これまでブログで紹介してきたお江戸や徳川家関連の歴史的な名所、旧跡は多々ありますが、忘れてはならない重要な遺産がお江戸のど真ん中にあることを!
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桜田巽櫓
その遺産とは開幕の祖・神君家康公の自らの居城であり、その後260有余年にわたって将軍が居住した「城郭」、すなわち江戸城(千代田城)なのです。個人的にはこれまでに何度も訪れたことがあるのですが、都心のど真ん中にありながら周囲の喧騒からまったく隔絶され、豊かな木々の緑と季節ごとに彩りを添える野草と花々、そしてなによりもここが大都会の中心であることを忘れさせてくれるのが森閑とした空気に心地よく響く小鳥たちのさえずりなのです。
そんな雰囲気を漂わせたかつての江戸城(御城)は幕末の慶応4年(1868)の江戸城無血開城により、将軍家の居城から京からお越しになられた天子様(陛下)がお住まいになる御所へと姿を変えていきました。現在、かつての御城の西側部分(吹上部分)は特別な入場許可がないかぎり見学ができない皇居及び宮殿そして宮内庁の庁舎が置かれています。
今回はわずか140年前の幕末まで幕府中枢の重要な建物が並んでいた御城の内郭東側にあたる部分(東御苑)に残る江戸城の残照をご紹介いたします。
登城への入城門は東御苑側の大手門、平河門そして北桔橋門の三門に限られています。今回は大手門から入場することにしました。東京駅の丸の内側から銀杏並木が美しい行幸通りを進みます。かつての和田倉御門を過ぎると前方に美しい姿の櫓が見えてきます。この櫓は今に残る江戸城の城郭建築の中でも美しい姿の建造物の一つとして知られている「桜田巽櫓」です。
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大手門
この巽櫓の美しい姿が水面に映える桔梗濠に沿って大手門へと進みます。旧江戸城の正門で慶長12年(1607)に築城の天才と言われた藤堂高虎の手によって建造されたものです。その後、元和6年(1620)に現在のような枡形形式の城門になったといわれています。三百諸侯が威儀を正して登城した門でかつての三の丸、二の丸を経て本丸玄関口へと通じるたいへん重要な門です。
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大手門
江戸時代にはここ大手門から登城できる大名は限られており、御三家を筆頭に家格の高い親藩、譜代大名だけが通ることを許されていました。ただしたとえ大大名であっても、その家来たちは大手門外で藩主が戻ってくるのを待たなければなりませんでした。そんな様子は江戸城図会に描かれており、現在の内堀通りは江戸時代には大名の家来たちの待機場所として使われていたのです。
大手門の高麗門を挟んで左側の濠が「桔梗濠」、右側が「大手濠」です。いよいよ高麗門をくぐり登城となりますが、大手門の渡櫓の白壁が無残にも剥げ落ちています。これは本年3月11日の東日本大震災で被害を受けたようです。美しい白壁が大きく欠け落ち痛々しい姿を見せています。
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大手門渡櫓
実はこの大手門は江戸時代を通じて数度の被害を受けています。有名な江戸の大火「明暦の大火(1657)」では類焼し、翌年万治元年に再建されています。また元禄16年と安政2年の大地震で被害を受け、その度に修理され明治にいたっています。さらに大正12年の関東大震災でも大きな被害を受けたり、昭和20年の空襲では渡櫓は全焼してしまいます。現在の渡櫓は昭和40年に復元されたものです。
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大手門渡櫓
高麗門を抜けると、典型的な枡形門を表すように方形の広場とその広場を見下ろすように渡櫓が待ち構えています。この渡櫓をくぐると内郭部分となるのですが、道はかつての下乗橋へとまっすぐにのびています。この下乗橋があったところにはかつて水を湛えた濠が穿かれていたのですが、現在は埋め立てられてしまい、その面影はありません。
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下乗橋の石垣
下乗橋というくらいですから、当時は一部の大大名だけは大手門から駕籠に乗ってこの下乗橋までくることができたのです。そして大大名であっても、この下乗橋手前で駕籠を降りて、その後は徒歩で本丸御殿へと向かわなければならなかったのです。
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同心番所
