大江戸散策徒然噺 Introducing Japanese culture and history

豊かな歴史に彩られた日本の文化と歴史を紹介

渚にて…葛西臨海公園点描

2012年09月16日 12時41分23秒 | 江戸川区・歴史散策
自宅至近に流れる荒川を渡ると隣区の江戸川区です。わが町、江東区と共に都内では湾岸(ベイエリア)と呼ばれる地域が江戸川区なのです。

葛西橋を渡り対岸江戸川区側の荒川河岸のサイクリングロードを約1kmほど走ると、荒川が東京湾に流れ込む河口に到着です。河口からは荒川大橋や江東区側の新砂地区と若洲、さらに今人気の恐竜橋として知られる東京ゲートブリッジを望むことができます。

サイクリングロードは荒川河口付近で大きく左へとカーブし、葛西臨海公園の中心へとつづいています。

サイクリングロード左手には葛西臨海公園のランドマークとも言える「大観覧車」が圧倒的な迫力で聳えたっています。

大観覧車

日本最大の観覧車で直径111m、高さ117mを誇っています。その大観覧車の真下から夏の陽射しに照らされ、シルエットとなって浮かび上がる様子が下の画像です。
※利用料金は3歳以上の一般の方々は一人700円。所要時間は17分間。

大観覧車

大観覧車から東京湾に面した「渚」へ向かうことにします。そもそも臨海ということで、公園自体はほぼ海(東京湾)に面しているのですが、渚へとつづく葛西渚橋を渡って「西なぎさ」の波打ち際へと行ってみました。

渚橋
渚橋

夏の盛りには多くの人が渚で水遊びをしているのですが、9月の中旬ともなると人影もなく、海鳥だけが渚で戯れている姿しかありません。

渚のカモメ

西なぎさから再び臨海公園へと戻り、臨海水族館方面へと移動し、東側の広大なエリアを占める緑豊かな鳥類園へと向かいます。まるで原生林のようにうっそうとした木々で覆われている鳥類園を一周するように1本の遊歩道がどこまでもつづいています。

臨海水族館のウォーターウォール
臨海水族館外観
野鳥観察センターの建物

遊歩道脇には秋を思わせる「ススキ」が銀色の穂を海風に揺らしています。

ススキの穂

遊歩道にそっていたるところに野鳥を観察できる場所が設置されています。日が高い時間帯のためか、野鳥が餌を啄ばむ光景は見ることができませんでしたが、朝夕には数多くの種類の鳥たちが羽を休めているのではないでしょうか。

野鳥の観察場所
野鳥園俯瞰
野鳥園の湿地帯

野鳥園の一番東端は千葉の浦安の舞浜に隣接しています。舞浜と言えば東京ディズニーランドです。川を挟んで対岸にはディズニーランドの各施設やホテル群が建ち並んでいます。

対岸舞浜の景
舞浜のホテル群

江東区のお台場とは趣が異なる江戸川区のベイエリアは自然に溢れた東京の一大リゾート地ではないでしょうか。

http://www.tokyo-park.or.jp/park/format/index026.html



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かつて行徳の塩を運んだ水路・古川ほとりの名刹「妙勝寺」の佇まい

2012年06月28日 18時51分54秒 | 江戸川区・歴史散策
古川はかつて江戸時代には行徳の塩を舟で運んだ運河として利用されていました。しかし時代が下るにつれ、その用途は失われ次第にどぶ川へと変わってしまいました。その後、どぶ川へと変貌した古川は現在では親水公園として綺麗な水が流れる水辺へと変わりました。

妙勝寺山門

そんな古川のほとりに山門を構えるのが葛西の名刹「妙勝寺」です。当寺は日蓮宗、山号を本覚山と号し成就院日尚上人が徳治2年(1307)に開山した江戸川区内でも歴史のある古刹として知られています。

山門をくぐると、境内は緑濃い木々が茂り都会の喧騒から隔絶されたような静かな空気が漂っています。参道を進むと右手に朱塗りの鐘楼堂が現れます。木々の緑と鐘楼堂の朱色が見事に映えています。

