大江戸散策徒然噺 Introducing Japanese culture and history

豊かな歴史に彩られた日本の文化と歴史を紹介

もう一つの目黄不動~江戸川・平井「最勝寺」~

2012年03月26日 18時18分29秒 | 江戸川区・歴史散策
三代将軍家光公は天海僧正の具申を得て、江戸府内から延びる主要街道筋に五箇所の不動尊を選び、それぞれに白・黒・赤・青・黄の「色」を付け、それら五色不動を線で結び「結界」とする江戸防御ラインを構築したことは良く知られています。これらを「五色不動」と名付け、天下泰平を祈願したといいます。

最勝寺仁王門

実はこれら五色を配した寺が五寺ではなく六寺あるのです。一色一寺と思いきや、黄色だけが二寺あるんですね。現在都内にある五色不動を下記に列記してみました。

①目黒不動(瀧泉寺:目黒区下目黒)東海道筋
②目青不動(教学院:世田谷区太子堂)大山道筋
③目白不動(金乗院:豊島区高田)甲州街道筋
④目赤不動(南谷寺:文京区本駒込)中山道筋
⑤目黄不動(永久寺:台東区三ノ輪)日光街道筋
⑥目黄不動(最勝寺;江戸川区平井)水戸街道筋

このように色付けをする意味合いというのが、四神相応の考え方から黒は玄武、青は青龍、白は白虎、赤は朱雀、更には大相撲の土俵の上の大屋根から下がっている房の色も黒房、青房、白房、赤房と四神と深く関係しているように思えます。とすれば黄色はというと、「中心」を意味するもので相撲であれば「土俵」そのものを現していると言えます。

そんなことでお江戸に二つ存在する目黄不動のうちの一つ、江戸川平井の最勝寺に詣でることにいたしました。

不動堂

荒川の土手からさほど離れていない場所に堂を構える最勝寺の開基は古く貞観2年(860)に慈覚大師が開山といいます。寺伝ではその開基はさらに遡り、天平年間(729~766)のころ、良弁僧都が東国巡錫中に隅田川の畔で不動明王を感得され、自らそのお姿を刻んで本尊とし堂宇を建立したという伝わっています。その後、不動明王は最勝寺の末寺・東栄寺本尊として祀られたのですが、明治の廃仏毀釈により、東栄寺は廃寺となり不動明王は最勝寺に遷座されました。最勝寺ももともとは浅草駒形橋にあったのですが、大正2年に現在の場所に移っています。

かつて天海僧正が構築した江戸の結界は寺が廃寺になったり、移転したりと本来の結界は寸断され、もはや江戸を鎮護する役目はほとんど果たしていない状態です。結界のバリアーは失われてはいるもののご本尊の不動明王は健在なので、なんとか東京の鎮護をお願いしたいものです。

不動堂
本堂
境内俯瞰

門前には金剛力士像を安置した仁王門?らしきものが置かれています。境内に入るとすぐ右手に立派な不動堂が現れます。不動堂の扉が閉まっていたため不動明王を拝見することができませんでした。また、不動堂前に置かれた鉢には6月ともなれば美しい蓮の花が咲き誇ります。

最勝寺
江戸川区平井1-25-31
JR総武線「平井駅」下車、徒歩約15分

かつて行徳の塩を運んだ水路・古川ほとりの名刹「妙勝寺」の佇まい
関東三聖天・天空に座する平井聖天燈明寺の本堂の姿
江戸川・大雲寺は江戸時代の歌舞伎役者が集い眠る聖地~市村座・中村座の名だたる歌舞伎役者が眠る役者寺~
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関東三聖天・天空に座する平井聖天燈明寺の本堂の姿

2012年03月26日 16時29分37秒 | 江戸川区・歴史散策
お江戸・平井の燈明寺は埼玉県妻沼聖天、江戸浅草待乳山聖天と並んで関東三聖天に数えられています。

燈明寺山門
燈明寺山門

JR平井駅の北側を走る蔵前橋通りからほんの少し入った場所に、まるで天空に座しているかのように燈明寺のご本堂が聳えています。江戸時代には歴代将軍の御膳所として使用された格式ある寺で、、江戸図会名所にも描かれ、数多くの文人墨客が訪れていたようです。

本堂
本堂
もともとの本堂は関東大震災で倒壊したため、15年の歳月をかけて昭和19年に完成したのが現在のお堂です。

本堂
鐘楼堂

お堂の建物は総高14.4m、幅17.1m、奥行27mの金堂造りです。内部を見ることができなかったのですが、説明書きによると「奥の院」は飛鳥朝風、「中陣」は平安朝風、外陣は鎌倉風に造られ、シャンデリヤは鹿鳴館で使用されたものを使うなどなんとも贅沢な造りのようです。機会があれば一度内部を拝見したいものです。また外部は宇治平等院と京都東寺金堂の様式を取入れ、三つ屋根造りで軒ぞりの優雅な姿をした壮麗な建築です。

