大江戸散策徒然噺 Introducing Japanese culture and history

豊かな歴史に彩られた日本の文化と歴史を紹介

町全体が伝統的建造物保存地区・奈良橿原の今井町 Imaicho~The whole town is like an open air museum of historical buildings

2016年11月02日 08時50分22秒 | 行く秋の奈良探訪
2016年10月27日
飛鳥路の旅を終え、そのまま京都へ戻る予定だったのですが、橿原神宮前駅から二つ目の近鉄八木西口駅(又は近鉄大和八木駅)至近に古い町並みが残るエリアが二つあることに気が付きました。
一つが重要伝統的建造物保存地区に指定されている「今井町」ともう一つが「八木町」なのですが、飛鳥路を巡って疲れている体で2つのエリアを歩くのは、キツイということで「今井町」だけを散策することにしました。

「今井町」の観光パンフレットを見ると、なんと今井町全域が重要伝統的建造物保存地区ではありませんか。町全体が野外博物館のような佇まいを見せる今井町は期待大ということで、胸をときめかせながら足を進めました。町の入口に流れる飛鳥川に架かる赤い欄干の蘇武橋を渡ると、古い町並みらしき風情が漂い始めます。

今井町パンフレット

奈良にこんな場所があることなど、初めて知ったのですが、今井町の形成の歴史を辿ると「なるほど」とうなずけるものがあります。

今井町の成立は戦国時代に遡ります。天文年間(1532~1555)にこの場所に一向宗本願寺坊主であった今井豊寿なる人物によって本願寺の今井道場が建設されたことに始まります。天文年間という時代は各地で一向一揆が起こった時代で、あの家康公も桶狭間の戦い後の三河平定の過程で一向宗徒との戦で苦労していました。もちろん尾張の信長公も一向一揆には手を焼き、各地で一向宗徒と壮絶な戦いを繰り広げています。
そして町全体を要塞化するために、濠をめぐらしました。
その後、本願寺と信長公との確執が深まり、反信長を旗印に壮絶な戦いへと発展していきます。そしてこの信長との戦いの中で、今井もこれに呼応し、戦禍に巻き込まれていきます。

しかし信長公の容赦ない攻撃に天正3年(1575)に今井は降伏したのですが、信長公は今井に対して温情を施したのです。信長公から今井に対して赦免の朱印状を下し、「万事大阪同前」として自治特権が許されたのです。前述の今井道場が今井御坊称念寺となるのは文禄年間(1592~1595)の頃です。

その後、今井は大商業地である大阪や境と交流を深め、それまでの要塞都市から商業都市へと変貌を遂げていきます。江戸時代に入ると、南大和最大の在郷町となり、今井札(銀札)を発行するまで発展しました。江戸時代に商業都市として発展した今井町の規模は東西600m、南北310m、町内の戸数1100軒、人口約4000を越える財力豊かな町でした。

さあ!それでは江戸時代の町並みへタイムスリップとまいりましょう。
古い町並みに足を踏み入れると、まず気が付くのが電信柱と電線がないこと。このため目障りとなるものがないので家並みがスッキリしています。



町全体に張り巡らされた道筋は正確な碁盤の目ではないのですが、ほとんどが直線で曲がりくねった道筋はありません。
このためかなり先まで見通せるようになっています。また、家並みの高さが統一されているので、スッキリしています。




ここ今井町は重要伝統的建造物保存地区に指定されてはいますが、すべての家は住居として使われているものです。といっても路地を歩いていても、住民らしき方と出会うことがありません。歩いてるのは観光客くらいですが、この日は平日ということもあり、観光客でごった返しているということもありません。

また、これほどの町並みを残す今井の保存地区には観光客相手の土産屋や飲食店はほとんどありません。私たちも美味しい甘味を期待していたのですが空振りでした。

町全体が歴史的建造物なのですが、一部〇〇家住宅と案内板が置かれた屋敷が現れます。といってもすべての住宅の中に入れるわけではありません。そのうちの一軒の家に入ることができたので、お邪魔しました。



