大江戸散策徒然噺 Introducing Japanese culture and history

豊かな歴史に彩られた日本の文化と歴史を紹介

お江戸・墨堤向島、旧寺島村総鎮守・白髭大神境内【お江戸・向島】

2010年10月29日 22時29分04秒 | 墨田区・歴史散策
向島百花園からわずか250mほどの距離に鎮座する由緒ある神社、それが「白鬚神社」です。向島では最も古い由緒ある神社の一つで、かつてここが寺島村と呼ばれていた頃の総鎮守の格式がありました。
とは言っても、現在の白鬚神社の規模はそれほど立派なものではありませんが……。

 


祭神は猿田彦命(さるたひこのみこと)で、国土の神・道案内の守神であり、隅田川沿いの道祖神の役割やお客を導き案内する神として信仰を集めてきたようです。

お客様を導き案内をしてくれるという信仰からか、境内に置かれている狛犬の台座にはこんな方々の名前が彫られているのを見つけました。



吉原の妓楼の主人である松葉屋半衛門、浅草山谷の一流料亭「八百善」の主人である八百屋善四郎の2名の名が狛犬の寄進者として刻まれています。この狛犬には文化3年(1806)の年号が刻まれています。

 


八百善は江戸時代の宝暦・明和の頃に有名になった高級料理店です。特に「茶漬け1両2分」の噺は有名で八百善の語り草となっています。
それはこんな噺です。あるとき2人の食通が八百善にやってきて極上の茶漬けと香の物を所望したところ、半日ほど待たされて代金1両2分を請求されたという噺なのですが、これには次のような理由があったのです。
香のもので出した粕漬けには、まだ春には珍しい瓜と茄子を使いました。これは亀戸の村で特別に作らせたもので、生ゴミを温床にして油紙で覆い、炭火で保温するという方法で栽培したもの。そして極上の茶にあう良質の水を求めて玉川まで水汲みに走らせたといいます。さらには米は越後の選りすぐり米。だから代金が1両2分なのです。

またこの神社にはこんな武勇伝が残っています。
時は大正6年の例大祭、神輿をかつぐ若い衆は血気にはやって、隅田川を押し渡り日ごろから憧れていた吉原へと繰り込んでいきました。そして当寺、最大の妓楼「角海老」へ獅子頭を振りたてて舞い込んでしまいました。
と言っても、酒の勢いと若者意識から妓楼・角海老の中でさんざん暴れ回ってから引き上げたため、大問題へと発展してしまいました。この結果、これ以降は獅子舞の行事は中止されることとなったとのことです。

尚、当白鬚神社は向島七福神の「寿老人」を祀っています。
お正月の七福神巡りの頃は、百花園とともに沢山の人出で賑わいます。





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お江戸・風流向島、文人墨客の庭園「向島百花園」【お江戸・向島】

2010年10月29日 21時26分47秒 | 墨田区・歴史散策
世紀の電波塔「スカイツリー」のお膝元、東向島駅からわずかな距離に江戸時代から文人墨客に愛され、維持されてきた名園があるんです。その名を「向島百花園」といいます。

百花園入口
百花園内の木戸

向島百花園は江戸時代の文化2年(1805)頃、 江戸日本橋で骨董屋を営んでいた佐原鞠塢(さはらきくう)という粋人が向島寺島村の元旗本、多賀氏の屋敷跡約3,000坪を買取り、鞠塢と親交 の深かった当寺の超一流の文化人たちの協力を得て、彼ら文人らしい趣き豊な庭園として創設したものです。
園内には七福神の福禄寿を祀る祠があり、毎年1月の七福神巡りではたくさんの人出で賑わいます。(ご開帳は1/1-1/7)

福禄寿の祠

昭和8年 (1933) 2月 国の 「名勝」に指定され、 昭和13年に(1938) 当時の所有者から東京市に寄付されました。 戦災で石碑以外は全て焼失しましたが、 同24年に復元、同53年10月文化財保護法による「名勝及史跡」の指定を受けています。
庭園の特徴は、芭蕉の句碑をはじめ20数基の石碑が園内に点在し、大名庭園のような築山、八景などの造園手法ではなく、江戸の粋な文人趣味の基に作庭されむしろ素朴さを感じさせてくれます。

10月末の東京はどこを見てもまだ本格的な秋の装いではないのです。ここ向島百花園の木々の葉もまだ鮮やかな緑を保ち、紅葉、黄葉、落葉の趣きはもう少し先になるような気配。

園内では最も有名な「萩のトンネル」の最盛期は逸してしまい、花弁は落ちてしまっていましたが、枝と葉が萩のトンネルの名残りを感じさせてくれました。

 


またここ百花園はいつの季節でも、その季節ごとの「七草」を愛でることができるという良さがあります。

平日の百花園は人影もまばらで、秋の風にそよぐ木々の枝葉の揺れる音と園内の小鳥のさえずり、そして園内の小さな川の流れの水音が心地よく耳に伝わってきます。
園内からは間近に聳えるスカイツリーの姿が、木々の間から見え隠れし、風流と現代が共存しています。

 


園内の一角に売店があるのですが、このお店はこの庭園をつくった佐原鞠塢の子孫の方が、東京都公園協会から特別に許可され営業しているとのことです。

売店
ヘビウリの棚

向島百花園からのお勧め散策コースとしては、近くの白髭神社を詣でた後、少し歩きますが言問橋へ。長命寺の桜餅、言問団子を楽しみ、長命水の長命寺、黄檗派の名刹「弘福禅寺」、三囲神社そして牛嶋神社を巡り、スカイツリーを終着点としてみてはいかがでしょうか?





