大江戸散策徒然噺 Introducing Japanese culture and history

豊かな歴史に彩られた日本の文化と歴史を紹介

私本東海道五十三次道中記~藤沢宿から茅ヶ崎(其の三)

2012年10月31日 17時02分07秒 | 私本東海道五十三次道中記
かつての藤沢宿の西の端、すなわち京都側の出入り口である見附跡が小田急線江ノ島線の線路を跨ぐ伊勢山橋を渡り60mほど進んだところの中華料理玉佳の前に目立たない存在で標が立てられています。

遊行寺坂の途中にあった江戸見附からおよそ1.3㌔地点にある京口です。藤沢宿の範囲がここで終わり、旧街道は43号線と名前を変えて進んでいきます。これから先はそれほど見るべきものは多くないのですが、しばらく歩くと引地川が現れます。引地川を渡り100mほど歩くと、右手にほんの少しそれるように道がつづき、その先にお堂が見えてきます。

養命寺ご本堂

このお堂が養命寺です。元亀元年(1570)に中興開基された曹洞宗の古いお寺です。
当寺には昭和2年になんと国宝に指定された木造の薬師如来坐像がご本尊として祀られているといいます。このご本尊は12年に1回の寅年の4月12日にしか御開帳されないという秘仏だといいます。しかし現在は国宝指定が解除され重要文化財に指定されています。

たまたまお寺のお坊様がいらしたので、堂内を見せていただきました。それほど大きなお堂ではないのですが、そのお堂の天井一面に描かれた色とりどりの「天井絵」がまるで曼荼羅をみているかのような色彩で迫ってきました。

お堂の天井画

狭い境内の片隅には古い宝筺印塔(ほうきょういんとう)、笠塔婆(かさとうば)、庚申塔、三界萬霊塔が置かれています。

養命寺境内

養命寺を辞して、再び国道43号線に戻ると、ちょうど反対側の歩道脇に小さな祠が置かれ、その中に2体の道祖神が坐しています。これが「おしゃれ地蔵」と呼ばれているもので、遠目で見てもうっすらと白粉が塗られ、口元をみると赤い紅が注している様子が窺がえます。

このお地蔵様は女性の願い事なら何でもかなえて下さり、満願のあかつきには白粉を塗ってお礼をする」と伝えられており、今でも、お顔から白粉が絶えることがないといいます。ただしこれは「地蔵」ではなく、まぎれもなく道祖神(双体道祖神)なのですが…。

43号線は養命寺を過ぎると大きく右へカーブを描きます。そのカーブした右手に見えてくるのがワインメーカーのメルシャン工場です。近くにくるとワインの香りが漂ってきます。

藤沢市内からこの辺りまでくると、街の喧騒からも離れ街道らしい静かな雰囲気が漂い始めます。まもなく歩き始めて2.5㌔地点の羽鳥歩道橋を過ぎるとこれまで歩いてきた国道43号線は右手に折れ、旧街道は44号線と名を変えます。

44号線に入りすぐ左手に店を構えるのが現代の茶店(和菓子処)「丸寿」です。ちょっと甘いものでも食べたくなるような街道の風情に誘われて店内へと入ってみました。

街道の和菓子屋「丸寿」

この「丸寿」の名物は「大庭城最中」なのですが、はてはてこの近在に城なんぞあったのか?と思いきや、実はかなり古い話なのです。平安時代の末期にこの辺りは関東平氏の一族である大庭景親(かげちか)の居城があったのです。現在、その居城跡は大庭城址公園として整備されているようです。
まあ、こんないわれのあることで大庭城最中を販売しているのでしょう。

大庭城最中

ちょっと甘いお菓子で小腹を満たして、東海道の旅をつづけましょう。街道筋にはちらほらと松並木が現れてきます。

そんな街道らしい風情を楽しみながら羽鳥歩道橋から850mほどで国道一号線と合流する「四ツ谷信号」に到着します。ここからは残念とは言いませんが、再び幹線道路に沿って歩くことになります。

ここ四ツ谷信号に際に小さなお堂と道標がたっています。お江戸日本橋を出立して12里を過ぎたこの辺りからようやくその姿がはっきりと見え始まるのが丹沢連山に属する標高1252mの「大山」です。

大山道標の祠
道標に鎮座するお不動様

古くから山岳信仰の対象として崇められている大山へは各地から巡礼の道が整備され、これを「大山道」と呼ばれていました。
道は行く筋にも造られていたのですが、ここ四ツ谷の旧街道には大山への分岐点の一つとして道標が置かれています。

