大江戸散策徒然噺 Introducing Japanese culture and history

豊かな歴史に彩られた日本の文化と歴史を紹介

木曽路十五宿街道めぐり(其の二) 洗馬~本山

2015年08月10日 11時53分48秒 | 木曽路十五宿街道めぐり
洗馬(せば)の宿場の宿内の距離が約700mとそれほど大きくない洗馬宿内のはずれにさしかかると、ちょっとした広場があり、それを囲った塀に高札場跡の案内があります。ここが第1日目の9キロ地点にあたります。



後に御判形(おはんぎょう)と呼ばれた高札の伝馬駄賃御定や幕府のお触れが掲げられていたところです。明治になって裁判所の出張所が設けられましたが、その後宗賀村役場になり、現在はどんぐりハウスになっています。

この高札場跡碑の左手に芭蕉句碑が置かれています。



芭蕉が貞享~元禄年中(1684~1703)に詠んだ句。 「つゆ(入梅)はれの わたくし雨や 雲ちきれ 芭蕉」が刻まれています。

下り坂を進み左へ上り尾沢踏切を渡ると、沢山の千羽鶴が奉納された「言成地蔵堂」があります。往時は、宿西外れの急坂の枡形に祀られ、ここで落馬する人が多く、一人の武士が怒って地蔵様を斬りつけてしまい、縁起が悪いと村人達が真福寺に移しました。

宿場時代から「願い事は必ず叶えて貰える」地蔵様として、今も多くの参拝者が訪れています。
境内には享保・寛政建の庚申塔・馬頭観音等の石塔群が祀られています。 

お江戸から31番目の宿場町「洗馬」を抜けました。道筋は304号線を辿っていきますが、中山道らしい周囲に山並みが迫る光景が広がっています。洗馬宿を出ると、すぐに中央本線のガードをくぐります。ガード下をくぐる道筋は歩道帯がなく、車の往来があるので十分に気をつけて歩行してください。次の宿場町「本山」までは30町(約3.2キロ)ほどですが、その道筋は淡々としています。

第一日目の行程も10キロに達します。



平出遺跡(5.5キロ地点)でトイレ休憩をしてから、ここまでトイレがありませんでした。やっと現代の立場ともいえるコンビニ(セブンイレブン)が現れます。

いったん牧野信号交差点を渡り、国道19号線の反対側へ移動し、コンビニ(セブンイレブン)へと向かいましょう。
尚、コンビニ(セブンイレブン)でのトイレ休憩後は再び、牧野信号交差点まで戻り、反対側(国道19号を渡る)へ移動し、本山宿方向へと進んでいきます。

※セブンイレブンから19号線の左側を進むと、この先の本山宿へと入るために19号線の右側へ移動しなければなりません。しかしこの先には信号交差点や横断歩道がまったくありません。

セブンイレブンから500mほど進むと、19号線の脇に比較的大きな「ため池」が現れます。
この「ため池」が現れると、本山宿入口は目と鼻の先です。

【本山宿は蕎麦切りの発祥の地】
本山宿に入ると、左手に「中山道本山宿」の標識と多数の石碑が置かれています。そしてその先の街道右側に、「本山そばの里」の看板が見えてきます。日本蕎麦といえば本来「蕎麦切り」と呼ばれているものです。
本山宿が「蕎麦切り発祥の地」とされる理由として、蕉門の十哲の一人森川許六が残した「風俗文選」(1706年に刊行)の雲鈴(奥州南部の武士。後仏道に入る)の記録で知ることができます。
「蕎麦切りといつぱ(いうのは)、もと信濃国本山宿より出て、あまねく国々にもてはやされける。…」という文が案内板に紹介されています。また一茶が「信濃では月と仏とおらが蕎麦」と詠んでいます。

※蕎麦切りの発祥の地については山梨県だという説や木曽の須原宿という説などあってどれが正しいのか分からないようです。

「本山そばの里」は10年ほど前に、昔からここに伝わる蕎麦打ちの技術を保存するために、地元のソバ打ち名人が集まり、「本山そば振興会」を結成しここに店を開いたとのことです。そんなことで今は閑散としている本山宿ですが、日曜、祭日には本山蕎麦を食べにくる客で賑わっているようです。



