大江戸散策徒然噺 Introducing Japanese culture and history

豊かな歴史に彩られた日本の文化と歴史を紹介

まるで京の古刹の佇まい~お江戸上井草の宝珠山観泉寺は名家・今川氏の菩提寺~

2015年08月28日 12時22分52秒 | 杉並区・歴史散策
こんな名刹があったとは今の今まで知りませんでした。お江戸の府内から遠く離れたここ上井草は江戸時代にはどんな風景が広がっていたのでしょう。青梅街道からは少し奥まった位置にありながら、この土地はあの戦国時代の名家である今川氏の所領が広がっていました。

今川氏がここに所領を得たのは13代直房の頃で、時は正保2年(1645)といわれています。この年、直房は将軍家光公の命を受けて、開幕の祖である神君家康公の宮号宣下、すなわち「東照大権現」の宮号宣下の使者を勤め、その功績を評価され井草村を含め近在三か村併せて500石の加増を賜ったそうです。そして井草の地にすでにあった曹洞宗の寺院である観音寺を自らの菩提寺としたのです。



観音寺は直房が加増された年(正保2年)に現在の場所に移り寺号も観泉寺と改め、祖父氏真を開基としました。その後萬昌院(現中野区)から祖父氏真の墓所を当寺に改葬した経緯があります。

そんな由緒ある観泉寺はJR荻窪駅からバスで10分ほどの距離に、かつての寺領をそのまま保持しているかのような広い境内に美しい伽藍が配置されている名刹なのです。

折しも梅雨明けと同時に山門へと通じる参道脇は濃い緑の葉で覆われた木々が茂り、まるで森の中に埋もれるように静かな佇まいを見せています。どこかで見たような風景はあたかも京都の仏閣を思い起させるように静かな時間が流れています。

山門へと通じる参道脇には道祖神や青面金剛を刻んだ石造りの庚申塔を納めた祠が置かれています。そして参道を挟んで反対側に建つ門構えを覗くと、一番奥まった場所に六地蔵が鎮座しています。

庚申堂
六地蔵

そして山門へと近づくと、その傍らに「今川氏代々墓」と刻まれた石柱が立っています。左右に延びる長い塀を従えるようにして建つ山門の姿は日本の仏教建築の美しさを具現化し、限りなく幽玄、且つ芸術性に富んだ空間を造りだしています。その美しさが伝わるかどうかわかりませんが、どうですか下の写真。あまりにも美しすぎると思いませんか?

今川氏代々之墓石柱
どうですか?この雰囲気

山門を抜け目の前に現れるのは見事に手入れされた寺院庭園の極致。これほどまでにこだわったお庭の造成を見た瞬間、胸が締め付けられるような感動を覚えます。

これもどうですか?

もう一度、どうですか? この極上の空間美。とんでもなく美しい世界が目の前に広がっています。おそらく春夏秋冬、それぞれの季節ごとにこの極上のお庭はさまざまに彩りを変え、訪れる人の目を楽しまさせてくれるんでしょう。気が早いのですが、晩秋の彩りはきっと目を見張るものがあると思います。

ご本堂
観音堂
閻魔堂
鐘楼堂

美しい境内のお庭をくまなく拝見したあと、鐘楼堂の裏手に広がる「竹林」へ進んでいきました。ほんとうにまるで京都にいる感覚です。これほどまでに美しい竹林を都内で見られるとは思ってもいなかったのです。しかも竹林を囲む芝垣根の趣といい、うっそうと茂る竹林に射し込む陽射しが竹林に濃淡を描き出し、それこそここも幽玄な世界を造りだしているのです。ほんとうに感動ものです。

竹林
竹林

お庭の美しさの余韻を楽しみながら、閻魔堂の裏手の道を辿り墓地へと進むことにします。目指すはもちろん「今川氏代々之墓」です。その墓は墓地に入ってすぐ左手に玉垣に囲まれ、たくさんの墓石がコの字型に整然と並ぶ姿で現れます。どの墓石が誰のものかは判別できませんでしたので、カメラを構えて各コーナー毎にシャッターを落としてみました。それが下の写真です。

今川氏墓所
今川氏墓所
今川氏墓所

江戸時代には吉良家と並ぶ高家として、朝廷の勅使饗応や儀礼を担当した今川氏の栄華をほんの少し垣間見ることができる墓所なのです。

竹林へと続く道
境内俯瞰

こんな素晴らしい境内とお庭を持つ観泉寺なのに、私以外には誰一人訪れる参拝客がいないのは不思議です。その代りこの至高の空間を独り占めできた時間を十分に楽しむことができたことは久しぶりの充実感です。併せて、私の家の宗派である曹洞宗の寺院であることにある種の誇りすら感じてしまいます。