大山道の一の鳥居

そして大山道への入口には立派な「一の鳥居」が立っています。
そんな大山道道標をすぎて国道一号線を進むとまもなく本日の歩行距離も3キロに達します。

其の四へつづく

私本東海道五十三次道中記~藤沢宿から茅ヶ崎(其の一)
私本東海道五十三次道中記~藤沢宿から茅ヶ崎(其の二)
私本東海道五十三次道中記~藤沢宿から茅ヶ崎(其の四)





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私本東海道五十三次道中記~藤沢宿から茅ヶ崎(其の二)

2012年10月29日 10時34分25秒 | 私本東海道五十三次道中記
今回のお題にあるように「義経、弁慶の悲しい物語」が点在する藤沢宿は義経の兄である頼朝が居住した鎌倉と至近にあります。このような地理的関係があるため、ここ藤沢宿には義経、はたまた弁慶にまつわる由緒地が点在しています。

そんな一つである弁慶之首塚がここ常光寺の裏山に人知れず佇んでいます。若干傾斜のある裏山に置かれた首塚は小さな祠の中に納まっています。静まり返った裏山の中に忘れ去られたように置かれた祠はなにやら弁慶の哀愁すら感じます。

裏山の佇まい
弁慶の首塚

どうしてここに弁慶の首塚が?と思われることでしょう。
ちょっと歴史を紐解いてみましょう。
文治5年(1189)に奥州平泉で討たれた義経の首は藤原泰衡から鎌倉に送られてきました。伝承によるとその時に弁慶の首も一緒に送られてきたといいます。首実検の後、二つの首は空に舞い上がり、ここからさほど離れていないところに鎮座する白旗神社のある場所に飛んできたとも…。
そして義経公は白旗神社の御祭神として祀られ、弁慶は八王子社に祀られたといわれています。

実はここ常光寺の裏山にはかつて弁慶の御霊を祀った「八王子社」が建てられていたといいます。そしてここからさほど離れていない白旗神社の祭礼の時には弁慶神輿が担がれていたといいます。今はその八王子社の社殿もなく、ただ弁慶の首塚だけが寂しく置かれているだけです。こんな義経と弁慶の首の話にはさまざまな伝承があり、白旗神社には別の話が残っています。

さて、この白旗神社に行く前にここ常光寺から至近にある永勝寺へと向かうことにします。常光寺の裏山から細道を辿り永勝寺へのショートカットの道筋を行くことになります。その道筋につづく塀の向こうにお寺の甍が見えてきます。荘厳寺(そうごんじ)といいます。実は、この寺も義経公と所縁を持つことで知られています。なんと義経公の御位牌が祀られているとのことです。今回は荘厳寺には立ち寄りませんでした。

道を辿るとふいに永勝寺の石柱が現れ、緩やかな傾斜の向こうに山門が構えています。実はここ永勝寺には藤沢宿で飯盛旅籠で働いていた飯盛女たちの墓があることで知られています。

永勝寺石柱
永勝寺山門

ちょっと話がそれますが、江戸時代にはここ藤沢宿には旅籠が49軒あったのですが、そのうちなんと27軒が飯盛旅籠だったそうです。その飯盛旅籠の中に「小松屋」という旅籠があったのですが、其の壱で紹介した小松屋さんが平成の世にはラーメン屋さんとして存続しているわけです。

現在の小松屋さん

そしてここ永勝寺にはこの小松屋で働いていた飯盛女の墓が39基残っています。その墓域は山門を入ってすぐ左手に現れます。
その墓域の中にひときわ大きな墓石があるのですが、この墓が当時飯盛旅籠を営んでいた小松屋の主人である「小松屋源蔵」のものです。

小松屋さんの墓域
飯盛女の墓

一般的に飯盛女たちの墓が個別に造られることは当時は非常に珍しいことなのです。身寄りのない女たちであった飯盛女は亡くなると宿内の寺に投げ込まれるように捨てられることが多く、その亡骸はその寺の一画に合葬されるのが常でした。
しかし、この永勝寺には飯盛旅籠の主人の墓と同じ墓域にそれぞれの女の生前の名を刻んだ墓石が置かれているのです。
旅籠女郎と呼ばれた彼女たちの悲しい境遇を知り尽くしていた小松屋源蔵は死後の彼女たちを一人の人間として扱うだけの器量を持っていたことを示すための善行だったと思うべきか……、判断に苦しむところです。

静かな境内の奥にはご本堂そしてご本堂の左手前には太子堂が佇んでいます。

永勝寺ご本堂
永勝寺太子堂

この辺りはかつての藤沢宿内では本陣や問屋場に近く、旅籠が立ち並ぶかなり賑やかな地域だったのではないでしょうか。
そんな場所からさほど離れていない場所に義経所縁の地が点在しています。

