さあ!第29回の2日目が始まります。昨日の終着地点の名鉄富士松駅周辺が本日の出立地点となります。
本日はここ富士松からまずは5キロ先の桶狭間古戦場伝説地を目指します。その後、6キロ地点の「絞り染」で有名な有松を抜けて、8.5キロ地点の鳴海宿に至ります。
そして12キロ地点の笠寺観音をお参りし、本日の終着地点の富部神社参道入口までの12.8キロを踏破します。比較的長めの行程ですが、本日は見どころが満載です。
名電富士松駅前
私鉄の駅前にしては商店街もなく静かな雰囲気が漂っています。駅前のロータリーをあとにして旧街道筋へと進んで行きます。
旧街道に入り、住宅街の中を少し行くと県道と交差する地点にさしかかります。県道を跨ぐ歩道橋を渡ります。この先で旧街道は右にカーブしながら緩やかな下り坂となり、その先で再び国道1号に合流していきます。国道に合流する地点が今川交差点です。正面には敷島製パン(pasco)・刈谷工場の大きな建物が見えてきます。
国道1号に合流したら、左側に降りる道があり、国道の下をくぐる地下道へ入っていきます。地下道をくぐりぬけると信号交差点があるので、これを渡り国道から分岐する右側の道に入っていきます。
右手には敷島製パン(pasco)の大きな工場が迫ってきます。小さな橋を渡ると左手に大型浴場やパチンコなどの遊戯関係の大きな建物が現れます。この辺りは住宅街ではなく、少し寂しい感じの道筋に変ってきます。
そしてまた川が現れます。川の名前は「境川」といいます。この川はかつて三河と尾張の国境だったのです。境橋は江戸初期の東海道の開設時に三河と尾張の立会いのもとで作られた橋ですが、当初、三河側は土橋、尾張側が木橋でこれをほぼ中央でつなぐ継ぎ橋だったようです。
その当時の橋を詠んだ歌碑が橋を渡った右側の川岸に残っています。
「うち渡す 尾張の国の 境橋 これやにかわの 継目なるらん」
その後、橋は洪水で度々流され、やがて継橋は一続きの土橋になりました。明治に入って欄干付きになり、現在の橋は平成7年に完成した新しい橋です。
境川
この川を挟んで三河と尾張の両地域は昔から気質が異なっていたといいます。必ずしもあたっているかどうかわかりませんが、尾張を代表する武将である秀吉は派手というか、見栄っ張り、一方、三河を代表する武将である家康公はよく言えば質実剛健、悪く言えば「どんくさい」のでは?
言葉も「みゃーみゃー」いうのは尾張ですが、三河地方は前述のように「どんくさい発音」に聞こえます。境川を渡ると三河国今川村から尾張国東阿野村(現豊明市)に入ります。
前方には愛知万博開催時に開通した伊勢湾岸道路が見えてきます。この辺りは国道1号、国道23号、県道などが交差する交通の要です。街道は緩やかな下り坂になり、その先で道筋は左手にカーブをきりながら、伊勢湾岸道の下へとつづいていきます。
伊勢湾岸道の下をくぐると、豊明駅東の信号交差点にさしかかります。ここから名鉄豊明駅を左に見ながら国道1号線に沿って歩きます。風景は賑やかな幹線沿いの住宅街へと変わります。国道1号線に沿っておよそ800m歩くと県道を跨ぐ陸橋が見せてきます。陸橋が見える辺りが「池下の交差点」です。その交差点の手前で旧街道は左へと分岐します。
車の騒音が耳障りな国道1号から分岐し、旧街道は静かな道筋へと入っていきます。そんな道筋に入るとすぐに「国指定史跡阿野一里塚200m 」の表示板が置かれています。
富士松駅前から歩き始めておよそ2.5キロで、お江戸から数えて86番目の「阿野一里塚」に到着します。
阿野一里塚
阿野一里塚
街道の両側に一里塚が残っていますが、塚の部分は大きく崩れて原形は留めていません。木が植えられているのですが、榎なのかは判別できません。左右の一里塚跡は小さな公園のようになっています。原型をとどめている一里塚はこれまで幾つか見てきましたが、それらはこの阿野一里塚より、はるかに形が残っていました。
こんなに形が崩れた阿野の一里塚なのですが、一応「国指定史跡」になっているのですね。
左側の一里塚の中に入ると句が刻まれている歌碑が置かれています。
「春風や坂をのぼりに馬の鈴」(市雪)