境内の一角に茶室が設けられているのですが、実は当寺の先代澄道大僧正は明治の歌人・小説家として知られている「伊藤左千夫(いとうさちお)と親交が深く、その縁で左千夫自身が茶室を設計したものだそうです。伊藤左千夫は茶道にも通じており、同時代に活躍した正岡子規から「茶博士」と呼ばれるほどだったようです。

茶室
茶室

境内を横切り正面の石段を登ると「歓喜天」を祀る聖天堂です。

聖天堂

浅草の待乳山聖天の境内とは趣きを異にしますが、圧倒的なスケールで迫る本堂は一見の価値があります。

平井聖天(燈明寺)
住所:江戸川区平井6丁目17番30号
JR「平井駅」北口から徒歩5分

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もう一つの目黄不動~江戸川・平井「最勝寺」~
江戸川・大雲寺は江戸時代の歌舞伎役者が集い眠る聖地~市村座・中村座の名だたる歌舞伎役者が眠る役者寺~
神が宿り、仏が座する善養寺の「影向の松」はさすが日本一





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江戸川・大雲寺は江戸時代の歌舞伎役者が集い眠る聖地~市村座・中村座の名だたる歌舞伎役者が眠る役者寺~

2012年03月26日 15時11分26秒 | 江戸川区・歴史散策
江戸川の西瑞江にお堂を構える大雲寺の開基は江戸時代、二大将軍秀忠公の御世の元和6年(1620)に浅草森田町(台東区・前蔵前国技館付近)に寺領3000坪を拝領して、寺院を建立したのが始まりです。

大雲寺仁王門

その後、寛文2年(1668)の江戸の大火で本所押上(墨田区業平3丁目)に移転し、江戸時代を通じて押上に堂宇を構えていました。しかし関東大震災で甚大な被害を被り、昭和6年に現在の瑞江に移転してきた歴史をもっています。

そんな歴史をもつ大雲寺は別名「役者寺」と呼ばれているのですが、なんと江戸歌舞伎の三座のうち、市村座と中村座の名だたる歌舞伎役者が眠っているのです。もともと江戸時代を通じて隅田川の流れに近い本所押上にお堂を構えていたわけですから、ご府内にも近く当時芝居小屋があった日本橋堺町からは両国橋を渡ればさほど離れていない場所に大雲寺はあったわけです。

どうして大雲寺が市村座と中村座の歌舞伎役者の檀家寺になったのかはわかりませんが、一つ寺にこれほどの歌舞伎役者が眠っていることに驚きと感動を覚えます。

境内の入口に立派な仁王門を構え、門をくぐるとすぐに鐘楼堂、そして真正面にご本堂が配置されています。

鐘楼堂
本堂

ご本堂の右脇の墓地へ通じる細い道を進むと、目指す歌舞伎役者の墓が一区画にまとまって現れます。

墓地見取り図
左から④③②①
①市村羽左衛門累代墓

① 市村羽左衛門累代墓(初代~17代、残菊物語の2代尾上菊之助、13代=5代尾上菊五郎) 
② 坂東彦三郎累代墓(3代~7代)
③ 3代坂東彦三郎墓 
④ 尾上菊五郎供養碑 
⑤ 寺嶋家門弟一同建立碑
⑥ 寺嶋家門弟代々墓

左から⑪⑩⑨⑧
⑦瀬川菊之丞累代墓

⑦ 瀬川菊之丞累代墓(初代~6代、歌舞伎狂言作者・初代瀬川如皐) 
⑧ 松本幸四郎累代墓(4代~6代) 
⑨ 中村勘三郎累代墓(初代~13代) 
⑩ 3代中村勘三郎 
⑪ 福地家(茶屋、版元) 

一番左が⑫坂東彦三郎墓累代墓

⑫ 坂東彦三郎墓累代墓(初代~2代)

この他にも花火師として有名な「鍵屋」の墓もあります。江戸歌舞伎の歴史を造った名優が一同に会する大雲寺は紛れもなくお江戸の名刹・古刹としての風格を感じます。

大雲寺
住所:江戸川区西瑞江2丁目38番7号
都営新宿線「瑞江駅」北口から徒歩10分(約850メートル)

かつて行徳の塩を運んだ水路・古川ほとりの名刹「妙勝寺」の佇まい
もう一つの目黄不動~江戸川・平井「最勝寺」~
関東三聖天・天空に座する平井聖天燈明寺の本堂の姿
神が宿り、仏が座する善養寺の「影向の松」はさすが日本一





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神が宿り、仏が座する善養寺の「影向の松」はさすが日本一

2012年03月25日 21時54分53秒 | 江戸川区・歴史散策
江戸川区東小岩の江戸川堤下に名刹・善養寺(ぜんようじ)の境内が広がっています。この善養寺の境内にそれはそれは見事な「松の木」があり、なんと日本一の称号を得ているという。何が日本一かをこの目で確かめたくて、いざ江戸川堤を目指しました。

善養寺の宝塔とご本堂
不動門
影向殿

善養寺は真言宗豊山派でご本尊は地蔵菩薩。東京の護国寺を大本山に仰ぎ「星住山地蔵院」と号し、俗に「小岩不動」とも言われています。開基は室町時代の大永7年(1527)と古く、小岩の名刹であることは確かなようです。

