン風の円形ドームを持ち、市の将来を象徴して四羽の鷲がつけられています。
正面から見るファサードは立派なものです。

鷲のレプリカ

公会堂を右手に見ながら国道一号線を跨ぐ横断歩道橋を渡りましょう。歩道橋の下には路面電車の線路が走っています。歩道橋を渡り、旧東海道筋へと進んでいきましょう。

途中の歩道脇に大手門跡の標が置かれています。かつて御城下であった頃、この場所に城への入口である大手門が置かれ、一般の旅人たちはここから先へは入ることができなかったのです。

大手門跡

大手門跡を過ぎて進んで行くと、呉服町の信号交差点にさしかかります。ここで再び、旧東海道筋に合流します。
呉服町交差点で右へ曲がります。すると路面電車が走る広い道へと出てきます。この道は田原街道と呼ばれています。田原街道に出てくる手前に吉田宿問屋場跡の標柱が置かれています。

問屋場跡が出てくるということは、この界隈が吉田宿のほぼ中心にあたる場所にさしかかったということになります。私たちは田原街道を横断して、さらに宿内を西へと進んで行きます。このあたりの地名は「札木」と呼ばれています。



交差点を渡るとすぐ右手に「喜の字」という蕎麦屋があり、その先に創業100年の歴史をもつ「丸よ」という老舗の鰻屋さんが店を構えています。その「丸よ」の店先に本陣跡の石碑と案内板が置かれています。

本陣跡碑

石碑を眺めつつ、鰻の蒲焼のいい匂いに誘われてつい店に入ってしまいそうです。三河の鰻は極上なので、さぞお高い鰻なのでしょう。
案内板によると、江戸時代の清須屋与右衛門本陣の跡地で、東隣には江戸屋新右衛門の本陣が二軒並んで建っていた、とあります。もう一軒の本陣は、隣の喜の字という蕎麦屋さんのところにあったのでしょうか?

吉田宿は、「吉田通れば二階から招く、しかも鹿の子の振り袖が……」 とか、「御油や赤坂吉田がなくば 何のよしみで江戸通い………」と、いった俗謡が良く唄われくらいに、飯盛女の多かったことで知られる宿場でした。そして飯盛旅籠はこの札木周辺に集中していたといわれています。

本陣跡碑から50mほど進んだ左側の民家の壁面に脇本陣跡のプレートが嵌めこまれています。

話は変わりますが、豊橋の名物は「菜めし田楽」です。本陣跡からほんの僅かな距離に「若松園」という名前の店で食べることができます。またその先の「きく宗」でも「菜めし田楽」を食べることができます。きく宗は文政年間の創業の老舗で、菜めし田楽定食が1785円です。

※菜めし田楽(なめしでんがく):豆腐、サトイモ、こんにゃくなどに味噌をつけて、竹の串にさして炭火であぶったもの。
菜はだ大根の葉のことです。豊橋はからっ風が強く、古くからたくわんの生産が盛んに行われています。その大根の葉をご飯に混ぜたもの。

道筋は松葉公園の交差点を右折して北へ向きを変えます。そのまま北へ直進すると上伝馬交差点にさしかかります。この交差点を渡ると「西総門」のミニチュアが置かれています。

西の総門のレプリカ

吉田城の西総門があったところで、西総門は吉田城の西門であると同時に、吉田宿の京方の入口なので、吉田宿はここで終わります。なんともクネクネした吉田城下の道筋でした。



吉田城下そして宿場を抜けて、いよいよ豊川に架かる豊橋を渡り御油へと進んでいきましょう。

その豊橋を渡る前に神明社へと立ち寄ることにします。実は神明社境内には芭蕉の句碑が置かれています。
吉野紀行の途次、最愛の弟子に会うため吉田宿に泊まったその夜の句だそうだ。
「寒けれど 二人旅ねぞ たのもしき   芭蕉」

神明社とあれば、当然御祭神は天照皇大御神、そして相殿には豊受姫大神であることから、伊勢神宮とは深い関係をもつ神社です。

《豊橋(とよばし)》
最初の架橋は天正18年(1590)に溯ります。当時、大橋120間(約220m)と言われた大きな木橋で「吉田大橋」とも呼ばれていました。江戸時代を通じて幕府が直接管理した「御用橋」で、明治維新までに33回も修理されています。
明治12年に「豊橋(とよばし)」と改名し、豊橋市の市名の由来となっています。大正5(1916)に木橋から鉄橋に付け替えられています。現在の橋は昭和64年に架橋されたものです。
現在の「豊橋」の上流の国道1号線の橋は「吉田大橋」と呼ばれています。豊橋の橋上からは先ほど訪れた吉田城の櫓を眺めることができます。街道時代に西からやってくる旅人も、橋上から見る櫓を眺めながら吉田城下にに到着したことを喜んだのではないでしょうか。

さあ!吉田宿を後に旅をつづけることにいたします。吉田宿内の道筋はとにかく良く曲がりましたが、豊橋を渡るとその道筋は面白味のない真っ直ぐな道がつづきます。旧東海道筋はここから三河国府の手前まで国道1号線にほぼ並行して、かなり長い区間が残っています。

満々と水を湛えて流れる豊川に架かる豊橋を渡ると、東海道はすぐ左へと曲がります。江戸時代には橋の袂に吉田湊があり、伊勢に向かう旅人を乗せた船が出ていたといいます。
数分歩くと「ういろう」と書かれた看板を掲げる和菓子屋があります。ヨモギ入りのういろうがこの店の売りです。

このういろう店のすぐ先の聖眼寺境内にも芭蕉の句碑が置かれています。この句碑は「松葉塚」と呼ばれているのですが、
芭蕉の呼んだ句の中に、その意味が隠されています。
「ごを焼(た)いて 手拭あぶる 寒さかな 芭蕉」

実は「ご」の意味は松の枯葉のことで、このことから「松葉塚」と呼ばれているそうです。
塚は明和6年に芭蕉の墓がある近江・大津の義仲寺から、墓の土を譲り受けて塚を再建したものです。また碑に刻まれた「芭蕉翁」の文字は、あの臨済宗の中興の祖である原の白隠によって書かれたものです。

この句は芭蕉が貞享4年(1687)の冬、愛弟子の杜国の身を案じて渥美半島へ向かう途中に詠んだものです。句の意味は「旅の宿に泊まって、松葉を焼いて濡れ手ぬぐいをあぶって乾かしていると、寒村の寒々とした旅情を感じる」

聖眼寺からわずかな距離に置かれているのが、お江戸から数えて74番目の「下地一里塚跡碑」です。
 


旧街道は右にカーブし、豊川から離れていきます。真っ直ぐのびる道を進んで、横須賀町交差点を過ぎると「瓜郷(うりごう)町」に入ります。その道の右側に史跡境界の標柱と案内が置かれています。どういう意味かというと、国の史跡指定地として、指定した範囲を表示したものです。
この場所から右に114mほど入ると、瓜郷(うりごう)遺跡の大きな石碑がある公園にでます。

瓜郷遺跡
瓜郷遺跡
瓜郷遺跡

遺跡は静岡の登呂遺跡よりも古く、弥生時代中期(今から二千年前)から後期にかけての住居跡で、竪穴式住居が復元されています。遺跡は豊川の沖積地の中でもやや高い自然堤防の上にあり、その当時は海岸に近く遺跡の北には湿地が広がっていたと推測されています。 

戦時中の食料増産のため、昭和11年の江川の改修工事の際、偶然発見され、昭和22年から27年にかけて5回、発掘調査が行われ昭和28年11月に国指定史跡になりました。 
出土したものは瓜郷式細頸壺瓜郷式土器、磨製石斧などで、豊橋市美術博物館に保管されています。

◇登呂遺跡
静岡市駿河区にある弥生時代の集落・水田遺跡。
昭和27年に国の特別史跡に指定。弥生時代後期に属し、1世紀頃の集落とされる。

街道に戻り小さな川を渡りますが、これが江川です。江川に架かる橋は鹿菅橋(しかすかはし)です。



鹿菅橋から500mほど歩く街道の左側豊橋魚市場(魚河岸)が現れます。豊橋魚市場は地方卸売市場です。愛知県知事の認可を受けて「株式会社豊橋魚市場」が開設者となり、卸売業者として営業しています。
→中央卸売市場とは開設者が都道府県、市など。

◇豊橋魚市場の歴史
明治10年(1877)豊橋市魚町でそれぞれ営業していた数軒の魚問屋が合同して「豊橋魚問屋」を設立
明治12年(1879)株式条例に基づき株式組織に改め「豊橋魚鳥株式会社」となる
明治40年(1907)に2社に分裂
①豊橋魚鳥株式会社
②丸中荷受会社
大正2年(1913)当時の市内有力者の仲介により再び合併し、社名を「株式会社豊橋魚市場」に変更
昭和41年(1966)手狭になった魚町から現在地の下五井町に移転して現在に至る
◇総敷地面積:9860坪

この辺りが豊橋市のはずれで、少し歩くと標識は小坂井町になります。豊橋市ともうお別れです。そして前方に堤防が見えてきます。この辺りから歩道がなくなります。そしてそこに流れている川は「豊川放水路」です。

豊川は古(いにしえ)の時代には飽海川(あくみがわ)、江戸時代に吉田川になり、明治以降は「とよがわ」と呼ばれるようになりました。川の距離が77キロと短いため、大雨が降るとすぐに洪水が起きました。江戸時代に川下の吉田宿を洪水から守るため、霞堤と呼ばれる、不連続の堤防が造られましたが、その後も災害は何回も起きました。 
明治に入り、豊川放水路の計画が起案され、昭和40年にやっと完成しました。 

旧街道をそのまま直進すると豊川放水路に架かる高橋があります。しかしこの高橋は歩道帯がなく、車の往来も激しいため歩行に際して危険が伴います。このためちょっと遠回りになりますが、いったん旧街道を逸れて国道1号線へと迂回し、小坂井大橋を渡り「菟足神社(うたり)」へと向かうことにいたします。

旧街道から右へ折れると、魚市場の場外市場が道筋の左右に現れます。私たちがこの辺りにさしかかる時間が午後ということで、市場の取引も終わり場内、場外とも閑散としています。場外市場を抜けると国道1号線に合流します。



前方に豊川放水路に架かる小坂井大橋が見えてきます。緩やかな坂道を登り小坂井大橋の東詰にさしかかると、ゆったりとした川の流れが眼の前に現れます。そんな光景を眺めつつ下って行くと、左側にニチレイ豊橋物流センターがあります。 
今回は旧街道の高橋を渡りませんが、旧街道に面したニチレイの門の先に、数本の松が植えられた場所があり、「子だが橋」と書かれた石碑が建っています。 

傍らの説明によると、今から千年前には神社の春の大祭の初日、この街道を最初に通った若い女性を生贄として捧げるという、人身御供の習慣があったといいます。ある年の祭の初日、贄(いけにえ)狩りの人が橋を見ていると、最初の若い女性が通りかかました。これで決まりと思ったが、女性は祭りを楽しみに帰ってきたわが子だった。 
こんな惨いことはないと、狩り人は苦しみ迷ったが、最後には自分の子だが仕方なしと決心し、神への生贄にしてしまいました。それから後、この橋を「子だが橋」と、呼ぶようになったと伝えられています。

東海道を歩いているとこれに似た話はいたるところにあります。思い起こせば、富士川の雁堤(かりがねつつみ)でもこれに似ている噺をした記憶があります。

小坂井大橋を渡るとまもなく国道1号の300kmポストが歩道脇に置かれています。思えば遠くにきたもんだ! といっても京都三条まではあと195kmです。
宮下交差点で国道151号(伊奈街道)を越えると、左手前方に菟足(うたり)神社の鎮守の森が見えてきます。

菟足神社本社殿
社殿の中の莵

菟足(うたり)神社は、延喜式神名帳に載っている式内社で、祭神の菟上足尼命(うなかみすくねのみこと)は大和朝廷に貢献した武勇に秀でた葛城襲津彦の四世孫にあたる人物です。 
穂国(東三河の前名)の国造を務めた菟上足尼命は、雄略天皇時代に平井の柏木浜に祀られましたが、天武天皇白鳳十五年にこの地に遷座されたとあります。

また古代、秦の始皇帝が蓬莱島を求めて派遣した徐福一行は熊野に上陸し、その後当地に移り住んだという、徐福伝説が残る神社で、中世には菟足八幡社と呼ばれていました。神殿内には「菟」の神輿が安置されています。古くから開けたことは間違いないようで、境内の隣には貝塚がありました。 

また贄を奉げる風習はあったようで、今昔物語や宇治拾遺物語に三河の国守大江定基(赤坂宿に縁のある人物)が出家し寂照という名になり、三河の風まつりを見たところ、猪を生け捕り生きたままさばく様子をみて「早くこの国を去りたい」と思うようになったと書かれています。 

前述の「子だが橋伝説」に登場する神社はこの菟足神社で、現在は十二羽の雀を生け贄として神に捧げているといいます。

菟足神社を辞して、本日の終着地点のJR飯田線の小坂井駅へ向かうことにしましょう。駅までは400mの距離です。本日はJR二川駅を出発してここ小坂井駅までの12.2キロを完歩しました。

私本東海道五十三次道中記 第27回 第1日目 白須賀宿から二川宿(本陣)
私本東海道五十三次道中記 第27回 第3日目 莵足神社から御油そして赤坂へ

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私本東海道五十三次道中記 第27回 第1日目 白須賀宿からJR二川駅前まで

2015年08月24日 09時30分40秒 | 私本東海道五十三次道中記


前回26回の旅では天竜川袂の東詰めから始まりました。暴れ川と呼ばれた天竜川を渡り、西詰の中町を抜けて浜松市内へと辿ったのが第一日目。そして浜松城を見学し、ひたすら長く続く街道を西へと進み、舞阪宿を抜けて今切の渡しの渡船場跡を見てから弁天島駅へ着いたのが第二日目。
いよいよ三日目は弁天島駅前を出立し、新居の関所のある新居宿を抜けて、ここ白須賀宿手前の港屋食堂に到着しました。
総歩行距離32㎞を踏破した前回の旅でした。

さて27回目を迎える今回の第一目目は白須賀宿からJR二川駅までの約9.3㎞、第2日目にJR二川駅前から吉田宿(現豊橋)を抜けJR飯田線の小さな駅、小坂井駅までの約12.2㎞、最終日の三日目にJR小坂井駅から御油宿そして赤坂宿を抜けて東名高速の音羽蒲郡インター至近の「えびせん共和国」までの約11㎞、総歩行距離約32.7.㎞を歩きます。

その間、32番目の白須賀宿、33番目の二川宿、34番目の吉田宿(現在の豊橋)、35番目の御油宿そして36番目の赤坂宿と5つの宿場を辿ります。そしてこれまで歩いてきた遠州とお別れし、いよいよ三河の国へと足を踏み入れていきます。

新居宿からここ白須賀宿手前までの街道は田舎道を歩いているんだなあ、と感じる風情が漂っていました。長くつづく松並木は街道らしい雰囲気を味あわせてくれました。街道の遥か左手には遠州灘が広がっているのですが、街道からは残念ながら遠州灘の大海原の景色をみることができません。

本日の出発地点の港屋食堂からほんの僅かな距離を進むと旧街道筋へ戻ります。旧街道に面して蔵法寺の山門が構えています。

蔵法寺の山門

街道から緩やかにつづく参道を進むと山門が置かれています。当寺は江戸開幕前の慶長3年(1598)に曹洞宗の寺として開基され、その後、慶長8年(1603)には家康公から23石を賜り、寺勢は盛んとなりなんと寺領は街道を跨って遠州灘の海岸まで達していたといいます。江戸時代を通じて、将軍代替わりに際しては、寺の住職は朱印状書き換えのため江戸に参府したといいます。

本堂には海底から引き揚げられたという秘仏の「潮見観音(聖観音)」が祀られています。この潮見観音は60年に一度開帳されます。ご本堂の扁額は有栖川宮熾仁親王御筆です。(潮見大悲殿の書)

この潮見観音(聖観音)にまつわる話があります。その話は江戸時代の宝永4年(1707)10月4日に起こった宝永大地震と深く関係があります。尚、浜名湖の面積が広がり、今切を出現させた地震は戦国時代の明応7年(1498)に起こった明応地震です。
宝永の大地震が起こった当時の白須賀宿は現在の場所ではなく、海岸に近い平地に置かれていました。そんな平地に置かれた宿場の本陣に地震の前日の10月3日にたまたま宿泊していた大名家がいました。その大名家は備前岡山31万5千石の藩主の池田家宗家二代・綱政公です。

その池田綱政公の夢枕に潮見観音(聖観音)が現れ、このようにお告げになられました。「大危難あり、早々にこの地を去れ」
これを聞いた綱政公は夜が明けるのを待ちかね、10月4日の早朝に本陣を立ち、潮見坂を上りきった時に、突如として大地震が起きたのです。これが宝永の大地震です。この地震により白須賀宿は津波に流され、もちろん本陣も跡形もなく消え去りました。潮見観音(聖観音)のお告げによって九死に一生を得た綱政公は国元に戻った後、城内の慈眼堂に潮見観音(聖観音)を祀り、敬ったといいます。