かつて下乗橋があったところには渡櫓が設けられた御門があったのですが、今は石垣しか残っていません。この石垣を抜けた右側に木造瓦葺の建造物が「同心番所」と呼ばれているものです。この同心番所は江戸城の正門である大手門から入城した大名が最初に通る番所で、与力、同心が詰めて警護にあたっていたのですが、主として登城する大名の供の監視に当たっていました。
同心番所を右手に見ながら、登城ルートは大きく左へと折れるとそこにはかつて三の門があったのです。三の門にも渡櫓があり、立派な門が備わっていたのでしょう。三の門を抜けると比較的大きな広場が現れます。この広場の左側に木造瓦葺の長屋風の建物がたっています。
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三の門石垣
建物は江戸城内では最大の検問所として機能を持つ施設で「百人番所」と呼ばれています。この番所には当時の忍者部隊である甲賀、根来、伊賀、二十五騎の4組が昼夜交代で護りを固めていました。各組には同心百人づつが配属されていたことから「百人番所」と名付けられていました。
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百人番所
これだけの規模の番所がこの場所に置かれているということは、将軍居住の本丸御殿にかなり近づいているということがわかります。この百人番所に対峙するように置かれているのが、それはそれは立派な造りの渡櫓と門が備わっていたであろう石積みが残っています。
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中ノ御門
本丸御殿への登城口として使われていた「中ノ御門」です。これまで見た石積みに比較しても、一つ一つの石の大きさの違いは歴然としています。なんとこの石垣に使われている築石の重さは35トン前後の重量を持ち、江戸城内でも最大級の巨石が使用されています。
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大番所
中ノ御門を抜けるとまた一つ木造瓦葺の建物が現れます。登城ルート上で最後に置かれた番所で「大番所」と呼ばれています。これまでの同心番所、百人番所と比べ各上の番所で位の高い与力や同心が詰めて警護にあたっていました。
同心番所、百人番所そして大番所と三ヶ所で登城する者を警護するという物々しさは、やはり将軍家が居住する「御城」であるという威厳と権威を無言のうちに表しているように感じます。
大番所を過ぎると、これまでの平坦な道から勾配のある坂道へと変化します。坂道は大きく右へカーブを描きながら、本丸御殿の入口に設けられた「書院大御門」、別名「中雀門」へと続いていきます。坂を登りきった場所に置かれたこの中雀門が最後の御門となるのですが、徳川御三家(尾張、紀伊、水戸)の藩主もここまでは駕籠に乗ってこれるのですが、最終的にはここで下乗し徒歩で本丸御殿へと向かうことになっていました。
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中雀門へつづく坂道
いよいよ本丸御殿が目前に迫るこの中雀門にたつと、かつて登城する大名たちがは緊張の中にも威儀をただし、深く深呼吸をしながら静かに歩を進めていく姿が目に浮かんできます。
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中雀門跡
現在ではこの中雀門を抜けると広々とした敷地が視界に入ってきますが、かつては白い玉砂利が一面に敷かれた大広間前の広場があった場所なのです。そして大広間の背後には本丸御殿の甍が連なっていました。ちなみに江戸城の本丸御殿とは将軍の居住空間と政庁を兼ねた建物ですが、その構造はいわゆる、表、中奥そして大奥の3つのエリアから構成されていました。表は政庁として行政を司る地域、中奥は主に将軍官邸そして大奥は将軍や将軍夫人の私的空間の場所と区分けされていたのです。よく勘違いされる方がいるのですが、本丸は天守閣のことを指しているわけではありません。
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本丸御殿跡俯瞰
今はただただ広い敷地となってしまった本丸御殿跡ですが、その広さは約4万坪もあり、江戸城内では最も高い場所に位置しています。想像するに、京都の二条城御殿の何倍もの壮麗な建物が甍を連ねていたのでしょう。
さて、この本丸御殿の大広間があった場所から少し道をそれて木々が茂る小道へと進んでいきましょう。小道を進んでいくと眼前に「天守閣」とみまがうような三層の櫓が現れます。これが「富士見三重櫓」と呼ばれているもので、あの明暦の大火(1657)以降、再建されなかった江戸城天守の代用として城の中心的建物となった建造物です。富士見と名付けられているように、この櫓からは遥か西方に霊峰富士の高嶺を見ることができたのでしょう。また、南をみれば遥か江戸湾の美しい景色も見えたことでしょう。