小岩不動尊祠

境内入口には朱塗りの仁王門が構え、名刹らしい雰囲気を醸し出しています。仁王門には金剛力士像が安置されていますが、なんと金剛力士像の裏側には昭和の名横綱である「栃錦」の像が安置されています。これがほんとうの「力士像」なんて失礼なことを言ってはいけません。実は栃錦が現役時代に同門関取を連れて当寺を訪れ、奉納相撲を行ったことに由来しているようです。

仁王門

仁王門をくぐると広い境内の半分くらいは占めているのではないかと思われる巨大な黒松の見事な枝ぶりが目に飛び込んできます。噂にたがわず度肝を抜かすような松の枝ぶりです。この見事な松は「影向(ようごう)の松」と呼ばれているのですが、影向とは「神仏がこの世に現れた姿」を意味しているとのこと。

仁王門から見る影向の松

神が宿っているのか、仏が座しているのか、一疋の巨大な青龍が地べたを這っているかのような圧倒的な力強さを感じます。ちょうど江戸川を青龍にみたてたように影向の松が結界を守っているようにすら思えます。

影向の松

樹齢600年の松の枝ぶりは東西30m、南北28mに延び、その広さは約900㎡(272坪)におよぶといいます。蜘蛛の巣のように枝を張り巡らす松の木の幹の太さはなんと4.5m、高さ3m、一番高いところで8mもあります。

影向の松の幹
影向の松の枝ぶり
松の横綱推挙碑

広い境内にはこの巨大な龍を守るように本堂、宝塔、小岩不動尊の祠、鐘楼堂が配置され、さまざまな角度から美しい松の枝ぶりを眺めることができます。特に鐘楼堂の上から眺める松はまるで緑の浮島が現出したかのような光景です。

浮島のような松の木
浮島のような松の木
本堂
鐘楼堂から見る影向の松

境内には影向の松をゆっくりと眺められるようにベンチが置かれています。1時間ほどベンチに腰掛けながら美しい松を眺めていました。明るい陽射しの下での松の色、雲間からの薄い光の下での松の色、それぞれに色合いが変化する松の姿は見飽きることがありません。

是非、日本一の「影向の松」を訪ねていただくことをお勧めいたします。

善養寺(ぜんようじ)
江戸川区東小岩2丁目24番2号
JR総武線「小岩駅」から
京成バス〔小72 篠崎線〕⇒「江戸川病院前」(小岩から4つ目)から徒歩3分
都営新宿線「篠崎駅」から
京成バス〔小72 篠崎線〕⇒「江戸川病院前」から徒歩3分

かつて行徳の塩を運んだ水路・古川ほとりの名刹「妙勝寺」の佇まい
もう一つの目黄不動~江戸川・平井「最勝寺」~
関東三聖天・天空に座する平井聖天燈明寺の本堂の姿
江戸川・大雲寺は江戸時代の歌舞伎役者が集い眠る聖地~市村座・中村座の名だたる歌舞伎役者が眠る役者寺~





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東都花見絵図~深川霊巌寺・芭蕉記念公園・安田庭園・亀戸萩寺・亀戸天神~

2012年03月22日 17時59分34秒 | 江東区・歴史散策
「暑さ寒さも彼岸まで」
何処の寺も彼岸の賑わいを見せる今日この頃、ようやく春めいてきた墨東界隈の春景色を探しにちょいと出掛けてみました。

梅の花越しのお地蔵様
椿の花越しのお地蔵様

「墨東」これすなわち隅田の東、江東、墨田の河岸一帯のこと。まずは本所深川の名刹・霊巌寺の境内に鎮座するお地蔵さまにお参り。江戸六地蔵の第五番として知られている大きな地蔵菩薩です。その地蔵様の傍らにまるで花を手向けたように満開の梅の花と椿の花が咲き誇っています。その花を愛でるように柔和なお顔がなにやら微笑んでいるようにすら見えてきます。

本堂脇の梅の花

ご本堂脇の綺麗に剪定された梅の木にもほぼ満開の梅の花が咲いています。

さて、深川はあの俳聖芭蕉が庵を結んだことがあり、お江戸の中でも最も係わりが深い場所です。隅田川を望むその場所はちょうど小名木川が隅田川に注ぎ込む辺りなのですが、久しぶりに芭蕉翁に会いに芭蕉記念公園に行ってみました。

隅田川を眺める芭蕉翁

「春のうらら」とはいかないまでも、ようやく春めいた日和に隅田川の流れもほんの少し優しくなったような気がします。そんな隅田の流れを芭蕉翁は春の訪れを待ちかねるように眺めていました。
「観音の甍みやりつ花の雲」
深川の芭蕉庵からはるかに遠く浅草観音の方角に目をやると、遠近一面雲と見まがうばかりの桜が咲き連なって、その中に観音の大屋根だけが黒く小さく眺められる、という句意なのですが、残念ながら平成の世では、芭蕉翁が座するここ芭蕉記念公園からはこのような光景を見ることができません。

