大江戸散策徒然噺 Introducing Japanese culture and history

豊かな歴史に彩られた日本の文化と歴史を紹介

日本の心・九段靖国の杜の桜

2013年03月22日 18時53分42秒 | 千代田区・歴史散策
千鳥ヶ淵からはちょうど靖国通りを挟んで反対側に我が国の英霊を祀る靖国神社の杜が広がっています。

靖国神社「神門」と桜

まずは大鳥居から参道を進むことにしました。広い参道の両側にはこの時とばかりに屋台のオンパレード。

大鳥居と桜
参道の屋台と桜

さすがに内宮に入ると屋台は姿を消し、やっと神域が近くなってきたことを実感します。
そして大きな菊の御紋章の神門の向こうに満開の桜が見えてきます。神門をくぐると拝殿前広場は一面の桜の花で埋め尽くされています。靖国の標準木もすでに満開です。

靖国の桜
靖国の桜
標準木
遊就館と桜
到着殿と桜

参集殿前を進み、遊就館を右に見ながら靖国の一番奥にある神池へと向かうことにしました。神池へつづく道筋にも満開の桜が現れます。

靖国の神池

神池周辺にはそれほど多くの桜の木はありませんが、見事な枝垂れ桜は枝いっぱいに満開の花をつけています。

神池の桜
参集殿脇の桜

靖国という日本人にとってはたいへん重要な場所に咲く桜は、ほかの場所でみる桜とは趣を異にします。
観桜を終えて、改めて拝殿で我が国の護国を英霊にお祈りしました。

新緑の江戸城・田安門と清水門を訪ねて~江戸城・北の丸界隈~
大江戸桜だより・靖国の杜の桜(4月6日現在)
新緑の靖国の杜で「零戦」の雄姿に対面





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感動!感嘆!感激!九段・田安門と千鳥ヶ淵の満開の桜

2013年03月22日 18時00分29秒 | 千代田区・歴史散策
昨日に引き続いてお江戸の花見の名所巡りに出かけました。

隅田川墨堤、上野の山がほぼ満開を迎えているのであれば、当然皇居周辺の花見の名所である田安門から千鳥ヶ淵の桜も今が盛りと咲き誇っているに違いない、と早速出かけました。

地下鉄九段下駅の改札を出ると、もうたくさんの人の流れが千鳥ヶ淵へと向かっています。

地上出口に出ると歩道は人、人、人の大混雑。ちょうど専修大学の卒業式が終わり、たくさんの学生さんがその混雑に加わり人を見に来たのか、桜を見に来たのかと戸惑うばかりの賑わいです。

混雑をかき分けて、田安門への入口にくると、誰もが知ってる「牛ヶ淵」の観桜の名所に辿りつきます。お濠端に広がる満開の桜にまずは感動! 
毎年訪れる場所なのですが、いつ見ても素晴らしい光景です。

九段・牛ケ淵の桜
九段・牛ケ淵の桜
九段・牛ケ淵の桜
田安門の桜

後ろ髪を引かれる思いで靖国通りに沿って千鳥ヶ淵の桜並木へと向かうことにします。
靖国通りに沿ってつづく桜並木もすでに満開です。

品川弥二郎像と桜
靖国通り

ものすごい人出を予想していたのですが、平日にもかかわらず千鳥ヶ淵の遊歩道入口からラッシュアワー並みの人混みです。

千鳥ヶ淵遊歩道
千鳥ヶ淵

遊歩道入口からも遥か彼方までつづく桜のトンネルを見ることができます。歩を進めていくにつれてお濠を挟んだ向こう側の斜面にまるで白い絵の具を吹きかけたような淡い色合いの桜が咲き誇っています。

千鳥ヶ淵
千鳥ヶ淵
千鳥ヶ淵
千鳥ヶ淵
千鳥ヶ淵
千鳥ヶ淵

千鳥ヶ淵の桜は遊歩道側とお濠の向こうの桜を同時に楽しめる良さがあります。
さあ!明日の土曜日は是非、千鳥ヶ淵へお出かけください。

幕末流行の今だから、やっぱり桜田門!【お江戸・幕末桜田の門】
目立たないけど、それなりに癒される御城の御門跡【お江戸日本橋・常磐橋御門】
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江戸城本丸跡の深まる秋景~皇居東御苑~

2012年11月13日 18時03分51秒 | 千代田区・歴史散策
秋の彩りが徐々に色濃くなってきたとはいえ、都心の本格的な秋色は始まったばかりです。そんな色づき始めた秋景を探しに都心の紅葉スポットとして人気のある皇居東御苑へ行ってみました。