池田宗家の藩主については、三代継政公と駿河原宿の松蔭寺(しょういんじ)の「白隠の擂鉢松」の話があります。ここでは詳しく述べませんが、備前岡山藩主の池田公は東海道の宿場にいろいろとエピソードを残すお家柄なのでしょうか。

蔵法寺本堂

また、海上安全を願う漁民の習わしとして、遠州灘を行き交う船は必ず帆を下げて観音様の名前を念じて通り過ぎることとされていたので、またの名を「帆下げ観音」とも呼ばれました。



それでは蔵法寺の境内を抜けて、まずは32番目の宿場町である「白須賀」へ向かうことにしましょう。

境内を抜け、当時の街道を彷彿させるように木々が鬱蒼と茂る坂道を少し登っていきましょう。勾配はそれほどキツクないのですが、潮見坂(600m)を登っていることを実感できます。勾配が緩やかになると、左手にちょっとした広場が現れます。

その広場の奥に目立たない存在で1本の松の木が植えられています。ここが「うないの松」でかつてここにあった大松の切り株と、この松をよんだ久内和光の歌碑があります。この場所も蔵法寺の境内です。※久内和光:当山第十六世嘯雲光均尚のこと。

うないの松

歌碑には次のような歌が刻まれています。
「いにしへにありきあらずは知らぬども あてかた人のうなひ松かぜ」
「うない」とは「うなじ」のことで、松があった位置が潮見坂の首にあたるところから名付けられました。

説明版によると「駿河守護であった今川義忠公(1436~1476)が応仁の乱の渦中、文明8年(1476)4月6日、遠江平定を終えて帰路に就く途中、ここ潮見坂(史実によると現在の静岡県の菊川で討たれたとなっている)で敵に討たれ、その亡骸を葬った(胴塚)上に植えられた松にて、昔から枝一本折っても「オコリ」をふるったと恐れられている故、ご注意下さい。」と書いてあります。尚、義忠は今川義元の祖父にあたり、駿河今川氏六代目の当主です。
※オコリ:間欠熱の一つ。隔日または毎日一定時間に発熱する病で、多くはマラリアを指します。

「うないの松」から50mほど進むと左手から道が合流してきます。これが新道です。この場所から下の方角を見ると海が見えるのですが、まさに「潮見」の場所といったところです。

潮見坂から遠州灘遠望
広重の白須賀景

余談ですが室町幕府六代将軍の義教は富士遊覧の旅で、この場所から富士を眺めたといいます。そしてこんな歌を詠んでいます。
「いまははや 願い満ちぬる 潮見坂 心惹れし 富士を眺めて」ほんとうに富士山がみえるのだろうか?

潮見坂は街道一の景勝地として数々の紀行文などにその風景が記されています。西国から江戸への道程では、初めて太平洋や富士山の見える場所として、旅人の詩情をくすぐった地です。安藤広重もこの絶景には関心を抱いたようで、遠州灘を背景にその一帯の風景を忠実に描いています。

さてこの潮見坂ですが、現在はそれほど急峻な坂道ではありません。しかし街道時代は旅人たちを悩ますかなりの登り坂だったようです。

そんな急な登り坂であるがゆえに、こんな伝説が残っています。それは「豆石伝説」と言われています。

この豆石伝説は2つのバージョンがあります。いずれの話も、この急峻な潮見の登り坂を上るにあたって「楽をしたい」と思う気持ちを表したものです。

《豆石伝説(まめいし)》その壱
昔、東海道での難所の1つといわれた潮見坂に、珍しい豆石というものがありました。そして、これを拾った人には幸福が訪れると伝えられ、街道を往来する多くの旅人は、潮見坂にやってくると、この豆石を探し求めたそうです。
ある時、わがままなお姫様が江戸から京への旅に出ました。しかし、東海道の長い道中のため、旅の疲れから途中で駄々をこねてはお供の者は、そのつどいろいろとなだめながら連れてまいりましたが、
潮見坂にさしかかると、長くて急な上り坂のため、いよいよ動こうとはしませんでした。
そんなお姫様に「この潮見坂には豆石というものがあります。そして、これを拾った人はみんな幸福になれるといわれています。どうかお姫様もよい人に巡り会って幸福になれますように、豆石をお探しになってみたらいかがでしょうか。」
と、お供の者が言うと、お姫様も、「そうか、これはなかなかおもしろい。それでは、わたしもそれを拾って幸福になりたいものだ。」
と、早速喜々として豆石を求めて坂を登ったと伝えられています。

《豆石伝説(まめいし)》その弐
ある時、初老の夫婦連れが京見物のために江戸から上ってきました。二人は長旅の疲れも出て、新居宿からは駕籠に乗って吉田宿(豊橋)まで行くつもりでした。ちょうど、潮見坂ののぼり口に来たところで、2つの駕籠が止まり地面に降ろされました。
2人は何事かと思い駕籠かきに尋ねました。
すると、「ここは白須賀宿の潮見坂といって、世にも珍しい豆石というものがあります。そして、この豆石を拾うとだれにも幸福がやってくるといわれます。そこで、お客さんにも幸せになっていただくよう、これから歩いて豆石を探していただきたいのです。」
と言い、坂上まで歩くことをすすめました。そこで、2人は「それなら私たちもそれを拾ってもっと幸せになってみたい」
と、手を取り合って坂をのぼっていきました。潮見坂は当時難所でしたので、駕籠かきもこのように豆石の話を客にすすめては、この坂で自分たちの疲れをいやしたといわれています。

合流地点からはそれほど急な坂道ではありません。そんな坂道を進むと、もう白須賀宿歴史拠点施設「おんやど白須賀」に到着です。街道の左手奥に仕舞屋風の建物が現れます。

おんやど白須賀

※東海道宿駅開設400年を記念して、白須賀宿の歴史と文化に関する知識を広め、資料の保存と活用を図るため設置されました。
●開館時間:10:00-16:00
●休館日:毎週月曜日
●入館料:無料
●☎053-579-1777
●トイレの設備あり

館内はそれほど広くはありませんが、ここ白須賀宿の歴史に関する資料を展示しています。当時の街道の様子を描いたジオラマや甲冑などが展示されています。
また、冷たいお茶が飲める無料のサーバーも備わっているので咽喉を潤すこともできます。





「おんやど白須賀」から少し歩くと右手に白須賀中学校が現れます。そして道を挟んで「潮見坂公園跡」という石碑が建っています。

>「潮見坂公園跡」

この場所は天正3年(1575)の長篠の戦いで勝利した信長が尾張に帰る時、家康公が茶亭を新築して信長をもてなしたところと伝えられています。

長篠の戦い:信長・家康軍と武田勝頼との戦い。信長軍は3000丁の鉄砲で三段撃ちを考案し武田の騎馬隊を大敗させました。勝頼はその後、天正10年(1582)に信長の甲州征伐で追い詰められ、天目山で自害しました。

また明治天皇が江戸(東京)で行幸される途中に休まれた場所です。現在は公園ではありませんが、大正13年4月に町民たちの勤労奉仕によりこの場所に公園が造られ、その時に明治天皇御聖跡の碑が建てられました。

その公園の跡地に白須賀中学校が置かれています。この場所には明治天皇御聖跡碑の他にたくさんの石碑が置かれているので「潮見坂上の石碑群」と呼ばれています。潮見坂を登ってくる途中に「チラッ」と見えた遠州灘の景観をここからも見えるはずですが……。

さあ!それではお江戸から数えて32番目の宿場町「白須賀」の宿内へと進んでいきましょう。



私たちは東から京へのぼる旅をつづけていますが、逆に東下りの旅人達は三河の国から遠江に入って最初の本格的な坂道を登り、潮見坂上から広々とした遠州灘を眺めながら、いよいよ東国が近づいてきたと実感したのではないでしょうか。
潮見坂を登りきると、道は緩やかな下り坂へと変ります。そして白須賀の東町へと入って行きます。

この東町あたりはまだ宿内ではありませんが、道筋には連子格子の家がところどころに並び、かつての宿場の面影を残しています。とはいえ、期待したほどの古い家並みは多くありません。

さてここ白須賀の宿場は江戸時代の宝永4年(1707)以前は潮見坂の上ではなく、坂下の元町に置かれていました。実はこの年に起こった宝永大地震で宿場は大津波に襲われ壊滅してしまい、翌年に再度津波の被害に遭わないよう、坂上の現在地に宿場が移設された歴史があります。

さらに道を下って行くと白須賀宿の東の入口にあたる曲尺手(かねんて)にさしかかります。曲尺手とは、直角に曲げられた道のことで、軍事的な役割を持つほか、大名行列同士が、道中かち合わないようにする役割も持っていました。 

曲尺手手前の右角に「鷲津停車場往還」と刻まれた道標があります。鷲津は新居町駅の次の駅のことです。この道は鷲津駅に繋がっているのでしょう。道標には駅までの距離が書いてあります。それでは白須賀宿の中心「伝馬町」へと進んでいきましょう。

白須賀宿は遠江国の西端に位置し、東海道五十三次の32番目の宿場です。お江戸日本橋から70里22町(約275km)の距離にあります。

宿場中心の伝馬町へ入っていきますが、宿場内を貫く街道の家並みには古さを感じさせるものはありません。それでもこれまでもいくつかの宿場町で見てきたような江戸時代の屋号を記した看板が家々に掲げられています。

天保14年(1843)に編纂の東海道宿村大概帳によると、白須賀宿は東西十四町十九間(約1.5km)で加宿である隣の境宿村を含めて、人口は約2704人、家数は613軒で、本陣は1軒、脇本陣も1軒、旅籠屋は27軒の中規模な宿場でした。

静かな雰囲気を漂わせる宿内を進んでいくと、僅かながら店舗が現れるエリアへと入ってきます。そんなエリアの一画にあるJA(農協)のはす向かいの美容院と隣のお屋敷の間に本陣跡の説明版が置かれています。白須賀宿の本陣職は大村庄左衛門で、本陣の規模も建坪が183坪、畳敷231畳、板敷51畳と大きなものでした。本陣跡の左隣が脇本陣跡です。
この辺りが白須賀宿の中心といった場所なのですが、かつての宿場を感じさせる歴史的な建造物は残っていません。

宿の中心を過ぎて白須賀駐在前信号交差点を渡ると、すぐの右側の家の角に「夏目甕麿(なつめみかまろ)邸址と加納諸平(かのうもろひら)の生誕地」の石碑が置かれています。夏目甕麿は伊勢松阪の本居宣長の門下に入り、国学の普及に努めたという人物です。加納諸平は、甕麿の長男で紀州和歌山の藩医の養子となり、晩年には紀州国学者の総裁となったという人物だそうです。



さらに道を進んで行くと、左側に「火防地」にさしかかります。宝永4年の大津波によって宿場が高台に移り、これ以降津波の心配はなくなったのですが、こんどは高台であるが故に、冬になると西風に悩まされます。

藁葺屋根の家々が並んでいたため、いったん火災になると、風にあおられ、あっというまに大火になってしまいます。その予防策として考案されたのが、「火防地」で宿場内には三地点、六ヶ所に設けられていました。

火防地跡

火防地は間口二間(3.6m)、奥行四間半(8.1m)の土地に、常緑樹の槙(まき)を10本ほど植えたといいます。

火防地の先の右側に「庚申堂」があります。天和元年(1681年)に立山長老に建てられましたが、現在の建物は天保12年(1841年)に再建されたものです。この地方にある庚申堂の中では最も大きく、堂々たる鬼瓦が目を引きます。
そしてお堂の前には「見ざる、聞かざる、言わざる」の3匹の猿がどういうわけだか2匹と1匹に分かれて像が置かれています。

庚申堂の先の右側にもかつて「火防地」があったことを示す小さな石柱が置かれています。



道筋を辿って白須賀宿の西端へと進んでいきましょう。現在は西町という地名になっていますが、このあたりは江戸時代には境村で白須賀宿同様、旅籠を営むものがいて、白須賀宿の加宿になっていました。

ということはまだ白須賀宿内をでていないのですが、街道時代には加宿と本宿が一体となって運営されていたのでしょう。そして少し歩くと右側の古い家の前に夢舞台東海道 境宿の道標が置かれています。

かつての境村にはこんな話が残っています。

《勝和餅(かちわもち)》
時は天正18年(1590)、太閤秀吉が小田原攻めへの途中、境宿(駿河と三河の国境あたり)の1軒の茶店に立ち寄りました。
茶店には93歳の爺と82歳の婆が暮らしていましたが、生業らしいことはしていなかったので、団子に「そてつの飴」を入れて餅にして、木の葉に包んで売っていました。この餅を秀吉に差し上げると「この餅は何というものか」と尋ねたといいます。
すると老夫婦は「これは、「せんく開餅」と申します。
その昔、後醍醐天皇の御時、赤松円心という御方がこの餅を戦場へお持ちなされたと承っております。「そてつの飴」が入っておりますから、腹持ちがよいと、先祖が書き残しております。
私どもも、これによって生命をつなぎ、長く安楽に暮らしております」と答えました。

秀吉は「これはめでたい餅であろうぞ。長命のめでたいことはよく判ったが、お前はよくも猿に似ていることよ」と、しきりにお笑いになりました。この年の八月に秀吉は勝ち合戦で帰国の折、またまたこの所に床几を御立てなされて、婆に御褒美をくださいました。
そして、「今度はこの餅を『猿がばばの勝和餅』と申せ」と仰せられました。

境宿は別名、番場(ばんば)と呼ばれていました。そのため「猿がばんば(番場)の勝和餅」とも言われています。そして境宿のお祭りの若衆のことを、今でも「勝和連」と呼んでいます。

戦国時代のことですから、白須賀の町は坂下にあった頃です。そう考えると、白須賀本宿から離れていた境宿にはこの茶屋1軒しかなかったのでしょう。秀吉の小田原征伐は、水軍を含めて総勢21万とも言われています。少なくとも数十万の軍勢がこの白須賀を通過して行ったことでしょう。尚、平成の世にあって、この勝和餅はもうありません。

尚、広重の東海道五十三次・二川之景は本来の二川宿ではなく、ここ「猿がばんば(番場)」の景色を描いているといわれています。

白須賀宿の西端に位置する境地区にはほんの少し古さを感じさせる家が残ってます。ただ江戸時代のものではないようです。そんな一画に「高札建場跡」の小さな石柱が置かれています。建場ということは、茶屋があったことを意味しています。

江戸時代の宝永4年(1707)の大津波以前は坂下の元白須賀が宿場だったので、この辺りに旅人達の休憩場所である「建場」が置かれていたと思われます。そして、坂上に宿場が所替えになってから、境村が加宿となってからは建場が廃止されたと思われます。

さあ!間もなく白須賀宿の西の端にさしかかります。旧街道筋は左手からの道と合流し、道幅が広くなります。そしてその道筋の左側に「村社・笠子神社」の参道入り口がありますが、この笠子神社の参道入り口辺りで白須賀宿が終わります。



歩き始めて3キロを過ぎて信号交差点を渡ると、小さな川にさしかかります。川幅は2間(3.6m)ほどの川で、架かる橋は川幅を若干上回る4mという小さな橋です。

そんな小さな川の名は「境川」と呼ばれています。古来、三河遠江の間で境界を巡って何度となく戦が繰り広げられていました。そしてこの二つの国の境となっているのが境川で現在でも静岡県と愛知県の県境をなしています。

県境の表示

それにしても静岡県は広かったですね。伊豆の国から駿河そして遠江と3国に跨って旅をしてきました。なんとその距離約45里(180キロ)もあったんです。昔の人もこの距離を5日から8日ほどかけて旅をしたのでしょう。しかし、その間には富士川、興津川、安倍川、大井川そして天竜川と大河が流れ、これらの川が止められれば更に日数が加わり、難儀をしたはずです。

そんなことを考えながら三河の国・現在の豊橋市へと入っていきましょう。境川橋を渡り、左下の畑の中を見ると、石仏が一体ぽつねんと立っています。祠もなく寂しげな雰囲気を漂わせています。

旧東海道筋は一里山東交差点で国道1号と合流し、ここから二川ガード南までの4キロにわたって国道1号に姿を変えています。一里山東交差点からすぐに一里山交差点にさしかかります。この辺りは江戸時代には立場茶屋があったところのようです。しかし現在、この場所には民家はなく、変化のない無味乾燥な景色が広がっています。そんな殺伐とした道筋の脇の小高い場所に崩れた祠の中に3体の馬頭観音が収まっています。

そしてちょっと左に目を移すと、一里塚の看板が置かれています。ということは馬頭観音が置かれている小高い場所こそが一里塚の盛り土だったわけです。そしてこの小高い盛り土を「一里山」と呼んでいるのです。この一里塚は「細谷一里塚」と呼ばれ、江戸から数えて71番目にあたります。