さあ!本日の歩行距離も11キロに達します。
そんな場所にさしかかると、旧中山道筋は19号線から右手に分岐して延びています。

その分岐する辺りがお江戸から32番目の本山宿の入り口です。そして京都へ向かう旅人にとってはここ本山宿は木曽路の入口にあたる宿場だったのです。

本山宿は塩尻から数えて2つ目の宿場町です。国道19号線がかつての宿場の脇を走り、旧中山道筋にはかつての宿場町を偲ばせる家並みが残っています。

宿場の最盛期は同じ中山道・木曽路にある「奈良井宿」と肩を並べるほどの規模を誇っていたといいます。しかし現在の本山宿の光景はかなり閑散として、奈良井宿ほどの見事な家並みは残っていません。

【本山宿】
宿場の規模は天保14年の記録によると宿内の距離は五町(約600m)で、宿内には本陣1軒、脇本陣1軒、問屋2軒に旅篭屋34軒、家数117軒、人数592人とあります。

本陣は小林家が下問屋と兼務して勤めました。現在、その場所には明治天皇の巡行碑が置かれています。本陣だったと思われる建物は少し奥まったところに置かれ、切り妻に見事な「雀おどり」を置いたお屋敷を見ることができます。

脇本陣は花村家が上問屋を兼ね、その跡地は現在本山公民館になっており、「中山道」や「本山宿」の石碑が置かれています。宿場の中央部分にさしかかると、街道の右側に出梁造りの古い家並みが連なっています。
面白いことに古い家並みは街道の右側に集中しています。

街道に沿って各家が少しづく段差をつけて建てられている風景は家並みに立体感と奥行を感じさせてくれます。このような建築構造は斜交(はすかい)と呼ばれています。この斜交(はすかい)は防衛上の理由というのが定説のようですが、もう一つの理由として家の向きを南側へ揃えたという説もあります。…がしかし、この場所は街道が南北に走っているので、この説が正しいのかは疑問ですが…。さらにもう一つの理由として、「大名行列が通る時に陰に隠れられるので、長く座っていなくてよいから」の方が信憑性があるかな?



またそれぞれの家には「川口屋」「池田屋」「若松屋」と宿場時代の屋号を掲げています。本山宿内で唯一残っているこれらの古い家並みは国の有形文化財として保存されています。



わずか600mほどの宿内のほぼ中心に置かれた本陣や脇本陣跡を通り過ぎると、本山宿のはずれにさしかかります。
そんな場所に「口留番所跡」が置かれています。口留番所跡は松本藩の木曽口の固めとして置かれたもので、人の出入りを監視するいわば関所のようなものです。

口留番所跡を過ぎると本山宿もはずれです。集落のはずれに大きな石の上に道祖神が置かれています。道祖神が置かれているということは、一般的に村落の出入口にあたるということです。



この道祖神が置かれている場所から、ほんの少し進むと街道からそれて左手へつづく細い道筋があります。この道筋を辿り国道19号を跨る陸橋を渡ると、前方に本山神社の社殿が現れます。19号線を見下ろす高台に置かれたこの本山神社は周囲を木々に囲まれ、静かな空気の中に社殿を構えています。訪れる人も多くないこの場所には、時折野生の猿たちの姿を見ることができます。

この本山神社のあたりを過ぎると本山宿を抜けたことになります。

木曽路十五宿街道めぐり(其の一)塩尻~洗馬
木曽路十五宿街道めぐり(其の三)本山~日出塩駅
木曽路十五宿街道めぐり(其の四)日出塩駅~贄川(にえかわ)
木曽路十五宿街道めぐり(其の五)贄川~漆の里「平沢」
木曽路十五宿街道めぐり(其の六)漆の里「平沢」~奈良井
木曽路十五宿街道めぐり(其の七)奈良井~鳥居峠~藪原
木曽路十五宿街道めぐり(其の八)藪原~宮ノ越
木曽路十五宿街道めぐり(其の九)宮ノ越~木曽福島
木曽路十五宿街道めぐり(其の十)木曽福島~上松
木曽路十五宿街道めぐり(其の十一)上松~寝覚の床
木曽路十五宿街道めぐり(其の十二)寝覚の床~倉本駅
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木曽路十五宿街道めぐり(其の十四)須原宿~道の駅・大桑
木曽路十五宿街道めぐり(其の十五)道の駅・大桑~野尻宿
木曽路十五宿街道めぐり(其の十六)野尻宿~三留野宿~南木曽
木曽路十五宿街道めぐり(其の十七)南木曽~妻籠峠~妻籠宿
木曽路十五宿街道めぐり(其の十八)妻籠宿~馬籠峠~馬籠宿
木曽路十五宿街道めぐり(其の十九)馬籠宿~落合宿の東木戸
木曽路十五宿街道めぐり(其の二十)落合宿の東木戸~中津川宿



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