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豊かな歴史に彩られた日本の文化と歴史を紹介

私本東海道五十三次道中記 第29回 第2日目 富士松駅前から桶狭間古戦場、有松、鳴海宿を経て呼続の富部神社

2015年09月25日 09時32分50秒 | 私本東海道五十三次道中記


さあ!第29回の2日目が始まります。昨日の終着地点の名鉄富士松駅周辺が本日の出立地点となります。
本日はここ富士松からまずは5キロ先の桶狭間古戦場伝説地を目指します。その後、6キロ地点の「絞り染」で有名な有松を抜けて、8.5キロ地点の鳴海宿に至ります。

そして12キロ地点の笠寺観音をお参りし、本日の終着地点の富部神社参道入口までの12.8キロを踏破します。比較的長めの行程ですが、本日は見どころが満載です。

名電富士松駅前

私鉄の駅前にしては商店街もなく静かな雰囲気が漂っています。駅前のロータリーをあとにして旧街道筋へと進んで行きます。



旧街道に入り、住宅街の中を少し行くと県道と交差する地点にさしかかります。県道を跨ぐ歩道橋を渡ります。この先で旧街道は右にカーブしながら緩やかな下り坂となり、その先で再び国道1号に合流していきます。国道に合流する地点が今川交差点です。正面には敷島製パン(pasco)・刈谷工場の大きな建物が見えてきます。



国道1号に合流したら、左側に降りる道があり、国道の下をくぐる地下道へ入っていきます。地下道をくぐりぬけると信号交差点があるので、これを渡り国道から分岐する右側の道に入っていきます。
右手には敷島製パン(pasco)の大きな工場が迫ってきます。小さな橋を渡ると左手に大型浴場やパチンコなどの遊戯関係の大きな建物が現れます。この辺りは住宅街ではなく、少し寂しい感じの道筋に変ってきます。

そしてまた川が現れます。川の名前は「境川」といいます。この川はかつて三河と尾張の国境だったのです。境橋は江戸初期の東海道の開設時に三河と尾張の立会いのもとで作られた橋ですが、当初、三河側は土橋、尾張側が木橋でこれをほぼ中央でつなぐ継ぎ橋だったようです。
その当時の橋を詠んだ歌碑が橋を渡った右側の川岸に残っています。
「うち渡す 尾張の国の 境橋 これやにかわの 継目なるらん」
その後、橋は洪水で度々流され、やがて継橋は一続きの土橋になりました。明治に入って欄干付きになり、現在の橋は平成7年に完成した新しい橋です。

境川

この川を挟んで三河と尾張の両地域は昔から気質が異なっていたといいます。必ずしもあたっているかどうかわかりませんが、尾張を代表する武将である秀吉は派手というか、見栄っ張り、一方、三河を代表する武将である家康公はよく言えば質実剛健、悪く言えば「どんくさい」のでは?
言葉も「みゃーみゃー」いうのは尾張ですが、三河地方は前述のように「どんくさい発音」に聞こえます。境川を渡ると三河国今川村から尾張国東阿野村(現豊明市)に入ります。

前方には愛知万博開催時に開通した伊勢湾岸道路が見えてきます。この辺りは国道1号、国道23号、県道などが交差する交通の要です。街道は緩やかな下り坂になり、その先で道筋は左手にカーブをきりながら、伊勢湾岸道の下へとつづいていきます。



伊勢湾岸道の下をくぐると、豊明駅東の信号交差点にさしかかります。ここから名鉄豊明駅を左に見ながら国道1号線に沿って歩きます。風景は賑やかな幹線沿いの住宅街へと変わります。国道1号線に沿っておよそ800m歩くと県道を跨ぐ陸橋が見せてきます。陸橋が見える辺りが「池下の交差点」です。その交差点の手前で旧街道は左へと分岐します。
車の騒音が耳障りな国道1号から分岐し、旧街道は静かな道筋へと入っていきます。そんな道筋に入るとすぐに「国指定史跡阿野一里塚200m 」の表示板が置かれています。



富士松駅前から歩き始めておよそ2.5キロで、お江戸から数えて86番目の「阿野一里塚」に到着します。

阿野一里塚
阿野一里塚

街道の両側に一里塚が残っていますが、塚の部分は大きく崩れて原形は留めていません。木が植えられているのですが、榎なのかは判別できません。左右の一里塚跡は小さな公園のようになっています。原型をとどめている一里塚はこれまで幾つか見てきましたが、それらはこの阿野一里塚より、はるかに形が残っていました。
こんなに形が崩れた阿野の一里塚なのですが、一応「国指定史跡」になっているのですね。

左側の一里塚の中に入ると句が刻まれている歌碑が置かれています。
「春風や坂をのぼりに馬の鈴」(市雪) 
ここからは前後(地名)に向かって上り坂になっています。そんな坂をのぼりつつ詠われたのでしょう。「春風に馬の鈴が蘇えるようにひびき、道には山桜が点在して旅人の心を慰めてくれる 」という意味です。 

一里塚を過ぎると、市雪の歌のように道筋は緩やかな上り坂へ変ります。豊明小学校と郵便局を過ぎると、街道の左側に三田(さんだ)皮ふ科が現れます。その病院の右隣の家はそれはそれは立派なお屋敷です。

三田邸

ここ三田邸(さんだ)は明治天皇が明治元年の東京への行幸途中と、翌年明治2年の京へお帰りになる途中に休息をされた場所です。三田邸の鉄扉の隙間から覗くと、なんと明治天皇御小休所の石柱が庭先に置かれています。個人の住宅の敷地の中なので外から見るしかありません。

明治天皇御小休所碑

登り坂はこの先の街道右側の坂部善光寺辺りで終わります。そして少し歩くと、名鉄前後駅前交差点です。



「前後駅前交差点」を過ぎると左側にビルが建っています。その一画が名鉄名古屋本線の前後駅です。
駅前には駅と直結した駅ビルが建ち、お洒落な感じがします。

「前後」という地名はたいへん珍しいのですが、この名前の由来はあの「桶狭間の戦い」のあと、織田方の雑兵が褒賞をもらうため、自分が倒した敵方の首を切り取って、前と後に振り分け荷物のようにして、肩に担いだという話から付いたと言われています。そんな話が残ることから、桶狭間古戦場跡はここから近いということになります。

それでは前後の駅前を進み、旅をつづけていきましょう。歩き始めて4キロ地点を過ぎたあたりに神明社の石柱と常夜燈が現れます。そしてちょっと先の街道右側の落合公会堂の前に「寂応庵跡」の石碑が置かれています。

寂応庵とは江戸末期の慶応元年(1865)、知多郡北崎村(大府市)の素封家「浜島卯八」の三女の「とう」が寂応和尚の感化を受け、東海道の旅人の難儀を救わんと、剃髪して仏門に入り「明道尼」と改名しました。
その明道尼は街道に面した落合の集落に浜島卯八の援助で「寂応庵」を建て、無料休憩所を開設しお茶の接待をしたといいます。

この辺りの街道筋には古い家と新しい家が混在しています。新栄町の信号交差点を過ぎると、旧街道は緩やかに左へカーブをします。そして前後駅からおよそ1.5キロで旧街道は再び国道1号と合流します。



合流地点は三叉路になっており、交差点の右側に馬蹄の上に馬が乗った像が立っています。何故かというと、この先の名鉄の高架をくぐると名鉄中京競馬場駅があるからです。競馬場入口交差点あたりは駅前らしく、ほんの少し賑やかな雰囲気を漂わせています。



名鉄名古屋本線の高架をくぐると、歩き始めて5キロ地点です。ここでいったん旧街道から逸れて、本日の最初のハイライトである「桶狭間古戦場の伝説地」へ向かうことにします。

旧街道から逸れて、わずかながらの坂道を登ると前方にこんもりとした林が見えてきます。この林がある場所が「桶狭間古戦場の伝説地」なのです。右手にはビッグケイと呼ばれる介護施設が建っています。
さあ!古戦場伝説地の入口に到着です。入口には「史蹟桶狭間古戦場」の石柱が立っています。

桶狭間古戦場パンフレット
古戦場伝説地の入口
桶狭間古戦場の伝説地

古戦場伝説地は重要な史跡であることを感じさせるように綺麗に整備された公園になっています。公園内には遊歩道がつけられて園内を回遊することができます。

永禄3年(1560)5月19日、今川義元織田信長軍の奇襲により戦死したところと伝えられ、田楽狭間とか館狭間と呼ばれている場所です。園内に入り回遊路を右に進むと細長い標石が立っています。これが「七石表」の1号碑です。

義元公戦死の場所

1号碑は今川義元が戦死した場所を明示した最も古いもので、明和8年(1771)12月、鳴海下郷家の出資により、人見弥右衛門等により建てられたものです。この標石には北面に今川上総介義元戦死所、東面、樋峡七石表之一、南面、明和8年辛卯12月18日と刻まれています。
二号碑は義元の重臣・松井宗信が戦死した場所、三号碑から七号碑までも義元の側近たちが戦死した場所を示しているとのことです。

七石表の先の樹木に囲まれたところに、義元が亡くなったところと伝えられがあります。この塚は有松の人たちが主唱し、明治9年5月に塚を建てたとあります。この場所には義元の遺骸はない訳ですから、慰霊碑といった方が正確なのではないでしょうか?

義元公の塚

その先の古戦場案内板の脇に、大きな石碑が建っています。「桶狭間弔古碑」と呼ばれるものです。

桶狭間弔古碑

文化6年(1809)5月に津島神社社司「氷室杜豊長」が建てた「桶狭間合戦の戦記」です。左側には香川景樹の歌碑が置かれています。

香川景樹の歌碑
 
「あと問えば 昔のときのこゑたてて 松に答ふる 風のかなしさ」 景 樹 
香川景樹は桂園派の巨匠で江戸にでて、己の歌風を広めようと上府しましたが、迎えられず失意のまま帰途の途中、ここを通り今川義元の無念を思ってこの歌を詠んだといいます。

古戦場伝説地の脇の道路を挟んで反対側の高台には「高徳院」という寺が堂宇を構えています。実はこの高徳院の斜面に義元公の墓が置かれています。墓といってもこれも供養塔です。

義元公の供養塔
義元公の供養塔
斜面の石仏群

この供養塔は幕末の万延元年(1860)、義元の三百忌に建てられたもので、これには法名が刻まれています。寺の山門へとつづく石段を上って行き、山門をくぐると義元本陣の跡と書かれた石柱が立っています。敷地には敵味方の戦死者を弔う石仏群があります。

高徳院山門
義元本陣跡碑

実は桶狭間古戦場は2ケ所あります。ここ以外にはここから1キロほど南の名古屋市緑区桶狭間北にある桶狭間古戦場公園という場所です。戦国時代の一ページを飾る重要な場所であるにもかかわらず、豊明市側の桶狭間古戦場跡には資料館ひとつありません。それぞれが、ここが本当の「桶狭間古戦場」と主張しているため、おそらくどちらか一方に偏って資料館を造るのができないのではないでしょうか。とはいえ政府は昭和12年にこれまでの伝承と江戸時代に建てられた七石表を根拠として、ここを桶狭間古戦場として国史跡に指定しています。

さあ!桶狭間古戦場跡を後に、旧街道へ戻ることにしましょう。



桶狭間合戦場伝説地からいったん国道1号の交差点に戻りますが、すぐに左側へとのびる旧街道へ入っていきます。旧街道の道筋はほんの僅か歩いたところで大将ヶ根の信号交差点にさしかかります。大将ヶ根の信号交差点を渡ると、私たちは名古屋市へ入っていきます。

「大将ヶ根」という地名の由来は、あの桶狭間の合戦で信長が辿った道筋だったことから名付けられています。
ちょうど1号線を渡る手前が少し高台で、信号を渡ると道筋は下り坂となり、かつては窪地であったことが窺がわれます。
すなわち狭間という地名があることから、高台と高台の間の狭間がこのあたりにはいくつもあったと思われます。

大将ヶ根交差点を渡り、1号線から分岐するように斜め右へとつづく旧街道へと入って行くと、本日2回目のハイライトである「有松」に到着です。江戸時代の有松の町はこの先の「まつのねばし」を渡ったところから始まります。「まつのねばし」に至る途中、街道の左側に古い商家が一軒現れます。「近喜」の屋号を持つ有松絞りを造っているお店です。店先には染色前の糸でくくった木綿布が段ボールに入れて無造作に置かれていました。



さすが絞りの名産地「有松」といった印象です。ここ有松は東海道中の宿場町ではないのですが、江戸時代からの絞り染めの問屋の豪壮な建築物が残っています。近喜のある場所はまだ有松の中心ではないのですが、逸る気持ちを抑えつつ「まつのねばし」へと進んでいきます。

有松のパンフレット

有松は江戸時代の初期の慶長13年(1608)に尾張藩が桶狭間村の有松集落を分村し、知多郡阿久比村から11戸を移住させ、安永2年(1773)に間の宿にしました。有松は耕地も少なく、茶屋としての営みにも限界があったため、尾張藩は副業として「絞染」を奨励し、それが新しい産業に育ったのです。

有松絞りはそもそも九九利染めといわれていました。有松絞りが始まるきっかけは、江戸時代の初期(慶長15年/1610)に二代将軍秀忠公が命じた名古屋城普請に集められた大名の家臣の中に、九州の豊後からやってきた人たちが身に着けていた絞り染の手拭に、ここ有松出身の竹田庄九郎が目をつけたことと言われています。

そしてその後、三河、知多で生産されていた木綿布と連動して有松絞りが発達したと言われています。 
18世紀後半には隣村の鳴海、大高あたりまで絞り産業は拡大し、その営業権をめぐって有松との紛争をおこすほどになったといいます。

それでは歴史的建造物が多く残る有松へと進んでいきましょう。有松の町を貫く街道は電信柱がなく、すっきりした佇まいを見せています。

有松の景
有松の景
有松の景

少し歩くと右側に有松の良き時代の産物といえる「山車倉」があります。高山祭に登場する山車と同様、からくりを演じる優れもので有料ですが見学できるようになっています。

山車会館
山車会館

◇有松山車会館
有松に伝わる見事な山車三輌〔布袋車・唐子車・神功皇后車〕を毎年交代に展示し、有松のまつり文化を紹介しています。慶長年間より現在まで400年を経て、現在でも江戸時代の風情を色濃く残し、落ち着いた雰囲気を醸し出している有松の歴史を展示しています。
☎052-621-3000
営業時間:10:00~16:00
開館曜日:土日祝日のみ開館
入館料:大人200円

有松山車会館の横の路地を挟んで右側には「寿限無茶屋」が店を構えています。

寿限無茶屋

その先の左側に有松鳴海絞会館があります。ここは名古屋市に併合される前の有松町役場跡ですが、絞り商品の展示や絞り技術の実演を行っています。入口脇には喫茶店が併設されています。

有松鳴海絞会館

有松絞りが一躍有名になったのは、江戸時代の五代将軍綱吉公のころで、将軍に献上した絞りの手綱が話題となり、全国津々浦々まで名声を轟かせることになったといわれています。
そして有松は江戸時代はもとより、明治、大正、昭和初期まで活況を呈するのですが、現在に残る豪壮な建物やその建物を飾る装飾は有松が繁栄を謳歌し、惜しげもなく金をつぎ込んだ証そのものなのです。そんな様子を「田舎に京の有松」と言われるようにまでなったのです。その中でも「井桁屋服部家」の建物は有松の中でも一二を争うほどの素晴らしいものです。

井桁屋服部家
井桁屋服部家

井桁屋の建物の店舗兼住居部は瓦葺に塗籠(ぬりごめ)造りで、卯達を設け、蔵は土蔵造りで腰になまこ壁を用い、防火対策を施している絞り問屋を代表する建築物です。これまでいくつもの宿場を辿ってきましたが、これほどまでに過ぎ去った時代の建築物がそっくりそのまま残っている町はありませんでした。有松の豪壮な建築物は奇跡的に残った「野外博物館」そのものです。

それでは有松絞会館から先へと進んでいきましょう。有松の町並みはまだしばらくつづきます。電信柱がなく、かつ高層建築がないため町並みはスッキリしています。



有松の家並み
有松の家並み
有松の家並み
有松の家並み

道筋は比較的大きな信号交差点にさしかかります。この交差点を右手に進むと名鉄有松駅へとつづいています。交差点を渡っても有松の古い家並みはその先につづいています。街道右側に背の高い建物が現れます。もう一つの山車蔵です。建物の高さから中に格納されている山車がかなり背丈が高いものであることが窺えます。

山車蔵
有松家並み
連格子の家

そして街道左手に見事な問屋造りの建物が現れます。この建物は有松を代表する絞り問屋「竹田嘉兵衛商店」です。

竹田嘉兵衛商店
竹田嘉兵衛商店

竹田嘉兵衛商店の屋号は笹加です。現在8代目。建物は江戸末期から明治期にかけての絞り問屋の特徴をよく残した建物で、明治から大正にかけて増改築されました。特に主屋と書院、茶席は重厚な造りで他に蔵が5棟あり、建築学的にも貴重な建物となっています。
建築様式としては1階に連子格子、海鼠壁、2階は黒漆喰の塗籠造りに虫籠窓の有松の商家の伝統的形態を踏襲しています。主屋の屋根には明治期のガス燈の名残のランプがあります。平成7年名古屋市指定有形文化財になりました。

竹田嘉兵衛商店を過ぎても、有松の風情ある家並みは先につづいています。まるで時代劇のセットの中を歩いているかのようです。

有松の家並み
有松の家並み
有松の家並み
山車蔵

有松の町の西のはずれに近づいてきました。街道右手に祇園寺が山門を構えています。この祇園寺を過ぎると有松の古い家並みはふいに途切れてしまいます。そして現代に無理やり引き戻されるように、前方に名古屋第二環状の近代的な道路と橋脚が目に飛び込んできます。

その名古屋第二環状のほぼ真下にくると、古い有松の家並みは完全に終わります。そんな場所に置かれているのが、現代版の有松の一里塚です。お江戸から数えて87番目の一里塚ですが、平成22年に新たに再現されたもので、やたら新しく趣を感じない代物です。

87番目の一里塚

第二環状道路をくぐると、今度は名鉄名古屋本線の踏切が現れます。踏切を渡ると小さな川に架かる「かまとぎばし」が現れます。この橋を境に「有松の間の宿」は終わります。

感動的な有松を後に、次の目的地である「鳴海宿」を目指すことにします。有松をでると「絞り」とはまるで無縁な町並みとなり、無味乾燥な住宅街へと変貌します。有松を出てそれほどの距離ではないのですが「絞り」関係の店がまったく現れないのは不思議です。



そんな面白味のない光景を眺めながら進むと四本木(しほんぎ)の交差点にさしかかります。四本木交差点の右側の山裾に左京山住宅が拡がっています。そしてその先の平部あたりは名古屋のベットタウンで新しいマンションや団地が立ち並んでいます。まもなくすると平部北信号交差点にさしかかります。有松からわずか1キロでかつての鳴海宿の江戸見附に到着します。
ここから旧鳴海町、現在は名古屋市緑区鳴海町です。

平部北交差点の左側に常夜燈が置かれています。表面に秋葉大権現、左側に永代常夜燈、右側に「宿名内為安全」、裏面に文化三丙寅(1806)正月と刻まれているので、江戸時代はここが鳴海宿の江戸側の入口だったようです。さあ!それでは鳴海宿へと入って行きましょう。

現在の鳴海宿内はかつてここがほんとうに宿場町であったことを全く感じさせてくれません。というのも古い家並みが全くないからなのでしょうか。かつて有松と絞り生産で凌ぎを削った町とは思えないほど、寂びれているといったほうがいいくらいです。