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隅田川のほとり・梅若権現御縁起ゆかりの名刹「木母寺」【お江戸・墨堤白髭、鐘淵】

2010年10月29日 20時11分29秒 | 墨田区・歴史散策
墨田区側の隅田河岸に点在する古刹、神社は数限りなくありますが、その中でさまざまな書籍に頻繁に登場する寺があるんです。その名を木母寺といいます。それほど有名なお寺ならば、一度はお訪ねしなければと、行ってきました。
当寺の在所は隅田河岸の白鬚(しらひげ)と言う。風情を残す言問界隈から隅田川墨堤を上流へと進むこと白髭まではかなりの距離があるのですが、白髭橋を越えると墨堤河岸の景色は一変してくるんですね。
かなり大きな公園(白鬚公園と呼ばれている)の中を抜けて歩くこと700mほど(私鉄の一駅位の距離がある)、やっと左手にお社が見えてくるのですが、これは隅田川神社。つい間違いそうなのですが、目指す木母寺はもう少し先なのです。古刹という先入観から、古めかしい佇まいのお寺さんと考えてしまうのですが、この期待を見事に裏切るような現代風の本堂が目の前に飛び込んできます。「ほんとうにお寺さんなの?」といった佇まいです。

 
木母寺全景

さてこのお寺がどうして有名なのか、というお話になるのですが、実は謡曲「隅田川」の舞台となっているからなのです。
※謡曲(ようきょく)とは「能」の歌詞の部分で謡(うたい)とも言っているものです。

この謡曲「隅田川」は室町時代の能役者、能作者でもある世阿弥の長男、観世十郎元雅作と言われているのですが、その物語の中にでてくる梅若山王権現という人物がここ木母寺に所縁があるのですが、実は江戸時代の初期までは梅若寺と称していたのです。

そして当寺に現存する絵巻物「梅若権現御縁起」には以下のような説話が記述されているとのことです。
「都の公家の子息梅若丸は、人買いにさらわれてここ東国に連れてこられ、隅田河畔で病のため12歳の若さで貞元元年(976)3月15日に亡くなったといいます。
そしていまわの際に詠んだ歌が「尋ね来て 問はば応へよ都鳥 隅田川原の露と消へぬと」。
そして翌年、我が子を探し求めてきた母親が隅田川のほとりで、息子梅若の霊と巡りあい、この地に草堂を営み、常行念仏の道場となし、永くその霊を弔うこととなった。という物語なのです。

「安寿と厨子王」に若干似ている物語ですが、梅若丸の場合は亡くなってしまったのですね。
木母寺は山号を梅柳山といい、天台宗に属する墨東第一の名刹です。開山は忠円阿闍梨で、平安中期の貞元元年(976)であったと伝えられています。古くは梅若寺といい、隅田院とも称しましたが天正18年(1590)家康によって、梅柳山の命名を得ています。
その後、慶長12年(1607)には、前関白近衛信尹が参詣の折、柳の枝を折って「梅」の字を分け「木母寺」として以来今日に至っています。

※天正18年(1590)の8月1日は家康公が江戸に初入府した年で、江戸時代を通じ「八朔の日」としてたいへん重要な行事が毎年御城で営まれていました。

前述のように現代風の本堂が建つ境内の一角にガラス張りの建物があります。このガラス張りの建物の中に「梅若念仏堂」が大切に保存されています。念仏堂の左隣には石積みの「梅若塚」が石柵に囲われ静かに佇んでいます。この塚は貞元元年(976)梅若丸が亡くなった場所に、僧の忠円阿闍梨が墓石(塚)が築き、柳の木を植えて供養したものです。

念仏堂内部
念仏堂脇の梅若塚

また都内第一という巨碑が境内の一角に。伊藤博文の題字は約75cm角という大きさを誇ります。裏面には杉孫七郎の撰になる明治財界の雄・田中平八の略歴を記しています。







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知る人ぞ知る、亀戸は大根の名産地!【お江戸亀戸・香取神社】

2010年10月20日 16時30分15秒 | 江東区・歴史散策
亀戸で大根?今じゃ、畑も田圃もどこかへいっちまったというのに。いったい亀戸のどこで作ってんの?

おいおい。亀戸で大根つくってたのはお江戸の時代の話。ってことで、おいら亀戸大根の故郷へ一っ走り行ってきやした。

亀戸と言や、天神様。その天神様の境内から東へほんの少し行ったところに香取神社のお社が鎮座しておる。その昔にゃ、香取神社の裏側に梅見で賑わった梅屋敷があったそうだ。この香取様の周りで作っていたのが「亀戸大根」って呼ばれていたようだ。

香取神社の御社殿 
香取神社参道:結構長い参道

いつ頃から作ってたかって?
そりゃ古い昔からと言いたいところだが、実はお江戸も末の文久の頃だとさ。詳しくは分からねえが、文久元年から3年てところ。西暦にすると1861年から1863年頃だろうさ。安政の大獄が一応けりがついて、いよいよ幕末も佳境に入ってきたころに、お江戸のはずれの亀戸で大根作りとは、これまた豪気だね。

