大江戸散策徒然噺 Introducing Japanese culture and history

豊かな歴史に彩られた日本の文化と歴史を紹介

2010年スカイツリー撮り納め~今日の高さは539m~

2010年12月30日 12時27分36秒 | 墨田区・歴史散策
今年も残すところ2日、年の瀬の賑わいを求めて淺草界隈をぶらり一人旅を愉しんできました。北風が首筋にほんの少し冷たさを感じさせる今日、隅田川の水面には低い太陽の陽射しに反射して小さな波がキラキラと輝いていました。

淺草は年の瀬だから、という訳ではなく、いつものように観音様、山社詣のたくさんの参拝客で賑わっていました。淺草仲見世の喧噪からそそくさと離れ、吾妻橋の袂へと向かいます。
相変わらず、東京観光汽船の乗り場周辺は対岸のスペクタクルを見物する人たちでいっぱいです。
この場所にくるとやはり思わずカメラを構えたくなります。墨田区役所とアサヒビール社屋の間に聳えるスカイツリーの雄姿がひときわ目立っています。やはり少し背丈が伸びているようです。



吾妻橋を渡り、対岸墨田区側へと進み、そのまま淺草通りを東進しスカイツリー直下へと向かいます。年末休暇に入ったことで、淺草通りの歩道はスカイツリー見物の人たちでたいへんな賑やかさです。

東武線業平駅周辺はいつものようにカメラを真上方向に構える人たちでいっぱいです。人のことは言えませんが、私も今年のスカイツリー撮り納めと思い、何度もシャッターを落としました。



本日(29日)のスカイツリーの高さは539mです。
外観から塔体部分の組み立てがほぼ終ったように思えます。このあとはゲイン塔を塔頂に引き上げ634mの世界最高の高さを目指します。スカイツリーの東側に隣接して建築中の「東京スカイツリーイーストタワー」も外壁がほぼ出来上がり、31階の高さに達しています。



最終的にタワーを中心とする附属施設がすべて完成するのは2012年の春なので、まだ1年以上の工期を残していますが、来年も今年以上にスカイツリーフィーバーが更に盛り上がる事を祈念し、ことし最後のスカイツリーの撮り納めとさせていただきます。




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お江戸・愛宕神社~幕末のページを飾った水戸尊王志士が集い、勝・西郷が揃って江戸府内を眺めた場所~

2010年12月22日 22時44分22秒 | 港区・歴史散策
都心のほぼ中心といってもいい場所にある愛宕神社は桜田通りと日比谷通りに挟まれたビジネス街を見下ろす高台に位置しています。多くのビジネスマンが忙しく行き交う通りから少し奥まったところに、あの有名な石段がまるで垂直の壁のように山の頂上へ伸びています。

愛宕神社一の鳥居

へえ~、これがあの平九郎が馬に乗って上り下りをした石段なんだ。と改めて感心するほどの急峻な石段なのです。「改めて」と書きましたが、若い頃にはこの界隈は取引先や航空会社のオフィス、各国の政府観光局などへの行き来にしょっちゅう歩いた場所で、いまさら愛宕神社もないだろう、という気持ちがつよいのですが、実は個人的に愛宕神社をゆっくりと時間をかけて参拝するのは初めてかもしれません。

出世の石段
下から見上げる石段

前述の石段を上った記憶も定かではない位に、愛宕神社への参拝の思い出はかなり希薄になっていました。そんなことで、平九郎の石段を眺めながら、あの逸話が事実なのかという疑問と、事実であれば人間離れした快挙であったのだろうと改めて感心した次第です。

さてこの「平九郎」なる御仁のことですが、このような逸話が残っているのです。
時は江戸時代、三代将軍家光公の御代のことです。ある時、家光公が増上寺参詣の帰路にここ愛宕山のふもとにさしかかりました。その時、山頂に梅の花が咲き誇っていたのをご覧になり、一言こう言ったそうです。
「誰か、馬にてあの梅をとってまいれ!」と。
しかし、この愛宕山の石段はあまりにも急峻で、とても馬に乗って上り下りできるようには見えません。
家臣たちは皆押し黙り、一様に静まり返っています。
しばらくの沈黙を破って、一人の男が馬に乗って石段を上り始めたのです。
これを見た家光公は「あの者は誰ぞ」と供の者に聞くと、近習の者が「おそれながら、あの者は四国丸亀藩の家臣で曲垣平九郎(まがきへいくろう)と申す者でございます」と声高に伝えたのです。
そして家光公は「この泰平の世に馬術の稽古怠りなきこと、まことにあっぱれである」と賞賛したといいます。
平九郎は山頂の梅を手で折り、垂直の壁のような石段を馬で降りて家光公の御前に梅を献上したのです。
このあっぱれな所業に平九郎は家光公より「日本一の馬術の名人」の称号を与えられ、その名誉は日本中に伝えられたといいます。
この逸話に因んで、愛宕神社正面の急峻な坂(男坂)を「出世の石段」と呼ばれるようになったのです。