ここからは前後(地名)に向かって上り坂になっています。そんな坂をのぼりつつ詠われたのでしょう。「春風に馬の鈴が蘇えるようにひびき、道には山桜が点在して旅人の心を慰めてくれる 」という意味です。
一里塚を過ぎると、市雪の歌のように道筋は緩やかな上り坂へ変ります。豊明小学校と郵便局を過ぎると、街道の左側に三田(さんだ)皮ふ科が現れます。その病院の右隣の家はそれはそれは立派なお屋敷です。
三田邸
ここ三田邸(さんだ)は明治天皇が明治元年の東京への行幸途中と、翌年明治2年の京へお帰りになる途中に休息をされた場所です。三田邸の鉄扉の隙間から覗くと、なんと明治天皇御小休所の石柱が庭先に置かれています。個人の住宅の敷地の中なので外から見るしかありません。
明治天皇御小休所碑
登り坂はこの先の街道右側の坂部善光寺辺りで終わります。そして少し歩くと、名鉄前後駅前交差点です。
「前後駅前交差点」を過ぎると左側にビルが建っています。その一画が名鉄名古屋本線の前後駅です。
駅前には駅と直結した駅ビルが建ち、お洒落な感じがします。
「前後」という地名はたいへん珍しいのですが、この名前の由来はあの「桶狭間の戦い」のあと、織田方の雑兵が褒賞をもらうため、自分が倒した敵方の首を切り取って、前と後に振り分け荷物のようにして、肩に担いだという話から付いたと言われています。そんな話が残ることから、桶狭間古戦場跡はここから近いということになります。
それでは前後の駅前を進み、旅をつづけていきましょう。歩き始めて4キロ地点を過ぎたあたりに神明社の石柱と常夜燈が現れます。そしてちょっと先の街道右側の落合公会堂の前に「寂応庵跡」の石碑が置かれています。
寂応庵とは江戸末期の慶応元年(1865)、知多郡北崎村(大府市)の素封家「浜島卯八」の三女の「とう」が寂応和尚の感化を受け、東海道の旅人の難儀を救わんと、剃髪して仏門に入り「明道尼」と改名しました。
その明道尼は街道に面した落合の集落に浜島卯八の援助で「寂応庵」を建て、無料休憩所を開設しお茶の接待をしたといいます。
この辺りの街道筋には古い家と新しい家が混在しています。新栄町の信号交差点を過ぎると、旧街道は緩やかに左へカーブをします。そして前後駅からおよそ1.5キロで旧街道は再び国道1号と合流します。
合流地点は三叉路になっており、交差点の右側に馬蹄の上に馬が乗った像が立っています。何故かというと、この先の名鉄の高架をくぐると名鉄中京競馬場駅があるからです。競馬場入口交差点あたりは駅前らしく、ほんの少し賑やかな雰囲気を漂わせています。
名鉄名古屋本線の高架をくぐると、歩き始めて5キロ地点です。ここでいったん旧街道から逸れて、本日の最初のハイライトである「桶狭間古戦場の伝説地」へ向かうことにします。
旧街道から逸れて、わずかながらの坂道を登ると前方にこんもりとした林が見えてきます。この林がある場所が「桶狭間古戦場の伝説地」なのです。右手にはビッグケイと呼ばれる介護施設が建っています。
さあ!古戦場伝説地の入口に到着です。入口には「史蹟桶狭間古戦場」の石柱が立っています。
桶狭間古戦場パンフレット
古戦場伝説地の入口
桶狭間古戦場の伝説地
古戦場伝説地は重要な史跡であることを感じさせるように綺麗に整備された公園になっています。公園内には遊歩道がつけられて園内を回遊することができます。
永禄3年(1560)5月19日、今川義元が織田信長軍の奇襲により戦死したところと伝えられ、田楽狭間とか館狭間と呼ばれている場所です。園内に入り回遊路を右に進むと細長い標石が立っています。これが「七石表」の1号碑です。
義元公戦死の場所
1号碑は今川義元が戦死した場所を明示した最も古いもので、明和8年(1771)12月、鳴海下郷家の出資により、人見弥右衛門等により建てられたものです。この標石には北面に今川上総介義元戦死所、東面、樋峡七石表之一、南面、明和8年辛卯12月18日と刻まれています。
二号碑は義元の重臣・松井宗信が戦死した場所、三号碑から七号碑までも義元の側近たちが戦死した場所を示しているとのことです。
七石表の先の樹木に囲まれたところに、義元が亡くなったところと伝えられ塚があります。この塚は有松の人たちが主唱し、明治9年5月に塚を建てたとあります。この場所には義元の遺骸はない訳ですから、慰霊碑といった方が正確なのではないでしょうか?