鐘楼堂

その鐘楼堂の奥には当山を開山した成就院日尚聖人を祀った御堂「開山堂」が置かれています。鐘楼堂の足元に梅雨の季節を彩る紫陽花が美しい花を咲かせています。

開山堂
鐘楼堂の足元に咲く紫陽花

開山堂から再び参道に戻ると、美しい木々の緑の中に五重塔が現れます。台座に置かれた五重塔ですが凛とした空気が流れる境内にアクセントを添えています。

五重塔

そして参道の正面にはご本堂がどっしりとした姿で構えています。

ご本堂

ここで妙勝寺の縁起を紐解いてみましょう。
弘安7年4月(1284)下総国堀江の浦に漂着した難船にのこされていた童子を、当村二之江村漁師の五郎が救い上げて育てたところ、童子は後に中山法華経寺2世、日高上人の弟子となり、成就院日尚と号して当村の古川べりの妙見社のそばに草庵をいとなみ、一寺を建立しました。
その人こそ開山の日尚上人で時は徳治2年(1307)春3月のことです。

現在見る大伽藍、客殿は威風堂々として風格を備え、民間に開山上人の院号である成就院がなまった”ジョウヂン”の呼名で親しまれている名刹でです。

古川の親水公園の散策の途中にふと立ち寄りたくなるお寺です。

日光街道脇に残る江戸民家の長屋門
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路傍の庚申塔巡り~庚申塔が集う下総葛西の寺巡り~

2012年06月28日 18時04分32秒 | 江戸川区・歴史散策
荒川(中川)を渡ると江戸川区の葛西へと地名は変わります。江戸時代は隅田川を渡るとそこは下総の国。旅人たちは千葉街道や行徳街道を辿りながら下総の国へやってきたのだろう。

江戸の府内からは街道の往来だけでなく、実は行徳で産する塩や干鰯を江戸市中へと運ぶための運河を利用して葛西あたりへとやってきたようである。隅田川から小名木川へと入り荒川へ。そして荒川から新川、古川、江戸川を辿り行徳へと至る水路は物資の運搬だけでなく、人の往来にもたいそう役立っていたようです。

そんな地域である葛西は陸路、水路で往来する人々で賑わう場所であり、江戸湾に面していたことで海苔の養殖や江戸前の新鮮な魚介類が豊富にとれた漁村でもあったのです。そうであればこの界隈には村が構成され、そこには多くの人が暮らしていたことになります。村があればそこには必ず村民が檀徒となる寺があります。

そんなことでかつて江戸時代に行徳街道の道筋にあった「長島村(現在の東葛西)」を歩いてみることにしました。長島は環七通りと旧江戸川に挟まれた地域ですが、どういう訳かこの地域にはたくさんの寺社が集中しています。そんな地域をそぞろ歩きしているうちに気が付くことは、次から次に寺の門前脇や路傍に現れる年代物の庚申塔なのです。

民家の脇に置かれた庚申塔

庚申信仰は歴史が古く8世紀末には「守庚申(しゅこうしん)」と呼ばれる行事が始まっていたと言われています。そもそも庚申信仰は中国道教の説く「三尸説(さんしせつ)」をもとに、仏教、特に密教・神道・修験道・呪術的な医学や、日本の民間のさまざまな信仰や習俗などが複雑に絡み合った複合信仰と言われています。

その三尸説とは、中国の道教の教えによると、人中に潜む「三尸の虫(上尸=頭、中尸=腹、下尸=足)は、庚申(かのえさる)の夜、人が眠りにつくと天に昇り天帝にその罪を告げ、天帝は罪の軽重に応じてその人の寿命を決めていくといわれています。そこで長生きを願う人々は、庚申の夜は眠らずに夜籠して身を慎んだといいます。

どの庚申塔も塔面に刻まれた像は版で押したように同じものです。その塔面の像をイラストで示すと下記のような配置になっています。

庚申塔のイラスト図

中央に立つ像は青面金剛(しょうめんこんごう)で本来奇病を流行らす鬼神で猿の化身ともいわれています。「三眼の憤怒相で四臂、それぞれの手に三叉戟(三又になった矛のような法具)、棒、法輪、羂索(綱)を持ち、足下に二匹の邪鬼を踏まえ、両脇に二童子と四鬼神を伴う」姿が一般的なようです。

そして雌雄一対の鶏が刻まれています。これはこれは申(さる)の次ぎの日、すなわち酉の日になるまで籠るからだという説と、夜を徹して朝に鶏の声を聞くまで念仏を唱えるからだという説もあるようです。

邪鬼の下に三猿が刻まれていますが、三猿を三尸の虫になぞらえ、「見ざる・言わざる・聞かざる」で天帝に罪を報告させない、という意味へこじつけていったようです。

民家脇の庚申塔

正円寺の庚申塔(右の塔が笠付角柱型の庚申塔)