再び467号線へもどり白旗信号へと進んでいきましょう。信号を渡り右へ30mほど戻った歩道脇に「伝源義経首洗井戸」の標が立っています。

伝源義経首洗井戸」の標

前述にあるように一つの伝承として奥州平泉から送られてきた義経の首は宙を飛び、白旗神社のある場所に飛んでいったとありますが、ここの井戸には別の話として伝わっています。

義経の首が首実検のため鎌倉に送られてきたことは同じなのですが、その後首は鎌倉腰越の海岸に打ち捨てられてしまったというのです。そしてその首は藤沢市内を流れる「境川」を遡り、白旗に流れ着いたらしいのです。その首を拾い上げた白旗の人がこの井戸で洗い清めたということです。

義経伝説についてはさまざま語り継がれていることが多く、どれも信憑性に欠けるのですが彼、義経公の神秘性と日本人的な「判官贔屓」が相まって神格化されてしまったのでしょうね。

細い路地を入って行くのですが、なにやら他人の家の敷地に入り込むような場所に井戸と石碑が残っています。

首洗井戸全景
首洗井戸
石碑

鎌倉時代の地形が今とは異なっていたのかもしれませんが、この場所から首が流れてきたといわれる境川本流までは直線で500以上mの距離があります。首を拾い上げてわざわざ500mもの距離を歩いて、この場所の井戸まで持ってきたことにやや疑問が残るものの、この地が源氏の白旗に因んで「白旗」と呼ばれていることと、後世の義経伝説と相まってそれらしい首洗い井戸を造ったのではと穿ってみてしまうのは私だけでしょうか?

そしてもう一つの義経所縁の地が首洗い井戸のある旧街道から300mほど奥まったところにある白旗神社にあります。白旗信号から右へと進むと、前方に大きな鳥居が見えてきます。

白旗神社鳥居

その鳥居の奥に木々に覆われたこんもりとした林が見えます。この林の中に白旗神社の社殿が鎮座しています。

社殿へつづく石段

この白旗神社がある場所に冒頭に記述したように義経と弁慶の首が宙を飛んできたというのです。そしてこのことを鎌倉の頼朝に伝えると、白旗神社として此の神社に祀るようにとのことで、義経公を御祭神とし、のちに白旗神社と呼ばれるようになったと伝えられています。

鳥居をくぐり、そのまま前方の小高い林の中へとつづく石段を上ると、立派な権現造りの社殿が現れます。その社殿の左脇に置かれているのが「斎源義経公鎮霊碑」の石碑です。

白旗神社境内
白旗神社社殿

この碑は義経公没後810年を記念して平成11年に義経公の首実検が行われた6月13日に鎮霊祭を行い、ここに源義経公鎮霊碑を建立したものです。

源義経公鎮霊碑

尚、当社は義経と弁慶に因んで、義経松、弁慶松、更には枝垂桜、義経藤(白色)、弁慶藤(紫色)、をはじめ初春には梅、秋には境内の大銀杏の黄葉と四季折々に楽しめます。



義経、弁慶にまつわる話が多く残る藤沢の宿ですが、江戸時代以前の古くからここ藤沢の人々をはじめ、ここを通る多くの旅人が遠く過ぎ去った源平から鎌倉の時代を偲んでいたことを感じることができる場所でした。

それでは再び旧道467号線へと戻り、茅ヶ崎への旅をつづけることにします。

其の三へつづく

私本東海道五十三次道中記~藤沢宿から茅ヶ崎(其の一)
私本東海道五十三次道中記~藤沢宿から茅ヶ崎(其の三)
私本東海道五十三次道中記~藤沢宿から茅ヶ崎(其の四)





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私本東海道五十三次道中記~藤沢宿から茅ヶ崎(其の一)

2012年10月28日 16時51分11秒 | 私本東海道五十三次道中記
お江戸日本橋から12里(48㌔)に位置する藤沢宿は一遍上人開祖の遊行寺(清浄光寺)の門前町として古くから栄え、東海道が整備された慶長6年(1601)以降は旅人はもちろんのこと江ノ島道を辿って江ノ島弁財天詣での講中客や遊山客でたいそう賑わっていました。



安藤広重が描いた藤沢の景には遊行寺橋の向こうに遊行寺の甍が見えています。現在でも遊行寺橋からは同じような景色が眺められるのですが、絵の中に描かれている江ノ島弁財天の一の鳥居は現在は見ることはありません。

藤沢宿内は遊行寺坂の江戸見附から始まり、京口までおよそ1.3㌔にわたってつづいています。それほど規模は大きくなかったようですが、宿場町らしく本陣、脇本陣はそれぞれ一軒づつ、旅籠数はお江戸の天保時代には49軒を数えていました。