義元公の塚
その先の古戦場案内板の脇に、大きな石碑が建っています。「桶狭間弔古碑」と呼ばれるものです。
桶狭間弔古碑
文化6年(1809)5月に津島神社社司「氷室杜豊長」が建てた「桶狭間合戦の戦記」です。左側には香川景樹の歌碑が置かれています。
香川景樹の歌碑
「あと問えば 昔のときのこゑたてて 松に答ふる 風のかなしさ」 景 樹
香川景樹は桂園派の巨匠で江戸にでて、己の歌風を広めようと上府しましたが、迎えられず失意のまま帰途の途中、ここを通り今川義元の無念を思ってこの歌を詠んだといいます。
古戦場伝説地の脇の道路を挟んで反対側の高台には「高徳院」という寺が堂宇を構えています。実はこの高徳院の斜面に義元公の墓が置かれています。墓といってもこれも供養塔です。
義元公の供養塔
義元公の供養塔
斜面の石仏群
この供養塔は幕末の万延元年(1860)、義元の三百忌に建てられたもので、これには法名が刻まれています。寺の山門へとつづく石段を上って行き、山門をくぐると義元本陣の跡と書かれた石柱が立っています。敷地には敵味方の戦死者を弔う石仏群があります。
高徳院山門
義元本陣跡碑
実は桶狭間古戦場は2ケ所あります。ここ以外にはここから1キロほど南の名古屋市緑区桶狭間北にある桶狭間古戦場公園という場所です。戦国時代の一ページを飾る重要な場所であるにもかかわらず、豊明市側の桶狭間古戦場跡には資料館ひとつありません。それぞれが、ここが本当の「桶狭間古戦場」と主張しているため、おそらくどちらか一方に偏って資料館を造るのができないのではないでしょうか。とはいえ政府は昭和12年にこれまでの伝承と江戸時代に建てられた七石表を根拠として、ここを桶狭間古戦場として国史跡に指定しています。
さあ!桶狭間古戦場跡を後に、旧街道へ戻ることにしましょう。
桶狭間合戦場伝説地からいったん国道1号の交差点に戻りますが、すぐに左側へとのびる旧街道へ入っていきます。旧街道の道筋はほんの僅か歩いたところで大将ヶ根の信号交差点にさしかかります。大将ヶ根の信号交差点を渡ると、私たちは名古屋市へ入っていきます。
「大将ヶ根」という地名の由来は、あの桶狭間の合戦で信長が辿った道筋だったことから名付けられています。
ちょうど1号線を渡る手前が少し高台で、信号を渡ると道筋は下り坂となり、かつては窪地であったことが窺がわれます。
すなわち狭間という地名があることから、高台と高台の間の狭間がこのあたりにはいくつもあったと思われます。
大将ヶ根交差点を渡り、1号線から分岐するように斜め右へとつづく旧街道へと入って行くと、本日2回目のハイライトである「有松」に到着です。江戸時代の有松の町はこの先の「まつのねばし」を渡ったところから始まります。「まつのねばし」に至る途中、街道の左側に古い商家が一軒現れます。「近喜」の屋号を持つ有松絞りを造っているお店です。店先には染色前の糸でくくった木綿布が段ボールに入れて無造作に置かれていました。
さすが絞りの名産地「有松」といった印象です。ここ有松は東海道中の宿場町ではないのですが、江戸時代からの絞り染めの問屋の豪壮な建築物が残っています。近喜のある場所はまだ有松の中心ではないのですが、逸る気持ちを抑えつつ「まつのねばし」へと進んでいきます。
有松のパンフレット
有松は江戸時代の初期の慶長13年(1608)に尾張藩が桶狭間村の有松集落を分村し、知多郡阿久比村から11戸を移住させ、安永2年(1773)に間の宿にしました。有松は耕地も少なく、茶屋としての営みにも限界があったため、尾張藩は副業として「絞染」を奨励し、それが新しい産業に育ったのです。
