大江戸散策徒然噺 Introducing Japanese culture and history

豊かな歴史に彩られた日本の文化と歴史を紹介

かつて行徳の塩を運んだ水路・古川ほとりの名刹「妙勝寺」の佇まい

2012年06月28日 18時51分54秒 | 江戸川区・歴史散策
古川はかつて江戸時代には行徳の塩を舟で運んだ運河として利用されていました。しかし時代が下るにつれ、その用途は失われ次第にどぶ川へと変わってしまいました。その後、どぶ川へと変貌した古川は現在では親水公園として綺麗な水が流れる水辺へと変わりました。

妙勝寺山門

そんな古川のほとりに山門を構えるのが葛西の名刹「妙勝寺」です。当寺は日蓮宗、山号を本覚山と号し成就院日尚上人が徳治2年(1307)に開山した江戸川区内でも歴史のある古刹として知られています。

山門をくぐると、境内は緑濃い木々が茂り都会の喧騒から隔絶されたような静かな空気が漂っています。参道を進むと右手に朱塗りの鐘楼堂が現れます。木々の緑と鐘楼堂の朱色が見事に映えています。

鐘楼堂

その鐘楼堂の奥には当山を開山した成就院日尚聖人を祀った御堂「開山堂」が置かれています。鐘楼堂の足元に梅雨の季節を彩る紫陽花が美しい花を咲かせています。

開山堂
鐘楼堂の足元に咲く紫陽花

開山堂から再び参道に戻ると、美しい木々の緑の中に五重塔が現れます。台座に置かれた五重塔ですが凛とした空気が流れる境内にアクセントを添えています。

五重塔

そして参道の正面にはご本堂がどっしりとした姿で構えています。

ご本堂

ここで妙勝寺の縁起を紐解いてみましょう。
弘安7年4月(1284)下総国堀江の浦に漂着した難船にのこされていた童子を、当村二之江村漁師の五郎が救い上げて育てたところ、童子は後に中山法華経寺2世、日高上人の弟子となり、成就院日尚と号して当村の古川べりの妙見社のそばに草庵をいとなみ、一寺を建立しました。
その人こそ開山の日尚上人で時は徳治2年(1307)春3月のことです。

現在見る大伽藍、客殿は威風堂々として風格を備え、民間に開山上人の院号である成就院がなまった”ジョウヂン”の呼名で親しまれている名刹でです。

古川の親水公園の散策の途中にふと立ち寄りたくなるお寺です。

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路傍の庚申塔巡り~庚申塔が集う下総葛西の寺巡り~

2012年06月28日 18時04分32秒 | 江戸川区・歴史散策
荒川(中川)を渡ると江戸川区の葛西へと地名は変わります。江戸時代は隅田川を渡るとそこは下総の国。旅人たちは千葉街道や行徳街道を辿りながら下総の国へやってきたのだろう。

江戸の府内からは街道の往来だけでなく、実は行徳で産する塩や干鰯を江戸市中へと運ぶための運河を利用して葛西あたりへとやってきたようである。隅田川から小名木川へと入り荒川へ。そして荒川から新川、古川、江戸川を辿り行徳へと至る水路は物資の運搬だけでなく、人の往来にもたいそう役立っていたようです。

そんな地域である葛西は陸路、水路で往来する人々で賑わう場所であり、江戸湾に面していたことで海苔の養殖や江戸前の新鮮な魚介類が豊富にとれた漁村でもあったのです。そうであればこの界隈には村が構成され、そこには多くの人が暮らしていたことになります。村があればそこには必ず村民が檀徒となる寺があります。

そんなことでかつて江戸時代に行徳街道の道筋にあった「長島村(現在の東葛西)」を歩いてみることにしました。長島は環七通りと旧江戸川に挟まれた地域ですが、どういう訳かこの地域にはたくさんの寺社が集中しています。そんな地域をそぞろ歩きしているうちに気が付くことは、次から次に寺の門前脇や路傍に現れる年代物の庚申塔なのです。

民家の脇に置かれた庚申塔

庚申信仰は歴史が古く8世紀末には「守庚申(しゅこうしん)」と呼ばれる行事が始まっていたと言われています。そもそも庚申信仰は中国道教の説く「三尸説(さんしせつ)」をもとに、仏教、特に密教・神道・修験道・呪術的な医学や、日本の民間のさまざまな信仰や習俗などが複雑に絡み合った複合信仰と言われています。

その三尸説とは、中国の道教の教えによると、人中に潜む「三尸の虫(上尸=頭、中尸=腹、下尸=足)は、庚申(かのえさる)の夜、人が眠りにつくと天に昇り天帝にその罪を告げ、天帝は罪の軽重に応じてその人の寿命を決めていくといわれています。そこで長生きを願う人々は、庚申の夜は眠らずに夜籠して身を慎んだといいます。