平部北の江戸見附からおよそ500m歩いたところに扇川に架かる中島橋が現れると、お江戸から数えて40番目の鳴海宿の中心部に入ってきます。

鳴海宿は、天保14年の東海道宿村大概帳によると、東西15町18間(約1.6km)に、家数847軒、人口3643人、本陣は1軒、脇本陣は2軒、旅籠の数は268軒とかなりの規模の宿場町で広重の東海道五十三次の浮世絵には、旅籠の様子が描かれています。

鳴海は有松と共に絞りで知られたところでしたが、有松の方が生産や販売力が向上したので、鳴海と有松との間で絞りの販売権をめぐって紛争が起こったといわれています。

鳴海宿に入ると、すぐ右手にあるのが瑞泉寺で、重層本瓦葺の黄檗風四脚門の総門は、宇治黄檗山万福寺を模したもので、県の指定文化財になっています。
瑞泉寺は寛保元年(1741)以降、呑舟和尚により再建され、宝暦5年に堂宇が完成しました。境内には宝暦6年(1766)に建立した本堂、書院、僧堂や秋葉堂などの伽藍が並び、壮観な姿を見せています。

瑞泉寺山門
瑞泉寺本堂

鳴海は狭い地域に集中して比較的寺院が多い宿場町です。街道の右側奥に淨泉寺、万福寺が堂宇を構えています。万福寺は永享年間、三井右近太夫高行の創建で真宗高田派。永禄3年(1560)の兵火で焼失しましたが再建され、江戸末期に再々建されました。 
明治6年(1873)に万福寺は鳴海小学校の仮校舎となり、校名を広道学校とした、と寺の案内にあります。

街道を進むと、その先は鉤型のように右に曲がっています。この辺りからが鳴海の宿場の中心で、左側の緑生涯学習センターは問屋場跡のようです。昭和38年の名古屋市との合併までは鳴海町役場として使われていました。

本町交差点を右折すると、幾つかの寺があります。交差点を渡ってほんの僅か右手に進むと誓願寺があります。

誓願寺山門
誓願寺本堂

誓願寺は天正元年(1573)の創建で本尊は阿弥陀如来ですが、境内に芭蕉供養塔芭蕉堂があることで有名です。

実は芭蕉の門下に下里知足という人物がいます。この知足はここ鳴海宿で千代倉という屋号の造り酒屋を営んでいました。資産家である知足は芭蕉のスポンサーの一人だったようです。また芭蕉は「笈の小文」の旅の途中、ここに休息しています。
そんな縁で芭蕉没後164年経った安政5年(1858)に、知足の菩提寺であるこの寺に芭蕉堂が建てられました。尚、芭蕉供養塔は芭蕉が没した一ヶ月後の元禄7年(1694)11月12日に追悼句会が営まれた折、鳴海の門下達によって鳴海宿内の如意寺に建てられたもので日本最古の芭蕉碑と言われています。

芭蕉碑

旧街道をさらに進んでいきましょう。街道を進むと自転車屋が店を構えていますが、この辺りに脇本陣があったといわれていますが、なんの表示もありません。そしてその先の左側の山車倉庫の前に本陣跡の表示が置かれています。

街道の右手は小高い山になっています。この山の上にかつて鳴海城(根古屋城)がおかれていました。鳴海城は応永年間(1394頃)に、足利義満の武将である安原宗範によって築かれた城ですが、その後、今川方の城になっていました。桶狭間の戦い後、義元の首と交換に鳴海城の明け渡しが行われ、その後は織田方の佐久間信盛、信栄父子が城主をつとめましたが、天正末期に廃城になりました。
街道を進んで行くと、「作町」の交差点にさしかかります。地名の作町は桶狭間の戦い後、鳴海城主を務めた佐久間信盛、信栄父子から付いたとされています。

東海道はここで鋭角的に右折し北へと方向をかえます。ここから200mほどの間には狭い道の両脇には若干ながら古い家が残っています。作町交差点から500mほど歩くと、旧街道は36号線と交差する三皿交差点にさしかかります。
幹線として利用されている36号線は車の往来も多く、大都市名古屋らしい雰囲気が感じられます。交差点の左方面にはヤマダ電機やナルパークのショッピングセンターが36号線に面して建っています。私たちは三皿交差点を渡り、直進していきます。



旧街道筋は三皿交差点を横切って北へと延びています。右側に「村社式内成海神社の石柱」がありますが、成海神社は室町時代の応永年間(1394~1427)に鳴海城(根古屋城)を築城の際、移転させられた神社でこの場所から東の方にあります。
神社の創建は朱鳥元年(686年)で、草薙剣が熱田に還座された時、日本武尊の縁により鎮座されたと伝えられ、根古屋城を築城の際、この東方にある乙子山(ふたごやま)に転座しました。

鳴海城(根古屋城)は今川氏が三河を支配していた当時、鳴海城は尾張の織田家に対する最前線基地として重要な城でした。このため信長は鳴海城の周辺に幾つもの砦を構築し、対峙していました。
そして永禄3年(1560)の桶狭間の合戦の際には、今川軍は大高城の周辺の織田勢の砦の排除を優先し、鳴海城周辺の砦に対する攻撃は後回しにされています。
この作戦は功を奏したかのように見えたのですが、織田勢はその間隙を縫って義元が陣を構える桶狭間への奇襲をかけ、見事義元の首をあげることができました。
義元が討たれた後、鳴海城は無傷のまま残るのですが、義元の首と交換に鳴海城の明け渡しが行われ、佐久間信盛親子が城主となります。尚、鳴海城は天正末期に廃城になります。

その先には「丹下町常夜燈」が建っています。傍らの案内板には、「鳴海宿の西の入口の丹下町に建てられた常夜燈」で、表に秋葉大権現、右に寛政4年(1792)、左に新馬中、裏に願主重因と刻まれています。この常夜灯が置かれている場所で鳴海宿は終わります。

鳴海宿から宮宿への道は北方あるいは北西へ向かう道筋となりますが、これは当時の海岸線に沿って街道がつづいていたことに由来します。そしてその海岸線は年魚市潟(あゆちがた)と呼ばれ、万葉集にも詠われた名勝地・景勝地だったといいます。そんな年魚市潟(あゆちがた)の「あゆち」から現在の愛知の名の由来といわれています。 

前述のように道筋が北へ向かっているのは江戸時代には鳴海からこの先の熱田にかけて、街道の左側、すなわち西側は干潟か海だったため、道筋を西へ向けることができなかったのです。道筋は三王山交差点で県道59号線を渡り、直進すると山下西交差点で広い道と合流し、その先少し上り坂になります。そして天白川に架かる天白橋を渡ると名古屋市の南区に入ります。



天白川は江戸時代にはすでに今と同じ名前だったようです。東海道宿村大概帳には「天白川有」と記されています。東海道名所記には同じ名前ではありませんが、田畠橋(でんばくはし)とあり、橋の長さ15間(約30m)と書かれています。橋を渡りきると、天白橋西の信号交差点があり、さらにその先の赤坪町交差点を渡ります。このあたりは名古屋市の南に位置しており、下町らしい雰囲気を漂わせています。



赤坪町の信号交差点を過ぎると東海道はその先で右にカーブし道が狭くなっていきます。そしてその先の三差路になっているところにお江戸から88番目の「笠寺一里塚」があります。

笠寺一里塚

直径10メートル、高さ3メートルの土を盛った上に、大きく育った榎(えのき)が生えていて堂々とした姿の一里塚です。現在は東側だけが残り、反対側は大正時代に消滅したようです。この辺りから街道時代には笠寺の立場があったところです。そんな道筋を歩いていきますが、かつてあったであろう茶屋の家並みは残っていませんが、古そうな家が数軒街道脇に現れます。

一里塚から500mほど進むと立派な山門が現れ、山門の手前には池があります。その池の畔に天林山笠覆寺という石柱が建っています。その池に架かる橋を渡り、楼門をくぐると正面にご本堂が現れます。ここが笠寺観音として多くの参詣客を集めている「天林山笠覆寺(りゅうふくじ)」です。

笠寺石柱
山門
ご本堂

本尊は十一面観世音菩薩像です。ご本尊の十一面観音が笠をかぶっているので、笠覆寺あるいは笠寺の名で呼ばれてきました。笠寺の地名は寺名に由来します。天平8年(736)の開基とされますが、現在地にきたのは延長八年(930)に藤原兼平がお堂を建て、小松寺から笠覆寺に改めた時のことです。

◆笠寺縁起
聖武天皇の天平8年(736)のある日、呼続(よびつぎ)の浜辺に一本の浮木が漂着した。それが夜な夜な不思議な光を放ったので、付近の者はそれを見て恐れおののいた。この近くに住んでいた善光上人は、夢の中で不思議なお告げを受け、その浮木から十一面観世音菩薩像を刻み、堂を建立し、安置して天林山小松寺と名付けた。建立から百数十年も過ぎると、寺は荒れ果てて、本尊の観世音像は風雨にさらされたままになってしまった。  

そんな頃、鳴海の長者のもとにいた少女は美貌なことへのねたみもあり、こき使われていた。ある雨の日、ずぶ濡れになっている観音様を見て可哀想に思い、自分が冠っていた笠を観音様にかぶせた。
それからしばらくたった頃、都から来た公卿が、鳴海宿に立ち寄り娘の話を聞いた。その公卿は関白の息子の中将藤原兼平である。 
彼は心優しき娘をみそめ、妻として迎えた。彼女は玉照姫(たまてるひめ)と呼ばれた。延長八年(930)、兼平と玉照姫は、現在地にお寺を再建、姫が笠をかぶせた観音を本尊として祀り、寺名を笠覆寺(りゅうふくじ)と改名した。

笠寺の玉照姫と兼平公を祀るお堂
笠寺の多宝塔

実は街道を挟んでこの天林山笠覆寺(りゅうふくじ)に相対するように堂宇を構えるお寺があります。寺名は泉増院といいます。この泉増院の門前にも「玉照姫」と書かれた大きな石碑が置かれています。
この寺の本尊が玉照姫像といい、縁結びとして売り出しているのです。これは天林山笠覆寺(りゅうふくじ)の縁起で伝えられている玉照姫と藤原兼平とのロマンスをもとに、泉増院が玉照姫と兼平を祀るお堂を本殿の右前に再建し、玉照姫の本家はこちらと主張しPRに努めているのです。

さあ!笠寺を辞して街道の旅を続けていきましょう。寺の西門を出ると「大力餅」の看板があり、その隣は地蔵堂です。笠寺商店街と書かれていますが、門前町の雰囲気が漂う通りです。商店街を抜けると笠寺西門交差点に出ます。
交差点を越え、その先の名鉄の踏み切りを渡ったらすぐ右折し狭い道に入ります。これが旧東海道でここからしばらく車の少ない道が続きます。



ここからが呼続(よびつぎ)と呼ばれる地名が始まります。呼続という地名は、宮の宿より渡し舟の出港を「呼びついた」ことからといわれています。また江戸時代は、四方を川と海に囲まれた、陸の浮島のようなところだったらしく、巨松が生い茂っていたことから、松の巨嶋(こじま)と呼ばれていました。

しばらく行くと、左に入る道があり、突き当った右側に富部神社(とべじんじゃ)が社殿を構えています。
慶長8年(1603)に津島神社の牛頭天王を勧請し創建された神社ですが、尾張の領主、松平忠吉(徳川家康の四男)の病気快癒により、百石の所領を拝領し、本殿、祭文殿、回廊が建てられました。
本殿は一間社造で、桧皮葺き、正面の蟇股、破風、懸がい等は桃山様式を伝えており、国の重要文化財に指定されています。祭文殿も回廊もほとんど当時のまま残っています。 明治維新の神仏分離で、神宮寺は潰され、神社も廃されそうになったのですが、素盞鳴命(すさのうのみこと)を祀るということで、難を免れたといいます。

第2日目の行程はここ富部神社の参道入り口が執着地点です。名鉄富士松駅前から12.8キロを踏破しました。
明日はここから宮宿(宮の渡し)へと辿り、現在の渡し舟で伊勢の桑名へと向かいます。

私本東海道五十三次道中記 第29回 第1日目 来迎寺公園から名電富士松駅前
私本東海道五十三次道中記 第29回 第3日目 富部神社から宮の渡し

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私本東海道五十三次道中記 第29回 第1日目 来迎寺公園から名電富士松駅前

2015年09月24日 14時43分36秒 | 私本東海道五十三次道中記


私たちの東海道の旅は東三河から西三河へと駒を進め、29回を迎える今回はいよいよ三河とお別れし尾張国へと入っていきます。
第一日目は來迎寺公園から西三河の39番目の宿場町、池鯉鮒(知立)を抜けて、名電富士松駅前までの6.8kmを歩きます。



来迎寺公園脇を出立すると街道の右手に「御鍬神社」の鎮守の森が現れます。なんと「マムシ注意」の警告看板が置かれています。神社境内には入らずに、街道を進んで行きましょう。来迎寺町の信号交差点にさしかかります。
この交差点はT字路になっており、そのT字路の角に「元禄時代の道標」が置かれています。
この道標に従って北へ進むこと670mで在原業平と所縁のある「無量寿寺」が山門を構えています。

無量寿寺が堂宇を構えているところは「八橋」と呼ばれています。そしてここ八橋を有名にしたのは、あの伊勢物語の東下りの記述です。
「ある男(業平自身)が東下りの途中、道に迷いながらもこの地に辿り着いたのです。川が幾筋もまるで蜘蛛の手のように流れ、その流れに八つの橋が架けられていたので「八橋」と呼ばれていました。
そしてその水の流れの中に「かきつばた(杜若)」が美しい花をつけていたのを見つけ、男は連れのものに「かきつばた」の五文字を句の上に置いて歌を詠んでみようということになった。
そして詠まれたのが、「唐衣 きつつなれにし つましあれば はるばるきぬる 旅をしぞ思う」の歌です。

この歌の意味は「唐衣を着慣れるように、慣れ親しんだ妻が都にいるので、はるばるここまでやってきた旅の辛さを身にしみて感じている」と心情を表しています。

元禄の道標から、ほんの僅かな距離を歩くと、住宅街の中にふいに現れるのが県指定の史跡である来迎寺一里塚(84)です。街道の右側の塚の高さは3.5mで塚にはクロマツが植えられています。この一里塚には榎ではなく、代々黒松が植えられています。右側の塚は街道に面した公民館の建物に隠れるように佇んでいます。また左側の塚は半分が崩されて原型は失っていますが、平成8年に県指定の史跡に追加されています。

来迎寺一里塚(右)
来迎寺一里塚(左)

私たちが歩いているあたりは「来迎寺町」と呼ばれています。その名のいわれは街道の北側奥に堂宇を構える「来迎寺」があるからなのです。寺伝によると、当寺は平安時代の承平元年(931)に山城の国「宇治平等院」より『来迎寺印』という僧が当地にやってきて、その僧によって開基されたと言われています。その後、今崎城主、村上兵部兼房なる者の免許の除地として寺門が興隆し、来迎法印の『来迎』が寺号となり『来迎寺』となりました。その後、この地にも人家もでき、寺名から『来迎寺村』というようになり、現在は来迎寺町と呼ばれています。



一里塚を過ぎると、街道の両側には住宅街がつづきます。明治用水緑道の入口を過ぎると、来迎寺公園から1.4キロほどいったところに旧街道を跨ぐ衣浦豊田道路にさしかかります。この道路の真下が新田北交差点です。
この交差点は横断歩道がなく、歩道橋を渡って反対側へと移動します。歩道橋を渡り、ローソン前辺りが、歩き始めて1.5キロ地点です。

歩道橋上からみる松並木

歩道橋を下りると、前方に延びる旧街道の両側に整然と並んでいるのが「知立の松並木」(別名並木八丁)です。並木八丁ですから、本来は870mほどの続いていたはずです。街道の両側は工場が立ち並び、ひっきりなしに車が行き交い、松の木にとってはいい環境とは言い難いのですが…。
慶長9年(1604)、幕府の命により道路が改修され松並木が整備されました。その後、宝暦年間(1751)に並木の手入れ、小堤を造成し田畑との境杭を打たせました。安永年間(1772)再び並木の手入れをし、敷地を9尺以上(2m72cm)としました。

松並木に入り歩き始めると、歌碑が一つ現れます。碑面にはこんな歌が刻まれています。
「初雪や 知立の市の 銭叺(ぜにかます)」※季語が初雪なので、市は馬市でなく木綿市ではないでしょうか。
歌の意味は木綿市の賑わいとその繁盛ぶりが込められています。「叺(かます)」とは藁でできた「むしろ」を二つ折にして横を閉じて袋状にしたものです。その「叺(かます)」に木綿の取引で儲けた銭がたくさん入っている様子を詠ったものです。



松並木は八丁より短い約500mに渡って170本の松が残り、往時の東海道の姿をとどめています。
そしてこの松並木の特徴は側道を持っていることなのですが、実はかつてここで行われていた馬市の馬をつなぐためのものと思われます。また、この付近一帯には最盛期の頃は400頭から500頭の馬が繋がれ、馬の値段を決めるところを談合松と呼ばれていたようです。

松並木
松並木
松並木
松並木
松並木

松並木が終わるすこし手前に置かれているのが「馬市の碑」です。かつてここ池鯉鮒(知立)で行われていた「馬市」の跡を記した碑です。

馬市の石碑

知立は古来より「馬市」「木綿市」が開かれた土地で、中世は鎌倉街道の要衡として栄え、江戸時代には東海道の宿場として賑わった場所です。広重は「池鯉鮒宿」「首夏馬市(しゅかうまいち)」と題し、東野で行われた馬市の様子を描いています。

首夏馬市は毎年首夏(陰暦四月)、陰暦4月25日〜5月5日頃に開かれていました。
知立は木綿の集散地で、馬が運搬に使われた関係から馬市が栄えたといわれています。尚、木綿市は時期を定めず、取引が行われていたようです。
尚、馬市は昭和初期までに馬が牛に代わったものの、鯖市も兼ねて賑わいましたが、昭和18年を最後に幕を閉じました。

馬市の碑の傍らには「万葉歌碑」が置かれています。
碑面には西暦702年、持統天皇が三河行幸の時に詠まれた歌が刻まれています。
「引馬野爾 仁保布榛原 入乱 衣爾保波勢 多鼻能 知師爾  長忌寸 奥麻呂」
(ひきまのに にほふはりはら いりみだれ ころもにほはせ たびの しるしに  ながのいみき おくまろ)
歌の意味は「引馬の野に色づいている榛原(ハンの木の林)に分け入って、ハンの木の樹皮からあふれ出る樹液を、旅の想い出に衣につけてみましょう。」

松並木が終わる頃、左手にファミリーマートが現れます。御林交差点で旧街道は国道1号と県道51号にいったん合流します。道筋は三叉路になっており、旧街道は一番左側へと繋がっています。
前方に尖塔をもつ教会風建造物(ベルサイユガーデン)が現れます。教会風ということは、結婚式場なのですが、愛知県に入るとこのような堂々とした教会風建造物を併設する結婚式場がやたら多くなるような気がします。
というのも、愛知県の一部の地域では結婚に係る費用や新婦が他の地域に比べて持参する品物が尋常では考えられないほどの豪勢さを誇っているといいます。そんな地域性なのか、結婚式場もかなり「ド派手」になっているのではないでしょうか?