この石段は全部で86段、傾斜角度37度、高低差20mという代物です。上りは息は切れるわ、膝が笑うほどガクガクの状態。下りは足がすくむほど恐怖感を覚える始末。よくぞこの石段を馬で上り下りができたものかと…。

息をきらしてのぼった山頂でしばし地べたにしゃがみこむという体たらく。呼吸を整え、社殿へと進みます。
江戸の愛宕神社は慶長8年(1603)に家康公が征夷大将軍に宣下された年に創建された神社です。いよいよ江戸の大普請が始まる頃、家康公じきじきに創建した由緒をもつ江戸の愛宕神社は一説によると、純粋な信仰というより、愛宕山自体が主要街道の中心にあり、江戸城も近いこともあわせて、「隠し砦」としての役割もあったのでは?と推測されています。

愛宕神社本殿

境内には前述の平九郎の手折りの「梅」の老木が残っています。家光公の時代の事ですから、この梅の樹齢は380年くらいはあるのかな?

手折りの梅

そして江戸末期のエピソードとして伝わっているのが、あの桜田門外の変の首謀者である水戸浪士たちが井伊直弼襲撃の前にここ愛宕神社に参拝し、その後、桜田門へと向かったという話。万延元年の3月3日の午前、愛宕山からみる江戸城方面は一面の銀世界が広がり、降り続く雪でほとんど視界が閉ざされていたことでしょう。
そんな気象条件のもとで、水戸浪士たちは降り積もる雪の上を一路、桜田門へ向かったのでしょう。血気にはやる浪士たちの気持ちになって考えて見ても、防寒具がそれほど整っていない時代に、降り積もる雪の上を愛宕山から歩き、桜田門外で井伊直弼の行列をいまか遅しと待つ忍耐力に感服せざるを得ません。

境内の池

この桜田門外の変から8年後の慶応4年の歴史的な出来事は、幕府全権の勝海舟と東征軍参謀の西郷隆盛の2度に渡る会談でしょう。東征軍の江戸総攻撃は3月15日に決定していたのですが、これに対して勝海舟のギリギリの交渉が3月13日に始まります。この交渉が始まる前に設定されたのが、勝と西郷が揃って愛宕山から江戸府内を俯瞰するというセレモニーなのです。そのとき、どちらともなく「この江戸の町を戦火で焼失させてしまうのはしのびない」という言葉が出てきたといいます。そして、13日、14日両日に渡る会談で江戸城無血開城が決定したのです。

山頂から見下ろした石段

現在、桜田門外の変の水戸浪士の痕跡や勝と西郷の愛宕山会見の名残りは何もありません。ですが愛宕の山だけは江戸時代からなにも変わらない姿で今もお江戸の町を見下ろしています。





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お江戸芝、東京タワー直下の深山幽谷・紅葉で色づく「もみじ谷」はまだ秋の風情~

2010年12月22日 16時25分38秒 | 港区・歴史散策
11月の陽気を思わせる今日22日、暇にあかせて神谷町愛宕山から東京タワー直下までそぞろ歩きを愉しみました。愛宕山から御成門側をそれて、東京タワーを真上に仰ぐ距離に連なる「もみじ谷」へと分け入ります。
「分け入る」という表現がびったりの深山渓谷の姿が残るのが「もみじ谷」です。

都心とは思えないもみじ谷の風景

一歩足を踏み入れると、真昼にもかかわらず鬱蒼と繁る木々の葉で陽射しが遮られ、その木々の葉の間からの木漏れ日がまるでスポットライトをあてているかのように静かな谷あいを浮かび上がらせます。
これが都心の真ん中にある光景なのかと、目を疑う自然豊かな世界が展開していきます。遊歩道の両側はまるで黄色い絨毯を敷き詰めたように、落ち葉が折り重なり渓谷の薄暗さの中で美しいコントラストを見せています。



このもみじ谷は二代将軍秀忠公が江戸城内の現在の吹上地区にあった「紅葉山」からカエデなどを移し替えたことから「紅葉山」と呼ばれて、江戸時代を通じて庶民が遊山を楽しめる紅葉の名所としてたいへん人気があったところです。江戸城内の紅葉山には大権現の称号をもつ家康公から六代将軍家宣公までの霊廟が置かれていた徳川家の聖地であったところです。秀忠公の時代に芝に紅葉谷が造られたことは、家康公の帰依によりここ芝に寺領を与えられた増上寺と関係があるのではないかと推察します。

もみじ谷には常に清らかな水音をたたて流れる清流と滝があります。周辺の喧騒もどこ吹く風と、もみじ谷の静かな空気の中で、滝から流れ落ちる水音だけが心地よく耳に伝わってきます。滝の周辺のカエデが師走の半ばすぎというのに色鮮やかな紅葉で彩られています。