江戸時代にはこの一里塚や松並木は吉田藩(現豊橋)の管理下に置かれていました。ところが明治に入り、政府は一里塚を民間に払い下げたことで、南側は宅地に変ってしまいました。現在残る北側の塚(土盛り)は東西10m、南北14m、高さ3mの規模をもっていますが、当時の姿のままなのかは定かではありません。

さあ!ここから4キロ先まで国道1号線に沿って歩いていきましょう。幹線道路のためか、大型トラックがものすごいスピードで走り抜けていきます。そして街道を歩いていて目に入ってくるのは広々とした畑ばかりです。この辺りの畑ではキャベツ栽培がさかんに行われています。広々とした景色が広がる中を東海道の道筋は二川宿へと延びています。

街道時代も一里山から二川宿までは民家がまったくない松並木が延々と続いていた道筋だったようです。そんな寂しい道筋には盗賊がたびたび現れたといいます。このため江戸道中記には「夜道つつしむべし」と記述され、夜間の通行を慎むよう促していました。平成の世にあっても、この区間の両側には広々とした畑が広がり、店らしい店はほとんどありません。





マップ⑤、⑥、⑦と辿りマップ⑧へと入ってきます。
弥栄下、三ツ板を通り、豊清町茶屋ノ下、籠田(この信号手前にサークルKがあります)、三弥町交差点を過ぎると、左側に大きな工場が現れてきます。シンフォニア・テクノロジーという会社です。この工場を眺めながら歩いていると、右側には新幹線の線路が走っています。



長かった国道一号沿いの行程は二川ガード南交差点でやっと終わります。交差点を右折し、新幹線の高架下をくぐり、緩やかに左へカーブしていくと梅田川に架かる筋違橋にさしかかります。そしてその先の東海道線の踏切を越え、すぐ左に曲がると「二川宿」の町並みが見えてきます。お江戸から33番目の二川宿に到着です。

二川宿

二川宿
家数は328軒、本陣、脇本陣各1軒、人口1468人、33番目の宿場です。2ヶ所の枡形と当時の町割がほぼ残り、本陣や旅籠、商家が宿場の様子を今に伝えています。
尚、二川宿の宿内の距離は六町三十六間(約700m)、加宿の大岩町は五町四十間(約600m)の長さをもっていました。

宿場の成立は慶長6年(1601)の東海道整備と同時期ですが、その当時二川村は小さく、問屋業務を二川村だけで担うことが難しく、隣の大岩村と共同して行うことが幕府から命じられました。しかし共同業務とはいえ、大岩村とは1.3㌔も離れているため、幕府は正保元年(1644)、二川村を西に、大岩村を東に移動させて両村を接近させ、大岩村を二川宿の加宿とし大岩町に問屋を設けました。これが西の問屋といわれるもので、そして東問屋が西の問屋からさらに西よりに置かれました。
ということは西の問屋はもともとの二川宿の問屋場で、西の問屋場の西に置かれた東問屋は移動してきた大岩村の東問屋だったということなのではないでしょうか。

さあ!いよいよ二川宿です。宿内に入る手前に二川宿案内所があります。川口屋というタバコ屋さんですが、この建物の角に日本橋から72番目の一里塚跡が置かれています。

川口屋
一里塚跡
一里塚跡

一里塚から少し先を右折すると曹洞宗の十王院というお寺があります。天正13年(1583)に私庵として始まり、十王堂とも念仏堂とも呼ばれています。境内には寛永19年(1632)に建てられた、二川新町開山の石碑があります。碑文には「後藤源右衛門は二川宿開宿当時の本陣と問屋を勤めた人物で、寺を開いた一翁善得はその祖である」と書かれています。

そして街道を進んで行くと、右側に南無妙法蓮華経と書かれた大きな石碑が現れます。
日蓮宗の妙泉寺の入口です。当寺は貞和年間(1345~50)に日台上人が建てた小庵でしたが、寛永~明暦(1624~58)頃観心院の日意上人が信徒の助力を得て再興し、さらに万治3年(1660)現在地に移転して山号を延龍山と改めたといわれています。
街道から少し奥まったところに堂宇を構えるこの寺の境内には芭蕉の句碑が置かれています。
紫陽花塚と呼ばれるもので、寛政10年(1798)の建立です。句碑には「阿ちさゐや藪を小庭の別座敷」と刻まれています。
※この句は元禄7年(1694)に江戸深川で詠んだものです。

この辺りの街道沿いには間口が狭く、奥行きのある古い家が処々に散見されます。お江戸日本橋を出立して、これまで32の宿場を辿ってきましたが、かつての宿場の雰囲気を色濃く残している光景をほとんど見ていません。
私たちはここ二川で宿場らしい雰囲気が漂う家並みにやっと出会えることができます。二川では街道時代の歴史的建造物の保全、修復、復元に力を入れており、商家、旅籠、本陣の建物が当時の姿のまま残っています。
街道沿いの家々の玄関先には白地で「二川」と染め抜かれた暖簾と一輪挿しの花が飾られて、現代の旅人たちの目を楽しませてくれます。ほんの少し街道時代にタイムスリップしたかのような気持ちになるかもしれません。

そんな光景を眺めながら進むと、道の右側に白壁に囲まれた二川八幡神社の鳥居が現れます。

当社は鎌倉時代の永仁3年(1195)に、鶴岡八幡宮より勧請し創建されたと伝えられています。その当時、毎年八月十日に行われていた湯立神事は、幕府から薪が下付され、幕府役人をはじめ多くの人々が集まり賑わったといます。(現在は十月にこの神事が行われているようです。)



八幡神社の鳥居を過ぎて小さな川を渡ると二川宿の入口にあたる曲尺手(かねんて)にさしかかります。道が折れ曲がる右角に古めかしい建物が連なっています。この建物は江戸時代から味噌やたまり醤油を造ってきた商家で、今でも「赤味噌」を製造販売する「東駒屋(商家駒屋)」です。この商家駒屋の脇には二川宿を南北につなぐ古道(瀬古道)があります。非常に趣のある古道で時間の流れが止まったような錯覚すら覚えます。

商家駒屋平面図

商家駒屋は二川宿で商家を営むかたわら、宿の問屋役や名主を務めた田村家の遺構です。平成15年に豊橋市指定有形文化財に指定され、その後、平成24年から26年の3年間で駒屋のすべての建物を江戸時代から大正の姿に修復・復元工事を行い、平成27年11月1日より一般公開されています。
◆開館時間:09:00~17:00
◆休館日:月曜日(祝日の場合は開館し、翌平日休館・年末年始(12月29日~1月1日)
◆☎:0532-41-6065

それでは二川本陣資料館へと進んでいきましょう。
その本陣資料館の東側に隣接して建つのが豊橋市指定有形文化財の旅籠屋「清明屋」です。清明屋は江戸時代の後期寛政年間(1789-1801)頃に開業した旅籠屋で、代々八郎兵衛を名乗っていました。
現在の建物は文化14年(1817)に建てられた旅籠屋遺構で、主屋(みせの間)・ウチニワ・繋ぎ棟・奥座敷が「うなぎの寝床」のように細長く連なっています。本陣のすぐ隣にあったことから、大名行列が本陣に宿泊した際には、家老など上級武士の宿泊所ともなりました。

清明屋平面図

二川本陣
二川本陣

私たちはこれまで武蔵、相模、伊豆、駿河、遠江と辿ってきましたが、各宿場で本格的な本陣の遺構建築を見たことがありませんでした。脇本陣は舞坂で見学はしましたが本陣遺構の見学はここ二川が初めてなのです。

二川宿本陣は、文化4年(1807)から明治3年(1870)まで本陣職を勤めた馬場家の遺構で、改修復元工事により主屋・玄関棟・書院棟・土蔵等を江戸時代の姿にもどし、大名や公家など貴人の宿舎であった建物を一般公開しています。
旧本陣のご当主馬場八平三氏は、昭和60年に全国的にも貴重な歴史的建造物であるこの本陣遺構の永久保存と活用を願って、屋敷地を豊橋市に寄付しました。市ではこれをうけて同62年に二川宿本陣を市史跡に指定し、翌年から改修復元工事に着手し、同時に二川宿ならびに近世の交通に関する資料を展示する資料館を建設し、二川宿本陣資料館として平成3年8月1日に開館しました。

本陣平面図



本陣内
本陣内の展示
本陣内の展示
本陣玄関
本陣の付属施設

一連の建物が完全な形で保存されている貴重な建築物です。3年にわたり全解体・改修復元工事を行い、間取図の残る江戸時代末期の姿にもどし、平成17年から一般公開されています。

尚、江戸時代に公家、大名、幕府役人などが旅の途中に宿泊休憩した専用施設を本陣といいますが、現存するものは非常に少なく、東海道ではここ二川宿と草津宿のみです

●入館料:一般400(320)円、小中高生100(80)円 ( )内は30名以上の団体
●開館時間:09:00-17:00(ただし入館は16:30まで)
●休館日:月曜日(ただし、月曜日が祝日または振替休日の場合はその翌日)
●接待茶屋:江戸情緒あふれる本陣主屋座敷にて、有料で抹茶の接待が受けられます。
 1服(菓子付き)300円
 *毎週土・日曜日および祝日(振替休日を含む)午前10時30分~午後4時
☎0532-41-8580

二川宿本陣からほんの少し進むと道が若干折れ曲がった場所にさしかかります。ここが2つめの枡形です。この曲尺手の左側に高札場跡の石碑が置かれています。そして二川宿の西の出入口になっていた場所です。ここからが加宿大岩町に入ります。
大岩地区に入ると、古い家並みはほとんど現れなくなります。

曲尺手から右手にのびる道を進むと大岩寺が山門を構えています。曹洞宗の寺院で千手観音がご本尊です。もともとは岩屋山麓に堂宇を構え岩屋観音に奉仕した六坊の一つだったのですが、正保元年(1644)の二川移転とともに現在地に移転してきました。

枡形の右側の民家の前には西問屋場跡の石柱が建っています。この問屋場は江戸時代に大岩町の方にあったものです。

その先の四つ角にある交番の前には郷倉跡の石碑が置かれています。四つ角を右へ進むと突き当りに大岩神明宮があります。
神明宮は文武天皇弐年(698)に、岩屋山南に勧請したのが始めといわれ、正保元年(1644)の大岩村移転とともにここに遷座してきました。境内は広く鬱蒼とした木々に覆われています。

四つ角から街道を進むと、左側の「おざき」という店の前に立場茶屋の石碑が置かれていますが、本陣からわずか700mしか離れていないのに立場が置かれていたのでしょうか?



ここから道幅が少し広がり、ほんの僅かな距離でJR二川駅前に到着します。白須賀の潮見坂下の蔵法寺から9.3キロを完歩して第一日目を終了します。

私本東海道五十三次道中記 第27回 第2日目 二川宿駅前から豊橋のJR小坂井駅まで
私本東海道五十三次道中記 第27回 第3日目 JR小坂井駅から御油そして赤坂へ

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木曽路十五宿街道めぐり (其の二十) 落合宿の東木戸~中津川宿

2015年08月21日 16時44分59秒 | 木曽路十五宿街道めぐり
馬籠宿からほんの僅かな距離でお江戸から44番目の宿場町である「落合宿」に到着しました。
旧街道は7号線によっていったん分断されてしまいますが、道筋は7号線を渡ってそのまま落合宿内へとのびています。
旧街道が7号線と合流する場所には一応、高札場跡の石柱が置かれています。ということはこの辺りが落合宿の東のはずれなのだろう。



7号線から分岐するように街道は落合宿内へとのびていきますが、宿内に入るとすぐに道筋は鋭角に右へ折れ曲がります。
ここが落合宿の江戸方の桝形の跡です。そんな桝形の角に秋葉常夜燈が置かれています。秋葉様を祀っているということは、防火を祈願してのことなのですが、当落合宿もご多分に漏れず、江戸時代の文化元年(1804)と文化12年(1815)に大火に遭っています。

天保14年(1843)の記録によると、落合宿は宿内の距離がわずか三町三十五間(約390m)で、人口370人、家数75軒、本陣1、脇本陣1、旅籠14軒で、美濃の東の玄関口としての役割を担っていました。
宿内は京都側から下町、中町、上町、横町に分かれ、中町には井口家が経営した本陣、その向かい側に塚田家が経営した脇本陣が置かれていました。

さあ!落合宿内へと足を踏み入れましょう。前述の通り、宿内の距離はわずか390mしかありません。それこそあっという間に通り過ぎてしまうほどの小ささです。
宿内に入るとすぐ右手に立派な門構えの屋敷が現れます。ここが落合宿の本陣だった場所です。
門前に「落合宿本陣」「明治天皇落合御小休所」の石柱が置かれています。
この門は本陣門と呼ばれていますが、文化元年(1804)の大火後、加賀の前田家から贈られたものといいます。

落合宿本陣

落合宿本陣井口家は代々本陣を勤めると共に、問屋・庄屋をも兼務し、宿の業務と運営を行う指導的な家柄で苗字帯刀を許される待遇を受けていました。明治13年(1880)に建物は大改修されていますが、正門を始め上段の間、小姓の間等が今もそのまま保存されています。
明治天皇御巡幸、また和宮御降嫁に際し、当本陣で御小休されています。

※本陣の建物は私邸のため、一般公開されていません。門も常に閉ざされているため、外観のみの見学です。

本陣の向かい側になにやら大きな釜が鎮座しています。この釜は「助け合い大釜」と呼ばれています。文久元年(1861)、皇女和宮が江戸に下向する際、4日間で約26,000人が落合宿を利用し、多くの住民が助け合いながら利用者の接待をした故事から、この地に大釜を設置しました。皇女和宮降嫁行列は総勢3万人、50キロに及んだと言われています。
尚、この大釜は容量1000リトッル、口径約1.5mで、元々「寒天」の原料である天草を煮る時に利用したものです。

大釜

わずか390mの宿内には、街道時代の面影はほとんど残っていません。ここが落合宿であったことを知らなければ、そのまま通り過ぎてしまうほど見るべきものが残っていません。
宿内進み、ほぼはずれにさしかかるころ、右手に1本の松が現れます。



そしてその傍らにお寺の山門が置かれています。お寺は曹洞宗の善昌寺(ぜんしょうじ)といいます。創建は江戸初期の慶長5年(1600)の頃。ちょうど落合宿の桝形に位置して、あの井口本陣の上段の間から当寺まで抜け穴が掘られていました。

また、落合宿は小さな宿場であったため、旅籠が満員になると当寺は宿方としても利用されていました。明治天皇が御巡幸の際に、境内の井戸の水が御前水として献上されました。
門前の松は推定樹齢450年と言われていますが、幹の太さから判断するとちょっと疑問に思われます。
いずれにしても、ちょうど桝形に位置しているため、宿場町の入口の目印になっていました。そして善昌寺の山門に覆いかぶさっていたことから「門冠の松(もんかぶりのまつ)」と呼ばれています。

旧街道の道筋は「門冠の松」が立つ場所から大きく左へ折れ曲がります。ここが宿のはずれの「京方の桝形」です。
あっという間に落合の宿場を通りすぎてしまいました。それでは次の宿場町である中津川宿へ向けて旅をすすめることにしましょう。



落合宿の京方の桝形を過ぎると、街道の道筋は上りの坂道となり19号線へと向かいます。「おがらん橋」で19号線を渡ると
「おがらん様」こと落合五郎兼行(おちあいごろうかねゆき)の館跡と言われる場所にさしかかります。
ここでいう「おがらん」とは伽藍(大きな寺院)という意味のようですが、本来の意味は定かではありません。
また、落合五郎兼行(おちあいごろうかねゆき)の館跡と言われていますが、発掘調査からもその痕跡は見つからず、確証はないようです。また落合宿の落合は彼の姓を地名にしたのかもわかっていません。
いずれにしてもこの地で古くから伝わっている場所なのでしょう?