旧街道へとつづく一番左側の道筋へは地下道をくぐって行かなければなりません。地下道を進み、突き当たったら右手の階段をのぼり地上へと戻ります。地上にでると、すぐ左に「知立宿」と刻まれた石柱が置かれています。ただし、ここが知立宿の江戸見附ではなく、この先が知立宿という道標です。

知立宿の石柱

この地は古くから「知立」「智立」と表記され、その由来はこの地に鎮座する知立神社と深い関係があります。由来に関しては諸説ありますが、いちばん信憑性の高い説は、知立神社の御祭神とされる「伊知理生命」(いちりゅうのみこと)の「知理生」(ちりゅう)に由来するというものです。ただし現在祀られている神様の中には「伊知理生命」はなく、この神様は謎に包まれています。

そしてこの「知立」がなぜか鎌倉期以降になると「智鯉鮒」と書かれることになり、江戸時代になると「池鯉鮒」が一般的になります。神様に由来する「知立」がなぜ「池鯉鮒」つまり「池の鯉や鮒」に変わってしまったのでしょう。

実は知立宿の東木戸からさほど離れていない場所に慈眼寺という寺があります。その寺に隣接する場所に御手洗池という大きな池がありました。この池は知立神社の祭礼で渡御する神輿を洗うため、神聖なものとされ、この池に生息する鯉や鮒を捕獲することは禁止されていました。その結果、この池には鯉や鮒が多く生息していたことから「池鯉鮒」という表記になったといいます。

そしてこんな文章が残っています。「ちりふの町の右の方に長き池(御手洗池)あり。神の池なり。鯉・鮒多し。依って、名とす。しかれども、和名抄に碧海郡智立とあり」(吾嬬路より)
※ちりふの町の右の方とは、宿の江戸寄りという意味です。

御林交差点の地下道をくぐると、旧街道は1号線と県道51号線から分岐していきます。
尚、51号線を辿り、山町交差点を右折するとすぐ右手に慈眼寺が堂宇を構えています。
前述のように江戸時代には知立の東の松並木あたりで「馬市」が開かれていましたが、明治になると馬市はこの慈眼寺の境内で開催されることになりました。慈眼寺境内で行われていた馬市は昭和18年に幕を閉じています。

知立宿内へとつづく旧街道筋に入ると、車の往来も少なくなり、道幅もすこし狭くなります。宿内へと進んでいるのですが、街道筋には古い家並みはとんと現れません。旧街道を進み、名鉄三河線の踏切を渡ると、いよいよ知立宿内へとはいります。

知立宿は江戸から数えて39番目の宿場町です。
宿場の成立は家康公が街道整備を始めた慶長6年(1601)です。天保14年の宿村大概帳によれば、宿の規模は人口1620人、家数292軒、旅籠35軒、本陣1軒でした。宿内の距離は1.37㎞です。

宿の近郊で開かれた馬市と木綿市が江戸時代に有名になり、遠くは甲斐や信濃の荒馬が集まり、寛政期(1790年代)には400~500頭の馬の取引が行われ、市の盛況に加えて馬方、商人、見物客、果ては遊女までが集まり、市はごった返していたそうです。
そんな賑わいがあった知立の宿場だったのですが、今は静かな地方都市の佇まいです。とはいえ古い家並みはほとんど残っていません。



静かな雰囲気を漂わす宿内の道筋は中町交差点にさしかかります。ちょっと複雑な六叉路になっています。この辺りからかつての知立宿の中心へと入っていきます。交差点角に宿場の風情を漂わす古めかしい商家(えびすや・山城屋)が2軒並んでいます。

えびすや
えびすやと山城屋

旧街道は中町交差点を渡り、斜め左につづく狭い道筋です。この細い道筋がつづく辺りが「中町」です。江戸時代後期にはこの界隈に豪商や資産家が多く屋敷を構えていました。細い道筋へ入って行くと、右側の食品館「美松」の駐車場の入口角に目立たない存在で「池鯉鮒宿問屋場之跡」の石碑が置かれています。
問屋場の建物は昭和46年(1971)までこの場所にあったのですが、残念なことに取り壊されてしまいました。

池鯉鮒宿問屋場之跡

そして道筋を進んで行くと、左側にホテルクラウンパレス、右側に知立パークホームズの近代的なビルが並び、宿場の中心であった場所にしてはかつての面影はほとんど残っていません。
尚、本陣跡の石碑は旧街道から若干逸れた419号線の知立駅北交差点近くの貯水槽の脇に置かれています。本陣は旧街道に面した場所にあったのですが…。

本陣跡碑

細い道筋を進んで行くと、この先で旧街道は曲尺手のように右へ鋭角的に曲がります。するとすぐ左手に児童公園が現れます。その公園に「知立城址の石柱」が置かれています。

知立城址の石柱

池鯉鮒(知立)には代々、知立神社の神官を務めた氷見氏が築いた城があり、この場所に知立城がありました。知立城は桶狭間の戦いの時は今川方の城でしたが、織田の軍勢の攻撃で落城してしまいます。
その当時の城主であった氷見吉英は桶狭間の戦いの後、生き残りをかけて、刈谷の地を治めていた水野忠政の娘を妻に迎えます。そしてこの妻との間にできた子が、後に家康公の側室となる「於萬之方」です。この於萬之方は十子の頼宜、十一子の頼房の母親ではなく、家康公の次男である結城秀康を生んだ女性です。

尚、知立城の跡は水野忠政の九男である水野忠重の時代に御殿を建てましたが、元禄の地震で御殿が倒壊し、そのままになってしまいました。尚、御殿は将軍上洛の際の休憩場所、または藩主の休息所として使われていました。
そしてこの先で道筋は突き当り左へ曲がります。突き当たったところに堂宇を構えるのが了運寺です。

了運寺山門

ここを左に曲がりほんの少し進んだ右手に現れるのが知立名物の「あんまきの元祖小松屋」です。知立には別に「あんまき」を扱う藤田屋さんがありますが、正真正銘の元祖は小松屋さんのようです。

小松屋さん

旧街道は小松屋さんの前を進み、この先で豊田南バイパスと交差します。交差といっても、私たちはバイパスの下をくぐる地下道を使って反対側へ渡ります。この地下道を抜けると、知立神社は目と鼻の先です。

地下道をくぐる手前の右手に見事な銀杏の木があります。この銀杏の木がある場所にはかつて総持寺という寺があったのですが今は別の場所に移転しています。

豊田南バイパスを横切る地下道をくぐり、160m歩くと街道の小さな四つ角右に知立神社と刻まれた石柱がたっています。この角を曲がり、知立神社入口までは110mほどの距離です。それでは知立を代表する神社である「知立神社」に立ち寄ることにしましょう。

知立神社は池鯉鮒大明神とも呼ばれ、平安時代に三河国の二宮として国司の祭祀を受け、江戸時代には東海道を往来する旅人に「まむし除け」の神徳を授けることで広く知れ渡り、東海道三大社の一つに数えられた名社です。

本社殿

社伝では第12代景行天皇の42年(112)創建と言われています。景行天皇の御世、皇子である日本武尊は天皇の命を受けて東国平定へと向かうのですが、当地において皇祖の神々に平定の功を祈願したそうです。そして無事その責務を果したことで、ここに建国の祖神の四神を奉斎したのが始まりといわれています。また仲哀天皇元年という説もあります。ようするに当社は日本武尊と深い関わりがあるのです。

主祭神、すなわち建国の四神とは神武天皇の父にあたるウガヤフキアエズと母にあたるタマヨリヒメ、山幸彦そして神武天皇です。境内に置かれている「多宝塔」は国の重要文化財です。

多宝塔

永正6年(1509)重原城主山岡伝兵衛によって再建されたのがこの多宝塔(二重塔)です。
明治時代の廃仏毀釈の嵐の中を生き延び、神社の境内に仏塔が残ったのは全国的にも珍しく、国の重要文化財建造物に指定されています。江戸時代には愛染明王が祀られていましたが、明治期の神仏分離の際、愛染明王を総持寺に移し、相輪(そうりん)も取りはずし、知立文庫と名を改めて取り壊しを免れたという歴史があります。

また前述の東海道三大社とは三島大社、知立神社、熱田神宮をさします。
さらに「まむし除け」のいわれは平安時代の嘉祥三年(850)、慈覚大師円仁が当地に来た時、蝮(まむし)に咬まれましたが、当社に参拝し祈願したところ、痛みも腫れもなくなったという故事から、御札を携帯していればマムシや長虫避けになると信じられ、マムシよけの神として全国的に知れ渡ったのです。

広い境内には神橋を付した「神池」があります。実はこの神池も「御手洗池」と呼ばれているのですが、あの慈眼寺近くにも御手洗池がありました。どちらが本当の御手洗池だったのか、はたまた両方とも御手洗池でいいのか、定かではありません。おそらく神社の境内にある神池も当然神聖なもので、そこに住む生き物を捕獲することは禁断とされていたと思います。
そんなことで、この神池も「御手洗池」と呼ばれたのではないでしょうか。

神池
神池

石造りの神橋は享保17年(1732)に造られたものです。そしてこの神池には鯉が眼病を患った長者の娘の身代わりになったという「片目の鯉」の伝説が伝わっています。

《片目の鯉》
昔々のお話です。知立のとある長者の家には代々、目を患う者が多かったといいます。そんな長者の家に信心深く、気立ての優しい娘がいました。ある時からこの娘は目を患い、病も重く、あわや失明という事態になってしまいました。

そんな様子を見ていた両親はたいそう心配し、娘の目が良くなるようにと、毎日毎日、知立大明神の神前に通い、ひたすら祈りを捧げました。そして二十一日の満願の日、突如として娘の目が見えるようになりました。驚く喜んだ両親は娘と共に知立神社の大明神へお礼参りに出掛けました。そしてふと神社の御手洗池の中を覗き込むと、なんと池の鯉が皆、片目になっているではありませんか。これは神の使いの鯉たちが、信心深い娘に片目をくれたのだろうということになり、以来、この御手洗池で目を洗うと眼病が治ると信じられてきましたとさ。
まあ~、これが本当の鯉(恋)は盲目、といったところか。おそまつ!

それでは知立神社をあとに旧街道へ戻りましょう。
旧街道に戻ると、街道の左側に竜宮城のような総持寺の山門が現れます。

総持寺山門

開基は江戸時代の元和2年(1616)と古いのですが、明治5年(1872)、神仏混淆禁止令により廃寺となりました。実は廃寺になる前の総持寺は別の場所にありました。ちょうど豊田南バイパスを渡る手前の右手にありました。現在は総持寺の大銀杏がある場所です。明治に廃寺になった総持寺は大正13年に天台寺門宗として現在地に再興され、現在に至っています。

山門の手前の右手に石碑が置かれています。その石碑には「徳川秀康之生母 於萬之方生誕地」と刻まれています。ここ池鯉鮒宿は家康公の側室で結城秀康の母である於萬の方の出生地と伝わっています。

総持寺から少し歩くと川があり左に橋が見えてきます。川の手前で道筋は左にカーブすると逢妻橋に出ます。 
逢妻川は伊勢物語の八橋に登場する逢妻男川が逢妻女川に合流した後の名前です。逢妻川を渡ると「池鯉鮒宿(知立)」は終わります。



逢妻川に架かる逢妻橋を渡り、逢妻町交差点で再び国道1号線と合流します。ここからしばらく無粋な国道1号に沿って歩きます。

逢妻川の名の由来
無量寿寺のお堂の裏に「杜若姫供養塔(かきつばたひめ)」があったのを覚えていますか?
この杜若姫は京の小野中将たかむらの娘と伝えられています。そしてあの業平が東下りの際に、業平を慕い、後を追ってこの逢妻川で追いついたと言います。しかし、業平の心を得ることができず、八橋の池に身を投げて果てたと伝えられています。
そんな杜若姫が業平に追いついた場所ということで「逢妻川」と名付けられたのです。

そして、国道1号に入って、わずかな距離で右側に東海部品工業の建物が現れます。ちょうどこのあたりで安城市から刈谷市へと入って行きます。

逢妻川を渡り、逢妻町の信号交差点を過ぎると、最初の横断歩道橋が現れます。その歩道橋の階段に隠れるように置かれているのがお江戸から85番目(約334km)、京から33番目(約169km)の一里塚跡です。
気が付かなければ、そのまま通り過ぎてしまいそうです。



一里山新屋敷の交差点から500m弱歩くと工業団地入口交差点です。交差点の右角には上州屋でその先の今岡町歩道橋のところで左へと分岐する細い道筋へと入っていきます。

この細い道筋が旧東海道で、この先には連子格子の古い家が点在しています。国道からほんの少し入っただけですが、昔の街道の風情を残しています。交差点の左側には屋敷門のある家があります。
少し歩くと道は右にカーブしますが、その手前の道の左側に子安観音尊霊場の石碑と常夜燈が建っていて、その奥に堂宇があります。洞隣寺です。

洞隣寺は天正8年(1580)の開山、刈谷城主「水野忠重」の開基と伝えられる曹洞宗の寺院です。道の脇の常夜燈には寛政8年(1796)と刻まれています。 
本堂の隣には地蔵堂、行者堂、秋葉堂が並んで建っています。お堂の裏にある墓地に入っていくと、奥の方に、「豊前国中津藩士の墓」「めったいくやしいの墓」が並んで置かれています。

◇中津藩士の墓
寛保2年(1742)豊前国(大分県)中津藩の家臣が帰国途中、今岡村付近で突然渡辺友五郎が牟礼清五郎に斬りつけ2人とも亡くなったため2人の遺骸は洞隣寺に埋葬されました。ところが2人の生前の恨みからか、墓はいつのまにか反対側に傾き、何度直しても傾いてしまうので、村人は怨念の恐ろしさに驚き、墓所を整理して改めて葬ってからは墓は傾かなくなったといわれています。

◇めったいくやしいの墓
昔、洞隣寺の下働きに容貌は悪かったが気立てのよいよく働く娘がいました。あるとき高津波村の医王寺へ移ったところ、この寺の住職に一目ぼれしたのですが、この青年僧は仏法修行の身であり、娘には見向きもせず寄せ付けませんでした。
娘は片想いのため食も進まずついに憤死してしまいました。洞隣寺の和尚はこれを聞いて娘の亡骸を引き取って葬りましたが、この墓石から青い火玉が浮かび上がり、油の燃えるような音がしたり「めったいくやしい」と声になったりして、火玉は医王寺の方へ飛んで行ったといわれています。そんな女の情炎の恐ろしさが語り継がれているのがこの墓です。



洞隣寺から少し行くと、右側に小さな社と常夜灯が建っています。そこに「芋川うどん発祥の地」と書かれた木札があります。
江戸時代の東海道名所記に、「いも川、うどん・そば切りあり、道中第一の塩梅よき所也 」と、あったところで、ひもかわうどん(名古屋のきしめん)の源流といえるところですが、現在、そうした名物の店がここにある訳ではありません。 

傍らの説明板には、「江戸時代の紀行文に、いもかわうどんの記事が多くでてくる。名物のいもかわうどんは、平打うどんで、これが東に伝わり、ひもかわうどんとして現代に残り、今でも、東京ではひもかわと呼ぶ。」と書かれていました。

信号のない交差点を過ぎると、道筋はこの先で左へとカーブを切ります。その手前辺りに古い家が現れます。そしてその左側に堂宇を構えるのが乗願寺です。

天正15年の創建で、当初は真宗を内に、外向きは浄土宗としていましたが、後に真宗木辺派に改めました。 
水野忠重の位牌を祀っています。尚、真宗木辺派の本山は滋賀県野洲市にある錦織寺です。 

このあたりは今岡町と言いますが、江戸時代は立場で、街道筋には茶屋が並んでいたのではないでしょうか?
前述の「いもかわうどん」はこの先の今川町が発祥で、立場であった今岡で売られていたのではと推測します。
今川(いまかわ)が「いもかわ」に変じたのではないでしょうか?

さあ!まもなく第一日目の終着地点である名鉄名古屋本線の「富士松駅」前に到着です。

富士松駅前

「富士松」とは面白い名前の駅ですが、実は富士松という名前にはこんな由来があります。
桶狭間の戦いで敗れた今川勢が退却した後、旅人がこの今川町を通ったときに今川勢は相手のまわしものだと思い、この旅人を誤って殺してしまいました。それを見た住民は旅人を哀れに思い、葬った後にその場所へ1本の松を植えました。
こんな話を聞くと、いよいよ桶狭間の合戦地が近づいてきたことを実感します。

その松が成長し「お富士の松」と呼ばれるようになったと言われており、村名「富士松」はお富士の松に由来しています。
初代の松の木は伊勢湾台風で枯死してしまいましたが、その後第二代が富士松駅近くに植えられました。
しかしこれも枯死してしまったため、現在第三代の松の木が植えられています。

現在の富士松

第2日目はここ富士松駅前から出立します。いよいよ三河の国に別れを告げて尾張の国へ進んでいきます。

私本東海道五十三次道中記 第29回 第2日目 富士松駅前から桶狭間古戦場、有松、鳴海宿を経て呼続の富部神社
私本東海道五十三次道中記 第29回 第3日目 富部神社から宮の渡し

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真夏の鎌倉・江の島探訪 その五 ~江ノ島弁財天と宗像三女神を祀る江島神社~

2015年09月10日 12時38分18秒 | 地方の歴史散策・鎌倉江の島
鎌倉駅を拠点として巡る神社・仏閣は数限りなく、これを虱潰しに見て回ることは物理的にも、体力的にも限界があります。

鎌倉五山にしても円覚寺と建長寺の二寺しか訪れることができませんでした。五山以外にも名刹・古刹があまたあるのですが、これは次の機会に回すこととしました。

そして藤沢に戻る途中、久しぶりに江の島の島内を少し時間をかけて巡ることにしました。
江の島詣ではこれまでに何度か訪れたことがあるのですが、島の入口から江島神社への参道に並ぶ土産屋を除く程度で、詳しく見て回ることはありませんでした。

ということで、古の時代から信仰の対象となっている「江の島弁財天」「宗像三女神」を巡ることにします。

江ノ電の江の島駅から江の島大橋入口までは少し距離があります。この道筋にはたくさんのお土産屋さんや小洒落たレストランなどが並び、歩いていて飽きることはありません。

海岸通りの134号線にさしかかると、前方に江の島が現れます。地下道を使って江の島大橋へと進んでいきます。江の島大橋入口には名勝・史跡江ノ島の石碑が置かれています。

名勝・史跡江ノ島の石碑

江の島大橋は渡り始めて、橋が途切れるあたりまで約550mの長さがあります。

江ノ島大橋

照りつける夏の日差しをまともに受けながら550mの橋を渡り、やっと江の島の入口の青銅の鳥居が私たちを迎えてくれます。

青銅の鳥居

この青銅の鳥居は江の島弁財天信仰の象徴として、もともとは江戸時代の延亨4年(1747)に創建されたものですが、現在の鳥居は文政4年(1821)に再建されたものです。それでも194年の長きにわたってこの場所に立っています。

そしてこの鳥居をくぐると、江の島を代表する江島神社の参道が始まります。狭い参道の両側にはたくさんのお土産屋さんが軒を連ね、店先で海産物を焼いたり、民芸品を並べ、多くの観光客が足を止めて店先にたむろしているので歩くのに一苦労する参道です。

ほんの少し勾配のある参道をのぼり、お店が途切れると石段の上に朱の鳥居が現れます。江島神社の二の鳥居です。

江島神社の二の鳥居

石段を登り、赤い鳥居をくぐると眼前に竜宮城の門を模した瑞心門(楼門)が現れます。

瑞心門(楼門)

瑞心門の意味は人々が瑞々しい心でお参りできるようにと名付けられているそうです。
瑞心門から下を眺めると先ほどくぐった朱の鳥居とその向こうに参道がまっすぐにつづいています。