もみじ滝
もみじ滝周辺の紅葉
もみじ滝周辺の紅葉

もみじ谷の木々の間から、東京タワーの赤と白に塗られた鉄塔が見え隠れします。ここまできたついでに東京タワーの直下へ行ってみました。ご存知のように下町向島に世界一の高さとなる「スカイツリー」が建設中ですが、すでに500mをはるかに越えて、634mの高みをめざし着々と工事が進んでいます。スカイツリーがすでに東京タワーよりもはるかに高い背丈となっているのですが、東京タワーを真下から眺めると回りの高層ビルを圧倒するかのような高さがあることに改めて感心します。

 
 


青空を背景に赤と白を基調にした塗装が冬の陽射しに映え、その美しい曲線と相まって一層その色を際立たせています。





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お江戸佃の冬景色【江戸前佃島】

2010年12月21日 11時46分26秒 | 中央区・歴史散策
師走も半ばをすぎ、いよいよ年の瀬が近づくお江戸の町はいたるところで新年を迎える準備が始まっています。
今日は師走の賑わいを避けて、繁華街から少しはずれた江戸湾の島、佃へと足をのばしてみました。お江戸の中心の中央区に位置しているのですが、ここ佃は師走とはいえ人影もまばらな静かな空気が流れています。

江戸のお好み焼き「もんじゃ」で有名な月島からさほど離れていない場所に、古い江戸の情緒が残る佃の町が残っています。佃島は江戸開幕後40年ほど経った1644年に埋め立てによって築島された人口の島です。
現在では石川島、月島と地続きになり、島というイメージがまったく感じられません。佃の北側は石川島そして南側に月島がつづき、高層のマンション群が林立する姿から、かつて江戸湾の波が打ち寄せていた島とは想像がつきません。

江戸時代は佃島は江戸湾に浮かぶ小島で、ここに住む漁師たちは江戸湾の豊かな漁場から毎日新鮮な魚を獲り、幕府に納めるかたわら、日本橋魚河岸の問屋へと魚を運んでいたのです。江戸時代の江戸湾の海岸線は現在の永代橋あたりと言われています。当時の隅田川の河口は現在の永代橋付近で、隅田川から運ばれてきた豊富な栄養分に恵まれた漁場であったため、多くの魚介類が獲れていました。そんな豊な海を「江戸前の海」と呼んでいたのです。

こんな豊かな漁場での漁業権を与えられていたのが、徳川家康と懇意であった上方摂津の田蓑島(佃)の漁民の一団です。その頭領が森孫右衛門という方なのですが、そもそも彼らが江戸にやってきたのは家康公が江戸に初入府をした天正10年(1590)の頃と言われています。その後、森孫右衛門が率いる漁民団は関ケ原の戦いでも家康公の後方部隊として荷駄の輸送に貢献したり、更には大阪の陣でも同様の活躍をしたことが記録されています。おそらく彼らの役割は有事の際の、家康お抱えの民兵または隠密行動を得意とする忍び軍団的な性格を帯びていたのではないでしょうか?

そんな摂津漁民団が正式に佃島を本拠としたのが前述の1644年の頃です。幕府から特別の漁業権を得た最大の利権は江戸湾でのシラス漁です。当時、シラスは一般庶民の口に入る代物ではなく、将軍献上品として特別な魚だったのです。このシラス漁の特権を得た森一族は、幕府との関係を更に強めていくことになります。

家康が江戸に初入府をした1590年当時、江戸湾に面した岸辺にはすでに在郷の漁師たちが漁業を営んでいたにもかかわらず、家康が森一族に対して特別な処遇をしたことを考えると、やはり幕府にとっては彼らが無くてはならない存在であったことが伺えます。

こんな歴史を頭に浮かべながらかつての佃島エリアへと入っていきましょう。かつて小さな島であった佃の名残りをしめす場所があります。それは今でも残る佃の小さな運河です。この運河がかつての島の淵を形づくっていた名残りなのですが、隅田川に面して現在でも釣り舟の出入り口が設けられています。

隅田川に繋がる運河

その運河の向こう側に旧佃島の静かな佇まいが見えてきます。その佇まいへの入口が朱色の欄干をもつ「佃小橋」です。佃島を象徴する橋ですが、なぜ欄干付きの橋なのかというと、島に祀られている「住吉神社」へつづく参道に架けられた「神橋」の意味合いがあるのです。

佃小橋

この橋の上から眺める景色は新旧が混在するなんとも不思議な趣を醸し出しています。前述の運河(水路)の向こうに近代的な高層ビルが林立する様子は静かな佃に押し寄せる都市開発の波を象徴しています。