亀戸大根のプレート

江戸時代にゃ、他に三浦や練馬でも大根を作っていたにも関わらず、この亀戸大根が結構人気になったそうだ。その訳には、根っこも葉っぱも共に浅漬けにすると美味しかったらしい。きっと天神様のお参りの帰りに、我先にと買って帰ったんじゃないだろうか。

そりゃそうだ。三浦大根や練馬大根じゃ大きすぎて浅漬けにゃ、ちと難儀する。亀戸大根は普通の大根(青首大根)より小ぶりで、人参を少し大きくしたぐらいの大きさだったらしい。この大きさだったら、浅漬けにゃ、もってこいだ。

中川番所資料館の展示から拝借(真中が亀戸大根)

で、その亀戸大根っていうのは今でも作ってのかい?
亀戸辺りじゃ、もう無理な話で大根つくる畑も田圃もない。実は中川(荒川)を越した葛飾高砂で今でも作ってるって話だ。とはいっても2~3軒の農家で細々とっていう程度だから、とてもじゃないが市場に出回ることはほとんどない。
食べて見たい?そんなら亀戸の老舗「亀戸 升本」っていうところで亀戸大根の料理を食わしてくれるはず。
場所かい?JR亀戸駅を背にして明治通りを真っ直ぐ歩いていくと蔵前橋通りの交差点があるから、その右角にでかい構えの本店がすぐに見つかるよ。
お勧めかい?やっぱし「亀戸大根あさり鍋めし」なんぞどうだい。亀戸大根と深川のあさり飯のコラボっていうやつよ!

おっと忘れてた!香取神社の境内にゃ、この亀戸大根の碑が建ってるってことを。確かに大根の形をしとる。ちょっと見にゃ、どでかい砲弾のような形じゃがな。

亀戸大根の碑

もう一つ、本社殿の右に井戸があるんじゃが、実は亀戸という地名と関係が深いんだと。
亀戸の名前の謂れは「亀が井戸」らしい。その昔、この辺りは亀の形をした島に井戸があったことから「亀が井戸」と呼ばれたようじゃ。そこで、そこでじゃ、なんとその井戸を再現しようと(本当に掘りよった。)2003年4月に「平成の亀が井戸」が完成してしまったのだとさ。

復元!亀が井戸

ついでにJR亀戸駅前の宝くじ売り場(屋台)にゃ、縁起をかついでのことか、どでかい亀のたわしが飾ってあるんですね。もちろん天神様のお池にゃ、亀だらけ!

参考までに、亀戸大根の料理を召し上がってみたいとお考えなら、「亀戸升本」をおすすめいたします。
■升本本店
http://masumoto.co.jp/ja/honten/
住所 : 東京都江東区亀戸4-18-9
アクセス : JR総武線亀戸駅 北口 徒歩7分 / 東武亀戸線亀戸駅 徒歩7分
電話 : 03-3637-1533
営業時間平日  昼席:11:30~14:30(14:00 L.O.) 夜席:17:00~21:30(20:30 L.O.)
土日祝日 昼席:11:00~15:00(14:30 L.O.) 夜席:17:00~21:00(20:00L.O.)
定休日 : 毎月第3月曜日 ※1月、8月、12月を除く ※月曜日祝日の時は翌日火曜日 定休日

■お弁当店
すずしろ庵(亀戸十三間通り)
升本のお弁当を専門に扱う店舗ですが、店内に狭いスペースですがイートインができるようになっています。
電話: 03-5626-3636 (直通)
住所: 江東区亀戸2-45-8 升本ビル1階
営業: 年中無休





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お江戸庶民の行楽地・洲崎弁天ってどんなとこ?【お江戸深川・江戸の海辺】

2010年10月19日 14時03分35秒 | 江東区・歴史散策
お江戸の行楽地を調べていると、頻繁にでてくるのが洲崎という地名。そして江戸時代を通じて風光明媚な江戸湾に面した景勝地で、季節ともなると釣りや潮干狩り、船遊びなどで大いに賑わったと書かれています。
そして歌川広重の名所図会にも描かれているのですが、その絵を見ると江戸湾の波が葦が生い茂る湿原に打ち寄せ、いかにも海辺の景勝地といったところです。
そして江戸後期には「東に房総半島、西は芝浦まで東京湾をぐるりと手に取るように眺められる景勝地」として発展し、初日の出の名所として人気を集めたと言われています。

それではどこだと言うことで、一っ走り行ってきました。場所は江東区の東西線木場駅のすぐ側。現在は東陽町という地名に変わっていますが、ここがかつての洲崎海岸があった場所です。
そしてもう一つ、洲崎を有名にしたのが吉原と双璧をなす大歓楽街がここ洲崎にあったことなのですが、そんなことを知っているいる人がどれだけいるのだろうか、と思えるほど現在の洲崎にはそんな面影はまったく見当たりません。ただ「辰巳(たつみ)芸者」という言葉を聞くと、「あ~、あの辰巳芸者のいた場所なんだ。」と想いを馳せる御仁もいらっしゃるのでは?
実はこの大歓楽街があったのは明治から大正そして昭和18年ころまでの話です。話によると吉原にあった「大門」と同じように「洲崎大門」が歓楽街の入口に建っていたようです。

さてよく江戸前の海という言い方をしますが、江戸前の海はいったいどの場所の海の事をいっていたのだろう。
実はここ洲崎の海岸と品川洲崎の利田神社を直線で結んだ陸側の海を当時は「江戸前の海」と言っていたようです。