かつての旧街道は現在では遊行寺坂の30号線から467号線へと名を変えて海側へ向かうのではなく、むしろ山側へと進む道筋がつづきます。

467号線は幹線である国道一号線とはちょっと風情が異なります。それほど道幅も広くなく、地方都市特有の香りが漂う街道らしい街並みや佇まいを感じます。藤沢宿内の散策を始めるとすぐに467号線の右側に古めかしい佇まいの商家が現れます。街道らしい雰囲気を醸し出す建物です。明治の末期に建てられ藤沢宿に唯一残る「店蔵」です。その名は「桔梗屋」という「紙」を扱うお店です。

桔梗屋の店蔵

そんな街道を進んで行くと、藤沢公民館前の信号を過ぎた左手に「小松屋」というラーメン屋さんが見えてきます。このお店は江戸時代にはここ藤沢宿で「飯盛旅籠」を営んでいた「小松屋さん」とのこと。一応ここでは「小松屋」の名前を憶えておいていただきましょう。

小松屋さんの店構え

小松屋さんを過ぎるとかつての藤沢宿の中心ともいえる地域にさしかかってきます。まずここ藤沢宿に一軒あった「蒔田本陣跡」が467号線の右側に、そしてここから100mほど進んだ左側に問屋場跡が現れます。

この問屋場跡がある場所の手前の信号を渡り、467号線の左側へと移動することにします。問屋場跡からおよそ100m歩いた左側に藤沢市消防署本町出張所があります。その角を左に進むと前方に「常光寺」の山門が構えています。

常光寺山門

山門とその背後のこんもりとした木々の様子から静かな落ち着いた雰囲気の寺構えを感じます。その山門の左わきに置かれているのが「藤沢警察署創設百年碑」です。

藤沢警察署創設百年碑

石碑には「明治5年8月 常光寺に邏卒屯所が設置され 以後境内地の提供により警察出張所 警察署に昇格 大正14年洋風庁舎を建築し昭和39年4月 本鵠沼の新庁舎に移転するまで90年間署が置かれていた 発祥の地である」と刻まれています。

木々に覆われた境内は凛とした空気と静寂に包まれています。本堂へと進む参道の脇には2基の「庚申供養塔」が置かれています。かなり古いもので「万治2年」と「寛文9年」のものです。
万治2年というと、あの江戸の大火としてしられる「明暦の大火(1657)」の2年後の年です。

庚申供養塔
常光寺ご本堂

常光寺境内及びその周辺には天然記念物に指定されている樹林があります。境内のかやの大木は県の名木百選にも指定されています。

かやの大木

ご本堂に隣接して墓地が広がっています。その墓地の一角に「野口米次郎墓」があります。大木の根元に置かれた墓はモダンというか、記念碑を思わせる姿で置かれています。

野口米次郎墓

説明書きによると、「明治八年愛知県に生まれ、二三年単身渡米、新聞記者となり、のち英国に渡る。詩集を出版するなど両国の詩壇で活躍し、三七年日露戦争の報道のため帰国、兄が住職を勤める常光寺や鎌倉円覚寺に暮らしました。慶応大学で教鞭をとり、世界各地で日本文芸について講演し、また広重・春信などの浮世絵や正倉院宝物について英文出版、さらに日本での最初の英文案内書『Kamakura』を出版したりして日本の文化・文芸を世界に紹介し、“ヨネ・ノグチ”の名で親しまれている。昭和二二年疎開先の茨城県で没した。」とあります。

尚、米次郎の息子がかの有名な彫刻家である「イサム・ノグチ」なのですが、おそらくこの墓石の奇抜なデザインは息子のイサム・ノグチ氏によるものなのでしょうか?

常光寺ご本堂の裏手は小高い丘になっています。緩やかな傾斜の石段を上って裏山へと回り込みます。そしてやや下りの道を進むと右手に広場が現れ、その広場の奥がさらに階段となっています。

裏山へつづく細道

こんな場所に入ってもいいのかと思うようなところなのですが、階段を上ると木々に覆われ木漏れ日がほんの少し射し込む場所に小さな祠が一つ置かれているではありませんか。その小さな祠の周りには庚申塚や供養塔が乱雑に置かれています。

弁慶之首塚祠

この小さな祠に納められているのが「弁慶之首塚」なるものです。

其の弐へつづく

私本東海道五十三次道中記~藤沢宿から茅ヶ崎(其の二)
私本東海道五十三次道中記~藤沢宿から茅ヶ崎(其の三)
私本東海道五十三次道中記~藤沢宿から茅ヶ崎(其の四)





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