《夜明け前から》
『馬籠は木曽十一宿の一つで、この長い渓谷の尽きたところにある。西よりする木曽路の最初の入口にあたる。そこは美濃境にも近い。美濃方面から十曲峠に添うて、曲りくねった山坂を攀じ登って来るものは、高い峠の上の位置にこの宿を見つける。街道の両側には一段ずつ石垣を築いてその上に民家を建てたようなところで、風雪を凌ぐための石を載せた板屋根がその左右に並んでいる。宿場らしい高札の立つところを中心に、本陣、問屋、年寄、伝馬役、定歩行役、水役、七里役(飛脚)などより成る百軒ばかりの家々が主な部分で、まだその他に宿内の控えとなっている小名の家数を加えると六十軒ばかりの民家を数える。荒町、みつや、横手、中のかのや、岩田、峠などのがそれだ。そこの宿はずれでは狸の膏薬を売る。名物栗こわめしの看板を軒に掛けて、往来の客を待つ御休処もある。山の中とは言いながら、広い空は恵那山の麓の方にひらけて、美濃の平野を望むことの出来るような位置にもある。何となく西の空気も通って来るようなところだ。』
前回は木曽路を代表する人気の宿場町である妻籠宿から木曽の山間を抜けて、ここ馬籠宿の北の入口へ到着しました。
第4回目の木曽路十五宿街道めぐりはここ馬籠宿の北の木戸から始まります。私たちが到着するバス駐車場から北の木戸まではほんの僅かな距離です。
馬籠宿高札場
北側の木戸に立つと、街道筋は南へ向かってそのまま下方へとのびています。馬籠宿が坂道に沿って造られた宿場であることが一目瞭然でわかります。そして家並みは急峻な山の尾根ずたいに造られ、その家々は街道の両側に石垣を築いた上に造られました。
そんな特徴的な宿場の造りは、坂下から火災になると、火は坂道を伝い上へ上へと燃え広がり、手の施しようがなかったといいます。馬籠宿の記録によると、幕末から明治にかけての85年間に6回の大火に見舞われ、宿内の250戸が焼失したとあります。また、明治28年と大正4年の大火で古い町並みのすべてを焼失してしまったといいます。
そして度重なる大火は宿場を疲弊させ、かつての賑やかさは失われていきます。さらに明治に入り、旧中山道とは別に国道が木曽川にそって造られ、更に1912年に中央本線が開通するのですが、馬籠には通らなかったのです。
こんなことで馬籠宿は陸の孤島となり、これといった産業もない馬籠宿は更に疲弊していきます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6b/b9/963648df0107115cff104380d461a6c2.png)
そんな状況であった馬籠宿は、妻籠宿ほどの趣ある宿場町といった風情はありませんが、かつての賑やかさを取り戻したかのように、木曽路を代表する宿場町としての勢いを見せています。
馬籠宿家並
馬籠宿家並
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/10/2c/7d21f32494143a41a44c5edd67b7e481.png)
どうして馬籠がこのように変貌できたのか、というと、昭和43年に長野県は明治100年記念事業の一環として、江戸末期の宿場の姿を再現するために、馬籠宿に限って当初、29戸の家の改築をはじめ、その後、60戸を加えて改築を完了しました。
まあ、言ってみれば昭和に造った宿場町のテーマパークでしょう。ほんの僅かですが100年前の建物を修理しているものもあるのですが、そのほとんどは昭和に時代のものです。
こんなもくろみが当り、なぜか木曽十一宿の中でも断トツで人気があるんですね。
加えて、昭和43年当時は長野県に属していたのですが、平成の大合併の際には長野県の恩義を忘れて、馬籠は岐阜県中津川市への統合を決めています。
お江戸日本橋から数えて43番目の宿場町である馬籠宿は天保14年(1843)の記録によると、宿内の距離は三町三十三間(約387m)で、人口717人、家数69軒、本陣1、脇本陣1、旅籠18軒が宿内に沿って並んでいました。尚、本陣は藤村の生家です。
宿内を貫く道筋はテーマパークらしく綺麗に整備され、その道筋の両側にはほぼ途切れることなくそれらしい家並みがつづきます。