瑞心門をくぐるとさらに石段がつづき、私たちを辺津宮(へつみや)の社殿へ誘ってくれます。

辺津宮の社殿

さて江島神社ですが、ちょっと説明しましょう。
タイトルに宗像三女神を祀るとなっています。
実は江島神社の御祭神は九州福岡の宗像大社や広島の厳島神社と同神です。

その御祭神は三人の女神さまで江島神社の奥津宮には多紀理比賣命(たぎりひめのみこと)中津宮二は市寸島比賣命(いちきしまひめのみこと)辺津宮には田寸津比賣命(たぎつひめのみこと)がそれぞれ祀られています。

これら三女神を江島大神と称し、さらに仏教との習合で弁財天女とされ江島弁財天として古くから崇められてきました。
江島弁財天の功徳としては幸福・財宝を招き、芸道上達の功徳を持つ神であり、さらには海の神、水の神として信仰の対象になってきました。

ですから江島弁財天詣では三女神を祀るそれぞれの社殿を巡ることが必要なのです。そしてぞれぞれの社殿は島内に分散されて置かれているため、かなりの距離を歩かなければなりません。

そしてこの辺津宮(へつみや)の左側に八角形のお堂があります。江島弁財天と染め抜かれた朱色の幟がお堂を取り囲み、お堂の正面には「日本三大弁財天・八臂弁財天(はっぴべんざいてん)と妙音弁財天(みょうおんべんざいてん)」と書かれた札が掲げられています。

八臂弁財天は源頼朝が鎌倉開幕に際して、奥州の藤原氏の平定を祈願するために奉納したものと言われています。八臂とは八本の腕を持つ意味です。妙音弁財天は別名「裸弁財天」と呼ばれ、裸の弁財天が琵琶を抱えた姿をしています。妙音とは妙なる音楽を奏でるという意味です。

奉安殿

このお堂に報じられている弁財天が仏教との習合による神様で、江戸時代にはこの弁財天詣でのためにお江戸の庶民が多く参詣したのです。

このあたりまでは以前に来たことがあるのですが、これから先の「中津宮」と「奥津宮」への道のりは私にとっては道の領域に入っていきます。

中津宮への標に従って歩くこと5分ほどで市寸島比賣命(いちきしまひめのみこと)を祀る「中津宮」に到着します。社殿につづく参道には江戸歌舞伎「市村座」と「中村座」が奉献した一対の石燈籠が置かれています。

中村座の石灯籠
中村座の石灯籠
市村座の石灯籠

三女神を称して江島弁財天と崇めら、その功徳に芸道上達があることから江戸歌舞伎の一座がこれを祈願して石灯籠を奉献したのではないでしょうか。

社殿は鮮やかな朱に彩られた権現造りで、本殿、幣殿、拝殿から構成されています。

拝殿
幣殿と本殿

さて、中津宮かさらに奥へと進んでいきましょう。道筋は江の島のちょうど裏側の断崖に沿って穿かれているようです。そして若干のアップダウンを繰り返しながら島の一番奥へと進んでいきます。

江ノ島のこんな奥までやってきたのは初めての経験です。中津宮からおよそ10分ほどの距離にあるのが奥津宮です。前方に鳥居が見えてきます。そして鳥居の先に参道がのびて拝殿前へとつづいています。
ここまでやってくる人はあまりいないようで、境内の中は訪れる人もなく静かな空気が流れています。
この奥津宮には奥津宮には三女神の一番上の多紀理比賣命(たぎりひめのみこと)が祀られています。

奥津宮の鳥居
奥津宮拝殿
拝殿の奥の本殿

三女神を祀る三宮を詣でたあと、本来であれば崖下の岩屋までいって完結するのですが、岩山では急峻な石段を下ること10分もかかるということで、あえなく断念し戻ることにしました。

帰路は道筋を変えて、鬱蒼とした木々に覆われた道を下り、江島神社の朱の鳥居へと戻ってきました。
今回の私たちの鎌倉・江の島の旅は江島神社(三女神)の参詣でひとまず終えることにしました。

真夏の鎌倉・江の島探訪 その一 ~鎌倉大仏~
真夏の鎌倉・江の島探訪 その二 ~鎌倉五山第二位・円覚寺~
真夏の鎌倉・江の島探訪 その三 ~鎌倉五山第一位・建長寺~
真夏の鎌倉・江の島探訪 その四 ~竹寺・報国寺~



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真夏の鎌倉・江の島探訪 その四 ~竹寺・報国寺~

2015年09月10日 07時57分55秒 | 地方の歴史散策・鎌倉江の島
さあ!鎌倉・江の島の旅の2日目です。
藤沢から江ノ電に乗って再び鎌倉駅へ向かいます。朝早い時間帯の電車なのですが、片瀬江ノ島の海岸へ行く家族連れや若者たちで車内はかなり混み合っています。
藤沢始発ということで、難なく座席を確保することができました。

さて、本日はまず鎌倉市内から少し離れた報国寺の参拝から始めることにします。
鎌倉駅からはちょっと離れているため、バスを利用して向かうことにします。

アクセス方法:鎌倉駅前から京浜急行バスの鎌倉霊園正面前太刀洗・金沢八景行き/ハイランド行きに乗り、浄妙寺で下車(鎌倉駅前から所要15分程度)

賑やかな鎌倉の市内を抜けるとバスは静かな住宅街へと入っていきます。そんな住宅街の中に目指す報国寺は堂宇を構えています。
浄妙寺という名前のバス亭で下車し、報国寺の標に従って住宅街の中の坂道を進んで行くと、右手に報国寺の山門入口に達します。

ここ報国寺は臨済宗建長寺派のお寺で、開山は建武元年(1334)という古刹です。
開基は室町幕府を興した足利尊氏のお爺ちゃんにあたる足利家時とも、あるいは上杉一族の上杉重兼ともいわれています。

室町幕府の開幕後、尊氏は足利家から関東一円を支配するために「鎌倉公方(関東管領)」を置き、その後4代90年にわたりつづきました。

そして四代目の鎌倉公方であった足利持氏とその子の義久が本家の足利家に対抗する姿勢を見せたことで「永享の乱(1438~39)」が勃発したのですが、幕府側についた上杉憲実によって鎮圧され持氏は永安寺で自害義久はここ報国寺で自害しました。
ということはここ報国寺は鎌倉公方終焉の地だったのです。

そんな歴史を持つ報国寺は美しい竹林があることから「竹の寺」と呼ばれています。

報国寺山門前

山門を抜けて、境内へとつづく参道を進み、石段を上がると正面にご本堂が現れます。

本堂

本堂の右側には迦葉堂(かしょうどう)と呼ばれる座禅堂があります。

迦葉堂

本堂へつづく参道の左側には趣のある茅葺屋根の鐘楼堂が置かれています。

茅葺の鐘楼堂

さあ!いよいよ報国寺自慢の竹林へと進んでいきましょう。竹林の入口は本堂の左側にあります。入口で竹林の見学料(拝観料)200円を支払います。

竹林は本堂のちょうど裏手にあたるのでしょうか、予想以上に素晴らしい竹林が広がっています。

竹林1
竹林2
竹林3
竹林4
竹林5

竹林に足を踏み入れると、大きく育った孟宗竹が林立し、わずかながら差し込む陽射しに映えて、幻想的な世界を造りだしています。
陽射しが強くなる時間帯だったのですが、竹林の中は陽射しが遮られて「ひんやり」とした心地よさを感じます。

京都嵯峨野の竹林とは比べようもないほど規模は小さいのですが、鎌倉の隠れた名所として、多くの観光客が訪れています。

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真夏の鎌倉・江の島探訪 その二 ~鎌倉五山第二位・円覚寺~
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真夏の鎌倉・江の島探訪 その三 ~鎌倉五山第一位・建長寺~

2015年09月09日 14時50分50秒 | 地方の歴史散策・鎌倉江の島
円覚寺の参拝を終えて、このまま北鎌倉から鎌倉へ戻るということも考えたのですが、五山第二位の次は第一位の建長寺参詣が当然の流れということで、円覚寺門前から徒歩で行くことにしました。

広い円覚寺境内を歩いた後ということで徒歩はキツイなと思ったのですが、建長寺までの距離は1キロ弱(900m位)なので思い切って歩き始めました。
しばらくは横須賀線の線路沿いを歩くのですが、途中で鎌倉の渋滞銀座の21号線に合流し、そのまま建長総門前へと進みます。徒歩15分の距離です。

建長寺総門

当寺は臨済宗の寺院の格式を示す「五山の制」、「鎌倉五山」の第一位という格式の高いお寺です。
建長5年(1253)に宋から来日した蘭渓道隆(らんけいどうりゅう・大覚禅師)を開山として迎え、五代執権・時頼が開基となって我が国初の禅の専門道場として創建されました。
建長寺の名前は鎌倉時代の建長(元号)に創建されたからではないでしょうか。江戸時代に上野の山に創建された「寛永寺」がそうであるように。

さて、ここで鎌倉五山について解説しましょう。

端的に言えば、前述のように五山の制とは臨済宗派(禅宗)の寺院の格付け制度の言います。
時は鎌倉時代に遡りますが、臨済宗の教えを日本に伝えたのは「栄西」です。日本に帰ってきた栄西が広めようとした臨済宗は、それまでの宗派からかなりの圧力を受けながらも、最終的には鎌倉幕府の庇護を受けて、新しい教えである「禅宗」を世に広めていったのです。

鎌倉幕府がこの新しい宗教思想である「禅宗」を庇護した大きな理由として、日本の歴史上初めて出現した「武家政権」を支えた鎌倉武士団にその気風が合致したことでしょう。

そしてさらには、それまでの既存の宗派を鎌倉幕府がコントロールするために、禅宗を思想とする臨済宗をうまく利用したといってもいいでしょう。

そんな目論見で導入したのが「五山の制」なのです。
この制度を最初に導入したのが北条執権・五代の時頼の時代と言われています。

時頼が五山の制を導入した当時は厳格な順位は定められていなかったようですが、室町政権の三代将軍の足利義満の時代に現在ある五山の順位が決まったようです。

この五山は京都と鎌倉にあります。
京都五山は
第一位:天龍寺
第二位:相国寺
第三位:建仁寺
第四位:東福寺
第五位:万寿寺

鎌倉五山は
第一位:建長寺
第二位:円覚寺
第三位:寿福寺
第四位:浄智寺
第五位:浄妙寺

実は京都、鎌倉両五山の上にたつのが五山の上(ござんのじょう)という最高位の南禅寺です。
それでは鎌倉五山の最高位である建長寺の参拝へと進みます。

「巨福門」(こふくもん)

巨福門を抜けると、伽藍は禅宗寺院の特徴である三門、仏殿、法堂が一直線に配置されています。その最初の建物が三門です。

三門
三門
三門から仏殿を見る

この三門は江戸時代の安永4年(1775)に再建されたもので国の重要文化財です。尚、東日本地域で三門二重門としては最も大きな建造物です。この門も三解脱門で仏殿に至る前に、この門で人間が持つ本来の煩悩を解脱してくれるのです。

そして三門には「建長興国禅寺」の扁額が掲げられています。この扁額は戦国時代の天文八年(1539)に時の後深草天皇自らの筆(宸筆)ということです。すなわち勅額門なのですね。

三門の脇には鐘楼堂が置かれています。

鐘楼堂

この鐘楼堂の梵鐘は建長7年(1255)に鋳造されたもので、国宝に指定されています。そして、当鐘は関東一の美しい鐘として知られており、特に音色が人の泣き声に似ているということから「夜泣き鐘」の別名を持っています。尚、この鐘は円覚寺、常楽寺の梵鐘と並ぶ鎌倉三名鐘の一つです。

禅宗特有の伽藍の配置はそれほど信心深くない私にとっては非常に明解で、なにより歩きやすいのです。
最初の建造物である三門を抜けると、仏殿まではちょっと距離があります。
広大な寺領を持っていたから贅沢に、かつ空間的余裕をもって伽藍を配置したのでしょうか?

そしてかつて最盛時にはどれほどの数の修行僧がここにいたのでしょうか?
そして彼らが住まう僧坊はどのように配置されていたのでしょうか?

そんなことを考えながら参道を進んでいくと正面に現れるのが「仏殿」です。

仏殿

さて、この仏殿の建物ですが実は徳川二代将軍秀忠公の正室の崇源院(お江)の御霊屋だったのです。どうしてその建物が建長寺にあるのか、というと正保4年(1647)に崇源院の御霊屋の改築に際して、お江戸の増上寺から建長寺に移築、下賜されたもののようです。
増上寺に置かれていた当時はおそらく崇源院の宝塔を納める霊廟として使われていたものでしょう。
ただ一つ疑問として残るのは、徳川将軍家の菩提寺である増上寺は浄土宗の寺院なのですが、どうして禅宗の臨済宗のお寺に移築したのでしょうか?

これは私の個人的な見解ですが、仏殿の建築様式は禅様式なので、そうであれば関東の臨済宗五山の最高位の建長寺に下賜したほうがいいのではと幕府が考えたからなんて!

建長寺にはこの仏殿の建物以外に崇源院の御霊屋の関連建造物が移築されています。
これはのちほどご紹介しましょう。

仏殿には本尊地蔵菩薩坐像が安置されています。

本尊地蔵菩薩坐像

この仏殿にほぼ隣接して建つのが法堂(はっとう)です。

法堂

もともとこの法堂は建長寺の開基である五代執権の北条時頼の十三回忌の年である建治元年(1275)に創建されたものですが、現在の建物は江戸時代の文化11年(1814)に再建されたものです。

この法堂には「釈迦苦行像」が安置されています。
世界史の教科書にも掲載されているあまりにも有名な像です。かつてパキスタンに行ったとき、実物を見た記憶があります。

釈迦苦行像

この像はパキスタンのラホール中央博物館に展示されている像のレプリカです。
平成17年(2005)の愛知万博に展示されていたもので、万博終了後、パキスタンより建長寺に寄贈されたものです。

そして法堂の天井には雲竜の天井図が描かれています。一見してかなりの大作のように思えます。

雲竜の天井図

法堂を過ぎると、右手に大庫裡そして隣接して方丈の建物が現れます。その方丈の前に置かれている煌びやかな門が「唐門」です。

唐門
唐門

実はこの唐門も仏殿と同じく、お江戸の増上寺にあった崇源院の御霊屋の付属建造物なのです。
平成23年(2011)に修理が行われ、扉を含む門の前面に煌びやかな金の装飾がなされ、絢爛豪華な装いになっています。

おそらく江戸時代の初期のころの姿はこんな感じだったんだろうな、という思いでまじまじと眺めてしまいました。なにせ将軍正室の霊廟に置かれていた御門であれば、これくらい華美であってもおかしくありません。

私たちは方丈内部へお邪魔しました。方丈から見た唐門は後ろ側も金の装飾が施されています。

方丈から見た唐門

そして方丈の裏手には禅宗のお寺らしい素朴な意匠の庭園が広がっています。背後の山の緑を借景にした庭の景色を眺めていると、ほんの少し疲れが癒されたようなきがします。

方丈裏手の庭園

円覚寺、そして建長寺と鎌倉を代表する寺を巡り、満足感と充実感を胸に鎌倉駅に戻ることにします。

真夏の鎌倉・江の島探訪 その一 ~鎌倉大仏~
真夏の鎌倉・江の島探訪 その二 ~鎌倉五山第二位・円覚寺~
真夏の鎌倉・江の島探訪 その四 ~竹寺・報国寺~
真夏の鎌倉・江の島探訪 その五 ~江ノ島弁財天と宗像三女神を祀る江島神社~



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真夏の鎌倉・江の島探訪 その二 ~鎌倉五山第二位・円覚寺~

2015年09月08日 18時31分18秒 | 地方の歴史散策・鎌倉江の島
高徳院の大仏様を詣でた後、長谷駅駅へ戻り再び江ノ電に乗って終点の鎌倉駅へ向かいます。
次に目指したのは、鎌倉五山第二位の寺格を持つ名刹・古刹の円覚寺です。

円覚寺の最寄りの駅は横須賀線の北鎌倉駅です。私たちは鎌倉駅から大船方面に一駅の北鎌倉へ移動します。

賑やかな鎌倉駅とは違い、静かな住宅街の一角にある駅前には商店街もなく、まさに円覚寺のための駅といった佇まいです。
北鎌倉駅から円覚寺の参道入り口まではもの1分足らずの距離です。

私たちは総門へとのびる石段下に到着しました。その傍らに2本の石柱が置かれています。石段に向かって左側の石柱には「北条時宗公御廟所」、そして右側の石柱には「臨済宗大本山 円覚寺」と刻まれています。

北条時宗公御廟所
円覚寺

鎌倉五山の名刹として知られる円覚寺の総門へと登る石段はその寺格を誇示するかのような立派なもので、木々の緑に覆われた境内へと私たちを誘ってくれます。

ここ円覚寺は広大な寺領を構え、その寺領の中に伽藍が配置されています。これらの伽藍は谷戸(やと)と呼ばれる鎌倉特有の丘陵地帯の間につくられた谷に沿うように建てられています。
総門から山門そして仏殿、方丈へ一直線に伽藍が配置されているのは、当寺が禅宗の寺院であることを表しています。

石段を登り、受付で拝観料を納めて、いよいよ境内へと進んでいきます。
※拝観料:大人300円

境内へ入りまず目に付くのが正面にど~んと構える神奈川県の重要文化財の「三門」です。ここでいう三門は三解脱門とも言われ、この門をくぐり仏殿に向かう前に人間が本来持つ様々な煩悩を取り払ってくれるという誠にありがたい門なのです。

三門

この三門は江戸時代の天明5年(1785)に再建されたもので、三門に掲げられた扁額は北条貞時の時代に時の伏見上皇より賜ったものです。

三門にて

三門を抜けてそのまま境内を直進していくと右手に現れるのが「仏殿」です。仏殿は比較的新しいもので昭和39年(1964)に再建されたものです。仏殿には円覚寺の御本尊である宝冠釈迦如来が安置されています。

仏殿を右手にみながら緩やかな坂を上っていくと堂々とした「大方丈」の建物が現れます。

方丈と心字池

方丈を過ぎて、さらに緩やかな坂道をのぼっていくと左へと曲がる道筋に国宝舎利殿の標が置かれています。



今回、円覚寺を訪れた目的はこの舎利殿を間近に見てみたいということだったのですが、事前の情報をまったく持たずに訪れたため、舎利殿の敷地近くには通常の場合は立ち入ることができないことを知らなかったのです。円覚寺といえば国宝の「舎利殿」、舎利殿を見なければ円覚寺に行った意味はないのでは? と思うほどガッカリした瞬間でした。

ちなみに舎利殿の公開は正月三が日と11月初旬の「宝物風入れ」の年に6日間しかありません。
※平成27年の宝物風入れ:11月1日(日)~3日(火)

そんなことで円覚寺舎利殿の標から奥の方に見える舎利殿らしき建造物を写真に収めました。

一番奥が舎利殿

気を取り直して、少し進むと左手に現れるのが「開基廟・仏日庵」です。

仏日庵

仏日庵は鎌倉時代の弘安7年(1284)に亡くなった八代執権・北条時宗の廟所として建立されたもので、時宗の子でる九代執権・貞時、孫の十四代執権・高時が合葬されています。