住所:東京都杉並区今川2-16-1

杉並梅里の「真盛寺」は三井越後屋の菩提寺~堂宇に漂う豪商三井の威厳と香り~
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杉並梅里の「真盛寺」は三井越後屋の菩提寺~堂宇に漂う豪商三井の威厳と香り~

2012年07月24日 18時02分24秒 | 杉並区・歴史散策
伊勢松阪の商人で現三越の前身である越後屋の三井高利がお江戸日本橋に江戸店を構えたのが江戸時代の延宝元年(1673)のことです。江戸に進出した越後屋は当寺とすれば斬新な現金掛値無し、反物の切り売りなどの新商法導入して繁盛し、豪商の名を独り占めにしたのです。



そんな三井越後屋の菩提寺が杉並の梅里に堂宇を構えています。その寺名は天台真盛宗の「真盛寺」です。環状7号に面して長い参道を持ち、その参道の遥か奥に立派な山門を構えています。

山門

開基は江戸の初期の寛永8年(1631)に現在の文京区湯島に堂宇構えましたが、その後谷中、本所と移転し現在地に移ったのは大正11年(1922)のことです。

参道の長さとそれに連なる長い塀を見るだけで当寺の格式と威厳を感じざるを得ません。緑濃い参道を進むうちに都内でこれほどの立派な参道を持つ寺がいくつあるだろうかと思案していると、目の前に立派な山門が現れます。その山門の脇に「檀家以外の参拝はご遠慮ください」の立札が置かれていました。

境内へとつづく参道

そんな立札を横目に、山門からさらにつづく参道を眺めつつどうしても境内に入ってみたい誘惑にかられ、禁を破って境内を拝見させていただきました。境内へとつづく参道は大きく湾曲しているため、境内の全貌をすぐには掴めません。境内に進んで行くと参道の幅が急に広くなり、広々とした境内の奥にご本堂がどっしりとした姿で構えています。この本堂は安永五年(1776)に本所から移築したものだそうです。

ご本堂

そして本堂から左へ目を移すと大名屋敷の表玄関を思わせるような建物が連なります。この建物は客殿と呼ばれているもので明治26年に旧細川侯爵邸として建てられた伝統的な書院造りの建物を移築したものです。

客殿

さらにこの中玄関書院の左手には奇妙な格好をした建物があります。美しい白壁の一階部分と屋根の上に飛び出したようにつけられた二階部分が和洋折衷様式の建物のような雰囲気を醸し出しています。この建物は庫裏と呼ばれ、これも旧細川邸から移築されたものです。これらの歴史的建造物が手入れされた広い境内の庭を囲むように配置されています。

庫裏

その庭の傍らの木々に覆われた場所に鐘楼堂が一つ佇んでいます。

鐘楼堂

深閑とした空気が漂う境内には誰一人訪れるものもなく、都心の寺院では当然のように高層ビルが借景のように林立する光景に見慣れている私にとっては木々の緑と広い庭だけの光景はむしろ新鮮さを感じるものです。

本音をいうと静かな空気が漂う境内の庭でしばし寛いでみたいとおもったのですが、あまりの人影のなさに早目に辞することにしました。参道を山門へと戻る途中に小さなお堂を見つけました。あまり聞き慣れない名前のお堂なのですが、「元三大師堂」と呼ばれています。

元三大師堂

元三大師とは平安時代の天台宗の僧侶で良源(りょうげん)のことなのですが、諡号は慈恵大師(じえだいし)。一般には通称の元三大師(がんさんだいし)の名で知られ、比叡山延暦寺の中興の祖として知られている人物です。もちろん実在の人物です。

角大師

余談ですが良源は言い伝えによると鬼の姿に化けて疫病神を追い払ったと言われています。その時の姿を表したのが「角大師」と言われる2本の角を持ち、骨と皮とに痩せさらばえた鬼の絵なのです。おそらくどこかでご覧になった方がおおいのではないでしょうか。この鬼の絵は魔除けとして家々に貼る習慣があるようです。

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「厄除けの御祖師さま」は浅草観世音に並ぶ西の霊験名刹~堀之内妙法寺(日蓮宗本山)~その弐

2012年07月24日 10時22分58秒 | 杉並区・歴史散策
将軍御成の間を辞して再び境内へと戻ってきました。その境内には鐘楼堂が置かれています。鐘は古いものでなんと享保4年(1725)に鋳造されたものです。