道筋は緩やかな坂道ですが、これを下から辿ってきたら、結構キツイのではないかと思うほど坂道がつつきます。妻籠宿に比較すると、飲食店やお土産屋が目立ちます。
そんな宿内を辿り、坂道を下って行きます。
まず道筋の右手奥に構えているのが脇本陣です。現在は脇本陣資料館になっています。
馬籠宿の脇本陣を代々務めたのは「蜂谷家」で、当家は八幡屋の屋号で造り酒屋を営んでいました。
脇本陣記念館
脇本陣記念館
脇本陣跡からほんの少し坂を下った右側に黒塗りの冠木門が現れます。ここがかつての馬籠宿の本陣があった場所です。現在は藤村記念館になっています。
藤村記念館
本陣跡(藤村記念館)
本陣跡(藤村記念館)
前述のようにここ馬籠では何度も大火にあっています。実はここ本陣の建物は明治28年(1895)の大火でその大部分を焼失してしまいました。唯一、焼失を免れた祖父母の隠居場所だった建物が残されています。藤村はこの建物の2階で平田派の国学者であった父親から四書五経の素読を受けたといいます。
馬籠宿本陣を代々務めた島崎家は島崎藤村の生家であり、藤村の父正樹が最後の当主でした。「夜明け前」の主人公、青山半蔵はこの父をモデルにして書かれたもので、時代に翻弄させられながらも、日本の夜明けを信じて生きた一庄屋の姿を通して、近代日本へと移り変わる過渡期を描いています。明治維新とはいったい庶民にとって何だったのか、考えさせられる藤村晩年の名作です。
記念館の隣にある大黒屋は藤村が幼いころに、淡い恋心を抱いた「おゆうさん」の家です。大黒屋11代目の大脇兵右衛門が44年間書きつづけた日記が夜明け前の構想のもとになったといわれ、大黒屋は「伏見屋」という名前で登場します。
また宿内には周囲の景観に溶け込むように造られた郵便局が目立たない存在で佇んでいます。局の傍らには懐かしい郵便ポストが置かれています。
郵便局
大黒屋
馬籠宿家並み
馬籠宿家並み
馬籠宿家並み
緩やかな坂がつづく馬籠宿内を下って行きましょう。右手に馬籠宿ではかなり老舗の但馬屋が梲(うだつ)を誇らしげに構えています。
但馬屋
但馬屋
そして左手に現れるのが宿の宿役人を務めていた清水屋を営んでいた原家です。原家は築100年を超える母屋が残っています。
清水屋
清水屋
右手に水車が現れるまもなく馬籠宿の桝形です。
水車
その桝形へ降りていく途中に緩やかなカーブを描く道筋にさしかかります。ここから恵那山を遠望できます。そして宿の南側に位置する「車屋坂」を下りると、馬籠宿は終わります。
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車屋坂を下りきると、旧街道は7号線と合流します。旧街道はこの7号線を渡って真っ直ぐ延びています。その7号線との交差点角にドライブイン(駐車場)である馬籠館があります。
馬籠館
大きな駐車場にはたくさんの大型バスが停まり、多くの観光客がこの馬籠館を起点に坂道を上っているようです。
賑やかな宿場の佇まいはここまでで、この先の落合宿方向へはほとんどの観光客が足を踏み入れていないようです。
馬籠宿を出てしまうと、多くの人出で賑わっていた様子とうってかわって、静かな街道の風景が現れます。
妻籠から馬籠にいたる道程では多くの外国人がバックパックを背負って歩いていたのですが、馬籠から落合そして中津川への道筋は現代の旅人とすれ違うことはないのでは……。
道筋はゆるやかな下り坂がつづき、街道の左手には恵那山の姿を見ることができます。
まもなくすると小さな集落にさしかかります。横屋集落です。するとこれまでの下りの道筋からゆるやかな上り坂に変ります。
そして道脇に現れるのが、馬籠城址の石碑です。城址は集落の中の「竹藪」の中のようですが、小さな祠が一つ置かれているだけです。戦国時代の小牧長久手の戦いの折、豊臣方の島崎重通(藤村の祖先)がこの辺りを守ったのですが、徳川方の大軍が迫るや恐れをなして妻籠城内へ逃れたといいます。そのおかげで馬籠の集落は戦禍を免れたと伝えられています。城といってもおそらく砦程度のものだったのではないでしょうか?
