大江戸散策徒然噺 Introducing Japanese culture and history

豊かな歴史に彩られた日本の文化と歴史を紹介

私本東海道五十三次道中記 第31回 第3日目 静かな土山宿をぬけて土山大野の三好赤甫旧跡まで

2015年11月16日 08時16分42秒 | 私本東海道五十三次道中記


昨日降った雪が残る土山の宿場は静かな朝を迎えています。ただまだ雲行きは怪しく、いつ雪が降ってもおかしくないような天気です。さあ!第3日目の行程が始まります。旅の出立は昨日の終着地点の「道の駅・あいの土山」です。

道の駅・あいの土山



「道の駅・あいの土山」の左の公園の前には松の木が植えられ「土山宿」と書いた石碑が建っています。
お江戸から数えて49番目の宿場である土山宿の家数は351軒、宿内人口1505人、本陣は2軒、脇本陣はなく、旅籠は44軒の規模を持っていました。尚、土山は近世を通じて幕領で代官が支配していました。

土山宿の石碑

ちょうど「道の駅・あいの土山」の建物の裏手に回り込むように旧東海道が走っています。街道の両側は畑が広がっています。そして一面白銀の世界が広がっています。



鈴鹿峠を越えて近江国(滋賀)に入ってきましたが、土山を含む滋賀県の冬の天候はかなり降雪があるようです。どんよりとした雪雲に覆われた空を見ながら出立です。この辺りは現在、土山町北土山という地名ですが、江戸時代には町家と農家が混在していた地域です。歩き始めると街道の左側は畑が広がっています。

畑が途切れると集落が現れます。土山宿東端の生里野地区です。この辺りの家々の玄関には街道時代の屋号を書いた木札が下がっています。その中に面白いことに「東海道土山宿お六櫛商・三日月屋」の木札を掲げる家が現れます。
お六櫛は中山道の薮原宿の名物で、元禄年間に藪原宿に住んでいたお六という娘がみねばりの木で作った櫛が由来で、現在でも薮原で作られています。江戸時代の土山宿はお六櫛を商う店が多くあり、街道の名物になっていたといわれています。
三日月屋の先にもお六櫛商を掲げた木札が数軒ありますが、どの家も三日月屋となっています。おそらく薮原の三日月屋から仕入れた櫛を東海道を旅する人々に販売していたのではないでしょう?

※中山道「藪原宿」
中山道の35番目の宿場町。難所として知られる鳥居峠の南に位置しています。

※お六櫛
わずか10cmにも満たない幅におよそ100本もの歯をもつ「みねばりの木」で作った櫛です。
その昔、妻籠宿に「お六」という美しい娘がいました。しかしお六は頭の病に悩まされていたといいます。
お六は御嶽権現に自らの病気治癒の願掛けを行ったところ、権現から「みねばりの木」で作った櫛で朝な夕に髪をとかせば、頭の病は必ずや治るというお告げを授かり、早速、お告げ通りの櫛を作り、髪をとかしました。するとみるみる、頭の病が消え失せたといいます。



土山町北土山から南土山にかけては古い家が多く、連格子のある家が並んでいます。左側は畑が広がっていますが、その道筋には道標や地蔵堂置かれ街道らしい風情を漂わせています。地蔵堂の先にポツンと置かれた句碑があります。俳人上島鬼貫(おにつら)の句碑です。

上島鬼貫の句碑

鬼貫は大坂で活躍し、東の芭蕉、西の鬼貫とも言われた人物です。この句は鬼貫が東海道の旅の途中、ここ土山でお六櫛を買ったときに詠んだものです。
碑面には「吹け波(ば)ふけ 櫛を買いたり 秋乃風」と刻まれています。

鬼貫の句碑を過ぎると、街道は家並みがつづくエリアへと入ってきます。そんな家並みを見ながら進むと右側に商家然とした建物が見えてきます。街道時代には扇や櫛を扱っていた「扇屋」が店を構えています。

扇屋
扇屋

現在は扇屋伝承文化館の名で土山を訪れる観光客のための休憩施設として利用されています。尚、館内では地元の工芸品の展示や販売が行われています。
開館日:土・日・祝(10:00~15:30)
☎090-6969-3108

さらに進むと右側の家の前に目立たない存在で、日本橋から110番目の「土山一里塚跡」の標柱が置かれています。この地方は一里塚を一里山と呼ぶようで、地名の一里山町はそこからきているのでしょう。

「土山一里塚跡」を過ぎると、街道の左側に「旅籠車屋跡」そしてその先には立派な塀のある大きな建物のお屋敷が現れますが、江戸時代の屋号は油屋権右衛門とあるので、油商を営んでいた家だったのでしょう。
現在に残る土山宿の家並は関宿ほどの完璧な姿ではありませんが、低い家並みが街道の両側に続き、時折、現れる連格子が嵌められた家を見るにつけ、それなりに宿場らしい風情を味わうことができます。さらに昨日降った雪が思いがけず宿内に彩りを添えてくれています。



宿内を進んで行くと小さな川にさしかかります。来見川(くるみがわ)です。川には来見(胡桃)橋が架かっています。瓦屋根が載った白壁のような欄干がなんとも情緒を醸し出しています。

来見橋

白壁には「土山の風景」「茶もみ歌」が描かれています。
「お茶をもめもめ摘まねばならぬ もめば古茶も粉茶となる」
「お茶を摘めつめしっかり摘みやれ 唄いすぎては手がお留守」
土山は近江茶の一大生産地として知られており、その起源は鎌倉時代に溯り、文和5年(1356)南土山にある常明寺の僧が大徳寺(京都)から持ち帰った実を栽培したとされています。

橋を渡るとすぐ左に南土山の鎮守として崇められている「白川神社」の鳥居が参道入口に構えています。

白川神社鳥居

当社は牛頭天王社又は祇園社とも呼ばれ、毎年8月には「土山祇園祭花笠神事」が執り行われています。この神事は江戸時代の承応3年(1654)から続いているもので、南土山町24地区で奉納された花笠から花を奪い合うという行事です。
白川神社の参道入口を過ぎると、街道は緩やかな坂道となり、左へとカーブをしていきます。

白川神社の先の街道右側に正和堂という菓子屋があり「万人講もなか、伊賀饅頭」という看板を出しています。土山宿内にはかつての街道時代に軒を連ねていた旅籠の名前を刻んだ石柱が随所に置かれています。今は当時の建物は残っていませんが、この辺りからやたら「旅籠跡」の石柱が多くなります。稲荷町には江戸時代旅籠が8軒あったといいます。

道が緩やかに左にカーブするとその先の左側に「大原製茶場」の看板を掲げる連子格子と白い漆喰壁の家があります。大原製茶場は江戸時代には油屋平蔵という屋号で油を扱っていた商家ですが、明治に入り製茶業に転業したそうです。
前述のように土山茶は文和5年(1356)、南土山の「常明寺」を再興した鈍翁了愚禅師が京都の大徳寺から茶の実を持ち帰って植えたのが始まりといわれているので歴史はかなり古いのです。
右側の佐治屋酒店の手前には旅籠釣瓶屋跡・旅籠大工屋跡・旅籠柏屋跡の「旅籠跡」の石柱が並んで置かれています。この辺りには多くの旅籠が軒を連ねていたと思われます。

三軒の旅籠跡が置かれた道の反対側の民家の前に「森白仙終焉の地 井筒屋跡」の石柱が立っています。文豪森鴎外の祖父、白仙は文久元年(1861)11月7日、ここ旅籠井筒屋で病死しました。森家は岩見国津和野藩亀井家の典医として代々仕える家柄で、白仙もまた江戸、長崎で漢学、蘭医学を修めた医師でした。

幕末の万延元年(1860)に藩主の参勤交代に従い江戸へ参府し、翌5月に藩主は交代のため帰国することとなったのですが、白仙は病のため一緒に帰国すること出来ませんでした。やむなく江戸で療養した後、10月になり二人の従者を伴って帰国の途につきましたが、長旅の疲れもあり11月6日投宿した土山宿の井筒屋で再び発病し、翌7日急死しました。遺骸はこの近くの河原の墓地に埋葬されました。
明治33年3月2日、陸軍小倉師団の軍医部長であった鴎外は東京への出張の際に土山の地を訪れ、荒れ果てていた白仙の墓を見かねて、南土山の常明寺に改葬を依頼しました。後に白仙の妻清子、娘のミネ(鴎外の母)の遺骨も常明寺に葬られましたが、3人の墓碑は昭和28年に鴎外の眠る津和野永明寺に移葬されました。

井筒屋のはす向かいには平野屋がありますが、森鴎外は明治33年3月1日から2日までの2日間、この地に滞在した際に平野屋に宿泊しました。その時「(祖父の泊まった)宿舎井筒屋といふもの存ぜりやと問いに既に絶えたり 」 と森鴎外は「小倉日記」に書いています。

左側に江戸中期の建物を改造した「食事処うかい屋」、その先の家の前には「二階屋本陣跡」の石柱があります。道の反対の連子格子の家は「土山かしきや」で、このあたりは江戸時代には中町と呼ばれ、土山宿の中心だった地域です。

かしきやの先を右に入っていくと江戸時代の農家の建物を移築した「東海道伝馬館」があります。

街道脇の伝馬館の看板
伝馬館入口
入口脇の森鴎外来訪記念碑
伝馬館
馬子像
大名行列ジオラマ
大名行列ジオラマ
伝馬館裏庭

東海道伝馬館では問屋場を再現したり、見事な大名行列のジオラマを展示しています。
入場無料、9時~17時、休館日:月曜と火曜、年末年始
☎:0748-66-2770

伝馬館から街道に戻るとすぐ右手の空地に置かれた自動販売機の脇に「問屋場、成道学校跡」の石柱が立っています。土山宿の問屋場は中町と隣の吉川町にありましたが、問屋場は問屋役の自宅に設けられたので、問屋役が変るたびにその場所が変りました。空き地が問屋場跡で、問屋が廃止された後は成道学校として利用されました。
空地の左側は蔵がある立派なお屋敷で、玄関脇には「土山宿油佐」の木札が掲げられ、二階は白壁、下半分が奥に三尺引っ込んだ格子造りの大きな家です。

その先交叉点の手前右角に「問屋宅跡」の石柱がありますが、空地にあった問屋場を仕切っていた宿場役人の家です。土山宿は南土山村と北土山村と二つの村からなり、問屋場も南土山村と隣の北土山村で交代して務めていたといます。

問屋宅跡

問屋宅跡を過ぎると、右手に立派な家が現れます。土山宿の旧本陣の建物です。土山宿本陣は寛永11年(1634)、三代将軍家光が上洛の際に設けられました。現存する土山氏文書の「本陣職之事」によれば、土山家の初代当主は甲賀武士の土山鹿之助であり、三代目喜左衛門の時に初めて本陣職を務めました。甲賀忍者の末裔ではないでしょうか。

旧本陣
旧本陣
旧本陣の石柱

明治元年(1868)9月の明治天皇行幸の際、この本陣で天皇は誕生日を迎えられ「御神酒とするめ」が土山の住民たちに下賜されたといいます。しかし明治3年(1870)、東海道の宿駅制度廃止により土山本陣は廃業となりました。
建物の左側に「土山宿本陣跡」の石柱と「明治天皇聖蹟碑」井上圓了が詠んだ漢詩碑が置かれています。

明治天皇聖蹟碑と漢詩碑

漢詩碑に刻まれた詩は下記のような内容です。この詩は圓了が土山宿に来たとき、たまたま10代目の本陣主人である土山盛美氏から前述の明治天皇がお泊りになったことを聞き及び、感激して即座に詠んだ詩と言われています。
尚、井上圓了は現在の東洋大学の前身である哲学館を開いた方です。
「鈴鹿山の西に、古よりの駅亭あり。
秋風の一夜、鳳輿(ほうよ)停る。
維新の正に是、天長節なり。
恩賜の酒肴を今賀(いわい)に当てる。」


少し行くと左側に街道から少し奥まった場所に土山公民館があり、駐車場には「土山宿」の大きな案内板が置かれています。建物の右奥に林羅山の漢詩碑が置かれています。
羅山は江戸時代初期の頃の儒学者です。この詩は元和2年(1616)に羅山が京へ向かう途中、土山で詠んだものです。

林羅山の漢詩碑

【碑面に刻まれた詩】
行李(あんり) 東西 久しく旅居す
風光 日夜 郷閭(きょうりょ)を憶(おも)ふ
梅花に馬を繋ぐ 土山の上
知んぬ是崔嵬(さいかい)か 知んぬ是岨(しょ)か

【詩の意味】
東から西、西から東へと長く旅していると、途中のいろんな景色を目にする度に、故郷のことを想い起こす。
さて、今、梅花に馬を繋ぎとめているのは土山というところである。いったい、土山は、土の山に石がごろごろしているのだろうか、石の山に土がかぶさっているのだろうか。

その先の左側の漆喰壁の家は前田製茶本舗で、その先の交差点を越えると吉川町で、江戸時代は北土山村だった地域です。交差点を渡ると、右手公園に高桑闌更(たかくわらんこう)の句碑が置かれています。
「土山や 唄にもうたふ はつしぐれ」
高桑闌更は江戸時代後期の儒学者でもあり俳人であった方です。

高桑闌更の句碑

そしてこの場所には「土山宿大黒屋本陣跡碑」「土山宿問屋場跡碑」と少し離れた場所に「高札場跡碑」が置かれています。

土山宿大黒屋本陣跡碑と土山宿問屋場跡碑
高札場跡碑

土山本陣は寛永11年(1634)、三代将軍家光が上洛の際設けたのがそのはじまりですが、参勤交代の施行以来、諸大名の往来が増加し、土山本陣だけでは賄いきれなくなり、土山宿の豪商であった大黒屋立岡氏が控の本陣として指定されました。大黒屋本陣の設立時期は定かではないのですが、江戸中期以降、旅籠屋として繁盛した大黒屋が土山本陣の補佐宿となっています。

「巖稲荷神社跡」の石柱も置かれていますが、その近くに台座のようなものがあるので、おそらく燃失してしまったのでしょう。

巖稲荷神社跡

道はここで大きく右へと曲がっていきますが、街道の左側の民家の前に「土山陣屋跡」の石柱が立っています。土山宿は幕府が支配する天領なので、幕府から派遣された代官などの役人が陣屋に詰めていましたが、派遣された代官の自宅が陣屋に使われることが多かったといいます。

土山陣屋跡

その先に流れる川は吉川で、架かる橋は大黒橋です。来見橋に良く似た造りです。この橋には鈴鹿馬子唄の一節とそれを表現した絵が陶板になって嵌めこまれています。

大黒橋

馬子唄に「坂は照るてる 鈴鹿は曇る あいの土山 雨が降る 」という節がありますが、「あいの土山」についてはいろいろな説があるようです。

「あいの土山」は「間の宿」からという説や「藍染」をやっていたという説があるようですが、間の宿は幕府が設けた宿場から宿場まで距離が長い場合に休憩するために置かれた休憩場所のことで、その意味では土山は宿場なので当てはまりません。
しかし東海道が整備される前は坂下から水口まで距離が長かったので、土山が間の宿としての役割を担ったことは予想できます。そして馬子たちがそれを「あいのしゅく土山」と唄ったことも充分考えられます。

大黒橋を渡り、土山宿内の西のエリアへと進んでいきましょう。この辺りには宿場の雰囲気を味わえるような家並みは残っていません。街道の左手奥には浄明寺が堂宇を構えています。(街道から100mほど奥)

江戸時代の後期、常明寺の住職にこの地方の俳諧の指導者だった「虚白(きょはく)」がいました。虚白の僧名は第15代僧名・松堂慧喬といいます。虚白は43年間にわたって常明寺の住職を務めていました。そして虚白は同時期に活躍した高桑闌更(たかくわらんこう)から俳諧を学び、その後、京都南禅寺、東福寺の住持を務めています。

境内に芭蕉の「さみだれに 鳰のうき巣を 見にゆかん」という句碑が置かれています。また常明寺には森鴎外の祖父「白仙」供養塔が立っています。常明寺がある地域は江戸時代には吉川町と呼ばれていましたが、旅籠は少なくとも7軒ほどあったようです。



常明寺から数百メートルほど歩くと左側に「土山宿」の大きな案内板が置かれています。道は相変わらず左右に蛇行していますが、しばらく歩いて行くと、正面に道路、右側に白い塀のようなものが見えてきた。近づいていくと国道1号線で、白い塀の中には松が植えられ、「常夜燈」「東海道土山宿」の石柱が立っています。
私たちは土山宿の西のはずれにやってきました。
江戸時代の東海道は南土山交差点で国道1号を横断し、北西の方向に向かって道が続き、松尾川(現在の野洲川)の渡し場に出て、舟で川を渡っていました。現在、この道筋を辿ることはできません。

国道を横断すると右側の店と左の駐車場の間に細い道があり、道の左端に二基の道標が立っています。小さな方の道標には「右 北国たか街道 ひの八まんみち 」と刻まれていますが、ここが「東海道」「御代参街道(ごだいさん)」との追分だった場所です。

追分の道標

この道標の右に進む小路が旧御代参街道で、左斜めに進む道が旧東海道です。御代参街道は東海道土山宿のこの地点から笹尾峠を越え、鎌掛、八日市を経て中山道愛知川宿手前の小幡までの十里余りの脇往還です。

ご存知のように伊勢神宮は天照大神を祀り、皇室は祖先神として敬い、皇室や公家自身あるいは代参の使者が定期的に訪れました。それらの方々が歩いたことから御代参街道という名がつきました。
「お伊勢参らばお多賀へ参れ、お伊勢お多賀の子でござる 」と謳われた御代参街道(ごだいさん)はここから多賀大社へ行く近道で、またそれを経由し北国街道や中山道にも通じ、多賀大社にお参りする人々や近江商人などが行きかった道なのです。東海道はこの先、道が無くなっているので、土山宿はこの道標で終ります。

※多賀大社
御祭神はイザナギとイザナミの二柱です。伊勢神宮の内宮の祭神はアマテラスですが、このアマテラスはイザナギとイザナミの間に生まれた神です。このため古くから「お伊勢参らばお多賀へ参れ、お伊勢お多賀の子でござる」と言われている所以です。

江戸時代の東海道は御代参街道(ごだいさん)の道標で、進路を北西に変えて進み、野洲川を舟渡しで渡っていたのですが、現在はその道はありません。私たちは国道1号線に沿って進んでいきましょう。途中、鈴木製作所があるところで、国道1号から左へ分岐し、野洲川に架かる歌声橋へ通じる道筋を進んでいきます。屋根付の歌声橋の橋上からは野洲川の流れと遥か彼方に鈴鹿連山のパノラマが広がります。