いまでこそ東京湾の海岸線は埋め立てによりはるか南へと移動していますが、江戸時代はここ洲崎が海岸線で江戸湾の波がチャッポン、チャッポンと打ち寄せていたのです。

洲崎神社鳥居

さて本日のお題の「洲崎弁天」ですが、これまたかなり由緒正しい神社なのです。
江戸時代からの名刹で、生類憐みの令で知られる五代将軍・徳川綱吉公の生母・桂昌院が守り神としていた元弁天社を、元禄13年(1700)に江戸城中の紅葉山(もみじやま)から遷したことが起源であると伝えられています。当時はご祭神を海岸から離れた小島に祀ったため「浮弁天」と呼ばれ、海難除けの社として地元漁民の信仰を集めていました。

洲崎神社の社殿

赤い鳥居をくぐってすぐ左脇に「波除碑」と「津波警告の碑」が建てられています。なぜこのような碑がたっているかというと、ここ洲崎周辺は寛政3年(1791)の台風の高潮で多くの死傷者を出し、洲崎弁天も大きな被害を受けました。このため幕府はこの一帯の土地を買い上げて空き地とし、居住を禁止したのです。そして被害の惨状を記した波除の碑を寛政6年(1794)に設置しました。

津波警告の碑
寛政時代の波除碑

本神社の社殿の右手奥に小さな池があり、その池の中の小さな島に弁天を祀る祠があります。

洲崎神社の弁天池

かつては風向明媚な海岸を望む場所にあったここ洲崎神社は、時代の変遷の中で住宅街に囲まれた場所に静かに佇んでいます。





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幕末流行の今だから、やっぱり桜田門!【お江戸・幕末桜田の門】

2010年10月18日 12時05分11秒 | 千代田区・歴史散策
NHK大河ドラマ「龍馬伝」も慶応の時代に入り、龍馬暗殺まであと6ヶ月と終盤へとさしかかってきた。また映画「桜田門」の宣伝プロモーションもテレビで頻繁にオンエアされている中で、お江戸散策徒然噺のお題としては幕末の一大エポックを演出した「外桜田門」は絶対にはずせない素材です。

乾濠から桜田門を俯瞰

「太平の眠りを覚ます 上喜撰 たった4杯で夜も眠れず」
こんな川柳が江戸の庶民の間で囁かれた裏には、浦賀沖に軍艦4隻を率いてやってきたペリーの黒船来航という一大事件に幕府が右往左往する様を的確に表しているんですね。
嘉永6年(1853)の最初のペリー来航で開国を迫ったものの、時の若き老中、阿部正弘は日本人特有の「のらりくらり戦法」で、回答を翌年に延ばし、その間に黒船撃退法を諸大名をはじめ、果ては庶民にまで募る始末。翌年安政元年(1854)に再来航したペリーは7隻の艦隊を率いて、恫喝的に開国を迫り、ついには「日米和親条約」が締結されたのはご存知の通り。これにより幕府の鎖国政策は外圧によって、あっけなく破られてしまったのです。
そして大きく時代が変わってゆく中で、日本の舵取りに奔走した老中・阿部正弘はその心労からか和親条約締結の2年後の安政3年に39歳という若さで病没してしまいます。

阿部正弘の死後、幕府は2つの大きな課題を抱えていました。一つは13代家定公の将軍継嗣問題ともう一つが初代総領事ハリスが要求する日米修好通商条約の交渉でした。この2つが複雑にからみ、幕府内部には勢力争いが生じていたのです。この深刻な問題を幕府権力をもって強行に突破しようとした一人の男がいたのです。
それが彦根藩主から一躍、時の人となった「井伊直弼」だったのです。

そんな最中の安政5年4月、重大な局面に陥っていた時に設けられる大老職に井伊掃部頭直弼が任ぜられたのです。まず解決を図らなければならなった事案が日米修好通商条約の調印なのですが、実はこの調印の期日をハリスとの間ですでに取り決められていたのです。その期日は同年の7月27日だったのです。
しかしこの条約調印には水戸の徳川斉昭、越前の松平慶永、薩摩の島津斉彬らの、所謂、将軍継嗣問題で争っている「一橋派」の面々の反対行動が伴っていたのです。
同時に日米修好通商条約の調印には朝廷の勅許が不可欠であったのですが、ハリスからの強硬な申し出に安政5年6月15日に調印してしまうのです。これが世に言う「違勅調印」です。この「違勅調印」は一橋派の直弼攻撃の絶好の機会を与えてしまう結果となるのです。

さらに将軍継嗣問題においても前述の一橋派が押す慶喜と紀州の徳川慶福(よしとみ)を押す南紀派の対立は激しさを増していきます。この南紀派の筆頭がほかならぬ井伊直弼なのですが、日米修好通商条約調印後、間髪を入れず、同月6月25日に幕府は紀州徳川慶福(家茂)を14代将軍に決定したのです。

条約調印と将軍継嗣の二つの問題を大老・井伊直弼の主導の下、一応の解決はみたものの政局はむしろ複雑、そして混迷の度合いを更に深めていきます。
こうした情勢の中で、井伊直弼は二つの問題を処理した余勢をかって政敵の一掃にとりかかっていきます。
この行動があの「安政の大獄」と言われる尊王攘夷派に対する粛清です。この粛清の対象となったのは、一橋派の水戸斉昭、松平慶永をはじめ、反対派の大名、公卿、廷臣らに及んでいきます。
特に条約調印に激怒した時の天皇である孝明天皇が水戸藩に下した攘夷の勅諚は、逆に幕府大老の井伊直弼の逆鱗に触れたことは疑いの余地がない事実なのです。
これにより水戸藩降勅の首謀者を梅田雲浜と断じ、これを捕縛したことに「安政の大獄」の端緒が開かれたのです。