かつてあった馬籠城址はゆるやかな坂道です。この坂は「丸山の坂」と呼ばれ、このあたりは丸山又は城山という名で呼ばれています。
馬籠城址と旧街道を挟んで、ほぼ向かい側にこんもりとした鎮守の杜があります。ここが諏訪神社です。
諏訪神社の鳥居
諏訪神社
旧街道に面して諏訪神社の参道入口があります。鳥居をくぐると参道が森の中へのびています。杉並木が参道脇に並んでいます。参道はその先で左に大きく曲がり、奥まった場所に木々に覆われて社殿が構えています。
参道入口に「島崎正樹翁碑」が置かれています。藤村の父「正樹」は夜明け前の主人公である青山半蔵のモデルです。
島崎正樹翁碑
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諏訪神社から再び旧街道へ戻り、旅をつづけていきましょう。
旧街道の右側には畑が広がり、長閑な田園風景が広がってきます。
前方には木曽路のような山並みはありません。その代わりに美濃地方の広い台地が広がるだけです。遥か遠くに見える山は「笠置山」です。
そして横屋集落の次に荒町の集落そして、鍛冶屋前、中のかやの小さな集落を過ぎると十曲峠の頂にある「新茶屋」に到着です。
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![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/67/2c/192781bb4a24df6cf5f8768ceb5040bc.png)
馬籠宿の北木戸から歩き始めて、ほぼ2.5キロ地点に達する場所にあるのが「新茶屋」です。
新茶屋と呼ばれている所以は江戸末期まではここから数百メートル南にあった立場茶屋が現在の場所に移転してきたためです。
ここでは「わらび餅」が名物だったと言われています。この場所には江戸から数えて83番目(約326キロ)の一里塚が置かれていました。一里塚は本来の形は失われてはいるものの現存しています。それぞれの塚の上には榎と松が植樹されています。
一里塚
更に私たちが日出塩の先で見た「これより南 木曽路」の石碑が置かれていたと同じように、ここには「これより北 木曽路」の石碑が置かれています。私たちはようやく木曽路の南端までやってきたことになります。
そして街道の路傍に「信濃 美濃」の国境を示す石柱が1本置かれています。
これより北 木曽路
「信濃 美濃」の国境
また、街道の左側の目立たない場所には芭蕉の句碑がポツンと置かれています。
芭蕉句碑
碑面には「送られつ 送りつ果ては 木曾の龝」と刻まれています。
「夜明け前」の中では伏見屋の金兵衛が建立したことになっています。
「龝」という字は「あき」と読みますが、この字を巡って夜明け前の中で金兵衛と半蔵の父吉左衛門が次のようなやり取りをしています。
「これは達者に書いてある。」
「でも、この秋という字がわたしはすこし気に入らん。禾(のぎ)へんがくずして書いてあって、それにつくりが龜(かめ)でしょう。」
「こういう書き方もありますサ。」
「どうもこれでは木曾の蠅(はえ)としか読めない。」
十曲峠(つづらおれとうげ)の頂には何から何まで揃っているという感じで、さまざまな史跡を見ることができます。
馬籠宿からここまでは緩やかな道筋を辿ってきました。十曲峠という名前が付いているのですが、峠まで上ってきたという感覚もありません。
しかし峠に上ってくれば、あとは下るだけです。
さあ!これから先は街道の風情を十分に味わえる「石畳道」の坂道をひたすら下りていくことにしましょう。
この石畳道を「落合の石畳」と呼ばれる十曲峠越えの中山道です。江戸時代の石畳が切れぎれ(3か所/70.8 m)に残っていたものを、近年になって失われていた部分に石畳を敷いて繋ぎ合わせ、全長840mの石畳の道を復元させました。本格的な石畳の道は古の中山道を存分に堪能できるすばらしい道筋です。
深い杉林の中に穿かれた石畳の道は階段状でなく、スロープ状なのでむしろ下りやすく感じます。江戸時代の石畳が残っているらしいのですが、その継ぎ目がよく分かりません。
比較的小さな石と大きな石の組み合わせの道筋が古い時代のものらしいのですが……。
石畳の道は新茶屋から右手に分岐するように始まります。この分岐する石畳の道は平成17年に山口村と中津川市の合併記念事業として120mにわたって整備されたもので、前述の840mに追加されたことで全長1キロ弱の石畳道を歩くことになります。