仏日庵の敷地内には赤い毛氈を敷いた縁台が置かれ、有料の茶菓子をふるまっています。

私たちは境内の一番奥にある「黄梅院」を詣で、円覚寺の見学を終えました。

黄梅院・聖観音堂

鎌倉五山第二位の寺格を持つ円覚寺は予想通りの大寺院で、境内には円覚寺の伽藍以外に子院や塔頭があります。
広大な境内をくまなく見て回るにはかなりの時間が必要で、見学場所によってはかなりの傾斜の上り下りが必要です。暑い夏の季節には年寄りの私たちにキツイので、次の参詣場所である建長寺へ向かうことにします。

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真夏の鎌倉・江の島探訪 その一 ~鎌倉大仏~

2015年09月08日 16時17分33秒 | 地方の歴史散策・鎌倉江の島
猛暑がつづく八月、意を決してちょっと出かけてみるかということで、東京からさほど離れていない鎌倉・江の島を2泊3日で巡ることにしました。

これまで鎌倉、江の島には何度か訪れてはいるのですが、女房連れでゆっくりと巡るのは初めてです。
藤沢に宿をとり、ここを拠点にして真夏の鎌倉・江の島の旅が始まります。

話のついでなのですが、江戸時代には江戸の庶民にとって鎌倉・江の島は江戸から3泊4日程度で回る恰好の観光ルートだったようです。当時はこのルートに「大山詣で」を組み入れたものもあったようですが、一般的に江戸を出発して、東海道のちょうど10里(40キロ)の距離にある戸塚で1泊し、翌日、藤沢の遊行寺を詣で、その足で江の島の弁天様をお参りし、その日のうちに鎌倉へ入ったようです。

3日目は鎌倉の鶴岡八幡宮に詣で、その後金沢八景を経由して川崎まで戻って宿をとった。そして最終日は川崎のお大師様を詣でた後、東海道を一路、江戸へ戻ったようです。

現代人にとって一日、10里はとんでもない話なので、私たちは藤沢からは今人気の江ノ電を活用して、効率よく巡ることにしました。

※江ノ電の一日乗車券「のりおりくん」
江ノ電の全区間で、1日何度でも、その駅でも「のりおり」ができる乗車券です。
大人:600円

藤沢を始発とする江ノ電は湘南の人気スポットの江の島を経由して潮風香る腰越、鎌倉高校前、七里ヶ浜、稲村ケ崎の海岸沿いを走り、長谷へと到着します。

鎌倉大仏へ行くには、ここ長谷駅が最も至近なのですが、至近といっても長谷駅からは徒歩で15分ほどかかります。
いつも思うのですが、鎌倉は車での移動はたいへん不便です。道も込み合い渋滞に巻き込まれ、さらには駐車場を探すにも一苦労です。
徒歩であればこそ鎌倉の匂いを肌で感じそして何よりも歴史に彩られた風景を間近に眺めることができるのです。

さあ!鎌倉大仏に到着です。鎌倉大仏(阿弥陀如来)は高徳院というお寺の御本尊です。大仏が鎮座している場所へ通じる参道に置かれているのが「仁王門」です。

大仏の石柱
仁王門

高徳院・大仏の拝観料
大人:200円
尚、大仏胎内の拝観料は別に一人20円

仁王門をくぐり境内へと入っていきます。拝観料を納め境内を進むと、やおら現れるのが大仏です。

大仏1
大仏2
大仏3
大仏4

大変恥ずかしいのですが、私は今回の鎌倉の旅で初めて大仏に訪れました。長い人生の中で、大仏様にお目にかかった記憶がありません。
そんなことでかなり感動的な対面なのです。

「露坐の大仏」とは聞いていたのですが、大仏様を覆う建物はなく、夏の照り輝く太陽の下でなんともおいたわしいこと。
かつては大仏様は堂宇に覆われていたようですが、記録によると建武元年(1334)と応安2年(1369)の2度の台風、そして明応7年(1498)の大地震によって堂宇は崩壊し、これ以降「露座」になってしまったといいます。

長い年月、雨風にさらされているものの、大仏様のお顔は柔和そのもので、私たちをやさしく包み込むような寛容さと威厳を兼ね備えています。

大仏5

威風堂々とした大仏様の後ろに回ると丸みを帯びた背中が非常に印象的です。面白いことに大仏様の頭部が見えないことに気が付きます。

大仏様の後ろ姿

そして大仏様の胎内に入ることができるということで、拝観料20円を納め、粛々と襟を正して入っていきます。
確かに中は空洞になっています。ただ真夏の季節ということでかなり内部は暑く感じます。ちょうど大仏様の首にあたる場所が丸く穴になっています。
大仏様の胎内に入り、心の中で「南無阿弥陀仏」と念じた私です。

大仏様の内部

大仏様の胎内から退出して、大仏様の正面に回り込むと真夏の青空下で一段と映えるお姿が妙に印象的でした。



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私本東海道五十三次道中記 第28回 第3日目 岡崎から知立手前の来迎寺公園へ

2015年09月07日 07時51分43秒 | 私本東海道五十三次道中記


岡崎城天守

さあ!第三日目が始まります。私たちは昨日の行程で岡崎城下(宿)の西のはずれの「松葉総門跡」を抜けて、お城からおよそ8丁の距離の八丁の里に味噌蔵を構える八丁味噌のカクキュウに到着しました。



本日の出立はここ八丁味噌の郷「カクキュウ」の駐車場です。私たちは駐車場からいったん国道1号線へ出て、カクキュウの敷地沿いに進んでいきます。

実はカクキュウの敷地裏手は「蔵造りの町並み」という細い路地になっており、白壁と黒塀の美しいコントラストを見せる蔵がつづく趣ある雰囲気を漂わす道筋です。
さあ!そんな道筋へと入っていきましょう。

蔵造りの町並み
蔵造りの町並み
蔵造りの町並み
蔵造りの町並み

160mほどの細い路地ですが、古い時代に戻ってしまったかのような雰囲気を醸し出しています。
蔵造りの町並みの道筋が終わるT字路の角に置かれているのが「NHK純情きらり」の記念碑が置かれています。



「蔵造りの町並み」はカクキュウの敷地が途切れるまでつづきます。途切れたところがT字路になっていますので、これを右折して矢作川が流れる方向へと進んでいきます。

そして小さな四つ角にさしかかると、その角に昭和61年に建てられた、「左江戸、右西京」と刻まれた道標が立っています。
東海道はここを右折して進んで行きます。そして国道1号線といったん合流します。私たちは国道1号の下をくぐる地下道を使って、反対側へ渡ることにします。反対側にでたら、そのまま「矢作橋」方面へと進んでいきましょう。
現在の矢作橋は平成23年(2011)に完成した16代目にあたります。橋の長さは300mです。

江戸時代の慶長6年(1601)頃に架けられた矢作橋は現在の場所から100mほど下流で、その長さは75間(約136m)の土橋でした。その後、三代将軍家光の時代の寛永11年(1634)に将軍上洛に際して、長さ208間(約347m)の板橋が架橋され、東海道随一の長さを誇りました。

この寛永11年(1634)の架橋を第1回とすると、江戸時代を通じて9回の架け替えと14回の修復工事が行われました。幕末の安政2年(1855)の大洪水で橋が流失してから明治10年(1877)までの22年間は橋が架けられず、舟渡しが行われました。このため明治元年(1868)の明治天皇の江戸(東京)への行幸の際は、舟橋を利用したとあります。それでは岡崎の市街を後方に眺めながら、橋を渡っていきましょう。

橋を渡りきると、橋の袂に「槍を持つ武士と子供の像」が置かれています。
鉄道唱歌に「見よや徳川家康の おこりし土地の岡崎を 矢矧の橋に残れるは 藤吉郎のものがたり」と謳われているように、矢矧川(矢矧橋)は日吉丸と蜂須賀小六が初めて出会った場所として知られています。そんな話が残る橋の袂に「槍を持つ武士と子供の像」が置かれています。当然、像のモデルは日吉丸(豊臣秀吉の幼名)と阿波蜂須賀小六です。この二人がこの橋(河岸)で運命の出会いをしたことから「出会いの像」と呼ばれています。

槍を持つ武士と子供の像

ただ史実から言うと、日吉丸と小六が出会った当時は橋は架けられていなかったと推察します。(もしかしたら船橋くらいはあったかも)



さあ旧矢作村に入りました。
右手に親鸞聖人の旧跡、とある勝蓮寺が山門を構えています。実はこの勝蓮寺門前にお江戸から数えて82番目の一里塚が置かれていたといいますが、それを示す標は置かれていません。左側には近江屋本舗というお菓子屋さんがあります。古い家並みはほとんどありませんが、雰囲気のある街道の様子です。

少し先の右側に誓願寺が山門を構え、街道に面して十王堂というお堂が置かれています。

案内によると寿永3年(1184)3月、矢作の源兼高長者の娘であった浄瑠璃姫源義経を慕うあまり、菅生(すごう)川に身を投げました。長者は姫の遺体を当寺に埋葬し十王堂を再建し、義経と浄瑠璃姫を弔う木像を作り、義経より姫に贈られた名笛「薄墨」と姫の「鏡」を安置しました。

浄瑠璃姫の生涯については数々の創作で伝承化され、そのため史実としては非常に曖昧なのですが、これまで東海道を歩いてきて浄瑠璃姫の話が出てきました。そして西三河の岡崎に入ると、やたら浄瑠璃姫ゆかりの寺院や史跡が数多く残っています。
それもそのはず岡崎(矢矧)こそ、浄瑠璃姫の生まれ故郷だからなのです。

矢作の郷の兼高長者夫婦はながく子宝に恵まれなかったことで、日ごろから信仰していた奥三河の鳳来寺の薬師瑠璃光如来に祈願して授かったのが浄瑠璃姫です。

承安4年(1174)の3月、義経は奥州平泉の秀衡を頼って旅をつづける途中、矢作の郷の兼高長者の屋敷に宿をとったのです。義経一行は長者の屋敷に11日ほど滞留していたのですが、ある日、屋敷の一室から美しい琴の音が聞こえてきました。義経はすかさず持っていた笛で吹きあわせたことがきっかけで、二人の間に愛が芽生えたのです。

しかし義経は奥州への旅を続けなければならず、義経は姫との別れに際して、形見として名笛「薄墨」を託し、矢作の郷を発ったのです。姫は笛を大切にしていたのですが、募る思いに義経の後を追いかけたのです。しかし女の足ではとうてい追いつかず、恋の悲しみのあまり乙川(菅生川)に身を投げてしまったのです。そして長者はその遺体を誓願寺に埋葬したのです。

実は駿河の国の蒲原宿にも浄瑠璃姫の伝説が残っているのを覚えているでしょうか?

奥州平泉を目指した義経は駿河までやってきたとき、あの清見関の通過を避けて、久能から舟に乗るのですが、運悪く嵐に巻き込まれ命からがら蒲原の吹き上げの浜に辿りつきます。

旅の疲れもあったのでしょうか、義経は蒲原で病床についてしまいます。そんなとき、よせばいいのに岡崎に残してきたあの浄瑠璃姫に文をしたためたのです。

文を受け取った姫はいたたまれず東海道を蒲原へと向かうのです。そして病床の義経とめでたく対面し、懸命の看病の結果、義経は元気を回復します。しかし、ここで二人はハッピーエンドとはいかないのです。

元気になればなんでもできる。義経は再び、奥州へ向けて旅立つのですが、一緒に旅をつづけられない姫は成就できない恋を悲しんで蒲原で短い生涯を閉じることになってしまったのです。そんな浄瑠璃姫を供養している寺が蒲原の光蓮寺です。
このように浄瑠璃姫の話はその土地、その土地で異なります。

旧街道はこの先で国道1号線に合流します。これから先2kmはこれといった立ち寄り個所もなく、ただ淡々と国道1号線に沿って歩くことになります。





鹿乗川に架かる鹿乗橋(かのりばし)を渡り宇頭町を過ぎると安城市に入ります。
鹿乗川とは面白い名前ですが、川名の由来は、一つには足利尊氏が矢作川の増水で立ち往生していたところ、突然現れた三頭の鹿の道案内で無事川を渡ることができたとか。

もう一つは、あの桶狭間の合戦で今川義元が討たれ、その時今川軍に属していた家康がその混乱に乗じて、生まれ故郷の岡崎に帰る際、矢作川の増水に阻まれました。そんな時に三頭の鹿が現れて、家康を導き無事に川を渡ることができたという故事によるものと2通りあります。

尾崎東信号交差点で道は二又に分かれます。右へと分岐する道筋には松並木が残っています。車の往来が激しい国道1号から分かれ、静かな道筋を進んで行きます。



尾崎東交差点で国道1号線と分岐すると、前方に松並木が続いています。それほど長い距離ではないのですが、この松並木は「尾崎松並木」と呼んでいます。
そして尾崎東交差点から800mほど行った右側にうっそうとした森が見えてきます。
熊野神社の鎮守の森で、その森の大きさから一見して境内が広いことが分かります。

熊野神社
熊野神社

この辺りは昭和19年に土浦海軍航空隊分遣隊として創設された第一岡崎海軍航空隊の跡地です。劣勢挽回のため、搭乗員養成を目的として創設されましたが、翌年終戦により解散してしまいました。
予科練は土浦だけだと思っていましたが、戦況が急で慌てて岡崎に追加したという訳です。鳥居の脇に予科練の碑が建てられています。

熊野神社の鳥居の前を通り過ぎたところに、お江戸から83番目(約326キロ)、京都三条から35番目(約178キロ)の尾崎一里塚跡の小さな石碑が置かれています。

尾崎一里塚跡碑



少し歩くと宇頭茶屋交差点にさしかかります。旧宇頭村は立場茶屋があったところです。 
大きな松がある妙教寺内外神明社を横目に街道を進んでいきましょう。

その先の右側に大浜茶屋の庄屋「柴田助太夫」の霊が祀られている永安寺が堂宇を構えています。柴田助太夫は村民の窮乏を見かねて、助郷の免除を願い出たのですが、領主の怒りに触れて刑死した人です。この事件以降、助郷役は免除されたといいます。

そんな柴田助太夫の功績を称えて村民が小さな草庵を結んだのが、永安寺の始まりといいます。 
寺の境内の右側に枝を左右に大きく伸ばしている立派な松がります。樹高4.5m、枝張り東西17m、南北24m、樹齢は300 年以上の老木県の天然記念物です。

永安寺の雲龍の松

幹が上に伸びず、地をはうように伸びていて、その形が雲を得てまさに天に昇ろうとする龍を思わせることから「雲龍の松」と言われています。尚、永安寺は無住の寺で、近在の方々が松の管理をしているようです。



浜屋バス停を過ぎると右手に松の木が見えてきます。明治川神社交差点を越えた右側に、明治用水の記念碑が幾つかあり、その中の一つに明治13年(1880)4月の新用水成業式(竣工式)に出席した松方正義が揮毫した「疎通千里,利澤万世 」と刻まれた石碑があります。

明治用水は江戸時代の末期に碧海郡和泉村(安城市和泉町)の豪農、都築弥厚(つづまやこう)が碧海(へきかい)台地に矢作川の水を引き、開墾を行うという計画で始まりました。 

幕府の許可は得られましたが弥厚が病死してしまいます。その後、岡本兵松(ひょうまつ)伊豫田与八郎(いよたよはちろう)等が遺志を継いで、新たな計画を立てましたが、一部の農民の反対もあり、苦労の末、明治13年に完成しました。 

その左側に明治川神社の石柱と鳥居があります。明治川神社は用水完成後設立が企画され、明治17年に創建されました。
明治用水の開発に功績のあった都築弥厚、岡本兵松、伊豫田与八郎等を祀っています。
そうして造られた明治用水は、現在は暗渠となっています。

明治用水記念碑を過ぎると、道筋の両側に松並木が現れます。本日の行程も残すところ2キロの地点にさしかかります。
この先はそれほどの見どころがなく、途切れながらつづく松並木を見ながら進んで行く道筋がつづきます。



里町4丁目の信号交差点を過ぎると、街道右脇に小さな青麻神社が鳥居を構えています。そして鳥居の左隣にどういうわけか「力士像」が置かれています。この像は江戸末期から明治初頭にかけて活躍した江戸力士で五代目・清見潟又市の石像です。

天保9年(1838)三河国碧海郡前浜新田(現 碧南市前浜町)に生まれ本名を榊原幸吉、20歳で江戸相撲に入門し47歳まで現役を続けました。最高位は前頭筆頭、立ち合い時に驚くほどの奇声をあげる名物力士だったようです。

松並木は里町4丁目西交差点の手前でいったん途切れてしまいます。
里町4丁目西交差点を過ぎると、本日の歩行距離も8キロに達します。本日の終着地点まで残すところ1.5キロです。



道筋はたんたんとしていますが、街道の左側に浅賀井という名前の事業所あたりから松並木が現れます。
単調だった道筋に街道らしい風情を醸し出してくれます。

街道は猿渡川にさしかかります。この川を渡ると安城市から知立市へと入ります。今回の旅では岡崎市から安城市そして知立市と辿ってきました。そして本日の終着地点の来迎寺公園に到着です。

尚、ここ來迎寺公園東交差点で終わる場合と、この先、東海道筋から大きく逸れて八橋(やつはし)無量寿寺までいくことがあります。八橋無量寿寺までは東海道筋から670mほど歩かなければなりません。



八橋無量寿寺へは次の来迎寺町交差点で右へ曲がり、そのまま直進して進みます。その曲がり角に「八橋業平作観音従是四丁半北有」そして脇に八橋無量寺と刻まれた古い道標が置かれています。 
この道標が在原業平ゆかりの八橋無量寿寺への道標です。

「ある男(業平であろう)が東下りの途中、道に迷いながらもこの地に辿りつきました。川が幾筋もまるで蜘蛛の手のように流れ、その流れに八つの橋が架けられていたので、「八橋」と呼ばれていました。
そしてその水の流れに「かきつばた(杜若)が美しい花をつけていたのを見つけ、男は「かきつばた」の五文字を句の上に置いて、歌を詠んでみようということになった。
そして詠まれたのが、「唐衣 きつつなれにし つましあれば はるばるきぬる 旅をしぞ思う」

●無量寿寺境内にある「杜若姫供養塔」
杜若姫は京の小野の中将たかむらの娘と伝えられています。この娘は業平が東下りの旅に出発すると、業平を慕い後を追って、この先の逢妻川で追いついたといいます。しかし業平の心を得ることができず、八橋の池に身を投げて果てたと伝えられています。逢妻川は杜若姫が業平に追いついた場所であることから「妻に逢う=逢妻川」と名付けられたといいます。

今回の旅は知立宿の手前の來迎寺公園信号(9.4㎞)または東八橋無量寿寺(10.5㎞)が終着点となります。

次回はここ来迎寺公園から39番目の宿場「池鯉鮒(ちりゅう)」、40番目の鳴海宿、41番目の宮宿へと至ります。そして宮からは伊勢の桑名宿まで現代の渡し舟で海上七里の旅をお楽しみいただきます。

私本東海道五十三次道中記 第28回 第1日目 赤坂宿から本宿を経て藤川宿
私本東海道五十三次道中記 第28回 第2日目 藤川宿から城下町岡崎へ

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私本東海道五十三次道中記 第28回 第2日目 藤川宿から城下町岡崎へ

2015年09月06日 16時37分45秒 | 私本東海道五十三次道中記


さあ!第二日目の始まりです。
出立地点は昨日の終着地点の藤川の道の駅です。本日の行程はここ藤川宿から38番目の岡崎宿のカクキュウ「八丁味噌の郷」を目指します。その距離およそ11.4キロです。
昨日の行程では藤川宿内の京方でもある「西の棒鼻」まで辿ってきました。
私達は道の駅・藤川から再び、名鉄本線の線路を陸橋で渡り旧街道へと進んでまいりましょう。