鐘楼堂
梵鐘

このあと祖師堂の脇の道を進んで、さらに奥に建つ三軌堂(さんきどう)と呼ばれるご本堂へと向かいます。ここ妙法寺の特徴として山門以外のすべての伽藍が回廊で結ばれていることなのです。この三軌堂は祖師堂からも総受付と大玄関からも回廊で繋がっています。

三軌堂へつづく参道
三軌堂

さてこの三軌堂ですが、本来のご本堂です。ここには祖師堂に奉安されている「祖師御尊像」つまり「やくよけ祖師像」とは別に出開帳のために持ち出された祖師像が奉安されています。また、三軌とは如来の衣・座・室を表し、法華経を信じ説く人の三つの心構えを表しているそうです。境内の真ん中にどっしりと構える祖師堂が本堂かと思ってしまうのですが、実は祖師堂の奥に置かれたこの建物が「ご本堂」だったとは……。

三軌堂

妙法寺の境内は広くこの三軌堂の後方にも別のお堂が配置されています。三軌堂の後方へ行くためには回廊の下をくぐってさらに参道を進んでいきます。すると正面に現れるのが日朝上人の尊像が奉安されている「日朝堂」です。言い伝えによると日朝上人は眼病を患うほど一生懸命に勉学に励んだ方なのだそうです。上人の眼病はその後回復したことで、眼病を患っている多くの人を救いたいとの思いが多くの人に通じ、上人は「学問と眼病の守護」としても崇められるようになりました。現在でも学業成就と眼病平癒祈願で多くの人が訪れています。

日朝堂

日朝堂に向かって右手の回廊をくぐると木々に覆われた場所に小さなお堂が現れます。お堂の名前は「二十三夜堂」と名付けられています。二十三夜とは古から伝わる「月待信仰」に根ざすもので十三、十五、十七、十九、二十三、二十六などの月齢の夜に人々が集まり、月の出を待って供物を供え、観音経を唱え、安心立名、無事息災を祈るという、勤行や飲食を共にする風習なのです。

二十三夜堂

ここ妙法寺では私が訪れたのが23日ということもあって「二十三夜堂」が開かれ、多くの老若男女が祈願に訪れていました。あとから気が付いたのですが23日のこの日は月待にあたる縁日が門前で開かれていました。古くからの風習が現代まで続いている日本人の伝統意識の深さを感じた次第です。

祖師堂

ここ堀之内には大伽藍を構える妙法寺の他にあまた寺院が集中しています。それぞれの寺院にはそれぞれの由緒ある縁起が伝わり、著名な家柄の菩提寺であったりと歴史好きにはたいへん興味深い地域だと思います。都心からほんの少し離れた杉並の地には隠れた名刹・古刹がひしめきあっています。

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「厄除けの御祖師さま」は浅草観世音に並ぶ西の霊験名刹~堀之内妙法寺(日蓮宗本山)~その壱



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「厄除けの御祖師さま」は浅草観世音に並ぶ西の霊験名刹~堀之内妙法寺(日蓮宗本山)~その壱

2012年07月23日 23時22分44秒 | 杉並区・歴史散策
先日に引き続いて中央線沿線若しくは地下鉄丸ノ内線を利用して東京都心から少し西へいった杉並界隈の名刹・古刹巡りの旅を楽しんでいます。

山門

さて、今日のお題は日蓮宗の本山として名高い杉並・堀之内の妙法寺なのですが、これまで日蓮聖人と深くかかわりのある名刹といえば中山法華経寺そして池上本門寺と訪ね歩いてきました。聖人様とのかかわりの強さからいえば、法華経寺と本門寺さんは聖人ご本人様が直接その足跡を残している場所に堂宇を構えていることで別格なのですが、ここ堀之内妙法寺さんは聖人様の「祖師像」が安置され、その祖師像が厄除けにたいへんご利益があることで多くの人々から信仰の対象になっているようです。そのため江戸時代には「参詣群衆すること浅草の観世音に並べり」と記されているほど多くの参詣客で賑わっていたそうです。

当山妙法寺の開基は今から三百数十年前の江戸時代の元和の頃といいますからちょうど第二代将軍秀忠公の御世です。それ以前、当寺は現在の日蓮宗ではなく真言宗の尼寺で開基は日圓法尼という尼さんです。そして元和年間(1615年 - 1624年)の日逕上人の頃、日圓法尼の菩提のため、日蓮宗に改宗し老母を開山とし、日逕上人自らは開基第二祖となられたという縁起が残されています。山号は開山日圓上人にちなみ日圓山と称し、妙法寺を寺号したのです。