正円寺の庚申塔の造立年月日は寛文3年と銘が刻まれ、形態は笠付角柱型です。塔面には「奉造栄庚申結衆二世安楽」の文字が刻まれています。「二世」とは現世と来世のことをいっているようです。

香取神社の鳥居脇の庚申塔

自性院門前の庚申塔

自性院の庚申塔の造立年は文亀元年(1501)とかなり古いものです。画像の右に写っているのが「観音菩薩像庚申塔」で、塔面には「奉待庚申結衆三尸教祈願成就二世安楽所」と文字が刻まれています。

江戸時代の庚申信仰の本尊の多くは悪疫を退治する青面金剛が刻まれていますが、初期には阿弥陀像や観音像が刻まれています。そんな一例がここ自性院の庚申塔です。

庚申塔や庚申塚は日本全国いたるところに残っています。街道を歩くと、その路傍にいくつも見かけることがあります。なにげなく通り過ぎてしまいそうな庚申塔や庚申塚を見るにつけ、かつて多くの人たちが信仰にねざした祈りを捧げたことに思いを馳せたひとときでした。

かつて行徳の塩を運んだ水路・古川ほとりの名刹「妙勝寺」の佇まい
もう一つの目黄不動~江戸川・平井「最勝寺」~
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もう一つの目黄不動~江戸川・平井「最勝寺」~

2012年03月26日 18時18分29秒 | 江戸川区・歴史散策
三代将軍家光公は天海僧正の具申を得て、江戸府内から延びる主要街道筋に五箇所の不動尊を選び、それぞれに白・黒・赤・青・黄の「色」を付け、それら五色不動を線で結び「結界」とする江戸防御ラインを構築したことは良く知られています。これらを「五色不動」と名付け、天下泰平を祈願したといいます。

最勝寺仁王門

実はこれら五色を配した寺が五寺ではなく六寺あるのです。一色一寺と思いきや、黄色だけが二寺あるんですね。現在都内にある五色不動を下記に列記してみました。

①目黒不動(瀧泉寺:目黒区下目黒)東海道筋
②目青不動(教学院:世田谷区太子堂)大山道筋
③目白不動(金乗院:豊島区高田)甲州街道筋
④目赤不動(南谷寺:文京区本駒込)中山道筋
⑤目黄不動(永久寺:台東区三ノ輪)日光街道筋
⑥目黄不動(最勝寺;江戸川区平井)水戸街道筋

このように色付けをする意味合いというのが、四神相応の考え方から黒は玄武、青は青龍、白は白虎、赤は朱雀、更には大相撲の土俵の上の大屋根から下がっている房の色も黒房、青房、白房、赤房と四神と深く関係しているように思えます。とすれば黄色はというと、「中心」を意味するもので相撲であれば「土俵」そのものを現していると言えます。

そんなことでお江戸に二つ存在する目黄不動のうちの一つ、江戸川平井の最勝寺に詣でることにいたしました。

不動堂

荒川の土手からさほど離れていない場所に堂を構える最勝寺の開基は古く貞観2年(860)に慈覚大師が開山といいます。寺伝ではその開基はさらに遡り、天平年間(729~766)のころ、良弁僧都が東国巡錫中に隅田川の畔で不動明王を感得され、自らそのお姿を刻んで本尊とし堂宇を建立したという伝わっています。その後、不動明王は最勝寺の末寺・東栄寺本尊として祀られたのですが、明治の廃仏毀釈により、東栄寺は廃寺となり不動明王は最勝寺に遷座されました。最勝寺ももともとは浅草駒形橋にあったのですが、大正2年に現在の場所に移っています。

かつて天海僧正が構築した江戸の結界は寺が廃寺になったり、移転したりと本来の結界は寸断され、もはや江戸を鎮護する役目はほとんど果たしていない状態です。結界のバリアーは失われてはいるもののご本尊の不動明王は健在なので、なんとか東京の鎮護をお願いしたいものです。

不動堂
本堂
境内俯瞰

門前には金剛力士像を安置した仁王門?らしきものが置かれています。境内に入るとすぐ右手に立派な不動堂が現れます。不動堂の扉が閉まっていたため不動明王を拝見することができませんでした。また、不動堂前に置かれた鉢には6月ともなれば美しい蓮の花が咲き誇ります。