尚、落合五郎兼行は木曽義仲の家臣です。兼行という名前から義仲の四天王に列せられている「今井兼平」「樋口兼光」とは兄弟でしょう。

おがらん橋を渡った右手のちょっとした高台に「おがらん四社」が祠を構えています。
石段を上がると、一応境内となりますが、その奥に小さな社が構えています。
おがらん四社とは愛宕神社、山之神神社、天神社、落合五郎兼行神社を指すようです。



それではおがらん四社を辞して、街道を進んでいきましょう。旧街道は19号線によってその道筋が大きく変わってしまっているようです。住宅街の中をクネクネを曲がりながら、「たつ家」の前まで進んでいきましょう。ここでトンネルをくぐって19号線の反対側へ移動します。

私たちは馬籠宿から坂を下り、下りほぼ山を下りきったと思っていたのですが、ここから中津川宿に至るまで、その道筋にはいくつかのアップダウンが待ち構えています。そんな上りの行程が19号のトンネルをくぐると、すぐに始まります。
もう上り坂はないと思っていた体にはちょっとキツイかもしれない急勾配の坂道です。この坂道を「与坂」と呼んでいます。

息を切らせながら与坂を上りつめると道は平坦となり、ちょっと進むと街道の右手に古めかしい家屋が現れます。その家の前に「与坂立場茶屋跡」の案内板が置かれています。

与坂立場茶屋跡

この茶屋は越前屋という屋号の店が営んでいたようです。そしてここの名物が「三文餅」であったので「与坂の三文餅」として落合名物の一つとなり、越前屋の裏手の井戸からは黄金が湧き出ると言われるほど、繁盛したそうです。



与坂立場跡をすぎると、道筋はやおら急な下り坂へと変じ、街道の両側には鬱蒼とした林がしばらくつづきます。
林の中の急坂をすぎると、周りが開けます。急坂はゆるやかな下り坂に変り、この先で三五沢を渡ります。橋を渡った辺りに落合村と中津川の境界がありました。

三五沢を渡ると街道の左側のちょっとした高台にお江戸から84番目(約330㎞)の子野(この)の一里塚跡の石柱が置かれています。
西側の塚はすでに消失し、東側の塚だけが、それらしき姿で残っています。

子野の一里塚跡

子野の一里塚を過ぎると、道筋は再び急な上り坂へと変ります。もう上り坂は終わってほしいとおもいつつ急坂を上りきると、街道右手に「覚明神社」が社殿を構えています。
覚明行者は御嶽信仰を広めた人で、鳥居峠にも覚明の碑が建っていました。
覚明は天明5年(1785)に木曽御嶽山を開山するためにこの地を通り、今ある神社の場所にあった茶屋に泊まったと伝えられています。
当社はそんな木曽御嶽講の開祖である覚明を祀っています。

覚明神社を過ぎると、道筋は一転し下り坂へと変り、子野の集落へと入っていきます。途中、街道左のちょっとした広場に公共トイレ「快心庵」があります。街道を意識したトイレの建物で、格子窓が付けられています。「快心」とはトイレだけに気持ちを心地よくするという意味なのでしょう道筋は更に下り、この先で子野川に架かる「このはし」を渡ります。



子野の集落を抜けると、街道左側に枝垂れ桜の大木に守られるように石仏群が置かれています。

石仏群
枝垂れ桜の大木

案内板には「中山道を通る旅人の心を和ませたといわれるしだれ桜の名木が境内にあり、街道まで枝を延びて趣がある。無縁の石仏を集めたところと伝えられ、元禄七年(1699)の庚申碑や地蔵、観音像等が数多く祀られている。文政五年(1822)の「南無阿弥陀仏」と独特な文字で書かれた高さ約2mの 徳本行者の名号石があり、生き仏といわれた彼が文政年間この地に滞在して「称名念仏」を布教した。」とあります。

ちなみに枝垂れ桜の樹齢は定かではありませんが、まさに街道脇に目立つ存在で立っています。桜の季節であればきっと見事な花を咲かせるのでしょう。この枝垂れ桜の木の前に民家が1軒ありますが、満開の花が咲くころはこのお宅が独り占めの眺めを楽しんでいるのでしょうか?

枝垂れ桜と石仏群を後にして、街道を進んで行くと、その先で地蔵堂川に架かる地蔵堂橋を渡ります。
橋を渡り、僅かな距離の上り坂を上がって行くと、19号線に出てきます。旧街道は19号線の向こう側につづいています。
そんな道筋へは19号線の下に掘られたトンネルを抜けて反対側へ移動します。
トンネルを抜けると「中山道上金界隈」に入ります。江戸時代には上金村と呼ばれており、寛政7年(1795)頃には家数18戸、人口85人の小さな集落でした。 
19号を渡った上金地区に入ると、道筋の両側は住宅街へと変ります。中津川市内まではそれほどの距離ではありません。ちょっとした郊外のベッドタウンといった雰囲気です。
道筋はほぼ平坦となり、このまま中津川市内へと向かっているのでしょうか?

そんな道筋を進んで行くと、街道右手の広場の一画に「尾州白木改番所跡」の石柱が置かれています。

尾州白木改番所跡

白木改番所とはこの地を治めた尾張藩が木曽五木の取り締まりのために置いた役所で、白木とは桧などの皮を削った木地のままの材木のことで、屋根板や天井板、桶板にするため、長さを1m半位に割ったものです。村人達は木曽五木の植林や伐採の仕事や桧細工で生活していたのですが、彼らは小さな木切でも横流しされないように常に監視されていたのです。



「尾州白木改番所跡」をすぎると、もう中津川の宿場は目と鼻の先です。街道の左側に旭ヶ丘公園が広がっています。
この公園の先で街道は石畳が敷かれた「つづら折り」の急坂となります。この坂は「茶屋坂」と呼ばれ、中津川宿の江戸方はずれに置かれた高札場まで下っていきます。

中津川高札場跡

この茶屋坂は国道によって途中分断されてしまっていますが、街道時代はつづら折りのキツイ坂道ではなかったのではないでしょうか?

つづら折りの坂を下りきり、国道に沿って歩道橋まで進んでいきます。歩道橋を渡り、石段を下りると復元された高札場が私たちを迎えてくれます。

中津川宿へと入って行きます。宿場跡は中津川の中心部に位置しています。とはいっても宿場跡は地方のよくある商店街といった場所にあります。宿場は江戸方から淀川町・新町・本町・横町・下町と続き、新町と本町の境に四ツ目川が流れています。鉤の手に折れ曲がった横町辺りの家並みに宿場時代の面影を残しています。

中津川宿は天保14年(1843)当時の宿内の距離は高札場から中津川橋まで南北10町7間(約1102m)、人口928人、家数228軒、本陣1、脇本陣1、旅籠29軒。本町は宿場の中心で本陣を務めた市岡家や脇本陣の森家、問屋や庄屋の屋敷がありました。この本町を挟んで江戸方筋に商家、京方筋には旅籠屋や馬宿、茶屋等が多く軒を連ねていたといいます。

私たちは今回の旅では中津川の宿内の見学はせずに、そのままバスが待つ「にぎわい広場」へと向かいます。

本日の歩行距離は落合宿の江戸方から「にぎわい広場」までの4.2キロの行程です。

あっという間に終わってしまった落合宿から中津川宿の徒歩区間でした。私たちは中津川宿内の散策を割愛し、この後、JR中央本線に乗って恵那へ向かい、ついでに恵那峡のクルーズを楽しむことにしました。

クルーズ船着き場
ガイド仲間
湖岸の景1
湖岸の景2
湖岸の景3

木曽路十五宿街道めぐり(其の一)塩尻~洗馬
木曽路十五宿街道めぐり(其の二)洗馬~本山
木曽路十五宿街道めぐり(其の三)本山~日出塩駅
木曽路十五宿街道めぐり(其の四)日出塩駅~贄川(にえかわ)
木曽路十五宿街道めぐり(其の五)贄川~漆の里「平沢」
木曽路十五宿街道めぐり(其の六)漆の里「平沢」~奈良井
木曽路十五宿街道めぐり(其の七)奈良井~鳥居峠~藪原
木曽路十五宿街道めぐり(其の八)藪原~宮ノ越
木曽路十五宿街道めぐり(其の九)宮ノ越~木曽福島
木曽路十五宿街道めぐり(其の十)木曽福島~上松
木曽路十五宿街道めぐり(其の十一)上松~寝覚の床
木曽路十五宿街道めぐり(其の十二)寝覚の床~倉本駅
木曽路十五宿街道めぐり(其の十三)倉本駅前~須原宿
木曽路十五宿街道めぐり(其の十四)須原宿~道の駅・大桑
木曽路十五宿街道めぐり(其の十五)道の駅・大桑~野尻宿
木曽路十五宿街道めぐり(其の十六)野尻宿~三留野宿~南木曽
木曽路十五宿街道めぐり(其の十七)南木曽~妻籠峠~妻籠宿
木曽路十五宿街道めぐり(其の十八)妻籠宿~馬籠峠~馬籠宿
木曽路十五宿街道めぐり(其の十九)馬籠宿~落合宿の東木戸



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木曽路十五宿街道めぐり (其の十九) 馬籠宿~落合宿の東木戸

2015年08月21日 15時44分41秒 | 木曽路十五宿街道めぐり
《夜明け前から》
『馬籠は木曽十一宿の一つで、この長い渓谷の尽きたところにある。西よりする木曽路の最初の入口にあたる。そこは美濃境にも近い。美濃方面から十曲峠に添うて、曲りくねった山坂を攀じ登って来るものは、高い峠の上の位置にこの宿を見つける。街道の両側には一段ずつ石垣を築いてその上に民家を建てたようなところで、風雪を凌ぐための石を載せた板屋根がその左右に並んでいる。宿場らしい高札の立つところを中心に、本陣、問屋、年寄、伝馬役、定歩行役、水役、七里役(飛脚)などより成る百軒ばかりの家々が主な部分で、まだその他に宿内の控えとなっている小名の家数を加えると六十軒ばかりの民家を数える。荒町、みつや、横手、中のかのや、岩田、峠などのがそれだ。そこの宿はずれでは狸の膏薬を売る。名物栗こわめしの看板を軒に掛けて、往来の客を待つ御休処もある。山の中とは言いながら、広い空は恵那山の麓の方にひらけて、美濃の平野を望むことの出来るような位置にもある。何となく西の空気も通って来るようなところだ。』

前回は木曽路を代表する人気の宿場町である妻籠宿から木曽の山間を抜けて、ここ馬籠宿の北の入口へ到着しました。
第4回目の木曽路十五宿街道めぐりはここ馬籠宿の北の木戸から始まります。私たちが到着するバス駐車場から北の木戸まではほんの僅かな距離です。

馬籠宿高札場

北側の木戸に立つと、街道筋は南へ向かってそのまま下方へとのびています。馬籠宿が坂道に沿って造られた宿場であることが一目瞭然でわかります。そして家並みは急峻な山の尾根ずたいに造られ、その家々は街道の両側に石垣を築いた上に造られました。
そんな特徴的な宿場の造りは、坂下から火災になると、火は坂道を伝い上へ上へと燃え広がり、手の施しようがなかったといいます。馬籠宿の記録によると、幕末から明治にかけての85年間に6回の大火に見舞われ、宿内の250戸が焼失したとあります。また、明治28年と大正4年の大火で古い町並みのすべてを焼失してしまったといいます。

そして度重なる大火は宿場を疲弊させ、かつての賑やかさは失われていきます。さらに明治に入り、旧中山道とは別に国道が木曽川にそって造られ、更に1912年に中央本線が開通するのですが、馬籠には通らなかったのです。
こんなことで馬籠宿は陸の孤島となり、これといった産業もない馬籠宿は更に疲弊していきます。



そんな状況であった馬籠宿は、妻籠宿ほどの趣ある宿場町といった風情はありませんが、かつての賑やかさを取り戻したかのように、木曽路を代表する宿場町としての勢いを見せています。

馬籠宿家並
馬籠宿家並



どうして馬籠がこのように変貌できたのか、というと、昭和43年に長野県は明治100年記念事業の一環として、江戸末期の宿場の姿を再現するために、馬籠宿に限って当初、29戸の家の改築をはじめ、その後、60戸を加えて改築を完了しました。

まあ、言ってみれば昭和に造った宿場町のテーマパークでしょう。ほんの僅かですが100年前の建物を修理しているものもあるのですが、そのほとんどは昭和に時代のものです。

こんなもくろみが当り、なぜか木曽十一宿の中でも断トツで人気があるんですね。
加えて、昭和43年当時は長野県に属していたのですが、平成の大合併の際には長野県の恩義を忘れて、馬籠は岐阜県中津川市への統合を決めています。

お江戸日本橋から数えて43番目の宿場町である馬籠宿は天保14年(1843)の記録によると、宿内の距離は三町三十三間(約387m)で、人口717人、家数69軒、本陣1、脇本陣1、旅籠18軒が宿内に沿って並んでいました。尚、本陣は藤村の生家です。

宿内を貫く道筋はテーマパークらしく綺麗に整備され、その道筋の両側にはほぼ途切れることなくそれらしい家並みがつづきます。
道筋は緩やかな坂道ですが、これを下から辿ってきたら、結構キツイのではないかと思うほど坂道がつつきます。妻籠宿に比較すると、飲食店やお土産屋が目立ちます。
そんな宿内を辿り、坂道を下って行きます。

まず道筋の右手奥に構えているのが脇本陣です。現在は脇本陣資料館になっています。
馬籠宿の脇本陣を代々務めたのは「蜂谷家」で、当家は八幡屋の屋号で造り酒屋を営んでいました。

脇本陣記念館
脇本陣記念館

脇本陣跡からほんの少し坂を下った右側に黒塗りの冠木門が現れます。ここがかつての馬籠宿の本陣があった場所です。現在は藤村記念館になっています。

藤村記念館
本陣跡(藤村記念館)
本陣跡(藤村記念館)

前述のようにここ馬籠では何度も大火にあっています。実はここ本陣の建物は明治28年(1895)の大火でその大部分を焼失してしまいました。唯一、焼失を免れた祖父母の隠居場所だった建物が残されています。藤村はこの建物の2階で平田派の国学者であった父親から四書五経の素読を受けたといいます。

馬籠宿本陣を代々務めた島崎家は島崎藤村の生家であり、藤村の父正樹が最後の当主でした。「夜明け前」の主人公、青山半蔵はこの父をモデルにして書かれたもので、時代に翻弄させられながらも、日本の夜明けを信じて生きた一庄屋の姿を通して、近代日本へと移り変わる過渡期を描いています。明治維新とはいったい庶民にとって何だったのか、考えさせられる藤村晩年の名作です。

記念館の隣にある大黒屋は藤村が幼いころに、淡い恋心を抱いた「おゆうさん」の家です。大黒屋11代目の大脇兵右衛門が44年間書きつづけた日記が夜明け前の構想のもとになったといわれ、大黒屋は「伏見屋」という名前で登場します。

また宿内には周囲の景観に溶け込むように造られた郵便局が目立たない存在で佇んでいます。局の傍らには懐かしい郵便ポストが置かれています。

郵便局
大黒屋
馬籠宿家並み
馬籠宿家並み
馬籠宿家並み

緩やかな坂がつづく馬籠宿内を下って行きましょう。右手に馬籠宿ではかなり老舗の但馬屋が梲(うだつ)を誇らしげに構えています。

但馬屋
但馬屋

そして左手に現れるのが宿の宿役人を務めていた清水屋を営んでいた原家です。原家は築100年を超える母屋が残っています。

清水屋
清水屋

右手に水車が現れるまもなく馬籠宿の桝形です。

水車

その桝形へ降りていく途中に緩やかなカーブを描く道筋にさしかかります。ここから恵那山を遠望できます。そして宿の南側に位置する「車屋坂」を下りると、馬籠宿は終わります。



車屋坂を下りきると、旧街道は7号線と合流します。旧街道はこの7号線を渡って真っ直ぐ延びています。その7号線との交差点角にドライブイン(駐車場)である馬籠館があります。 

馬籠館

大きな駐車場にはたくさんの大型バスが停まり、多くの観光客がこの馬籠館を起点に坂道を上っているようです。
賑やかな宿場の佇まいはここまでで、この先の落合宿方向へはほとんどの観光客が足を踏み入れていないようです。

馬籠宿を出てしまうと、多くの人出で賑わっていた様子とうってかわって、静かな街道の風景が現れます。
妻籠から馬籠にいたる道程では多くの外国人がバックパックを背負って歩いていたのですが、馬籠から落合そして中津川への道筋は現代の旅人とすれ違うことはないのでは……。

道筋はゆるやかな下り坂がつづき、街道の左手には恵那山の姿を見ることができます。
まもなくすると小さな集落にさしかかります。横屋集落です。するとこれまでの下りの道筋からゆるやかな上り坂に変ります。

そして道脇に現れるのが、馬籠城址の石碑です。城址は集落の中の「竹藪」の中のようですが、小さな祠が一つ置かれているだけです。戦国時代の小牧長久手の戦いの折、豊臣方の島崎重通(藤村の祖先)がこの辺りを守ったのですが、徳川方の大軍が迫るや恐れをなして妻籠城内へ逃れたといいます。そのおかげで馬籠の集落は戦禍を免れたと伝えられています。城といってもおそらく砦程度のものだったのではないでしょうか?