芭蕉記念公園に隣接する小さな神社、正木神社の祠脇にも白い花をつけた梅の木が…。

正木神社の祠脇の梅の花

萬年橋通りを北上し、新大橋通りを越え一路両国界隈へと足を向けることにしました。
国技館前を進み、次のブロックが「旧安田庭園」です。この庭園はもともとはお江戸元禄時代に常陸国笠間藩主本庄因幡守宗資により造園された大名庭園です。明治維新後は、旧備前岡山藩主池田侯の邸となり、次いで安田善次郎氏の所有となりました。現在は墨田区に管理が移管されています。

旧安田庭園入口

お江戸の代表的な大名庭園である「六義園」や「浜離宮」と比べると、規模や内容に少し見劣りがするかもしれませんが、それなりに整備された庭園なので両国散策のついでに訪問されることをお勧めいたします。

庭内俯瞰
石燈籠

庭内は池を回遊する形で散策路が整備され、ところどころに大きな石燈籠が置かれ、かろうじてかつて大名庭園であったことが偲ばれます。しかしながら庭内には花をつけた木が一本もないことに驚きと若干の失望感を覚えたのですが、唯一、池の端に咲く水仙だけがほんの少し彩りを添えてくれました。

池の端に咲く水仙
石燈籠
庭内俯瞰

池の端の散策路を歩いて見つけたものが一つあります。その路傍に置かれた小さな石燈籠は表面がかなり風化し、かなり古いものではないかと思うのですが、その特徴から「切支丹燈籠」ではないかと勝手に推察しました。というのも燈籠の台座になにやら人物めいたレリーフが彫られています。レリーフにはきちんと二本の足が見えます。このレリーフとして彫られた人物こそ「マリア像」を表し、切支丹禁制の時代にはマリア像の部分は地中に隠し、隠れキリシタンがお祈りをするときだけ土を掘りマリア像を地表に出したと言われています。

切支丹燈籠?
マリア像のレリーフか?

もしこの燈籠がほんとうに切支丹燈籠であるのなら、何故大名庭園に置かれているのか不思議でなりません。

河津桜とスカイツリー

そんな疑問を持ちながら、両国からさほど離れていないスカイツリーの足元を通り、亀戸の萩寺こと「龍眼寺」へ向かうことにしました。名前の通り、秋には境内は萩の花が咲き誇ることで、江戸名所図会で紹介されるほどお江戸の時代から知られている名刹です。しからば彼岸の頃の萩寺には何かあるのではと思い訪れてみました。

萩寺
萩寺

一般的にお寺の境内には四季を問わず、何かしらの花が咲いているもの。ここ萩寺にも境内に植えられた梅の木はほぼ満開状態です。それほど数が多いわけではありませんが、境内に興を添える程度の梅見ごろといったところです。

本社殿脇の紅梅
本社殿脇の白梅
社殿から見た紅梅
境内の梅
枝垂れ梅

梅といえば萩寺から至近にある亀戸天神なので、墨東花見の〆として天神様の梅見へと向かいます。とうに見ごろは過ぎていると思いきや、なんと今を盛りに紅白揃い踏みといった感がします。あと半月もすれば東京でも桜が開花するというのに、彼岸すぎまで観梅とは…。こうなったら梅と桜の競演も期待できるかも…?

粋な深川・お江戸の総鎮守「富岡八幡宮」の酉の市
2014年午の歳 年の初めの深川七福神詣
お江戸深川七福神詣で
お江戸下町・深川七福神「その1」(~新年恒例の深川七福神めぐりのための得々情報~【本所深川七福神】お江戸下町・深川七福神「その2」(~新年恒例の深川七福神めぐりのための得々情報~【本所深川七福神】
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牛天神は小石川の隠れた梅の名所~梅香薫る北野神社~

2012年03月16日 11時00分13秒 | 文京区・歴史散策
小石川といえばこの時期、観梅の名所はやはり水戸徳川家の上屋敷であった「小石川後楽園」なのですが、実は隠れた梅の名所があるんです。

地下鉄丸の内線の後楽園駅から「小石川後楽園」の長い塀を見ながら歩くこと5分程度で「牛天神下」の三叉路の信号にさしかかります。この三叉路の一番右の道を登り、最初の角を右手に折れると北野神社(牛天神)への石段が見えてきます。

北野神社ご社殿

石段下から見上げると、石段を覆うように満開の梅の花が咲き誇っています。

石段の梅の花
石段の梅の花

ここ北野神社は別名「牛天神」と呼ばれているのですが、その由緒は源頼朝が1184年の東征の際にここの入り江の松に船をつなぎ波風が静まるのを待つ間に見た夢の中に、菅神(道真公)が牛に乗って現れ、頼朝に二つの吉事があると告げたといいます。
夢の中に現れた道真公は頼朝に武運満足の後は社を営むべしと告げ、夢から覚めると牛の形をした石が残されていたといいます。そんな夢のご利益で、その後頼家が生まれ、宿敵平氏を西に追うことができたことで、この場所に社殿を造営した云われが残っています。ご祭神はもちろん「菅原道真公」です。