歌声橋からの眺め
歌声橋からの眺め



歌声橋を渡り、細い道筋を辿っていくと、その先で右手からくる道と合流する地点にさしかかります。実はこの右からくる道筋がかつての東海道です。前述のようにかつての東海道は野洲川で分断されているため辿ることができません。ここで本来の旧東海道筋に合流します。

現在の国道1号線を横切り北へと延びるかつての東海道筋の近くには「垂水斎王頓宮跡(たるみさいおうとんぐうあと)」があります。

斎王とは天皇の代わりに、伊勢神宮の天照大神にお仕えしていた未婚の皇女で、第11代の垂仁朝の倭姫(やまとひめ)が初代で、天皇が代わる毎に皇女の中から占いによって選ばれ伊勢へ向かいました。これを群行といいますが、京都から伊勢の斎宮まで、近江では勢多、甲賀、垂水の3ヶ所伊勢では鈴鹿、一志の2ヶ所に1泊し、合計5泊6日もかけて伊勢の斎宮に行かれたのです。 
この群行は鎌倉中期まで続きましたが、以後皇威が衰えるとともに廃れてしまいました。 
垂水斎王頓宮跡は平安時代から鎌倉時代中期までの約380年間で31人の斎王が伊勢参行の途上宿泊された場所です。森閑とした林の中に入るとぽっかりあいた空地の奥に「垂水斎王頓宮跡」の大きな石碑と「伊勢神宮遥拝所」の木柱があり伊勢神宮遥拝所の社殿が建っています。上記五か所の頓宮で明確に存在が検証されているのはこの垂水頓宮跡だけであると説明板に書かれていますが、土で埋まった井戸の跡が残っているだけで、1000年前に頓宮があったという形跡は無くなっています。

24号線を越え、その先の民家の一角に「滝樹(たぎ)神社入口 従是四丁(約450m)」という表示が置かれています。街道から社殿までは500mはあります。社殿は建て替えたばかりなのか、拝殿から本殿までぴかぴかの建物ばかりです。
滝樹(たぎ)神社は仁和元年(885)に伊勢国瀧原大神、速秋津比古神、速秋津比売神を勧請して合祀し、龍大明神としたのを創始とする神社で、社前に楓樹(かえで)があるので応永21年(1414)に滝樹神社と改めたと伝えられています。
寛正6年(1466)に北野天満宮を勧請。文明3年(1470)から二殿が並立すると伝えていて東に滝樹宮西に天満宮が並んで建っています。

※伊勢国瀧原大神はアマテラスを主祭神として祀っています。また速秋津比古神、速秋津比売神の両神は川(河)の流れをつかさどる神です。滝樹(たぎ)神社は野洲川の河原の側に社殿を構えています。ということは速秋津比古神、速秋津比売神の両神は野洲川の流れを司っているのではないでしょうか。

私たちは前野という地名の場所を歩いています。そんな前野には「べんがら」で塗られた連子格子の古い家が多く見られます。



24号線から500mほど進んだ右側に「地安禅寺」の石柱が立っていて、その奥に鐘楼門が見えます。地安禅寺は黄檗宗の寺院ですが、「後水尾法皇の御影 御位牌安置所」とあり、皇室と縁のある寺院です。

地安禅寺楼門

後水尾法皇は寛永6年(1629)に明正天皇に皇位を譲り、34歳で上皇になった方です。長寿だった上皇の臨終の床に控えていたのは法皇の第一皇女の文智女王(ぶんち)と第八皇女の朱宮光子内親王(あけのみやてるこ)といわれています。文智女王は早くから得度し、大通大師の号を得て、奈良市山町に普門山円照寺を建立し、晩年を過ごしました。また、第八皇女の朱宮光子内親王は修学院離宮内に林丘寺を建立し、開基となり、普門院と号しました。 
後水尾法皇は黄檗宗(おうばくしゅう)を厚く庇護していたため、宝永年間(1704~1710)にここ地安禅寺に安置所を建て後水尾法皇の御影、御位牌を納めました。そして林丘寺光子(普門院)が植えたという茶の木の脇に「林丘寺宮御植栽の茶碑」が立っています。
立派な鐘楼門前の参道の両側はかつては一面の茶畑だったといいますが、今は茶の木1本だけが残っています。

安置所
林丘寺宮御植栽の茶碑

道の両側に古い家が残っていたが、信号のない交叉点を越えると旧頓宮村です。このあたりには江戸後期から普及した虫籠窓の漆喰壁の家が残っています。道の左右に茶畑が増えてくると左側の民家の一角に「垂水頓宮御殿跡」と書かれた石柱が立っています。伊勢神宮に伝わる「倭姫命世記」によると垂仁天皇の皇女である倭姫命は天照大神の御神体を奉じて、その鎮座地を求めて巡行したと伝えられています。
土山町頓宮には巡行地の一つ、「甲可日雲宮」があったとされ、この時の殿舎がこの付近に設けられたことが御殿という地名の由来とされています。甲可日雲宮の所在地については、日雲神社(甲賀市信楽町牧)説、高宮神社(甲賀市信楽町多羅尾)説、田村神社(甲賀市土山町北土山)説などの異説もあります。

この先は旧市場村で、諏訪神社の前を過ぎると右側に延命地蔵尊が祀られている長泉寺が堂宇を構えています。



このあたりはどっしりとした大きな建物が何軒かあり、数100mほど行くと道の右側の角にお江戸から111番目の市場の一里塚を示す「一里塚跡」の石柱が立っています。

一里塚跡

一里塚から100mほど行くと大日川(堀切川)で、川の手前の右側に「大日川(堀切川)掘割碑」の石柱が置かれています。大日川は江戸時代には市場村と大野村の境をなす川でした。頓宮山を源流とした川は平坦部で流れが広がり、いったん大雨が降ると市場村と大野村の洪水被害が甚大だったといいます。大野村はその対策として、江戸時代の元禄12年(1699)に排水路を掘割し、野洲川に流すことを計画し、頓宮村境より、延長504間、川幅4間の排水路工事に着工し元禄16年(1703)に完成しました。

橋を渡ると久し振りに整然とした松並木が現れます。そこから300m程行くと左側の林の前にも「東海道反野畷」の石柱があり、さらに少し行くと左側に野洲川が見えてきます。

東海道反野畷

野洲川の流れ
野洲川の流れ

その先の右側に「花枝神社」の参道があり、隣に大野小学校があります。



大野小学校から100mほど進むと、左側の民家の前に「旅籠松坂屋」の石柱があり、その隣に「長園寺」の石柱が立っています。民家には「東海道大野村加佐屋」という木札が張られているので、土山宿と同じように昔の屋号が復活です。また、左側の民家に「旅籠丸屋跡」の石柱が置かれています。

この先、旧大野村から旧徳原村にかけて、江戸時代に旅籠だったことを示す標柱が置かれていますが、土山宿と水口宿の中間にあたるので、間宿になっていたのでしょう? 
屋根の上に「煙り出し」の屋根を付けたこの地方独特の建物が増えてきますが、養蚕が盛んだった時代に建てられたものでしょう。 

街道右側のちょっと奥まった場所に大野公民館があります。公民館の前に布引山の解説板鴨長明の歌碑が置かれています。布引山はこの場所から少し北にある山です。
この布引山はこの辺りでは名山として知られ、古来より斎王群行や宮人の参宮の折に詠まれた歌の中に詠み込まれてきました。
そして平安時代末から鎌倉時代に活躍し、あの方丈記の作者である鴨長明も布引山を愛した一人です。
そしてこんな歌を残しています。
「あらしふく 雲のはたての ぬきうすみ むらぎえ渡る布引の山」

左側の煉瓦作りの煙突の家は造り酒屋で、右側の民家の脇に「明治天皇御聖蹟碑」がありますが、ここは「旅籠小幡屋跡」で明治天皇が休憩されたところです。
旧街道はこの先の土山大野の交差点で国道1号線に合流しますが、交差点手前に「みよし赤甫亭」という料理屋さんが店を構えています。店の傍らには「大日如来」の小さな祠や「布引山岩王寺」の道標と「三好赤甫先生をしのびて」という石碑が置かれています。

土山大野の交差点

さて、本日の終着地点である土山大野の「みよし赤甫亭」は江戸時代の俳人「三好赤甫」の実家です。三好赤甫は地元の土山ではそれほど知られているわけでもないのに、京都あたりでは名声が高いようです。
赤甫さんはここ大野の土地で代々魚屋を営む三好家の長男として、江戸時代の寛政10年(1798)に生まれました。長男ですから本来であれば実家を継がなければならない身なのですが、俳句への思いが強く、土山の宿内にお堂を構える常明寺虚白禅師に師事して俳句の教えを受けるようになります。
そして虚白が京都の東福寺に移り住むと、家業の魚屋を妻子に託し、また老いた父母を残し、虚白の後を追って土山を後にしたのです。京に出た赤甫さんは文人墨客と幅広く交流を深め、30余年の間、俳句の研究に没頭し、句集「窓あかり」など何編もの名著を残し、俳壇に立つ人々に高く評価されました。晩年になって郷里に帰り、近在の子弟に文学の道を教え、明治五年(1872)に亡くなりました。

【土山大野で旅を終える場合】
到着地点の土山大野の交差点付近は土山宿のはずれに位置しています。といってもトイレを借りることができるコンビニなどの商店はありません。グループで動いている私たちはこの場所にバスを回送するので、まったく心配はないのですが、個人で歩いている方はこの場所で旅を終えるのは得策ではありません。どうしてもここで旅を終えたいということであれば、土山大野の交差点にコミュニティバスの停留所があります。ただ頻繁にバスが来るわけではありませんが、このコミュニティバスは草津線の貴生川駅行です。
貴生川駅から電車に乗れば5駅で草津に到着します。草津に出れば、米原方面や京都方面にたやすく移動できます。
尚、貴生川駅から名古屋方面にでるには、草津線で柘植駅まで行き、ここから関西本線に乗り換えなければなりません。しかもかなりの時間を要します。

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行秋の京都・宇治平等院

2015年11月14日 10時23分53秒 | 行く秋の京都探訪
紅葉の季節にはちょっと早い京都滞在ですが、それでも行く秋の風情が漂う古都の佇まいです。そんな古都京都の郊外にある平等院へ行ってきました。

平等院

京都発7時42分のJR奈良線の列車に乗って宇治駅についたのは8時10分です。30分弱の列車の旅ですが、車窓には京都のベッドタウンらしい住宅街がつづきます。宇治といえば「茶所」で有名ですが、車窓にはほとんど茶畑が現れません。

JR宇治駅前に降り立って感じるのが、それほどの賑わいもなく静かな雰囲気が漂っています。ロータリー脇の歩道には茶所の宇治らしい「茶壺」型の郵便ポストが置かれています。
駅周辺には高層の建物がないので空が広く見えます。

茶壺型の郵便ポスト

駅前から宇治のメインストリートである「宇治橋通り商店街」へと入っていきます。商店街へ入るT字路に面して古めかしい商家が現れます。創業150年を誇る宇治の茶商「中村藤吉本店」です。軒先に渋い色の暖簾が掛けられています。さすが茶所・宇治を感じさせるような絵になる光景です。

中村藤吉本店

このような古い商家が商店街に沿って軒を連ねているのかと期待をしたのですが、宇治橋通り商店街はどこでもあるような家並みがつづくだけです。朝の8時過ぎということで、ほとんどの商店はまだ開店前で、通りは静かな雰囲気を漂わせています。

そんな通りを歩いていると、右手に立派な長屋門のような門構えが現れます。門柱には「上林記念館」の看板と門の上部には「上林茶舗」の立派な看板が掲げられています。

上林記念館の門
上林記念館の看板
上林茶舗の看板
門燈
上林春松の看板

私にとって宇治の上林家という名称は東海道五十三次街道めぐりのガイドをしている際に、幾度も登場します。というのも上林家は江戸時代には将軍家より特別の待遇を賜ったお家柄で、宇治の代官職でもあり、且つ御茶師の頭取であったのです。

将軍家より特別な待遇を受けた理由は、家康公が今川義元没後、岡崎に戻ったころの若き時代に上林竹庵が家康に出仕し、武家でもないのに軍功を挙げ、最終的には関ヶ原の戦いの折には、東軍の最前線であった伏見城で家康の部下とともに戦死したことで、家康公から上林家に特別な待遇を与えたと言われています。

そして幕府から御茶師の頭取職を拝命した上林家は毎年将軍に献上する宇治のお茶を江戸へ運ぶための「茶壺道中」をすべて任されていた名家なのです。

創業が永禄年間といいますから450年の歴史を誇っています。そして当家は「上林春松本店」をいう商号を持って茶師の伝統を受け継いでいるのですが、「上林春松」の名はあのペットボトルの「綾鷹」を誕生させたことで知られています。

宇治にはここ上林春松本店以外に「上林」の名を冠する店舗がいくつかあるようです。その関係は定かではありませんが、一般消費者にとっては「まぎらわしい」と感じざるを得ません。
あくまでも素人考えですが、本家と分家の違いなのか、はたまた茶師としての本家と茶問屋としての分家なのかという違いなのか、よくわかりませんが、歴史的見地からは宇治の上林家はここ「上林春松本店」が正統ではないでしょうか。

さて、宇治橋通り商店街は宇治橋手前で終わります。その場所で道筋は三叉路に別れています。大きな鳥居が立つ道筋は「あがた神社」へとのびています。その一つの道筋が平等院への参道となっています。

あがた神社の鳥居
平等院への案内

それでは平等院へつづく参道へと進んでいきます。電信柱がないすっきりした参道の両側には「お茶」を扱うお店が軒を連ねています。そんなお店が途切れるといよいよ平等院の正門に到着です。

平等院石柱

宇治駅からそぞろ歩きをしながら平等院正門についたのが8時半前です。入場時間は8時半からなのでグッドタイミングです。
正門前のチケット売り場で拝観料を納めます。

チケット
パンフレット
境内図

私にとっては平等院参拝は初めてのことです。チケットを購入する際に知ったことですが、なんと鳳凰堂の内部に入ることができるということです。ただし時間を決めて、且つ1回の入場人数を40名に限定しているということです。
そして鳳凰堂の特別拝観の受付は境内に入ってから別の場所で受付を行っているということです。

そうであれば鳳凰堂の内部の見学は絶対にはずせない、ということで境内に入るやいなや、特別拝観の受付場所へと向かいました。
朝一番の入場ということで、鳳凰堂の入場は最初の回の9時30分のチケットを購入することができました。

鳳凰堂の入場券

券面には入場時間の9時30分が入っています。この入場券を入手しておけば、9時30分までは境内を散策できるということでまずは平等院の美しい姿を眺めながら散策することにしました。

鳳凰堂
鳳凰堂
鳳凰堂
鳳凰堂
鳳凰堂

御存じのように10円硬貨に描かれている鳳凰堂ですが、言われているようにまるで鳳凰が地上に舞い降りたように翼を左右に広げた優美な姿を見せています。お堂の前面に広がる阿字池に美しい姿を映す様子は10円玉硬貨の図柄からは想像できません。
また平等院の周辺には高層の建物がないため、木々の緑が借景となって、空とお堂と池が一体になっています。

末法思想がはびこった平安時代にこの世に浄土世界をと願い造られたのがこの平等院です。千年の長きにわたってこの地に在り続け、今なお美しい姿を見せている鳳凰堂は現代の私たちにとっても心が癒されます。

そして堂内に鎮座する黄金に輝く阿弥陀如来坐像は浄土世界に私たちを誘うように柔和なお顔で私たちを迎えてくれました。

パンフレット

阿弥陀様と対面後、お堂側から眺める阿字池と境内の様子はまた違った趣があります。







今回は平等院鳳凰堂だけをゆっくりと参拝しました。周辺にはあがた神社、宇治川先陣の碑、橘橋、橘島、宇治十帖モニュメントなど見どころがあるのですが、次回に回すこととし、すぐに京都市内へと戻りました。



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私本東海道五十三次道中記 第31回 第2日目 関宿から坂下宿、鈴鹿を越えて土山宿へ(その二)

2015年11月13日 18時15分33秒 | 私本東海道五十三次道中記


心配していた積雪もそれほどでもなく、うっすらと白くなっている程度でした。鈴鹿峠は海抜379mで、伊勢国と近江国との国境です。私たちはなんなく鈴鹿越えを果たしたのです!!峠を越えると、街道脇に伊勢の国と近江の国の国境の標石が置かれています。

国境の標石

私たちは三重県側の鈴鹿峠を越えて、いよいよ滋賀県(近江国)へと入ってきました。
そんな場所にかつて置かれていたのが「澤立場」です。立場には松葉屋・鉄屋・伊勢屋・井筒屋・堺屋・山崎屋という6軒の茶屋があり甘酒が名物だったといいます。鈴鹿峠を往来する旅人は足を休めつつ、甘酒にほっと一息ついたことでしょう。残念ながら往時の様子を窺い知ることはできませんが、わずかに石垣等の遺構が残存しています。そして街道の左脇には土山茶の茶畑が広がっています。

茶畑

少し行くと巨大な石積みの常夜燈が建っていて、トイレやベンチのある休憩所になっています。巨大な石積みの常夜燈は万人講常夜燈で、重さ38トン、高さは5.44mもある常夜燈です。270年前に四国金比羅神社の講中が建てたものですが、旧山中村高畑山天ケ谷産の粗削りの大きな自然石をそのまま使って、山中村を始め、坂下宿、甲賀谷の3000人が結集して造ったものと伝えられています。

万人講常夜燈

常夜燈は当初は旧街道沿いに置かれていましたが、国道トンネル工事のため、現在地に移されました。またこの辺りは茶畑が広がっていて、土山茶の産地になっています。
また土山町は今回の合併で、狸で有名な信楽町、甲賀忍術で有名な甲賀町、水口宿のある水口町などと一緒になって、甲賀市(こうかし)になりました。



峠道を下って行くと、鈴鹿トンネルを抜けて来た国道1号線が道の右下に走っています。そして峠道はこの先で国号1号と合流します。楢木橋から続いてきた旧東海道の道筋はここで終わり、この後は十楽寺までは国道1号に沿って、だらだらと坂道を下っていきます。下り坂ということで喜んでいたのですが、やおら雲行きがあやしくなってきました。
「坂は照る照る鈴鹿は曇る あいの土山雨が降る」の通り、峠を越えて土山側に入るや否や、突然天気が変わってきました。それも雨ではなく、横殴りの吹雪が私たちを待ち構えていました。

そんな大雪の中で、だらだらとした坂道を下っていきますが、途中には集落は現れません。無粋な国道1号線沿いを歩いていくのですが、周辺の景色も、ほんの先も見えないくらいの吹雪の中でカメラも構えることできません。
そんなことでこの先、しばらくはアップする画像がありませんので、ご容赦ください。



