大江戸散策徒然噺 Introducing Japanese culture and history

豊かな歴史に彩られた日本の文化と歴史を紹介

番外編・あまりにも有名な弥生時代の遺跡「登呂」に行ってきました!~静岡・登呂遺跡~

2011年09月28日 13時24分11秒 | 地方の歴史散策・静岡市内
日本の歴史教科書の中で、弥生時代の代表的な遺跡として必ず登場するのが「登呂遺跡」です。私のブログでは江戸時代の文化や歴史的建造物を中心に取り上げてきたのですが、今回だけは番外編ということで、時代は遥か古代へと遡り、静岡訪問の思い出として「登呂遺跡」へ向かうことにしました。

弥生式住居

静岡市内で電動のレンタサイクルを借り、市の南2キロ?ほどの距離にある登呂遺跡を目指します。走り始めて僅な距離にある森下公園を回り込むと、登呂遺跡の近くまで延びる「自転車専用道」が始まります。いくつかの信号を越え進むと、あっという間に登呂遺跡に到着です。JR静岡駅から自転車でものの10分程度の距離です。

あまりにも有名な登呂遺跡であるがゆえに、かなり過大な先入観をもって訪れたのですが、この遺跡の佇まいはあまりにもオープンで、遺跡はなんら囲いもなく誰でもが自由に入場できるようになっています。そしてこれも先入観のなせるわざで、遺跡は自然の風景が広がる広大な敷地の中にあるものだと思っていたのですが、まず遺跡全体はそれほど広くなく、その遺跡の敷地に隣接するように宅地開発が進み、住宅街が迫っているのです。発見された当時は周辺には今ほどの住宅がなかったようですが、当時の行政の予算では遺跡周辺の土地を買い上げることができなかったため、その後、民間の宅地造成が急速に進んだと言われています。そのため、遺跡の西側にあったであろう当時の墓域は開発された住宅の下に発掘されないまま眠っているとのことです。

弥生式住居

遺跡敷地には教科書にのっている藁葺きの弥生式の住居がいくつか点在しています。そのいくつかは台風15号の強風のためか、藁葺きがはがれてしまっています。

住居前で一枚
火おこし体験
夫婦揃って一枚
穀倉

遺跡の傍らには田んぼが広がり、収穫時期を迎えた稲がたわわに実っていますが、この稲も台風の強風で全部ではないのですが倒れ掛かっています。そんな稲もさまざま種類が植えられて、特に興味を引かれるのが古代米が栽培されていることです。稲の穂が黒いものは黒米と呼ばれているそうです。当遺跡ではこの古代米を収穫して、炊きご飯を見学者に振舞ってくれるそうですが、今回はそのご馳走にありつけませんでした。

住居内部
住居内部で一枚

遺跡には現代版の弥生人がボランティアで説明をしてくれます。そしてカメラマンとして私たちを撮ってくれます。また、古代の火おこしの道具や住居の中には古代の農耕器具や土器、竈などがしつらえてあり当時の生活様式を間近で見ることや、手に触れることができます。

住居前で一枚

敷地内には立派な博物館があり、館内の2階には発掘品の展示を見ることができます。私たちは博物館の屋上にでて、遺跡全体を俯瞰することができました。そしてなによりも今回の静岡訪問ではじめて西側からみる富士山をこの屋上から見ることができたのです。それだけでも満足です。

遺跡俯瞰

実はこの登呂遺跡を訪れた理由にはもう一つ訳があります。この遺跡に隣接して静岡名物の「安倍川もち」の店があり、是非食べてみたかったからなのです。そして観光客用に発行している「おもてなしクーポン」を利用できるのがこの「安倍川もち」の店だったのです。

登呂もちの家入口
店内の様子

クーポンを提示すると無料で安倍川もちをサービスしてくれるシステムなのですが、お店側としてみればクーポンだけで食い逃げされるのは困りものといったようで、お店側はさりげなく「クーポンでのサービス以外に何か食べていただくか、何かお買い上げいただきたい」とのこと。

お店に入ったのがまだ午前10時半なので、昼食には早いため、安倍川もちのお土産を購入し、無料の安倍川もちを食べさせていただきました。当店は開店が10時半ということで、できたてのまだ温かい安倍川もちが出てきました。お店の造りも東北の民家を移築したもので、外観、内部共に古さを感じ遺跡巡りの疲れを十分に癒すことができるお勧めのお店です。