広々とした本丸御殿跡の芝生は美しい緑から秋らしい枯色へと装いをかえ、周囲の木々もようやく秋色へと衣替えをし始めています。



東御苑の木々はそのほとんどが常緑樹のため、本丸御殿跡全体が錦繍に染まることはないのですが、それでも紅黄の彩りが緑樹にアクセントを滲ませるように映えています。

秋景1
秋景2

そして鮮やかに色づいた深紅の葉が周囲の黄葉と緑樹と見事なコントラストを描いています。

秋景3
秋景4

ときおり吹く秋風にせっかく色づいた葉が無情にも宙を舞う様子に深まる秋を感じざるをえません。

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100年前の姿に蘇った東京駅丸の内駅舎

2012年09月26日 12時01分44秒 | 千代田区・歴史散策
平成19年(2007)から始まった東京駅丸の内駅舎の保存・復元工事がほぼ終わり、期間中駅舎の周囲に張り巡らされていた目隠しが取り払われ、流麗、華麗な貴婦人のような姿がお披露目されました。



大正3年(1914)に創建された旧駅舎は昭和20年(1945)の米軍の空襲で、駅舎のシンボルでもあった南北のドームと駅舎全体の屋根さらには内装すべてが焼失するという不幸に見舞われました。戦後、駅舎の復興が行われたのですが、かつての姿は失われ、創建当時の美しい姿は忘れ去られていました。

明治ご維新後、都が京都から東京へ遷都され、帝がお住まいになる帝都として「東京」の顔であったかつての赤煉瓦造りの東京駅の姿は陛下がお住まいになる皇居の南を守る神獣「朱雀」のような存在だったのではないでしょうか。

そして戦災で傷ついた朱雀は60年以上の長きに亘ってその傷を癒し続け、今まさにフェニックス(不死鳥)のごとく蘇ったのです。



東京駅丸の内側の丸ビルや中央郵便局が高層ビルへと変貌し、その景観は大きく様変わっています。近代的な高層ビルに囲まれた丸の内駅舎は古き良き時代の面影を今そして未来へと伝える貴重な歴史的建造物として今後も存在感を増していくのではないでしょうか。




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新緑の靖国の杜で「零戦」の雄姿に対面

2012年04月26日 13時02分35秒 | 千代田区・歴史散策
北の丸界隈の散策のあと、新緑に包まれる靖国へ詣でることにしました。大鳥居から本社殿へとつながる参道脇のイチョウの並木は初夏を告げる美しい緑の若葉を纏っています。

青銅大鳥居

いつもながら参道脇の駐車場は東京見物の大型バスでいっぱいになっていました。そんな光景を見ながら第二鳥居の手前左右に立つ大燈籠へと進んでいきます。

これまで何度となく靖国へは訪れているのですが、この大燈籠をつぶさに見ることなく通りすぎていました。よく見ると、基壇部分に見事なレリーフがはめ込まれています。

大燈籠は本社殿に向かって左右に置かれていますが、右側の燈籠基壇には我が大日本帝国海軍が活躍した日清戦争から満州事変までの間の戦闘場面、左側の燈籠基壇には陸軍の戦闘場面を描いたレリーフがはめ込まれています。

終戦直後にGHQによって撤去されそうになったのですが、レリーフを隠す工事を施して逃れることができたといいます。それもそのはずで描かれている場面は我が帝国海軍と陸軍が勝利を収めた戦闘場面ばかりですから、GHQも見過ごすわけにはいかなかったのでしょう。

そんなレリーフの中から右側の帝国海軍の名場面を2枚ご紹介しましょう。一枚目は日露戦争のときの日本海海戦・戦艦三笠艦橋の東郷元帥閣下と二枚目が同じく日露戦争のときの第二回旅順口閉塞の広瀬中佐の場面です。

戦艦三笠艦橋の東郷元帥閣下
旅順口閉塞の広瀬中佐

NHKのドラマ「坂の上の雲」の中でも印象に残ったロシアバルチック艦隊を殲滅した日本海海戦の東郷元帥と旅順口閉塞作戦で戦死された広瀬中佐の場面が蘇ってきました。

のぼってゆく坂の上の青い天にもし一朶(いちだ)の白い雲がかがやいているとすれば、 それのみをみつめて坂をのぼってゆくであろう。とたとえた名文がふと頭によぎった瞬間でした。

神門

神門をくぐり本社殿で参拝を済ませ、参集殿脇の遊就館へ向かいます。遊就館はこれまでに何度も入館し、我が国の戦争の歴史をつぶさに見させていただいております。そんな遊就館の展示物を見るにつけ、唯一心が痛むのが先の大戦に関わる展示物なのです。

坂の上の雲の一朶(いちだ)の白い雲を追い求め、欧米列強と肩を並べることができた我が国日本が亜細亜の雄に駆け上がった時から、その優秀さをうとんじられ、その結果としてやむにやまれず開戦せざるを得なかった先の大戦の展示は涙なくしては見ることができません。

戦争を美化する気持ちはもうとうありませんが、当時の方々が祖国日本を守るために選択せざるを得なかった「戦争」を知る上で、是非ご覧いただきたいのが「遊就館」です。

零戦
零戦
零戦

その遊就館のロビーに展示されているのが日本帝国海軍が誇った名機「零戦」です。戦争を知らない世代である「私」ですが、零戦を見るにつけ、極限までに無駄をそぎおとしたその美しいフォルムの中に、向かうところ敵なしと謳われた零戦の性能の良さを感じることができます。こんな優れた名機を持ちながら……、と思うのは私だけでしょうか?