十曲と言われているくらいで、道筋はクネクネと曲がっています。
私たちは落合宿へ向けて石畳は下り坂となりますが、もし反対に上りとなると結構キツイ坂です。
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約1キロにわたる石畳道が終わりに近づくと、前方がにわかに明るくなります。ということは再び現代の舗装道路が私たちをまっています。そして無理矢理、現代世界に引き戻されるような感じさえします。
とはいえ、まだ十曲峠を下りきっていません。道筋は舗装道路に変り、いくらか平坦になります。
すると前方に堂宇が見えてきます。医王寺です。当寺はもともと天台宗の寺だったようですが、戦乱で焼失し一時期、廃寺になっていました。その後、戦国時代の天文13年(1544)に再興されて浄土宗に転じました。
また当寺は見事な「枝垂れ桜」で知られています。境内から門前に枝垂れる桜は4月の季節には人々の目を楽しませてくれます。ただし、現在の枝垂れ桜は2代目です。
また医王寺は山中薬師とも呼ばれており、虫封じの薬師として三河の鳳来寺、御嵩の蟹薬師とともに日本三薬師の1つとして知られています。ここに伝わる狐膏薬(きつねこうやく)は太田南畝の「壬戌紀行」や十返舎一九の「木曽街道続膝栗毛」にも紹介されるほど有名なものでした。
尚、医王寺の薬師如来は行基の作と伝えられています。
医王寺を過ぎると、道筋は下り坂へ変じ、この先でさらに「とんでもない坂道(下り坂)」へとさしかかります。東海道の箱根西坂で経験した坂道を思い出します。箱根西坂では「こわめし坂」なんていう名前でしたが、これに匹敵する坂道です。
いまでこそ山を削り、舗装道路にしてありますが、街道時代はもっと険しい坂道ではなかったのでは?
この坂を見る限り、反対側からの上りでなくてよかったと思う瞬間です。
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十曲峠の険しい下り坂を下りきると、道筋は落合川に架かる「下桁橋」にさしかかります。
いよいよ44番目の宿場町である落合宿までほんの僅かな距離に迫ってきました。
下桁橋の橋上からふと左手を見ると、川の水が勢いよく流れ落ちる「滝?」が見えます。
自然の滝ではなく、人工的に造られた堰から流れ落ちる滝です。
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また下桁橋の袂には「中山道の付け替えと落合大橋」の案内板が置かれています。
この案内板によると、下桁橋あたりから馬籠宿に至る中山道は幾度かの付け替えが行われているようで、私たちが辿ってきた医王寺からここ落合川までの道筋は江戸時代の明和8年(1771)に整備されたものとのことです。
さあ!まもなく第1日目の終着地点である落合宿入口に到着です。旧街道は7号線にいったん合流しますが、道筋は7号線を渡り宿内へとのびています。
私たちは7号線を渡った場所で第1日目の行程を終了します。馬籠宿の北木戸からここまでわずか4.7キロの距離です。
尚、この場所はバス停「木曽路口」です。
第2日目はここから落合宿内を進み、当シリーズの最終目的地である中津川宿へと向かいます。
木曽路十五宿街道めぐり(其の一)塩尻~洗馬
木曽路十五宿街道めぐり(其の二)洗馬~本山
木曽路十五宿街道めぐり(其の三)本山~日出塩駅
木曽路十五宿街道めぐり(其の四)日出塩駅~贄川(にえかわ)
木曽路十五宿街道めぐり(其の五)贄川~漆の里「平沢」
木曽路十五宿街道めぐり(其の六)漆の里「平沢」~奈良井
木曽路十五宿街道めぐり(其の七)奈良井~鳥居峠~藪原
木曽路十五宿街道めぐり(其の八)藪原~宮ノ越
木曽路十五宿街道めぐり(其の九)宮ノ越~木曽福島
木曽路十五宿街道めぐり(其の十)木曽福島~上松
木曽路十五宿街道めぐり(其の十一)上松~寝覚の床
木曽路十五宿街道めぐり(其の十二)寝覚の床~倉本駅
木曽路十五宿街道めぐり(其の十三)倉本駅前~須原宿
木曽路十五宿街道めぐり(其の十四)須原宿~道の駅・大桑
木曽路十五宿街道めぐり(其の十五)道の駅・大桑~野尻宿
木曽路十五宿街道めぐり(其の十六)野尻宿~三留野宿~南木曽
木曽路十五宿街道めぐり(其の十七)南木曽~妻籠峠~妻籠宿
木曽路十五宿街道めぐり(其の十八)妻籠宿~馬籠峠~馬籠宿
木曽路十五宿街道めぐり(其の二十)落合宿の東木戸~中津川宿
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/36/e3/cf23692bdc07c2291b2b6eb316d45c80.jpg)