※登呂もちの家
電話番号:287-7211
営業時間:10:30-17:00




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まるで東照宮を思わせる壮麗な社殿「おせんげんさま」~静岡浅間神社~

2011年09月28日 11時59分32秒 | 地方の歴史散策・静岡市内
JR静岡駅構内の観光案内所で「是非訪れていただきたい場所の一つ」として薦められたのが、静岡を代表する神社で「おせんげんさま」の愛称で呼ばれている「静岡浅間神社」です。

静岡浅間神社

案内所で入手した観光パンフレットに掲載されている当神社の写真を見るかぎりでは、極彩色に彩られたかなり壮麗な建物で、静岡の守護神との表記にこれは是非参詣をしなければと悔いを残すと思われたからです。

観光マップを見ると駿府城址の北西に位置し、自転車を利用すればさほどの距離ではなさそう。駿府城内の巽櫓から本丸掘の脇を抜け県庁舎や法務局合同庁舎が並ぶ内堀に沿って自転車を走らせます。内堀が途切れる辺りで大きく左折し、かつての外堀にあった四足御門跡を抜けると御幸通りと呼ばれる比較的広い通りに出てきます。この通りを右手に進むと大きな交差点の向こうに、朱色の鳥居がどんと構えています。

これが「おせんげんさま」へ通じる参道の一の鳥居だろうと勝手に判断し鳥居をくぐることにしました。鳥居をくぐると、参道と思われる道は遥か彼方まで真っ直ぐに延びて、その道の両側は屋根付のアーケードの商店街になっています。おそらくこの商店街は「おせんげんさま」の門前町として開け、古くから多くの参拝客で賑わっていたのではないかと推測しながら走ると、背後にこんもりとした木々に覆われた山の麓にお社が見えてきます。

「はてな?」せんげんさまのお社とはちょっと違うな、と思いつつ境内マップを見るとせんげんさまの正面入口は大きく右へ迂回しなければならないとのこと。はやる気持ちを抑えつつ、細い掘割に沿ってつづく歩道を進んでいくと、目的の浅間神社の楼門が見えてきました。

あとから気がついたのですが、私たちが最初にくぐった鳥居は実は「大歳御祖神社」(おおとしみおやじんじゃ)の一の鳥居だったのです。いわゆる浅間神社の鳥居は別にあり、参道もまったく違う方向に延びていました。

浅間神社の楼門

まず目に飛び込んできたのが壮麗な楼門です。日光東照宮の家光公の廟「大猷院」や久能山東照宮の楼門にも負けないくらいの御門です。門には扁額が掲げられており、「當國總社・冨士新宮」とあります。
この浅間神社は富士山信仰と深く関係があり、浅間神社の総社は富士山麓の富士宮にある「「富士山本宮浅間大社」です。ということで浅間神社と名付けられた神社は多く点在するのですが、富士山と関係があるため、ほとんどの浅間神社は富士山麓や富士山を望む場所に置かれているのです。
もちろんここ駿府からも霊峰富士の高嶺を望むことができるのです。
そして面白いのはここ静岡の浅間神社は、「神部神社」(かんべじんじゃ)・「浅間神社」(あさまじんじゃ)・「大歳御祖神社」(おおとしみおやじんじゃ)という三社の総称であり、摂社ではなく3つの社が対等にあることなのです。

楼門をくぐると眼前に現れるのが、舞殿と呼ばれる屋根付の舞台とその背後に浅間神社の大拝殿がまるで鳥が羽ばたいているかのような左右対称の優雅な姿を見せてくれます。

舞殿と大拝殿
水盤舎
楼門と水盤舎
舞殿
舞殿の天井
浅間神社の神輿

ここで静岡浅間神社の歴史を簡単に紐解いてみましょう。
古くは平安時代に遡り勧進された当社は、鎌倉時代から戦国へと時代が移っていくと、織田家・今川家・武田家・徳川家と名だたる武将たちに崇敬され、宝物の寄進、装束類の下賜、社領の安堵など、明治時代まで実に手厚い保護を受けてきました。