山中交差点にさしかかると国道1号線に沿って集落が現れます。山中の集落です。鈴鹿の峠を越えて山を下っているのですが、山中交差点の標高はまだ327mあります。先ほどの万人常夜燈辺りが標高370mだったので1キロ強の距離で高度は40m強下がったことになります。 そうこうしているうちに、降りしきる雪はさらにひどくなり、やむ気配すらありません。

国道1号線の左右の景色はまだ鈴鹿連山のつづきのような低い山並が連なっています。山中交差点から200mほど歩くと左側の小山が国道にせりだしてくる場所にさしかかります。この辺りに近江山中氏の発祥の地の山中城があったようです。 

山中城は鎌倉時代の建久5年(1194)に山中新五郎俊直によって築城されました。この年に山中新五郎俊直は幕府から鈴鹿山守護として、鈴鹿山賊、盗賊を鎮める役命を受けています。また山中氏は伊勢神宮祭司によって伊勢神宮柏木御厨の地頭職に補任され、幕府からも公卿勅使儲役、鈴鹿峠警固役を公認されていました。 

それほど見どころがない国道1号を進んで行くと、左側に十楽寺が堂宇を構えています。十楽寺にさしかかる辺りで本日の歩行距離は11.5キロを超えます。「十楽寺」の標識の脇に「南無阿弥陀仏」の石碑が立っています。
十楽寺はもともと天台宗の寺院でしたが、信長の兵火によって焼失してしまいますが、寛文年間(1661~)に巡化僧広誉により再建された寺で、現在は浄土宗知恩院の末寺です。丈六阿弥陀如来を本尊としますが、十一面千手観音などの仏像も安置されています。境内の常夜燈は天保3年の建立です。
降りやまぬ雪の中をもくもくと歩きつづけます。本日の終着地点の道の駅土山まではまだ4キロ以上あります。



旧東海道は12キロ地点を過ぎると国道1号線からいったん右手へ分岐します。鈴鹿峠を越えてからはずっと国道一号線の左側の歩道を歩いています。この先で右手に分岐するので、その前に国道1号の右側へ移動しなければなりません。

道筋が右手へ分岐していく手前に国道1号をくぐる地下道があるので、これを使って右側へ移動しましょう。
国道1号から分岐すると小田川に架かる小田川橋にさしかかります。この橋を渡ると小さな公園があり「東海道 鈴鹿山中」の石碑と石灯籠が建っています。
右側には「坂は照る照る鈴鹿は曇る あいの土山雨が降る」と刻まれた「鈴鹿馬子唄」の大きな石碑があります。晴れていれば公園の東屋で腰をかけて一休みしたいところなのですが、なにせ降りしきる雪の中ではそんな気持ちの余裕がありません。ということで先を急ぐことにします。 

再び街道を進むと、少し先の右側に「地蔵大菩薩」の常夜燈と祠が置かれています。 
前方には第二名神高速道路の橋の上を走っている車が見えてきますが、民家がなくなると両側は畑で、その先で巨大な第二名神高速道路の高架橋の下をくぐります。

雪に煙る高架橋

その先で旧東海道筋は国道1号と再び合流します。合流点にも小さな公園があり、「山中一里塚公園」の標石が置かれています。山中一里塚は江戸から109番目の一里塚です。江戸日本橋から約428km、京三条大橋からは16番目(約66km)となる一里塚です。ちなみにこの辺りの標高はまだ286mもあります。

山中一里塚公園
山中一里塚跡碑

公園内には「いちゐのくわんおん道 」と刻まれた道標が置かれています。
道標の側面には虚白の「盡十方(つくすとも) 世にはえゆきや 大悲心」という句が刻まれています。
「いちゐのくわんおん道は櫟野(いちいの)観音道のことです。 

観音道は東海道から分岐して旧神村、旧櫟野村に至る道で大原道とも呼ばれていました。ここはその道の追分にあたる場所です。



江戸時代の東海道の道筋は山中一里塚あたりから土山宿までは右に左にくねくねと曲がりながら続いていましたが、国道1号線が旧街道の道筋を突っ切るように一直線に敷かれ、旧街道はずたずたに分断されてしまいました。その結果、旧街道の筋道は跡形もなく失われてしまっています。国道は「東京まで437km」の標識のあたりから左へカーブし下っていきます。

右側に民家が見え始めると猪鼻交差点で、江戸時代は猪鼻村だったところです。この交差点を右折していくと、わずかに残っている旧東海道の道筋を歩くことができます。㉓の地図のⒷ地点からⒹ地点までの区間が旧東海道の筋道です。 

Ⓐ地点で国道1号から逸れⒷ地点で左折すると、右側に「浄福寺」があります。その門前には大高源吾の句碑が置かれています。大高源吾は赤穂浪士の一人で、俳号を子葉と名乗っていました。「いの花や 早稲のまもるる 山おろし」

浄福寺を過ぎると木々に包まれた家があり、表札には「猪鼻村旅籠中屋武助」とあります。木々の中に「旅籠中屋跡」の石柱と「明治天皇聖蹟碑」がありますが、明治天皇が立ち寄られ休憩されたところです。
その先のS字のカーブの坂を上ると再び国道1号に合流します。

猪鼻集落は鈴鹿峠方面から降りてくるイノシシ除けの垣根があったことに地名の由来があるらしいのですが、かつては東海道の立場で草餅や強飯(もち米を蒸した飯)が名物だったようです。

国道1号線はⒹ地点から緩やかな上り坂に変り、その先で今度は緩やかな下り坂になります。



国道1号に合流して500mほど行くと左前方に町が見えてきて「道の駅 あいの土山1㎞ 」の表示板が置かれています。 
そしてこの先で旧東海道の道筋は国道1号から右手に分岐します。その分岐する場所の右手に「白川社」の石柱があり、鳥居の先に「白川神社御旅所」の石柱と小さな社殿が二つあります。道の脇に南土山案内板があり、「国道の右側を下りた小道が江戸時代の東海道で、その先でなくなっています。また、蟹塚がある。」とあります。
 
さあ!土山宿が間近に迫ってきました。ここから土山宿まで800m程の距離です。道筋はこの先で高尾金属工業の敷地内を通るように進んでいきます。工場を過ぎると正面に駐車場が見えてきます。そして50m程歩くと右側に大小の碑があり、小さい石柱が「蟹坂古戦場跡」の石碑です。

戦国時代の天文11年(1542)、伊勢の北畠具教(とものり)は甲賀制圧を目指して軍を進め、一隊を割いて鈴鹿を越えさせ、山中城を攻めさせました。山中城主の山中秀国は善戦の末、北畠勢を敗走させました。 
これを知った北畠具教は一旦兵を引かせましたが、すぐに軍を増強させて、再び山中城攻略にかかりました。 
山中秀国は近江守護の六角定頼に援軍を要請したことで、ついには北畠と六角との戦に発展してしまいます。 
12000人の北畠軍に対し、10000に満たない山中、六角連合軍は善戦し、ついに北畠勢を敗走させ、北畠具教の甲賀進出を阻止しました。この合戦の主戦場がここ「蟹坂」なのです。

「蟹が坂」という地名の由来ですが、北側に田村川、南側に唐戸川が流れるこの地には大蟹が住みつき、道行く旅人や村人に危害を加え怖れられていたといいます。そしてここを通りかかった比叡山の高僧が、大蟹に対して往生要集(平安時代中期、恵心院の僧都源信が撰述した仏教書)を説いたところ、大蟹は甲羅が八つに割れて往生したといいます。
村人はその高僧の教えに従い蟹塚を築き、割れた甲羅を模した飴を作って厄除けにしたといいます。土山名物の一つ、蟹が坂飴の発祥とされる伝説です。



高尾金属工業の駐車場と左側の田圃に挟まれた道を直進すると田村川の袂にさしかかります。
田村川に架かる海道橋には擬宝珠が付けられています。江戸時代の板橋を再現したというもので、平成17年7月に完成しました。

海道橋
雪の海道橋にて
 
田村川に板橋が架けられたのは安永4年(1775)のことです。板橋の巾は二間一尺五寸(約4.1m)、長さは二十間三尺(約37.3m)で、橋を渡ると右側に橋番所があり、橋のたもとには高札場があったといいます。それ以前の東海道は川の手前で左折して、国道1号に出る道(現存)で、現在は国道で道は途切れていますが、国道の約50m先で田村川を徒歩で渡り、「道の駅・あいの土山」の先の左側(現存)にある道に合流していました。東海道は板橋の完成により安永四年(1775)からは田村川橋を渡って、田村神社の境内に入り、神社の参道で直角に曲がって、 土山宿(つちやましゅく)へ向かいました。

安藤広重の東海道「土山宿 」の浮世絵は「春の雨」と題して、雨の中、笠を目深にかぶり、合羽を羽織った大名行列の一行が 背を丸めながら、増水した田村川の板橋を渡り、田村神社の杜の中を宿場にむかう構図で描いています。江戸時代には土山は雨が多い土地柄という印象が強かったようで、広重の絵でも雨の情景が描かれています。

広重の土山の景

田村神社の境内に入ると右側に田村神社の二の鳥居、常夜燈、狛犬が並んで立っています。

田村神社の参道鳥居

田村神社は平安時代の弘仁十三年(822)の創建と伝えられる古社で、蝦夷征討で功績のあった坂上田村麻呂と嵯峨天皇、倭姫命を祀っています。東海道名所図会には「祭神、中央、将軍田村麻呂、相殿、東の方、嵯峨天皇、西の方、鈴鹿御前」とあります。鬱蒼とした樹林に囲まれた参道を神社に向って歩いていくと正面に見えるのが「拝殿」です。

田村神社は垂仁(崇神)天皇の御代(紀元前47年)に「鈴鹿大神」として、倭姫命を祀ったことが創始と伝えられています。その後、弘仁13年(822)に嵯峨上皇が坂上田村麻呂の霊を鈴鹿社に合祀して、社号を田村神社と定めたというものです。田村麻呂が祀られているのは、弘仁元年(810)田村麻呂が嵯峨天皇の勅を奉じて鈴鹿の悪鬼を討伐したことによります。このため当社は厄よけの神として有名のようです。

田村神社の参道は国道1号線に向かって一直線につづいています。参道の両側は鬱蒼とした杉木立になっています。国道1号線にでると歩道橋のある交差点になっています。国道1号線を渡ると本日の終着地点の「道の駅・あいの土山」です。鈴鹿峠を越えてから降り続いていた雪も道の駅についた頃はいくぶん小降りとなりましたが、周辺の畑は白銀の世界が広がっていました。

道の駅・あいの土山

そして交差点の角に1軒の店があります。この店では土山に残る伝説「蟹が坂」に出てくる「かにが坂飴」を販売しています。

かにが坂飴
かにが坂飴販売所

私本東海道五十三次道中記 第31回 第1日目 井田川駅前から亀山宿をぬけて関宿へ
私本東海道五十三次道中記 第31回 第2日目 関宿から坂下宿、鈴鹿を越えて土山宿へ(その一)
私本東海道五十三次道中記 第31回 第3日目 静かな土山宿をぬけて土山大野の三好赤甫旧跡まで

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私本東海道五十三次道中記 第31回 第2日目 関宿から坂下宿、鈴鹿を越えて土山宿へ(その一)

2015年11月13日 15時56分26秒 | 私本東海道五十三次道中記


第2日目の出発地点は昨日の終着地点である「道の駅関宿」です。
本日はここ「道の駅関宿」から「道の駅土山」までの15.8㎞を歩きます。途中、鈴鹿峠の麓の坂下宿を辿り、東海道中でも箱根に次ぐ難所として知られていた「鈴鹿峠越え」を体験します。それでは道の駅関宿から関宿の中心へと進んで行きましょう。

関宿の家並み

関宿は天保十四年の東海道宿村大概帳に総戸数が632戸、人口は約2000人、本陣が2軒、脇本陣2軒、旅籠が42軒とあり、かなり大きな宿場でした。今も380軒もの古い家が残り、軒を連ねている様は壮観です。
これらの貴重な建物は昭和59年に、旧東海道の宿場町の町並みを留める地区として、国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されました。宿内で最も古い建物は18世紀中期のもので、江戸から明治のものが全体の約45パーセントを占めています。更に昭和戦前までのものを加えると実に全体の約7割を占めるといいます。

広重の関宿の景



中町は関宿の中心で、宿場の中枢的施設が集中している地区です。中町には比較的建ちが高く、塗篭、虫篭窓を基調とした特色ある町屋が残されています。「関まちなみ資料館」は江戸時代末期に建築された町家を公開したものです。 
鶴屋脇本陣(波多野家)は西尾吉兵衛を名乗っていたので、西尾脇本陣とも呼ばれていました。
二階避面の千鳥破風がその格式を示しています。川北本陣があった場所には石碑が立っているだけで、今はなにも残っていません。

隣には「問屋場」があったことを示す石碑があり、奥は山車倉になっています。

山車倉

山車が曳き出される夏祭りは関の名を有名にしました。そして「関の山」という言葉は関宿の山車からきています。「関の山」の山は「山車」のことです。関町の祇園祭で引き出される山車は大変立派なもので、これ以上の贅沢な山車は作れないだろうと思われ、精一杯の限度を「関の山」というようになったといいます。
最盛期には16台の山車があったといいますが、現在でも4台が残り、4ヶ所に山車倉があります。ちょうど中町の入口に立派な三番町山車倉が置かれています。

中町は関宿の中では中心的な場所で本陣、脇本陣、問屋場をはじめ関宿を代表するような旅籠など宿場の主要な施設が集中していました。
中町に入ってすぐ、街道の左側に「百六里庭(ひゃくろくりてい)」の標をつけた家が現れます。百六里庭とはここ関宿がお江戸日本橋から百六里あることから名付けられています。
別名は眺関亭(ちょうかんてい)というようですが、これはこの建物の2階部分から関宿の町並みを眺められるからなのです。2階に上がると宿内の細い道筋の両側に隙間なく並ぶ家並みと甍の波を見ることができます。遥か左手を見ると、これから私たちが登る鈴鹿の山並みがくっきりと現れます。

眺関亭からの眺め

百六里庭の左隣は、関宿のもう一つの「伊藤本陣」の建物です。歴史建造物ですが、現在は「松井家」の屋敷として使われています。
本陣の間口は11間、建坪は69坪だったといい、西隣の表門は唐破風造りの檜皮葺きです。現在残っている建物は家族の居住に供された部分と大名宿泊時に道具置き場になっていたスペースです。

伊藤本陣の建物を過ぎると立派な建物が右手に現れます。街道時代に関宿で一二を争う有名旅籠として知られた「玉屋」の建物です。

玉屋

玉屋は「関で泊まるなら鶴屋か玉屋、まだも泊まるなら会津屋か」といわれた有名旅籠です。
道に面した主屋は慶應元年(1865)建築の木造二階建てで、外観は漆喰で塗籠る形式ですが、江戸時代の建物としては軒が高く、宝珠を形取った虫籠窓が印象的です。旅籠の建物が一体になって残っているのは珍しく、江戸時代の様子を今に残す貴重な遺構として、関町が持ち主の村山家から有償で譲受け、旅籠玉屋として修復したもので、現在は旅籠玉屋資料館として公開されています。(有料:大人300円)
玉屋が創業した時期ははっきりしませんが、寛政12年(1800)には宿場絵図に記されているので、その頃には現在地で営業していたといえます。

玉屋(旅籠玉屋資料館)

玉屋に入ると土間(とおりどま)があり、左側に板の間の店の間と帳場があります。右側の二室はこみせで、右側の二階部分が家族や奉公人の部屋だったようです。
たたきには竈などが置かれ、客に出す炊事が行われた。左側の二階の部屋は客室として使われていたが、今は旅籠で使われた道具が展示されています。
主屋に続く離れには整然と6部屋が並び、部屋には玉屋12代主人作という欄間彫刻や池田雲樵による襖絵があり、部屋のなかではもっとも上等な間だったのです。土蔵は元文4年(1739)の建物で、広重の浮世絵などが展示されています。 
関宿には大きな旅籠が10軒もあったといいますが、こうした大旅籠では多いときには200名ほどの旅人を泊めたと思われ、玉屋に残っている宿帳に100名近い団体客の記録が残っている、とのことです。

中町の建物は二階壁面も塗篭めて、虫篭窓を明けるものが多く、二階壁面を真壁とした新所や木崎の町屋に比べ、意匠的により華やかです。また、間口が大きく、主屋の横には庭を設けて高塀を廻すのがみられますが、その主屋や高塀群は意匠的にも質が高く、町屋の細部意匠としては漆喰細工や屋根瓦に見るべきものが多いのです。 
漆喰彫刻の鯉の滝昇り、虎、龍、亀、鶴など、縁起を担ぐものが多く 細工瓦には職業に使う道具を意匠にしたものなどもあります。

旅籠玉屋資料館のほぼ正面に「関の戸」の看板を掲げる深川屋服部家は三代将軍家光公の時代から370年を誇る菓子司です。

寛永年間に初代によって考案された餅菓子「関の戸」は関宿を代表する名菓として名高く、天保2年に京都御所から陸奥大掾(むつだいじょう)の名を賜っています。看板は庵看板という瓦屋根の付いた立派なもので、看板の関の戸の文字は、歩いている方向に「ひらがな文字」が見えれば京都方面、「漢字」が見えればその先は江戸方向を示しています。

歴史ある和菓子店ですが、実は服部一族、伊賀忍者の服部半蔵の末裔にあたるそうです。ご自宅兼店舗はまさに忍者屋敷を思わせるもので、築233年という造りもさることながら、その2階にはカラクリがあり、ある部屋の畳をめくると1階に下りるための階段がかつてはあったのだそうです。

そんな服部家に伝わる家宝は「朱漆螺鈿担箱」です。総螺鈿づくりの菓子箱に「関の戸」を入れて京都御所へ納めていたといいます。それに際して朝廷から賜った称号が「陸奥大掾」です。この称号とともに箱には菊の御紋がついているため、大名行列と鉢合わせたしたときにはその列を止め、先に行くことができたそうです。

ところでこの菓子箱、服部一族の諜報活動にも使われていたというのです。江戸時代、一族はいろんな職業に扮しながら全国を飛びまわっていたそうです。徳川方だった服部の忍びたちは朝廷に出入りするため、和菓子屋を隠れ蓑にしていたのではないかとのこと。


和菓子「関の戸」は赤小豆のこし餡をぎゅうひ餅で包み、阿波特産の「和三盆」をまぶした、一口大の餅菓子です。
6個入り500円(税込)
深川屋:0595-96-0008 09:00~18:00(木曜定休)


関宿の本店のみで扱っている化粧箱入りの限定商品です。6個入りで500円です。
この化粧箱は京都御所へ「関の戸」を納める際に使った「荷担箱(にないばこ)」を模したものです。