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『馬籠は木曽十一宿の一つで、この長い渓谷の尽きたところにある。西よりする木曽路の最初の入口にあたる。そこは美濃境にも近い。美濃方面から十曲峠に添うて、曲りくねった山坂を攀じ登って来るものは、高い峠の上の位置にこの宿を見つける。街道の両側には一段ずつ石垣を築いてその上に民家を建てたようなところで、風雪を凌ぐための石を載せた板屋根がその左右に並んでいる。宿場らしい高札の立つところを中心に、本陣、問屋、年寄、伝馬役、定歩行役、水役、七里役(飛脚)などより成る百軒ばかりの家々が主な部分で、まだその他に宿内の控えとなっている小名の家数を加えると六十軒ばかりの民家を数える。荒町、みつや、横手、中のかのや、岩田、峠などのがそれだ。そこの宿はずれでは狸の膏薬を売る。名物栗こわめしの看板を軒に掛けて、往来の客を待つ御休処もある。山の中とは言いながら、広い空は恵那山の麓の方にひらけて、美濃の平野を望むことの出来るような位置にもある。何となく西の空気も通って来るようなところだ。』
前回は木曽路を代表する人気の宿場町である妻籠宿から木曽の山間を抜けて、ここ馬籠宿の北の入口へ到着しました。
第4回目の木曽路十五宿街道めぐりはここ馬籠宿の北の木戸から始まります。私たちが到着するバス駐車場から北の木戸まではほんの僅かな距離です。
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北側の木戸に立つと、街道筋は南へ向かってそのまま下方へとのびています。馬籠宿が坂道に沿って造られた宿場であることが一目瞭然でわかります。そして家並みは急峻な山の尾根ずたいに造られ、その家々は街道の両側に石垣を築いた上に造られました。
そんな特徴的な宿場の造りは、坂下から火災になると、火は坂道を伝い上へ上へと燃え広がり、手の施しようがなかったといいます。馬籠宿の記録によると、幕末から明治にかけての85年間に6回の大火に見舞われ、宿内の250戸が焼失したとあります。また、明治28年と大正4年の大火で古い町並みのすべてを焼失してしまったといいます。
そして度重なる大火は宿場を疲弊させ、かつての賑やかさは失われていきます。さらに明治に入り、旧中山道とは別に国道が木曽川にそって造られ、更に1912年に中央本線が開通するのですが、馬籠には通らなかったのです。
こんなことで馬籠宿は陸の孤島となり、これといった産業もない馬籠宿は更に疲弊していきます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6b/b9/963648df0107115cff104380d461a6c2.png)
そんな状況であった馬籠宿は、妻籠宿ほどの趣ある宿場町といった風情はありませんが、かつての賑やかさを取り戻したかのように、木曽路を代表する宿場町としての勢いを見せています。
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どうして馬籠がこのように変貌できたのか、というと、昭和43年に長野県は明治100年記念事業の一環として、江戸末期の宿場の姿を再現するために、馬籠宿に限って当初、29戸の家の改築をはじめ、その後、60戸を加えて改築を完了しました。
まあ、言ってみれば昭和に造った宿場町のテーマパークでしょう。ほんの僅かですが100年前の建物を修理しているものもあるのですが、そのほとんどは昭和に時代のものです。
こんなもくろみが当り、なぜか木曽十一宿の中でも断トツで人気があるんですね。
加えて、昭和43年当時は長野県に属していたのですが、平成の大合併の際には長野県の恩義を忘れて、馬籠は岐阜県中津川市への統合を決めています。
お江戸日本橋から数えて43番目の宿場町である馬籠宿は天保14年(1843)の記録によると、宿内の距離は三町三十三間(約387m)で、人口717人、家数69軒、本陣1、脇本陣1、旅籠18軒が宿内に沿って並んでいました。尚、本陣は藤村の生家です。
宿内を貫く道筋はテーマパークらしく綺麗に整備され、その道筋の両側にはほぼ途切れることなくそれらしい家並みがつづきます。
道筋は緩やかな坂道ですが、これを下から辿ってきたら、結構キツイのではないかと思うほど坂道がつつきます。妻籠宿に比較すると、飲食店やお土産屋が目立ちます。