水戸藩に対する井伊直弼の圧迫と追及はすざましく、徳川御三家という家柄にもかかわらず水戸家存亡の危機と言われるまで追い詰められていきます。そんな状況の中で幕府、すなわち井伊直弼の強硬な態度に号を煮やした水戸藩士がいたのです。高橋多一郎、住谷寅之助と関鉄之助を中心とする藩士が企てた計画が井伊直弼暗殺なのです。密かに脱藩した彼らは江戸に入り、薩摩藩士・有村次左衛門らとともに大老襲撃の手筈を整えていきます。
いうところの万延元年(1860)3月3日の「桜田門外の変」なのです。

春というにはその日は季節はずれの大雪。水戸藩浪士ら18人は五つ半(午前9じ頃)には大老・井伊直弼の登城の行列を見物する江戸の庶民に混じって待っていたのです。この日、3月3日は雛の節句(上巳の節句)ということで諸侯の登城日と定められていたのです。
いよいよ井伊直弼の行列が桜田門にさしかかったその時、一人の浪士が行列へと進み出て「捧げまする」「捧げまする」と言いよると同時に一発の銃声が響き渡ります。この銃声を合図に他の浪士全員が行列へと切りかかります。不意を付かれた井伊の従士達は反撃にでるのですが、おりしも大雪ということで、全員が雨合羽を着用し、不運なことに刀には雪水が入らないように柄袋をかぶせ、ご丁寧にもさらにコヨリでとめていたため反撃に遅れをとってしまったのです。
この襲撃で井伊直弼の首があげられ、桜田門外の雪は鮮血で真っ赤に染まっていきました。浪士組は18人中一人が闘死、4人が自刃、8人は自首したが5人が逃亡したのでした。

尚、幕末当時の井伊直弼の上屋敷は現在の国会議事堂前の憲政記念館がある場所で、桜田門まで僅か600m足らずの距離です。

さてこの事件がおこった桜田門ですが、国の特別史跡に指定されているほど重要な御門です。乾濠と日比谷濠の境に位置する門で、典型的な枡形門を形どっています。外側の高麗門(こうらいもん)と内側の渡櫓門(わたりやぐらもん)の二重構造になっていて、高麗門を入ると桝形とよばれる四角形の広場があります。この広場は門から打って出る兵の待機場所であると同時に敵に攻められた時はここに敵兵を引き入れ周囲から弓・鉄砲などで攻撃するような造りになっています。大正12年(1923)の関東大震災で一部が破損、鋼鉄土蔵造りに改修され今に至っています。

桜田門の高麗門と渡櫓
桜田門の渡櫓
枡形から見る渡櫓
渡櫓を抜け皇居外苑を望む

桜田門へのアプローチとしてお勧めなのが、前述の憲政記念館から徒歩で乾濠へとなだらかな坂を下り、濠に沿って前方に見える桜田門を眺めながら進むルートです。左手には乾濠に流れるようになだらかな傾斜を見せる土塁と吹上の緑がまるで絵葉書の写真を見るように続きます。そして桜田門に近づくにつれて、遥か前方には日比谷のビル群が見えてきます。150年前、同じ道程を進んだ井伊直弼の行列を脳裏に浮かべながら幕末の想いを偲んでみてはいかがですか。





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こんな所にあった!江戸の戯作者「滝沢馬琴」生誕の地碑【お江戸深川・清澄白河】

2010年10月17日 20時26分38秒 | 江東区・歴史散策
江戸の下町、門前仲町から清澄通りを北上し、仙台掘川に架かる海辺橋を渡るとすぐ右手の歩道脇に「滝沢馬琴生誕の地碑」が人知れず置かれている。



現在、海辺橋を渡る手前の地名は平野、清澄で橋を渡ると深川1、深川2へと変わります。そして橋名が「海辺」とあることから、海岸に近いかというと、現在の海岸線は遥か南へと後退し、海辺という橋名にそぐわない町並みが広がっています。

実はこの橋名の由来は、江戸幕府の開幕以前の慶長元年(1596)から元和元年(1615)にかけて、野口次郎左衛門という人物によってこの地域一帯が新田として開発され、海辺新田という地名が付されたことによります。海辺新田と呼ばれた地域は北は小名木川、東は永代新田、西は大川(隅田川)にまたがっています。そして開発を行った野口家は当地の名主を務め、寛保元年(1741)以降は海辺家を名乗りました。
その後、小名木川沿いは常陸、下総からの船運の船着き場として発展をし、深川海辺新町、深川海辺町と呼ばれるようになりました。江戸初期に開発された海辺新田も深川地区の開発が進むにつれて、新田の地域は狭くなっていきます。正徳3年(1713)には新田内に深川海辺大工町をはじめ新たに五町が成立し、町奉行支配下に置かれました。