地図を片手にいくつもの路地を折れ曲がりながら、今井の町を探索していきました。これまで東海道や中山道などの街道を歩いてきましたが、街道の宿場町でもこれほどまでの規模で古い町並みが残っているのは多くありません。宿場町の場合は宿場を貫く街道に沿って家並みが残っている場合がありますが、ここ今井町は東西600m、南北310mのエリア全体に古い町並みがそっくりそのまま残っているのは珍しいのではないでしょうか。






幾つもの路地を折れ曲がりながら、今井町の中心的存在の称念寺(国重文)山門前に到着しました。現在、当寺は修復工事中のため、ご本堂及び付属施設は見ることができません。

称念寺山門
称念寺
称念寺

称念寺を後に、趣ある家並みを眺めながら近鉄八木西口駅へ戻ることにします。

町の床屋さん








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京都洛北・玉の輿神社「今宮神社」とあぶり餅

2016年11月01日 14時12分37秒 | 行く秋の京都探訪
2016年10月28日(金)
今にも雨が降り出しそうな雲行きの下、この日は京都洛北を中心に観光をします。朝一番で一休さんと千利休ゆかりの大徳寺の境内を散策し、隣接する今宮神社へ向かいました。

平日の朝の8時半、人通りも少ない今宮神社への参道を進んで朱色も鮮やかな楼門へ。

今宮神社楼門

ここ今宮神社は病気・厄除けの御利益があるという「あぶり餅」で有名です。あぶり餅を売る店は今宮神社の東門前の参道を挟んで仲良く2軒が向い合せで店を構えています。朝早い時間のため、まだ開店していません。どうしても食したいので、いったん別の場所を回ってから再び戻ってくることにしました。

神社の東門に向かって右側の店が「一和(一文字和輔)」、左側が「かざりや」です。ちなみに「一和」は創業なんと1000年、「かざりや」はそれでも600年の歴史を刻んでいる老舗です。

かざりや
一和

あぶり餅とは、きな粉をまぶした親指ほどの大きなの餅を竹串の先端に刺し、若干焦げがつくくらいに炭火であぶり、白みそ仕立ての甘い味噌を塗ったお菓子です。

あぶり餅
かざりや

私たちは特に理由もなく「かざりや」であぶり餅をいただきました。食べ比べていないので、その違いはわかりません。一人前7本で500円。7本ではちょっと物足らない量ですが、ちょっとしたおやつにはいいのではないでしょうか。
「かざりや」さんで「一和」との違いを聞くも、「それぞれ好みがちがいますので……」と答えにならない答えが返ってきました。思うに形状や味付けもほとんど変わらないので、味は同じかもしれません。

大きな楼門をくぐると広い境内が現れます。社殿はかなり奥に構えています。今宮神社の歴史は古く、平安遷都以前にこの場所には今宮神社の前身である疫神社(祭神はスサノオ)が置かれていたそうです。

楼門
境内
拝殿

そして西暦1001年に都で疫病が流行ったことから、疫神社に神殿、玉垣、神輿を造らせて「今宮社」と名付け、大己貴命(おおなむちのみこと)、事代主命(ことしろぬしのみこと)、奇稲田姫命(くしなだひめのみこと)の三柱が祀られました。

その後、京都は応仁・文明の乱で今宮神社は消失し、さらには戦国の戦火にまみれ、今宮神社は荒廃していきます。そして戦国の世が一段落した文禄2年(1593)に秀吉が今宮社を再興し、神輿1基を寄進したと伝えられています。

さて、今宮神社が別名「玉の輿神社」と呼ばれている由縁ですが、実は五代将軍綱吉公の生母である桂昌院と関係があるのです。桂昌院は京都西陣の八百屋の家に生まれた「お玉」なのですが、あの春日局の計らいで三代将軍家光の側室となって綱吉を生み、最終的には官位従一位まで上り詰めた女性です。

桂昌院は京都の寺社の復興に並々ならぬ力を注ぎ、特にここ今宮神社に対してはことのほか崇敬の念が強かったといいます。今宮神社への桂昌院の崇敬の念と将軍生母にまでなったお玉の出世があいまって、当社が「玉の輿神社」と呼ばれるようになったのです。とはいっても、昼前に私たちが訪れた時には、参拝客はほとんどおらず、玉の輿願望の若い女性はいませんでした。

本社
本社
透塀

念願の「あぶり餅」も食し、洛北めぐりをつづけることにします。





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