そして私が尊敬する家康公とも深い関わりがあり、なんと今川家の人質として駿府にいた家康公(竹千代時代)は当社において14歳で元服をしていたのです。

神君・家康公とはただならぬ関係にあった当社は江戸幕府からは手厚い庇護を受けていました。しかし江戸時代を通じて当社は何度も火災にあい、その都度造営が行われてきたのですが、最も大規模な造営工事は文化年間(1804~1817)に60年の歳月を費やして行われたものです。そして現在残っている社殿のほとんどがこの時代に造営されたものなのです。

漆塗りの極彩色と黒と金のコントラストが美しい社殿群は前述の日光東照宮や久能山東照宮のそれと見まがうばかりの絢爛豪華な装いです。

大拝殿
大拝殿の向拝部分

大拝殿はその造りが特徴的で、まるで楼閣のような姿をしており、その高さはなんと25mもあります。この特徴的な造りは「浅間造り」と呼ばれています。
大拝殿の奥には本殿があり、東照宮を思わせる黒と金を基調とした彩りの社殿が静かに佇んでいます。

本殿

浅間神社の境内を取り囲む回廊を抜けて、隣の「八千戈神社」(やちほこじんじゃ)へ向かいます。この八千戈神社は、もともとは家康公が念持仏としていた、大河ドラマ「風林火山」でも、「山本勘助」が所持したことからその名が有名となった「摩利支天」像を安置するために造られたものでしたが、明治の神仏分離令により、現在では近くの今川家の菩提寺である「臨済寺」へと、その像は移されています。

八千戈神社

浅間神社の大拝殿の豪華さもさることながら、この八千戈神社の社殿も贅をこらした素晴らしい装飾が施されています。そしてその装飾の中でも極彩色の彫刻は目をみはるものがあります。この社殿に施された彫刻のテーマは中国の孝行物語である「二十四考」とのこと。蟇股(かえるまた)には孝行を描いた16の彫刻が彫られ、遠目でも確認することができます。そして社殿の朱色の門には黄金に輝く「麒麟」の彫刻が嵌め込まれています。キリンビールのデザインと同じ姿をしています。

八千戈神社の透塀
八千戈神社の向拝部分
麒麟の彫刻

そしてもう一つ、私たちが最初に見た社殿である「大歳御祖神社」の境内へと進んでいきます。もともと当社は昔、安倍川沿いにあったという安倍の市の守護神として崇められてきた歴史があり、そのことから、農業や漁業・商工業など幅広く産業繁栄の神として崇められています。

大歳御祖神社

尚、ここ浅間神社の境内にある社殿24棟と宝蔵・神廐舎の2棟が国の重要文化財に指定されているとのこと。まるで社殿の野外博物館を思わせる境内をくまなく見学したかったのですが、東京へ戻る新幹線の出発時間が迫っていたため、後ろ髪を引かれる思いで立ち去らなければならなかったのが残念でした。




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大御所・家康公の居城「駿府城」探訪

2011年09月27日 10時00分46秒 | 地方の歴史散策・静岡市内
久能山東照宮参詣を終えた後、清水から県庁所在地である静岡へと移動しこの日は静岡で一泊。予想にたがわず静岡市の発展した街並みに驚嘆。東海地区では名古屋についで発展している都市の感。そんな静岡では大御所・家康公の居城として壮大な城郭を誇った駿府城は是非訪れてみたい場所の一つです。

駿府城内堀と巽櫓

地方都市での観光にかかせないのがレンタサイクル。観光マップを片手に、自由自在に動けるレンタサイクルは時間を気にせず、観光箇所をピンポイントに移動できるという機動力を発揮します。
とは言ってもレンタサイクルを借りる場所は限られるのですが、ここ静岡市ではなんと「鈴与レンタカー株式会社」が貸出しサービスを行っています。駅前のホテル・アソシエ前を走る大通りを挟んで真向かいにあるのが鈴与レンタカーです。ここではなんと電動自転車を貸出しています。料金も3時間で400円から500円とリーズナブル。しかもペア(2名)で借りると10%割り引きと更にお得。さっそく9時の開店と同時に電動自転車を借りて、静岡市内の観光へと出発。