今は小石川の高台に鎮座する北野神社ですが、その昔は川なのか、海なのかわかりませんが水辺に面した場所だったのでしょう。この小高い丘の上に社殿が置かれています。

それほど広くない境内全体が梅の木で覆われ、そのすべての梅の木に満開の梅の花が咲き誇っています。訪れる人もまばらな北野神社では、満開の梅の花を独り占めできるのです。

社殿前の梅の花
青空に映える梅の花
社殿前の梅の花
境内俯瞰

社殿前には道真公が牛に乗って現れた夢を表すように2頭の牛が狛犬の代わりに置かれています。時折、吹く北風に満開の梅の花をつけた枝が揺れ、そのたびに花弁が境内を舞う様子はなんとも趣を感じる瞬間です。

牛と社殿と梅の花
末社の大田神社

牛天神の満開の梅の花も今が盛りのようです。明日土曜日は生憎の雨模様の予想ですが、小石川後楽園の観梅のついでに、ここ牛天神の梅も愛でてみてはいかがでしょうか。





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護国寺は桂昌院殿のあくなき帰依の証~綱吉公とその母の夢の跡~

2012年03月15日 23時50分54秒 | 文京区・歴史散策
東京文京区大塚の地に護国寺は将軍綱吉公とその生母である桂昌院の権勢を今に伝えるよう、威厳を持った佇まいを見せています。

護国寺観音堂

徳川将軍家の菩提寺は将軍墓所を持つ上野寛永寺(天台宗)と芝増上寺(浄土宗)なのですが、この他に徳川家に縁のある方々が埋葬されている小石川の傳通院も菩提寺として位置づけられています。

しかしここ護国寺は五代将軍綱吉公の時代(天和元年/1681年)に、仏の教えに深く帰依した綱吉公の母である桂昌院殿の個人的な発願で建立されたもので、菩提寺としての位置づけではなく、桂昌院殿の念持仏である琥珀如意輪観音を本尊とするあくまでも桂昌院殿の祈願寺だったのです。穿った見方をすれば、桂昌院殿の護国寺建立の発願も、綱吉に取り入った僧「隆光」の入れ知恵だったのかもしれませんが……?

桂昌院殿の祈願寺といっても、やはり将軍生母の肝いりで建立した寺だけのことはあります。先の大戦でも焼失を免れた堂宇が広い境内に点在し、将軍生母のあくなき帰依の証を目の当たりにすることができます。上野寛永寺の堂宇はことごとく失われ、当時の様子を知るものは何もありません。一方、芝増上寺も創建当時の堂宇は山門である「解脱門」しか残っていません。

護国寺にはかなり以前になりますが一度訪れたことがあるのですが、境内をゆっくりと散策した覚えがありません。また当時は護国寺のバックグランドを知らずにただ立ち寄っただけにすぎなかったため境内の様子すらはっきりと覚えていませんでした。

地下鉄有楽町線の護国寺駅はそれこそ護国寺正面に建つ「仁王門」そばに出入り口があります。キョロキョロと探すこともなく、堂々とした「仁王門」が目の前に現れます。

仁王門

深い朱色で彩られた大きな仁王門は江戸時代の元禄期の建立と伝えられています。正面両脇に金剛力士像(右に吽形、左に阿形)、そして背面両脇には二天像(右に増長天、左に広目天)が安置されています。

仁王門をくぐり広い参道を進むと左右に水盤舎が対で置かれ、その向こうに石段がつづきます。石段を登りきったところに建つのが「不老門」です。この門は昭和13年に建立されたものですが、扁額の文字はご維新後の徳川宗家を継いだ田安家の徳川家達氏のご執筆とのことです。

水盤舎(左側)
水盤舎(右側)
不老門

この不老門をくぐると広い境内が目の前に広がります。その真正面に当山のご本堂である「観音堂」が立派な姿を現します。

観音堂(ご本堂)

境内左手には二重の多宝塔が美しい姿を見せています。この多宝塔は昭和13年に建立されたもので、近江(滋賀県)の石山寺の多宝塔を模したものです。

多宝塔
多宝塔と月光殿

そして多宝塔と対峙するように置かれているのが仏像です。仏像の奥には石積みの土台を持つ鐘楼が置かれています。入母屋造りの鐘楼堂は江戸時代の中ごろの建立で、梵鐘は天和2年(1682)に寄進されたものです。

仏像
鐘楼堂

鐘楼堂の裏手の石段を下りると、これまた歴史を感じさせるお堂が一つ置かれています。宗祖弘法大師を祀る大師堂なのですが、元禄14年(1701)に再営された旧薬師堂を、大正15年(1926)の火災以降に大修理し、現在地に移築して大師堂としたものだそうです。

大師堂

そして当山の象徴的な建物がご本堂である「観音堂」です。このお堂に桂昌院殿自身が信仰する念持仏「如意輪観世音菩薩(絶対秘仏)」が納められています。お堂を支える太い木の柱や梁には創建当時の木目が鮮やかに浮かび上がり、元禄時代の建立の証を今に伝えています。