蒸気機関車(C56型31号)

さらにロビーには昭和18年にタイ(泰)とビルマ(緬)を結んだ泰緬鉄道の開通式に参加した蒸気機関車(C56型31号)が展示されています。

※遊就館
開館時間:09:00~17:00
休館日:原則として年中無休
拝観料:大人800円・大学生500円・高校/中学生300円・小学生100円

日本の心・九段靖国の杜の桜
新緑の江戸城・田安門と清水門を訪ねて~江戸城・北の丸界隈~
大江戸桜だより・靖国の杜の桜(4月6日現在)
新緑の靖国の杜で「零戦」の雄姿に対面




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新緑の江戸城・田安門と清水門を訪ねて~江戸城・北の丸界隈~

2012年04月26日 11時43分29秒 | 千代田区・歴史散策
仕事で九段下に立ち寄る機会があり、久しぶりに新緑の北の丸界隈を散策してみました。季節は一気に初夏へと移ろい、木々の若葉が陽射しに映えてキラキラと輝いています。ゴールデンウィークが間近に迫る今日、汗ばむ陽気の中で九段下からなだらかな坂を登り、まずは牛ケ淵(濠)を望む田安門へと向かうことにしました。

高燈籠

坂を登りきり、田安門の前を通過すると靖国通り脇に立つのが「高燈籠」です。この高燈籠は靖国神社が所有するものですが、創建は明治3年に遡ります。そもそもの役割は夜間照明のためのもので、常夜灯若しくは灯明台とも呼ばれ、当寺は品川沖を航行する船舶の目標ともなっていたものです。

明治初期に建造されたものなのですが、西洋風に方位盤や風見が付けられているにもかかわらず、日本的な燈籠の趣きも感じられる独特な風情を醸し出しています。

「高燈籠」をあとにして、いよいよ北の丸の入口に構える「田安門」へと向かいます。牛ケ淵に架かる橋を渡ると前方に高麗門が見えてきます。どっしりとした風格のあるこの門は現在、国指定重要文化財に指定されています。

田安門の高麗門

御門の造りは典型的な枡形門を表しています。創建は寛永13年(1636)といいますから三代将軍家光公の御世に遡ります。

田安門の名の由来は、当寺門内には田安台という百姓地があり、その敷地で田安大明神が祀られていたためその門名にしたといわれています。江戸城造営後は北丸と呼ばれ、代官屋敷や大奥に仕えた女性の隠遁所となりました。有名な千姫や春日局、家康の側室で水戸頼房の准母英勝院の屋敷などもこの敷地内にありました。

その後、享保15年(1730)に八代将軍吉宗の第二子宗武が御三卿の一つである田安家を興し、ここに屋敷を構えました。現在の北の丸公園のほぼ西側半分が田安家、そしてもう一つの御三卿である清水家が東側半分を占めていました。

田安門の渡櫓

高麗門をくぐると枡形の広場が現れ、高麗門とほぼ直角に渡櫓が構えています。堂々とした造りの渡櫓は現在江戸城に残る大手門の渡櫓に匹敵するほどの威容を誇っています。

田安門脇の狛犬

この渡櫓を抜けすぐ左手に一対の狛犬が鎮座しています。その狛犬が護る先へ石段が続いています。以前からこの石段の先には何があるのか疑問に思っていたので、ゆっくりと上っていきました。

石段を登りきると、やや広い方形の敷地が現れ、その敷地の中央に四本柱の四方吹き放ちの拝殿とその奥に御社殿らしき建物が一つ置かれています。

弥生廟の拝殿と社殿

実はこの社殿らしきものは「弥生廟」と呼ばれ、警察官・消防官の殉職者を祀るために置かれているものです。そうであればこれは神社なのかというとそうではないらしいのです。

弥生廟

そもそも弥生廟は明治18年(1885)、当時、本郷区(現、文京区)向ヶ岡弥生町にあった警視総監の邸内に弥生神社としてあったそうですが、昭和22年(1947)に現在地に移り、その時に「弥生廟」と名を改めたとあります。

なぜ神社から廟へと名を改めたかというと、終戦後の昭和20年12月にGHQよりのお達しで「国家神道、神社神道ニ対スル政府ノ保証、支援、保全、監督並ニ弘布ノ廃止ニ関スル件」すなわち「神道指令」により、警視庁による神社管理ができなくなったためでした。

このことは靖国神社の現在の境遇と似ているように思えますが、いずれも占領軍であったGHQによる神社神道の国家護持の廃止に伴う理不尽きわまる措置のように思えます。

昭和天皇御野立所碑

そして弥生廟の傍らに立つのが「昭和天皇御野立所」の石碑です。この碑の由来は実は先の関東大震災(大正12年)後の昭和5年3月26日に震災復興を祝う式典が皇居前広場で天皇陛下のご臨席のもと、挙行されたのですが、これに先立ち3月24日に陛下は東京下町の復興状況を約5時間にわたり視察されました。その第一歩を刻んだのがこの田安門脇の高台だあったことで、ここに「御野立所記念碑」が立てられました。