そんな妙法寺は地下鉄丸ノ内線の新高円寺駅から南に15分ほど歩いた住宅街の中に広い境内と見事な堂宇をもって堂々とした伽藍を見せています。

山門
右仁王像
左仁王像

その顔となるのが当寺の山門である「仁王門」です。みるからに名刹の顔といった風格を醸し出している門で東京都の有形文化財に指定されています。門の創建は古く、4代将軍家綱公の御世の天明7年(1787)の頃。そして門の左右には家綱公が寄進したとされる金剛力士像(仁王様)が安置されています。

鉄門

この山門をくぐり右手へ進むと寺院らしからぬデザインの門が現れます。といっても門の前に埒が置かれ、鉄扉が開けられているので全体像としての美しさが若干損なわれているかな、といった感じなのですが、これが有名な「鉄門」です。なんと国の重要文化財に指定されているものなのです。

扉の上の鳳凰

実はこの門はあの有名な英国人建築家のジョサイア・コンドルが設計したもので、彼が得意とする和洋折衷様式を用いたかなり斬新なデザインなのです。扉の一番上には極彩色の鳳凰が翼を広げ、左右の門柱の上には日蓮聖人と思われる像が置かれています。この鉄門の向こうに見えるのがご本堂の玄関口である「大玄関」です。この大玄関はめったに使われることがなく、特別な行事があるとき以外はこの鉄門をくぐることもできません。

祖師堂

鉄門をあとに境内の中心へと移動すると、目の前に堂々とした姿で構えるのが当妙法寺のシンボルでもある「祖師堂」です。このお堂のなかの御簾の奥にご本尊の「祖師御尊像」つまり「やくよけ祖師像」が奉安されています。この祖師像は多くの信者からは親しみのある「おそっさま」という名前で呼ばれています。ご本堂の中に靴を脱いで入ることができます。正面の金襴の布で隠された御簾をはじめ、目を上に移すと金箔の天井とまさに絢爛豪華な世界が広がっています。

常夜灯と祖師堂
祖師堂

お祈りを済ませた後、実は当寺で最も拝見したいものを思い出し、お坊さまにそれを見ることができるかを尋ねてみました。「それ」とは江戸時代に将軍が鷹狩の際に当寺に立ち寄り、休憩の場として使われたお部屋で「御成の間」のことなのです。お坊さまに総受付で見学を申し込むように言われ、胸のなかで「やった!」と叫び、そそくさと総受付へ向かうことにしました。

祖師堂からいったん離れ、再び鉄門前をとおり「総受付」の玄関へ進みます。一瞬入りずらそうな雰囲気を漂わす玄関なのですが、思い切って中に入り、「御成の間」の見学が可能かどうかを訪ねると、快く「ご案内します」と言われ、長い廊下をお坊様に先導されながら進んで行くと、時代劇で登場するような見事な「書院造りの間」が現れました。

写真撮影が許されないので、妙法寺さんのHPの中の画像をご覧になってください。
http://www.yakuyoke.or.jp/place/index.html#a3

お坊様が電気のスイッチを入れると証明に照らされて御成の間が鮮やかに浮かび上がります。上段の間と下段の間の境の黒塗りの部分は鏡のような漆が塗られ高貴さを漂わせています。さらに部屋の天井全体にはたくさんの「雁」が飛び交う絵が描かれ幽玄な世界を造りだしています。またお部屋の周囲の障壁画や床の間の絵はかなり色が褪せてしまっているのですが、わずかながらその絵の輪郭を読み取ることができます。これらの絵は狩野幽玄常信の筆によるものでたいへん貴重なものです。

このお部屋をお使いになった将軍は第11代将軍家斉公が文化14年(1817)四月と文政2年(1819)の2回と第12代将軍家慶公が天保10年(1839)と弘化3年(1846)の2回、更には御三卿の一ッ橋家、田安家の御膳所としても使われました。そして将軍になる前の慶喜公も嘉永2年(1849)に訪れ、ここで太神楽を上覧しています。
尚、この書院造の「御成の間」も東京都の有形文化財に指定されているものです。

さらにこの御成の間の隣のお部屋にも案内をしてくれたのですが、ここには日露戦争後、日本帝国海軍の四提督が揃ってここ妙法寺を訪れて慰霊の式典を催したときの絵が展示されていました。

妙法寺の見どころはまだまだたくさんあります。このつづきは(其の弐)をご覧ください。

まるで京の古刹の佇まい~お江戸上井草の宝珠山観泉寺は名家・今川氏の菩提寺~
杉並梅里の「真盛寺」は三井越後屋の菩提寺~堂宇に漂う豪商三井の威厳と香り~
「厄除けの御祖師さま」は浅草観世音に並ぶ西の霊験名刹~堀之内妙法寺(日蓮宗本山)~その弐



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