観音堂
観音堂

観音堂の左脇にもう一つのお堂があります。小さいながらも歴史を感じさせるもので「薬師堂」と呼ばれています。このお堂も建造は古く、元禄4年(1691)に遡ります。江戸時代の元禄にまで遡る建造物が残る護国寺は将軍家菩提寺ではないにしろ、将軍綱吉公とその母桂昌院殿の仏に帰依する思いの深さを感じさせるものがあります。

薬師堂

そんな護国寺は明治に入ると、その墓地の大半が皇族(宮家)のものとなります。ご本堂のちょうど裏手には幕末(文久3年)のクーデター・八月十八日の政変により朝廷を追われ、京都を逃れて長州へ移った「七卿落ち」の一人「三条 実美(さんじょう さねとみ)」の墓もあります。

また、明治の元勲「大隈重信」の墓所が周囲から隔絶されたように頑丈な門に閉ざされ、墓所の奥まった場所にりっぱな墓石が置かれています。

大隈重信の墓域
大隈重信の墓石

ついでながら、墓地を歩いていると極真空手の大山倍達(おおやま ますたつ)の墓がありました。

大山倍達の墓

護国寺を辞して、地下鉄大塚駅方面へ進むとすぐ左手に現れるのが、護国寺の惣門です。どっしりとした風格のある門なのですが、寺院の門というよりか武家の屋敷門のような雰囲気を漂わせています。実は五万石以上の大名クラスの門に相当する造りということなのですが、当山が幕府の厚い庇護を得ていたことの証となる門構えなのです。

護国寺惣門

そしてこの惣門に隣接するようにもう一つ門が構えています。これこそ武家の屋敷門そのものといった造りなのですが、特に説明書きが見当たりません。目を凝らして良く見ると、瓦に菊の御紋章らしきものが形どられています。おそらく護国寺には皇族(宮家)の墓地があるため、この門は皇族(宮家)の方々の専用の門ではと推察いたしますが……?



まあ、それにしても桂昌院殿は護国寺を建立するためにどれほどの幕府公金を費やしたのでしょうか?
綱吉公も僧隆光のために護持院をはじめいくつもの寺を建立するなどの大盤振る舞いをしたため、幕府の財政はかなり厳しくなっていたといいます。そんなこんなで明暦の大火で焼失した江戸城の天守の再建も財政事情悪化で中止せざるを得なくなるほど、桂昌院殿と綱吉公は神頼みならぬ、仏頼みに熱中していたのかもしれません。





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青空に映える東京スカイツリー七景

2012年03月14日 17時30分11秒 | 墨田区・歴史散策
開業まであと2ヶ月に迫ったスカイツリーは先日、「完成宣言」を終え、現在は足元を流れる十間川の河岸工事が着々と進められています。スカイツリー直下の建造物もほぼ出来上がり、以前のように工事車両やトラックがひっきりなしに行きかう姿は見られなくなり、開業を待つ静かな空気に覆われています。

其の壱

工事期間中はその工事現場見学の観光客でごった返していた十間川沿いの道は、あの騒ぎが嘘のように見物客もまばらになっています。以前は日々成長していくスカイツリーを間近で見る楽しみがあったのですが、出来上がってしまうと、なんとも冷たいもので見向きもしなくなってしまうのでしょうか?

其の弐
其の参
其の四

まあ、開業ともなれば展望台に行かずとも、直下のショッピングモールでの買い物にわんさと人が押し寄せるのではないでしょうか。そんな様子が訪れることを期待しているかのように、押上、業平地区は「嵐の前の静けさ」といった具合です。

其の五 河津桜とスカイツリー
其の六

スカイツリーから浅草へと向かい、吾妻橋からいつものアングルでスカイツリーを遠望し、シャッターを落としました。

其の七




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お江戸の二大天神様の梅はちょうど見ごろ~亀戸天神と湯島天神~

2012年03月14日 16時55分59秒 | 江東区・歴史散策
今日14日、三月も半ばにさしかかりやっと春めいてきました。朝から青空が広がり、梅見には最適のお日和になりました。

昨日、今日と比較的温かい気温と陽射しがつづいているので、お江戸の梅の名所もきっと見ごろになっているのではと期待しながら、まずは亀戸天神へひとっ走り。

亀戸天神本社殿
境内俯瞰

境内に入ると先日までの様子とはガラリと変わり、境内を取り囲むように並ぶ梅の木には紅、白そして薄い桃色の花が咲き誇っているではありませんか。

梅花越しのスカイツリー

それでは亀戸天神境内の梅の花をご覧ください。

紅梅其の壱
枝垂れ梅
社殿脇の梅
紅梅其の弐
白梅其の壱
白梅其の弐
紅梅

ついでに湯島の白梅はどんな具合かと、亀戸から湯島へと一っ飛び。

湯島天神参道

さずがお江戸一番の梅の名所だけに、平日の今日でも境内は観梅の人で大混雑の状態です。ここ湯島の梅の花も今が見ごろといったところです。陽射しが降り注ぐ本社殿前の梅の木はほぼ満開の状態ですが、裏手の女坂は陽射しが届かないためか今ひとつ派手さが足らないようです。
それでは湯島天神の梅の花をご覧ください。

其の壱
其の弐
其の参
其の四
其の五
其の六

両社の梅の花の見ごろは今週末くらいまでではないでしょうか?是非、お出かけになってはいかがですか?