最勝寺
江戸川区平井1-25-31
JR総武線「平井駅」下車、徒歩約15分

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関東三聖天・天空に座する平井聖天燈明寺の本堂の姿

2012年03月26日 16時29分37秒 | 江戸川区・歴史散策
お江戸・平井の燈明寺は埼玉県妻沼聖天、江戸浅草待乳山聖天と並んで関東三聖天に数えられています。

燈明寺山門
燈明寺山門

JR平井駅の北側を走る蔵前橋通りからほんの少し入った場所に、まるで天空に座しているかのように燈明寺のご本堂が聳えています。江戸時代には歴代将軍の御膳所として使用された格式ある寺で、、江戸図会名所にも描かれ、数多くの文人墨客が訪れていたようです。

本堂
本堂
もともとの本堂は関東大震災で倒壊したため、15年の歳月をかけて昭和19年に完成したのが現在のお堂です。

本堂
鐘楼堂

お堂の建物は総高14.4m、幅17.1m、奥行27mの金堂造りです。内部を見ることができなかったのですが、説明書きによると「奥の院」は飛鳥朝風、「中陣」は平安朝風、外陣は鎌倉風に造られ、シャンデリヤは鹿鳴館で使用されたものを使うなどなんとも贅沢な造りのようです。機会があれば一度内部を拝見したいものです。また外部は宇治平等院と京都東寺金堂の様式を取入れ、三つ屋根造りで軒ぞりの優雅な姿をした壮麗な建築です。

境内の一角に茶室が設けられているのですが、実は当寺の先代澄道大僧正は明治の歌人・小説家として知られている「伊藤左千夫(いとうさちお)と親交が深く、その縁で左千夫自身が茶室を設計したものだそうです。伊藤左千夫は茶道にも通じており、同時代に活躍した正岡子規から「茶博士」と呼ばれるほどだったようです。

茶室
茶室

境内を横切り正面の石段を登ると「歓喜天」を祀る聖天堂です。

聖天堂

浅草の待乳山聖天の境内とは趣きを異にしますが、圧倒的なスケールで迫る本堂は一見の価値があります。

平井聖天(燈明寺)
住所:江戸川区平井6丁目17番30号
JR「平井駅」北口から徒歩5分

かつて行徳の塩を運んだ水路・古川ほとりの名刹「妙勝寺」の佇まい
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江戸川・大雲寺は江戸時代の歌舞伎役者が集い眠る聖地~市村座・中村座の名だたる歌舞伎役者が眠る役者寺~

2012年03月26日 15時11分26秒 | 江戸川区・歴史散策
江戸川の西瑞江にお堂を構える大雲寺の開基は江戸時代、二大将軍秀忠公の御世の元和6年(1620)に浅草森田町(台東区・前蔵前国技館付近)に寺領3000坪を拝領して、寺院を建立したのが始まりです。

大雲寺仁王門

その後、寛文2年(1668)の江戸の大火で本所押上(墨田区業平3丁目)に移転し、江戸時代を通じて押上に堂宇を構えていました。しかし関東大震災で甚大な被害を被り、昭和6年に現在の瑞江に移転してきた歴史をもっています。

そんな歴史をもつ大雲寺は別名「役者寺」と呼ばれているのですが、なんと江戸歌舞伎の三座のうち、市村座と中村座の名だたる歌舞伎役者が眠っているのです。もともと江戸時代を通じて隅田川の流れに近い本所押上にお堂を構えていたわけですから、ご府内にも近く当時芝居小屋があった日本橋堺町からは両国橋を渡ればさほど離れていない場所に大雲寺はあったわけです。

どうして大雲寺が市村座と中村座の歌舞伎役者の檀家寺になったのかはわかりませんが、一つ寺にこれほどの歌舞伎役者が眠っていることに驚きと感動を覚えます。

境内の入口に立派な仁王門を構え、門をくぐるとすぐに鐘楼堂、そして真正面にご本堂が配置されています。

鐘楼堂
本堂

ご本堂の右脇の墓地へ通じる細い道を進むと、目指す歌舞伎役者の墓が一区画にまとまって現れます。

墓地見取り図
左から④③②①
①市村羽左衛門累代墓

① 市村羽左衛門累代墓(初代~17代、残菊物語の2代尾上菊之助、13代=5代尾上菊五郎) 
② 坂東彦三郎累代墓(3代~7代)
③ 3代坂東彦三郎墓 
④ 尾上菊五郎供養碑 
⑤ 寺嶋家門弟一同建立碑
⑥ 寺嶋家門弟代々墓