※鈴与レンタカー株式会社(オリックスレンタカー静岡駅前店)
〒420-0857 静岡市葵区御幸町11-10
営業時間:08:00-20:00
電話番号:054-254-0543

快適な電動自転車に乗ってまずは市内の南約2キロに位置する登呂遺跡へ。登呂遺跡の観光を終えて再び市内へ戻り、いよいよ駿府城へ登城します。
駿府城址はJR静岡駅から徒歩でも約15分ほどの距離にあり、自転車を利用すればものの5分もあれば着いてしまいます。市の中心の賑やかな繁華街を抜けるとかつて駿府城を囲んでいた外堀が現れます。そして更に外堀の内側には二の丸、三の丸、本丸そして天守を守っていた内堀が昔の姿のままに残っています。

私たちは駿府城址の中でも最も美しい姿を見せる巽櫓と東御門へと向かうことにしました。この建造物は平成8年に復元されたものでオリジナルではないのですが、駿府城址のランドマークとしてまるで絵葉書のように美しい姿を見せています。巽櫓はかつての二の丸の南東に位置する隅櫓で二層三階のL字型構造になっています。東御門は典型的な枡形門で、堂々とした風格を感じさせてくれます。

東御門
東御門と内堀
内堀
枡形の東御門

ここで駿府城の歴史をほんの少し紐解いてみましょう。
ここ駿河国は今から650年前(室町時代)には今川範国(のりくに)が守護に任ぜられてから今川氏の領土の一つになっていました。家康公の幼少の頃、すなわち松平竹千代の頃ですが、今川氏9代の義元の時代に人質としてになんと19年間も駿府で暮らしていました。
戦国騒乱の時代に、今川氏10代の氏真(うじざね)は甲斐の武田信玄に駿府を焼き払われ、掛川へと落ちていきます。その後、天正10年(1582)に徳川家康は駿府の武田を攻め、その結果、駿府の町は再び焼き払われてしまいます。天正13年に駿河の国を領土とした家康公は駿府城を自らの居城とするため築城を始め、天正17年に一応の完成をみます。がしかし、天正18年(1590)の小田原北条氏滅亡後、秀吉の命によって家康公は関東へ移封されたことで、駿府城は豊臣系の家臣である中村一氏(かずうじ)が城主となります。そして関ヶ原の戦いの後、家康公は1603年に征夷大将軍に任ぜられ江戸幕府を開いたのですが、わずか2年後には将軍職を秀忠公に譲り、大御所政治の拠点として駿府に戻ってきました。
その後、家康公は75歳で亡くなるまでの13年間、ここ駿府と江戸を頻繁に行き来しながら秀忠公のご政道を見守ってきたのです。
家康公没後は家康公の十男で紀州徳川家の祖となった徳川頼宣公、家光公の弟君である忠長公が城主となりましたが、忠長公改易後は大名は置かず城代が配置され、幕府の直轄地となっていきます。

大御所が住まう城として三重の堀に囲まれた駿府城の城下は「駿府九十六箇町」と呼ばれる街区が碁盤の目のように整備され、人口10万人以上を抱える大都市として発展していました。現在の静岡市内の地図を見ると江戸時代に計画された碁盤の目のような街区がそのまま残っているがわかります。

東御門から入城すると目の前に広々とした敷地が目に飛び込んできます。かつてはこの場所に二の丸、西の丸そして本丸の各御殿と五層七階の壮麗な天守が聳えていたのですが、今、その面影はまったくといっていいほど残っていません。わずかながら本丸御殿と天守を囲んでいた本丸掘がほんの一部分水を湛えているだけです。こんな風景をどこかで見たような気がして、ふと思い出すのがかつての江戸城の本丸と天守があった皇居東御苑なのです。

駿府城の天守(模型)

ご多分に漏れず、ここ駿府城も度重なる火災や地震などで御殿をはじめ櫓が消失してしまいました。天守閣は寛永12年の火災で焼失し、その後再建されませんでした。想像するに、天守が聳えていた頃は上方からやってくる旅人の目には天守の背後に天高く聳える富士の高嶺がまるで借景のように見えていたのではないでしょうか。

