師走も半ばをすぎ、いよいよ年の瀬が近づくお江戸の町はいたるところで新年を迎える準備が始まっています。
今日は師走の賑わいを避けて、繁華街から少しはずれた江戸湾の島、佃へと足をのばしてみました。お江戸の中心の中央区に位置しているのですが、ここ佃は師走とはいえ人影もまばらな静かな空気が流れています。
江戸のお好み焼き「もんじゃ」で有名な月島からさほど離れていない場所に、古い江戸の情緒が残る佃の町が残っています。佃島は江戸開幕後40年ほど経った1644年に埋め立てによって築島された人口の島です。
現在では石川島、月島と地続きになり、島というイメージがまったく感じられません。佃の北側は石川島そして南側に月島がつづき、高層のマンション群が林立する姿から、かつて江戸湾の波が打ち寄せていた島とは想像がつきません。
江戸時代は佃島は江戸湾に浮かぶ小島で、ここに住む漁師たちは江戸湾の豊かな漁場から毎日新鮮な魚を獲り、幕府に納めるかたわら、日本橋魚河岸の問屋へと魚を運んでいたのです。江戸時代の江戸湾の海岸線は現在の永代橋あたりと言われています。当時の隅田川の河口は現在の永代橋付近で、隅田川から運ばれてきた豊富な栄養分に恵まれた漁場であったため、多くの魚介類が獲れていました。そんな豊な海を「
江戸前の海」と呼んでいたのです。
こんな豊かな漁場での漁業権を与えられていたのが、徳川家康と懇意であった上方摂津の田蓑島(佃)の漁民の一団です。その頭領が森孫右衛門という方なのですが、そもそも彼らが江戸にやってきたのは家康公が江戸に初入府をした天正10年(1590)の頃と言われています。その後、森孫右衛門が率いる漁民団は関ケ原の戦いでも家康公の後方部隊として荷駄の輸送に貢献したり、更には大阪の陣でも同様の活躍をしたことが記録されています。おそらく彼らの役割は有事の際の、家康お抱えの民兵または隠密行動を得意とする忍び軍団的な性格を帯びていたのではないでしょうか?
そんな摂津漁民団が正式に佃島を本拠としたのが前述の1644年の頃です。幕府から特別の漁業権を得た最大の利権は江戸湾でのシラス漁です。当時、シラスは一般庶民の口に入る代物ではなく、将軍献上品として特別な魚だったのです。このシラス漁の特権を得た森一族は、幕府との関係を更に強めていくことになります。
家康が江戸に初入府をした1590年当時、江戸湾に面した岸辺にはすでに在郷の漁師たちが漁業を営んでいたにもかかわらず、家康が森一族に対して特別な処遇をしたことを考えると、やはり幕府にとっては彼らが無くてはならない存在であったことが伺えます。
こんな歴史を頭に浮かべながらかつての佃島エリアへと入っていきましょう。かつて小さな島であった佃の名残りをしめす場所があります。それは今でも残る佃の小さな運河です。この運河がかつての島の淵を形づくっていた名残りなのですが、隅田川に面して現在でも釣り舟の出入り口が設けられています。
隅田川に繋がる運河
その運河の向こう側に旧佃島の静かな佇まいが見えてきます。その佇まいへの入口が朱色の欄干をもつ「
佃小橋」です。佃島を象徴する橋ですが、なぜ欄干付きの橋なのかというと、島に祀られている「
住吉神社」へつづく参道に架けられた「
神橋」の意味合いがあるのです。
佃小橋
この橋の上から眺める景色は新旧が混在するなんとも不思議な趣を醸し出しています。前述の運河(水路)の向こうに近代的な高層ビルが林立する様子は静かな佃に押し寄せる都市開発の波を象徴しています。
佃小橋の欄干と高層ビル
佃小橋から見る高層ビル
佃小橋を渡り、最初の路地を左へ折れると小さな祠が現れます。この祠こそ、あの森一族を祀る「
森稲荷」なのです。1644年に佃島が造成されたとき、ここに移り住んだ森一族が森家邸宅内に稲荷神を奉祀したことを起源とします。
森稲荷
森稲荷を後にして、佃のメインストリートに戻りましょう。メインストリートといってもその長さは佃小橋を起点に約100mほどです。直進すると隅田川の堤防に突き当たります。堤防の下に石造りの「
佃島渡跡碑」がぽつんと置かれています。
佃の渡しは昭和39年(1964)の東京オリンピックの年まで対岸の明石町を結んで運航していました。この年に佃大橋が完成したことで佃の渡しは廃止されてしまいました。