思えば、現天皇陛下もご高齢、ご病弱をおして精力的に東北の震災地を巡っておられるお姿を拝見するに、父君であられる昭和天皇も関東大震災の被害に心を痛めておられたご様子を伺い知ることができました。

北の丸の田安門に行かれる機会がございましたら、是非「弥生廟」の参拝と併せ、昭和天皇御野立所に立ち寄っていただくことをお勧めいたします。

田安門をあとに若葉の新緑が眩しい北の丸公園を散策しながら、清水門へと向かいます。北の丸公園からは向かうと清水門の渡櫓は幅の広い階段を下った場所に位置しています。

石段上から眺める清水門

創建は寛永元年(1624)といいますから、家光公が征夷大将軍になった年です。門名については,その昔この辺りに清水が湧き出ていたからとか、また古くはこの辺りに清水寺があったことから、清水門と呼んだと伝えられています。この門も国の重要文化財に指定されています。

清水門の渡櫓
石段下から眺める渡櫓

宝暦9年(1759)に9代将軍家重公の第二子重好に一家を創立させた際に、屋敷地の入口である清水門にちなんで清水家と称しました。また幕末の文久3年(1863)の本丸炎上の時には、14代将軍家茂公とその夫人和宮様(静寛院宮)は一時清水家の屋敷に移っていたといわれています。

清水門渡櫓

歴史を感じさせるような石段を下りると重厚感を漂わす渡櫓が構えています。この門の造りも典型的な枡形門で、外敵を容易に進入させない頑強さを伺い知ることができます。

清水門の高麗門と渡櫓

皇居周辺の他の御門に比べると、その立地からなのかそれほど目立った存在ではないのですが、なにやら人知れずひっそりと構えるその佇まいと門をくぐって現れる石段の古さは当時の名残りを色濃くのこしている貴重な存在のように思えます。

ゴールデンウィークの歴史散策のルートにいかがですか?

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復元進む東京駅丸の内駅舎

2012年04月05日 22時39分58秒 | 千代田区・歴史散策
これほどまでの大掛かりな復元工事が行われていたことをご存知でしたか? いつから始まったのかすら覚えていません。というのも常にこの場所は防音壁と足場が組まれ、いったい何の工事をしているのかそれほど気にもしていなかったのが本音なのです。

復元中の東京駅

そんな無頓着な私の目にとまったのが、先日見た新聞のコラムの見出しでした。
「JR東京 :67年ぶり創建時の姿 …赤レンガの丸の内駅舎」(毎日新聞)

 赤レンガで親しまれたJR東京駅丸の内駅舎の外観復元工事がほぼ完成した。1945年の空襲で焼失した3階とドーム部分が復活。1日までに足場や工事用シートの大部分が除去され、67年ぶりに創建当時の姿がよみがえった。
 同駅舎は924万個のレンガを使って1914年に完成。空襲の2年後に修復工事をしたが、焼失部分は復元せず2階建てのままだった。80年代に復元機運が高まり、07年から焼失以前の姿に戻す工事を進めていた。
 復元後の駅舎は、東日本大震災で被災した宮城・雄勝産の天然スレートを南北ドームなどに使用。尖塔(せんとう)部を含めた高さは46.1メートル、床面積は復元前の約2.2倍の4万3000平方メートルに拡大された。
 今後は内部の工事が進み、6月には現在の仮改札が正規の改札として本格的に使用できるほか、みどりの窓口などが営業を始める。さらに10月には駅舎内の「東京ステーションホテル」も営業を再開する。

こんな記事を見て、恥づかしながらあの工事内容を初めて認識した次第です。工事用シートが外されたと聞いて、野次馬根性丸出しで東京駅丸の内へと出かけてみました。

東京駅南口側駅舎部分

復元工事は継続中で駅舎の下部は防音壁で囲われているため、全容は見ることはできません。しかし、駅舎の上部を見ると、60数年前にあったドーム状の屋根が蘇っています。

駅舎中央部分

赤レンガの駅舎は以前に比べ、やや明るさを取り戻したかのように思えます。それにもまして、スレート葺きのドーム屋根のエキゾチックな雰囲気はまるでヨーロッパの歴史建造物を見ているような錯覚に陥ります。

駅舎中央部分

赤レンガの駅舎の背後には八重洲の高層ビルが借景のように聳え、新旧の絶妙な建築美を楽しむことができます。

赤レンガ駅舎と高層ビル

個人的な希望ですが、完成の暁には丸ビル側の歩道にヨーロッパ的なカフェテラスなんかを作って、そこでお茶などを楽しめるなんていかがでしょうか?