かつてあった馬籠城址はゆるやかな坂道です。この坂は「丸山の坂」と呼ばれ、このあたりは丸山又は城山という名で呼ばれています。

馬籠城址と旧街道を挟んで、ほぼ向かい側にこんもりとした鎮守の杜があります。ここが諏訪神社です。

諏訪神社の鳥居
諏訪神社

旧街道に面して諏訪神社の参道入口があります。鳥居をくぐると参道が森の中へのびています。杉並木が参道脇に並んでいます。参道はその先で左に大きく曲がり、奥まった場所に木々に覆われて社殿が構えています。

参道入口に「島崎正樹翁碑」が置かれています。藤村の父「正樹」は夜明け前の主人公である青山半蔵のモデルです。

島崎正樹翁碑



諏訪神社から再び旧街道へ戻り、旅をつづけていきましょう。
旧街道の右側には畑が広がり、長閑な田園風景が広がってきます。
前方には木曽路のような山並みはありません。その代わりに美濃地方の広い台地が広がるだけです。遥か遠くに見える山は「笠置山」です。
そして横屋集落の次に荒町の集落そして、鍛冶屋前、中のかやの小さな集落を過ぎると十曲峠の頂にある「新茶屋」に到着です。





馬籠宿の北木戸から歩き始めて、ほぼ2.5キロ地点に達する場所にあるのが「新茶屋」です。
新茶屋と呼ばれている所以は江戸末期まではここから数百メートル南にあった立場茶屋が現在の場所に移転してきたためです。
ここでは「わらび餅」が名物だったと言われています。この場所には江戸から数えて83番目(約326キロ)の一里塚が置かれていました。一里塚は本来の形は失われてはいるものの現存しています。それぞれの塚の上には榎と松が植樹されています。

一里塚

更に私たちが日出塩の先で見た「これより南 木曽路」の石碑が置かれていたと同じように、ここには「これより北 木曽路」の石碑が置かれています。私たちはようやく木曽路の南端までやってきたことになります。
そして街道の路傍に「信濃 美濃」の国境を示す石柱が1本置かれています。

これより北 木曽路
「信濃 美濃」の国境

また、街道の左側の目立たない場所には芭蕉の句碑がポツンと置かれています。

芭蕉句碑

碑面には「送られつ 送りつ果ては 木曾の龝」と刻まれています。
「夜明け前」の中では伏見屋の金兵衛が建立したことになっています。
「龝」という字は「あき」と読みますが、この字を巡って夜明け前の中で金兵衛と半蔵の父吉左衛門が次のようなやり取りをしています。
「これは達者に書いてある。」
「でも、この秋という字がわたしはすこし気に入らん。禾(のぎ)へんがくずして書いてあって、それにつくりが龜(かめ)でしょう。」
「こういう書き方もありますサ。」
「どうもこれでは木曾の蠅(はえ)としか読めない。」

十曲峠(つづらおれとうげ)の頂には何から何まで揃っているという感じで、さまざまな史跡を見ることができます。
馬籠宿からここまでは緩やかな道筋を辿ってきました。十曲峠という名前が付いているのですが、峠まで上ってきたという感覚もありません。
しかし峠に上ってくれば、あとは下るだけです。
さあ!これから先は街道の風情を十分に味わえる「石畳道」の坂道をひたすら下りていくことにしましょう。

この石畳道を「落合の石畳」と呼ばれる十曲峠越えの中山道です。江戸時代の石畳が切れぎれ(3か所/70.8 m)に残っていたものを、近年になって失われていた部分に石畳を敷いて繋ぎ合わせ、全長840mの石畳の道を復元させました。本格的な石畳の道は古の中山道を存分に堪能できるすばらしい道筋です。

深い杉林の中に穿かれた石畳の道は階段状でなく、スロープ状なのでむしろ下りやすく感じます。江戸時代の石畳が残っているらしいのですが、その継ぎ目がよく分かりません。
比較的小さな石と大きな石の組み合わせの道筋が古い時代のものらしいのですが……。

石畳の道は新茶屋から右手に分岐するように始まります。この分岐する石畳の道は平成17年に山口村と中津川市の合併記念事業として120mにわたって整備されたもので、前述の840mに追加されたことで全長1キロ弱の石畳道を歩くことになります。
十曲と言われているくらいで、道筋はクネクネと曲がっています。
私たちは落合宿へ向けて石畳は下り坂となりますが、もし反対に上りとなると結構キツイ坂です。



















約1キロにわたる石畳道が終わりに近づくと、前方がにわかに明るくなります。ということは再び現代の舗装道路が私たちをまっています。そして無理矢理、現代世界に引き戻されるような感じさえします。
とはいえ、まだ十曲峠を下りきっていません。道筋は舗装道路に変り、いくらか平坦になります。
すると前方に堂宇が見えてきます。医王寺です。当寺はもともと天台宗の寺だったようですが、戦乱で焼失し一時期、廃寺になっていました。その後、戦国時代の天文13年(1544)に再興されて浄土宗に転じました。
また当寺は見事な「枝垂れ桜」で知られています。境内から門前に枝垂れる桜は4月の季節には人々の目を楽しませてくれます。ただし、現在の枝垂れ桜は2代目です。

また医王寺は山中薬師とも呼ばれており、虫封じの薬師として三河の鳳来寺、御嵩の蟹薬師とともに日本三薬師の1つとして知られています。ここに伝わる狐膏薬(きつねこうやく)は太田南畝の「壬戌紀行」や十返舎一九の「木曽街道続膝栗毛」にも紹介されるほど有名なものでした。
尚、医王寺の薬師如来は行基の作と伝えられています。

医王寺を過ぎると、道筋は下り坂へ変じ、この先でさらに「とんでもない坂道(下り坂)」へとさしかかります。東海道の箱根西坂で経験した坂道を思い出します。箱根西坂では「こわめし坂」なんていう名前でしたが、これに匹敵する坂道です。

いまでこそ山を削り、舗装道路にしてありますが、街道時代はもっと険しい坂道ではなかったのでは?
この坂を見る限り、反対側からの上りでなくてよかったと思う瞬間です。



十曲峠の険しい下り坂を下りきると、道筋は落合川に架かる「下桁橋」にさしかかります。
いよいよ44番目の宿場町である落合宿までほんの僅かな距離に迫ってきました。

下桁橋の橋上からふと左手を見ると、川の水が勢いよく流れ落ちる「滝?」が見えます。
自然の滝ではなく、人工的に造られた堰から流れ落ちる滝です。



また下桁橋の袂には「中山道の付け替えと落合大橋」の案内板が置かれています。
この案内板によると、下桁橋あたりから馬籠宿に至る中山道は幾度かの付け替えが行われているようで、私たちが辿ってきた医王寺からここ落合川までの道筋は江戸時代の明和8年(1771)に整備されたものとのことです。

さあ!まもなく第1日目の終着地点である落合宿入口に到着です。旧街道は7号線にいったん合流しますが、道筋は7号線を渡り宿内へとのびています。

私たちは7号線を渡った場所で第1日目の行程を終了します。馬籠宿の北木戸からここまでわずか4.7キロの距離です。
尚、この場所はバス停「木曽路口」です。
第2日目はここから落合宿内を進み、当シリーズの最終目的地である中津川宿へと向かいます。

木曽路十五宿街道めぐり(其の一)塩尻~洗馬
木曽路十五宿街道めぐり(其の二)洗馬~本山
木曽路十五宿街道めぐり(其の三)本山~日出塩駅
木曽路十五宿街道めぐり(其の四)日出塩駅~贄川(にえかわ)
木曽路十五宿街道めぐり(其の五)贄川~漆の里「平沢」
木曽路十五宿街道めぐり(其の六)漆の里「平沢」~奈良井
木曽路十五宿街道めぐり(其の七)奈良井~鳥居峠~藪原
木曽路十五宿街道めぐり(其の八)藪原~宮ノ越
木曽路十五宿街道めぐり(其の九)宮ノ越~木曽福島
木曽路十五宿街道めぐり(其の十)木曽福島~上松
木曽路十五宿街道めぐり(其の十一)上松~寝覚の床
木曽路十五宿街道めぐり(其の十二)寝覚の床~倉本駅
木曽路十五宿街道めぐり(其の十三)倉本駅前~須原宿
木曽路十五宿街道めぐり(其の十四)須原宿~道の駅・大桑
木曽路十五宿街道めぐり(其の十五)道の駅・大桑~野尻宿
木曽路十五宿街道めぐり(其の十六)野尻宿~三留野宿~南木曽
木曽路十五宿街道めぐり(其の十七)南木曽~妻籠峠~妻籠宿
木曽路十五宿街道めぐり(其の十八)妻籠宿~馬籠峠~馬籠宿
木曽路十五宿街道めぐり(其の二十)落合宿の東木戸~中津川宿



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木曽路十五宿街道めぐり (其の十八) 妻籠宿~馬籠峠~馬籠宿

2015年08月20日 08時48分25秒 | 木曽路十五宿街道めぐり
妻籠峠を越えるとほんの僅かな距離でお江戸から42番目の宿場町である妻籠に到着します。

妻籠宿

木曽路十一宿の中でも最も古い町並みが保存され、街道時代の宿場町の雰囲気を色濃く残している宿場といっていいでしょう。

私たちは昨日、妻籠の入口をほんの少し入った所から第1駐車場へと向かいました。

さあ!第3日目の旅が始まります。
旅の出立地点は第1駐車場です。ここを本日の0㎞といたします。



旅の始まりに際して今回の旅の一大ハイライトでもある妻籠宿の散策をお楽しみいただき、その後、木曽路の山間を抜け、ちょっとキツイ馬籠峠を越えて、43番目の宿場町である馬籠宿の入り口までの7.4キロを踏破します。
朝早い時間であれば、観光客も少なく、私たちだけで妻籠宿を独り占めできかもしれません。

それでは駐車場から宿内へと進んでいきましょう。

妻籠宿は昭和51年(1976)重要伝統的建造物群保存地区の第1号に指定され、木曽路と言えば「妻籠宿」というくらいに木曽路を代表する観光地になっています。
最近では日本人以外にもたくさんの外国人が訪れる日本屈指の観光地になっています。

昨日までは木曽川の流れを友に旅を続けてきましたが、南木曽から妻籠へと辿る道筋に入ると、木曽川の流れは街道から遠く離れてしまいます。妻籠宿はその木曽川に流れ込む支流である「蘭川(あららぎがわ)」の東岸に細長くつづいています。
天保14年(1843)の記録によると、宿内の距離は二町三十間(約273m)で、宿内には人口418人、本陣1、脇本陣1、旅籠31軒の規模であったと記されています。

妻籠宿

宿内に入ると、電信柱、派手な看板もないすっきりとした舗装道路道がまっすぐにつづいています。路肩の側溝には清らかな水が流れているようです。奈良井の宿でも感じたことですが、長い街道の旅の途中に現れる整然とした宿場に辿りついた旅人はなんとも心安らかな気持ちになったのではないでしょうか。暮六つともなると日は西へ落ち、旅人たちは旅籠の常夜燈をたよりにそそくさと宿へ向かい、夕げのもてなしに安堵したはずです。
そして夜の帳が宿を包む頃、宿場全体が木曽の山間の深閑とした空気の中に沈んでいく、なんて光景が目に浮かんでくるような家並みが目の前に現れます。

それではまず妻籠宿の脇本陣奥谷(南木曽町博物館)まで進んでいくことにしましょう。
宿内に入ってそれほど歩かない場所に位置する脇本陣奥谷では入館して見学をいたします。
見学後、集合場所と集合時間を決めて、妻籠宿内の散策をお楽しみいただきます。

妻籠宿脇本陣と問屋を務めた林家は「奥谷」の屋号で酒造業を家業とし、昭和8年(1933)まで「鷺娘」という酒を醸造していました。現在の建物は明治10年(1877)の建築でさすが木曽だけに総檜造りです。

脇本陣奥谷

館内ではガイドの説明を聞きながら屋敷内を見学できます。脇本陣の建物の裏手には歴史資料館が併設されており、木曽谷や宿場に関する歴史資料や模型が展示されています。

脇本陣奥谷

脇本陣と問屋を務めた林家は広大な山林と豊かな財力を誇った家で、藤村の詩「初恋」にうたわれた大黒屋のおゆふさまの嫁ぎ先でもあります。「夜明け前 」では扇谷得右衛門 として登場します。
江戸時代は身分制度のもとで商人などには制約があって、お金持ちであっても、木曽の美林に囲まれていながらも、自由に木を伐採できなかった町人たちが、明治維新を迎え、その開放感から財力の限りをつくして造ったのがこの脇本陣の建物です。木曽の檜をおしげもなく使用した建物には細部にわたり趣向を凝らした贅沢な造りです。

明治天皇が行幸されたおりに宿泊し、そのために用意した風呂や厠がそのまま残っています。また隠し部屋などもあり一見の価値はあります。そして建物の2階からは妻籠城があった城山を遠望することができます。
平成13年に国の重要文化財に指定され、現在は南木曾町博物館となっています。

奥谷脇本陣からほんの少し進むと、左手に冠木門が現れます。ここが妻籠宿の本陣です。

妻籠宿の本陣

妻籠本陣は慶長6年(1601)の中山道整備開始とともに、妻籠村代官である島崎監物重綱の二男に命じて本陣経営が始まり、その後代々受け継がれていきました。
幕末の動乱期に本陣を務めた島崎与次衛門重佶(しげたか)は藤村の小説「夜明け前」に登場する半蔵の従兄弟である「青山寿平治」の名前で登場しています。また藤村の母「ぬい」の実家でもあります。

最後の当主は藤村の次兄「広助」で養子縁組して跡を継ぎました。
当本陣は明治32年に時の政府に買い上げられ、建物は破却されてしまいました。平成7年に復元されて公開されています。

本陣跡を過ぎると、その先は「桝形跡」があり、本来の道筋は右へ直角に折れて階段状になって、その先につづいています。現在は街道がまっすぐに行けるように整備されています。
細い道筋がつづき、道の片側(右側)に古い家並みが連なっています。妻籠宿の家並の光景の中で、最も趣のある場所ではないでしょうか。この古い家並みが残っている地域を寺下と呼んでいます。











寺下の地域名は先ほどの桝形を曲がる手前の左側奥に堂宇を構える「光徳寺」があるからです。
当寺は明応9年(1500)に創建という古刹です。桝形から左手のちょっとした高台にまるで城壁のような石垣を築き、白壁の塀で囲われています。ご本堂は江戸時代の享保10年(1725)に建立されたものです。
当寺には脇本陣を経営した林家の墓や藤村の初恋の人である「おゆふさん」の墓があります。

桝形で分岐した道筋はこの先で左手からくる新しい道筋と合流します。妻籠宿の中でも、最も街道の宿場町らしい雰囲気を漂わせるのが「寺下」の家並だと思います。街道の左右に連なる家並みを眺めながら進んでください。



間もなくすると妻籠宿の家並が途切れるあたり、尾又のはずれにさしかかります。
妻籠の南木戸がどこに置かれていたのかは定かではありませんが、尾又あたりからは街道沿いにそれまでの家並はありません。
おそらく尾又あたりが本来の宿場のはずれではなかったのでは……。

道筋はいくらか上り坂に変じながら、木々に覆われた場所を進んで行きます。
道筋はすぐに256号線と合流します。
現在は256号線によっていったん遮断されていますが、街道時代はそのまま直進していました。
256号線を渡った反対側に「妻籠宿」と書かれた大きな標が置かれています。



さあ!妻籠宿をここで出ることにしましょう。
旧街道は256号線ではなく、ちょうどこの大きな標のすぐ裏側から始まるのが道筋です。
確かに妻籠宿を貫く街道は256号線を越えて、細い道筋へと繋がっているように見えます。
それでは次の宿場町である「馬籠宿」を目指すことにしましょう。この地点からおよそ6.4キロの距離です。

馬籠宿の大きな標の裏から始まる道筋は草道、土道といったもので、和たちたちのような木曽路を辿る人以外は通る人も少ないのではないでしょうか?
そんな道筋を進んで行くと小さな集落が現れます。橋場集落と言います。この橋場集落がある辺りはその昔には中山道と飯田街道の分岐点であったため「追分」と呼ばれていました。そして草道は集落が途切れたあたりで舗装道路に合流します。
蘭川(あららぎがわ)に架かる「大妻橋」の袂には「飯田道・中仙道」と刻まれた石柱が置かれています。

妻籠宿を出たからほんの僅かな距離しか歩いていないのですが、周囲には山並みが迫ってきます。大妻橋を渡り舗装道路をほんの僅か進むと、街道から分岐するように右手の山へと分け入るような細い道筋が現れます。道筋の入口は階段が付けられて、いよいよ木曽路の山間へと入って行くのか、という気持ちが高ぶってきます。この階段が付けられている坂道を「神明坂」と呼んでいます。



木々に覆われた坂道を進むと、途中で清らかな水が流れる小さな沢に架けられた橋を渡り、くねくねとした趣ある道を上っていきます。



そして坂上に小さな集落があります。この集落は神明集落です。家並みの中に街道の旅籠のような古そうな家が静かに佇んでいます。



あっという間に通り過ぎてしまうほど小さな神明集落を過ぎると、道筋は今度は下りへと変ります。緩やかな坂を下りきると蘭川の支流である「男垂川(おたれがわ)」に架かる神明橋にさしかかります。
この神明橋付近が本日の行程の中で最も標高が低い場所で、この後、馬籠峠まで木曽の山間の中を辿る長~い、長~い登り坂の行程が待っています。