佃の渡し碑
当時の渡しの様子を映した古い写真が佃煮屋の
天安さんの店内に掲げられていますので、佃煮を買う際には是非ご覧ください。
その佃煮屋さんですが、ご存知のように佃島で作られた煮物であるが故に「佃煮」と名付けられています。現在、ここ佃島には老舗の佃煮屋さんが3軒店を構え、古くからの佃煮製法をもとにその歴史を今に伝えています。
佃源田中屋
天安
丸久
◇佃源田中屋:中央区佃1-3-13 電話:03-3531-2649
天保年間に創業
◇天安:中央区佃1-3-14 電話:03-3531-3457
天保8年創業。3軒の佃煮屋さんの中で一番古い店です。
◇丸久:中央区佃1-20-4 電話:03-3531-4823
天保年間に創業
そもそも佃煮の起源は佃の漁民の「保存食」として開発されたものです。初期の頃は小魚類を塩辛く煮込んだものだったのですが、時代が下り、江戸の後期になるとみりんや砂糖が出回り始め、それまでの塩煮から醤油に変わり、江戸市中で売り始めたのが「佃煮」だったのです。今に残る佃島の佃煮屋さんの店先に立つと、甘い醤油煮の香りが漂い、つい買って帰ろうかなと思うのですが、貧乏人の私にとってはちょっと高額かなと思うほど値が張ります。伝統と老舗のブランドなのでしょう。ご贔屓のお客様がたくさんいるのでしょうね。
佃煮屋さんの丸久の前の路地を進むと、真新しい朱色の鳥居が隅田川の土手に接して立っています。隅田川クルーズの船上からも見えるのですが、堤防がなかった時代にはおそらく波打ち際に立っていたと思われます。この鳥居を背にして真っ直ぐのびる参道に鎮座するのが、佃島の産土神(氏神様)として信仰されている
住吉神社です。
青銅製の鳥居
住吉神社の由緒はもともと摂津佃の田蓑島にある住吉の社を起こりとしています。前述のように家康公の初入府の際に森一族と共に、摂津の住吉社の神職「平岡権田夫好次」が分神霊を奉戴し江戸へ下り、1644年の佃島完成に伴い島内に徳川家安泰を祈願し、佃住吉神社を起こしたのです。現在でも平岡家がここ住吉神社の宮司を司っています。
住吉神社の境内は訪れる人もまばらで静かな佇まいを見えています。門をくぐるとすぐ右手に「
水盤舎」が置かれています。この水盤社の欄間には手の込んだ木彫の浮き彫りが描かれています。これは佃周辺での漁の様子を描いたもので、漁の安全を祈願した証として掲げられています。
水盤社
欄間の木彫
境内の入口にはもう一つ鳥居が立っています。この鳥居に掲げられている「扁額」はなんと陶製で明治15年に寄贈されたもので、題字は有栖川宮幟仁親王の筆によるものです。
扁額
旧佃島の散策を終え、再び佃小橋へと戻り、運河をわたり右手へ進んでいくと「
佃天台地藏尊」の木製の看板が狭い路地の入口に掲げられています。こんな所に?と思うような場所なのです。民家と民家の間の間口半間もない位の狭い路地へ誘われるように入っていくと、右手に現れるのが地藏尊の祠です。
佃天台地藏尊看板
地藏尊への狭い路地
天台という文字から天台宗と関わりがあるのですが、実は江戸における天台宗の大本山は上野寛永寺です。時は幕末の嘉永の頃、寛永寺の妙運大和尚が八萬四千体石地蔵尊建立を発願され、拝写した地蔵尊を全国の信者に賜わったことが伝えられています。おそらくここ佃島は家康公と深い関係のある漁民の本拠地であったことから、徳川家菩提寺である寛永寺の配慮で天台地藏尊が佃島に祀られたのではないかと推測する次第です。
狭い祠の壁面には信者の方々が奉納した提灯が掲げられ、祠の中央に平らな石に拝写された地藏尊が祀られています。そして祠の一角に銀杏の大木の幹がそのまま露出しています。今でこそ民家の間に押しやられたように祠が置かれていますが、かつてはきちんと地藏さまの祠が独立して建てられていたと思われます。その後、その敷地を取り囲むように民家が建ち、現在のような佇まいになってしまったのでしょう。
祠の内部
地藏尊
銀杏の大木
師走の柔らかい陽射しの中で、しばし運河の小波を眺める時間がゆったりと流れていきました。
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