藤川宿



藤川小学校の交差点で旧街道へ合流します。その交差点を挟んだはす向かいには十王堂があります。十王が座る台座の裏に「宝永七庚寅(1710)七月」と記されているので、十王堂の創建はこの年と推定されます。

十王堂案内板
十王堂

その奥には成就院があり、境内の右側に芭蕉句碑があります。 
「爰(ここ)も三河 むらさき麦の かきつはた はせを」
※「はせを」とは芭蕉のことです。

この句の意味は「ここ藤川の宿(日本橋から38宿目)も三河なんだ、紫色の麦が(知立八つ橋の)かきつばたのようだ」と。
知立八橋「かきつばた(杜若)」で有名です。無量寿寺の境内には「かきつばた」園があります。

約1キロ強の宿内の距離を持つ藤川宿の京方の棒鼻を過ぎて、30mほど進むと街道の左側の民家の一角に江戸から数えて79番目(約310キロ)、京都三条からは39番目(約193キロ)の藤川一里塚跡の標が置かれています。



一里塚跡を過ぎると、街道脇に往還松の名残がちらほらと現れます。街道を進むにつれて少しづつ増えていきます。
前方に名鉄名古屋本線が街道を横切るちょっと手前の三叉路が藤川村の西の端にあたります。
そんな三叉路の道は西へ向かう道筋と南へ向かう道筋に分岐しています。

南に向かうと土呂、西尾、吉良へへつづく道で「吉良道」又は「吉良街道」と呼ばれていました。
吉良街道は吉良の塩を信州に運ぶ塩の道として重要な脇往還で、藤川は東海道だけではなく吉良街道も通る交通の要衡だったのです。

西尾市・吉良町(吉良吉田)
名鉄名古屋本線の新安城から急行で約30分の距離にあります。
吉良といえば、江戸時代前期の高家旗本吉良義央(よしなか)が有名です。よく御存じの、あの忠臣蔵で悪役として描かれている義央公のことです。

吉良家は大名ではなく4200石の旗本です。足利源氏の血をひく家柄で、江戸時代には高家筆頭として江戸城内の儀礼を担当し、公家接待の際の指南役を担っていました。このため石高が5万石の大名であった赤穂浅野家を田舎大名と見下していたようです。
吉良と浅野の争いの原因の一つには、双方の領地で産出される「塩」の利権争いがあったのではないかとの説もあります。
赤穂といえば有名な「赤穂塩」ですが、吉良塩も赤穂に負けない良質なものだったようです。
そんな塩の産地を抱える吉良と赤穂は少なからず敵対していたのではないでしょうか。

さて、三河には吉田藩、刈谷藩、岡崎藩をはじめ20近い藩と旗本領がありました。
その旗本の一人である吉良家の領内は三河湾に面していたことで、塩田が発達し「餐場塩(あいばしお)」と呼ばれたブランド塩が江戸時代から作られていました。

古くから作られていた吉良の塩は矢作川を船で遡り、岡崎の城下へと運ばれ、その後は陸揚げされ塩の道を辿って信州まで運ばれていました。
五万石でも岡崎様は城の下まで船が着く

岡崎の城下には塩座が設けられ、集められた塩は更に矢作川、巴川をさかのぼって、平古(現在の豊田市)で陸揚げされ、足助街道(あすけかいどう)を辿って足助へ運ばれます。
そして足助で荷を積みなおして、馬の背に乗せられ信州へと運ばれていきました。最終的には塩尻に至っています。

吉良道との追分を過ぎて、少し先の名鉄名古屋本線の線路を横切ると「藤川の松並木」が始まります。

藤川の松並木

名鉄線の踏切を渡った辺りから、その先の約400m間は特に立派な松並木がつづき、一里山から宇北荒古にかけて長さ約1キロの間に樹囲約2m、樹高約30mのものを含めて、およそ90本のクロマツが街道脇に並んでいます。

松並木を抜けると旧街道は藤川西の交差点で国道1号線と合流します。この先約2キロの区間は車の往来が激しい国道1号線に沿って進んで行きます。



国道1号線脇に堂宇を構える阿弥陀寺を過ぎると、歩き始めて2キロ地点を通過します。国道1号線は緩やかな下り坂となり、美合新町北信号手前の山綱川へと進んでいきます。
無味乾燥な国道1号線とやっとお別れです。見合新町北の交差点の手前で国道から分岐して左へと入る細い道へと進みます。この細い道筋にも僅かばかりの松並木が残っています。この松並木を「美合の松並木」と呼んでいます。



見合新町交差点まで行くと松並木は途絶え、道幅が細くなっていきます。そして美合町南屋敷の交差点を過ぎると、道幅は更に狭くなっていきます。

山綱川に架かる橋を渡って進んで行きますが、橋の手前に「川を美しく、生田蛍(しょうだほたる)保存会」の看板が置かれています。山綱川流域には源氏蛍が生息しているのでしょうか?

国道1号線には「ほたる橋南」と名付けられた信号交差点があることから、やはり「蛍」の生息地として知られているのではないでしょうか。

山綱川を渡り旧街道を直進すると、道筋は乙川の畔にさしかかり、T字路となります。T字路から乙川の流れを眺めることができます。
そんな乙川の河原にどういうわけか馬が数頭、放牧されています。時として乙川の水で馬の体を洗っている様子も見られます。
たまたま通りかかった厩舎の方に聴くと、この馬は神社の祭礼の時に貸し出すためのものだそうです。年間におよそ60日程度の割合で貸し出すそうですので、「1年を60日で暮らすいい馬たち」といったところです。

かつてはこの道筋の先に橋が架けられていたはずですが、今はありません。対岸にかつての道筋がのこっていますが、私たちは新しい橋である「大平橋」を渡って対岸へ進むため、いったんT字路を右折し、国道1号線に合流します。
太平橋を渡ると地名は「大平町」へと変ります。



大平橋を渡ったら、また国道1号から逸れて左へつづく細い道に入ります。そして突き当りを右折して僅かな距離を歩くとまた国道1号の大平町東交差点にさしかかります。

旧街道は国道一号線の大平町東信号を渡り、斜め右手に入る道筋へとつづいています。旧街道の道筋に入ると、ほんの少し上り坂になります。

左へとカーブを切りながら旧街道をそのまま進んで行くと、右側に大平郵便局が現れます。その前に西大平藩陣屋跡の案内が置かれています。郵便局の角を100mほど右へ入って行くと前方に白壁と復元された立派な陣屋の門構え(高麗門)が見えてきます。

陣屋の門構え
陣屋の高麗門
陣屋の高麗門

西大平藩陣屋は大岡越前守忠相が領地を治めるために設けた代官所です。
忠相は旗本でしたが72歳の時に八代将軍吉宗の口添えもあり、4080石の加増を受け1万石の大名になりました。藩主だったのはわずか3年ですが、その後、子孫が継ぎ7代後に明治維新を迎えました。 
忠相は大名といっても、江戸常駐の定府大名だったので参勤交代をしたことはなくここにきたことはないようです。

※西大平藩
現在の岡崎市大平町に位置しています。藩庁は西大平陣屋。石高は一万石。大岡家宗家の当主は吉宗の信任を受け、江戸南町奉行として享保の改革を実行しました。
忠相が72歳の時、寺社奉行時代の寛延元年(1748)に奏者番に就任し、それまでの功績を評価され4000石加増を受けて、西大平1万石の大名となったのです。
陣屋には郡代1名、郡奉行1名、代官2名、手代3名、郷足軽4~5名程度の少人数が詰めていました。また額田組十二村、宝飯組五村、加茂、碧海組七村が領地で、それぞれの組に割元と呼ばれる陣屋役人が置かれ、年貢の徴収と村々の取締りを行っていました。

立派な門をくぐると内部はなにもない更地です。おそらく今後、公園のように整備されていくのではないでしょうか。園内には綺麗なトイレがあります。



来た道を辿り、再び旧街道に戻り150mほど進むと、小さな交差点の左角に立派な姿の80番目の大平一里塚が置かれています。高さ2.4m、縦7.3m、横8.5mの塚に植えられていた榎は昭和28年の伊勢湾台風で倒れてしまったため、植え直したものです。

大平一里塚
 
左側の一里塚しか残っていませんが、昭和12年に国の史跡に指定されました。

大平一里塚を過ぎると、歩き始めて5キロ地点にさしかかります。旧街道は左へとカーブをきり、その先で再び国道1号線に合流します。この辺りまでくると、街道筋は岡崎の市内中心に近づいてきたかのような賑やかさを感じます。

旧街道の道筋はこの先の東名高速によって本来のルートが若干ながら変ってしまっているようです。本来であれば一号線にそって旧街道は直進していたはずですが、道筋が消失してしまいました。このため岡崎インターチェンジ入口手前の青山ダイソー脇の細い道へ入り、ホテル五万石の前を通り、インターチェンジ入口の下をくぐって向こう側へと進んでいきます。

岡崎の中心へと徐々に近づいてきていることを思わせるように、どことなく賑やかな雰囲気が感じられるエリアに入ってきました。道筋は再び国道1号線と合流します。1号線と合流すると、すぐに岡崎インター西の大きな交差点にさしかかります。この信号交差点を渡ると、旧街道は再び国道1号から右手の細い道筋へと逸れ、岡崎の城下へと入っていきます。



国道一号線から分岐するとすぐ右手に法光寺が山門を構えています。門前を過ぎて直進すると左側に冠木門岡崎二十七曲りの石碑が置かれています。

冠木門
二十七曲りの石碑

この場所が岡崎藩5万石の城下の入口であり、岡崎の宿場町の東の出入口だったのです。
さあ!ここから二十七曲りのスタートです。

お江戸から38番目の岡崎宿は天保14年(1843)の記録によると人口6494人、家数1565軒、本陣3軒、脇本陣3軒、旅籠112軒。本陣は中根甚太郎(西本陣)、服部小八郎(東本陣)、大津屋勘助の3軒、脇本陣が鍵屋定七、山本屋丑五郎、桔梗屋半三郎の3軒という規模でした。そして城下の町数は60余りあったといいます。

江戸時代には伝馬町を中心に、本陣、脇本陣、旅籠があったとされ、旅籠は文化9年(1812)の伝馬町家順間口書によると伝馬通5丁目から籠田総門まで軒を連ねていました。
正保・慶安の頃(1644~1651)からは、飯盛り女を置く旅籠があらわれ、岡崎は岡崎女郎衆で一躍有名になりました。

二十七曲り碑を後に若宮町2丁目信号にさしかかると、「二十七曲り碑」が置かれています。

二十七曲り碑
二十七曲り碑

江戸時代にはこのあたりを投町と呼び投町茶屋があり、そこでは淡雪豆腐が名物だったといいます。淡雪茶屋で出されていたのは葛や山芋をベースにした醤油味の「あん」をかけた「あんかけ豆腐」で、茶飯にお新香のセットで十八文だったと記録されています。

尚、江戸時代に城下を辿る旧街道筋は幾つもの曲がりを設置し、その数はなんと二十七か所に及びました。その二十七曲りの統一的な案内としてコース上に「金のわらじ」の目印が置かれています。私たちはこの「金のわらじ」を目印にご城下を辿っていくことにします。

金のわらじ

二十七曲りは天正18年(1590)に当時秀吉の家臣であった田中吉政によって整備された道筋です。
城下町である岡崎へ敵が攻め込んでくることを難しくするための工夫だったのですが、これは天正18年(1590)の小田原攻め以降、江戸へと移封された家康公への備えと言われています。

それまで家康公は三河、遠江、駿河、信濃、甲斐の五か国を領有する戦国の大大名として大きな力をもっていました。しかし秀吉は家康の強大な力を封じ込めようと、相模の雄であった北條氏の滅亡後、家康公を関八州を治めさせるため江戸へと移封させたのです。このことは家康を京、大坂から遠く離れた場所へ封じ込めるという戦略です。
そして、東海道沿いの尾張には福島正則、岡崎に田中吉政、吉田(豊橋)には池田輝正、浜松には堀尾吉晴、掛川に山内一豊といった豊臣恩顧の武将を配置したのです。

この二十七曲りの道筋は天守のあるお城を避けるように、城下の北側を辿るように何度も、何度も折れ曲がりながらつづいていました。実際に当時の二十七の曲がりがそのまま残っているわけではありませんが、300年余りの年月を経て、城下の町並みや道筋が変ってしまいました。この二十七という数字は実際の曲りの数というより、その数が多い意味として使われています。



若宮1丁目東の交差点を直進すると、右側に曹洞宗根石寺「根石観音堂」があります。

根石観音堂

案内によると、和銅元年(708)の頃、天下に悪病が流行したそうです。そして元明天皇の命により、行基が六体の観音像を彫り、2体を根石の森に勧請し祈祷をしたところ悪病は治まったと伝えられています。 
又、家康公の嫡男である岡崎三郎信康が元正元年(1573)の初陣に際し、観音像に祈願し軍功をあげて開運の守り本尊として崇めたといいます。

両町3丁目交差点を過ぎると、両町2丁目になります。両町2丁目交差点から100mほど進んだ4つ角を右へ曲がります。
曲がると公民館が右手にありますが、これを過ぎると比較的道幅のある伝馬通りにでてきます。その伝馬通りに面してファミリーマートが右角に現れます。

ここまでに至る道筋にある「曲がり」は曲尺手(かねんて)で、お城から遠ざけようとして旧街道筋をつくっているので、当時の旅人はこの道筋からは岡崎城を見ることはできなかったと思われます。

さて、岡崎市のマンホールの蓋には五万石と岡崎城と船の絵が描かれています。
「五万石でも岡崎様は城の下まで船がつく」と詠われたように、岡崎は神君家康公の生誕地であるため、ことさら特別な扱いを受け、僅か五万石でもお城の下まで船が着くほどだったのです。

伝馬通りに入り、伝馬通り5丁目交差点にさしかかります。このあたりから岡崎の宿場の中心地へと入っていきます。
伝馬通5丁目の交差点で、太陽緑道を横切り直進します。伝馬通4丁目の右奥にある随念寺は永禄5年(1562)に家康が創建した寺で松平七代目の清康とその妹久子の墓が置かれています。
江戸時代に入り、二代秀忠公は当寺に守護不入の特権を与え、元和5年(1619)に本堂を再建しています。この本堂は三河浄土宗の寺院の中で最古のものです。



伝馬通交差点の右側の角の花一生花屋あたりに「東本陣」があったといわれています。 
最初に本陣を勤めた浜嶋久右衛門が没落し、その後磯貝久右衛門に代わったが、これも廃れ、その後は服部專左衛門が勤めたといいます。本陣の大きさは間口13間、建坪209坪、畳245畳だったとあります。

交差点を越えた左側に備前屋藤右衛門と書かれた暖簾の「菓子屋・備前屋」があります。この店の創業は天明2年(1782)に溯る老舗です。この店を代表する名物は「淡雪」という菓子です。現在の淡雪は豆腐にちなんで作られた豆乳菓子です。

岡崎は昭和20年(1945)の米軍の空襲により市内全域がほぼ消失していますが、奇跡的に焼け残った建物が伝馬通りにあります。備前屋の数軒先に商家の糸惣の建物がありますが、文化9年(1812)の伝馬町家順間口書(前述)には小間物屋、糸屋惣兵衛として名を連ねています。その隣の永田屋も天保14年(1843)から商売をしている老舗です。現在は松坂牛を扱っています。

糸惣
永田屋

道の反対側にあるのが、漢方薬の大黒屋です。元禄年間(1688~1713)には居住し庄屋を勤めた家柄で、世襲名を小野権右衛門といいました。

大黒屋

家の前に置かれている石彫りには「作法触れ」とあり、土下座をしている姿が描かれています。作法触れとは勅使、朝鮮通信使や大名行列がきたとき、町奉行が町民に対し街道や宿場での応対の仕方のことです。

伝馬通1丁目で左折し50mほど進んで今度は右折します。入ってきた通りは「籠田総門通り(かごたそうもんどおり)」です。

少し歩くと右側に赤いレンガ造り洋館が現れます。国の重要文化財に指定されている岡崎信用金庫資料館です。

岡崎信用金庫資料館

赤レンガと地元産御影石(花崗岩)を使用したルネッサンス様式のこの建物は大正6年、旧岡崎銀行本店として建てられたものです。館内には貨幣に関する展示コーナーがあります。

岡崎宿の問屋(人馬会所)伝馬町材木町にありました。伝馬制により岡崎宿で常時用意する馬の数は、始めは三十六疋だったのですが、寛永15年には馬百疋、人足百人になりました。伝馬町の問屋は岡崎信用金庫資料館のあたりにあったようです。 

街道を挟んで岡崎信用金庫資料館の前辺りには伝馬公設市場がありました。
またこの場所には江戸時代に御馳走屋敷がありました。御馳走屋敷は間口15間以上もある立派な建物だったようで、公用の役人などをもてなす、いわば、岡崎藩の迎賓館的な役割を持っていました。

江戸時代にはこの先に岡崎城の籠田総門がありました。天正18年(1590)に家康が江戸に移封されると、秀吉の家臣の田中吉政が岡崎城主になり総堀を築き、城下町を整備しました。 

東海道東側の城内出入口としてつくられたのが籠田総門で、京方の松葉総門と同じく承応3年(1654)に造られましたが、東海道にはその後、枡形が設けられたようです。
中央緑道の真ん中に籠田総門の跡碑が置かれています。
籠田総門は籠田公園前、西岸寺辺りにあったと言われていますが、場所が特定できていません。

籠田総門の跡碑

中央緑道が途切れるあたりに二十七曲りの生みの親である田中吉政の像が置かれています。

田中吉政の像

田中吉政は岡崎城主になった時は秀吉の家臣でしたが、天下分け目の関ヶ原では徳川方につき、合戦後は光成を捕縛する勲功をあげて、家康公から筑後柳川城32万石の大出世をした人物です。

田中吉政の像がある場所から信号交差点を渡ると、反対側には籠田公園があります。城下を辿る旧街道の道筋はこの先、連尺通り入口までのわずかな区間ですがわからなくなってしまいましたが、私たちは籠田公園の中を突っ切って籠田公園北西信号交差点へと進みます。

公園の北西角には篭田町より連尺町角の標石が置かれています。それにしても岡崎城下、宿場内を辿る東海道の道筋はクネクネとしています。家康公が居城とした浜松城下や駿府(府中)の城下でも、これほどクネクネしていませんでした。

籠田公園北西信号交差点で連尺通りに入ります。「連尺」とは物を背負って売り歩く商人のことをいいます。そのまま直進して本町1丁目交差点へと進んでいきましょう。江戸時代後期になると連尺町は荒物商や木綿商・古着商をはじめ、様々な店が軒を連ねる商人町として栄えていました。明治から大正期にかけては呉服商が増えて、千賀呉服店や山沢屋をはじめとする大店が軒を連ね、呉服町の様相を呈していたようです。



本町1丁目の交差点を渡ると左側に岡崎シビコのビルが現れます。
岡崎二十七曲りはまだつづきます。岡崎シビコに沿って歩き、ビルの半分くらいの距離を歩くと、右に曲がる角にさしかかります。
その角に「岡崎城対面所前角の標石」が置かれています。対面所とは外来使節応対や領民の公事、評定を行った場所です。