どの庚申塔も塔面に刻まれた像は版で押したように同じものです。その塔面の像をイラストで示すと下記のような配置になっています。

庚申塔のイラスト図

中央に立つ像は青面金剛(しょうめんこんごう)で本来奇病を流行らす鬼神で猿の化身ともいわれています。「三眼の憤怒相で四臂、それぞれの手に三叉戟(三又になった矛のような法具)、棒、法輪、羂索(綱)を持ち、足下に二匹の邪鬼を踏まえ、両脇に二童子と四鬼神を伴う」姿が一般的なようです。

そして雌雄一対の鶏が刻まれています。これはこれは申(さる)の次ぎの日、すなわち酉の日になるまで籠るからだという説と、夜を徹して朝に鶏の声を聞くまで念仏を唱えるからだという説もあるようです。

邪鬼の下に三猿が刻まれていますが、三猿を三尸の虫になぞらえ、「見ざる・言わざる・聞かざる」で天帝に罪を報告させない、という意味へこじつけていったようです。

民家脇の庚申塔

正円寺の庚申塔(右の塔が笠付角柱型の庚申塔)

正円寺の庚申塔の造立年月日は寛文3年と銘が刻まれ、形態は笠付角柱型です。塔面には「奉造栄庚申結衆二世安楽」の文字が刻まれています。「二世」とは現世と来世のことをいっているようです。

香取神社の鳥居脇の庚申塔

自性院門前の庚申塔

自性院の庚申塔の造立年は文亀元年(1501)とかなり古いものです。画像の右に写っているのが「観音菩薩像庚申塔」で、塔面には「奉待庚申結衆三尸教祈願成就二世安楽所」と文字が刻まれています。

江戸時代の庚申信仰の本尊の多くは悪疫を退治する青面金剛が刻まれていますが、初期には阿弥陀像や観音像が刻まれています。そんな一例がここ自性院の庚申塔です。

庚申塔や庚申塚は日本全国いたるところに残っています。街道を歩くと、その路傍にいくつも見かけることがあります。なにげなく通り過ぎてしまいそうな庚申塔や庚申塚を見るにつけ、かつて多くの人たちが信仰にねざした祈りを捧げたことに思いを馳せたひとときでした。

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駿府・旧東海道筋の名刹「金剛山寶泰寺」の佇まい~駿河三刹の一つ~

2012年06月23日 13時34分06秒 | 地方の歴史散策・静岡市内
かつての旧東海道の道筋である現在の伝馬通りから駅よりに入ったところに山門を構えるのが、かつて二十八もの末寺を抱えた臨済宗妙心寺派の名刹「寶泰寺」です。

寶泰寺の通常門
寶泰寺の正門

路地に面して「通常門」と「正門」が並び、それなりの格式と規模を今に伝えています。通常門から境内へと進むと立派な「客殿」が目に飛び込んできます。なかなかの建造物で京都の妙心寺の大庫裡を模して建てられたと言います。

客殿

ここ寶泰寺は江戸時代には東海道を旅して江戸へ下る朝鮮通信使や琉球使節団の正副司が宿泊や休憩に利用した寺で、朝鮮通信使たちからは「綺麗第一」と称賛された庭があります。そんな庭を代表するのが通常門を入って左手に造られた枯山水の石庭です。

枯山水の庭

その石庭に対峙して「上池」と「下池」の美しい2つの池が置かれています。おそらく前述の枯山水の庭やこの池を見た外国の使節団はその美しさに驚嘆したのでしょう。

上池
下池

上池と下池の間に架けられた石橋を渡るとご本堂が構えています。当寺はそもそも真言密教の道場として開かれた歴史を持っています。永徳元年(1381)に後醍醐天皇の皇子である無文天選禅師により、禅宗の寺となり、1557(永禄10)年、雪峰禅師により臨済宗妙心寺派の寺となりました。その当時の寺領はなんと1万平方メートルの広さを持ち、現在のJR静岡駅あたりまで含んでいたそうです。

ご本堂

そして寺勢は盛んとなり、巨龜山清見興国禅寺、駿府市内の臨済時と並んで「駿河三刹」と呼ばれるほどの名刹となったのです。

長い歴史の中で当寺も度重なる災難から逃れることができなかったのでしょう。境内の伽藍は比較的新しく、歴史を感じさせるようないぶし銀の輝きはありません。しかし、江戸時代には幕府直轄地としてのご威光を背景に駿府城下の禅宗寺院としてその寺勢を如何なく発揮していた名残りをわずかながら感じることができたひとときでした。