「関の戸」を過ぎると、関宿のほぼ中心にある関郵便局の前には「道路元標」が置かれています。

郵便局前

関郵便局がある場所には天正20年(1592)、徳川家康が休息した「御茶屋御殿」がありました。江戸幕府初期には代官陣屋があったところで、亀山藩になってからは藩役人の詰所が置かれていました。

郵便局前

古い家並みが残るここ関宿で百五銀行や郵便局は周りに調和した建造物になっています。 

関郵便局の先の路地を右に曲がったところに堂宇を構えるのが福蔵寺です。創建は天正11年(1583)、織田信長の三男織田信孝の菩提寺として開かれたのが始まりとされます。信孝は信長が本能寺の変で倒れると豊臣秀吉と家督争いで対立し、後見人だった柴田勝家が賤ヶ岳の戦いで敗れると、秀吉と組んだ二男織田信雄によって居城であった岐阜城を攻められ、その結果降伏し、大御堂寺で切腹しました。そして検視役だった大塚俄左衛門が信孝の遺骸を福蔵寺に持ち帰り篤く葬ったと伝えられています。
また、第1日目で案内した仇討ち烈女といわれた小萬の墓も当寺にあります。



関宿の家並み
関宿の家並み

関宿の中町の家並が途切れると、広場の奥にお堂が建っています。道路に面したところには「歴史の道」という大きな石碑と大正3年に建てられた「停車場道」の道標があり、享保16年(1731)に建てられた常夜燈には「せきのちそう」と刻まれています。

地蔵堂

そのお堂は地蔵院と呼ばれています。地蔵院は「関の地蔵に振り袖着せて 奈良の大仏むこ取ろう」という俗謡で名高い「関地蔵」が祀られている寺で、天平13年(741)、行基が当時流行った天然痘から人々を救うため、この地に地蔵をきざんで安置したのが始まりです。地蔵院本堂に安置される地蔵菩薩は我国最古のものといわれています。地蔵院本堂は四代目で元禄13年(1700)、将軍綱吉が母、桂昌院のため建立したものです。

隣の愛染堂は室町初期の建立で、享徳元年(1452)、愛染堂の大修理の際、開眼法要したのが一休禅師です。本堂、愛染堂ともに国の重要文化財に指定されています。境内には「一休禅師」の石像が置かれています。鐘楼の鐘は知行付の鐘と呼ばれ、寛文11年(1671)に建立されたもので、鐘楼の近くには「明治天皇御行在所」の石碑が建っています。

地蔵院の前に江戸時代、鶴屋、玉屋とともに関宿の有数の旅籠だった会津屋(森元家)があります。

会津屋
会津屋

鈴鹿馬子唄に「関の小万が亀山通ひ 月に雪駄が二十五足」と謡われた仇討ちの烈女、小萬は明和から天明にかけて、この旅籠山田屋(後の会津屋)で育ったといわれています。現在は街道そばなどの食事処になっています。
 
東海道は地蔵院のところで緩やかにカーブしていますが、地蔵院の東側が中町で、西側が新所町です。新所町の大半の建物が仕舞屋(しもたや)ふうの平屋なので、全体としてはやや地味ですが、落着きのある町並みになっています。また格子や庇の幕板などの伝統的な細部意匠が新所の家々には比較的よく残されています。

新所町の家並み

新所町に入り歩いて行くと、右側に説明板の付いた家があります。松葉屋という屋号で火縄屋を営んでいた田中家です。江戸時代の関宿の名物、特産品に「火縄(ひなわ)」がありましたが、田中家は松葉屋という屋号で火縄屋を営んでいた家で、今でも播州林田御用火縄所という看板が残っています。火縄は火奴ともいい、鉄砲に用いたため大名の御用が多くありましたが、道中の旅人が煙草などに使うためにも購入したといいます。

※関の火縄つくりの起源の詳細は不明ですが、宿場全盛の頃には、ここ新所の他、中町、木崎に数十軒の火縄屋があったといいます。火縄の商売は時代遅れとなり、明治維新と共にすたれ、ほとんどが廃業しました。

その先の間口15間半の総格子の表構えの家は大正初期に建てられた田中屋の住宅です。
田中屋は代々庄太夫を名乗り、醤油醸造業を営んでいた家です。30尺のの通し柱の母屋や煉瓦作りの麹部屋や煙突など7年がかりで建設されたという関町でも最も大きな町屋のひとつです。

その先の右手にある関西山観音院(せきにしやま)は東海道の関宿の守仏として、西国三十三ヶ所の霊場となった寺です。

関西山観音院

観音院は天台真盛宗の寺院で、古くは関西山福聚寺といい城山の西方にありました。もともとこのお堂は戦国時代に焼失した福聚寺という寺の流れを組むものですが、寛文年間(1661~1672)に現在地に移転しお堂を建て、関西山観音院と名称を変えました。そして関宿の守り仏として、後には西国三十三ヶ所の霊場となりました。寺の奥にある観音山は景勝地として知られていたといい、東海道に面したところに大正15年に建てられたという「観音山公園道」と刻まれた道標があります。

観音院をすぎると、まもなく関宿の西の追分にさしかかります。その西の追分の手前の右側にある井口家は南禅寺の屋号で、豆腐料理を名物にする料亭だったといいます。連子格子、塗りごめの中二階がある建物で幕末の文久年間(1861~1865)の頃に建てられた建物です。

井口家の建物

観音院から西の追分までは150mほどの距離があります。江戸時代には民家や見附土居や御馳走場、松並木が続いていました。関宿が終わるこの場所には「西の追分・休憩施設」があります。この先、トイレがしばらくないので、ここで済まされたほうがいいでしょう。

さあ!いよいよ関宿ともお別れです。
西の追分には「法悦供養塔道標」といわれる高さ2,9mの石の道標が置かれています。元禄14年(1691)に谷口長右衛門が旅人の道中安全を祈願して建立したもので、道標には「南妙法蓮華経」の下に「ひたりはいかやまとみち」と髭文字で刻まれています。伊賀大和道とは加太(かぶと)峠を越えて、伊賀上野、奈良に至る大和街道のことです。

大和街道は加太越えとも呼ばれる峠越えの山道です。本能寺の変の際、堺から京都へ向かう途次にあった徳川家康は、その報せを聞き僅かな供を連れて畿内を脱出、三河へ帰還しました。世に言う「神君伊賀越え」です。その逃避行に通ったとされるのが「加太越えの大和街道」です。

加太越えによって現在の鈴鹿市の白子に辿りついた家康公は白子の浜師である小川孫三の舟で対岸知多半島へ渡り、無事岡崎へと戻ることができました。そして、後日家康公はこの恩に報いて、故郷へ戻ることができなくなった孫三に藤枝宿の一画に土地を与え、諸役御免の特権を与えました。

この場所は伊賀大和道の追分であるとともに関宿の京側入口でもあったのです。江戸時代はここで関宿は終わり、この先には険しい鈴鹿の峠が待ち構えています。現在は「西追分」と書かれた案内板のあるところが国道25号と国道1号の分かれ道になっています。

関宿の西追分



旧東海道は大和街道と分岐する新所交差点の先で国道1号線に合流します。関宿に別れを告げて、いよいよ鈴鹿峠道への道筋を辿ることになります。関ロッジ出入口ゲートをくぐると国道1号と合流します。



そして周囲は間近に山並みが連ねる景色へと変貌します。さあ!ここからは民家も人通りもない、山道への旅が始まります。

鈴鹿峠への道筋

国道1号に合流して間もなく、国道沿いの駐車場内に転石(ころびいし)が置かれています。その昔、山の上から転げ落ちてきたという大石で、夜な夜な不気味な音をたてたり、何度除けても街道へ転び出てきたとか。弘法大師の供養によっておとなしくなったとの伝説が残っています。小夜の中山の「夜泣き石」に似てますな!

国道を進み市瀬交差点を通過(標高104m)し、その先250mで市瀬橋手前にさしかかります。この辺りの標高が103mです。旧東海道は市瀬橋の手前で国道と別れて右側の道に入っていきます。国道1号線から分岐して鈴鹿川沿いに進むと旧街道は左へカーブして小さな橋にさしかかります。江戸時代には旧街道筋はこの橋の手前で川を渡っていたが、今は道も橋も残っていません。私たちは市瀬橋を渡り、市瀬の集落へと入っていきます。

市瀬集落は江戸時代立場だったところで、道の両側には古い家が並んでいます。市瀬集落はS字形になっていますが、途中で国道1号に分断されています。国道1号を渡って集落の中を進むと、先で国道1号と合流します。

(注意)旧街道と国道1号が合流する地点には信号機が設置されていません。横断する場合は車の往来に十分気をつけてください。尚、国道1号を渡って旧街道へと進んでしまうと、僅かな距離で再び国道1号に合流します。
合流すると、しばらくの間、国道1号にはガードレールのない歩道をあるきます。そしてこの先で右へと移動するのですが、信号や横断歩道がなく、交通量の多い国道1号をグループで渡ることは非常に危険です。このため、前述の信号機のない合流地点で国道1号を横断せずに、そのまま1号に沿って右側の歩道を歩くことを勧めます。

国道1号を渡るとすぐ左側に山門を構えるのが浄土宗本願寺派の西願寺で、その先で市瀬集落は終わり、旧街道はすぐに国道に合流します。1号線は緩やかな登り坂になり、右手に鈴鹿川と山並が迫ってきます。



市瀬の集落の辺りの標高は112mあります。道筋は少しづつ勾配を高めているようですが、この辺りはまだ緩やかな坂道となっているので、それほど体に負担かありません。ただ季節が真冬ということで、降り始めた雨はにわかに雪へと変ります。気温は0度。
鈴鹿の峠の序盤戦での雪の洗礼はこの先の行程が心配になってきます。もし、この道筋で積雪を伴うような大雪になった場合、歩道帯があるにもしても徒歩での行軍はかなり危険を感じるはずです。大雪になれば鈴鹿峠越えの国道1号は当然通行止めになります。

市瀬から国道を800mほど進むと街道は左へとカーブしていきます。その正面に三角おにぎりのような姿をした山が見えてきます。これが有名な「筆捨山(ふですてやま)」です。

筆捨山
筆捨山

室町時代の絵師、狩野法眼元信がこの山の風景を描こうとしたところ、雲や靄がたちこめ、 風景がめまぐるしく変わったため、ついに描くことができず、筆を捨てたという伝説が残っています。この山の正式な名前は岩根山だったようですが、上記の伝説から筆捨山と名付けられたという山です。

坂を上りきると筆捨山のバス停があり、筆捨茶屋集落が現れます。国道1号から右手に分岐する細い道筋が残っています。おそらくこの道筋は旧東海道の名残ではないでしょうか。

細い道筋

その細い道筋の入り口に「筆捨山」についての案内板が置かれています。そしてその道筋の先にはほんの少し街道の雰囲気を残した民家もあります。広重は東海道五十三次の「坂之下宿」の絵で「筆捨山」を描いています。

広重の筆捨山の景



国道1号線から分岐した旧街道の名残りの細い道を抜けると、再び国道1号線と合流します。ここから1号線は下りになり、右、左とカーブを描きながら、鈴鹿川に架かる弁天橋へと進んでいきます。折り重なる様に連なる鈴鹿の山並みの谷間を穿くようにつづく街道を進んで行きます。雪が舞い散る鈴鹿の山中を歩いている人は我々以外に誰も見かけません。

弁天橋を渡る手前にかつての立場であった新茶屋跡があります。私たちは国道1号の右側を歩いているため、左側に置かれている「新茶屋跡」には行きません。

弁天橋を渡ると、少し先の国道1号の左側の民家の隣に「沓掛一里塚跡」の石柱が置かれています。江戸日本橋から107番目(約420km)、京三条大橋からは18番目(約75km)です。この一里塚も国道1号の左側に置かれているので、行くことをあきらめました。

旧東海道筋は楢木橋の手前で車の往来が激しい国道1号とやっとお別れです。そして右手へと分岐する狭い道に入っていきます。ここまで国道1号に沿って1.5キロほど歩きました。猛スピードで走り抜ける大型トラックが撒き散らす騒音からやっと解放されます。狭い道筋に入ると街道の雰囲気は一変します。杉木立が街道脇に現れ、旧街道らしい雰囲気に満ちています。

杉木立の中の街道

楢木バス停から700mほど行くと楢木集落より大きな沓掛集落に入ります。沓掛は山道で沓(草鞋)が壊れ、新品に取り替えた際、道沿いの木に、古い草鞋をひっかけて行ったことが名の由来です。沓掛集落は江戸時代に立場茶屋があったところですが、古い家屋はあまりありません。右側に超泉寺があり、その先に沓掛バス停があります。超泉寺は旅人が草鞋を掛けて旅の安全を祈願した寺ではないでしょうか?

沓掛の集落

「沓掛」は近畿以東の各地に見られる地名です。特に中山道碓氷峠の西側にあった沓掛宿は有名です。沓とは旅人や馬の草鞋を指し、旅の道中で履き替えた草鞋を神社や寺の枝木等に掛け、旅の安全を祈願する風習です。



沓掛集落を過ぎると、めっきりと人家が少なくなります。家屋は主に街道の右側にありますが、そのほとんどが新しく建てられたように見えます。そんな家並みの中に坂下簡易郵便局がありますが、普通の民家のような郵便局です。

このあたりから道は穏やかな上り坂になります。郵便局から500m程行くと道は三叉路になり、東海道は右側の狭い急な坂を登っていきます。その坂道にそって左側に東海道五十三次の宿場名が書かれた木柱が並んで立っていて、その奥にサッカーボールのような建物が建っています。このサッカーボールのような建物が「鈴鹿馬子唄会館」で、館内には「鈴鹿馬子唄」の哀調を帯びたメロディが流れています。

鈴鹿馬子唄会館 

「鈴鹿馬子唄」は旅人を乗せた駄賃馬を引く馬子(まご)が、鈴の音に合わせて「坂は照る照る鈴鹿は曇る あいの土山雨が降る」と口ずさんだ民謡で、伊勢湾側の「鈴鹿(坂下宿)」は晴れていても、峠を越えた近江側の「土山宿」では雨が降っている、という気象の違いを謡ったものです。

展示物

鈴鹿馬子唄会館 (09:00-15:00、入場無料、月曜日は休館) 坂下宿についての展示があります。
※会館内は季節を問わず、空調がありません。

右側には昔懐かしい造りの建物があります。この建物は昭和13年(1938)坂下尋常高等小学校の校舎として建てられたもので、昭和54年(1979)に廃校となり、現在は年間を通じて鈴鹿峠自然の家と名付けられ、宿泊研修施設として活用されています。但し、施設内は冷暖房の設備がなく、真冬の時期の利用はあまりないようです。この校舎は松下奈緒主演のテレビドラマ「二十四の瞳」の撮影に使われたとか。

坂下尋常高等小学校

鈴鹿馬子唄には「坂は照る照る」とありますが、どんでもございません。日が照るどころか、大雪に見舞われています。坂下尋常高等小学校の校庭は一面の白銀の世界です。鈴鹿峠越えはまだ先なのですが、峠の雪が少し心配になってきました。鈴鹿馬子唄会館でトイレ休憩を済ませ、出立です。ここから次の坂下宿(さかのした)までは1キロほどの距離です。
高台にある馬子唄会館から下りの坂道をおりていきます。その坂道にも東海道の宿場町を記した柱が並んでいます。





そして旧街道筋に入り1kmほど歩くと小さな川に架かる河原谷橋にさしかかります。この川が沓掛と坂下の境にあたり、橋を渡ると48番目の坂下宿(さかのしたしゅく)に入ります。
坂下宿は鈴鹿峠の登り口にある宿場町で、天保十四年の東海道宿村大概帳によると、宿内軒数は153軒、人口は564人、本陣が3軒、脇本陣は1軒、旅籠は48軒の規模を持っていました。

人口の割に本陣、脇本陣が多いこと、そして全戸数から割り出すと3軒に1軒が旅籠だったことになります。旅籠の数の多さはこれから鈴鹿峠を越えようとする旅人の多くがここ坂下宿に泊まることを想定してのことと判断します。 
鈴鹿越えの客で賑やかな宿場だった坂下宿は、明治時代に入ると東海道の宿駅制が廃止され、更に東海道線の開通で、人の流れが変ったことで一変、坂下宿には立ち寄る人もいなくなってしまい、すっかり寂れてしまいました。 
今ではひっそり佇む山あいの集落の一つです。現在残る街道の道幅が二車線となっていますが、この道幅は当時からのものです。ここ坂下宿は当寺物産の集積地だったので、他の東海道より広かったようです。
左側に坂下公民館があり、伊勢坂下バス停前には「松屋本陣跡」と刻まれた石柱が置かれています。

その先に行くと茶畑をはさんで、「大竹屋本陣跡」「梅屋本陣跡」の石碑が置かれています。

梅屋本陣跡

大竹屋本陣は宿場一であると同時に、東海道中随一の大店として知られていましたが、現在ではこのあたり一帯が茶畑になっていて、かつての大きさを想像するのは難しい状況です。梅屋本陣の道の反対側に「法安寺」が堂宇を構えています。山門の下には「南無阿弥陀佛」という大きな石碑と「西国三十三所順拝写」と書かれた石碑が置かれています。

法安寺

石段を上っていくと山門の左側には「庚申堂」があります。そして山門をくぐって入ると正面にご本堂があり、右側に庫裏が置かれています。そして寺には立派な玄関が……。実はこの玄関は松屋本陣から移築したもので、ここ坂下宿で当時を偲ぶ唯一の遺構なのです。

玄関

法安寺の先にある中ノ橋を渡ると右側に「小竹屋脇本陣跡」の石柱が置かれています。鈴鹿馬子唄に歌われた小竹屋脇本陣跡ですが「大竹小竹」の大竹とは本陣の大竹屋を指しており、本陣に宿をとるのは無理だが、せめて脇本陣の小竹屋には泊まってみたいという意が込められているといいます。「坂の下では大竹小竹 宿がとりたや小竹屋に」

小竹屋脇本陣跡



山中橋を渡り林を通過すると右側に民家があり、国道1号線に合流する手前に「大道場岩屋十一面観世音菩薩」と刻まれた石柱が建っていて、その脇に閉じられている鉄製の門があります。



江戸時代の「伊勢街道名所図会」の「坂下宿」に崖下に観音堂があり、その脇に滝が落ちている絵が描かれていますが、岩屋観音あるいは清滝の観音というものです。

万治年間(1658-1660)に実参(じっさん)和尚が巨岩に穴を穿ち阿弥陀如来・十一面観音・延命地蔵を安置したというのが岩屋観音です。御堂の横に清滝の水が落ち別名を清滝観音とも言います。葛飾北斎の錦絵「諸国滝廻り」全8図のうちの一つに取り上げられ、「東海道坂ノ下 清滝(きよたき)くわんおん」の画題で描かれています。 