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木々の間から見る富士見三重櫓
また幕末の上野彰義隊戦争の激戦の様子を、官軍の指揮官であった大村益次郎はこの富士見三重櫓から眺めていたといいます。
それでは再び本丸跡地へと戻りましょう。かつての本丸御殿の西側の縁を歩くと、江戸城内で起こった有名な事件の場所が現れてきます。あの元禄の刃傷事件で有名な浅野内匠頭長矩が吉良上野介義央に切りつけた「松の廊下」です。
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松の廊下跡
この松の廊下は本丸御殿の大広間から白書院へと続く長い廊下で、右側は広い庭になっており、廊下の左側は障壁画の壁や襖で、その名の通りに「松の絵」が描かれていました。松の廊下の長さは約55mほどあったようです。いまでこそ木々が茂る場所となってしまいましたが、当時の面影がまったくない現在の姿に時の流れを感じざるを得ません。
松の廊下跡を歩きながら右手を見ると、かつて本丸御殿の甍が連なっていたであろう広い敷地が広がっています。その敷地を横切り反対側の展望台へと向かいます。広い敷地の一角になにやら白い花弁をつける木を見つけました。近づいてみると十月桜がいくつもの花弁を枝に付けていました。
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十月桜の花弁
展望台は本丸跡地のちょうど東側の縁に設けられています。ここからは眼下に二の丸御殿跡とその向こうにまるで屏風を立てたかのような大手町界隈の高層ビル群の姿が一望できます。江戸時代であれば大手町の大名屋敷やその向こうに広がる江戸前島の町人町そして江戸湾の白波も見えたことでしょう。
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展望台からの景色(1)
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展望台からの景色(2)
再び本丸御殿跡地へ戻りましょう。この跡地の中で一番目立つのがかつてここに聳えていた天守の土台石垣である「天守台跡」でしょう。そもそも江戸城の天守が最初に造られたのは開幕後の慶長12年(1607)のことです。この慶長の天守は天守台跡のある場所ではなかったようです。その後、2代将軍秀忠公の時代に天守の建て替えを行うのですが、これがいま天守台跡として残っている場所だったのです。秀忠公の天守は元和9年(1623)に竣工し、五層五階の壮大な天守で元和度の天守と呼ばれています。
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天守台跡
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天守台石垣
そして三代将軍家光公の時代にに3度目の天守の建て替えを行います。寛永15年(1638)に竣工した天守はそれまでと違い、壁が漆喰塗りではなく黒く塗った銅板張りのため、鎧を着込んだような厳しい姿だったのです。寛永期の江戸城図会を見ると黒い外観の天守が聳えている様子を見ることができます。この寛永度の天守が完成した頃、の家康、秀忠、家光の三代に渡る江戸城の天下普請がほぼ完了したのです。しかしこの豪壮な家光天守も四代将軍家綱公の時代に、あの明暦の大火により焼失してしまうのです。そして以来、江戸城の天守は二度と再建されることがなかったのです。
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天守台石垣
現在残る天守台石垣は明暦の大火後、「やっぱり天守があったほうが良い」と考えた幕府が加賀の前田公に命じて新たに築いたもので焼け残ったものではありません。つまり天守の再建を断念した名残なのです。スロープがついている南側が正面で、南北約36m、東西約33mの広さを持っています。
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天守台へのスロープ
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天守台の上
天守台に登ると、南側にはかつて本丸御殿があった広大な敷地が広がっています。14人の将軍がこの場所でご政道を司り、数多くの幕閣が集い、政策を決定した場所。一方、御殿の一番奥には将軍御台や側室、あまたの女性たちが住む大奥と長局がこの場所に存在していたのです。しかしその栄華の痕跡は今はなく、ただ広い敷地だけが本丸御殿の残照を描いているだけです。
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