私たちは平成8年に復元された巽櫓の中の資料展示室を見ることにしました。入口には晩年の家康公の坐像が鎮座し私たちを迎えてくれます。展示物はそれほど重要なものはないのですが、かつての天守閣の模型や二の丸堀から引き上げられた青銅製の鯱(オリジナル)、江戸時代の駿府城下の街並みを現した模型など興味ある展示がつづきます。また展示室の一角に家康公が幼年時代、勉学に励んだ小部屋が置かれています。

家康公坐像
青銅製の鯱
家康公の甲冑
巽櫓から見る東御門

家康公が幼少の頃に過ごした駿河国、そして天下取りを果たした家康公が愛しそして没したた土地・駿府は徳川家にとっては愛知の岡崎に並ぶ故郷的存在でしょう。そんな土地に初めて訪れ、いまだに家康公、徳川を大切にする風土を肌で感じる思い出深い旅となりました。




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神君・家康公を祀る「久能山東照宮」参拝記

2011年09月26日 15時39分08秒 | 地方の歴史散策・静岡市内
お江戸の歴史を紐解いている過程で、幕府を開いた家康公の足跡を辿ってみたいという欲求はこれまでに生誕の地である愛知の岡崎、日光東照宮参拝という行動に現れてきました。そして家康公終焉の地であり、その亡骸が最初に葬られた駿府はどうしても行かなければならない場所であり、併せて家康公が人質として長きに渡り人質となって過ごした場所であることはなんとしても訪れなければならないとかねてから考えていました。

久能山東照宮御社殿

台風15号が足早に抜けた9月23日(金)の早朝、その影響がいくらかは残っているのではと不安を抱えながら往路は東海道線の在来線に乗り込み、久しぶりに夫婦で鈍行列車の旅を楽しむことにしました。この日はまず久能山を足で登ることを決めていたので、東海道線の清水を目指すことにしました。東京駅から清水まで乗り換えなしでは行くことができないため、途中駅で乗り継ぎをしなければなりません。小田原駅で乗り継ぎ、富士の裾野が広がる景色を車窓に楽しみながら清水駅に到着したのは午前10時20分頃。

JR清水駅前

初めて下りる清水駅前は祝日にもかかわらず、閑散とした佇まいを見せていました。駅前のロータリーに立ち空を見上げると、地方土地特有の高層の建物に遮られていない広々とした空が迎えてくれます。

清水駅で下りた一番の理由は久能山東照宮に足で登るあの1159段の石段が始まる「久能山下(くのうやました)」という場所へ直行するバスの便があるのが清水駅からしか出ていないからなのです。またこのバスの運行が極めて便数が少ないため、予め調べておいたバス便の出発時間に余裕を持って清水駅に到着しなければなりません。

久能山下行バス乗り場

久能山下行のバスは清水駅西口の2番乗り場から。連休の初日であるこの日、たくさんの久能山詣での客がここ清水からバスに乗り込むかと思いきや、なんとわずか5人の乗客のみ。しかも途中で私たち夫婦以外の客は全員降車し、久能山下駅までは貸切状態。バスは市内を抜けて、駿河湾沿いの国道へとさしかかると道の両側にはあの有名な「石垣イチゴ」の畑が現れてきます。台風15号の影響で石垣を覆うビニールと柵が見るも無残な姿になっていました。

清水駅から35分ほどで石垣イチゴの畑に囲まれた久能山下の停留所に到着します。確かに停留所なのですが、なんとも味気ないバス停留所で久能山の参道から少し離れた場所に位置しており、バス停には久能山入口の方向を示す標識すらない侘しい雰囲気を漂わせています。かろうじて海岸線を見下ろすように聳える山が一つ見えるので、あれが久能山であると予測できるのですが、心配なのでバスの運転手に石段の入口の方向を尋ねると、「左へ歩いていくと参道が右手に見えてきます。」とのこと。はやる気持ちを抑えながらふと右手の山を見上げると、石段の柵とかなり上の方に「門」が見え、その石段を上り下りする人影がちらほらと。これからあの石段を登るんだ、という意気込みと1159段という途方もない段数の石段に対する若干の不安を抱えながら参道に到着しました。駿河湾の大海原から吹く潮風が心地よく、台風一過の抜けるような青空が広がっています。