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神君家康公が幼少時代に手習いを学んだ「華陽院」~家康公の祖母源応尼と長女市姫の墓~

2012年06月22日 18時34分48秒 | 地方の歴史散策・静岡市内
駿府市内を横切る旧街道は現在は伝馬通りという名前に変わっています。その伝馬通りを東へ下ること徒歩約5分ほどの距離に古刹「華陽院(けよういん)」があります。

華陽院ご本堂

華陽院の創建は古く永正9年(1512)に遡り、知短(ちたん)上人開基による真言宗の寺で知源院(ちげんいん)と呼ばれていました。慶長14年(1609)、徳川家康が大御所として駿河に引退し、源応尼(げんおうに:家康の祖母)の50回忌の法要を営んだ際、その法名から寺名を改め華陽院としました。その際に宗派も真言宗から浄土宗に改宗しました。

現在の華陽院の佇まいは古刹らしい雰囲気は失われ、近代的なお堂の姿に神君家康公に所縁がある寺という風情があまり感じられないのが残念でなりません。山門らしいものもなく、傍らにある幼稚園の入口と併用している入口から境内へと進んでいきます。その境内の奥に墓所が置かれています。本堂の前あたりに家康公お手植えのみかんの木が植えられています。

家康公お手植えのみかん

寺の裏側は静岡鉄道の線路が走っています。目指す源応尼と一姫の墓はこの線路を隔てる塀の脇に置かれています。
源応尼の墓はやや小ぶりの宝篋印塔型でその墓石を四方囲むように立派な玉垣が組まれています。そして墓所には家康公お手植えのみかんの木が植えられています。

源応尼の墓
源応尼の墓俯瞰


さて家康公の祖母である源応尼は実名を「お富の方」又は「お万の方」といいます。今川義元を頼って駿府に入り、出家して源応尼と名乗りました。この源応尼こそ竹千代(家康公の幼名)の生母である「於大の方」の実母で竹千代にとっては実の祖母にあたるのです。

源応尼は天文20年(1551)8月、当時今川家の人質となっていた竹千代の養育者として岡崎から招かれ、知源院の近くに住んでいました。永禄3年(1560)5月6日、成人した家康が今川義元上洛の先陣として浜松にあるとき、源応尼は駿府で逝去し、知源院に埋葬されました。

そしてこの源応尼の墓のちょうど隣には徳川家康の五女・市姫の墓があります。この墓も宝篋印塔型で源応尼の墓石よりも大きなものです。この市姫は家康公が66歳の時の子供ですが、わずか4歳で亡くなっています。市姫の墓の脇にはこれも家康公お手植えの松が植えられていますが、その枝振りからは数代目の松と思われます。

市姫の墓
市姫の墓
家康公お手植えの松

華陽院にはこのほか駿府城代と定番を勤めた方々の墓が3基あります。



(中央)御城代・安藤伊予守直之、文化二年二月十九日(1805)仰付
文化二年八月十日(1805)城中に没す
(左)御城代・安藤出雲守広栄、文政八年四月二十八日(1825)仰付
文政十年二月二十七日(1827)城中に没す
(右)御定番・松平右近信之、天保五年六月二十四日(1834)仰付
天保九年七月十九日(1838)没

今回は駿府での滞在がそれほど長くなかったため、訪れる箇所が限られてしまいました。大御所・神君家康公の居城があった駿府であれば、家康公や徳川家所縁の名所・旧跡・史跡・古刹はいたるところにあるはずです。次回はさまざま駿府やその近在そして旧東海道筋を巡ってみたいと考えています。

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最後の将軍・慶喜様の駿府御殿「浮月楼」

2012年06月22日 16時02分17秒 | 地方の歴史散策・静岡市内
昨年の夏に久能山東照宮に訪れて以来、ほぼ一年ぶりに駿府(静岡)の地に再訪いたしました。というのも息子が名古屋から静岡へ転勤となり、思いがけず家康公と深い関係のある「駿府」が私にとって身近な存在になったわけでございます。そんなことで本日22日(金)、昨夜からの大荒れの天気から午前中早くも天候が回復し蒸し暑さが戻ってきました。雲間から陽射しが照りつけるとやはり夏だなと感じます。

そんな駿府(静岡)は室町時代から戦国にかけて今川氏の城下町として栄えていました。今川氏は京の都を模して街づくりを行い、当時は「東国の京」又は「東国の都」と称されるほどで、荒廃した京からはあまたの公家や文化人が駿府に住まい、戦国時代にあって「今川文化」が花開いた土地だったのです。