また、江東区にはもう一つ「海辺」という町名があります。その場所は清洲橋通りを東へと走り、横十間川親水公園を跨ぐ岩井橋を渡る手前右手の狭い地域です。ただし前述の江戸時代に開発された海辺新田の地域には含まれていないエリアです。
江戸時代にこの岩井橋付近には「砂村隠亡掘(すなむらおんぼうぼり)」と呼ばれていた「焼場」「阿弥陀堂」があり、江戸市中から遠く離れた人気のない寂しい場所でした。
隠亡とは火葬に従事する人のことをいいます。
そんな場所柄から江戸の世話物話を完成させた四世鶴屋南北は怪談話にふさわしい場所として、隠亡掘を取り上げています。
南北の代表作である「東海道四谷怪談」では戸板にくくりつけられたお岩小仏小平が隠亡掘に流れ着いた場面を描いています。

それでは本題の滝沢馬琴の話に戻りましょう。ご存知、江戸時代後期の戯作者として知られている滝沢馬琴こと曲亭馬琴は明和4年(1767)にここ深川(現在の平野1-7付近)で生まれました。当時深川のこの地には、旗本・松平信成の屋敷があり、馬琴の父は松平家の使用人だったと伝えられています。馬琴は安永4年(1775)に父を亡くし家督を継ぎますが、安永9年(1780)年、馬琴15歳の時に松平家を辞し放浪生活に入り、さまざまな職を転々としながら、この地から僅かな距離にある門前仲町に居を構えます。そして寛政2年(1790)に黄表紙・洒落本で一世を風靡していた山東京伝(さんとうきょうでん)に弟子入りし、自らも戯作者として地位を固めていきます。

山東京伝は馬琴より6歳年上で、宝暦11年(1761)に深川の木場で生まれています。京伝は当時の遊郭を舞台にした洒落本を流行らせた人物です。俗にいえば江戸時代の軟派文学の代表格です。あまりの軟派文学であったことから、松平定信の寛政の改革の出版統制で、手鎖50日間の刑に処せられています。

滝沢馬琴(曲亭馬琴)と言えば、その代表作は言うまでもなく「南総里見八犬伝(奥書)」でしょう。馬琴のライフワークともいえる超大作で、文化11年(1814)から天保13年(1842)まで、28年をかけて書き上げています。執筆中、馬琴は晩年に失明しながらも、息子の嫁に口述筆記させて死の直前まですざましい執念で完結させたと言います。そのボリュームは全98巻106冊という膨大なものです。




ここ深川に建てられた生誕の地碑はこの「南総里見八犬伝(奥書)」の本を積み上げた形をしています。106冊を2つの山に分けて積み上げた形の碑です。
秋深まりゆく10月の半ばにもかかわらず、碑の傍らにまだ青々と生える雑草が碑にもたれかかり、普通でも目立たない碑がさらに目立たない存在になっていました。

余談ですが、この馬琴先生はなんと副業で薬まで販売していたのをご存知ですか。奇応丸とか神女湯と言われたものらしいですよ。有名作家の暮らしも楽ではなかったようです。





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上野のお山に残る徳川将軍家御霊屋の勅額門点描【お江戸上野・寛永寺】

2010年10月17日 17時31分44秒 | 台東区・歴史散策
浅草と並ぶ都内の観光地として、一二を争う人気スポット上野は江戸時代から庶民の遊山地として親しまれてきました。現在の上野の山全域は正式名を「東京都立上野恩賜公園」と呼ばれ、芸術、文化、みどり、景観、観光の様々な分野で重要な役割をもって、多くの人たちの憩いの場を提供しています。

そんな上野公園がある「上野のお山」は江戸時代の寛永の御世以降、その全域が徳川家の菩提寺である天台宗「東叡山・寛永寺」の寺領だったのです。寛永寺は寛永2年(1625年)、3代将軍家光公の御世に建立され、当時の年号をとって寺号を「寛永寺」とし、京都の鬼門(北東)を守る比叡山に対して、「東の比叡山」という意味で山号を「東叡山」とし、東叡山寛永寺円頓院と号しました。
開基(創立者)は家光公、開山(初代住職)は天海僧正、本尊は薬師如来(重要文化財)です。
開山以来、江戸末期までは、寺域約120万㎡(上野公園の約2倍)という将軍家菩提寺にふさわしい規模を誇り、大小百近い塔中・子院が上野の山に点在し、荘厳な堂塔伽藍が整然と配置されていました。しかし幕末の戊辰戦役の流れの中で、幕府軍である彰義隊と官軍の戦いで壮麗な伽藍のほとんどを焼失してしまいました。そして、その後の明治政府の政策により、かつての広大な境内敷地も大幅に縮小されてしまい、現在では江戸時代の最盛期の広さの1/10程度となってしまいました。

その数少ない寛永寺及び徳川家所縁の遺構を求めて上野の山(上野恩賜公園)へ遊山と洒落込みました。
京成上野駅から続く階段をのぼり、上野公園のなだらかな坂道を進んでいくと、まず現われるのが清水観音堂のお堂が見えてきます。国指定の重要文化財ですが、京都の清水寺を模し、前面に広がる不忍池は琵琶湖を形どっていると言われています。
そして更に歩を進めると、かつて上野大仏が鎮座していた小高い丘とその丘に相対してお江戸の「時の鐘」の鐘楼が木々の中に聳えています。この小山を回り込むように進むと、「お化け燈篭」と呼ばれる巨大な石燈篭が現われてきます。