有松絞りはそもそも九九利染めといわれていました。有松絞りが始まるきっかけは、江戸時代の初期(慶長15年/1610)に二代将軍秀忠公が命じた名古屋城普請に集められた大名の家臣の中に、九州の豊後からやってきた人たちが身に着けていた絞り染の手拭に、ここ有松出身の竹田庄九郎が目をつけたことと言われています。
そしてその後、三河、知多で生産されていた木綿布と連動して有松絞りが発達したと言われています。
18世紀後半には隣村の鳴海、大高あたりまで絞り産業は拡大し、その営業権をめぐって有松との紛争をおこすほどになったといいます。
それでは歴史的建造物が多く残る有松へと進んでいきましょう。有松の町を貫く街道は電信柱がなく、すっきりした佇まいを見せています。
有松の景
有松の景
有松の景
少し歩くと右側に有松の良き時代の産物といえる「山車倉」があります。高山祭に登場する山車と同様、からくりを演じる優れもので有料ですが見学できるようになっています。
山車会館
山車会館
◇有松山車会館
有松に伝わる見事な山車三輌〔布袋車・唐子車・神功皇后車〕を毎年交代に展示し、有松のまつり文化を紹介しています。慶長年間より現在まで400年を経て、現在でも江戸時代の風情を色濃く残し、落ち着いた雰囲気を醸し出している有松の歴史を展示しています。
☎052-621-3000
営業時間:10:00~16:00
開館曜日:土日祝日のみ開館
入館料:大人200円
有松山車会館の横の路地を挟んで右側には「寿限無茶屋」が店を構えています。
寿限無茶屋
その先の左側に有松鳴海絞会館があります。ここは名古屋市に併合される前の有松町役場跡ですが、絞り商品の展示や絞り技術の実演を行っています。入口脇には喫茶店が併設されています。
有松鳴海絞会館
有松絞りが一躍有名になったのは、江戸時代の五代将軍綱吉公のころで、将軍に献上した絞りの手綱が話題となり、全国津々浦々まで名声を轟かせることになったといわれています。
そして有松は江戸時代はもとより、明治、大正、昭和初期まで活況を呈するのですが、現在に残る豪壮な建物やその建物を飾る装飾は有松が繁栄を謳歌し、惜しげもなく金をつぎ込んだ証そのものなのです。そんな様子を「田舎に京の有松」と言われるようにまでなったのです。その中でも「井桁屋服部家」の建物は有松の中でも一二を争うほどの素晴らしいものです。
井桁屋服部家
井桁屋服部家
井桁屋の建物の店舗兼住居部は瓦葺に塗籠(ぬりごめ)造りで、卯達を設け、蔵は土蔵造りで腰になまこ壁を用い、防火対策を施している絞り問屋を代表する建築物です。これまでいくつもの宿場を辿ってきましたが、これほどまでに過ぎ去った時代の建築物がそっくりそのまま残っている町はありませんでした。有松の豪壮な建築物は奇跡的に残った「野外博物館」そのものです。
それでは有松絞会館から先へと進んでいきましょう。有松の町並みはまだしばらくつづきます。電信柱がなく、かつ高層建築がないため町並みはスッキリしています。
有松の家並み
有松の家並み
有松の家並み
有松の家並み
道筋は比較的大きな信号交差点にさしかかります。この交差点を右手に進むと名鉄有松駅へとつづいています。交差点を渡っても有松の古い家並みはその先につづいています。街道右側に背の高い建物が現れます。もう一つの山車蔵です。建物の高さから中に格納されている山車がかなり背丈が高いものであることが窺えます。
山車蔵
有松家並み
連格子の家
そして街道左手に見事な問屋造りの建物が現れます。この建物は有松を代表する絞り問屋「竹田嘉兵衛商店」です。
竹田嘉兵衛商店
竹田嘉兵衛商店