佃小橋の欄干と高層ビル
佃小橋から見る高層ビル

佃小橋を渡り、最初の路地を左へ折れると小さな祠が現れます。この祠こそ、あの森一族を祀る「森稲荷」なのです。1644年に佃島が造成されたとき、ここに移り住んだ森一族が森家邸宅内に稲荷神を奉祀したことを起源とします。

森稲荷

森稲荷を後にして、佃のメインストリートに戻りましょう。メインストリートといってもその長さは佃小橋を起点に約100mほどです。直進すると隅田川の堤防に突き当たります。堤防の下に石造りの「佃島渡跡碑」がぽつんと置かれています。
佃の渡しは昭和39年(1964)の東京オリンピックの年まで対岸の明石町を結んで運航していました。この年に佃大橋が完成したことで佃の渡しは廃止されてしまいました。

佃の渡し碑

当時の渡しの様子を映した古い写真が佃煮屋の天安さんの店内に掲げられていますので、佃煮を買う際には是非ご覧ください。
その佃煮屋さんですが、ご存知のように佃島で作られた煮物であるが故に「佃煮」と名付けられています。現在、ここ佃島には老舗の佃煮屋さんが3軒店を構え、古くからの佃煮製法をもとにその歴史を今に伝えています。

佃源田中屋
天安
丸久

◇佃源田中屋:中央区佃1-3-13 電話:03-3531-2649
天保年間に創業
◇天安:中央区佃1-3-14  電話:03-3531-3457
天保8年創業。3軒の佃煮屋さんの中で一番古い店です。
◇丸久:中央区佃1-20-4  電話:03-3531-4823
天保年間に創業

そもそも佃煮の起源は佃の漁民の「保存食」として開発されたものです。初期の頃は小魚類を塩辛く煮込んだものだったのですが、時代が下り、江戸の後期になるとみりんや砂糖が出回り始め、それまでの塩煮から醤油に変わり、江戸市中で売り始めたのが「佃煮」だったのです。今に残る佃島の佃煮屋さんの店先に立つと、甘い醤油煮の香りが漂い、つい買って帰ろうかなと思うのですが、貧乏人の私にとってはちょっと高額かなと思うほど値が張ります。伝統と老舗のブランドなのでしょう。ご贔屓のお客様がたくさんいるのでしょうね。

佃煮屋さんの丸久の前の路地を進むと、真新しい朱色の鳥居が隅田川の土手に接して立っています。隅田川クルーズの船上からも見えるのですが、堤防がなかった時代にはおそらく波打ち際に立っていたと思われます。この鳥居を背にして真っ直ぐのびる参道に鎮座するのが、佃島の産土神(氏神様)として信仰されている住吉神社です。

青銅製の鳥居

住吉神社の由緒はもともと摂津佃の田蓑島にある住吉の社を起こりとしています。前述のように家康公の初入府の際に森一族と共に、摂津の住吉社の神職「平岡権田夫好次」が分神霊を奉戴し江戸へ下り、1644年の佃島完成に伴い島内に徳川家安泰を祈願し、佃住吉神社を起こしたのです。現在でも平岡家がここ住吉神社の宮司を司っています。

住吉神社の境内は訪れる人もまばらで静かな佇まいを見えています。門をくぐるとすぐ右手に「水盤舎」が置かれています。この水盤社の欄間には手の込んだ木彫の浮き彫りが描かれています。これは佃周辺での漁の様子を描いたもので、漁の安全を祈願した証として掲げられています。

水盤社
欄間の木彫

境内の入口にはもう一つ鳥居が立っています。この鳥居に掲げられている「扁額」はなんと陶製で明治15年に寄贈されたもので、題字は有栖川宮幟仁親王の筆によるものです。

扁額

旧佃島の散策を終え、再び佃小橋へと戻り、運河をわたり右手へ進んでいくと「佃天台地藏尊」の木製の看板が狭い路地の入口に掲げられています。こんな所に?と思うような場所なのです。民家と民家の間の間口半間もない位の狭い路地へ誘われるように入っていくと、右手に現れるのが地藏尊の祠です。

佃天台地藏尊看板
地藏尊への狭い路地

天台という文字から天台宗と関わりがあるのですが、実は江戸における天台宗の大本山は上野寛永寺です。時は幕末の嘉永の頃、寛永寺の妙運大和尚が八萬四千体石地蔵尊建立を発願され、拝写した地蔵尊を全国の信者に賜わったことが伝えられています。おそらくここ佃島は家康公と深い関係のある漁民の本拠地であったことから、徳川家菩提寺である寛永寺の配慮で天台地藏尊が佃島に祀られたのではないかと推測する次第です。

狭い祠の壁面には信者の方々が奉納した提灯が掲げられ、祠の中央に平らな石に拝写された地藏尊が祀られています。そして祠の一角に銀杏の大木の幹がそのまま露出しています。今でこそ民家の間に押しやられたように祠が置かれていますが、かつてはきちんと地藏さまの祠が独立して建てられていたと思われます。その後、その敷地を取り囲むように民家が建ち、現在のような佇まいになってしまったのでしょう。