そんな宿内を辿り、坂道を下って行きます。
まず道筋の右手奥に構えているのが脇本陣です。現在は脇本陣資料館になっています。
馬籠宿の脇本陣を代々務めたのは「蜂谷家」で、当家は八幡屋の屋号で造り酒屋を営んでいました。
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脇本陣跡からほんの少し坂を下った右側に黒塗りの冠木門が現れます。ここがかつての馬籠宿の本陣があった場所です。現在は藤村記念館になっています。
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前述のようにここ馬籠では何度も大火にあっています。実はここ本陣の建物は明治28年(1895)の大火でその大部分を焼失してしまいました。唯一、焼失を免れた祖父母の隠居場所だった建物が残されています。藤村はこの建物の2階で平田派の国学者であった父親から四書五経の素読を受けたといいます。
馬籠宿本陣を代々務めた島崎家は島崎藤村の生家であり、藤村の父正樹が最後の当主でした。「夜明け前」の主人公、青山半蔵はこの父をモデルにして書かれたもので、時代に翻弄させられながらも、日本の夜明けを信じて生きた一庄屋の姿を通して、近代日本へと移り変わる過渡期を描いています。明治維新とはいったい庶民にとって何だったのか、考えさせられる藤村晩年の名作です。
記念館の隣にある大黒屋は藤村が幼いころに、淡い恋心を抱いた「おゆうさん」の家です。大黒屋11代目の大脇兵右衛門が44年間書きつづけた日記が夜明け前の構想のもとになったといわれ、大黒屋は「伏見屋」という名前で登場します。
また宿内には周囲の景観に溶け込むように造られた郵便局が目立たない存在で佇んでいます。局の傍らには懐かしい郵便ポストが置かれています。
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緩やかな坂がつづく馬籠宿内を下って行きましょう。右手に馬籠宿ではかなり老舗の但馬屋が梲(うだつ)を誇らしげに構えています。
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そして左手に現れるのが宿の宿役人を務めていた清水屋を営んでいた原家です。原家は築100年を超える母屋が残っています。
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右手に水車が現れるまもなく馬籠宿の桝形です。
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その桝形へ降りていく途中に緩やかなカーブを描く道筋にさしかかります。ここから恵那山を遠望できます。そして宿の南側に位置する「車屋坂」を下りると、馬籠宿は終わります。
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車屋坂を下りきると、旧街道は7号線と合流します。旧街道はこの7号線を渡って真っ直ぐ延びています。その7号線との交差点角にドライブイン(駐車場)である馬籠館があります。
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大きな駐車場にはたくさんの大型バスが停まり、多くの観光客がこの馬籠館を起点に坂道を上っているようです。
賑やかな宿場の佇まいはここまでで、この先の落合宿方向へはほとんどの観光客が足を踏み入れていないようです。
馬籠宿を出てしまうと、多くの人出で賑わっていた様子とうってかわって、静かな街道の風景が現れます。
妻籠から馬籠にいたる道程では多くの外国人がバックパックを背負って歩いていたのですが、馬籠から落合そして中津川への道筋は現代の旅人とすれ違うことはないのでは……。
道筋はゆるやかな下り坂がつづき、街道の左手には恵那山の姿を見ることができます。
まもなくすると小さな集落にさしかかります。横屋集落です。するとこれまでの下りの道筋からゆるやかな上り坂に変ります。
そして道脇に現れるのが、馬籠城址の石碑です。城址は集落の中の「竹藪」の中のようですが、小さな祠が一つ置かれているだけです。戦国時代の小牧長久手の戦いの折、豊臣方の島崎重通(藤村の祖先)がこの辺りを守ったのですが、徳川方の大軍が迫るや恐れをなして妻籠城内へ逃れたといいます。そのおかげで馬籠の集落は戦禍を免れたと伝えられています。城といってもおそらく砦程度のものだったのではないでしょうか?