そんな木曽谷の底を流れるのが「男垂川」です。
神明橋を渡ると、まもなく「大妻籠」の集落です。

大妻籠

道筋は緩やかな上り坂となり、古い佇まいを残す大妻籠の集落へと入って行きます。
大妻籠集落の真ん中あたりで、歩き始めて2キロ地点です。

妻籠本宿の南木戸からは僅か1キロしか離れていない場所にある集落です。妻籠ほど規模は大きくないのですが、この集落には立派な本卯建(ほんうだつ)に出桁造りの立派な家が街道に面して建っています。これらの家はかつては旅籠を営んでいたのかもしれません。現在は民宿となっています。

大妻籠家並み
大妻籠家並み
大妻籠家並み
大妻籠家並み

しかし、ここを訪れる人も少ないようで、観光客はほとんどいません。おそらく妻籠本宿を見て満足してここまで足をのばさないのでしょう。17世紀頃には大妻籠集落は成立していたといいます。

大妻簿集落を抜けて、再び男垂川を渡ると旧街道は7号線にいったん合流します。
ほんの僅かな距離ですが7号線に沿って進むと、やおら現れるのが旧街道の上り坂で、なんと綺麗な石畳の道が鬱蒼とした高野槙の林の中へ延びています。





さあ!ここからが本格的な馬籠峠へのキツイ上り坂の始まりなのか、と思いつつ、石畳の道へ足を踏み込みます。



比較的新しく整備された石畳の道ですが、石段や階段状の上り坂より、はるかに体に楽です。
鬱蒼とした高野槙の林の中を石畳がつづきます。そして上って行くとヘアピンカーブのように大きく曲がる箇所にさしかかります。
ふと後ろを振り返ると、今辿ってきた石畳の道がまるで蛇のようにくねらせている様子を見ることができます。

確かに木曽の山中を辿っているという雰囲気を十分に味わうことができます。
結構キツイな、と思いながら石畳の道を上って行くと、突然石畳の道が途切れ、いったん下り坂となります、その下り坂の先にあるのが「下り谷集落」です。下り坂集落を抜けると道筋はほぼ平坦になります。



すこし息を整えながら進んで行くと、街道の左側の少し高い位置に小さな祠が置かれています。倉科祖霊社というようです。

倉科祖霊社

松本城主小笠原貞慶の重臣「倉科朝軌」の霊が祀られているといいます。天正14年(1586)に倉科朝軌は大阪の豊臣秀吉のもとへ使いに行き、その帰りに馬籠峠で土豪に襲われて、ここ下り谷の地で非業の死を遂げたと伝えられています。そんな倉科朝軌を祀る小さな祠が街道脇にぽつねんと置かれています。

中山道・木曽路はこの先で二股に分かれます。左へ進む道も中山道、右へ進む道も中山道なのですが、私たちはこの先にある「男滝」と「女滝」を見るため右手につづく道へと進んで行きます。
あくまでも勝手な想像なのですが、大名行列や牛馬を曳く牛方は勾配の緩やかな滝上の道(左手の道)を通り、身軽な旅人は滝見物がてら滝下の道(右手の道)を辿ったのでは……。いずれにしてもどちらの道を行っても、この先で合流します。

二股に分岐した道筋は緩やかな下り坂となり、やがて男垂川に架かる橋にさしかかります。橋を渡ると街道から逸れるように男滝へと通じる細い道筋の入口が現れます。

男滝
女滝

吉川英治の「宮本武蔵」に武蔵とお通のロマンスの一場面として登場する滝です。 
また「滝壺に金の鶏が舞い込んだ」という倉科伝説が伝わっています。



男滝から女滝へ遊歩道を辿りながら見物を終えると、最後は7号線へ戻るために梯子段のような石段を上ります。
7号線に沿ってしばらく進んでいきましょう。
途中で、二又に分かれたもう一方の道筋が左手から下りてきます。
そして、この先で7号線から右手へ分岐する道筋に架かる木橋が現れます。



木橋を渡ると、再び木曽路らしい鬱蒼とした木立の中の道筋に変ります。しかもラフロードで旧街道を歩いているといった雰囲気を十分に感じることができます。馬籠峠への道筋は結構変化に富んで、楽しいものです。





男垂川の心地よい水の流れが耳に入ってきます。鬱蒼とした木々の間を辿って行く道筋ですが、木漏れ日が射し込む土道は街道時代に多くの旅人が踏みしめたと思うと感慨深いものがあります。
道筋は緩やかな上り坂でそれほど体に負担がありません。まもなくすると道筋は7号線に合流しますが、旧街道は7号線を渡った向こう側へと更にのびています。



7号線を渡ると、その先は趣ある石畳の道が林の中へつづいています。その入口の右側に「中山道・一石栃口」と刻まれた大きな石の標が置かれています。



さあ!ここから林の中を500m強進むと「一石栃の白木改番所跡」に到着します。
鬱蒼とした木々に囲まれた街道を進むと、天狗の腰掛けと呼ばれている「サワラの大樹」に出会えます。昔から山の神や天狗が腰を掛けて休む場所と信じられてきました。



旧街道は馬籠峠の頂に向かって山の中を緩やかに上っていきます。鬱蒼とした木々が突然開けると一石栃(いちこくとち)の白木改番所(しらきあらためばんしょ)跡が現れます。
この番所は尾張藩が設置したもので、木曽五木をはじめとする森林資源を管理する目的で、小枝1本に至るまで厳重に調べられたといいます。この場所にはトイレと江戸時代後期に建てられた牧野家住宅の無料休憩所が置かれています。

無料休憩所



一石栃白木改番所跡で小休した後、いよいよ馬籠峠の頂へと進んでいきます。
馬籠峠への道筋は予想していたよりも比較的緩やかなのですが、やはり一部にはキツイ個所もあります。

馬籠峠は標高801mですが、ここに至るまでにすでに標高をかなり上げているので、感覚的に801mの高さにいるようにおもえません。木曽路を歩いていると、ほぼ700m~800mを越えた場所を常に歩いているわけですから。

そんな馬籠峠に到着するちょっと手前から再び石畳の上り坂となり、石畳が途切れたところで7号線に合流するのですが、ここが馬籠峠の頂です。

7号線との合流地点には「峠の茶屋」が1軒あるのですが、季節によっては営業していないようです。

峠を越えると、私たちは岐阜県に入ります。そして道筋は下り坂へと変じます。
7号線にそって少し下っていきましょう。
そしてほんの僅かな距離を進むと、7号線から右手に分岐する道筋の入口が見えてきます。

もちろんこの道筋も下り坂です。峠までの上り坂で体力を消耗した者にとって、下り坂はほんとうにありがたく感じます。



坂を下り始めたあたりで、本日の歩行距離は5.5キロに達します。馬籠の到着地点まで、残すところ2キロに迫ってきました。
坂道はかなりの勾配となり、一気に峠を下っていくといった感じです。

そしてこれまで辿ってきた木曽谷の旅も終わりに近づいてきます。これから進む道筋の前方の山並みは低くなり、視界が広がってきます。そして中仙道はやがて広い濃尾平野へとつながっていきます。

さあ!馬籠宿へ急ぐことにしましょう。



7号線から分岐して、坂道を下ってくると街道左手に熊野神社の社が構えています。
そんな熊野神社を鎮守とする峠の集落が軒を連ねています。この辺りの集落は古くから「牛方」を生業としてきたと言われています。この集落は宝暦12年(1762)の大火後に再建された家並みが残っています。



「牛方」は俗に「岡舟」と呼ばれ、牛を使って荷物を運搬する業者のことをいいます。ここの牛方たちはなんと美濃の今渡から長野の善光寺辺りまで荷物を運んでいたといいます。
江戸時代の幕末の安政3年(1856)に中津川の問屋の不当な扱いに対して、荷役拒否をしたことで知られ、藤村の「夜明け前」にこの様子が描かれています。

峠の集落は街道らしい風情を漂わせています。過ぎ去った時代にはこの街道を荷役を担う多くの牛が闊歩していたのではないでしょうか。峠の集落を抜けると、道筋は緩やかな下り坂となり先へつづいています。

そして集落のはずれに十辺舎一九の大きな石碑が置かれています。
「渋皮の むけし女は見えねども 栗のこわめし ここの名物」
一九の句に現れる「栗のこわめし」は馬籠峠の名物だったようです。一九は江戸時代の文政2年(1819)に木曽路を辿り、この句を詠んだのです。

十辺舎一九の大きな石碑を過ぎても道筋は緩やかに下っています。途中、清水立場跡を過ぎて、石畳の梨乃木坂の下りへと入ってきます。



梨乃木坂を下ると、街道は再び7号線と合流します。その合流地点の右側に架かる岩田橋の向こうに水車小屋があります。
この水車小屋がある場所には「水車塚」が置かれています。
水車塚とは明治37年(1904)7月にこの場所に住んでいた一家4人が山崩れにより家ごと押し流され惨死したといいます。
難を逃れた家族の一人である蜂谷義一が藤村と親交があったことで、供養のため碑文を藤村に依頼して水車塚を建立したといいます。
「山家にありて 水にうもれたる 蜂谷の家族 四人の記念に 島崎藤村しるす」と碑文が刻まれています。





標高801mの馬籠峠から坂を下り、この辺りの標高は645mとかなり下げてきました。
いったん7号線と合流した旧街道はこの先、沢伝いに緩やかに下る細い道筋へと入って行きます。馬籠宿到着の期待を胸に膨らませながら細い道筋を辿ると、再び7号線と合流します。

合流地点から7号線を辿り、本日の到着地点へ向かってもいいのですが、もう一つのルートが7号線から分岐するように眼前の山の中へ道筋がつづいています。



その道筋は入口から階段の上りとなっています。一応、中山道と表示があるので階段を上っていくことにします。本日、最後のキツイ上り坂といってもいいでしょう。この坂を上って行くと馬籠宿の北側のはずれに位置する「馬籠上陣場の展望台」に行き着きます。



陣場とは天正12年(1584)豊臣秀吉と徳川家康が争った小牧長久手の戦いで、豊臣方の島崎重通が篭る馬籠城を攻略すべく、徳川方兵7000の一部がこの地に陣を敷きました。よってこの辺り一帯の地名を陣場と呼ぶようになったそうです。
上陣場の展望台からは真正面に恵那山を望むことができます。そしてこれまで辿ってきた木曽の山々は後方へと遠ざかり、これから先は深い谷もなければ、鬱蒼とした山並みもありません。
やっと木曽路を終えた気分になりますが、実はまだ木曽路は終わっていないのです。

馬籠宿高札場

馬籠宿

展望台で休憩の後、本日の終着地点(7.4キロ)であると同時に第3回目の旅の終着でもある駐車場へ向かうことにいたします。
馬籠宿の入り口のすぐそばにいながら、宿内の見学は次回のお楽しみということで、バスが待つ駐車場へご案内いたします。

木曽路十五宿街道めぐり(其の一)塩尻~洗馬
木曽路十五宿街道めぐり(其の二)洗馬~本山
木曽路十五宿街道めぐり(其の三)本山~日出塩駅
木曽路十五宿街道めぐり(其の四)日出塩駅~贄川(にえかわ)
木曽路十五宿街道めぐり(其の五)贄川~漆の里「平沢」
木曽路十五宿街道めぐり(其の六)漆の里「平沢」~奈良井
木曽路十五宿街道めぐり(其の七)奈良井~鳥居峠~藪原
木曽路十五宿街道めぐり(其の八)藪原~宮ノ越
木曽路十五宿街道めぐり(其の九)宮ノ越~木曽福島
木曽路十五宿街道めぐり(其の十)木曽福島~上松
木曽路十五宿街道めぐり(其の十一)上松~寝覚の床
木曽路十五宿街道めぐり(其の十二)寝覚の床~倉本駅
木曽路十五宿街道めぐり(其の十三)倉本駅前~須原宿
木曽路十五宿街道めぐり(其の十四)須原宿~道の駅・大桑
木曽路十五宿街道めぐり(其の十五)道の駅・大桑~野尻宿
木曽路十五宿街道めぐり(其の十六)野尻宿~三留野宿~南木曽
木曽路十五宿街道めぐり(其の十七)南木曽~妻籠峠~妻籠宿
木曽路十五宿街道めぐり(其の十九)馬籠宿~落合宿の東木戸
木曽路十五宿街道めぐり(其の二十)落合宿の東木戸~中津川宿



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木曽路十五宿街道めぐり (其の十七) 南木曽~妻籠峠~妻籠宿

2015年08月19日 17時06分38秒 | 木曽路十五宿街道めぐり
昼食後、ふたたび旧街道筋へと戻ることにします。
先ほど分岐した場所へ戻り、中央本線の反対側の山裾に穿かれた旧街道へ進んでいきましょう。
ゆるやかな坂道を上って行くと中央本線の南木曽駅が眼下に見えてきます。

ここ南木曽(駅)は次の宿場町である「妻籠」への観光拠点として、特急列車も止まります。
南木曽駅から妻籠まで車で20分程度です。
しかし、車で妻籠へ向かうより、中山道を辿って妻籠へ向かう方が街道気分を十分に味わうことができます。

南木曽駅前



そんな妻籠宿への道程の途中にあるのが南木曽駅の裏側の高台に位置する「和合集落」です。

細い道筋の両側に民家が並んでいます。道筋には須原宿で見たような水舟が置かれています。
集落の中を進んで行くと街道の右手に旧家らしき大きな家が現れます。表札をみると「園原」と書かれています。

実は「園原」の家柄はここ和合ではたいへん有名なのです。この大きな屋敷の先の街道左側に「園原先生碑」が置かれているのですが、この園原先生とは江戸時代の神学者なのです。



園原先生の正式名は園原旧冨(そのはらふるとみ)で江戸時代の元禄16年(1703)にここ和合の神官の家に生まれました。
その後、旧冨は神祇官領長だった吉田兼敬に師事して神学を学びました。

そして「神学則」を著し、「木曽古道記」「神心問答」「御坂越記」「木曽名物記」などの著作を残しました。この記念碑は彼の死後5年目の天明元年(1781)に門人たちによって屋敷跡に建てられたものです。

和合の集落を抜けると、道筋は山間へと入って行きます。そしていよいよ峠越えの上り坂が始まります。
周囲の景色は緑濃い木々に覆われた街道らしい雰囲気を漂わせています。
さあ!妻籠宿へ進んでいきましょう。

妻籠への道

妻籠宿への序盤戦はちょっとキツメの上り坂です。歩き始めて13キロを超えた辺りでの急坂は結構体に負担がかかります。木曽路を歩いて久しぶりの山間の道筋です。



急坂を登りきると、いくらか平坦な場所へ出てきます。そんな場所に小さな集落が現れます。
神戸集落(こうどしゅうらく)です。ほんの僅かな民家が街道沿いに並んでいます。
神戸集落を抜けると道筋は緩やかな下り坂に変り、まもなくすると道幅が広くなる三叉路へとでてきます。

そんな場所にあるのが巴御前ゆかりの「ふりそで松」です。

ふりそで松

この松は義仲が弓を引くのに邪魔になるとのことで、巴御前が振袖を振って倒したといいます。

街道を挟んで祠が一つ置かれています。その祠の右側の階段を降りていくと、もう一つお堂が置かれています。ここが「かぶと観音」です。

この観音も木曽義仲ゆかりのものです。義仲が平家追討のため北陸道から上京するとき、木曾谷の南の押さえとして妻籠城を築き、その鬼門にあたるこの神戸の地に祠を建てました。その際、兜の中におさめていた安全祈願の八幡座の観音像を祭った。」といわれています。

そうした伝承から木曾の武将たちから手厚く保護されてきました。天正十五年、木曽福島の山村良候が大檀那になって「かぶと観音」の堂舎を造営しました。江戸時代には街道を通る多くの人々が訪れたといいます。

かぶと観音

かぶと観音の境内は木々に覆われ、静かな空気が流れています。境内の奥に祠が一つ置かれています。また境内に置かれた大きな石は義仲が腰かけたと伝わる「腰掛石」です。そして境内の隅にひときわ大きな観音像が立っています。

かぶと観音の境内を抜けて、街道へと戻ることにしましょう。
この先はほんの少しの間、緩やかな下り坂となります。神戸沢を渡り合戸立場跡を進んで行きます。立場跡からダラダラと坂道を下り「戦沢橋」を渡ります。

神戸沢

「戦沢橋」を渡ると道筋は緩やかな上りへと変ります。

石畳道

そして間もなくするとお江戸から数えて78番目の一里塚「上久保一里塚」にさしかかります。この一里塚は若干崩れてはいますが、原型をとどめている一里塚です。

上久保一里塚



上久保一里塚を過ぎると道筋はこの先しばらくは上り坂がつづきます。
木曽路の山間に穿かれた街道らしい風景が周囲に広がります。鬱蒼とした森がつづきます。



途中、路傍に朽ちかかった案内板に越後の良寛上人が木曽路で詠んだ二首のうちのひとつが記されています。
「この暮れの もの悲しさにわかくさの 妻呼びたてて 小牝鹿鳴くも」