お化け燈篭

この石燈篭の先に家康公を祀る上野東照宮の鳥居が建ち、参道へと繋がっていきます。

上野東照宮の鳥居
東照宮参道に並ぶ石燈篭
東照宮入口を飾る権現様式の唐門

参道の両側には上野東照宮の境内からは寛永寺さんの五重塔が見えるのですが、この五重塔は上野動物園の敷地内にあるため、間近に見るためには入場料を払って動物園に入らなければなりません。
上野東照宮をあとにして、国立博物館正面入口に通じる噴水広場を進んでいきましょう。
噴水広場を抜けて、まずは開山堂へと向かいましょう。両大師堂と呼ばれ、慈恵大師(良源)、慈眼大師(天海)の両大師を祀っています。

両大師堂山門
両大師堂ご本堂

四代将軍家綱公の出生に際し安産祈願所となって以来、子授け大師として信仰を集めています。そして両大師堂の山門の右隣には旧本坊表門(国指定重要文化財)が保存されています。寛永年間の建立で別名黒門と呼ばれています。本坊は上野戦争(彰義隊戦争)で全焼し、門の随所に残る銃痕が当時の戦禍を物語っています。

それでは本日のお題の「徳川将軍家御霊屋のご門」を探るために国立博物館と両大師堂の間の道を下っていきましょう。道の左側は国立博物館を囲む長い塀が続きます。それまでの上野公園の雰囲気とはがらりと様子が変わり、静かな空気が流れているような気がします。
前方に墓地が見えてきます。寛永寺さんの墓地が広がっています。ちょうど国立博物館の裏側に当たる場所です。この国立博物館裏手の道の傍らに見事な「ご門」が見えてきます。色鮮やかな朱色で塗られた門ですが、見るからに由緒ありそうな姿を見せています。
実はこのご門は4代家綱公(厳有院)の霊廟前に置かれていた「勅額門」です。勅額門とは時の天皇が自ら書いた将軍の院号額を掲げた門のことをいいます。

4代家綱公(厳有院)の勅額門(重文)

このご門の背後には徳川家一族のお墓が広がっているはずなのですが、この墓域には誰でもが勝手に入れる訳ではありません。さらに道を進んでいくと前方に門が現われます。入っていいものか迷うのですが、この門は寛永寺さんの根本中堂への裏口と考えていいでしょう。この門を入り、右方向へ回り込むように進むと、前方にこれまた由緒ありそうな「ご門」が見えてきます。

近づいてみるとまさしく由緒あるご門です。5代将軍綱吉公(常憲院)の霊廟前に置かれていた勅額門です。

5代将軍綱吉公(常憲院)の勅額門(重文)

かつての徳川将軍家の墓域にあった御霊屋(霊廟)や勅額門、惣門の大部分は先の大戦で米軍の空襲により焼失してしまったのです。かろうじて焼け残ったのが、今私たちが見ることができるこれらのご門です。

ここ寛永寺の徳川将軍家墓域には4代家綱公、5代綱吉公、8代吉宗公、10代家治公、11代家斉公、13代家定公の各将軍が眠っています。そして13代家定公の正室「天璋院篤姫様」も夫の家定公の宝塔に連れ添うように並んで眠っています。尚、現在寛永寺の各将軍の宝塔が並ぶ墓域は一般公開されていません。

5代将軍綱吉公(常憲院)の霊廟前に置かれていた勅額門を後に、寛永寺の根本中堂へと進んでいきましょう。

寛永寺・根本中堂

実は今ある根本中堂は明治になってから川越市の喜多院の本地堂を移したもので、寛永15年(1638)の建造と伝えられています。江戸時代の寛永寺・根本中堂は国立博物館に続くあの広い噴水広場にあったのですが、彰義隊戦争で焼失し、その後現在の場所に移ってきたものです。

わずか150年前まではこの上野の山全域は将軍家の重要な菩提寺である寛永寺の寺領でした。時代の歯車は260年の長きに渡った徳川の世を明治という新しい時代へと大きく変えてしまいました。その過程で壮麗な寛永寺伽藍は官軍のアームストロング砲の絶大な威力のもとで破壊、そしてそのほとんどが焼失してしまうのです。

私はいつも思うのですが、「もし」という言葉が許されるのであれば、あの上野戦争と太平洋戦争がなければ、東京には世界遺産に登録されてもおかしくない歴史的建造物があまた存在し、私たち日本人が世界に誇れる貴重な歴史遺産として私たちの目を楽しませてくれたのではないかと…。





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今日も一っ走り行ってきました!スカイツリー

2010年10月16日 21時42分53秒 | 墨田区・歴史散策
第一展望台のプラットフォームが完成し、いよいよ第2展望台の建設がまもなく始まる高さになってきました。480m超えのものすごい高さになっているにもかかわらず、地上から見るツリーの姿からそれほどの高さのものであることの実感が湧いてこないのは、私だけでしょうか。
あまりの巨大さに、手が届くような距離に第一展望台が見えるのも目の錯覚なのだろう。
現在、ツリーの東側に附属のビルが建設中なのですが、周辺のビルを見下ろす位の高さになっています。このビルの高さを基準にツリーを眺めると、未体験ゾーンに突入しているツリーの高さが尋常でないものであることが一目瞭然です。





今日も午後からツリー詣でにいってきました。ツリー直下の河岸はその人出だけでみれば、もう一大観光地化している。とはいっても河岸に面した通りは浅草通りの裏道的な存在で、味も素っ気も無い。金網の柵が河岸に沿って立て掛けられ、工事現場に密着するようにツリーの姿を眺めたり、写真を撮ったりすることができるのが大きな魅力なのかもしれない。