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鯔背な神田、明神様の節分祭

2012年02月03日 17時29分06秒 | 千代田区・歴史散策
お江戸の総鎮守として上は将軍様から下は庶民にいたるまで江戸のすべてを守護されてきた神田明神で本日3日恒例の節分祭が行われました。

鬼の山車

お江戸の時代から「鯔背(いなせ)な神田」と言われ、江戸っ子を表す代名詞ともなっている神田は現在でも「粋」「気っ風」「気質」が息づく江戸風情漂う町人町なのです。

神田明神随身門

雲一つない冬晴れの下、例年になく寒い節分を迎え、時折吹く冷たい北風にさらされながら午後2時から始まる節分祭を待つことにしました。境内には江戸時代に節分の日に町内を練り歩いたといわれる大きな「鬼」の山車が復元されて置かれています。

ご社殿
狛犬と御社殿

午後2時の太鼓の合図でいよいよ明神様の節分会の始まりです。境内は多くの老若男女で埋め尽くされ立錐の余地もありません。開始の合図とともに鯔背(いなせ)を地で行く鳶頭を先頭に、木遣りの声が高らかに聞こえてきます。

鳶頭の行列

粋で鯔背(いなせ)な鳶頭に続いて鬼の装束を着た「赤鬼」と「青鬼」そして縁起のいい「だいこく様」と「えびす様」、さらに古代の武人と行列は続きます。その後ろに今年の年男と年女がなんと400人が裃姿で整然と列をなしていきます。

赤鬼と青鬼
古代の武人
だいこく様とえびす様

行列がすべて社殿内へと進み、宮司の祝詞が唱えられ、最後に全員で二礼・二拍・一礼のお参りです。いよいよ豆まきの儀式かと思いきや、社殿前に吊るされた金色のクス玉をうやうやしく割って大歓声。

行列の最後尾
社殿前のくす玉

そして古代の武人が厳かにも北東及び南東の鬼門と裏鬼門へ向けて「矢」を放つしぐさ(鳴弦の儀)を終えると待ちに待った豆まき(お菓子まき)が始まりました。

鳴弦の儀

初めて参加させていただいた明神様の節分会でしたが、さすがお江戸天下祭りを行う由緒ある神社らしい趣向を凝らした内容でした。

お江戸神田の明神様は江戸城内までくりだした【鯔背な神田の天下祭りと水神様】





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お江戸徳川将軍家の御城「江戸城」~かつての栄華を今にとどめる壮大な城郭~

2011年11月04日 15時07分46秒 | 千代田区・歴史散策
これまでブログで紹介してきたお江戸や徳川家関連の歴史的な名所、旧跡は多々ありますが、忘れてはならない重要な遺産がお江戸のど真ん中にあることを!

桜田巽櫓

その遺産とは開幕の祖・神君家康公の自らの居城であり、その後260有余年にわたって将軍が居住した「城郭」、すなわち江戸城(千代田城)なのです。個人的にはこれまでに何度も訪れたことがあるのですが、都心のど真ん中にありながら周囲の喧騒からまったく隔絶され、豊かな木々の緑と季節ごとに彩りを添える野草と花々、そしてなによりもここが大都会の中心であることを忘れさせてくれるのが森閑とした空気に心地よく響く小鳥たちのさえずりなのです。

そんな雰囲気を漂わせたかつての江戸城(御城)は幕末の慶応4年(1868)の江戸城無血開城により、将軍家の居城から京からお越しになられた天子様(陛下)がお住まいになる御所へと姿を変えていきました。現在、かつての御城の西側部分(吹上部分)は特別な入場許可がないかぎり見学ができない皇居及び宮殿そして宮内庁の庁舎が置かれています。

今回はわずか140年前の幕末まで幕府中枢の重要な建物が並んでいた御城の内郭東側にあたる部分(東御苑)に残る江戸城の残照をご紹介いたします。

登城への入城門は東御苑側の大手門、平河門そして北桔橋門の三門に限られています。今回は大手門から入場することにしました。東京駅の丸の内側から銀杏並木が美しい行幸通りを進みます。かつての和田倉御門を過ぎると前方に美しい姿の櫓が見えてきます。この櫓は今に残る江戸城の城郭建築の中でも美しい姿の建造物の一つとして知られている「桜田巽櫓」です。

大手門

この巽櫓の美しい姿が水面に映える桔梗濠に沿って大手門へと進みます。旧江戸城の正門で慶長12年(1607)に築城の天才と言われた藤堂高虎の手によって建造されたものです。その後、元和6年(1620)に現在のような枡形形式の城門になったといわれています。三百諸侯が威儀を正して登城した門でかつての三の丸、二の丸を経て本丸玄関口へと通じるたいへん重要な門です。

大手門

江戸時代にはここ大手門から登城できる大名は限られており、御三家を筆頭に家格の高い親藩、譜代大名だけが通ることを許されていました。ただしたとえ大大名であっても、その家来たちは大手門外で藩主が戻ってくるのを待たなければなりませんでした。そんな様子は江戸城図会に描かれており、現在の内堀通りは江戸時代には大名の家来たちの待機場所として使われていたのです。