そして趣ある石畳の道を辿って行くと、その先に旧中山道で名石の一つと言われている蛇石(へびいし)が街道の脇に現れます。

へび石

蛇の頭のように見えることからその名が付いたというが、かなり想像を逞しくすればそう見えないこともないのですが……。うっかりしていると見過ごしてしまうほどのものです。
往時は街道を旅する人たちの目を引いていたのかもしれません。

道筋は木曽路の山間を縫うように妻籠宿へとつづいています。まさに木曽路の街道を歩いているといった雰囲気が漂います。
車もほとんど通らない旧道は深閑とした空気が漂い、小鳥のさえずりさえあまり聞こえてきません。
もし、日が暮れてからこの道を歩けといわれたとしても、男であってもちょっと遠慮したくなるような道筋です。

蛇石を過ぎると道筋はほぼ平坦な道へと変ります。まもなく妻籠への至る峠を越えることになります。そんな峠の頂に置かれていたのが「城山茶屋」です。以前は茶屋として旅人の何らかのものを供していたと思われますが、現在、茶屋の建物はあるのですが、すでに廃墟になっています。
この茶屋があった場所から道が二股に分岐しています。私たちは右手へつづく坂道へと進んでいきます。
そんな分岐点に「妻籠城址」の石碑が置かれています。

妻籠城址碑

妻籠城は義仲が築いたものでは? そんな説明書きが「かぶと観音」にありましたよね。しかし、この場所の説明書きに義仲の名前が一切でてきません。不思議ですね。まあ、この件については追求せずにしておきましょう。妻籠城は木曽川と蘭(あららぎ)川の合流する断崖の上にある典型的な山城で主郭、二の郭、帯曲輪などを備えていました。小牧長久手の戦いでは豊臣方に就き、300の兵で徳川の大軍を防いだといいます。 関ヶ原の戦いでも、西軍側で戦い、中山道を進めた秀忠が遅れた一因になったといわれています。元和の一国一城令により、城は破却されました。
城があった山は標高420mで「城山」と呼ばれ、頂上には本丸址、土塁、空堀が残っています。(山頂まで徒歩10分)



城山茶屋から道筋は一気に急峻な下り坂へ変ります。さあ!いよいよお江戸から42番目の妻籠宿が近づいてきます。

中山道そして木曽路の中で「奈良井宿」と並んで宿場町の雰囲気を色濃く残しているのが妻籠宿です。昭和51年(1976)に重要伝統的建造物群保存地区の第1号に指定されました。

電信柱がない宿内の街道に沿ってまるで江戸時代にタイムスリップしてしまったかのような古い家並みがつづいています。
木曽川の支流である蘭川(あららぎかわ)の東岸に穿かれた街道にそって宿場が置かれました。

天保14年(1843)の記録によると、宿内の距離は南北二町三十間(約273m)で、人口418人、本陣1、脇本陣1、旅籠31軒の規模をもっていました。

宿内は恋野の坂を下ったあたりから下町、中町、上町と並び、桝形を挟んで寺下、尾又の5町から構成されていました。

下町に入ると古い佇まいの民家がちらほら現れます。そして街道の左側に現れるの「鯉岩」です。

鯉岩なるもの?

その昔は水面から飛び出た鯉の上半身のような形だったようですが、明治24年(1891)の濃尾地震で移動し、形が変わってしまったらしいのです。そう言われてよくよく眺めてみたのですが、どうも鯉には見えません。
木曽路名所図会にはしっかりと鯉の形に描かれているのですが……。

鯉岩を過ぎると、街道左側に「口留番所跡」があります。

口留番所とは宿場が開設された当初は住人がいないため、各所から人が集められたらようです。このため集められた住民が逃げないよう、監視する役目を担っていました。武田勝頼が設置し、山村氏が守っていましたが、住民が定着したので、元和六年に番所は木曾福島に統合されました。

そして50mほど先の右手に置かれているのが復元された高札場です。

高札場

高札場の先の恋野の坂を下ると、妻籠宿の下町の佇まいが見えてきます。
私たちは本日このまま妻籠宿の第一駐車場へと直行します。そして本日の行程を終了します。
駐車場までの歩行距離は16.2キロです。

木曽路十五宿街道めぐり(其の一)塩尻~洗馬
木曽路十五宿街道めぐり(其の二)洗馬~本山
木曽路十五宿街道めぐり(其の三)本山~日出塩駅
木曽路十五宿街道めぐり(其の四)日出塩駅~贄川(にえかわ)
木曽路十五宿街道めぐり(其の五)贄川~漆の里「平沢」
木曽路十五宿街道めぐり(其の六)漆の里「平沢」~奈良井
木曽路十五宿街道めぐり(其の七)奈良井~鳥居峠~藪原
木曽路十五宿街道めぐり(其の八)藪原~宮ノ越
木曽路十五宿街道めぐり(其の九)宮ノ越~木曽福島
木曽路十五宿街道めぐり(其の十)木曽福島~上松
木曽路十五宿街道めぐり(其の十一)上松~寝覚の床
木曽路十五宿街道めぐり(其の十二)寝覚の床~倉本駅
木曽路十五宿街道めぐり(其の十三)倉本駅前~須原宿
木曽路十五宿街道めぐり(其の十四)須原宿~道の駅・大桑
木曽路十五宿街道めぐり(其の十五)道の駅・大桑~野尻宿
木曽路十五宿街道めぐり(其の十六)野尻宿~三留野宿~南木曽
木曽路十五宿街道めぐり(其の十八)妻籠宿~馬籠峠~馬籠宿
木曽路十五宿街道めぐり(其の十九)馬籠宿~落合宿の東木戸
木曽路十五宿街道めぐり(其の二十)落合宿の東木戸~中津川宿



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木曽路十五宿街道めぐり (其の十六) 野尻宿~三留野宿~南木曽

2015年08月19日 13時07分19秒 | 木曽路十五宿街道めぐり
野尻宿を出ると、下在郷という集落が現れます。そんな集落の入口にあたる場所にあるのが「下在郷一里塚跡(77)」です。



そして街道の正面には三角おむすびのような形をした山が現れます。山の名前は「飯盛山(いいもりやま)」というそうです。あの白虎隊で知られる飯盛山とはなんの縁もありません。

一里塚跡を過ぎると、これまで歩いてきた道筋から右手へと分岐する二差路にさしかかります。
その道筋の入口を見ただけでも、旧街道らしい雰囲気が漂っています。

もちろんそのまま直進しても、この先で旧街道と合流します。

そんな道筋へと歩を進めていくと、道筋は大きく左手にカーブを切り、細い道筋へと変って行きます。むしろクネクネと曲がる道筋で、結構楽しめます。やがて道筋はJR中央本線のカードをくぐり、更に道筋は田舎じみてきます。
そんな道筋の脇に牛が1頭しかいない古びた牛舎が置かれ、街道らしい雰囲気をさらに醸し出しています。

牛小屋

まもなくすると、再びJR中央本線の踏切が現れます。この踏切を渡りその先につづく木々に覆われた道筋へと進んでいきます。
そんな道筋へと入ると、左側に19号線の橋脚と、山が迫り、右側を走るJR中央本線の線路つたいに続く旧街道をしばらく歩きます。周囲は緑濃い木々が生い茂る風景へと変ります。





街道の左側は木々の緑、右側には中央本線の線路が走り、その線路を越えた向こう側には木曽川が流れています。

かつて街道時代には木曽川の断崖に沿って穿かれていたというのが、この中山道(木曽路)だったようです。
現在ではその道筋は舗装道路に代わり、当時の難所であった雰囲気はあまり感じません。

道筋は再び中央本線の第13号中山道踏切を渡り、今度は線路の右側を進むことになります。

この踏切を渡る手前に、今は道が崩れて廃道のようになっている山道の入口がかろうじて残っています。
この山道が「シラナミ坂」という上り坂で、この先の14号中山道踏切を渡ったところで合流します。現在は道筋が廃絶して通行ができなくなってしまいました。

この踏切を渡ると、歩き始めて4キロ地点にさしかかります。
ほぼ直線の道筋を進んでいきましょう。あのシラナミ坂は線路の左側の山の中腹を辿っていたといいます。下から見上げても、その痕跡は目視できません。
そして再び現れるのが中央本線の第14号中山道踏切です。この踏切を渡った左側にシラナミ坂の出入口があります。ただし、薮で覆われています。

現在、私たちは中山道・木曽路を歩いているのですが、かつての街道時代の木曽路の道筋はいたるところで廃絶となり、おおきくルートが変わってしまいました。かつての道筋はいたるところで分断され、新しい国道や鉄道に吸収されてしまい、ほとんど残っていません。今歩いているこの区間の木曽路もほんの僅かな部分しか残っていません。

第14号中山道踏切を渡りさらに旧道を進んでいきましょう。少し進むと小さな橋にさしかかります。その橋に「新茶屋」の名が付されています。
新茶屋とは、前述のシラナミ坂に置かれた茶屋のことで、現在でも茶屋があった場所には石垣が残されているそうです。



さあ!道筋は徐々に左手を走る国道19号線との合流地点へと近づいていきます。
歩き始めて5キロ地点を過ぎると、車の往来が多い19号線と合流です。合流地点は橋が架かっています。
この橋を境にして大桑村と南木曽町に分かれます。

実は本来の中山道筋は19号線を渡った反対側の低い山の中へとつづいています。
しかしながら、19号線を走る車の往来の多さから容易に渡ることが難しいのです。
車の往来の切れ目を狙って渡るしかないのですが、危険を感じるようであれば、そのまま19号線(Ⓐルート)に沿って右側の歩道帯を歩いて、十二兼駅方面へ向かってください。

※運よく19号線を渡る事が出来た場合、Ⓑルートへ進みます。ちょっとキツメの坂を上り、山の中腹へと上っていきます。つづら折りの道を登りきると、道は平坦となり小さな集落が現れます。

この道筋はこの先で熊野神社の脇を通り、再び19号線に合流するのですが、合流して19号線から街道筋に戻るためには、分岐点まで戻らなければなりません。
その不便さを考え、熊野神社まで行かずに、途中で右折して、早目に19号に合流することを勧めます。

いずれにしても旧街道は十二兼駅のかなり手前で19号線から分岐します。

面白い名前の地名の十二兼にまもなく到着です。この十二兼の地名の由来についてちょっと説明しましょう。

ご存知のようにこの辺りは木曽谷の峡谷に位置しています。そんな地理的要因があり、十二兼という地名になったといいます。
それはセ(狭)、二(土地)、カ(崖地)、ネ(尾根)が訛ったものを十二という表記にしたそうです。

ちなみにここ十二兼に至る途中、街道右手の木曽川にダムがあります。このダムの名前は面白く「読書ダム」といいます。
「ドクショダム」とつい読みたくなりますが、「ヨミカキダム」がただしい表記です。
このヨミカキは与川(よかわ)、三留野(みどの)、柿其(かきぞれ)の3村が合併する時に はじめの読みをとって「よみかき」としたとのことです。

道筋は十二兼の集落へと入って行きます。ここ十二兼には街道時代には「牛方」が多く住んでいた地域と言われています。
「牛方」とは牛を使って荷物を運ぶ人のことで、運送業の原形であると言われています。



一つ前の駅である野尻駅が歩き始めて2キロ地点でした。そしてここ十二兼駅が歩き始めて6キロ地点ということは、駅区間4キロということです。
そして野尻駅からここまでにトイレ休憩をする場所が1か所もありません。

やっとトイレの設備のある駅である十二兼駅に到着です。しかし当駅も無人駅で、十分な数のトイレは期待できません。
案の定、トイレは一つです。
街道筋から駅舎へと通じる石段を上がり、小さな待合室の隣にトイレがあります。

駅前に何かそれらしい店があるかといっても、まったくありません。
木曽川が街道脇まで迫って流れており、商店街やコンビニなんてものもありません。

駅周辺にはわずかながら民家が並ぶ地域がありますが、この十二兼駅を利用する客はほんとうにいるのでしょうか?

十二兼駅でのトイレ休憩を終えて、街道の旅を更につづけていきましょう。
私達がさしあたって目指す場所は次の宿場町である「三留野」です。
三留野までは街道の右側を流れる木曽川に沿ってほぼ南下する形をとります。
かつて街道時代はここから先は特に難所が多い場所として知られていました。

木曽路名所図会によると、こんな記述があります。
「三留野より野尻までの間、はなはだ危うき道なり。この間、左は数十間深き木曽川に路の狭き所は木を伐りわたして並べ、藤かづらにてからめ街道の狭きを補ふ。右はみな山なり。屏風を立てたるごとくにしてその中より大岩さし出て路を遮る。この間にかけ橋多し。いづれも川の上にかけたる橋にはあらず。岨道(そばみち)の絶えたる所にかけたる橋なり」とあります。
こんな記述から、中山道・木曽路の中でも難所の一つであったことが窺がえます。おそらく木曽川と川に迫ってくる山裾の間の狭隘な部分にかろうじて道が穿かれていたのでしょう。
しかし道とはいえ、きちんとした道でなく山肌にへばりつくように道筋を造り、丸太を数本渡した程度の橋が架けられ、岩間を乗り越えていったのではないでしょうか。

そんな道筋は今はなく、そのほとんどが中央本線の線路に変り、国道19号線に姿を変えてしまっています。



十二兼駅を過ぎて、三留野宿へと向かいますが、その距離およそ4キロあります。この4キロのうち、3キロは国道19号線に沿って歩くことになります。その19号線に合流する手前250mに「柿其橋(かきぞればし)」が木曽川に架かっています。

その橋から眺める木曽川の光景は、第2回の旅で訪れた「寝覚の床」を彷彿とさせるような奇岩景勝の場所になっています。



とはいえ、寝覚の床周辺のように観光化されているわけでもなく、自然が造りだした見事な光景だけがそこにあるといった感じです。
こんな奇岩景勝のこの場所を「南の寝覚」なんて命名しているようです。
それでは街道筋から橋上へ進み、上流方向を眺めてください。

花崗岩の岩が木曽川の両岸に並び、悠久の時間を経て自然が作り上げた造形美が目の前に広がります。
しばし見とれてしまうほどです。

柿其橋からほんの少し進んだ街道の右側に、なにやら石碑らしきものが置かれています。ここは明治天皇が行幸の際に小休された場所で、石碑の傍らには「中川原御前水碑」も置かれています。





この先で旧街道は国道19号線と合流する柿其入口信号交差点にさしかかります。
それではしばらくの間、交通量の多い、国道19号線に沿って三留野宿へと進んでいきましょう。



淡々として道筋がつづくので、時間つぶしに木曽川の水源開発で名をはせた「福沢桃介(ふくざわももすけ)」について語ってみましょう。

三留野(南木曽)にやってくると「福沢桃介」の名が多くでてきます。
彼は明治元年に埼玉県比企郡吉見町で地方銀行を経営していた裕福な家庭で生まれました。

父の死後、家業を継いだ長兄が事業に失敗し、家は没落してしまいます。

桃介は慶応義塾に在学しているときに、福沢諭吉に目をかけられ、海外留学を条件に福沢家に養子縁組をします。
そして日本に帰って、諭吉の次女である「房」と結婚し、北海道炭鉱鉄道に就職するのですが、結核を患い6年で退社します。

そんな時、国内は日露戦争後の急速な経済拡大により、電力需要が急増する時代に入ってきます。桃介も株取引でかなり儲け、その金を元手にビール、ガス、鉄道などの事業に手を出していきます。
そして最終的に水力発電の有望性に目をつけて、電気事業へと邁進することになります。

当時、中部地方で電力供給を担っていたのは名古屋電灯会社です。もう一つ、水力発電に力を注いでいたのが名古屋電力で、双方はライバル会社だったのですが、名古屋電力は名古屋電灯会社に吸収されてしまいますが、そんな合併工作を行ったのが桃介です。

水力発電に力を注いでいた名古屋電力は駒ヶ根(寝覚~大桑)地域、読書地点など木曽川流域で水力開発の準備をいましたが、名古屋電力を吸収した名古屋電灯会社は水利権を引き継ぎ、木曽川流域での水力発電所の建設計画を推し進めます。

そんな計画の中心的役割を果たすことになった桃介は「一河川一会社主義」を唱え、一水系の開発、帰属を一社に委ねることは、総合的な水力開発に資するという持論を展開します。
この持論のもとに木曽川流域での水力発電事業は加速することとなります。

桃介が考えた発電所は「堰堤」を持つ、大型ダム式のものです。しかしここで大きな問題が持ち上がります。
それが「川狩り、流木問題」です。
この問題は当時の木曽川流域にとって、経済的に大きなウエイトを占めていた「木曽御料林」の木材搬出方法に係る問題だったのです。
御料林から伐採された木材は木曽川の支流に落とされ、その後、木曽川の流れに乗って下流の八百津まで運ばれ、そこで筏に組なおされ名古屋市そして伊勢方面へと運ばれていきました。これを「川狩り」といいます。