竹田嘉兵衛商店の屋号は笹加です。現在8代目。建物は江戸末期から明治期にかけての絞り問屋の特徴をよく残した建物で、明治から大正にかけて増改築されました。特に主屋と書院、茶席は重厚な造りで他に蔵が5棟あり、建築学的にも貴重な建物となっています。
建築様式としては1階に連子格子、海鼠壁、2階は黒漆喰の塗籠造りに虫籠窓の有松の商家の伝統的形態を踏襲しています。主屋の屋根には明治期のガス燈の名残のランプがあります。平成7年名古屋市指定有形文化財になりました。
竹田嘉兵衛商店を過ぎても、有松の風情ある家並みは先につづいています。まるで時代劇のセットの中を歩いているかのようです。
有松の家並み
有松の家並み
有松の家並み
山車蔵
有松の町の西のはずれに近づいてきました。街道右手に祇園寺が山門を構えています。この祇園寺を過ぎると有松の古い家並みはふいに途切れてしまいます。そして現代に無理やり引き戻されるように、前方に名古屋第二環状の近代的な道路と橋脚が目に飛び込んできます。
その名古屋第二環状のほぼ真下にくると、古い有松の家並みは完全に終わります。そんな場所に置かれているのが、現代版の有松の一里塚です。お江戸から数えて87番目の一里塚ですが、平成22年に新たに再現されたもので、やたら新しく趣を感じない代物です。
87番目の一里塚
第二環状道路をくぐると、今度は名鉄名古屋本線の踏切が現れます。踏切を渡ると小さな川に架かる「かまとぎばし」が現れます。この橋を境に「有松の間の宿」は終わります。
感動的な有松を後に、次の目的地である「鳴海宿」を目指すことにします。有松をでると「絞り」とはまるで無縁な町並みとなり、無味乾燥な住宅街へと変貌します。有松を出てそれほどの距離ではないのですが「絞り」関係の店がまったく現れないのは不思議です。
そんな面白味のない光景を眺めながら進むと四本木(しほんぎ)の交差点にさしかかります。四本木交差点の右側の山裾に左京山住宅が拡がっています。そしてその先の平部あたりは名古屋のベットタウンで新しいマンションや団地が立ち並んでいます。まもなくすると平部北信号交差点にさしかかります。有松からわずか1キロでかつての鳴海宿の江戸見附に到着します。
ここから旧鳴海町、現在は名古屋市緑区鳴海町です。
平部北交差点の左側に常夜燈が置かれています。表面に秋葉大権現、左側に永代常夜燈、右側に「宿名内為安全」、裏面に文化三丙寅(1806)正月と刻まれているので、江戸時代はここが鳴海宿の江戸側の入口だったようです。さあ!それでは鳴海宿へと入って行きましょう。
現在の鳴海宿内はかつてここがほんとうに宿場町であったことを全く感じさせてくれません。というのも古い家並みが全くないからなのでしょうか。かつて有松と絞り生産で凌ぎを削った町とは思えないほど、寂びれているといったほうがいいくらいです。
平部北の江戸見附からおよそ500m歩いたところに扇川に架かる中島橋が現れると、お江戸から数えて40番目の鳴海宿の中心部に入ってきます。
鳴海宿は、天保14年の東海道宿村大概帳によると、東西15町18間(約1.6km)に、家数847軒、人口3643人、本陣は1軒、脇本陣は2軒、旅籠の数は268軒とかなりの規模の宿場町で広重の東海道五十三次の浮世絵には、旅籠の様子が描かれています。
鳴海は有松と共に絞りで知られたところでしたが、有松の方が生産や販売力が向上したので、鳴海と有松との間で絞りの販売権をめぐって紛争が起こったといわれています。
鳴海宿に入ると、すぐ右手にあるのが瑞泉寺で、重層本瓦葺の黄檗風四脚門の総門は、宇治黄檗山万福寺を模したもので、県の指定文化財になっています。