大手門の高麗門を挟んで左側の濠が「桔梗濠」、右側が「大手濠」です。いよいよ高麗門をくぐり登城となりますが、大手門の渡櫓の白壁が無残にも剥げ落ちています。これは本年3月11日の東日本大震災で被害を受けたようです。美しい白壁が大きく欠け落ち痛々しい姿を見せています。

大手門渡櫓

実はこの大手門は江戸時代を通じて数度の被害を受けています。有名な江戸の大火「明暦の大火(1657)」では類焼し、翌年万治元年に再建されています。また元禄16年と安政2年の大地震で被害を受け、その度に修理され明治にいたっています。さらに大正12年の関東大震災でも大きな被害を受けたり、昭和20年の空襲では渡櫓は全焼してしまいます。現在の渡櫓は昭和40年に復元されたものです。

大手門渡櫓

高麗門を抜けると、典型的な枡形門を表すように方形の広場とその広場を見下ろすように渡櫓が待ち構えています。この渡櫓をくぐると内郭部分となるのですが、道はかつての下乗橋へとまっすぐにのびています。この下乗橋があったところにはかつて水を湛えた濠が穿かれていたのですが、現在は埋め立てられてしまい、その面影はありません。

下乗橋の石垣

下乗橋というくらいですから、当時は一部の大大名だけは大手門から駕籠に乗ってこの下乗橋までくることができたのです。そして大大名であっても、この下乗橋手前で駕籠を降りて、その後は徒歩で本丸御殿へと向かわなければならなかったのです。

同心番所

かつて下乗橋があったところには渡櫓が設けられた御門があったのですが、今は石垣しか残っていません。この石垣を抜けた右側に木造瓦葺の建造物が「同心番所」と呼ばれているものです。この同心番所は江戸城の正門である大手門から入城した大名が最初に通る番所で、与力、同心が詰めて警護にあたっていたのですが、主として登城する大名の供の監視に当たっていました。

同心番所を右手に見ながら、登城ルートは大きく左へと折れるとそこにはかつて三の門があったのです。三の門にも渡櫓があり、立派な門が備わっていたのでしょう。三の門を抜けると比較的大きな広場が現れます。この広場の左側に木造瓦葺の長屋風の建物がたっています。

三の門石垣

建物は江戸城内では最大の検問所として機能を持つ施設で「百人番所」と呼ばれています。この番所には当時の忍者部隊である甲賀、根来、伊賀、二十五騎の4組が昼夜交代で護りを固めていました。各組には同心百人づつが配属されていたことから「百人番所」と名付けられていました。

百人番所

これだけの規模の番所がこの場所に置かれているということは、将軍居住の本丸御殿にかなり近づいているということがわかります。この百人番所に対峙するように置かれているのが、それはそれは立派な造りの渡櫓と門が備わっていたであろう石積みが残っています。

中ノ御門

本丸御殿への登城口として使われていた「中ノ御門」です。これまで見た石積みに比較しても、一つ一つの石の大きさの違いは歴然としています。なんとこの石垣に使われている築石の重さは35トン前後の重量を持ち、江戸城内でも最大級の巨石が使用されています。

大番所

中ノ御門を抜けるとまた一つ木造瓦葺の建物が現れます。登城ルート上で最後に置かれた番所で「大番所」と呼ばれています。これまでの同心番所、百人番所と比べ各上の番所で位の高い与力や同心が詰めて警護にあたっていました。

同心番所、百人番所そして大番所と三ヶ所で登城する者を警護するという物々しさは、やはり将軍家が居住する「御城」であるという威厳と権威を無言のうちに表しているように感じます。

大番所を過ぎると、これまでの平坦な道から勾配のある坂道へと変化します。坂道は大きく右へカーブを描きながら、本丸御殿の入口に設けられた「書院大御門」、別名「中雀門」へと続いていきます。坂を登りきった場所に置かれたこの中雀門が最後の御門となるのですが、徳川御三家(尾張、紀伊、水戸)の藩主もここまでは駕籠に乗ってこれるのですが、最終的にはここで下乗し徒歩で本丸御殿へと向かうことになっていました。

中雀門へつづく坂道

いよいよ本丸御殿が目前に迫るこの中雀門にたつと、かつて登城する大名たちがは緊張の中にも威儀をただし、深く深呼吸をしながら静かに歩を進めていく姿が目に浮かんできます。

中雀門跡

現在ではこの中雀門を抜けると広々とした敷地が視界に入ってきますが、かつては白い玉砂利が一面に敷かれた大広間前の広場があった場所なのです。そして大広間の背後には本丸御殿の甍が連なっていました。ちなみに江戸城の本丸御殿とは将軍の居住空間と政庁を兼ねた建物ですが、その構造はいわゆる、表、中奥そして大奥の3つのエリアから構成されていました。表は政庁として行政を司る地域、中奥は主に将軍官邸そして大奥は将軍や将軍夫人の私的空間の場所と区分けされていたのです。よく勘違いされる方がいるのですが、本丸は天守閣のことを指しているわけではありません。