旧東海道と国道1号の側道合流地点付近に荒井谷一里塚があったといいますが、国道敷設の際に撤去され、その遺構はもちろんのこと、跡地を示すものすらありません。江戸日本橋から108里目(約424km)、京三条大橋からは17番目(約71km地点)となる一里塚です。

鈴鹿峠への道筋
鈴鹿峠への道筋

私たちはこの先で旧街道筋から分岐して、300mほど歩いて本日の昼食場所である「バーベキュー鈴鹿峠」へと向かいます。
関宿の新所のはずれを出てから、鈴鹿の山中を辿ってきましたがコンビニはおろか一般の商店すらなく、ましてや食事をする場所は全くありませんでした。トイレは坂下宿の手前の「馬子唄会館」で済ますことができるくらいです。
要するに関宿から坂下宿を辿り、土山宿にいたるまで食事をする場所が、ここ「バーベキュー鈴鹿峠」しかないのです。
さあ!お腹もすいたでしょう。バーベキューと謳っていますが、冬季は寒いので屋外でのバーベキューを楽しむことができません。寒い時期はぬくぬくとした温かい屋内でニジマスの塩焼き、山菜の天ぷら、アツアツの赤味噌仕立ての味噌汁そして温かいご飯を楽しむことができます。

看板
バーベキュー鈴鹿(団体用の建物)
店先の景色
個人客用の店内風景
個人客用の店内風景

お腹もいっぱいになり、体も温まり、本日のハイライトある鈴鹿峠の頂へ向かうことにしましょう。先ほどの分岐点まで戻り、片山神社の石柱が立っている場所まで戻ります。



さあ!いよいよ鈴鹿峠越えの始まりです。緩やかな上り坂の左右は杉木立で、道の左側には清流が流れています。実はこの辺りは江戸時代初期に「坂下宿」があった所で、「古町」と呼ばれています。

いよいよ鈴鹿峠越え
鈴鹿峠越え

坂下宿は慶安3年(1650)九月の大洪水でここにあった宿場が壊滅的な被害に遭い、 山川、田畑、民家が全て頽廃したため、翌年、十町(1キロ余)下に移転しました。江戸時代の寛永14年(1637)に寺社の他111軒の人家があったことが当時の検地帳から確認できるといいますが、現在は古町(ふるまち)という地名が残るのみで、平成の時代には家一軒すら見当たらない寂しい山道に姿を変えています。 
深閑とした林の中の細い上り坂進み、小さな石橋を渡ると「片山神社」の石柱と鳥居が見えてきます。

片山神社

片山神社は三子山に鎮座していましたが、度々の水害、火災により、永仁五年に現在地に移つたと伝える神社で、延喜式内社片山神社とあるように歴史は古く、坂上田村麻呂の山賊退治にまつわる女性である鈴鹿御前を祀ったのが始めともいわれ、古来鈴鹿大明神、江戸時代には鈴鹿大権現とも呼ばれてきました。 

※片山神社の祭神、鈴鹿明神は水害や火事の神様なのですが、皮肉なことに社殿は平成11年(1999)の放火により神楽殿を残して焼失。

現在も本殿は再建されず荒れ果てた状態です。石段を上ったところにある大きな常夜燈は文化12年の建立で、石段下の鳥居の周りの常夜燈は天保7年や文化12年の建立です。

東海道はこの神社から「八丁二十七曲がり」と呼ばれた鈴鹿峠越えが始まります。片山神社の鳥居を右折すると急坂を登る道へと入って行きます。

片山神社から峠越えへ

曲がりくねった山道は途中に一部だけ石畳が残りますが、大部分はコンクリートで補強しています。道はかなりの急坂ですが、登って行くと頭上に国道の橋桁が見えてきます。

峠越えの急階段
峠越えの急階段

その下をくぐり登っていくと国道の横の広場に出ます。そこには 「東海自然歩道」の大きな看板が建っていて、「坂下から鈴鹿峠までは2.1km、35分」と表示されています。看板の横には鈴鹿峠の上り口の石段があります。石段の左側に「芭蕉」の「ほっしんの 初にこゆる 鈴鹿山」という句碑が立っています。

国道横の広場

また西行法師は武家の地位を捨てて旅にでましたが、鈴鹿峠ではその心情を歌に詠んでいます。 
「鈴鹿山 浮き世をよそに ふり捨てて いかになりゆく わが身なるらむ」  
芭蕉は、西行法師の和歌が頭にあって、上記の句を詠んだのではないでしょうか?

峠越えの道筋
峠からの眺め

広場から更に上り坂を上がって行きます。ちょっとキツイなと思っていると、突然平坦な場所にでてしまいます。
「えっ!もう終わったの?」とつい言ってしまうほどの「あっけない」峠越えです。片山神社から峠を越えるまで所要15分~20分といったところです。

峠の頂

私本東海道五十三次道中記 第31回 第1日目 井田川駅前から亀山宿をぬけて関宿へ
私本東海道五十三次道中記 第31回 第2日目 関宿から坂下宿、鈴鹿を越えて土山宿へ(その二)
私本東海道五十三次道中記 第31回 第3日目 静かな土山宿をぬけて土山大野の三好赤甫旧跡まで

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私本東海道五十三次道中記 第31回 第1日目 井田川駅前から亀山宿をぬけて関宿へ

2015年11月10日 10時22分08秒 | 私本東海道五十三次道中記


31回目を迎える今回はここ鈴鹿市の関西本線の井田川駅前から旅が始まります。比較的新しい駅舎は街道の風情を漂わす造りになっています。駅前は小奇麗なロータリーになっていますが、商店街らしきものはありません。地方の田舎の駅といった雰囲気が漂っています。

第一日目はここ井田川駅前を出立して、46番目の亀山宿をぬけて東海道中で最も宿場の雰囲気を残している47番目の関宿の道の駅まで11.2kmを歩きます。

そして第2日目は関宿内を散策した後、いよいよ私たちは鈴鹿の山並みの中へと足を踏み入れます。久しぶりの峠越えが待っています。徐々に標高を上げながら進む道筋は箱根以来の峠越えですが、箱根よりは体に負担がないなだらかな勾配がつづきます。そして峠を越えると伊勢の国から近江の国へと入っていきます。近江の国に入って最初の宿場が土山宿です。
関宿から土山宿までは15.8キロです。

第3日目は関宿ほどではありませんが、古い家並みが残る静かな土山の宿を散策し、次の水口宿へと歩を進めていきますが、水口まではちょっと距離があるので、土山大野の三好赤甫旧跡までの7.2キロを歩きます。

新しい年を迎え、本格的な寒さがやってくるそんな季節の中での街道歩きが始まります。

駅前のロータリーに面して「日本武尊」の像が置かれています。
前回、私たちは「日本武尊」にまつわる「杖衝坂(つえつきざか)」を登りました。
杖衝坂は日本武尊が東国からの帰路に、伊吹山(いぶきやま)に住まう荒ぶる神を倒すために向かうのですが、逆に神の怒りに触れて病となり下山します。

※伊吹山(いぶきやま):滋賀県米原市、岐阜県揖斐郡揖斐川町、不破郡関ケ原町にまたがる山で標高1377m。東海道新幹線は伊吹山の麓を走ります。

そして病身のまま故郷大和の地へと向かうのですが、途中、傷ついた身体を引きずり、喘ぎながら山道を登ったと言われ、その時に自らの剣を杖の代わりにしたという伝説が残っています。そんなことから杖衝坂と呼ばれるようになったのです。

『吾足如三重勾而甚疲』(わがあしは みえのまがりのごとくして はなはだつかれたり)と日本武尊は詠んでいます。この歌の中に現れる「三重」から三重県の名の由来と言われています。

そして病が癒えぬ体を引きずりながら、日本武尊は大和国へと向かうのですが、結局は故郷に辿りつくことができず、この近くの能褒野(のぼの)で亡くなったと伝えられています。
能褒野には「景行天皇王子日本武尊墓」が置かれています。この地方にはこんな伝承が残り、墓まであることで駅前に像が置かれているのです。



井田川駅前を後にして旧街道を進んで行きましょう。街道右側には物流センターがありますが、この場所には以前、井田川小学校がありました。昭和54年(1979)に廃校になりました。そんな名残なのでしょうか、1本の門柱と二宮金次郎像が寂しげに置かれています。

井田川小学校跡

物流センターに沿って進んで行くと、道筋は大きく右へカーブを切るとすぐに国道1号を跨ぐ歩道橋下へと出てきます。私たちはこの歩道橋を渡って、その先へとつづく旧街道へと進んでいきます。

本日の道筋はほとんどの部分が旧街道です。無粋な国道1号線に沿ってあるく行程はまったくありません。
歩道橋を渡って旧街道を進むと、すぎに道は2又に分かれます。私たちは左へ折れてつづく旧街道へと入っていきます。

街道の右側に真宗高田派の西信寺が堂宇を構えています。西信寺を過ぎて進んで行くと、ほんの少し古い家が現れます。そしてこの先で椋川(むくかわ)に架かる川合椋川橋に出てきます。川合の地名はこの椋川(むくかわ)と鈴鹿川が合流する土地であることに由来しています。

その昔、この川は度々氾濫をくりかえし、河岸の家屋が浸水したため、江戸時代の安永年間(1624~1644)、亀山藩士「生田現左衛門」が私財を投げうって、川の流れを南に変え、橋を架け替えたので「現左衛門橋」と呼ばれたことがあったようです。現在は川合椋川橋と呼ばれています。



亀山市川合町に入って間もなくすると、国道1号の亀山バイパスの下をくぐります。バイパスの下をくぐり、200mほど行くと「谷口法悦題目塔(たにぐちほうえつ)」と呼ばれる大きな石碑が現れます。

谷口法悦題目塔

この供養塔は東海道の川合と和田の境にあり、昔から川合の「焼け地蔵さん」、「法界坊さん」と呼ばれ親しまれてきました。南無妙法蓮華経と書かれた2.59mの大きな石碑は江戸時代中期の貞享から元禄年間の頃、京都の日蓮宗の篤信者である谷口法悦によって、日蓮宗の布教と国家安泰を願いつつ、各地の刑場跡や主要街道の分岐点などに建立された題目塔の一つです。

その先の交差点を渡り、細い道を進んで行くと、細い路地に入る角の左の歩道上に鉄枠で補強された「和田道標」が置かれています。この道標は東海道と神戸道の分岐点(追分)に建っているもので、市内最古の道標です。正面に「従是神戸白子若松道」、脇に「元禄三庚午正月吉辰」とあり、元禄3年(1690)に建てられたことが分かります。 
江戸時代には神戸白子若松道は亀山城下から亀山藩下の若松港へ通じる重要道路だったのです。

※白子という地名について、藤枝宿にあった白子町と関係がありますが覚えていますか?
時は天正10年(1582)、あの本能寺の変で信長公が光秀に討たれた時、家康公はわずかな供を連れて、堺の見物をしていたのですが、身の危険を感じて堺から伊賀越えで伊勢の白子の浜に逃れたのです。
そして白子の浜師「小川孫三」の助けで家康一行を船に乗せて対岸の知多半島へと運んだのです。
その後、家康公は孫三の恩に報いる為、孫三に藤枝宿の一画に土地を与え、諸役御免(伝馬役などの宿場の業務を免除すること)の特権を与えたのです。
孫三は藤枝宿に居住し、町名を故郷の名と同じ白子町としました。現在、藤枝市の白子町は本町と名を変えていますが、ご子孫は小川医院を経営しています。

和田道標からほんの僅かな距離で県道28号と合流しますが、すぐに旧街道は大きく北方向へ曲がります。

旧街道は緩やかな登り坂となりますが、坂が始まってすぐの左側に「井尻道」の道標が置かれています。この道標は明治中期に亀山で製糸業を始めた実業家田中音吉の寄付によって建立されたものです。

そして街道の右側に福善寺が堂宇を構えています。坂道は少し傾斜がきつくなると右側に石垣があり、幟がひらめく石上寺(せきじょうじ)が山門を構えています。石上寺は高野山真言宗の寺で本尊は子安延命地蔵菩薩です。

石上寺
石上寺ご本堂
石上寺前の街道

石上寺は延暦15年(796)に紀真龍(きのまたつ)が石上神宮(いそのかみじんぐう)の神告により、この地へ那智山熊野権現を勧請し、新熊野三社として祀ったのが、新熊野権現社の起源で、同年8月弘法大師が真龍の元を訪れ、地蔵菩薩を刻み一宇を建立して、那智山石上寺と名付けたのが、当山の始まりとされています。

鎌倉時代に将軍家の祈祷所となり広大な寺領と伽藍からなる大寺院でしたが、織田信長の伊勢侵攻により焼失して寺勢は衰えたといいます。鎌倉から室町期にかけての古文書20通が残り、三重県有形文化財に指定されています。現在の建物は明和三年(1766)に再建されたものです。尚、和泉式部が参籠したという言い伝えもあり、付近には式部の梅や式部の井戸が残っています。



石上寺を辞して、旧街道へ戻りましょう。だらだらとした坂道はまだ続きますが、それほど長くはありません。坂を登りきると、街道右側に江戸から104番目、京都三条大橋から21番目(87㎞)の「和田一里塚」が置かれています。
といっても、一里塚があった東側に近接する場所に平成5年に復元された一里塚です。昭和59年に道路が拡張されるまでは一里塚の一部が残されていたようですが、区画整理で消えてしまいました。

和田一里塚
和田一里塚

旧東海道筋は次の栄町交差点までは道幅も広く歩きやすいのですが、栄町交差点を過ぎると狭い道筋へと変ります。栄町交差点から先の道筋は旧東海道でもあり、別名「巡見街道」と呼ばれています。尚、この先に東海道と巡見街道の分岐点があるので、そこで詳しく説明しましょう。

巡見街道に入ると、すぐ左側には私たちが日ごろお世話になっている「亀山ローソク」の工場があります。亀山ローソクは現代の亀山の特産品です。

亀山ローソクの工場が途切れ、少し行くと右側に大きな能褒野(のぼの)神社二の鳥居があり、鳥居の下には地元の人が書いた「従是西亀山宿」木札が置かれています。ただし正式な亀山宿の江戸口門はもう少し先にあります。

能褒野神社二の鳥居
能褒野神社二の鳥居

能褒野神社は「日本武尊墓陵」とされる塚の傍らに建てられた日本武尊を主祭神とする神社で、社殿はここから約5キロ北東の亀山市田村町の能褒野橋北側の森の中にあります。
明治12年(1879)、当時の内務省が森の中にある全長約90m、後円径54m、 高さ約9mの王塚とか、丁字塚と呼ばれていた三重県北部最大の前方後円墳を日本武尊の墓であると認定し、以後宮内庁が能褒野陵として管理しています。



そして、ほんの僅か進んで打田釣具店の斜め向かいにあるのが「露心庵跡」です。

露心庵跡

本能寺の変から2年後の天正12年(1584)、明智光秀や柴田勝家を滅ぼし勢力を拡大する羽柴秀吉に対し、織田信長の次男信雄と徳川家康が手を組み対立を深めていた時代の頃のお話です。
ちょうどその頃、信雄方の神戸正武が秀吉方の関万鉄が守る亀山城を急襲、関万鉄は蒲生氏郷や堀秀政の支援を受けて神戸の軍勢を退けました。この合戦での戦死者を供養するために関氏一門の露心が仏庵を開いたのがこの場所です。元々は友松庵の名でしたが、人々は建立者の名から露心庵と呼んだといます。明治期に廃寺とってしまいました。

露心庵跡を過ぎると街道右側に「橘屋跡」の民家が現れます。実は亀山と隣のでは「東海道のおひなさまin亀山宿・関宿」という催しを行っているのですが、この橘屋跡がお雛様飾りをする最初のお家です。

さあ!道筋を進んで行きましょう。前方に比較的大きな信号交差点が現れます。ここで東海道から巡見道が分岐していました。この旧巡見道は菰野を経て濃州道と合流し、関ヶ原で中山道に繋がる約60kmの道程で、江戸時代に幕府の巡見使が通ったことから巡見道の名で呼ばれていました。巡見使は江戸時代の寛永10年(1631)に始まった制度です。

巡見道

《巡見使》
江戸幕府が諸国の大名・旗本の監視と情勢調査のために派遣した上使のこと。大きく分けると、公儀御料(天領)及び旗本知行所を監察する御料巡見使と諸藩の大名を監察する諸国巡見使がありました。

尚、関東には関東取締出役(八州廻り・八州取締役)なるお役目がありましたが、これも天領・私領内を巡回し、治安の維持、犯罪の取締り、風俗取締りを行っていました。但し、関東内の水戸藩は御三家のため取締りから除外されていました。


亀山宿の入口にあたる江戸口までは目と鼻の先です。江戸口跡に至る道筋の民家には過ぎ去った時代の屋号が掲げられています。そんな道筋を歩いていると、街道右手になにやら堂々とした「城の天守?」「櫓?」らしきものが……。亀山城まではちょっと距離があるのですが?実は呉服屋さんのランドマークです。屋号もなんと「衣城しもむら」というそうです。
この辺りから街道筋は商店街らしい雰囲気が出てきますが、商店が軒を連ねているわけではありません。

衣城しもむら

旧街道はこの先の「後藤米穀」で大きく左にカーブし、亀山城下の東側出入口にあたる「江戸口門跡」へと進んでいきます。
往時は東西120m、南北70mの敷地に水堀や土塁・土塀を巡らし、門と番所を据えて通行人を監視していました。そんな江戸口門跡は鉤手のように鋭角的に折れ曲がる旧街道の角にそれらしいモニュメントが置かれているだけです。



かつての江戸口門を入ると亀山宿に入ります。宿の入口でもあり、城下町への入口でもあったところです。
天保14年の東海道宿村大概帳によると、亀山宿は家数567軒、宿内人口は1549人、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠21軒の規模です。 
もちろん亀山藩の城下町でもあったので、参勤交代の大名も旅人はこうした城下町の堅苦しさを嫌って亀山宿に泊まるのを敬遠していたといいます。東町は亀山宿の中心で旅籠や本陣、脇本陣、東問屋場があったところですが、今は商店街になっていて、古い家はほとんど残っていません。賑やかな商店街といった雰囲気はありませんが、一応、メインストリートかな、といったところです。東町商店街はちょっとしたアーケード造りになっています。