瑞泉寺は寛保元年(1741)以降、呑舟和尚により再建され、宝暦5年に堂宇が完成しました。境内には宝暦6年(1766)に建立した本堂、書院、僧堂や秋葉堂などの伽藍が並び、壮観な姿を見せています。
瑞泉寺山門
瑞泉寺本堂
鳴海は狭い地域に集中して比較的寺院が多い宿場町です。街道の右側奥に淨泉寺、万福寺が堂宇を構えています。万福寺は永享年間、三井右近太夫高行の創建で真宗高田派。永禄3年(1560)の兵火で焼失しましたが再建され、江戸末期に再々建されました。
明治6年(1873)に万福寺は鳴海小学校の仮校舎となり、校名を広道学校とした、と寺の案内にあります。
街道を進むと、その先は鉤型のように右に曲がっています。この辺りからが鳴海の宿場の中心で、左側の緑生涯学習センターは問屋場跡のようです。昭和38年の名古屋市との合併までは鳴海町役場として使われていました。
本町交差点を右折すると、幾つかの寺があります。交差点を渡ってほんの僅か右手に進むと誓願寺があります。
誓願寺山門
誓願寺本堂
誓願寺は天正元年(1573)の創建で本尊は阿弥陀如来ですが、境内に芭蕉供養塔と芭蕉堂があることで有名です。
実は芭蕉の門下に下里知足という人物がいます。この知足はここ鳴海宿で千代倉という屋号の造り酒屋を営んでいました。資産家である知足は芭蕉のスポンサーの一人だったようです。また芭蕉は「笈の小文」の旅の途中、ここに休息しています。
そんな縁で芭蕉没後164年経った安政5年(1858)に、知足の菩提寺であるこの寺に芭蕉堂が建てられました。尚、芭蕉供養塔は芭蕉が没した一ヶ月後の元禄7年(1694)11月12日に追悼句会が営まれた折、鳴海の門下達によって鳴海宿内の如意寺に建てられたもので日本最古の芭蕉碑と言われています。
芭蕉碑
旧街道をさらに進んでいきましょう。街道を進むと自転車屋が店を構えていますが、この辺りに脇本陣があったといわれていますが、なんの表示もありません。そしてその先の左側の山車倉庫の前に本陣跡の表示が置かれています。
街道の右手は小高い山になっています。この山の上にかつて鳴海城(根古屋城)がおかれていました。鳴海城は応永年間(1394頃)に、足利義満の武将である安原宗範によって築かれた城ですが、その後、今川方の城になっていました。桶狭間の戦い後、義元の首と交換に鳴海城の明け渡しが行われ、その後は織田方の佐久間信盛、信栄父子が城主をつとめましたが、天正末期に廃城になりました。
街道を進んで行くと、「作町」の交差点にさしかかります。地名の作町は桶狭間の戦い後、鳴海城主を務めた佐久間信盛、信栄父子から付いたとされています。
東海道はここで鋭角的に右折し北へと方向をかえます。ここから200mほどの間には狭い道の両脇には若干ながら古い家が残っています。作町交差点から500mほど歩くと、旧街道は36号線と交差する三皿交差点にさしかかります。
幹線として利用されている36号線は車の往来も多く、大都市名古屋らしい雰囲気が感じられます。交差点の左方面にはヤマダ電機やナルパークのショッピングセンターが36号線に面して建っています。私たちは三皿交差点を渡り、直進していきます。
旧街道筋は三皿交差点を横切って北へと延びています。右側に「村社式内成海神社の石柱」がありますが、成海神社は室町時代の応永年間(1394~1427)に鳴海城(根古屋城)を築城の際、移転させられた神社でこの場所から東の方にあります。
神社の創建は朱鳥元年(686年)で、草薙剣が熱田に還座された時、日本武尊の縁により鎮座されたと伝えられ、根古屋城を築城の際、この東方にある乙子山(ふたごやま)に転座しました。