祠の内部
地藏尊
銀杏の大木

師走の柔らかい陽射しの中で、しばし運河の小波を眺める時間がゆったりと流れていきました。

佃を望む明石町に明治を偲ぶ外国人居留地跡を訪ねる
隅田川の流れと石川島そして中央大橋周辺の史蹟探訪





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お江戸本所松坂・赤穂浪士討入りの吉良邸の佇まい【本所松坂町】

2010年12月19日 23時06分23秒 | 墨田区・歴史散策
「時は元禄15年、師走半ばの14日」で始まる赤穂浪士の討入り。14日の高輪泉岳寺は四十七士の菩提を弔う多くの参拝客で賑わっていました。そこで赤穂浪士が討ち入った本所松坂の吉良邸の様子が気になって、今日ひとぱっしり行ってみました。



案の定、吉良邸跡はひっそりとした佇まいで、訪れる人もちらほらといったところです。これまで何度もこの場所にはきているのですが、師走のこの時期に訪れるのは初めてです。

吉良邸門前

吉良邸跡といっても、かつての広大なお屋敷が残っているわけではなく、当時の広さから比べれば猫の額程度の敷地しかありません。海鼠塀に囲まれた小さな敷地に入ると、これまでなかったものが新たに置かれていました。狭い敷地の奥になんと吉良上野介の真新しい坐像が鎮座しているではありませんか。坐像は高家としての格式ある正装姿で、台座の上に鎮座しています。おそらく今年の義士祭に間に合うように造られたものだと思います。

吉良上野介坐像
吉良上野介坐像


邸内には吉良上野介の首を洗ったと言われる「首洗いの井戸」やその井戸の傍らには清水一角をはじめとする吉良側の家臣たちの名前が刻まれた碑が置かれ、その前には真新しい献花が置かれていました。

首洗い井戸
吉良側家臣の碑
松坂稲荷大明神祠

憎まれ役の吉良様ということで、高輪泉岳寺の四十七士の墓前にたむけられた献花や線香の煙に比べると、あまりに侘しい雰囲気が漂っています。まあ、いたしかたないかなといった風情です。

時は元禄15年、師走の半ばの十四日・賑わいをみせる高輪泉岳寺、恒例の義士祭
お江戸元禄事件簿・そろそろ季節がやってくる!「忠臣蔵・赤穂浪士討入り」の裏話【本所吉良邸と谷中観音寺





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お江戸淺草歳の市~お江戸の風情「羽子板市」の賑わい~【淺草浅草寺境内】

2010年12月17日 17時35分49秒 | 台東区・歴史散策
師走の風物詩とも言える行事が今日17日から淺草浅草寺境内で始まりました。年の瀬の冷たい風が吹く中で、真っ青な冬晴れの空のもと、恒例の「羽子板市」が賑やかに開催されています。

雷門前の賑わい

今日から19日までの3日間行われる羽子板市の歴史は古く、お江戸の時代の万治元年(1659)に始まったと言われています。万治元年はあの明暦の大火(1657)の2年後のこと。大災害からやっと復興なった頃で、併せてお江戸の府内に初めて架橋した「両国橋」が完成した年です。
そんなこともあって、当時は大火のあとの復興記念又は両国橋の完成記念を祝って、翌年の家内安全、五穀豊穣を祈念して「羽子板市」が開催されたのではないでしょうか。

当時は花鳥風月や殿上人、左義長(悪魔を払う正月の儀式)を描いた羽子板が主流で、その後、江戸時代後期になると歌舞伎の興隆とともに、役者絵を押絵を用いて取りつけるようになり、その技法が今に至っています。

雷門から淺草の代名詞「仲見世通り」へ入ると、人、人、人の大賑わい。やはり外国人旅行者の数がはんぱじゃない。仲見世の店先にはお正月のお目出たい飾り付けが施され、師走の雰囲気を盛りだてています。
真っ青な空を背景にお正月らしい飾り付けが映えています。

 
 


宝蔵門まで人ごみの中をゆっくりと進み、目の前に浅草寺本堂が見えてきます。本堂前もこれまた多くの参詣客で賑わっています。

宝蔵門前までの賑わい
宝蔵門
浅草寺本堂

そして宝蔵門をくぐり、左手に並ぶのが羽子板市の座敷店です。どの店にも色とりどりの華やかな羽子板が並び、艶やかさを競っています。あちらこちらの店から商談なった景気のいい手拍子が聞こえ、さすがお江戸の粋な世界が繰り広げられています。

 
 
 


数ある羽子板の中でも、今年は例の「海老蔵事件」のためか、「助六」を描いた羽子板には海老蔵を揶揄した文言が張られ、笑いをとっていました。また、今年の人気ドラマであった「龍馬伝」をモチーフとして羽子板が結構多く並んでいました。

この不景気の最中、いずれの羽子板もかなり値のはるものばかりですが、それでも高価な羽子板が売れていく様を見ると、「あるところにはあるんだな~」と一人感心する次第です。私自信、買うつもりはまったくないのですが、もし買ってかえったら、女房に何を言われるかと思うと絶対に手が出ない代物です。

雷門

帰路、仲見世通りから吾妻橋袂へと抜け、例のスカイツリーを拝みにいきました。今日も少し背が高くなっているような気がします。

吾妻橋袂からスカイツリー遠望

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今日のスカイツリーはほんの少し成長して514mの高さになっていた!