商店街に入って右手に折れる細い路地の奥に黒い板塀で囲まれた「福泉寺」「法因寺」が堂宇を構えています。

福泉寺山門
福泉寺山門前

福泉寺の創建は不詳ですが15世紀半ばに天台宗から真宗高田派に改宗した古刹です。山門は寛政7年(1795)に建てられたもので、入母屋、本瓦葺、一間一戸、楼門形式、格式が高く屋根正面には唐破風、軒の両側には鯱が設えられています。亀山市内に残る数少ない寺院楼門建築の遺構として貴重なことから平成8年に亀山市指定文化財に指定されています。

商店街の左側には樋口太郎兵衛が務めた本陣や椿屋弥次郎の脇本陣跡があります。
旧東海道は江ヶ室交番前交差点を左折して狭い道に入ります。カラーモール化された東海道筋は亀山城を大きく迂回するため、鉤の手に曲がるようになっています。
この鉤の手を曲がり、すこし進んだ突き当たりを右折し、そしてすぐに左折して坂を下ると左側に「遍照寺」と「誓昌院」が堂宇を構えています。遍照寺の本堂入口部分は亀山城の二の丸御殿の玄関部分を移築したものと言われています。

その先はなだらかな下り坂です。道が大きく左にカーブするところに大きな古い家が残っています。この辺りの道筋のほんの僅かな部分に宿場町らしい建物が数軒残っています。

宿内の家
宿内の家

そんな道筋にあるのが御菓子司出雲屋です。かつてはこの場所に万屋と大坂屋がありました。出雲屋は昭和5年(1930)創業という老舗の和菓子屋で、三重県産の餅米を使用した生切り餅タガネ餅をはじめ、みたらし団子、五平餅、大判焼き等を製造販売しています。

※タガネ餅:餅米とうるち米をまぜてついた切り餅に時雨のたまり醤油をつけたもの。このタガネ餅の切り餅が「せんべい」に姿を変えていきます。

出雲屋を過ぎると旧街道は302号線で分断されます。旧街道は302号線を渡って先につづいています。私たちはせっかくなので亀山城址へと立ち寄るため、旧街道から逸れて、302号線に沿ってなだらかな坂を上がっていきます。坂の右側には大きな池のような亀山城の濠が広がっています。

亀山城の濠

亀山城の濠に沿って城址へ進んで行くと、前方に亀山城の石垣と多門櫓が見えてきます。

亀山城多門櫓

なだらかな坂道の途中、濠側に石碑が置かれています。碑面には「石井兄弟仇討ち」と刻まれています。



江戸時代初期の延宝(1673-1680)年間に石井源蔵、半蔵兄弟が大坂城代青山家の家臣だった父石井宗春の仇討ちで、亀山城外で本懐を遂げたという話です。江戸三大仇討ちの一つと言われています。

※石井兄弟仇討ち
時は元禄の頃、青山因幡守の家中、石井宇衛門(宗春)が武術の遺恨によって、赤堀源右衛門に討たれました。その時の遺児、半蔵(15歳)、三男の源蔵(3歳)は苦節28年、宿敵である赤堀を亀山城外で討った話です。この話は「元禄曽我」として大評判を博しました。

日本三大仇討は「曽我兄弟の仇討」「荒木又右衛門 鍵屋ノ辻」「赤穂浪士 吉良邸討ち入り」ですが、江戸三代仇討とは「浄瑠璃坂の仇討」」「荒木又右衛門 鍵屋ノ辻」「赤穂浪士 吉良邸討ち入り」のことを指します。

「石井兄弟仇討ち」の石碑を過ぎると、亀山城の多門櫓が大きく迫ってきます。

亀山城多門櫓
亀山城址の石柱

その昔、亀山城の濠から左手は城壁で囲まれていて、西の丸があったといいますが、現在ではその場所は学校や住宅地になっています。道の左側に「亀山城址」の石碑が建っていて、多門櫓と石垣が見えます。

亀山城は文永2年(1265)、関実忠により若山(現亀山市若山町)に築城されましたが、その後、現在地に移されています。天正18年(1590)に入城した岡本宗憲が天守、本丸、二の丸、三の丸などを造ったとされています。江戸時代に入り、城主は目まぐるしく変わります。元和5年(1620)に藩主となった三宅康信の時代だけが1万石でしたが、その他の藩主はおおむね六万石の石高の藩主でした。
そんな1万石の藩主であった三宅康信の時代の頃の話です。寛永9年(1633)に丹波亀山城の天守を解体するよう命じられた松江藩主の堀尾忠晴は、何を間違ったか伊勢亀山城の三層の天守閣のほうを破却してしまいました。間違いでは済まされない失態ですよね。
しかし一説によると、天守の破却は勘違いではなく、わずか1万石の藩主には不釣り合いな天守であったための措置とも言われています。

尚、江戸時代にはいってからの伊勢亀山藩主は明治維新までに15家が入れ替わり、立ち代わり変わっています。

江戸初期に天守を失った伊勢亀山城ですが、本丸や二の丸、三の丸は残りました。そして寛永13年(1636)に城主となった本多俊次による大改修が行われ、天守なき天守台に多門櫓が造られました。当時は粉蝶城(こちょうじょう)とも呼ばれ、その優美さで知られた名城でした。

明治6年(1873)の廃城令により場内の建物は破却されましたが、現在残されている遺構は天守台・多聞櫓・石垣・堀・土塁などのほんの一部です。尚、多聞櫓は原位置のまま残る中核的城郭建築として三重県下では唯一の遺存例で、現存する多聞櫓として全国的にも数少ないものです。

多門櫓の裏手一帯は公園になっていて、園内には蒸気機関車が展示されています。

蒸気機関車

そして公園に隣接して亀山神社の境内があり、その参道入り口に鳥居が建っています。

亀山神社鳥居

さあ!それでは城址に別れを告げて、再び旧東海道筋へ戻ることにしましょう。高台にある城址から今度は坂道を下っていきます。坂の右手には亀山中学校の広いグランドが見えます。坂の途中から振り返ると、先ほどの多門櫓の漆喰塗の白壁が冬の低い太陽に照らされ、ひときわ輝いて見えます。



多聞櫓からなだらかな坂を下ってきます。池の側橋に戻ってくると、302号線で分断された旧東海道はほんの少し上り坂となって右手の細い道筋へ入っていきます。その細い道筋の坂道を登ると、道は右にカーブし、西町になりますが、坂を登りきったあたりに若林又右衛門が務めた「西問屋」があったといわれています。

坂を登りきると真っ直ぐな道筋となります。この辺りの民家には江戸時代の屋号が掲げられています。街道左手に岡田屋本店が店を構えています。屋号札はやはり「おかだや」。江戸時代からの屋号を引き継ぎ、現在はオーガニック食料品店。「東海道亀山宿」と書かれた立て札の両脇には弥次さんと喜多さんかな?

岡田屋を過ぎると旧西町の四つ角にさしかかります。その角に置かれているのが東海道・停車場道標(左角)左郡役所 右東海道(右角)の道標です。明治23年(1890)西町南側に関西鉄道の亀山停車場(現 JR亀山駅)が設置されて以来、西町は亀山の表玄関として栄えました。この四つ角を右へ入ると二の丸へとつづく道筋に置かれていた「青木門」があったようです。

そして旧西町の西村屋跡飯沼慾斎(いいぬまよくさい)の生家です。飯沼慾斎は天明3年(1783)西村守安の次男として生まれ、12歳の時に美濃大垣の飯沼家へ身を寄せて後、養子に入った。京都で漢方医学と本草学、江戸で蘭学を修めて大垣で医者として開業しました。50歳で引退した後は植物の研究に没頭し、リンネ分類法による植物分類を行って「草木図説前篇」を著しました。その先に蔵造りと立派な旧家が見えてきます。旧舘家住宅(桝屋)です。この旧舘家でも「おひなさまの展示」を行っています。見事な吊るし雛や雛壇飾りが展示されます。

旧舘家住宅の先で道筋はT字路となり、いわゆる鉤型になっています。ここを右折します。そんな道筋に馬持備屋跡(うまもちそなえや)の木札が下がっています。この意味はおそらく上級藩士等の馬を世話する人が住んでいた家か物置だと考えられます。文久3年(1863)作成とみられる”宿内軒別書上帳”により、西之丸外堀に面する旧東海道沿いに6軒の馬持備屋が並んでいたことがわかります。

馬持備屋跡の先ですぐ左折します。左折すると、すぐ右手に亀山城西之丸外堀遺構が現れます。東海道と接する外堀の一部分を保存しています。往時は水堀だったのですが、遺構面を保護するために約1mかさ上げし、往時の水面の高さを表現しています。

外堀遺構
外堀遺構

旧東海道はそのまま直進していきます。西ノ丸外堀遺構からほんのわずかな距離で亀山宿の西の出入り口である「京口門跡」にさしかかります。そして道筋は下り坂となり「梅厳寺」の前に出てきます。梅厳寺の入口には「十一面千手千眼観世音菩薩」の石柱があり、「京口門跡」の説明が置かれています。

京口門は亀山宿の西端の竜川(たつかわ)左岸の崖の上に置かれていました。亀山藩主、板倉重常が寛文12年(1672)、亀山宿の西入口として造らせたもので、石垣に冠木門を設け、亀山城の一部としての機能を備え、棟門と白壁の番所が付いていました。坂道の両側にはカラタチが植えられ、下から見上げると門や番所が聳え立つ姿は壮麗を極め、「亀山に過ぎたるものが二つあり、伊勢屋の蘇鉄と京口御門」と詠われました。

※伊勢屋の蘇鉄
元々、この蘇鉄の木は亀山宿の旅籠「伊勢屋」の庭にあったのですが、昭和59年の道路拡幅工事にため亀山市に寄贈され、市の文化会館の玄関前に植えられました。株回りが約5mの立派なものです。
尚、あの京口御門ができたのが江戸時代の寛文12年(1672)であるので、300年を超える樹齢を誇っています。

広重亀山の景

広重が描いた東海道の浮世絵の「亀山宿」は大名行列が雪の中、急な京口坂を登っていく風景が描かれています。絵の右上には石垣と亀山城の櫓らしきものが見えます。絵の中の大名行列の一行は急坂の雪道をどのように歩いていったのでしょうか? 江戸時代にはこの達(竜)川には橋が架かっていなかったので、坂を下って、いったん川まで降りて、そして再び坂を登って亀山宿へと入って行ったのです。

京口門跡の解説板(亀山市教育委員会設置)には京口門古写真があります。大正3年(1914)に京口橋が架けられるまで、広重が浮世絵に描いたような風景が残っていたのです。

橋を渡ると右手に「照光寺」が山門を構えています。境内には石井兄弟の仇討の相手である「赤堀水之助(源五右衛門)」の石碑があります。 
彼は京口門外で兄弟の手によって討たれましたが、哀れに思った人達がこの寺に墓を建てたそうです。尚、この石碑は平成に入って造られたものです。

さあ!この照光寺辺りで歩き始めて5.5キロに達します。ちょうど本日の歩行距離の半分を歩いたことになります。それでは亀山宿をあとに、次の宿場である「関宿」を目指すことにしましょう。宿場を抜けたのですが、街道沿いの様子はまだ宿内にいるような趣のある家が点在しています。

街道の家並み
街道の家並み
街道の家並み
街道の家並み



6キロ地点を過ぎると角に焼肉長次郎が店を構える交差点にさしかかります。この交差点を過ぎると街道の右手前方に立派な一里塚が現れます。江戸から数えて105番目、京都三条大橋から20番目(三条大橋から約83㎞)に置かれた「野村一里塚」です。

野村一里塚
野村一里塚

ここの一里塚は榎ではなく椋(むく)の木を植えた珍しいもので、国の史跡に指定されています。現存するのは北塚だけでで、その上に植えられた椋の木は樹齢300年を越し、幹周り5m、 高さ20mの大木です。南塚は大正12年に倒されています。

野村一里塚を過ぎると、道幅は車1台しか通れないような細い道筋へと変ります。そして町名は「布気町」になります。

そんな道筋の空き地に「大庄屋 打田権四郎昌克宅跡」 と書かれた木柱が建っています。
江戸時代初期に近江国から野尻村に土着したという打田家は、亀山藩主本多家の時に代官を任ぜられ、後に大庄屋を務めました。寛永19年(1642)に生まれた権四郎昌克は、打田家17代当主の時に亀山藩領86ヶ村を見聞し、地誌「九々五集」を著しました。

道はこの先で左にカーブしていくと三叉路にさしかかります。旧街道は右手に進んでいきます。ここまで一里塚から700mほどです。



東海道の道筋には道案内があります。右へとつづく道が東海道で「布気皇舘太神社 能古茶屋跡」の標があります。このあたりには江戸時代、立場茶屋があったところで、元禄3年(1690)に開かれた能古(のんこ)茶屋が有名だったそうです。
亭主の禅僧「道心坊能古」は奈良の茶飯や家伝の味噌、煮豆で旅人をもてなし、好評をえたと伝えられています。松尾芭蕉も能古の友人で「枯枝に鳥とまりたるや秋の暮」という句を残しています。

道は緩やかに左にカーブしていますが、すぐ左側の杜の中に「布気皇舘太(ふけこうたつだい)神社」が社殿を構えています。街道に面して石灯籠と鳥居が置かれています。
布気皇舘太神社は延喜式神名帳に小布気神社とある式内社で、祭神は天照皇御神、豊受大神、猿田彦命をはじめ23柱を祀っています。日本の八百万の神を代表する神々が合祀されているというか、神々としてはベストメンバーなので、なんでもかんでも叶えてくれるのではないでしょうか。

布気皇舘太神社の参道入り口

当神社がある場所は雄略天皇(456~479)のころ、豊受大神宮が御饌都神(みけつかみ)として丹波の国から伊勢国に遷座されたとき、鈴鹿郡で一宿した行宮の旧跡とされています。現在当社は布気皇舘太神社と呼ばれています。江戸時代には高野大神宮、高宮、神戸神社などいくつも名があったようですが、江戸時代の享保8年(1723)頃から、皇舘大神宮と呼ばれるようになったと伝えられています。
中世の頃には土地の豪族であった板淵氏や地頭の関氏が守護し、江戸時代にはこの地を治めていた亀山藩から手厚い保護を受けていました。

明治41年に村社に列し近在の鎮守社を合祀したことで、もともと天照大神、豊受大神、伊吹戸主神(いぶきどぬし)の三神が祭神だったのですが、明治の合祀で二十三柱を祀るようになりました。そして能古茶屋はこの神社前にあったようです。

私たちは落針集落へと入って行きます。落針という地名は平家の落武者がこの地に住み着き、落逃村(おちのがれ)等と呼ばれたものが変化したと伝わっています。

観音坂の緩やかな下りの途中、街道の左側に祠を構えるのが「昼寝観音」です。
名の由来は昼寝をしていたがため、三十三観音霊場に入る機会を逸したという伝説が残る観音様です。

観音坂を下りきると、旧街道はこの先で国道565号とJR関西本線によっていったん分断されます。その先の旧街道へは歩道橋で国道とJR関西本線の線路を跨いで行かなければなりません。



JR関西本線の線路を渡ると、周りの景色は一変します。民家はほとんどなくなり、街道左手に流れる鈴鹿川を間近に眺めながら進んでいきます。前方に見えてくるのは名阪国道と東名阪道の高架です。田園の中に突如として現れる巨大建造物は真下にさしかかると橋脚の大きさ、高さもさることながら、湾曲して延びていくその姿に恐ろしいほどの威厳を感じます。

名阪国道と東名阪道の高架
名阪国道と東名阪道の高架

JR関西本線の線路を越えて700mほど進むと、「大岡寺畷(たいこうじなわて)」と書いた木標が置かれています。

大岡寺畷

畷とは直線道のことで、大岡寺畷は鈴鹿川の北堤で1946間(約3.5㎞)にわたる東海道一の長い畷だったと言われています。江戸時代には18町(約2㎞)にも及ぶ松並木の直線道だった大岡寺、里謡に「わしが思いは太岡寺 ほかにき(気)はない 松(待つ)ばかり」と謡われたというところです。

芭蕉はここでは珍しく和歌を詠んでいます。 
「から風の 太岡寺縄手 ふき通し 連もちからも みな坐頭なり」

尚、現在は松に代わって桜が植えられています。

鈴鹿川の流れ

畷の左側は鈴鹿川の流れと牧歌的な景色が広がり、街道時代と変わらぬ長閑な風景が残っています。



長かった畷道はJR関西本線の踏切で終わります。旧街道は踏切を越えると国道1号線に合流します。国道1号線を渡るために歩道橋を使います。歩道橋を渡った後、ほんの少し国道1号線に沿って歩きます。小野川橋を渡って250mほど行くと右に入る細い道があり、「関宿」と書いた大きな看板が建っていて、左側に「関の小萬のもたれ松」の説明板と最近植えたと思われる松があります。

関宿の看板

関の小萬は父の仇討を遂げた女性です。
江戸時代中期、九州久留米藩に牧藤左衛門という藩士がおり、遺恨あって同輩の小林軍太夫という者に殺されました。藤左衛門の妻は身重の体だったが、仇討ちを志して旅に出ます。鈴鹿峠を越え関宿に着いたところで行き倒れとなり、山田屋(現 会津屋)に保護されましたが、女子を生んで後に病没。この女子が小万です。
成長した小万は母の遺志を継ぎ、亀山城下で三年程武術を修行、天明3年(1783)に見事、仇敵小林軍太夫を討ち果たします。この一事によって「関の小万」の名は世間に知れ渡りました。
「小万のもたれ松」は亀山城下通いの小万が、若者の戯れを避けるため、ここの松にもたれ姿を隠していたとの言い伝えから。尚、小万は仇討成就後も山田屋に留まり、36歳で亡くなりました。墓は関宿内の福蔵寺にあります。

ここから400mほど歩くと左側に大きな木の鳥居が現れます。ここが関宿の江戸側の入口です。

伊勢神宮の大鳥居

さあ!関宿に到着です。関宿の入り口に立つ大鳥居は東海道を歩いてきた旅人で、伊勢神宮に立ち寄ることができない時に伊勢神宮に向かって遙拝するためのものです。20年に一度行われる伊勢神宮の式年遷宮の都度、伊勢神宮内宮の宇治橋南詰で使われていた鳥居をここに移築し建て替えられてきました。
現在見る大鳥居は平成7年(1995)に移築されたものです。2013年10月に伊勢神宮式年遷宮の遷御の儀が行われ、大きな話題となったことは記憶に新しいのですが、この時の大鳥居も平成27年中には建て替え予定とのことです。

鳥居の左側の小高いところは関一里塚の跡で、右側奥にそれを示す小さな「関一里塚跡」の石碑が建っています。

関一里塚跡

関宿はこの鳥居から西の追分まで、東西に1800mの帯状に伸びていた宿場町です。また東海道と伊勢詣での旅人が向う伊勢別街道との追分(分岐点)でもありました。伊勢別街道はいせみち、参宮道、山田道と呼ばれていました。ここから伊勢神宮まで4里26町の距離です。右側の一里塚は既になく、左側も原形は留めていませんが、常夜燈は置かれています。