本丸御殿跡俯瞰

今はただただ広い敷地となってしまった本丸御殿跡ですが、その広さは約4万坪もあり、江戸城内では最も高い場所に位置しています。想像するに、京都の二条城御殿の何倍もの壮麗な建物が甍を連ねていたのでしょう。

さて、この本丸御殿の大広間があった場所から少し道をそれて木々が茂る小道へと進んでいきましょう。小道を進んでいくと眼前に「天守閣」とみまがうような三層の櫓が現れます。これが「富士見三重櫓」と呼ばれているもので、あの明暦の大火(1657)以降、再建されなかった江戸城天守の代用として城の中心的建物となった建造物です。富士見と名付けられているように、この櫓からは遥か西方に霊峰富士の高嶺を見ることができたのでしょう。また、南をみれば遥か江戸湾の美しい景色も見えたことでしょう。

木々の間から見る富士見三重櫓

また幕末の上野彰義隊戦争の激戦の様子を、官軍の指揮官であった大村益次郎はこの富士見三重櫓から眺めていたといいます。

それでは再び本丸跡地へと戻りましょう。かつての本丸御殿の西側の縁を歩くと、江戸城内で起こった有名な事件の場所が現れてきます。あの元禄の刃傷事件で有名な浅野内匠頭長矩が吉良上野介義央に切りつけた「松の廊下」です。

松の廊下跡

この松の廊下は本丸御殿の大広間から白書院へと続く長い廊下で、右側は広い庭になっており、廊下の左側は障壁画の壁や襖で、その名の通りに「松の絵」が描かれていました。松の廊下の長さは約55mほどあったようです。いまでこそ木々が茂る場所となってしまいましたが、当時の面影がまったくない現在の姿に時の流れを感じざるを得ません。

松の廊下跡を歩きながら右手を見ると、かつて本丸御殿の甍が連なっていたであろう広い敷地が広がっています。その敷地を横切り反対側の展望台へと向かいます。広い敷地の一角になにやら白い花弁をつける木を見つけました。近づいてみると十月桜がいくつもの花弁を枝に付けていました。

十月桜の花弁

展望台は本丸跡地のちょうど東側の縁に設けられています。ここからは眼下に二の丸御殿跡とその向こうにまるで屏風を立てたかのような大手町界隈の高層ビル群の姿が一望できます。江戸時代であれば大手町の大名屋敷やその向こうに広がる江戸前島の町人町そして江戸湾の白波も見えたことでしょう。

展望台からの景色(1)
展望台からの景色(2)

再び本丸御殿跡地へ戻りましょう。この跡地の中で一番目立つのがかつてここに聳えていた天守の土台石垣である「天守台跡」でしょう。そもそも江戸城の天守が最初に造られたのは開幕後の慶長12年(1607)のことです。この慶長の天守は天守台跡のある場所ではなかったようです。その後、2代将軍秀忠公の時代に天守の建て替えを行うのですが、これがいま天守台跡として残っている場所だったのです。秀忠公の天守は元和9年(1623)に竣工し、五層五階の壮大な天守で元和度の天守と呼ばれています。

天守台跡
天守台石垣

そして三代将軍家光公の時代にに3度目の天守の建て替えを行います。寛永15年(1638)に竣工した天守はそれまでと違い、壁が漆喰塗りではなく黒く塗った銅板張りのため、鎧を着込んだような厳しい姿だったのです。寛永期の江戸城図会を見ると黒い外観の天守が聳えている様子を見ることができます。この寛永度の天守が完成した頃、の家康、秀忠、家光の三代に渡る江戸城の天下普請がほぼ完了したのです。しかしこの豪壮な家光天守も四代将軍家綱公の時代に、あの明暦の大火により焼失してしまうのです。そして以来、江戸城の天守は二度と再建されることがなかったのです。

天守台石垣

現在残る天守台石垣は明暦の大火後、「やっぱり天守があったほうが良い」と考えた幕府が加賀の前田公に命じて新たに築いたもので焼け残ったものではありません。つまり天守の再建を断念した名残なのです。スロープがついている南側が正面で、南北約36m、東西約33mの広さを持っています。

天守台へのスロープ
天守台の上

天守台に登ると、南側にはかつて本丸御殿があった広大な敷地が広がっています。14人の将軍がこの場所でご政道を司り、数多くの幕閣が集い、政策を決定した場所。一方、御殿の一番奥には将軍御台や側室、あまたの女性たちが住む大奥と長局がこの場所に存在していたのです。しかしその栄華の痕跡は今はなく、ただ広い敷地だけが本丸御殿の残照を描いているだけです。

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お江戸駿河台の高台に聳えるビザンチン様式の東京復活大聖堂(ニコライ堂)