このとこから、この川狩りに差し障る大規模ダム建設は当初は許可されませんでした。
そこで桃介は当時、御料林を管理していた「帝室林野局」との間で、木材搬出用の森林鉄道を敷設することを条件に、この川狩り問題の解決が図られることになります。
尚、森林鉄道の敷設は大正10年(1921)から始まります。

この問題の解決により、大ダム構想が現実のものとなり、桃介の代表的事業である「大井ダム建設」の足場固めが図られます。
この大井ダムはあの恵那峡の遊覧船が発着する場所に近いところにあります。

この大井ダムは大正13年に完成したもので、河川の水を貯えて発電を調整することができるダム式のもので、日本で最初のものです。
その後も木曽川流域では発電、送電用の水力発電所の建設が続き、私たちが辿る木曽路の旅ではいたるところに発電所が現れます。

桃介は電力王と言われ、貴族院議員、帝国劇場の代表取締役などを歴任して、昭和13年、70歳でなくなりました。
前述のように福沢諭吉の娘婿でありながら、諭吉からの援助をまったく受けず、独歩の起業家精神を貫き通した人物です。

また、彼の名をさらに有名にしたのは、桃介と女優貞奴(さだやっこ)との恋物語ではないでしょうか。
貞奴は華やかな花柳界に属し、伊藤博文をはじめ維新の立役者たちを贔屓にした芸者です。

貞奴は明治23年に当時の演劇の旗手でもあった「川上音次郎」と結婚します。川上音次郎は「オッペケペー!」で知られる「オッペケペー節」で名を馳せた人物です。
音二郎と結婚した貞奴は当時ではまだ女性が芝居の道へはいることがはばかれる時代だったのですが、明治28年に日本で初めて女優になった女性なのです。

NHK大河ドラマ「春の波濤」では桃介と貞奴が大井ダムの工事用のゴンドラに乗っているシーンが描かれています。
音二郎の死後、貞奴は桃介と同棲生活に入り、女優引退後は岐阜県各務原市に貞照寺を建立し、木曽川畔に別荘を造り、昭和21年に没するまで、静かに余生を過ごしたといいます。



さあ!淡々とした道筋の国道19号線に沿っての旅も終わりに近づきます。
19号線に沿って中央本線も走っています。

そんな中央本線ですが、その区間は東京の新宿から名古屋までを結んでいます。しかしこの区間を直通で走る電車は1本もありません。

現在の中央本線は私鉄の甲武鉄道が前身で、明治37年に国有化され、電化も国鉄の中では一番早かったのです。
名古屋からの鉄道敷設は明治33年の名古屋と多治見間の完成が最初で、明治35年には多治見から中津(現在の中津川)が開通します。
その後、明治41年に中津から坂下、翌年42年に坂下から須原が開通します。
そして明治44年に全線が開通します。

この中央本線の全線開通は前述の桃介にとって発電所建設になくてはならない存在だったのです。

建設資材の運搬が中央本線の開通で容易となり、桃介は大正8年に賤母発電所、大正11年に三留野に読書発電所建設資材運搬路として木曽川に橋を架けました。
それが現在、「桃介橋」と呼ばれているもので、全長347m、幅2.60mの木造の吊橋です。
この橋は日本有数の長大吊橋です。

尚、桃介橋は本日の昼食場所である南木曽の橋本屋さんの裏手に流れる木曽川に架かっています。
せっかくなので昼食後に、橋を渡ってはいかがでしょうか?

読書発電所は大正12年に竣工しました。桃介はこの読書発電所建設の指揮をとるため、風光明媚な三留野の地に大正8年に別荘を建て、ここから読書、大井などの発電所の建設現場に足を運んだといいます。桃介が別荘滞在中には政財界の大物や外国人技術者を招いて、華やかな宴が催されたといいます。

大正13年に大井発電所が完成するまで、桃介は別荘にあの貞奴を呼び、避暑のために長期に滞在したといいます、貞奴が駅に降り立つたびに、有名な女優を一目みようと黒山の人だかりだったといいます。



そんな話をしていると、歩き始めて10キロ地点にさしかかります。
さあ!41番目の宿場町である「三留野」に到着です。

三留野宿は中央本線の南木曽駅から徒歩で15分ほどの場所に位置しています。
三留野宿は木曽十一宿の一つです。宿内の距離はわずか2町15間(250m)という短さです。

一応宿場なので、街道時代にはそれなりに栄えていたと言いますが、明治以降、国道が開通したことで人家も国道に沿って建つようになり、これに伴い人の流れも変わってしまい、現在の宿場跡は車も人もほとんど通らない、静かな通りとなっています。

宿内にはわずかばかりの古い家が残ってはいますが、江戸時代のものではないようです。
それもそのはず、江戸時代に四度の大火、更に明治に入っても大火に遭い、その都度、宿内の建物のほとんどを焼失した記録が残っています。

ここ三留野宿も史蹟らしきものはほとんど残っておらず、寂びれきっているという印象です。
唯一、かつてここにあったと言われる本陣と脇本陣の跡に案内板が置かれている程度です。

天保14年(1843)の記録によると、人口594人、家数77軒、本陣1、脇本陣1、旅籠32軒。江戸寄りから新町、上仲町、下仲町、坂の下の4町から構成されていました。

宿内を進むと右手のちょっとした空き地に「明治天皇御行在所記念碑」なる石碑が置かれています。
そしてここが三留野宿の本陣があった場所です。三留野本陣は代々、鮎沢家が務め、明治13年6月27日、明治天皇が行幸された際に宿泊されました。
しかし明治14年の大火で本陣は焼失してしまいました。この明治の大火で焼失した建物は家屋74軒、土蔵8軒にのぼったようです。

そして本陣からほんの少し歩いた左側に脇本陣跡の案内板が置かれています。



道筋は下中町で二つに分岐します。どちらの道を行ってもこの先で合流します。
分岐する左側の道筋は明治以降の道ではないでしょうか?
私たちは歴史の道の標通りに、右手に降りる石段を下りていきましょう。

石段を下りると坂の下町で、ここが三留野宿の西のはずれになり、この先に流れる梨小沢に架かる梨沢橋を渡ります。橋を渡ると三留野宿は終わります。

橋を渡ると読書小学校(現在は南木曽小学校)があります。読書とはこの辺りの地名ですが、明治7年(1874)に与川村(よがわむら)、三留野村(みどのむら)、柿其村(かきぞれむら)が合併し、それぞれの頭文字をとって「よみかき」とし、「読書」を当て字にしたようです。
その後、昭和36年(1961)に読書村、吾妻村、田立村が合併して、現在の南木曽町が発足しました。

このあたりで木曽路はちょっと変則的な道筋となります。本来の道筋は現在個人のお宅の庭先となっているので、歩くのがはばかれます。
このためその道を若干迂回するように坂道が付けられているので、ちょっとした坂道をのぼって旧街道へと進んでいきましょう。
すこし高台を歩くような道筋はすぐに下り坂となって「蛇抜橋(じゃぬけばし)」へと下りていきます。

「蛇抜」とはいったいどういう意味なのでしょうか? 山間の場所なので蛇の通り道か大蛇伝説なのか? なんて想像しますが、実は古くからここ木曽谷に住む人たちから恐れられている山津波といわれる「土石流」のことです。
大雨が降った時に沢伝いの土砂が崩れ、沢を蛇が抜けていくように土石流が襲ってくる様を表しています。
木曽谷一帯ではこの蛇抜が頻繁に起こり、多くの家屋を押し流し、人命が失われた歴史があります。

「白い雨が降る。大雨が降り続いているのに沢の水が止まる。
これは蛇抜が起こる前兆、と木曽谷では伝えられています。

蛇抜橋を渡ると、右手前方に中央本線の南木曽駅が見えてきます。歩き始めて11キロを超えようとしています。

それでは本日の昼食(食事処)である橋本屋へと向かうことにします。橋本屋への道筋は街道から右手へ逸れて、中央本線の線路を跨ぐ陸橋を渡り、南木曽駅方面へ少し歩いていきます。橋本屋さん到着時点で本日の歩行距離は11.7キロです。

橋本屋さんは店の名の通り、前述の「桃介橋」の袂に店を構えていることから店の屋号が「橋本屋」になっているものと推察します。美しい外観の桃介橋は橋本屋さんの裏手から渡ることができます。

木曽路十五宿街道めぐり(其の一)塩尻~洗馬
木曽路十五宿街道めぐり(其の二)洗馬~本山
木曽路十五宿街道めぐり(其の三)本山~日出塩駅
木曽路十五宿街道めぐり(其の四)日出塩駅~贄川(にえかわ)
木曽路十五宿街道めぐり(其の五)贄川~漆の里「平沢」
木曽路十五宿街道めぐり(其の六)漆の里「平沢」~奈良井
木曽路十五宿街道めぐり(其の七)奈良井~鳥居峠~藪原
木曽路十五宿街道めぐり(其の八)藪原~宮ノ越
木曽路十五宿街道めぐり(其の九)宮ノ越~木曽福島
木曽路十五宿街道めぐり(其の十)木曽福島~上松
木曽路十五宿街道めぐり(其の十一)上松~寝覚の床
木曽路十五宿街道めぐり(其の十二)寝覚の床~倉本駅
木曽路十五宿街道めぐり(其の十三)倉本駅前~須原宿
木曽路十五宿街道めぐり(其の十四)須原宿~道の駅・大桑
木曽路十五宿街道めぐり(其の十五)道の駅・大桑~野尻宿
木曽路十五宿街道めぐり(其の十七)南木曽~妻籠峠~妻籠宿
木曽路十五宿街道めぐり(其の十八)妻籠宿~馬籠峠~馬籠宿
木曽路十五宿街道めぐり(其の十九)馬籠宿~落合宿の東木戸
木曽路十五宿街道めぐり(其の二十)落合宿の東木戸~中津川宿



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木曽路十五宿街道めぐり (其の十五) 道の駅大桑~野尻宿

2015年08月19日 12時33分55秒 | 木曽路十五宿街道めぐり
昨日はJR中央本線の倉本駅から歩きはじめ、途中、39番目の静かな須原宿に立ち寄り、長閑な田園風景を眺めながら、ここ道の駅・大桑までの10.9キロを踏破しました。

第一日目の道筋は比較的平坦ではあったのですが、やはり木曽路、木曽谷というくらいで処々にそれほど体には負担は感じない程度の起伏が若干ありました。

昨日の行程で私たちは須原宿の手前で19号線と分かれ、田舎道を辿り大桑駅までを通過して、再び19号線に合流し、木曽川が間近に流れる場所へとやってきました。
そんな場所に置かれているのが、「道の駅・大桑」です。

ここからまずは40番目の宿場である「野尻宿」を目指しますが、道の駅を出ると次のトイレはここから2キロ先のJR中央本線の野尻駅までありません。

本日の行程は次の宿場である野尻を抜けて、JRの十二兼駅前、そして41番目の三留野宿を経て、南木曽へといたります。
南木曽を抜けるといよいよ本日の終着地点である「妻籠宿」への峠越えが待っています。

旅の前半の行程は比較的平坦な道筋を辿って行きますが、南木曽以降はややキツイ上り坂の行程で、妻籠宿近くでやっと緩やかな下りへと変ります。

そして木曽川の流れを眺められるのは南木曽までで、その後は妻籠へとつづく山間へと入り、妻籠宿に入ると木曽川の支流である「蘭川」が待っています。
さあ!それでは出立とまいりましょう。



道の駅・大桑から300mほどで19号線から分岐して、旧街道は右手にのびる小路へと入って行きます。分岐してから500mほどのところにJR中央本線の第11中山道踏切が現れます。
この踏切を渡り、しばらく線路に沿って進んで行きます。



JR中央本線の第11中山道踏切を渡ると小さな林集落が現れます。あっという間に通り過ぎてしまうほどの小さな集落です。そして次の踏切を渡ると41番目の宿場町である「野尻」の東木戸にはもう目と鼻の先です。

踏切を渡り、道なりに進んで行くと、街道の右手先にレンガ造りの洋風建築が見えてきます。
旧街道はレンガ造りの建物の手前を左へ折れ曲がりつづいています。



そんな曲りの角に「野尻宿」の石柱が1本置かれています。緩やかな坂を上っていくと、すぐに街道は右手に折れ曲がります。



このように野尻宿はいたるところに曲がりを持つ宿場町で、その曲りに沿って家並みがつづいています。
中山道以外の街道の宿場町でもこのように曲がり(桝形を含む)を持つ宿場はあるのですが、ここ野尻はかなりくねくねと曲がりを付けています。曲がりをつけるということは先を見通せないことで、外部からの敵の侵入を容易にさせない理由があります。

天保14年(1843)の記録によれば、野尻宿は東西六町三尺(約655m)の宿内の距離を持ち、人口は986人、家の数は108軒、本陣1、脇本陣1、そして旅籠が19軒あったと記されています。規模としては中規模かな。

宿内は江戸の方向から上町、中町(本町)、横町、荒田(新田)と4町が並んでいました。宿内の地形は本町と横町が底部に位置しており、宿の出入口に近い上町と新田が坂道で、更に道筋をくねくね曲げているため、人の出入りが簡単にできないような造りになっていました。

現在でもその曲りにそって家並みが続き、宿内には車も乗りいれてくるのですが、ここまでくねくねしているとスピードも出せず、走りにくいので車の往来はそれほど多くありません。
そして宿の東と西に「はずれ」という屋号を持つ家がありました。尚、この野尻宿も木曽路の他の宿場と同様、明治27年の大火で宿場が全焼したため、今残っている古そうな建物でも明治の大火以降のものです。

野尻宿の印象ですが、古い宿場町であるにもかかわらず、特段見るべきものがありません。史跡といってもほとんどなく、わずかにその痕跡を残す「跡」にも詳しい説明書きはありません。したがって、当宿の見どころ?は宿内の「曲がり」だけかな、といった印象です。



さあ!宿内を辿っていきましょう。宿は国道19号と木曽川に挟まれた段丘の上に設けられ、現在はJR中央本線が旧街道に沿って走っています。宿は街道整備が始まる年である慶長6年(1601)に成立した古い宿場町です。

前述のように明治の大火で宿が全焼し、その後に建てられた家並みが残っています。処々に出桁造りの家が現れ、かろうじて宿場らしい風情を漂わせています。道筋は曲りを加えて、緩やかにカーブしていきます。

野尻宿家並

常夜燈の立つところで道筋は大きく右手へと曲がります。その先の左手に「明治天皇御小休所碑」が置かれています。そしてここに野尻宿の本陣が置かれていた場所です。
近接して街道の右側に脇本陣跡の案内が置かれています。
徐々にJR野尻駅に近づいてきます。駅は街道から右手に少し入ったところにあります。
駅前といってもほんの僅かな商店がならぶだけで、何処の宿場と同じような駅前の佇まいを見せています。

野尻宿家並

明治天皇御小休所碑を過ぎると、街道左側に比較的大きな古そうな建物が見えてきます。
かつて旅籠を営んでいた「庭田屋」です。この建物を見る限り、かつての宿場の雰囲気を若干なりとも感じます。

庭田屋

そして郵便局を過ぎてすぐに四辻にさしかかります。ここの辻を左へ曲がる道筋が「与川道」と呼ばれていました。この道筋はここから「根の上峠」を越えて三留野宿へと至っています。
実はこの道筋も中山道でルートの一つです。

野尻宿と三留野宿の間は街道時代には木曽川の断崖絶壁を辿る難所だったのです。そこでこれを避けるために享保年間(1716-1736)に与川道という迂回路が造られたのです。私たちは今回は与川道を辿らず、三留野へと進みます。
そんな街道の西のはずれに、その屋号も「はずれ」と記された家が残っています。

はずれ

さあ!野尻宿の西のはずれにきてしまいました。それでは野尻宿を後にして、次の宿場・三留野へ向かうことにしましょう。二反田橋を渡ると宿を出てしまいます。

木曽路十五宿街道めぐり(其の一)塩尻~洗馬
木曽路十五宿街道めぐり(其の二)洗馬~本山
木曽路十五宿街道めぐり(其の三)本山~日出塩駅
木曽路十五宿街道めぐり(其の四)日出塩駅~贄川(にえかわ)
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木曽路十五宿街道めぐり(其の七)奈良井~鳥居峠~藪原
木曽路十五宿街道めぐり(其の八)藪原~宮ノ越
木曽路十五宿街道めぐり(其の九)宮ノ越~木曽福島
木曽路十五宿街道めぐり(其の十)木曽福島~上松
木曽路十五宿街道めぐり(其の十一)上松~寝覚の床
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木曽路十五宿街道めぐり(其の二十)落合宿の東木戸~中津川宿



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