そして道を挟んだ反対側のシビコ側に、「岡崎藩校充文 充立館跡碑」が置かれています。

岡崎藩校充文 充立館跡碑

この藩校は幕府崩壊後の明治2年(1869)に藩主本多忠直公が開設しましたが、その2年後の廃藩置県によって岡崎藩がなくなり、これと時を同じくして廃校となりました。

対面所の標石の先の細い道筋を辿り、北へと向かいましょう。突き当たりにある市川内科の前に 材木町口木戸前の標石が置かれています。材木町の地名の由来は田中吉政が城下建設の折、伐り出した材木を積み置いた場所からきています。
江戸期を通して鍛冶職人や指物職人等が多く住む職人町でした。
江戸時代にはこの角から次の材木町角の標石のところまで、北西の方向に斜めに歩いたようです。しかし現在では道は失われているので、ここで左折し材木町1丁目を右折します。材木町角の標石はファミリーマートの道の反対側に置かれています。

江戸時代には材木町の問屋場が、材木町3丁目の交差点を越えた右側にあり、伝馬町と交代で五日毎に伝馬継立を行っていました。伊賀川に架かる柿田橋の手前で左折すると、伊賀川の縁に二十七曲りの標石が置かれています。伊賀川に沿って歩き、三清橋の袂まで進んで行きます。ここにも標石があり「下肴町から田町角」と記されています。



材木町には唐弓弦の古い看板を掲げた旧商家が残っています。唐弓弦とは江戸時代に使われた綿打ちの道具ですが、岡崎には三河木綿に係る職人や商人が多くいたようです。

マップ⑳に表記されている二十七曲りのルートは赤字の点線です。
しかし私たちは岡崎城天守見学のため、いったん二十七曲りのルートから外れます。

三清橋を渡るとすぐの信号交差点を渡り、さらに伊賀川に沿って直進すると、龍城橋西交差点に着きます。
この龍城橋西交差点を渡り、左手に進むと、岡崎公園の入口に到達します。

《岡崎城》

岡崎城天守

岡崎城は松平清康(家康の祖父)が、享禄4年(1531)に現在の場所に城を移したもので、徳川家康は天文11年(1542)にここ岡崎城で生まれました。城内には家康が産湯に使ったという井戸跡もあります。

家康はその後、織田信秀(信長の父)、そして今川義元の人質となり、この地を離れましたが、永禄3年(1560)の桶狭間の戦いで今川義元が討たれとことで、十九歳の時再び岡崎に戻り松平家の再興を図ることになりました。 

家康は元亀元年(1570)、本拠を遠江浜松城(静岡県浜松市)に移し、岡崎城は嫡男信康に与えましたが、信康が自刃したので、重臣の石川数正、ついで本多重次を城代としました。 

天正18年(1950)の家康の関東移封に伴い、秀吉の家臣の田中吉政が城主となり、吉政は大規模な城郭の整備拡張を行い、文禄元年(1592)、城の東、北、西に総延長4.7kmの総堀をつくりました。 

その後、家康による江戸幕府開設により岡崎藩が誕生。石高は5万石前後と高くはなかったのですが、神君出生の地として神聖視され、石高以上に権威があり、本多(康重系統)、水野、松平(松井)、そして、本多(忠勝系統)と、家格の高い譜代大名が城主となりました。

元和3年(1617)、本多康紀が、三層三階地下一階建て、東に井戸櫓、南に附櫓をもつ天守閣を建てましたが、明治の城取り壊しにより、明治6年~7年に城郭の大部分が壊されてしまいました。現在の天守は昭和34年(1659))に復元されたものです。



岡崎城天守の見学を終え、公園内の南に位置する竹千代橋へと向かうことにします。竹千代橋を渡る手前の右側にNHK朝ドラ「純情きらり」の手形の道のモニュメント(寺島しのぶ)と二人の童の像が置かれた「竹千代通り」と銘板が嵌めこまれた記念碑があります。

純情きらりの手形のモニュメント
寺島しのぶの手形

それでは竹千代橋を渡って、旧板屋町エリアへと進んでいきましょう。

竹千代橋

かつての板屋町エリアへ入ると、旧伝馬町、連尺町、材木町の賑やかさからとは比較にならないほど、静かな町並み(住宅街)へと変ります。

この板屋町の名の由来はかつてこの辺りを造成するにあたり、板屋を造ったことによります。
そしてこの辺りが一躍有名になったのが、江戸時代の文化年間(1804~1818)に茶屋女を置いた茶屋商売が盛んになったことです。そしてこの茶屋商売は明治になってから妓楼(遊郭)へと発展し、伝馬町界隈と並ぶ一大歓楽街であったといいます。

そんな時代があったのか、と思うほど現在は静かな町並みに変貌しています。
かつて「いかがわしい」場所であったこのエリアで唯一、そんな場所の伝統を引き継いでいるのが、ド派手な建物を誇示するラブホテル「大使館」ではないでしょうか?

私達は旧板屋町の細い道筋を辿り、248号線の中岡崎町の信号交差点へとさしかかってきます。交差点の向こう側は江戸時代の旧松葉町エリアです。
豊臣時代にあの田中吉政が城下建設を始めたころは、この辺りは矢作川に近いこともあり、沼地であったと言われています。この沼地を埋め立てて町を造成したのです。

この信号交差点を渡ると、歩道の脇に岡崎城総曲輪の京方(西側)出入口にあたる松葉総門跡があります。

松葉総門跡
金のわらじ

中岡崎町の信号交差点を渡り、そのまま直進していきましょう。この辺りにくると市中の賑やかさはなく、静かな雰囲気を漂わせています。道筋の前方にガードがみえてきます。これは「愛知環状鉄道線」が走る高架です。このガードの手前までが旧松葉町です。そしてガードをくぐると、かつての旧八町村になります。旧八町村は岡崎城から八丁(約870m)の距離にあることから、こう名付けられました。

さあ!いよいよ本日の終着地点である「八丁味噌の郷」は目と鼻の先です。かつての東海道筋はそのまま直進していきますが、私たちはガードをくぐったら、すぐ右へ曲がり八丁味噌「カクキュウへと向かいます。

八丁蔵通り

八丁味噌は明暦元年(1655)に、朝鮮通信使が岡崎に宿泊した時、使節より伝えられたといわれています。
カクキュウに隣接して左側に「まるや八丁味噌(大田家、創業永禄年間)」があります。

カクキュウの建物(本社事務所と本社の蔵)は平成8年12月20日付けで国の登録文化財に指定されました。本社事務所は白い柱を基調とした洋風建築でモダンな雰囲気を醸し出したいます。また、「蔵」は明治40年に味噌蔵として建てられたものです。
尚、この味噌蔵はカクキュウのスタッフの説明付きで見学をすることができます。
■平日
見学受付時間 10:00~16:00まで
毎時00分開始 所要時間30分
店頭にて受付をお願いいたします。

■土日祝日
見学受付時間 9:30~16:00まで
毎時00分、30分開始のガイドつき見学
(ただし12:30の回はお休み)

■お問い合わせ
TEL/0564-21-1355
FAX/0564-21-1382
Eメール/shop@hatcho-miso.co.jp

■カクキュウHP
http://www.kakukyu.jp/

私本東海道五十三次道中記 第28回 第1日目 赤坂宿から本宿を経て藤川宿
私本東海道五十三次道中記 第28回 第3日目 岡崎から知立手前の来迎寺公園へ

家康公の故郷・三河岡崎~画僧「月僊」ゆかりの古刹・昌光律寺の佇まい~(愛知県岡崎市)
家康公の故郷・三河岡崎~家康公の父「忠弘公」密葬の地能見の「松應寺」を訪ねて
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私本東海道五十三次道中記 第28回 第1日目 赤坂宿から本宿を経て藤川宿

2015年09月03日 08時53分16秒 | 私本東海道五十三次道中記


さあ!3回目の2泊3日での行程が始まります。
第一日目の行程は東名高速の音羽蒲郡インター至近の「えびせん共和国」から37番目の藤川宿の道の駅までの9.6㎞です。
第二日目は藤川の道の駅からいよいよ家康公の生誕地「岡崎(38番目)」へと足を踏み入れ、立派な天守を持つ岡崎城を訪ね、その後岡崎八丁味噌の郷(カクキュウ)までのおよそ12㎞を歩きます。
第三日目は八丁味噌のカクキュウ前を出発地点として知立宿手前の來迎寺公園までの9.5㎞です。
そして3日間の総歩行距離は31.1㎞を予定しています。



赤坂宿の京口見附からおよそ1.5㎞進んだ場所に位置するのが「蒲さえびせん共和国」です。
赤坂宿を出ると旧東海道の道筋は左右に連なる低い山並みの間を縫うように続いています。左右の山並みに挟まれた谷間の幅は600mほど。そんな狭い谷間に穿かれた旧東海道筋を辿り、前回はここ「えびせん共和国」が終着地点でした。
赤坂宿からここえびせん共和国までの道程には家並みが続いていましたが、この先の街道筋は家並みが疎らになってきます。

旧街道筋へ入ると、ほんのわずかな距離を歩くと旧街道の路傍に「長沢の一里塚跡」が現れます。お江戸から77番目の一里塚です。因みに御油の一里塚から長沢の一里塚までは4236mです。

長沢一里塚跡

この辺りの道筋には昭和50年頃まで見事な松並木が残っていたようですが、その面影はほとんど残っていません。長沢の一里塚からほんの少し進むと、右手に長沢小学校の校舎が見えてきます。



私達は前回の旅で、かつての三河の国へと足を踏み入れました。長かった静岡県内の旅を終えて、やっと愛知県へと入ってきました。

街道時代の頃、東側の隣国である遠州・吉田藩との国境は白須賀宿を抜けたところに流れている「境川」でした。現在でも静岡県と愛知県の県境になっています。江戸時代にはここ三河の国は東西に区分され、吉田川(現在の豊川)流域を東三河、そして矢作川流域を西三河と呼んでいました。

そんな三河の国には江戸時代には多くの藩が存在していました。いわゆる国持大名としては1万石以上が19もありました。
代表的な藩としては三河吉田藩(3万石~7万石)、西尾藩(2万石~6万石)、岡崎藩(5万石)、刈谷藩(2万石~3万石)、挙母藩(ころもはん・豊田市)(1万石~2万石)、大給(おぎゅう)・奥殿藩(おくとのはん)(1万6千石)、田原藩・渥美半島(1万2千石)をはじめ、その他1万石クラスの藩が13藩も乱立していました。
尚、幕末まで存続した藩は6藩しかありません。

現在でも豊川寄りの豊橋市、豊川市、蒲郡市、新城市、田原市は東三河に属しています。
尚、西三河地域には岡崎市、豊田市、刈谷市、知立市、安城市、碧南市、高浜市、西尾市、みよし市があります。

長沢小学校のグランド脇に「長沢城址」の案内板が置かれています。
この城は長沢松平氏の初代親則が長禄2年(1458)頃に城を築き、岡崎の岩津から移り住み、居城として使用されていたと言われています。

7代政忠は「桶狭間の戦い」で討死。8代康忠は家康の妹矢田姫を妻とし、その後「長篠の戦い」「小牧、長久手の戦い」「小田原城攻め」に参戦し、家康関東移封に伴い、武蔵国へ下っています。

長沢松平氏は三河松平の嫡流で「十八松平」の一つで由緒正しき血筋をもっていました。この十八松平とは、松平氏の一族で家康公の時代までに分家したルーツを持つ松平家の俗称です。
この十八松平の中に家康公を含める場合もあるようですが、家康公の祖父である松平信康までの庶家に限定する場合もあります。

そんな血筋正しき長沢松平家ですが、二代将軍秀忠公の時代(元和2年/1616)に改易となり、家名は断絶してしまいます。

改易後、長沢松平家の血統は存続するのですが、幕府はこの家系を認めませんでした。しかし享保の時代に再び長沢松平家を認知したのですが、禄は与えられませんでした。そして天保の時代になってようやく十人扶持となり、幕臣としての禄を下されました。幕末期の当主・松平忠敏(主税助)は新選組の前身である浪士組の取締役になりました。

尚、開幕後の江戸十八松平は大名の中で将軍家から特に「松平」の称号を許された家格で、その代表的な大名は松平加賀、松平土佐、松平薩摩、松平陸奥があげられます。

寛永11年(1634)の三代将軍家光公が上洛の際に長沢小学校のグランド付近に御殿が建てられ、将軍の休息場所として使われたといいます。せっかく造った御殿も延宝8年(1680)には廃止されています。

この先で道筋は右手にカーブします。カーブした右側に誓林寺が山門を構えています。
当寺は親鸞の弟子、誓海坊が建てた草庵が始まりで、応仁年間(1467~1469)に信海が寺にしたと伝えられています。山門前に大きな鬼瓦が置かれています。

旧街道はこの先2キロ地点で国道1号線と合流しますが、それまでは街道歩きの目を楽しませてくれるような古い家が点在しています。音羽川の流れを左手に見ながら進むと、右側に安政10年(1798)の秋葉常夜燈と村社巓神社の石柱が建っています。巓神社は北方400メートルの山の中に社殿を構えています。



山口バス停のところまでくると、道幅は狭くなり、街道の左側に漆喰壁に連子格子が美しい立派な家が現れます。 
少し先の右側の石垣の上に「磯丸 みほとけ 歌碑」と書かれた石柱と観世音菩薩と刻まれた石碑、そして三頭馬頭観音像が祀られています。

>磯丸 みほとけ 歌碑

磯丸とは糟谷磯丸(かすやいそまる)のことで、彼は渥美半島の伊良子村に生まれた漁師で漁夫歌人と呼ばれた人物です。この碑はかつてここにあった観音堂の庵主「妙香尼」が弘化3年(1846)に落馬して亡くなった旅人の供養のために糟谷磯丸 に歌を依頼して建てたものといわれています。
「おふげ人 衆生さいどに たちたまう このみほとけの かかるみかげを 八十二翁磯丸」

◇糟谷磯丸(かすやいそまる)
明和元年(1764)~嘉永元年(1848)
一般的に磯丸様と呼ばれている人物で、前述のように伊良子の漁師です。漁師であるが故に文字を書くことができなかったのですが、ある時、地元伊良子の神社に参拝に訪れた時、参詣人が奉納額を見上げて和歌を口ずさむのを聞いて、その響きに魅かれて自身も歌を詠むようになったそうです。

やがて無筆の歌詠みとして世間に知られるようになっていくのですが、磯丸は生涯を通じて数万首の歌を詠んだと言われています。中でも「まじない歌」(呪禁歌:じゅごんうた)は当時の人々の暮らし向きを織り込んだものとして知られています。
この「まじない歌」は呪術的なものではなく、家内安全、無病息災、商売繁盛など民衆の願い事や困りごとなどを歌にしたものです。

それでは千束川に架かる大榎橋と千両橋を渡ると道筋は少し上り坂になり、関屋の交差点で国道 1号と合流します。
旧東海道の道筋はここで国道一号と合流し、ここから2キロ弱は車の往来が激しい国道に沿って進みますが、この区間は左側を歩いて行きましょう。

この合流地点から左手へのびる道筋を進んだ森の中に「赤石神社」があります。
延暦年間(782~805)に信濃国の諏訪大明神の分霊を勧請したのが始まりと言われている古社です。
その創建にまつわるのが「坂上田村麻呂と大うなぎ」の話です。

その昔、長沢の西の外れにあった沼には大うなぎの化け物が住みつき、地域の人を悩ませていました。
そしてこの地に立ち寄った坂上田村麻呂がその化け物を退治しましたが、その後、沼の水を汲んだ者が次々と病にかかってしまい、人々は祟りだと恐れ、祠を建てその霊を慰めたのが今の赤石神社だと言います。



旧街道が国道1号と合流してから2キロ弱の距離を歩いてきました。歩き始めて3.5キロ弱で本宿町深田の信号交差点にさしかかります。この信号手前で豊川市から岡崎市へと入ります。信号交差点を過ぎると「自然と歴史を育む町本宿」と刻まれた立場本宿の大きな石碑が置かれています。

立場本宿碑

街道時代の頃、赤坂宿から長沢そして本宿村にいたる道筋は山沿いの急坂で、街道松がつづく昼なお暗く、多くの旅人たちは盗賊や渡世人に悩まされた場所で、婦女子はこの区間は馬による旅をしたそうです。
そしてここ本宿村東境の立場村で馬を降りて、500m先に堂宇を構える法蔵寺門前町まで歩いて進んでいきました。

本宿の石碑の先には、かつてここが立場であったことを示す冠木門が置かれています。
この冠木門をくぐると本宿の中心の法蔵寺まではほんの僅かな距離です。

冠木門



本宿(もとじゅく)は東三河と西三河が接するところで、古くは駅家郷、山中郷に属し、奈良古道、鎌倉街道の要地として中世以降は法蔵寺の門前町として栄えた所です。 
江戸時代には赤坂宿と藤川宿の間宿になっていました。旧街道は新箱根入口の信号交差点の先の分岐点を左に入っていきます。

分岐点

「新箱根」とは?ちょっと不思議な名前ですね。
実は昭和9年(1834)、鉢地坂トンネルが開通し、本宿と蒲郡を結ぶ県道が完成し、最新型の流線型のバスが走ったといいます。風光明媚な景色が箱根に似ていることから、「新箱根観光道路」と命名され、これを記念し、本宿音頭なるものまでつくられたようです。

国道一号から分岐するように旧街道筋は左手に延びています。旧街道筋に入ると、かつて間の宿として賑わいをみせていたかのように住宅街へと変貌します。この辺りが歩き始めて4キロ地点にさしかかります。

本宿家並

街道を進んで行くと右手に古めかしい建物が1軒現れます。そして街道を挟んで左側に法蔵寺の参道がまっすぐにのびています。さあ!三河本宿の中心寺院の法蔵寺の参道入口に到着です。

本宿の古い家

その参道入口の左側に玉垣で囲まれた場所に1本の松が植えられています。この松が御草紙掛松(おんそうしかけまつ)(4代目)です。

御草紙掛松

家康公がまだ竹千代の時代に当寺で手習いを受けていたころ、竹千代が自らの手で境内に植えた松と言われています。そしてこの松に手習いの草紙を掛けて乾かしたことから御草紙掛松(おんそうしかけまつ)と呼ばれています。
そして10数年後に法蔵寺を訪れた家康は松の成長ぶりに感激して門前に移植したそうです。
その後も家康公は寺の前を通る時に「いつもの茶を」と頼んで、この松の下でお茶を飲みながら団子を食べたそうです。

総門(三門)へとつづく参道(寺らしくない参道ですが)を進んでいきましょう。擬宝珠を付けた赤い橋を渡ると総門が構え、急な石段をのぼると鐘楼門が現れ、その向こうにご本堂が置かれています。

この総門は江戸時代の万治元年(1660)に造られたもののようです。三門とも呼ばれ、知恵の門「少しでも前進の生活を」、慈悲の門「やさしい心で生活を」、方便の門「仏に正直な生活を」を意味しています。

石段を上りつめると鐘楼門が私たちを迎えてくれます。この鐘楼門は境内に現存する建造物の中で最も古いものです。伽藍は街道の左手にある小高い山の緩やかな斜面に配置されています。境内からは遥か彼方に連なる三河の山並みを眺めることができます。

鐘楼門

法蔵寺は大宝元年(701)に行基上人が開き、時の天皇から出生寺(しゅしょうじ)の寺号を賜って勅願寺となったという古刹で、松平氏の初代「松平親氏」が嘉吉元年(1441)に堂宇を建立し、寺号を法蔵寺と改めました。

法蔵寺本堂

初代の親氏以来、松平家の帰依を受け、家康も子供のころ、ここで手習いを受けたことで徳川家と縁が深い寺です。 
現在は、浄土宗西山深草派で二村山(にそんざん)法蔵寺といい、本尊は阿弥陀如来です。
ご本堂には徳川家の三つ葉葵が瓦や壁に刻まれ、建物の彫刻も華やか図案で、江戸時代を通じて幕府より知行地を賜り、絶大な権勢を誇った寺院であったことを窺がうことができます。