参道脇の店

予想していた参道とは違い、海岸通りからわずか250mほどの短い参道?の両側にお土産屋のような、場末の食堂のような、はたまた参拝客向けの安宿風の建物が並んでいます。どの店もこの地の名産の石垣イチゴの販売所を兼ねていて、店先にはイチゴジュースやイチゴのソフトクリームの看板が並んでいます。また休日にもかかわらず、どの店も閑散として開店休業かと見まがうほどの客の入り。店先には1159段の石段を登るための「お助け棒」が置かれ無料で貸し出しています。無料なのは結構なのですが、再び借りた店に返却しなければならないので、山頂に置きっぱなしにはできないのです。私たちは東照宮さん所有の「お助け棒」がたまたま1本あったので、これを借りることにして、山頂で返却することにしました。

無料貸し出しのお助け棒
一の鳥居を背景に


石段の入口に立つ「一の鳥居」に脇には「別格官幣社」の石柱が堂々とした居ずまいで立っています。そして鳥居の先にはゆるやかな勾配の石畳の坂がのびています。1159段の石段が始まる導入部分としてはわずかながら気持ちを楽にしてくれる坂道です。ですが、そうは問屋はおろしてくれませんでした。鳥居から200mほど進むといよいよ東照神君が与える試練が始まります。石段は角ばった石と比較的大きな丸石を組み合わせた階段で、それどれの階段の幅も広く、段差もそれほど高いものではないので、思ったほど足腰に負担がかからないのです。石段はつづら折りに造られ、石製の手すりがつけられています。石段を覆うように木々が生い茂り、日差しを遮ってくれます。つづら折りのところどころに木製の腰掛が置かれ、疲れた体を休めることができます。

石段
石段
駿河湾を背景に

登るほどに駿河湾のすばらしい眺望が目に飛び込んできます。この場所を自らの墓所として選んだ家康公の偉大さに感服しながら、麓からわずか15分という驚異的な速さで到達したところが「一の門」です。この場所は麓から909段の位置なのです。門前のテラスからは伊豆半島の西側から駿河湾全域と遥か彼方の水平線の大眺望が目の前に広がります。きっと東照神君が909段を登った人だけにしか与えない贈り物、はたまたご褒美なのでしょう。ほんとうに久しぶりに感動した絶景です。

一の門にて
一の門の石垣にて

この「一の門」をくぐったところに「門衛所」と呼ばれる木造の小屋が建っています。この門衛所には江戸時代は与力が詰めて警護の任に就いていたのです。というのは当時は久能山東照宮は誰でも入山できる場所ではなく、限られた参拝者しか詣でることができなかったのです。

「一の門」を過ぎると、めざす東照宮はもう手に届く場所に。若干の物足りなさを感じるくらいにあっという間に約1000段の石段を登り詰め、到着したところが博物館や社務所が立つ広場です。

石段を登っている時は、行きかう人もまばらだったのですが、社務所付近はやたらと人が多く、かなり混雑しています。というのも、この社務所のそばに日本平から久能山東照宮を結ぶロープウェイの駅があるからなのです。1159段の石段を避けて、楽に東照宮参拝をしたいという向きにはこのロープウェイはたいへん便利な文明の利器と言えるでしょう。私たちも帰路はこのロープウェイを使って日本平に向かい、そこから静岡行のバスに乗る予定だったのですが、実は予想もしないどんでん返しが待っていたのです。

まあ、そんなことはどうでもいいのですが、社務所で玉ぐし料を支払い、いよいよ東照宮へと進むことにしましょう。東照宮聖域はさらに石段を登ったところに構える「楼門」をくぐらなければなりません。そんな楼門へとつづく砂利が敷き詰められた参道に「駕籠」がぽつねんと置かれていました。せっかくなので夫婦そろって記念撮影。

駕籠

この楼門には後水尾天皇が自ら書かれた「東照大権現」の扁額が掲げてあり、別名「勅額御門」とも言われています。尚、徳川将軍家の各将軍の霊廟に置かれた惣門、楼門のほとんどに時の天皇が自ら書かれた扁額が必ずといっていいほど掲げられています。