2010年12月15日 17時15分31秒 | 墨田区・歴史散策
冬ばれの今日、真っ青な空のもと師走の陽射しに映えてキラキラと輝いていました。タワー本体の最頂部はほんの少し成長し、完成時の高さ634mにあと120mにまで迫ってきました。



タワー周辺の附属施設の工事も順調に進んでいる様子。押上駅側の高層のビルも最上階部分が出来上がり外壁工事が進んでいます。この辺りでは最も高層なビルなのですが、タワーの高さに押され気味。



第一展望台の外壁もかなり出来上がり、さらには第二展望台の空中回廊の丸みが目視できるようになってきたスカイツリーも残すところ、ゲイン塔(アンテナ部分)の取り付けで2011年の春頃には634mの高さになる予定。



そんな折、東武百貨店が「東京スカイツリー福袋」なるものが発売されるとのこと。東武百貨店の池袋、船橋、宇都宮、大田原の4店で12月26日から1月2日まで発売される予定です。販売数はものすごく限定されているようなので、抽選になるようです。
※船橋は12月16日からのようです。
福袋は3種類あり、2011年に合わせて各々2011円だそうです。
詳しくは下記URLで確認してください。
http://www.tokyo-skytree.jp/news/2010/11/post-30.html




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お江戸向島・勝海舟も禅の修業、黄檗宗の古刹牛頭山弘福寺【墨堤下向島】

2010年12月15日 15時29分57秒 | 墨田区・歴史散策
向島検番通りの東詰めには桜餅で有名な長命寺があります。その長命寺と隣接して建っているお寺が牛頭山弘福寺なのですが、見るからに日本の寺院建築とは異なる山門とご本堂の姿が周囲を圧倒するかのように向島の料亭街に妙に溶け込んでいるんです。つい先日までご本堂の修理が行われ、お堂全体が覆われていたため写真もとれずブログでの紹介を控えていました。やっと修理が終り、お堂の姿が現れたので画像と共に隠れたエピソードなど紹介いたしましょう。

弘福寺石柱
弘福寺山門
弘福寺本堂

この弘福寺は中国から渡ってきた禅宗の一つ黄檗派(おうばくしゅう)の寺で、延宝6年(1673)鉄牛禅師によって創建されました。木造のご本堂は昭和8年創建のもので黄檗宗特有の唐風の特徴を持つ中国明様式を伝えています。本堂両翼にある円窓、堂前の月台、柱にかかる扁額など、他の寺院にはあまり見られないものです。堂宇全体のデザインは京都宇治の黄檗宗大本山の万福寺のミニチュア版といった風で良く似ています。

 

 



実は当寺は向島七福神の内、布袋尊が祀られているのですが、境内には布袋尊の祠がありません。いったいどこにおられるのかと思いきや、ご本堂の中に鎮座しておられます。ご本堂の扉はあいていませんので、中を覗きこむと堂内右側にどっしりとしたお姿が見られます。新年元旦からのご開帳では、布袋尊の間近まで行く事ができると思います。



そしてもう一つ、当寺には「爺婆尊」と呼ばれる石像が安置されています。通称、「咳の爺婆」と称され、口中に病のあるものは爺に、咳を病むものは婆に祈願し、全快を得た折には煎り豆と番茶をお礼をするという風習が伝わっています。

 

爺婆尊石像

毎年、冬になるとインフルエンザの流行を控えて、この爺婆尊にお参りする老若男女が多く訪れるといいます。石像は山門を入ってすぐ右手に小さな祠があります。この祠に爺婆尊が安置されています。

最後に当寺と勝海舟の関わりについてほんの少し触れておきましょう。ご存知のように海舟は本所入江町(吉良邸がある松坂町とは隣同士)で生まれ、ちゃきちゃきの江戸っ子として育ちました。20歳くらいまで本所で暮らした海舟はその間、浅草新堀端の島田道場で剣術修行に励み、同時に禅の修業も怠らなかったのです。この禅の修業をおこなった場所がここ弘福寺だったのです。勝の後日談として、あの幕末の荒波の中で、自分を失わず物事に対して冷静に対処できたのは、若い頃の剣術修行と参禅の日々の賜物であったと述懐しています。
尚、当寺には残念ながら勝海舟にまつわるものは何もありません。