伊勢神宮の鳥居が建つ場所から前方を眺めると、宿場内を貫く細い街道の両側に途切れなく家並みがつづいています。まるで時代劇のオープンセットが目の前に現れたような光景です。さあ!街道時代の世界へ入っていきましょう。



鳥居前の石垣上の家は「岩間家住宅」です。

岩間家住宅

説明には「岩間家は当時の屋号を白木屋といい、東追分で稼ぐ人足や人力車登場後は車夫の常宿だった。連子格子が素晴らしい建物は200年以上経っていて、むくり屋根が特徴である。屋根の曲面形状はそり(反り)とむくり(起り)に分類される。そり(反り)は下方に凸となったもの、むくり(起り)は上方に凸となったものである。 むくりは使われることが少ないが、数奇屋建築にはむくり屋根が好んで使われ、桂離宮などはその好例である。」

関宿は天保十四年の東海道宿村大概帳に総戸数が632戸、人口は約2000人、本陣が2軒、脇本陣2軒、旅籠が42軒とあり、かなり大きな宿場でした。今も380軒もの古い家が残り、軒を連ねている様は壮観です。

関宿の家並み
関宿の家並み
関宿の家並み
関宿の家並み
関宿の家並み

これらの貴重な建物は昭和59年に旧東海道の宿場町の町並みを留める地区として、国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されました。宿内で最も古い建物は18世紀中期のもので、江戸から明治のものが全体の約45パーセントを占めています。更に昭和戦前までのものを加えると実に全体の約7割を占めるといいます。
このように野外博物館のような町並みを残す関宿では貴重な建物の保全にはかなり力を入れており、街道から10m入った部分まで建物を勝手に手直しすることは禁止されています。例えば、家の戸に敷居すべりを貼ることも禁止されているようです。

さらに家々のクーラーの室外機は見栄えが悪いということで、ほとんどが木製のカバーで覆われ、ゴミの集積所も木製、郵便の投函ポストも「書状集箱」、また床屋さんの赤、白、青の看板もレトロ調と景観保全は徹底しています。

さて宿内は木崎町(こさき)、中町、新所町(しんじょ)の三つの町で構成されていますが、東木戸の鳥居に近いのが木崎町です。ここから先は道幅が狭くなり、車が1台だけ通れるだけの巾しかありません。また、宿内の街道には電信柱がまったくなく、古い家並みが途切れなく街道に沿ってつづく様子は、これまで歩いてきた東海道筋では初めてではないでしょうか。
とはいえ、街道に沿って多くのお土産屋さんや一般の商店が並んでいるかというと、そのほとんどが民家のようで、観光客相手のお店はあまり見かけません。時間帯によっても宿内の様子も違ってくるのかもしれませんが、暮れなずむ冬の夕刻時、宿内を歩く人もなく、ひっそりとした雰囲気が漂っています。

少し歩くと「御馳走場」と書かれたところにでてきます。ここは宿役人が関宿に出入りする大名や高僧、公家などを出迎えたり見送ったりしたところで、大名行列ではここから本陣まで行列を組んで進んだといいます。

御馳走場

御馳走場の前には「開雲楼」と「松鶴楼」という関を代表する芸妓置屋の建物が残されています。

開雲楼・松鶴楼
開雲楼・松鶴楼
開雲楼・松鶴楼

開雲楼・松鶴楼が建つ場所から上にのびる路地は関神社の参道の入口で、奥に関神社の社殿が構えています。関神社は関氏の始祖が紀伊国の熊野坐神社の分霊を勧請し、江戸時代には熊野三所権現と呼ばれていましたが、 明治時代に笛吹大神社や大井神社などを合祀して、関神社と名を改めました。境内のナギの木は熊野に縁があるといわれています。

静かな、静かな宿内を歩きながら、過ぎ去った時代の宿場の光景を頭に浮かべることができるひとときです。
その昔には夕暮どきともなると、旅籠の軒先には屋号を記した常夜燈が置かれ、淡くゆらめく灯が宿内の道筋を飾っていたのではと想像します。そして処々から「留女」の声が聞こえてきたのではないでしょうか?
そんな宿場の光景が蘇ってくる関宿は街道時代へタイムトリップしているかのような雰囲気を漂わせています。旧東海道筋に残る宿場町の中で、ほぼ完全な形で家並みが残っているのが「関宿」です。

街道に面して「百五銀行」が現れます。町並みの景観を損なわない配慮がなされた店舗です。周囲の景色に完全に溶け込んでいます。

百五銀行の建物
関宿の家並み
関宿の家並み
関宿の家並み
関宿の家並み

冬の関宿の夕暮はあっという間にやってきます。日は西に傾き、日没前の淡い夕焼けに宿内は徐々に染まっていきます。人通りが途絶えた宿内は間もなく帳が下りて静かな夜を迎えることでしょう。
第1日目は宿内の木崎地区で見学を終え、「道の駅・関宿」へ向かうことにします。明日もまた関宿内を散策します。

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私本東海道五十三次道中記 第31回 第2日目 関宿から坂下宿、鈴鹿を越えて土山宿へ(その一)
私本東海道五十三次道中記 第31回 第2日目 関宿から坂下宿、鈴鹿を越えて土山宿へ(その二)
私本東海道五十三次道中記 第31回 第3日目 静かな土山宿をぬけて土山大野の三好赤甫旧跡まで





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行秋の京都 知恩院から京都三条大橋へ

2015年11月09日 08時10分23秒 | 行く秋の京都探訪
平等院のある宇治から京阪電車に乗って京都の鴨川畔の祇園四条駅に戻ってきました。
この日は午後3時の新幹線で東京に帰るため、観光のための十分な時間がとれないので、祇園界隈でそそくさと昼食をとったあと、至近にある浄土宗総本山の知恩院に参拝したあと、徒歩で三条通りを進み三条大橋へ向かうルートにしました。

祇園界隈からは八坂神社が一番近いのですが、八坂さんから清水寺までは昨年歩いているので、今回は知恩院へ向かうことにしました。

知恩院三門

これまで何度も知恩院新門の前は通っていたのですが、どういうわけか境内に入ったことがありませんでした。
新門から眺めると、はるか彼方に構える三門までかなり距離があるなあ、という理由だけでこれまで参拝に訪れなかったような気がします。

法然上人所縁の名刹・古刹である知恩院は京都の寺社巡りでは「はずせない寺院」の一つということで三門へとつづく「知恩院道」を進んでいきます。
およそ340mの知恩院道が途切れると、眼前に現れるのが「知恩院三門」です。

知恩院三門

石段の上に聳えるがごとく建つ三門の姿はさすが浄土宗大本山の威厳と格式を備えています。
この三門は江戸時代の元和7年(1621)に二代将軍秀忠公の命によって建立されたものです。そして平成14年に国宝に指定されています。
「三門」の「三」は三解脱門を意味しています。三解脱門といわれる山門を持っている寺院はいくつもありますが、ここ知恩院の三門は「空門(くうもん)」「無相門(むそうもん)」「無願門(むがんもん)」のことを指し、これらの門は悟りに通ずる三つの解脱の境地を表しているといいます。

ここ浄土宗総本山の知恩院は家康公によって永代菩提所に定められた格式ある寺院です。そもそも家康公の宗門は浄土宗です。
家康公が誕生した岡崎の地には松平家と徳川将軍と深い関係のある「大樹寺(だいじゅじ)」がありますが、この寺も浄土宗です。
そして家康公が天正18年(1590)に江戸に初入府後、江戸における徳川家の菩提寺としたのが浄土宗派の増上寺です。
こんな背景から江戸時代を通じて、徳川将軍家からは厚い庇護を受けていたと思われます。

さあ!石段をのぼり三門をくぐり、境内へと入っていきます。

境内地図

三門をくぐると、その先には急な石段が控えており、これを上りきるとやっと平坦な場所にでていきます。その平坦な場所にあるのが「御影堂(みえいどう)」なのですが、修理中のためかお堂全体が建屋の中にすっぽりと納まり、見ることができません。
この修理は平成30年末まで行われるとのこと。3年後に再び訪れることにします。

その御影堂の南東に置かれているのが「経蔵」です。この建物も三門と同じ時代の元和7年(1621)に建立されたもので、重要文化財に指定されています。

経蔵
経蔵
経蔵

経蔵から左手奥の鬱蒼とした木々が茂る林へと進むと、法然上人の遺骨を安置する廟堂へつづく長い石段の入口に達します。

御廟への石段
御廟への石段入口

今回は廟堂への参拝は割愛して境内へと戻りました。

再び修理中の御影堂の前を通り、御影堂の西側に立つ阿弥陀堂へと進みます。阿弥陀堂ですからここに祀られているのは「阿弥陀如来」です。この阿弥陀堂は江戸時代の建物ではなく、明治43年に再建されたものです。

阿弥陀堂

私たちは阿弥陀堂から集会堂、新玄関の前の道を辿り、境内北側のいわゆる女坂のゆるやかな坂道を下り三条通りを目指すことにしました。

ゆるやかな坂道を下りきると「神宮通り」に出てきます。この神宮通りは平安神宮へとつづく道です。
道の右側には知恩院の境内の森がつづきます。その途中、右手奥へ細い道筋が延びています。その道筋の入口に「花園天皇御陵」の案内板が置かれています。

京都には歴代の天皇の御陵が数多く点在しています。せっかくなので御陵の参拝へと向かいました。なだらかな坂道を150mほど登っていくと御陵の玉垣が現れます。知恩院裏手の木々に覆われた一画に御陵があるようですが、森閑とした空気が漂う中で、白い石造りの玉垣と鳥居が静かに佇んでいます。

花園天皇御陵
花園天皇御陵

花園天皇は鎌倉時代の第95代天皇です。わずか12歳で即位された天皇で在位期間は約10年です。即位後、まだ年が若かったため、前半は父である伏見上皇、後半は兄である後伏見上皇が院政を敷きました。22歳で後醍醐天皇に譲位しています。

花園天皇御陵を辞して、再び神宮通りへ戻ります。神宮通りを三条通りへ向かうと、すぐ右手に現れるのが「青蓮院門跡(しょうれんいんもんぜき)」です。

青蓮院門跡

参道入り口には枝振りが見事な楠木があります。青蓮院には5本の楠木がありますが、すべて天然記念物に指定されています。

門跡とは門主(住職)が皇室又は摂関家によって受け継がれてきた格式あるお寺のことですが、当寺は天台宗総本山比叡山延暦寺の三門跡の一つです。天台宗の三門跡寺院とは青蓮院、三千院、妙法院のことをいいます。

拝観ができるようですが、先を急がなければならない事情から門前だけで失礼しました。

この後、三条通りに出て地下鉄東西線の東山駅を通り三条大橋へ向かいます。神宮通りから三条通りに入って140mほど歩いた左側の「パーク・ウォーク京都東山」という賃貸マンションの角に「坂本龍馬 お龍結婚式場跡」の石柱が置かれています。

坂本龍馬 お龍結婚式場跡

石柱が置かれているあたりには、以前は青蓮院の塔頭である金蔵寺が堂宇を構えていたといいます。そしてお龍の父である楢崎将作は金蔵寺に仕える医師だったことで、お龍の家族は身を寄せていたようです。そんな縁で龍馬とお龍はこの金蔵寺で祝言をあげたそうです。ちなみに祝言は元治元年(1864)のことです。

賑やかな三条通りは御存じ江戸と京都を結ぶ旧東海道の道筋です。その旧東海道の西の起点でもあり終点になっているのが京都三条大橋です。
江戸から126里に位置する京都三条大橋にはこれまで何度も訪れていますが、橋を背景にした記念写真をとったことがありません。
今回は記念に一枚!

三条大橋にて

毎年の恒例である秋の京都観光の旅はここ三条大橋で終わります。また来年の京都旅行を楽しみにしながら東京へ戻ります。




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行秋のお江戸・浜離宮恩賜庭園探訪

2015年11月06日 16時37分06秒 | 中央区・歴史散策
秋晴れの下、久しぶりにお江戸の名勝として知られる浜離宮恩賜庭園へ行ってきました。というのも大江戸散策徒然噺の散策イベントで浜離宮恩賜庭園のガイドをするための下見を兼ねての訪問です。
前回の訪問からおよそ1年以上は経過していると思います。

浜離宮恩賜庭園

地下鉄大江戸線の汐留駅を降りて浜離宮を目指すのですが、ご存じのように汐留界隈は「シオサイト」と言われる高層ビルが林立するエリアに変貌しています。東京に住んでいても皆目方向が分からないくらいにビル群がひしめき、空も隠れるほどの摩天楼街となっています。

地下鉄から浜離宮への案内指示に従って地上にでるのですが、まったく方向がわかりません。もし案内当日にこのありさまではまず道に迷ってしまいます。
まずは勘を頼りに浜離宮方面へ歩を進めます。幸運にも勘が当たったのですが、浜離宮の大手門付近はなにやら大きな工事をしているらしく、簡単に道を横切れない状況です。

ひとまずもと来た道を引き返し、今度は中の御門へ向かう道筋を探します。ここで気が付いたのですが、大手門を目指すよりはビルの谷間を抜けて、中の御門へ向かう方が道路の横断がたやすくできることでした。

中の御門から入城して、園内を一周して大手門から退場しても全く問題はありません。

中の御門にも入場券を買う受付があります。私事ですが今月11月下旬で65歳になります。本日11月6日の入場ではありますが、もう65歳と同じなので「65歳です」と告げると入場料は150円になりました。入場券にも65歳以上と入っています。

入場券
浜離宮のパンフレット

さて、中の御門からまずは花木園へと向かいます。ここには大きな東屋があり休憩場所になっています。そんな東屋の傍らに小さな茶屋が店を構えていました。以前はなかったのですが、新しくできたようです。

茶屋

さて、ここ浜離宮について簡単に説明しておきましょう。
この庭園ができたのは江戸時代の承応3年(1654)に甲府宰相綱重公がそれまで徳川将軍家の鷹狩場であった場所を埋めたてて造ったのが始まりです。
この綱重公は三代将軍家光公の子供で異母兄弟には四代将軍になった家綱公と五代将軍になった綱吉公がいます。
ということはこの綱重公だけが将軍になれなかった人物なのですが、順当にいけば当然将軍になった方です。しかし不幸にも四代将軍家綱公が亡くなる2年前に綱重公は亡くなってしまったのです。

異母兄弟の家綱公が慶安4年(1651)に将軍に宣下されたのはまだ11歳の頃です。次男である綱重公は家綱公が将軍になったときはまだ7歳の坊やですが、将軍の兄弟ということで幕府は綱重公に破格の待遇を与えています。なんと若き綱重公に甲斐の甲府に25万石を与え、徳川御三家に準ずる家紋大名としたのです。

ですから綱重公がここ浜離宮に土地を拝領したのは10歳の時なのです。当時は浜離宮という名称ではなく、綱重公の別宅として甲府お浜御殿と言われていました。
しかし、思いもよらず綱重公の子供の綱豊が六代将軍家宣となります。家宣公は将軍になるや否や、父である綱重が造ったお浜御殿を徳川将軍家直属の屋敷庭園に格上げし、むしろ江戸城の出城のような性格にしてしまったのです。

これ以降、お浜御殿は将軍家のお庭として、将軍や御台所の遊興の場、さらには朝廷からの勅使の饗応の場としての役割を担い、徳川幕府終焉の幕末まで存続したのです。

将軍家のお庭は明治維新を迎えてから新政府の迎賓館として姿を変えていきます。これによって浜離宮と名を変えていきます。

そんな歴史を思い浮かべながらお庭の散策とまいりましょう。

花木園から木々に覆われた道筋を辿っていきましょう。



木々に覆われた道筋を抜けると目の前に現れるのが浜離宮の中でも中心的な場所である「潮入り池(大泉水)」です。
その池のほとりにはかつて置かれたいた茶屋が復元されています。一つは松の茶屋です。

松の茶屋

もう一つが燕の茶屋です。以前来たときはこの茶屋はなかったのですが、まだ復元されて間もないような佇まいです。

燕の茶屋

この2つの茶屋は昭和19年まではオリジナルとして残っていたのですが、戦争末期の米軍の空襲で焼失してしまったのです。
かつての装いで復元されているのですが、外見は白木の白さが目立ち、それほど趣を感じません。難を言えば、ガラス戸になっているのが何とも無粋なのです。
いたしかたありません。なにせ平成の時代の建材を使っての復元ですから……。

それでは潮入り池に架かる「お伝い橋」を渡ることにしましょう。

お伝い橋

お伝い橋の上からは潮入り池の広がりと池の端の景色が一望できます。

潮入り池
潮入り池
燕の茶屋
小の字島

お伝い橋を進んで行くとなかほどの中の島へと繋がります。中の島には大きな茶屋があり、ここでは有料の茶菓子を提供しています。江戸時代にもここに茶屋が置かれ、将軍、御台所がここから庭を眺めたと言われています。

中の島茶屋
中の島茶屋
中の島茶屋

お伝い橋を渡りきると、前方に小高い築山が現れます。これが富士見山です。階段があるので登っています。富士見と名付けられているので、かつてはここから富士山を遠望できたのでしょう。今では高層ビル群が邪魔をして富士山を見ることはできません。

富士見山から
富士見山から

富士見山を下り、道筋を右手へ進むと運河の縁へと出てきます。江戸時代にはここは江戸湾に面していた場所です。

運河の縁

運河の縁から再び潮入り池へと戻り、少し進むとかつて「海手茶屋」があった場所にでてきます。

海手茶屋跡

もしかしたらこの場所に海手茶屋が復元されるかもしれませんね……。
この辺りで潮入り家に架かるもう一つの橋である「海手お伝い橋」を渡り反対側へ移動します。
すると前方に面白い形の築山が見えてきます。

築山

これは江戸時代にここで鴨狩を行った場所で、庚申堂鴨場と呼ばれています。
この鴨場には潮入り池とは別の独立した池があります。この池は当時から鴨の生息場所だったようです。
そんな鴨を狩るためにつくった仕掛けといったほうがいいのかもしれません。

鴨場の仕掛け

鴨場を過ぎると前方に別の築山が見えてきます。樋の口山と呼ばれています。この場所も当時は江戸湾の美しい景色をながめるためにつくられた展望台です。

樋の口山

この樋の口山の側には新樋の口山と呼ばれる別の築山があります。樋の口山には登れませんが、新樋の口山には登ることができます。築山の上から右手を眺めるとレインボーブリッジが見えます。

新樋の口山から

新樋の口山へ登る手前にあるのが「水門」です。この水門は江戸時代からあるもので、海水を取り込むためのもので、潮の干満による水位の高さで潮入り池の様子が変わるように調整していたようです。