楼門
楼門

ここで家康公と久能山東照宮について簡単に説明をしておきましょう。
天文11年12月26日に三河国岡崎城で生まれた家康公は、戦国の世を生き抜き1603年に征夷大将軍となり、260余年に亘る徳川幕府の礎を築き、晩年は大御所として駿府城に隠居され、元和2年(1616)4月17日に薨去したその日のうちに久能山に葬られました。そして将軍職を引き継いだ2代将軍秀忠公の命により、同年5月からここ久能山に東照宮の造営が始まり、なんと1年7ヶ月という短期間で完成させました。日光東照宮が完成する19年前に造られた久能山東照宮は権現造、総漆塗、極彩色の豪華絢爛な建築物なのですが、日光東照宮と比較すると規模においてもこじんまりとして若干地味に感じますが、江戸時代の初期に作られ、その後の権現造りの模範となるものでたいへん貴重なものです。この貴重な建造物の中で、御社殿は平成22年12月24日に国宝に指定され、その他境内の主要な建造物はことごとく重要文化財に指定されています。

前述の楼門をくぐると家康公の手形が置かれています。現代人に比べるとかなり小さな手で、こんな小さな手で天下取りをしたのかと驚くばかりです。

家康公の手形

そして楼門の背後に構えているが、かつて鐘楼としてつかわれ、今日では鼓楼と呼ばれている建造物です。明治に入り神仏分離令により鐘楼は仏教施設であるという理由から、鐘を太鼓に替えたといいます。私個人的にはつねづね思うのですが、明治新政府になって神道主体思想であったにしても薩長閥のお偉方が訳の分からない神仏分離令などという愚法を作り上げ、日本全国の神仏混合の寺社をことごとく整理し、その際に仏像をはじめ五重塔、鐘楼などたいへん貴重な文化財をかたっぱしから廃棄してしまったことは、まるで中国の文化大革命の際の伝統文化否定の無知な行動と同じではなかったのではと考えてしまいます。

鼓楼

その憂き目にあったのが、ここ久能山東照宮の五重塔です。日光東照宮には五重塔が現存していますが、ここ久能山東照宮では取り払われ、礎石だけが寂しく残っています。

五重塔跡

ちょうどこの辺りが久能山下から数えて石段1100段目にあたります。そして残り19段を登ると御社殿に到着です。途中に神楽殿、神庫そして日枝神社の祠を見ながら、いよいよ絢爛豪華な御社殿です。それではしばし御社殿のまばゆいばかりの装飾をご覧ください。

石段1100の標識
御社殿の透塀
透塀の葵の御紋
境内の家康公お手植えの木
御社殿(1)
御社殿(2)
御社殿(3)
御社殿(4)
御社殿(5)
御社殿(6)


御社殿の左手からつづくのが廟所参道です。約40段の石段を登っていくと、家康公に仕えた武将たちが寄進奉納した石灯籠が並び立ち、厳かな雰囲気を漂わせています。東照宮境内の一番奥に位置する廟所はうっそうとした木々に囲まれた平らな敷地の真ん中に土盛りをした台座の上にどっしりとした宝塔が威厳をもって鎮座しています。家康公の縁の地に置かれているどの宝塔よりもその造りはどっしりとして、その重厚さは見るものを圧倒します。この宝塔は三代将軍家光公によって建てられたもので、高さ5.5m、胴回りは8mと大きなもので、家康公の遺言に従い西向きに置かれています。そして廟の東北角に家康公の愛馬を埋めた場所が残っています。

家康公廟所
家康公宝塔
愛馬を埋めた場所

久能山東照宮御社殿をはじめ、東照神君・家康公の墓所に詣でることができたことは、これまで家康公の縁の地を巡ってきた旅にひとくぎりをつけてような気がしてなりません。家康公ゆかりの地はまだまだ多く残っているのですが、今後は徳川将軍家をはじめ徳川家紋大名、親藩大名にかかわりのある土地を巡りながら、江戸時代へのタイムトラベルを楽しんでいくつもりです。

尚、帰路はロープウェイを利用して日本平に下りる予定だったのですが、実は日本平から静岡へ行くバス便が台風の影響で通行不能となり、結局再び石段を下り久能山下へと戻るはめになったのです。でも、思い出に残る石段をもう一度体験できたことは一生忘れることはないでしょう。

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