河岸の建設現場

さて今日のツリーの高さは、なんと488m。



上野松が谷の古刹に眠る伊能忠敬と幡随院長兵衛【上野・松が谷源空寺】

2010年10月12日 17時39分07秒 | 台東区・歴史散策
賑やかな浅草の西の端六区の縁を走る国際通りの「公園六区入口」信号を渡ると、下町浅草の風情を残す「かっぱ橋本通り商店街」に足を踏み入れる。商店街に入ってすぐ右手には明治36年創業のどじょう料理の老舗「どぜう飯田屋」さんの趣のある店構えが見えてきます。店の入口に白地に墨文字で大きく「どぜう」と書かれた暖簾が粋な雰囲気を漂わせて掛けられています。
このかっぱ橋本通りは浅草の国際通りから始まり、上野駅入谷近くの昭和通りまでの1.2キロにわたる道で、途中、調理器具や食器などを扱うたくさんの問屋さんが軒を連ねるかっぱ橋商店街を横切っています。

こんな「かっぱ橋本通り」は明治、大正の時代は浅草と上野を結ぶ幹線道路として大いに賑わっていたと言います。現在でもこの地域に住む方々の日常生活に欠かせない下町の風情を残した商店街として賑わいを見せています。
合羽橋の交差点を渡ると地名が「松が谷」と変わります。このあたりの「かっぱ橋本通り」の両側は商店街というよりはビルが立ち並ぶ住宅街へと姿を変えています。そして、特筆すべきはこの界隈には「石をなげれば寺にあたる」と言われるほど「寺院」が次から次へと現われる寺町を構成しているのです。門前の構えや本堂の姿を見るにつけ、なにやら由緒ありそうな寺院ばかりです。

そんな寺院が多数点在する中を歩きながら松が谷2丁目の交差点にさしかかります。この信号を左折し3ブロックほど行った角に、今日のお題の源空寺が静かな佇まいを見せているのです。

源空寺のご本堂

実はこの源空寺を訪れたのは、たまたまこの松が谷を散策している途中に偶然門前を通りかかった時に、その山門脇に伊能忠敬墓と幡随院長兵衛墓の石柱を見つけたからなのです。

源空寺門前の石柱

伊能忠敬については以前、門前仲町の富岡八幡の中で取り上げていますが、江戸末期に詳細な日本地図を編纂したことで知られているお方なのですが、「このお寺にお墓があったのか」と思いでお参りをしてきました。
そして驚いたことに歌舞伎の荒事で演じられるあの「幡随院長兵衛」の墓もこの源空寺にあるという。

さっそくまずは伊能忠敬のお墓に詣でることに!お墓は本堂のある敷地の脇の道を挟んで墓地が広がっています。特に墓地内の見取り図は掲示されていないのですが、それらしき墓はすぐにわかります。墓地内の細い道を進むと、なんと先に現われたのが「幡随院長兵衛」の墓!それもご夫妻の墓石が仲良く並んで建っています。
そして「幡随院長兵衛」の墓から数えて右へ2つ目に「伊能忠敬」の墓が建っているのです。

伊能忠敬の墓

 

幡随院長兵衛夫妻の墓

ここで幡随院長兵衛についてほんの少し説明いたしましょう。
江戸初期の1622年ころの生まれだそうです。実在の人物で本名を塚本伊太郎。肥前唐津藩(佐賀県)の武士の子だということです。この伊太郎が江戸へ出て花川戸(はなかわど:現在の浅草)に住み、幡随院長兵衛と名乗り「口入れ稼業」を営むかたわら、3千人の子分を抱える「町奴(まちやっこ)」の頭領として君臨していました。しかし対立する「旗本奴(はたもとやっこ)」の首領である水野十郎左衛門に殺されたという人物です。
まあ!続に言う現代のチンピラの親分といったところじゃないでしょうか?
こんな人柄の幡随院長兵衛と偉業と成し遂げた伊能忠敬の墓がきしくも並んでいるアンバランスがなんとも奇妙に思える瞬間でした。

さて源空寺ですが、結構由緒あるお寺さんです。宗派は浄土宗増上寺の末寺で円誉道阿が天正18年(1590)湯島(現文京区)に草庵を結び、多くの信者を集めたことに始まり、徳川家康も道阿に深く帰依したといいます。1590年の8月1日(八朔)に家康公が江戸に初入府した年です。慶長9年(1604)草庵の地に寺院を開き、開祖法然坊源空の名にちなみ「源空寺」と称しました。二世専誉直爾のとき、明暦3年(1657)の振袖火事の大火で類焼、当地に移転して現在に至っています。

山門を入ってすぐに立派な鐘楼と鐘が現われます。鐘は銅製のもので総高2.22mの大型のものです。台東区の有形文化財に指定されています。

源空寺の鐘楼と鐘

寛永12年(1636)三代将軍徳川家光の勧めをうけ、開山道阿が願主となり鋳造されたもので、徳川家康の法号「大相国一品徳蓮社崇誉道和大居士」と同秀忠の法号「台徳院殿一品大相国公」、家光の官職・姓名「淳和奨学両院別当氏長者正二位内大臣征夷大将軍源家光公」が刻まれている堂々としたものです。



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