かつてあった馬籠城址はゆるやかな坂道です。この坂は「丸山の坂」と呼ばれ、このあたりは丸山又は城山という名で呼ばれています。
馬籠城址と旧街道を挟んで、ほぼ向かい側にこんもりとした鎮守の杜があります。ここが諏訪神社です。
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旧街道に面して諏訪神社の参道入口があります。鳥居をくぐると参道が森の中へのびています。杉並木が参道脇に並んでいます。参道はその先で左に大きく曲がり、奥まった場所に木々に覆われて社殿が構えています。
参道入口に「島崎正樹翁碑」が置かれています。藤村の父「正樹」は夜明け前の主人公である青山半蔵のモデルです。
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諏訪神社から再び旧街道へ戻り、旅をつづけていきましょう。
旧街道の右側には畑が広がり、長閑な田園風景が広がってきます。
前方には木曽路のような山並みはありません。その代わりに美濃地方の広い台地が広がるだけです。遥か遠くに見える山は「笠置山」です。
そして横屋集落の次に荒町の集落そして、鍛冶屋前、中のかやの小さな集落を過ぎると十曲峠の頂にある「新茶屋」に到着です。
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馬籠宿の北木戸から歩き始めて、ほぼ2.5キロ地点に達する場所にあるのが「新茶屋」です。
新茶屋と呼ばれている所以は江戸末期まではここから数百メートル南にあった立場茶屋が現在の場所に移転してきたためです。
ここでは「わらび餅」が名物だったと言われています。この場所には江戸から数えて83番目(約326キロ)の一里塚が置かれていました。一里塚は本来の形は失われてはいるものの現存しています。それぞれの塚の上には榎と松が植樹されています。
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更に私たちが日出塩の先で見た「これより南 木曽路」の石碑が置かれていたと同じように、ここには「これより北 木曽路」の石碑が置かれています。私たちはようやく木曽路の南端までやってきたことになります。
そして街道の路傍に「信濃 美濃」の国境を示す石柱が1本置かれています。
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また、街道の左側の目立たない場所には芭蕉の句碑がポツンと置かれています。
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碑面には「送られつ 送りつ果ては 木曾の龝」と刻まれています。
「夜明け前」の中では伏見屋の金兵衛が建立したことになっています。
「龝」という字は「あき」と読みますが、この字を巡って夜明け前の中で金兵衛と半蔵の父吉左衛門が次のようなやり取りをしています。
「これは達者に書いてある。」
「でも、この秋という字がわたしはすこし気に入らん。禾(のぎ)へんがくずして書いてあって、それにつくりが龜(かめ)でしょう。」
「こういう書き方もありますサ。」
「どうもこれでは木曾の蠅(はえ)としか読めない。」
十曲峠(つづらおれとうげ)の頂には何から何まで揃っているという感じで、さまざまな史跡を見ることができます。
馬籠宿からここまでは緩やかな道筋を辿ってきました。十曲峠という名前が付いているのですが、峠まで上ってきたという感覚もありません。
しかし峠に上ってくれば、あとは下るだけです。
さあ!これから先は街道の風情を十分に味わえる「石畳道」の坂道をひたすら下りていくことにしましょう。
この石畳道を「落合の石畳」と呼ばれる十曲峠越えの中山道です。江戸時代の石畳が切れぎれ(3か所/70.8 m)に残っていたものを、近年になって失われていた部分に石畳を敷いて繋ぎ合わせ、全長840mの石畳の道を復元させました。本格的な石畳の道は古の中山道を存分に堪能できるすばらしい道筋です。
深い杉林の中に穿かれた石畳の道は階段状でなく、スロープ状なのでむしろ下りやすく感じます。江戸時代の石畳が残っているらしいのですが、その継ぎ目がよく分かりません。
比較的小さな石と大きな石の組み合わせの道筋が古い時代のものらしいのですが……。
石畳の道は新茶屋から右手に分岐するように始まります。この分岐する石畳の道は平成17年に山口村と中津川市の合併記念事業として120mにわたって整備されたもので、前述の840mに追加されたことで全長1キロ弱の石畳道を歩くことになります。