ご本堂の左手奥にはそれほど大きくはないのですが庭がつづき、その庭からみるご本堂の後姿もなかなか貫禄のあるものでした。



お江戸墨堤・三囲神社は三井越後屋の守護神を祀る
お江戸墨堤・家光公名付けの「長命水」【向島・長命寺】





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時は元禄15年、師走の半ばの十四日・賑わいをみせる高輪泉岳寺、恒例の義士祭

2010年12月14日 15時52分38秒 | 港区・歴史散策
降りしきる雪の中、辺りに 鳴り響くはやまが流の陣太鼓。 吉良殿ーッ討ち入りで御座るッッ!! ご覚悟をッ… と、 いう訳で…今日14日は赤穂浪士の討ち入りであり元禄の一大事件の日で御座います ...

本懐を遂げた四十七人が時の新井白石の奏上により、主君の仇討ちの功績を慮って潔く切腹の御沙汰に従い主君のもとに旅立った、血判同士一同が泉岳寺に眠っている事実は、300年以上に渡って私たち日本人の美意識の中に生きつづけてきた武士道と忠義が如何に大切なものであったかを物語っているようです。

かねてより12月14日の泉岳寺で執り行われる「義士祭」の日に、四十七義士の方々のお墓にお参りをしたいと切望していました。今年やっと、自由な時間がとれる境遇になったこともあり、小雨降る朝、そうそうに自宅を後に泉岳寺へと向かいました。

都営地下鉄の泉岳寺駅の改札口は結構な人ごみで、やはり義士祭のお墓詣でにたくさんの人が来ていることがわかります。地上出口からなだらかな坂をのぼっていくと中門が見えてきます。中門の手前からたくさんの屋台が連ね、義士祭を盛り上げています。この総檜造りの中門は結構古いもので、天保7年(1836)に再建されたもので、昭和初期に修復が行われ現在に至っているたいへん貴重なものです。

中門までの賑わい

中門をくぐり立派な山門へと進んでいきます。参道の両側にもたくさんの屋台が並び、義士祭がかなり盛大なものであるかを物語っているようです。この2層造りの山門は天保3年(1832年)の再建されたもので、2階部分には十六羅漢様が安置されているとのことです。

山門までの賑わい
山門

山門をくぐりご本堂の前の境内広場を見ると、ここにも隙間無く屋台のテントが並んでいます。義士祭という特別な行事だからなのか、泉岳寺さんも商売上手でございます。

境内の賑わい

ご本堂前に四十七士霊前の幟がはためき、義士祭の雰囲気が高まってきます。ご本堂をあとにいよいよ四十七士の眠る墓所へと向かうことにいたします。

ご本堂
四十七士霊前の幟

墓所へ通ずる参道に沿って「血染めの梅と血染めの石」が現れます。これらは浅野内匠頭が田村右京大夫邸の庭先で切腹した際に、その血がかかったと伝えられている梅と石です。

血染めの石

さらに参道を進むと、「首洗い井戸」なるものが現れます。これは義士たちが本懐成就後、吉良上野介の首級をこの井戸水で洗い、主君内匠頭の墓前に供え報告したところから「首洗い井戸」と呼ばれています。

首洗いの井戸

そして前方の階段を上ると墓所の入口に構える御門が現れます。この門は浅野家の鉄砲洲上屋敷(現・聖路加病院)の裏門として使われていたものを、明治時代になったから移築したものです。裏門とはいえ立派な御門です。

墓所入口の門

御門をくぐりすぐ右手に内匠頭御正室、瑤泉院(阿久利)の立派な墓があります。

瑤泉院(阿久利)墓

そして瑤泉院(阿久利)の墓に隣接して浅野家の墓が置かれています。瑤泉院(阿久利)は義士たちが切腹した後、伊豆大島に流されていた赤穂浪士の遺児たち(吉田伝内・間瀬定八・中村忠三郎・村松政右衛門の四人)の赦免運動に尽力し、将軍・家綱の27回忌にあたって3人の赦免を実現させたのです。落飾後、夫内匠頭や義士たちの菩提を弔い、正徳4年 (1714)に享年41で死去しました。

ひときわ立派な構えの墓の前に祭壇が置かれお供え物が並ぶのが内匠頭の墓です。赤穂藩主であった内匠頭の墓は隣接する四十七人の家来を従えて、城内の上段の間に座っているような佇まいを見せています。

内匠頭の墓

いよいよ四十七士の眠る墓所入口へとやってきたのですが、予想通りものすごい人出で入口まで長蛇の列ができています。墓所内は前が見えないほど線香の煙でもうもうとしています。討入りから300年以上たった平成の時代にまで、これほど多くの人々を惹きつける義士たちの魅力は底知れないパワーを秘めているように思われます。