亀戸天神社恒例の「うそ替え神事」
亀戸天神の菊祭りと秋雲の下でひときわ輝く東京スカイツリー
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お江戸亀戸天満宮の梅の花は「あるじなしとて春を忘れていないようです」





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私本東海道五十三次道中記~お江戸日本橋から品川宿~(其の二)

2012年03月13日 11時31分12秒 | 私本東海道五十三次道中記
銀座8丁目の交差点は首都高速の高架が頭上を覆っています。いわゆる銀座通りはここで終わりを告げ、いよいよ新橋界隈へと入っていきます。次の交差点は「新橋」ですが、右方向へつづくのが外堀通り、そして左方向へは昭和通りと名前を変えます。そして直進してまもなくすると前方に巨大な歩道橋が見えてきます。これが「ゆりかもめ」の新橋駅ターミナルです。

ゆりかもめの新橋駅ターミナルをくぐると、東海道中は初めてJRのガードをくぐります。ガードをくぐると左手に日比谷神社のお社が見えてきます。そして次の新橋5丁目の信号をわたり、東新橋歩道橋に到達すると日本橋からちょうど3キロ地点となります。

ここから東海道は大門、金杉橋そして田町へと向かうのですが、実はこの間には道中沿いにさほど見るべきものがありません。そのため若干、道中からは逸れるのですが、至近にある名刹、古社に立ち寄りながら江戸の風情を味うことにしました。

芝大神宮社殿

その第一の目的地が「芝大神宮」なのです。御鎮座千年という江戸において由緒ある古社の一つです。古くは源頼朝の庇護を受け、江戸時代は徳川将軍家から保護を受けていました。大江戸の産土上(うぶすなかみ)として庶民から信仰を集めてきました。と同時に当社は歌舞伎の演目ともなっている「め組の喧嘩」の舞台として知られています。境内の狛犬の台座には「め組」と刻まれています。まあ、火事と喧嘩は江戸の華と申します。火事場の粋を貫く火消しが喧嘩沙汰を起こすという、まるで絵に描いたような一件なのですが、この喧嘩の相手が相撲取りだったのでたちが悪かった。

芝大神宮

お互い血の気が多い輩同士、ことはすんなり納まらず相撲部屋総出で繰り出し、火消し衆は火事場支度で応戦し、やめればいいのに火の見櫓の鐘まで鳴らし仲間に動員をかけた始末。そんなこんなで騒動は拡大し、火消し衆は町奉行に、相撲側は寺社奉行に訴えでて事態の収拾を図るが収まらず、結局は火消しと力士合計で36人が捕縛されてしまったという顛末。

それじゃ喧嘩の原因はというと、芝大神宮境内で行われた相撲興行を無銭見物しようとした「め組み」側がたまたま通りかかった力士に諌められたというたわいもないことだったのです。まあ、粋なのか、イナセなのか、はたまた「べらんめい」気質なのか、江戸っ子らしいといえばそれまでなのですが、江戸っ子そのものを地でいった喧嘩沙汰のような気がします。

芝大門

そんな出来事の発端が起こった芝大神宮からほんのわずかな距離にあるのが将軍家の菩提寺であった「増上寺」の表門である「大門(だいもん)」があります。今でこそ「大門」は周囲のビルの谷間に埋もれてしまっていますが、かつて江戸時代には東海道中の道筋からその姿をはっきりと見ることができたのではないでしょうか。

増上寺・解脱門

そして大門の向こうには増上寺の山門である「解脱門」が聳え、更にその奥に本殿の甍が見えたのではないでしょうか。大門をくぐるとその直線上に堂々とした姿の「解脱門(げだつもん)」が徐々に迫ってきます。江戸時代には上野寛永寺と並ぶ将軍家の菩提寺としてその権勢を振るった増上寺の山門は、数百年の間、幾多の災いを乗り越え、いまだその権威を誇示するかのように堂々と聳えたっています。

解脱門の前を走る日比谷通りを渡り、解脱門をくぐり広い境内へと進んでいきましょう。その正面に建つのが増上寺のご本堂である「大殿」です。その大殿の右側には黒本尊を祀る「安国殿」が改築なった新たな装いで私たちを迎えてくれます。

かつては現在の芝プリンスのある北側一帯と大殿を囲む広い地域にに歴代将軍六人と二代将軍秀忠公の御台様であった崇厳院(お江)をはじめとする正室、側室の荘厳華麗な霊廟が並んでいたのですが、大戦末期の米軍の空襲によってそのほとんどが灰燼に帰し、貴重な文化財が失われてしまいました。現在、その名残は「安国殿」の裏手にひっそりと佇む「徳川家墓所」にほんのわずか残っているだけです。