十曲と言われているくらいで、道筋はクネクネと曲がっています。
私たちは落合宿へ向けて石畳は下り坂となりますが、もし反対に上りとなると結構キツイ坂です。
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約1キロにわたる石畳道が終わりに近づくと、前方がにわかに明るくなります。ということは再び現代の舗装道路が私たちをまっています。そして無理矢理、現代世界に引き戻されるような感じさえします。
とはいえ、まだ十曲峠を下りきっていません。道筋は舗装道路に変り、いくらか平坦になります。
すると前方に堂宇が見えてきます。医王寺です。当寺はもともと天台宗の寺だったようですが、戦乱で焼失し一時期、廃寺になっていました。その後、戦国時代の天文13年(1544)に再興されて浄土宗に転じました。
また当寺は見事な「枝垂れ桜」で知られています。境内から門前に枝垂れる桜は4月の季節には人々の目を楽しませてくれます。ただし、現在の枝垂れ桜は2代目です。
また医王寺は山中薬師とも呼ばれており、虫封じの薬師として三河の鳳来寺、御嵩の蟹薬師とともに日本三薬師の1つとして知られています。ここに伝わる狐膏薬(きつねこうやく)は太田南畝の「壬戌紀行」や十返舎一九の「木曽街道続膝栗毛」にも紹介されるほど有名なものでした。
尚、医王寺の薬師如来は行基の作と伝えられています。
医王寺を過ぎると、道筋は下り坂へ変じ、この先でさらに「とんでもない坂道(下り坂)」へとさしかかります。東海道の箱根西坂で経験した坂道を思い出します。箱根西坂では「こわめし坂」なんていう名前でしたが、これに匹敵する坂道です。
いまでこそ山を削り、舗装道路にしてありますが、街道時代はもっと険しい坂道ではなかったのでは?
この坂を見る限り、反対側からの上りでなくてよかったと思う瞬間です。
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十曲峠の険しい下り坂を下りきると、道筋は落合川に架かる「下桁橋」にさしかかります。
いよいよ44番目の宿場町である落合宿までほんの僅かな距離に迫ってきました。
下桁橋の橋上からふと左手を見ると、川の水が勢いよく流れ落ちる「滝?」が見えます。
自然の滝ではなく、人工的に造られた堰から流れ落ちる滝です。
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また下桁橋の袂には「中山道の付け替えと落合大橋」の案内板が置かれています。
この案内板によると、下桁橋あたりから馬籠宿に至る中山道は幾度かの付け替えが行われているようで、私たちが辿ってきた医王寺からここ落合川までの道筋は江戸時代の明和8年(1771)に整備されたものとのことです。
さあ!まもなく第1日目の終着地点である落合宿入口に到着です。旧街道は7号線にいったん合流しますが、道筋は7号線を渡り宿内へとのびています。
私たちは7号線を渡った場所で第1日目の行程を終了します。馬籠宿の北木戸からここまでわずか4.7キロの距離です。
尚、この場所はバス停「木曽路口」です。
第2日目はここから落合宿内を進み、当シリーズの最終目的地である中津川宿へと向かいます。
木曽路十五宿街道めぐり(其の一)塩尻~洗馬
木曽路十五宿街道めぐり(其の二)洗馬~本山
木曽路十五宿街道めぐり(其の三)本山~日出塩駅
木曽路十五宿街道めぐり(其の四)日出塩駅~贄川(にえかわ)
木曽路十五宿街道めぐり(其の五)贄川~漆の里「平沢」
木曽路十五宿街道めぐり(其の六)漆の里「平沢」~奈良井
木曽路十五宿街道めぐり(其の七)奈良井~鳥居峠~藪原
木曽路十五宿街道めぐり(其の八)藪原~宮ノ越
木曽路十五宿街道めぐり(其の九)宮ノ越~木曽福島
木曽路十五宿街道めぐり(其の十)木曽福島~上松
木曽路十五宿街道めぐり(其の十一)上松~寝覚の床
木曽路十五宿街道めぐり(其の十二)寝覚の床~倉本駅
木曽路十五宿街道めぐり(其の十三)倉本駅前~須原宿
木曽路十五宿街道めぐり(其の十四)須原宿~道の駅・大桑
木曽路十五宿街道めぐり(其の十五)道の駅・大桑~野尻宿
木曽路十五宿街道めぐり(其の十六)野尻宿~三留野宿~南木曽
木曽路十五宿街道めぐり(其の十七)南木曽~妻籠峠~妻籠宿
木曽路十五宿街道めぐり(其の十八)妻籠宿~馬籠峠~馬籠宿
木曽路十五宿街道めぐり(其の二十)落合宿の東木戸~中津川宿
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