鳴海城(根古屋城)は今川氏が三河を支配していた当時、鳴海城は尾張の織田家に対する最前線基地として重要な城でした。このため信長は鳴海城の周辺に幾つもの砦を構築し、対峙していました。
そして永禄3年(1560)の桶狭間の合戦の際には、今川軍は大高城の周辺の織田勢の砦の排除を優先し、鳴海城周辺の砦に対する攻撃は後回しにされています。
この作戦は功を奏したかのように見えたのですが、織田勢はその間隙を縫って義元が陣を構える桶狭間への奇襲をかけ、見事義元の首をあげることができました。
義元が討たれた後、鳴海城は無傷のまま残るのですが、義元の首と交換に鳴海城の明け渡しが行われ、佐久間信盛親子が城主となります。尚、鳴海城は天正末期に廃城になります。
その先には「丹下町常夜燈」が建っています。傍らの案内板には、「鳴海宿の西の入口の丹下町に建てられた常夜燈」で、表に秋葉大権現、右に寛政4年(1792)、左に新馬中、裏に願主重因と刻まれています。この常夜灯が置かれている場所で鳴海宿は終わります。
鳴海宿から宮宿への道は北方あるいは北西へ向かう道筋となりますが、これは当時の海岸線に沿って街道がつづいていたことに由来します。そしてその海岸線は年魚市潟(あゆちがた)と呼ばれ、万葉集にも詠われた名勝地・景勝地だったといいます。そんな年魚市潟(あゆちがた)の「あゆち」から現在の愛知の名の由来といわれています。
前述のように道筋が北へ向かっているのは江戸時代には鳴海からこの先の熱田にかけて、街道の左側、すなわち西側は干潟か海だったため、道筋を西へ向けることができなかったのです。道筋は三王山交差点で県道59号線を渡り、直進すると山下西交差点で広い道と合流し、その先少し上り坂になります。そして天白川に架かる天白橋を渡ると名古屋市の南区に入ります。
天白川は江戸時代にはすでに今と同じ名前だったようです。東海道宿村大概帳には「天白川有」と記されています。東海道名所記には同じ名前ではありませんが、田畠橋(でんばくはし)とあり、橋の長さ15間(約30m)と書かれています。橋を渡りきると、天白橋西の信号交差点があり、さらにその先の赤坪町交差点を渡ります。このあたりは名古屋市の南に位置しており、下町らしい雰囲気を漂わせています。
赤坪町の信号交差点を過ぎると東海道はその先で右にカーブし道が狭くなっていきます。そしてその先の三差路になっているところにお江戸から88番目の「笠寺一里塚」があります。
笠寺一里塚
直径10メートル、高さ3メートルの土を盛った上に、大きく育った榎(えのき)が生えていて堂々とした姿の一里塚です。現在は東側だけが残り、反対側は大正時代に消滅したようです。この辺りから街道時代には笠寺の立場があったところです。そんな道筋を歩いていきますが、かつてあったであろう茶屋の家並みは残っていませんが、古そうな家が数軒街道脇に現れます。
一里塚から500mほど進むと立派な山門が現れ、山門の手前には池があります。その池の畔に天林山笠覆寺という石柱が建っています。その池に架かる橋を渡り、楼門をくぐると正面にご本堂が現れます。ここが笠寺観音として多くの参詣客を集めている「天林山笠覆寺(りゅうふくじ)」です。
笠寺石柱
山門
ご本堂
本尊は十一面観世音菩薩像です。ご本尊の十一面観音が笠をかぶっているので、笠覆寺あるいは笠寺の名で呼ばれてきました。笠寺の地名は寺名に由来します。天平8年(736)の開基とされますが、現在地にきたのは延長八年(930)に藤原兼平がお堂を建て、小松寺から笠覆寺に改めた時のことです。
◆笠寺縁起