今でこそ、高層ビルに阻まれて解脱門や大殿の姿は見えにくくなってしまいましたが、かつては道中を往来する人々は増上寺の甍を見るたびに、将軍家の権威にうやうやしく身を屈めながら門前を行過ぎて行ったのではないでしょうか。

増上寺をあとに日比谷通りに沿って東海道中との合流点へと進んでいきましょう。増上寺の敷地が途切れるあたり、すなわち築地塀が終わる頃、右手に旧台徳院惣門が現れます。

旧台徳院惣門

台徳院は第二代将軍秀忠公の院号なのですが、この門はかつてこの地に広がっていた秀忠公の霊廟に通ずる参道に構えていた門の一つです。ことごとく失われた霊廟群の中で焼け残った建築物の一つです。

惣門を過ぎると右手には芝公園とこんもりとした丸山古墳、そしてその麓に社を構える「芝東照宮」の社殿が見えてきます。もともとこの場所には、江戸時代の頃「安国殿」が置かれ、黒本尊と家康公の寿像が納められていました。ということは家康公歿後はむしろ「東照宮」的な役割を担ったのが安国殿だったのです。維新後、明治政府の神仏分離政策により仏式であった安国殿から神として崇められていた「神君家康公」を分離し、ここに東照宮を勧請したのです。

東照宮社殿前の梅の花
東照宮社殿前の梅の花

すでに3月中旬なのですが、境内の梅の木には今を盛りに美しい花が咲き競っています。

東照宮からさほど離れていない場所に、もう一つ歴史の舞台が残っています。芝園橋が架かる古川を渡るとそこはかつて外様雄藩として幕末にその影響力を行使した薩摩藩の上屋敷跡があります。その場所は現在のNEC本社ビルが建つ地域全体を指すのですが、なんと当時の上屋敷は東西800m、南北300mの広大な敷地を持っていました。

さつまの道モニュメント

あの篤姫様も滞在した芝の薩摩藩上屋敷のほぼ中心にあたる場所に、現在は「さつまの道」と名付けられたモニュメントが置かれています。そしてNEC本社ビル脇の道には「薩摩屋敷跡」の石碑も置かれています。

薩摩屋敷跡碑

NEC本社ビル前を過ぎると、日比谷通りは東海道中と合流する芝5丁目交差点にさしかかります。そしてこの交差点を横切ると歩道脇に幕末最大の出来事として誰もが知る「西郷・勝の会談」の記念碑が置かれています。

西郷・勝会見之地碑
西郷・勝の会談レリーフ
西郷・勝会見之地碑

時は幕末の慶応4年(1868)、朝敵となった徳川家を追討する官軍の主力はいよいよ品川に迫り、江戸総攻撃の準備を着々と進めています。総攻撃が2日後に迫ったその年の3月13日に官軍の西郷隆盛と幕府総裁、勝海舟は第一回の会談を薩摩藩の高輪中屋敷で行います。しかし、この会談は双方の腹の探り合いのまま終了し、翌14日に持ち越されます。この第2回会談が行われたのが薩摩藩の蔵屋敷なのです。すでに総攻撃の期日は翌日15日に迫っている中、双方の真剣な会議の結果、ギリギリで江戸総攻撃が回避された記念すべき場所なのです。

江戸時代の旧東海道は現在のJR田町駅あたりから江戸湾の波打ち際を眺められる場所にでてきます。ということは現在のJRの線路があるところはかつては海の底だったのです。

JR田町駅にさしかかるあたりが日本橋からほぼ5キロにあたります。品川への旅はあと2キロ強に迫ってきました。田町駅から500m弱のところの「札の辻」を過ぎ、そして更に500mほど歩くと第一京浜の左側に現れるのが「高輪大木戸跡」です。

高輪大木戸跡
高輪大木戸跡

江戸の南の入口として旧東海道の両側に石垣を築き、治安の維持と交通規制の役割を担っていた重要な木戸だったのです。江戸府内への出入り口として、東海道を行き来する人々の見送り、出迎えの場所としてたいそう賑わっていた場所だったのです。

高輪大木戸跡をすぎると、日本人なら誰でも知っている赤穂浪士縁の「泉岳寺」山門への入口が見えてきます。品川はもう目と鼻の先の距離にあるのですが、東海道沿いの名刹、古刹として知られている「泉岳寺」は是非立ち寄ってみたい場所です。

泉岳寺中門
泉岳寺山門
山門天井の竜

開基は古く慶長17年(1612)といいますから、今からちょうど400年前に遡ります。境内には吉良邸討ち入りで主君の仇を晴らした赤穂義士の墓が置かれています。

泉岳寺本堂
境内の梅

泉岳寺を後に品川へと進みますが、本来の品川宿の江戸見附は現在の品川駅からさらに800mほど歩いた所に位置しています。今回は終着点を品川駅にしましたので、品川宿については第二区間の品川から川崎の巻で紹介いたします。

私本東海道五十三次道中記~お江戸日本橋から品川宿~(其の一)





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