四十七士墓所前の列

訪れる人が一人一人の墓前に線香を供するため、列が進みません。

線香で煙る義士の墓

やっとのことで大石内蔵助の墓前に辿り着きました。他の義士に比べ、やや大きめの墓石に祠を構えた墓前でしばし長めに手を合わせました。手を合わせながら、かつてNHK大河ドラマで大石内蔵助を演じた「長谷川一夫」の「おのおのがた」の台詞が頭によぎってきました。そしてなぜか息子主税の墓が少し離れた場所に置かれています。

大石内蔵助の墓
主税の墓

判官びいきの参拝客で賑わう高輪の泉岳寺の義士祭ですが、憎まれ役の吉良様の屋敷跡、本所松坂町の今日はどのようなことになっているのか、ふと頭に浮かべながら泉岳寺を後にしました。

お江戸本所松坂・赤穂浪士討入りの吉良邸の佇まい【本所松坂町】
お江戸元禄事件簿・そろそろ季節がやってくる!「忠臣蔵・赤穂浪士討入り」の裏話【本所吉良邸と谷中観音寺





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お江戸掘坂小石川・こんにゃく閻魔は眼病・歯痛にご利益あり【掘坂小石川】

2010年12月13日 12時50分17秒 | 文京区・歴史散策
徳川家菩提寺「伝通院」からさほど離れていないところに、珍しい名前の閻魔堂があります。通称「こんにゃく閻魔様」と呼ばれ、眼病を癒していただけるという有難い閻魔様です。

こんにゃくえんま石柱

寺名は常光山源覚寺(文京区小石川2-23-14)です。白山通りの西片交差点を左に入るとこんにゃく閻魔さまの山門が見えてきます。山門入口は間口もそれほど広くなく、気が付かなければ通り過ぎてしまいそうな控えめな佇まいです。

閻魔堂

由来を紐解くと、お江戸宝暦年間のこと、眼病をわずらった老婆が思い余って閻魔大王に21日間 の祈願をこめたところ、夢枕に閻魔大王が現れ 「願掛けの満願成就の暁には、私の両目の内、一つをそなたに差し上げよう」 と告げられたといいます。 すると不思議な事に満願の日老婆の眼は治癒していたと…。老婆は閻魔大王の恵みに感謝して、あらためて本堂の像を見ると閻魔大王の右眼が ひび割れ盲目となっていたそうです。それ以来、老婆は好物であった「こんにゃく」を断ち、それを 閻魔様に供えるようになりました。 このことから、眼病治癒の閻魔様として江戸庶民の信仰を集めたそうです。但し、江戸の三閻魔には数えられていません。

狭い参道を進むと、それほど広くない境内の奥に閻魔堂が置かれて居ます。閻魔様が鎮座されている閻魔堂の扉は少し開けられ中を穿うことができます。前述の謂れの通り、閻魔様の右目がひび割れているのかを確かめてみましたが、言われてみれば「そうかな?」という感じでした。私自身、それなりの年齢がゆえに正真正銘の「老眼」で日常の生活でも読み書きに難儀しています。少しでも老眼が治ればと思い、こんにゃくを買って閻魔様へ捧げお願いをした次第です。

閻魔様に捧げたこんにゃく

ちなみに「こんにゃく」は「困厄」に通じるということで、「こんにゃく」をお供えして閻魔様に身替りを請い「困厄」 から逃れることを願う意味が込められているそうです。

そしてもう一つ、閻魔堂の右手に小さな祠があります。その祠には遠目でも2体のお地蔵様がいらっしゃることが分かるのですが、そのお地蔵様の足元から腰あたりまで、まるで雪が積もっているように白いものが覆っているのです。
祠の脇に「塩地藏尊」と書かれた由緒書が立っています。由緒書にはこんなことが書かれていました。

塩地藏様

歯痛で苦しむ人が塩を備えてお地蔵さんに祈り、なおったら塩を倍にしてお地蔵さんにお礼参りをする。という言い伝えがあるそうです。昔から「塩」で歯を磨くという慣習はあった訳ですから、日ごろの習慣として塩を使ってということではないにしろ、きちんと歯を磨きなさいという教えが込められているような気がします。

境内に目と歯に御利益がある有難い閻魔様とお地蔵様がいるのであれば、ついでに耳に効く何かがあればと見回したところ、私の勝手な解釈ですがあったんですね。なんと「毘沙門天」の祠です。

毘沙門天(多聞天)御堂

ご存知のように「毘沙門天」は別名「多聞天」とも言われています。常に仏を守護してその説法を多く聞くことから「多聞天」と名付けられているということは…、当然「耳」に関係しているのでは?
顔の中の目、歯(口)、耳の三つが境内に揃い有難い御利益が得られるのでは、と本当に勝手な解釈なのですが一理あると思われませんか?大変失礼しました。





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