2011年02月07日 23時19分20秒 | 千代田区・歴史散策
神田駿河台の高台にはここが日本かと見まがうような素晴らしい歴史的建造物が聳えています。御茶ノ水の聖橋(ひじりばし)からなだらかな坂を下っていくと、かつて日本大学工学部そして中央大学の白門校舎があった場所、所謂、日本のカルチェラタンと呼ばれた学生街が広がっていました。

学生運動華やかりし頃、御茶ノ水界隈にはたくさんの喫茶店と雀荘が並び、日大、中大、明大のノンポリ学生たちが「今日もまた休講」を愉しむように喫茶店や雀荘で時を過ごしていました。そんな私も、当時は中大生。全中闘の本拠地でもあった中央大学は過激派学生によるバリケードで封鎖され、来る日も来る日も休講がつづく異常事態が続いていました。

そんな学生時代を送らざるを得なかった当時、国電御茶ノ水駅の聖橋口からロックアウトされているはずの白門へとむなしく通う毎日、いつも目に飛び込んできたのがニコライ堂のすすけた建物だったのです。その当時はこの建物がいったい何のためのものなのかすら気にとめることもなく、無意識の内にただ眺めていたことを思い出します。思い起こせば、当時のニコライ堂は現在の外観に比べ、かなり黒ずんでいたように記憶しています。



時代が下り中央大学の白門校舎は今はなく、かつての学生街はビジネス街へと姿を変える中で、ニコライ堂は昔と変わらない異国情緒溢れた姿を見せています。



私がこの駿河台のニコライ堂の姿を身近に感じた時がありました。それは旅行会社に就職し、24歳の頃、はじめて東ヨーロッパの正教圏を訪れた時のことです。日本の御茶ノ水にも同じような建築様式の建造物があることを思い出したのです。特にブルガリアのソフィアのアレクサンダー・ネフスキー寺院をはじめとする正教寺院、さらにはリラ僧院、もちろん東ローマ帝国の総本山であったかつてのコンスタンチノープル(現在のイスタンブール)のアヤソフィア寺院の姿を見たときに、御茶ノ水のあの建物は「正教寺院」であることを知ったです。
あの独特の丸みをおびた円蓋とその円蓋をささえる柱が形作るアーチ型はビザンチン様式の最たる特徴です。

ニコライ堂正門
正門から見上げる鐘楼ドーム

日本に正教(オーソドックス)が伝播したのは幕末の文久元年(1861)の頃、ロシアからの伝道者「聖ニコライ」によってもたらされました。いわゆるロシア正教です。
そして1864年には日本で初めてロシア正教の洗礼を受けた日本人が3人現れます。その中の一人がなんと坂本龍馬の従兄弟にあたる方で、その名を沢辺琢磨といいます。
彼、沢辺琢磨は攘夷の志からかロシア人であるニコライを見て日本国を毒する輩と決めつけ、ある日、論争を持ちかけ、あわよくば切捨ててしまおうとニコライのもとへ乗り込んでいったのです。しかしニコライの話を聞くうちにその教えの高尚さに心打たれ、やがて正教会の信仰を熱心に奉ずるようになり、ついには司祭にまでなった方なのです。

そして明治24年(1891)にここ御茶ノ水の高台にビザンチン建築様式の「復活大聖堂」が建立され、ニコライの名に因んで「ニコライ堂」と呼ばれるようになりました。

正面ファサード
庭に置かれた十字架

しかしロシア正教ほど、日本において多難な歴史を歩んだ宗教はありません。それは日本とロシア(ソ連)との関係に因るものです。特にロシアが革命により社会主義を標榜し、社会主義こそ宗教であると豪語したあのスターリンの出現でロシア正教は地下に潜らざるを得ない状況に追い詰められていきます。革命後、60年余りに渡り、本国ソ連では正教は弾圧され正教寺院は荒れるがままの状況が続いていました。こんな状況下では、当然駿河台のニコライ堂も活気が薄れていったのでしょう。私が学生時代の頃は、東西冷戦の真っ只中であったことを考えれば、ロシア正教から生まれた御茶ノ水ニコライ堂はもっとも寂れていたのではないかと思います。

そしてゴルバチョフのペレストロイカによるソ連国内でのロシア正教の復権は、ここ日本のお茶の水ニコライ堂にも福音を施したはずです。1992年からお茶の水ニコライ堂の修復工事が始まります。約9年間の工事によって、外壁の塗り替えやさび付いた十字架の架け替えなどが施され、美しい姿に生まれ変わったのです。

正面ファサードのフレスコ画
美しい円蓋
聖ニコライチャペル
庭の片隅に置かれた聖像の頭部

以前、信者ではない私が日曜日のミサにお邪魔してニコライ聖堂内部に入ったことがあるのですが、ロシアで訪れた正教寺院と同じ様な雰囲気と香りを感じたことを思い出します。板に描かれた聖像「イコン」が壁に掲げられ、燭台に灯された蝋燭の炎が堂内に煌く様子はカソリック教会では見られない独特な荘厳さを感じます。
尚、ロシアの正教寺院の建物は「玉葱型」のドームが一般的で、ニコライ堂のような円蓋は見た事がありません。




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