鐘楼門の奥にご本堂、右手奥には客殿(方丈)、ご本堂の左手には観音堂(六角堂)が配されています。

六角堂

お堂には聖観音、十一面観音、千手観音、不空羂索(ふくうけんじゃく)、馬頭観音、如意輪観音が祀られています。この六角堂は前九年の役で奥州へ向かう源頼義が永承6年(1051)に戦勝祈願をし、自らの甲冑を奉納しています。

また家康公は長篠合戦の出陣に際して必勝祈願し、これ以後開運の観音様と呼ばれ親しまれています。
現在の六角堂は江戸時代の享保13年(1728)に再建されたもので、平成12年に回廊を含め大修理を行っています。

また境内には竹千代が手習いの水として汲んだと言われる「賀勝水(がしょうすい)」が湧く井戸があります。
寺伝では日本武尊(やまとたけるのみこと)がこの地で天照大神ら諸神を勧請して東夷征伐を祈願し、その效験(霊験の徴)を見せ給えと念じ巌を突くと冷泉が湧き出したので、勝利の祥瑞として日本武尊は「賀勝」と三度唱えたと伝わっています。
そして戦で傷つき倒れた兵士たちに、この泉の水を与えたところ、たちどころに傷が癒え立ち上がったと伝えられています。街道時代には旅人たちを癒す水として親しまれていたようですが、現在も湧き出ています。ただし飲むことはできません。

そして六角堂の左手奥の山の中腹には東照宮が置かれています。建立時期は定かではありませんが、おそらく300年前にさかのぼると言われています。
江戸時代の文政年間(1818)には大修理が行われたという記録があります。一般的に見る東照宮とはその煌びやかさ、豪華さに欠ける社殿です。

さて、ここ法蔵寺の境内を歩いていると、やたら「誠」の旗印が目についていたのですが、やっと判明しました。実はここの境内には幕末に活躍したあの新撰組隊長「近藤勇」の胸像と、その脇には彼の首を埋めたとされる「首塚」が置かれているのです。

近藤勇首塚
近藤勇胸像
胸像の台座

なぜこんな場所に近藤勇の首塚があるのか?
近藤勇はあの戊辰戦争の始まりである鳥羽伏見の戦いの後、武蔵の流山で官軍に捕らえられ、慶応4年(1868)に東京の板橋で打ち首になっています。その首は塩漬けにされ京都に送られ、三条大橋に晒されていました。
それを見た新撰組同志によって密かに首が持ち出され、近藤勇が親しくしていた京都新京極裏寺町の宝蔵寺十三世・称空義天上人旭専大和尚に供養してもらうつもりだったのですが、そのとき称空義天上人旭専大和尚がここ本宿の法蔵寺の第三十九世貫主となっていたことがわかり、首は本宿まで運ばれたそうです。

首は目立たぬように土に埋められ隠されていたために、その存在すら忘れ去られていましたが、昭和33年(1958)に発掘されました。現在、その場所には近藤勇の胸像と首塚の石碑そして新撰組の隊旗が置かれています。
(注)慶応4年(1868)4月25日、近藤勇は江戸板橋の平尾一里塚付近の刑場で官軍により斬首処刑されました。首級は京都に送られましたが、胴部分は少し離れた板橋駅前に埋葬されています。また彼の生家の近くの三鷹市の龍源寺にも近藤勇の墓があります。

境内を見下ろす山の中腹に置かれた「近藤勇」の首塚にほぼ隣接して、ちょっとした平坦な場所があります。その場所に家康の祖先である松平家の墓が人知れず置かれています。

松平家の墓

ひときわ大きな五輪塔は松平家八代、そして家康公の父である広忠公の墓です。
法号は慈光院です。寺の言伝えでは岡崎の大樹寺に納められた骨を分骨してここに葬ったとのことです。
この他、松平親氏の父・有親(ありちか。長阿弥/ちょうあみ)の墓もあります。
寺伝では親氏が有親の二十七回忌に、その遺骨をここに葬り位牌を講堂に納めたといいます。

法蔵寺を後にして、小さな川に架かる法蔵寺橋を渡り、150mほど進むと左側に「冨田病院」の看板があります。
緩やかな坂道を上がっていくと、正面には現代的な建物の冨田病院があります。この冨田病院が建っている場所がかつての「本宿陣屋跡」です。この冨田病院に隣接してたつ古い家が「代官屋敷」です。

元禄11年(1698)、旗本柴田出雲守勝門(柴田勝家の子孫)の所領になり、ここに陣屋が置かれ、柴田氏の子孫が明治まで治めていました。陣屋の代官職は富田家が世襲し、現在の居宅は文化10年(1827)の建築です。

※柴田勝家
主君は織田信秀、信勝、信長、秀信。妻は信長の妹君である「お市の方」です。天正11年(1583)の賤ヶ岳の戦いで秀吉に敗れ、お市の方と共に自害しました。残された遺児である茶々、初、江はその後、戦国戦乱の世の中で波乱万丈の人生を送ることになります。

江戸時代の本宿は正式な宿場ではないのですが、家数121軒もありました。そして立場茶屋が長沢村との境の四谷と本宿の法蔵寺の二ヶ所、宿内の距離はなんと19町(2071m)もあったといいます。



静かな佇まいを見せる本宿の町を貫く旧東海道を進んでいきましょう。冨田医院から150mほど進むと、右側に常夜燈が置かれています。ここを右へ進むと名鉄名古屋本線の本宿駅に行くことができます。

本宿家並
本宿家並

本宿は古くから麻縄の産地として知られていたようで、東海道中膝栗毛にも「ここは麻のあみ袋などあきなふれば、北八、みほとけの誓いとみえて、宝蔵寺、なみあみ袋はここの名物」という記述があります。

法蔵寺草履
三河本宿は山間の集落で古来より麻、麻縄の産地として知られていました。
ここで言う法蔵寺草履は農民たちが夜なべをして作っていたもので、街道で売る前に法蔵寺で安全祈願の祈祷をしていたようです。麻と縄で編まれた旅草履は丈夫で長持ち、そして履き心地が良いという評判から、街道を旅する人から人気があったのです。

豊川信用金庫がある交差点の手前の右側にお江戸・日本橋から78番目の一里塚跡の標柱が置かれています。

78番目一里塚跡

そしてこの先の左側に古びた土壁が印象的な「屋敷門」が現れます。この屋敷門は宇都野龍碩(うつのりゅうせき)邸跡です。

宇都野龍碩屋敷門
宇都野龍碩屋敷門

本宿村医学宇都野氏は古部村(現岡崎市古部町)の出といわれ、宝暦年間(1751~1763)三代立碩(りっせき)が当地で病院を開業したのが始まりといわれています。
七代龍碩はシーボルト門人の青木周弼(あおきしゅうすけ)に医学を学んだ蘭方医として知られ、安政年間に当時としては画期的ともいわれる植疱瘡(うえほうそう)(種痘)を施しています。

宇都野龍碩(うつのりゅうせき)邸跡の先に街道松が何本か残っています。

街道松

この先の本宿町沢渡信号の辺りで本宿は終わりです。そして旧東海道筋はここで再び国道1号と合流します。
この本宿町沢渡信号を渡り、約1キロ強の距離ですが国道1号に沿って右側を歩いて行きましょう。
この先6キロ地点で旧街道筋は国道一号から右手に分岐していきます。



東海中学校入口信号を過ぎると旧舞木村に入ります。このあたりから右手の視界が広がり、遥か向こうには低い山並みが連なっています。田園風景が広がる景色を眺めているうちに6キロ地点で旧街道は国道1号から右手に分岐していきます。

田園風景

ほんの僅かな距離ですが、名鉄名古屋本線の線路が間近に迫る細い道筋を進んでいきます。250mほど歩くと右手に「名電山中」の駅があります。
舞木の地名は山中八幡神宮記の一節に「文武天皇(697~707)の頃、雲の中より神樹の一片が神霊をのせて舞い降りる 」とあり、このことから舞木の地名となったといわれています。



1号線から分岐して名鉄名古屋本線の線路に並行して走る旧街道沿いには僅かながらの商店が並び、静かな雰囲気を漂わせています。街道の右手に点在する興円寺、永證寺の甍を眺めつつ、山綱川に架かる舞木橋を渡ると道筋にわずかながら松並木が残っています。

大雄山興円寺の石柱に旧山中村と刻まれていますが、興円寺は宝永7年(1710)に開創された寺です。
旧山中村とありますが、舞木町の説明板には舞木村は古くは山中郷に属していましたが、江戸幕府の三河代官が市場村の一部を藤川宿に移転させた際、残りの市場村と舞木村を合併したことで現在の舞木町になったと記されています。

旧街道筋は舞木西交差点(信号交差点)で再び国道1号と合流します。この辺りはたいへん眺望が良くて、広々とした畑が広がる景色が目の前に現れます。国道1号を挟んで、向う側にちょっと遠目ですが山中八幡宮の赤い鳥居とその背後にあるこんもりと茂った鎮守の森が見えます。そしてその手前には大きな常夜燈が置かれています。

畑の中の常夜灯

旧街道筋から逸れて、畑の中の一本道を歩いてまずは常夜燈へ向かうことにしましょう。近づいてみるとかなり大きな常夜燈で、火屋があるもので階段までついています。八幡宮の氏子達が天保4年(1833)に建立したもので、山中御宮、常夜燈と刻まれています。神社の鳥居から80mほど離れた畑のど真ん中にぽつんと立っている姿は遠目からでもかなり目立つ存在です。

山中八幡宮の鳥居

常夜燈から80mほどさらに進むと、山中八幡宮の鳥居前に到着します。鳥居の右側にはなんと樹齢650年という岡崎市指定天然記念物の大クスノキがあります。幹は二股に分かれ、650年という樹齢を感じさせないくらいに見事な枝ぶりを伸ばしています。

大クスノキ

鳥居をくぐると長い石段(111段)が鬱蒼とした森の中にのびて本社殿がある境内へとつづいています。(その距離180m)

社殿へとつづく石段

祭神は誉田別尊(ほんだわけのみこと)、八幡大神ですが、徳川家康と縁が深い神社なのです。 
弘治4年(1558)、今川義元の命によって家康が初陣の三河寺部城攻めに際し戦勝祈願をしたところです。慶長2年(1597)には石川数正等に命じ衡門を建てて社殿を造営しています。

山中八幡宮本社殿
 
また三代将軍家光は寛永11年(1634)の上洛の途中に、当社に参拝し東照宮合祀、葵の紋の使用を許可された、とも伝えられています。本社の左手前に家康が戦勝のお礼に参拝した際に残したとされる出世竹があります。

また家康公の三代危機といわれる三河一向一揆で門徒たちに追われた家康が身を隠しその難を逃れたと伝えられる「鳩ヶ窟(はとがくつ)」あります。

長い石段を上り終えたら、社殿へ向かう石段を右に見ながら、そのまま直進していきます。そして細い道筋を進むと「鳩ヶ窟(はとがくつ)」の石碑が置かれています。

鳩ヶ窟石碑
鳩ヶ窟

三河一向一揆は永禄6年(1563)に家康の家臣が一向宗寺院の不入権を無視して、兵糧米を徴収しようとしたことに対し、一向宗門徒が反発したために起こったといわれています。その一揆方の追っ手が家康の潜んでいた洞窟を探そうとすると、中から二羽の鳩が飛び立ち、人のいる所に鳩がいるはずがないと追っ手は立ち去ったという逸話が残っています。 

鳩ヶ窟は本社に入る手前で、左折すると両脇は藪のようになっている道を行くと、注連縄が張られていて、洞窟は神聖な場となっていますが、人がひとり入れるかどうかという大きさです。
それにしても家康公、どこでもピンチに遭遇しているんですね!

山中八幡宮を後にして再び国道1号線に戻りましょう。その道筋の脇には「枝豆」の畑が広がっています。
国道1号に戻ると右手上の方に名古屋鉄道の舞木検査場が見えます。名鉄の車両が並んでいます。

やがて道が右にカーブすると、市場町の交差点に出てきます。そしてその先の左側に入る道が東海道で藤川宿の東見附は目と鼻の先に迫っています。



市場町の交差点を渡り、50mほど先の細い道に入ると、すぐに「従是西藤川宿」と書かれた標柱があり正面にモニュメントが見えてきます。

旧街道への分岐点

ここは藤川宿の江戸方の入口の棒鼻があった所で「東棒鼻」と呼ばれています。棒鼻とは土塁に石垣、その上に竹矢来や木を植えたもので、そこに番人がいて宿場の出入りを監視していました。ここにあるのは平成4年に復元されたものです。

東棒鼻

藤川宿は安藤広重が描いた大名行列が棒鼻を通る風景で知られています。藤川宿は日本橋から37番目の宿場です。宿内には本陣1、脇本陣1、旅籠数36軒、家数は302軒があり、宿内人口は1213人です。 

慶長6年(1601)に伝馬朱印状が発給されて宿場になったものの、村の規模が小さいためやっていけなくなり、慶安元年(1648)に藤川宿の東側に500メートル程道を伸ばし、隣村の市場村から68戸を移転させて加宿市場村を作ったという歴史があります。

藤川宿のむらさき麦
東海道名所図会に、「藤川、この辺に紫麦を作る。これを高野麦という。」という記述もあることから、藤川宿のこの辺りではかつて、むらさき色の麦「紺屋麦(高野麦)」を栽培していました。穂が紫色をしており、かつては藤川宿の名産でした。しかし、いつしか作られなくなり、ついに「むらさき麦」は幻の麦となってしまいました。

むらさき麦の看板

この「むらさき麦」を芭蕉句碑にちなんで、藤川に再現したいと願って、原田市郎氏と野田正夫氏が奔走し、念願かなって、平成6年に愛知県農業総合試験場の協力で復活し、藤川宿内の数箇所で「むらさき麦」の栽培が行われており、毎年5月中旬頃から赤紫色に色づいた麦を見ることができます。

※「ここも三河 むらさき麦の かきつばた 芭蕉」かきつばたで有名な知立も三河なら、この藤川も三河。ここ藤川には知立のかきつばたに劣らないむらさき麦がありますよ!

むらさき麦は大麦の栽培品種で、食用というよりはむしろ鑑賞・染物などに使われました。「紺屋麦」または「高野麦」といわれ、茎や穂が紫色になる美しい麦です。

棒鼻に入ると曲がりくねった道になっており、ここ藤川では曲手(かねんて)と呼んでいますが、一般的には枡形とか鉤型といわれるものです。

細い道を入って行くと三叉路に突き当たるので、これを右折して進みます。そしてその先がT字路になっているのでこれを左折します。この角には道中記に書かれて有名になった「茶屋かどや佐七」があったと案内があります。 

東海道中膝栗毛の中でも「かくて藤川にいたる。 棒鼻の茶屋、軒毎に生肴をつるし、大平瓶、鉢、店先に並べたてて、旅人の足をとどむ。」弥次郎兵衛の「ゆで蛸で たこのむらさきいろは 軒毎に ぶらりと下がる 藤川の宿 これより宿 をうちつぎ、出はなれのあやしげなる店で休みて………」とあるので、江戸時代には道の両側に茶屋が並び、客引きが凄かったように思われます。 

かつての旧東海道はT字路を左折して進んでいきます。その先の右側に一対の常夜燈と鳥居があり、傍らの石柱には津島神社と書かれていて、路地の奥の方に社殿が見えます。

藤川宿の家並

さあ!宿内を貫く旧街道を進んでいきましょう。市営駐車場前を過ぎて、最初の信号を渡ると左手に「片目不動」と染め抜かれた幟がはためいています。

片目不動入口
片目不動

真言宗醍醐派の法弘山明星院という寺で、堂宇も敷地も小さく、見栄えのしない寺なのですが、寺の本尊である「不動明王」が徳川家康の窮地を救ったということで、たいへん有名なのです。

桶狭間以後、岡崎に戻った家康は家臣団を集め、三河平定へと乗り出すのですが、その過程の永禄5年(1562)、扇子山の戦いで家康に放たれた矢を見知らぬ武士が身代わりになり片目を潰し姿を消しました。

その後、家康が明星院を訪れた際、祀られていた不動尊の姿形があの時の武士にそっくりで片目が潰れていたことから、不動尊の化身に助けられたと悟り深く感謝したと伝えられています。
ここでも家康公はピンチに遭遇していたのですね。尚、本尊の不動明王立像は秘仏なので見ることはできません。 

旧街道はこの先で小さな川を渡ります。渡ると江戸時代の藤川村です。ここから東へ500mが藤川宿の加宿であった市場村だったのです。



旧街道は小さな川を渡ります。渡るとすぐ右手の小さな駐車場の脇に高札場跡が現れます。高札場は高さ一丈、長さは二間半、横は一間の大きさで、八枚の高札が掲示されていたといいます。その内、三枚はこの先の資料館に展示されています。

旧街道を挟んで、高札場の反対側に堂宇を構えるのが称名寺です。当寺には代官だった烏山牛之助の位牌があります。武田成信や雷電と争ったという力士の江戸さき(山の下に大その下に可という字)の墓もあります。 なお武田成信は藤堂家の家臣で武田信玄の弟の信実の八世にあたります。

そしてその先の米屋が問屋場です。米屋の生垣前に問屋場跡の石柱と案内板がります。

問屋場跡

江戸時代の東海道宿村大概帳には藤川宿には本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠は36軒あったとあります。銭屋のはす向かいにあったのが本陣だった森川家で、現在は第二資料館になっています。

藤川宿
藤川宿
本陣跡
本陣跡

藤川宿の本陣は2軒ありましたが、その後、退転(おちぶれること)を繰り返し、江戸時代後期には森川久左衛門が本陣を勤め、建坪は194坪だったといいます。
宇中町の右側に立派な門がある家がありますが、この場所は脇本陣を務めた大西喜太夫の橘屋です。

脇本陣の門

当時の家は現在の130坪ほどの敷地の4倍で、明治天皇御小休所の坐所があり、昭和30年の岡崎市との合併前は藤川村役場にもなっていました。

現在は藤川宿資料館(入館無料、9時~17時、月曜休)になっています。
門は当時のままで、庭には脇本陣跡の石碑もあり、館内には宿場街道の模型や古文書、古地図が展示されていて、江戸時代の藤川宿の様子を知ることができます。

脇本陣の石柱

脇本陣の裏手には本陣の建物の土台として築かれた石垣がその名残をとどめています。
そして石垣周辺にも「むらさき麦」の栽培地が広がっています。

脇本陣裏手の石垣跡
むらさき麦の栽培地看板

宿内を進んで行くと左手に伝誓寺が山門を構えています。その先にも「むらさき麦」の表示が置かれています。

本陣、脇本陣などがある宿場の中心を過ぎて、少し歩くと右手に藤川小学校が現れます。この小学校の前が藤川宿の西の棒鼻が置かれていた場所で、藤川宿もここで終わります。
その一角に、広重の師匠の浮世絵師、歌川豊広の歌碑があります。
「藤川の 宿の棒鼻 みわたせば 杉のうるしと うで蛸のあし」と刻まれています。

西棒鼻
西棒鼻

さあ!それでは本日の終着地点である藤川の道の駅へと向かうことにしましょう。藤川小学校の角を右へ曲がり、名鉄名古屋本線の藤川駅へ向かいます。

線路を跨ぐ陸橋を渡って反対側へ移動します。たいへんお疲れ様でした。道の駅藤川に到着です。

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