聖武天皇の天平8年(736)のある日、呼続(よびつぎ)の浜辺に一本の浮木が漂着した。それが夜な夜な不思議な光を放ったので、付近の者はそれを見て恐れおののいた。この近くに住んでいた善光上人は、夢の中で不思議なお告げを受け、その浮木から十一面観世音菩薩像を刻み、堂を建立し、安置して天林山小松寺と名付けた。建立から百数十年も過ぎると、寺は荒れ果てて、本尊の観世音像は風雨にさらされたままになってしまった。
そんな頃、鳴海の長者のもとにいた少女は美貌なことへのねたみもあり、こき使われていた。ある雨の日、ずぶ濡れになっている観音様を見て可哀想に思い、自分が冠っていた笠を観音様にかぶせた。
それからしばらくたった頃、都から来た公卿が、鳴海宿に立ち寄り娘の話を聞いた。その公卿は関白の息子の中将藤原兼平である。
彼は心優しき娘をみそめ、妻として迎えた。彼女は玉照姫(たまてるひめ)と呼ばれた。延長八年(930)、兼平と玉照姫は、現在地にお寺を再建、姫が笠をかぶせた観音を本尊として祀り、寺名を笠覆寺(りゅうふくじ)と改名した。
笠寺の玉照姫と兼平公を祀るお堂
笠寺の多宝塔
実は街道を挟んでこの天林山笠覆寺(りゅうふくじ)に相対するように堂宇を構えるお寺があります。寺名は泉増院といいます。この泉増院の門前にも「玉照姫」と書かれた大きな石碑が置かれています。
この寺の本尊が玉照姫像といい、縁結びとして売り出しているのです。これは天林山笠覆寺(りゅうふくじ)の縁起で伝えられている玉照姫と藤原兼平とのロマンスをもとに、泉増院が玉照姫と兼平を祀るお堂を本殿の右前に再建し、玉照姫の本家はこちらと主張しPRに努めているのです。
さあ!笠寺を辞して街道の旅を続けていきましょう。寺の西門を出ると「大力餅」の看板があり、その隣は地蔵堂です。笠寺商店街と書かれていますが、門前町の雰囲気が漂う通りです。商店街を抜けると笠寺西門交差点に出ます。
交差点を越え、その先の名鉄の踏み切りを渡ったらすぐ右折し狭い道に入ります。これが旧東海道でここからしばらく車の少ない道が続きます。
ここからが呼続(よびつぎ)と呼ばれる地名が始まります。呼続という地名は、宮の宿より渡し舟の出港を「呼びついた」ことからといわれています。また江戸時代は、四方を川と海に囲まれた、陸の浮島のようなところだったらしく、巨松が生い茂っていたことから、松の巨嶋(こじま)と呼ばれていました。
しばらく行くと、左に入る道があり、突き当った右側に富部神社(とべじんじゃ)が社殿を構えています。
慶長8年(1603)に津島神社の牛頭天王を勧請し創建された神社ですが、尾張の領主、松平忠吉(徳川家康の四男)の病気快癒により、百石の所領を拝領し、本殿、祭文殿、回廊が建てられました。
本殿は一間社造で、桧皮葺き、正面の蟇股、破風、懸がい等は桃山様式を伝えており、国の重要文化財に指定されています。祭文殿も回廊もほとんど当時のまま残っています。 明治維新の神仏分離で、神宮寺は潰され、神社も廃されそうになったのですが、素盞鳴命(すさのうのみこと)を祀るということで、難を免れたといいます。
第2日目の行程はここ富部神社の参道入り口が執着地点です。名鉄富士松駅前から12.8キロを踏破しました。
明日はここから宮宿(宮の渡し)へと辿り、現在の渡し舟で伊勢の桑名へと向かいます。
私本東海道五十三次道中記 第29回 第1日目 来迎寺公園から名電富士松駅前
私本東海道五十三次道中記 第29回 第3日目 富部神社から宮の渡し
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