左から⑪⑩⑨⑧
⑦瀬川菊之丞累代墓

⑦ 瀬川菊之丞累代墓(初代~6代、歌舞伎狂言作者・初代瀬川如皐) 
⑧ 松本幸四郎累代墓(4代~6代) 
⑨ 中村勘三郎累代墓(初代~13代) 
⑩ 3代中村勘三郎 
⑪ 福地家(茶屋、版元) 

一番左が⑫坂東彦三郎墓累代墓

⑫ 坂東彦三郎墓累代墓(初代~2代)

この他にも花火師として有名な「鍵屋」の墓もあります。江戸歌舞伎の歴史を造った名優が一同に会する大雲寺は紛れもなくお江戸の名刹・古刹としての風格を感じます。

大雲寺
住所:江戸川区西瑞江2丁目38番7号
都営新宿線「瑞江駅」北口から徒歩10分(約850メートル)

かつて行徳の塩を運んだ水路・古川ほとりの名刹「妙勝寺」の佇まい
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神が宿り、仏が座する善養寺の「影向の松」はさすが日本一





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神が宿り、仏が座する善養寺の「影向の松」はさすが日本一

2012年03月25日 21時54分53秒 | 江戸川区・歴史散策
江戸川区東小岩の江戸川堤下に名刹・善養寺(ぜんようじ)の境内が広がっています。この善養寺の境内にそれはそれは見事な「松の木」があり、なんと日本一の称号を得ているという。何が日本一かをこの目で確かめたくて、いざ江戸川堤を目指しました。

善養寺の宝塔とご本堂
不動門
影向殿

善養寺は真言宗豊山派でご本尊は地蔵菩薩。東京の護国寺を大本山に仰ぎ「星住山地蔵院」と号し、俗に「小岩不動」とも言われています。開基は室町時代の大永7年(1527)と古く、小岩の名刹であることは確かなようです。

小岩不動尊祠

境内入口には朱塗りの仁王門が構え、名刹らしい雰囲気を醸し出しています。仁王門には金剛力士像が安置されていますが、なんと金剛力士像の裏側には昭和の名横綱である「栃錦」の像が安置されています。これがほんとうの「力士像」なんて失礼なことを言ってはいけません。実は栃錦が現役時代に同門関取を連れて当寺を訪れ、奉納相撲を行ったことに由来しているようです。

仁王門

仁王門をくぐると広い境内の半分くらいは占めているのではないかと思われる巨大な黒松の見事な枝ぶりが目に飛び込んできます。噂にたがわず度肝を抜かすような松の枝ぶりです。この見事な松は「影向(ようごう)の松」と呼ばれているのですが、影向とは「神仏がこの世に現れた姿」を意味しているとのこと。

仁王門から見る影向の松

神が宿っているのか、仏が座しているのか、一疋の巨大な青龍が地べたを這っているかのような圧倒的な力強さを感じます。ちょうど江戸川を青龍にみたてたように影向の松が結界を守っているようにすら思えます。

影向の松

樹齢600年の松の枝ぶりは東西30m、南北28mに延び、その広さは約900㎡(272坪)におよぶといいます。蜘蛛の巣のように枝を張り巡らす松の木の幹の太さはなんと4.5m、高さ3m、一番高いところで8mもあります。

影向の松の幹
影向の松の枝ぶり
松の横綱推挙碑

広い境内にはこの巨大な龍を守るように本堂、宝塔、小岩不動尊の祠、鐘楼堂が配置され、さまざまな角度から美しい松の枝ぶりを眺めることができます。特に鐘楼堂の上から眺める松はまるで緑の浮島が現出したかのような光景です。

浮島のような松の木
浮島のような松の木
本堂
鐘楼堂から見る影向の松

境内には影向の松をゆっくりと眺められるようにベンチが置かれています。1時間ほどベンチに腰掛けながら美しい松を眺めていました。明るい陽射しの下での松の色、雲間からの薄い光の下での松の色、それぞれに色合いが変化する松の姿は見飽きることがありません。

是非、日本一の「影向の松」を訪ねていただくことをお勧めいたします。

善養寺(ぜんようじ)
江戸川区東小岩2丁目24番2号
JR総武線「小岩駅」から
京成バス〔小72 篠崎線〕⇒「江戸川病院前」(小岩から4つ目)から徒歩3分
都営新宿線「篠崎駅」から
京成バス〔小72 篠崎線〕⇒「江戸川病院前」から徒歩3分

かつて行徳の塩を運んだ水路・古川ほとりの名刹「妙勝寺」の佇まい
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