水門

新樋の口山を下り、運河の縁を進むと階段状の石段が見えてきます。ここが「将軍お上がりの場」と言われている場所です。
当時から水辺にあったのですが、水辺に造られていたということは、船がこの場所に着いたことを意味します。
しかも「将軍お上がりの場」ということですから、将軍だけが使用した船着き場といえます。

将軍お上がりの場
将軍お上がりの場

六代将軍家宣公以降の各将軍がお浜御殿に来る際、必ず船を使ったかは定かではありませんが、将軍家には将軍専用の御座船があります。その御座船を直接この「お上がりの場」に接岸したのかどうか。

六代将軍家宣公以降、13代家定公まではここお浜御殿はさぞ楽しい場所だったに違いありません。しかし14代家茂公と15代慶喜公にとっては悲しく、やるせない場所になってしまいます。

家茂公は幕末の長州征伐のため大阪に滞在中、21歳の若さで急死してしまいます。そして遺骸は大坂から船で運ばれ、ここお浜御殿の将軍お上がりの場に着いたのです。
また、慶喜公は慶応4年1月の鳥羽伏見の戦いで官軍に敗れ、大阪から船で江戸に逃げ帰ってきます。そして着いたのがここお浜御殿の将軍お上がりの場です。

浜離宮庭園の散策も将軍お上がりの場を過ぎると終盤を迎えます。将軍お上がりの場の側には現代の船着き場があります。この船着き場は浅草とお台場を結ぶ水上バスと東京観光汽船の船が発着します。

さあ!大手門へ向けて進んでいきましょう。前方にはシオサイトの高層ビル群がまるで屏風のように立ちふさがっています。



大手門に着く手間に見事な松の木が現れます。300年の松と呼ばれているものです。この松は六代将軍の家宣公がここを将軍家の専用の庭にしたときにお手植えされたものと言われています。そう考えれば確かに300年は経っています。

300年の松
300年の松

300年の松を過ぎると、お浜御殿の正門として使われていた大手門に到着です。

大手門

秋晴れのこの日、平日の浜離宮ですが、園内にはたくさんの外人旅行客が訪れていました。日本人よりもはるかに多い数です。
都心のど真ん中に位置し、且つ外国人に人気の築地中央卸売市場(築地魚河岸)にも近いことで、浜離宮はアクセスしやすいのでしょう。いずれにしても美しく整備された浜離宮は私たち日本人にとっても自慢できる名勝・史跡です。





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琵琶湖を見下ろす優雅な城・国宝彦根城

2015年11月06日 08時56分01秒 | 国宝指定の城めぐり~姫路城・彦根城・犬山城・松本城~
平成26年11月13日訪問

近世の城で天守が残っているのは、弘前、松本、犬山、丸岡、彦根、姫路、備中松山、松江、丸亀、松山、宇和島、高知の12城で、この中で国宝に指定されているのは松本、犬山、彦根、姫路のわずか4城です。
※平成27年(2015)7月8日に新たに松江城が国宝に指定されたので、現在は5城になっています。

彦根城天守

かねてより国宝に指定されている城(天守)はすべて見たいと考えていました。すでに犬山、松本の2城を見たので、残りは彦根と姫路の2城です。私たちの今回の旅では、京都の観光もさることながら、お隣の県の滋賀県にある彦根城の見学は最大の目的です。

そんなことで京都から7時1分のJR京都線の新快速に乗り、彦根城のある彦根へと向かいました。(所要54分)
途中、山科、大津、石山、草津、近江八幡などゆっくり見て回りたい地名が次から次へと出てきます。
ちなみに今回は彦根から京都に戻る途中に、近江八幡で下車して市内散策と近江牛を食べることを予定しました。

列車は7時55分に彦根駅に到着しました。地方都市といった小ぢんまりとした印象の駅前です。駅前のロータリーには彦根藩初代藩主の井伊直政公の騎馬像が置かれており、さすが彦根藩35万石の雄藩を標榜しているといった感じです。

とはいえ現在の彦根城下はそれほど発展しているとは思えないのですが、駅前からほぼ一直線の道筋はこれから向かうお城へと延びています。それらしい商店や居酒屋などは駅前のほんの一区画に集中しているだけで、これを過ぎると道筋は閑散となり、右手に彦根市役所が現れます。

駅からおよそ530mほどの距離を歩くと、T字路となる護国神社前の信号交差点にさしかかります。ここまでくるとお城は目と鼻の先です。この信号交差点で左折すると、右手に彦根観光センターと大型バス専用の駐車場が現れます。

彦根城マップ

さあ!ここから登城とまいりましょう。
お城へとつづく一直線の道筋の左側は掘割(中堀)になっていて、その堀に沿って美しい松並木がつづきます。この松並木は「いろは松」と呼ばれています。かつて47本あったことからこう名付けられたといいますが、現在は34本が残っています。中堀の向こうに長くつづく石垣と若干色づいた木々の葉が美しい光景を描き出しています。

さて、この彦根城ですが現在の場所に築城されたのは井伊家二代藩主である直継公の時代の慶長11年(1606)の頃です。これ以降、彦根藩は藩主が入れ替わることなく、幕末まで17人の藩主が彦根藩を治めていました。
そんな藩主の中で、とりわけ歴史に名を残したのが御存じ16代藩主の井伊直弼でしょう。

嘉永3年(1850)、直弼は兄直亮の死去によりはからずも藩主となった。そして13代将軍徳川家定の将軍継嗣問題で南紀派に属し、一橋慶喜ら一橋派と対立し、家茂の14代将軍就任に多大なる貢献をしたのです。
そして安政5年(1858)に大老に就き、勅許を得ず日米修好通商条約に調印してしまいす。これを口実として詰問に出た旧一橋派要人を隠居させ、併せて言論人への死罪等を含む安政の大獄といわれる強権の発動を行ったことは世に知られています。その結果、攘夷派からの反発を招き、万延元年(1860)に桜田門外で水戸藩脱藩浪士たちに暗殺されたのです。
良くも悪くも幕末の歴史の一頁を飾った井伊家(直弼)ですが、彦根ではまさしく名君としていまでも慕われているようです。

中堀にて

左側の中堀が途切れるあたりが、かつて城門があった佐和口です。ここからは二の丸佐和口多門櫓を間近に見ることができます。

佐和口多門櫓

そして右手には中堀と長く続く白壁と石垣が美しい多門櫓を見ることができます。



佐和口の城門を入ると、左右に石垣がつづき、すぐ右手にもう一つの櫓が現れます。



道筋はこの先でT字路となり、内堀へとでてきます。T字路を左折すると、左側はかつての馬屋の建物です。私たちが訪れた時は修復中で建物の全貌を見ることができませんでした。

さあ!お城の表門橋に到着しました。

表門橋付近で
表門橋にて
表門橋の上から

表門橋を渡ると広場が現れ、これを進むと左手に管理事務所があります。ここで入場料を支払います。

表門橋を渡ったところ

それでは天守へと向かうことにします。
天守への道筋はすぐになだらかな坂道になります。これが表門山道と呼ばれているものです。彦根城は山城なので、天守は彦根山のてっぺんに置かれています。このため天守への道のりは当然坂道、石段がつづくことになります。

表門山道にて

私たちは朝一番の登城なので、観光客はほとんどいません。独り占めといったところです。晩秋の朝、快晴の下ですが空気が冷たく感じます。

そんな坂道を進んで行くと、木々の間から一つの櫓が見えてきます。




さらに坂道を登っていくと、橋が架けられた櫓が現れます。この橋は非常時には落とし橋になるものですが、この橋を中心にして左右対称に櫓がつけられています。まるで天秤のような形をしていることで「天秤櫓」と呼ばれています。

天秤櫓前にて
天秤櫓
天秤櫓前にて

天秤櫓をくぐり、次の坂道を登っていくと左手に鐘楼堂が現れます。「時報鐘(じほうしょう)」と呼ばれるもので、今でも定時に鐘がつかれ、「日本の音風景百選」に選ばれています。

時報鐘

この鐘は幕末の頃の12代藩主であった直亮の時に、より美しい音色にしようと鋳造の折、大量の小判が投入されたと言われています。

さあ!天守にいたる最後の坂道をのぼると、太鼓門櫓です。

太鼓門櫓

太鼓門櫓をくぐると、いよいよ正面に美しい天守が現れます。

彦根城天守

彦根城の天守は、長方形(梁行に対して桁行が長い)で、表門から登ると目に入る東の面や、琵琶湖側から望む西の面は、そそり立ち端正な佇まいを見せます。逆に南、北の面はどっしりと幅が広く安定した面もちです。また、一層目は、大壁の下に下見板が取り付けられ、窓は突き上げ戸になっています。

本丸跡にて
本丸跡にて
彦根城天守
彦根城天守

それでは国宝天守へと入ります。平日の朝早い時間帯ということもあり、ここまでの道筋を辿ってきても誰一人あいません。
ということは天守も独り占めということになります。
入口で靴を脱いで天守内部へと進みます。天守内も晩秋の空気に満ちて、ひやっとしています。スリッパもないので床の冷たさが足元から伝わってきます。

いつも思うのですが、これまで多くの復元天守に登ってきましたが、そのほとんどは靴を脱ぐことなく内部を観覧することができました。というのも復元ですから内部は現代の建築工法で出来上がっているので、木材を多用することはありません。
そのため天守を支える太い柱や梁などは復元天守では見ることができません。

しかしこれまで見てきた犬山、松本の城はオリジナルのままの天守であることから、その内部は当然のことながら各層の床は木材であり、柱や梁は当時のままの太い木材が残っています。
そんな創建時の姿を残す国宝天守のよさは、使われている木材の古さと温かみではないでしょうか。
そしてかつて兵どもが甲冑を見に纏い、急こう配の階段を上り下りをした時代に思いをめぐらすことができるのが国宝天守なのです。

天守最上階にて

天守最上階からは35万石の藩主が眺めたであろう同じ景色が眼下に広がります。晩秋の青空の下、遠く琵琶湖の湖面が一望できます。

天守からの眺め
天守からの眺め

琵琶湖から吹き込む晩秋の冷気を肌で感じながら、最後に「ひこにゃん」と記念撮影をして、後ろ髪を引かれる思いで下城することにしました。

ひこにゃんと

木曽川ほとりの山城「国宝・犬山城と城下町探訪」~風薫る新緑に映える名城~
天下の名城・国宝松本城
白鷺の如く美しい姿を見せる「姫路城」



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白鷺の如く美しい姿を見せる「姫路城」

2015年11月01日 10時07分27秒 | 国宝指定の城めぐり~姫路城・彦根城・犬山城・松本城~
京都滞在2日目のこの日、我が国日本で国宝に指定されている「城」の中で唯一訪問していなかった「姫路城」を探訪するため、京都駅発7時14分の新快速に飛び乗り、一路姫路へと向かいました。

姫路城

京都以西への在来線での列車の旅は久しぶりのこと。車窓からは大阪市内、六甲の山並みそして須磨海岸と明石大橋などの景観を楽しむことができました。姫路駅到着は8時50分。

JR姫路駅前

モダンな駅舎をでると、目指すお城まで太い通りが一直線に伸びています。

姫路メインストリート

姫路駅北口からメインストリートを歩くこと約1kmで姫路城前信号交差点にさしかかります。この信号交差点を渡ると、いよいよ大手門から登城開始です。
大手門にさしかかる辺りに、なにやら侍の一団が控えています。さすが姫路城の演出なのかと思いきや、なんと映画「超高速・参勤交代」の続編の撮影とのこと。
お城に大名行列の侍の姿はめったに見られない光景ということで、エキストラの方々と一緒に記念撮影をしました。

超高速・参勤交代
超高速・参勤交代
超高速・参勤交代

大手門をくぐると、かつての三の丸。現在は広場になっていますが、ここからは美しい姫路城の天守を遠望することができます。

三の丸からの天守

三の丸の縁に沿って入城口へと進んで行きます。

入城券
姫路城パンフレット
三の丸からの天守

さあ!いよいよ登城とまいりましょう。お城の表玄関である菱の門へと進んでいきます。

さて、江戸時代に入って最初に姫路藩を立藩したのが池田輝政公です。輝政公は姫路に入封する前は三河吉田15万国の大名だったのですが、関ヶ原の戦いの戦功によって破格の播磨52万国を与えられたのです。そして築城されたのが姫路城です。

歴代藩主は初代藩主の池田輝政の池田家、本多家、松平(奥平)家、松平(越前)家、榊原(松平)家、松平(越前)家、本多家、榊原家、松平(越前)家、酒井家と目まぐるしく変わります。藩の石高は初代藩主の池田家は52万石ですが、その後は15万石と減封されています。52万石当時に造られた姫路城を抱え、15万石の身分では釣り合わない姫路藩は常に藩の財政は厳しかったようです。
思えば15万石でよくぞこの巨大な城郭を維持したと感心するばかりです。

菱の門
菱の門
菱の門にて

菱の門をくぐると、天守がさらに間近に迫ってきます。

姫路城天守
天守へ
天守へ
天守へ
天守へ
天守へ
天守へ
天守へ

それでは天守内部へと進みます。天守は地階から六階までの七層構造です。これまで国宝に指定された彦根城、松本城、犬山城を訪れましたが、それぞれの城ごとにその素晴らしさを味わってきました。しかしそれらの規模と重厚さはこの姫路城には遠く及ばずといった印象です。
天守内の造りはどこの城でも同じなのですが、その規模の大きさは格段に違い、使用されている木材の太さなど目をみはるものがあります。そして木材だけでこの巨大な天守をつくった技術に感嘆するばかりです。

そしていつも思うのですが、戦国から江戸時代に築城された多くの城郭・天守が明治維新政府の廃城令なる愚行によって各地の名城が破却されてしまったことに口惜しさを感じます。明治新政府が封建時代の象徴である城郭を破却しなければ、新しい時代を築けないという理由よりは、むしろ徳川将軍家へのあてつけのように思えてしょうがないのです。
ただもし破却されずに残った城郭や天守も、先の大戦中に米軍の空襲によって焼失してしまったかもしれませんが……。

天守内部
天守内部
天守内部
天守内部
天守内部
天守内部
天守内部
天守内部

天守を辞して、まさに天守直下の広場「備前丸」へと降りてきました。ここから眺める天守はひときわその大きさと美しさを満喫できます。

備前丸からの天守
備前丸からの天守
備前丸からの天守
備前丸からの天守

5年の歳月をかけて行われた平成の大修理によって、姫路城は白鷺の如く、白の漆喰が映える美しい姿に蘇りました。秋晴れの雲一つない青空のもと、まるでブルーのキャンバスに描かれた一幅の絵画のように姫路城が浮かびあがりました。そして姫路城訪問で国宝指定の城郭をすべて見られた達成感を味わうことができました。

おっと!そういえば今年(平成27年)の7月に新たに松江城が国宝に指定されました。そうであれば、近い将来、松江城にいかなけらばなりませな。ちょっと遠いですが……。

木曽川ほとりの山城「国宝・犬山城と城下町探訪」~風薫る新緑に映える名城~
天下の名城・国宝松本城



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行秋の奈良~天平の甍「唐招提寺」

2015年11月01日 07時46分57秒 | 行く秋の奈良探訪
薬師寺のバス亭から徒歩でおよそ460mほど北へ進むと、鑑真和上ゆかりの唐招提寺の南大門前に到着します。

国宝金堂
唐招提寺南大門

南大門脇の受付で拝観料を納めます。

入山料チケット
唐招提寺パンフレット
境内図

南大門から境内へ入ると、幅広い参道がまっすぐに国宝の金堂正面に延びています。漂う空気と雰囲気は薬師寺の境内とはうってかわり落ち着いた雰囲気を醸し出しています。
その大きな違いはまず境内に木々があることと、伽藍・堂宇が彩色されていないことです。
といのも唐招提寺に残る堂宇・伽藍のほとんどが国宝に指定されているため、古の時代の香りが息づいているといった感じなのです。

参道脇に世界遺産・古都奈良の文化財・唐招提寺と刻まれた石碑が置かれています。

石碑前にて
参道にて

天平時代に思いを馳せながら、観光客がまばらな境内をゆっくりと見学し、お堂に鎮座する仏たちと対面します。

美しい姿の金堂に見とれながら参道を進んで行きます。国宝の金堂には薬師如来立像、盧舎那仏坐像、千手観音坐像をはじめ多くの仏が並んでいます。そしてこれらの仏たちのほとんどが国宝です。

金堂の右手には国宝の鼓楼が瀟洒な姿を見せています。

鼓楼

鼓楼の後側には南北に長く連なる建物があります。これは礼堂・東室と呼ばれている建物です。両堂ともに重要文化財に指定されています。南側部分が礼堂、北側部分が東室と呼ばれ、かつて僧侶が起居した僧坊として使用されていました。

東室
礼堂

そして金堂の後ろにあるのが国宝の講堂です。

講堂
講堂から金堂を見る

境内の一番奥の少し高い位置に置かれているのが開山堂です。

開山堂

開山堂には鑑真和上の御身代わり像が安置されています。国宝の鑑真坐像は毎年6月6日の開山忌舎利会の前後三日間のみ御影堂で開帳されます。このため常時、和上のお姿を見られるようにと開山堂内に坐像が鎮座しています。

鑑真和上像

このあと境内の裏手から御影堂の前を通り、鑑真和上御廟へと向かいます。境内裏手の鬱蒼とした木々の間の土道を行くと、美しい土塀が見えてきます。その土塀の途中に御廟への入口があります。

土塀
土塀と門

門を入ると苔むした地肌に木々の間からの木漏れ日が美しく映える敷地が眼前に現れます。

御廟敷地
御廟敷地
御廟敷地
御廟敷地

御廟への参道の先に置かれているのが「和上御廟」です。

御廟
御廟
苔むした御廟敷地

御廟から再び唐招提寺の境内へと戻ります。

するとここにも見事な校倉造りの蔵が二棟ならんでいます。これが唐招提寺の宝蔵と経蔵です。両蔵ともに国宝です。

経蔵
宝蔵
両蔵
境内俯瞰
境内俯瞰

後ろ髪を引かれる思いで唐招提寺を辞して、最寄りの尼ヶ辻駅へと向かうことにします。
線路脇の道を進んで行くと、思いがけず、11代天皇である垂仁天皇の前方後円墳型の御陵を眺めることができました。

垂仁天皇陵
垂仁天皇陵

田園地帯が広がる奈良の飛鳥の地はなんとも長閑な雰囲気を醸し出しでいます。おそらく50年前に訪れた時はこのあたりには民家もなく、周囲を山に囲まれた奈良盆地の美しい景色が広がっていたのでしょう。
そんなことを想起しながら尼ヶ辻駅に到着しました。

尼ヶ辻駅

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