そして1560年の「桶狭間の戦い」で今川義元が討ち死にすると今川氏は衰退し、その後の武田信玄の駿府攻めで町は焼かれ荒廃していきます。そして戦国時代末期の1585年に徳川家康公は幼少時代に過ごしたここ駿府を本拠地と定め、すばやく城下の整備を開始します。これによりかつての繁栄が戻ってきます。

駿府城

1590年7月、秀吉軍とともに小田原北条氏を攻め滅ぼした家康公は秀吉により駿府から関東に移封されたことで、家康公は一時的に駿府から離れることになるのですが、家康公が開幕後、秀忠公に将軍を継嗣するや再び駿府城に居住し大御所政治を展開したのです。元和2年(1616)に没するまで家康公はここ駿府で過ごされ、没後は久能山に葬られました。

こんな歴史に彩られた駿府は江戸時代を通じて大名ではなく城代が置かれ、幕府の直轄地として栄えてきました。しかしその繁栄は大政奉還後の明治2年以降、最後の将軍となってしまった慶喜様が住まわれる静かな地方都市へと変貌していきます。

浮月楼の門構え
慶喜様屋敷跡

そして慶喜様がお住まいになっていたのが本日のお題「浮月楼」です。現在は市内でも一二を争う高級料亭として人気があるのですが、かつてこのお屋敷はこの地の元代官屋敷だったそうです。慶喜様はこの屋敷を手に入れた後、丹精込めてお庭を造り、20年にわたってここにお住まいになっていました。

そんなお庭を拝見したくて現在の浮月楼の入口に立ったのですが、仰々しい門構えに入るのをためらっていると、当楼の方が親切にもどうぞお庭をご覧くださいと招きいれてくれました。

庭1
庭2
庭3
弓反り橋
雪見型灯篭

浮月楼の歴史を顧みると、そもそも料亭として開業したのが明治24年のこと。しかし翌年の明治25年には大火に遭い、その後、昭和15年の静岡大火、更には昭和20年の戦災と波乱の歴史を辿ってきました。こんな禍に遭いながらも、庭と池は原型をとどめているといいます。

慶喜公が四季折々に楽しんだ庭は静岡市の中心にありながら、静かな佇まいの中に凛とした空気が流れています。きっと慶喜公は池に舟を浮かべたり、草木を愛でていたんだろう、と池畔の新緑の木々の下で想いに耽った瞬間でした。

浮月楼
〒420-0852
静岡県静岡市葵区紺屋町11-1
TEL: 054-252-0131

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梅雨の晴れ間に彩りを添える清澄庭園の花菖蒲~お江戸下町の深川散歩~

2012年06月14日 16時08分09秒 | 江東区・歴史散策
どんよりとした雲に覆われた梅雨の季節とはいえ、蒸し暑さというよりか肌寒さを感じる今日この頃、やっと梅雨の晴れ間が訪れました。

久しぶりに隅田河岸までマウンテンバイクを走らせ、下町深川の風情を楽しんできました。まずは新緑の木々に覆われた深川の総鎮守である富岡八幡宮へ参詣しました。雲間から射し込む光に社殿全体が明るく輝いています。本殿の背後にうっそうと茂る木々の緑と社殿の朱色が美しいコントラストを描いています。

富岡八幡宮社殿

富岡八幡宮をあとに清澄通りを屋上するのですが、途中深川の閻魔様が鎮座する法乗院さんへ。さっそく閻魔堂の閻魔様にご挨拶し、お賽銭を投げ入れ、ありがたい閻魔様のお告げを頂戴しました。

法乗院閻魔堂
閻魔様

※ここ法乗院の閻魔様は参拝者が希望する祈願に音声で応えてくれます。ありがたいお告げを聞く場合に聞きたいお告げが書かれている筒へお賽銭を投げ入れると自動的に音声が流れてきます。なんともハイテクな閻魔様なのです。

法乗院の閻魔様としばらくぶりの対面を楽しんだあと、清澄白河の名園「清澄庭園」へと向かいます。ちょうど園内の菖蒲園は「花菖蒲」がほぼ満開とのことで、平日にもかかわらず来園者で賑わっています。

園内は初夏を感じさせる木々の緑に覆われ、その濃い緑が池の水面に映える様子はこの季節ならではの美しい光景を描き出しています。菖蒲園は園の一番奥に置かれています。

池の畔の涼亭

色とりどりといっても白と紫の二種類の菖蒲の花が初夏の日差しに美しく輝いています。遠目からみるとややグラデーション気味に白色と紫色に濃淡がかかっているように思われます。菖蒲の緑の葉と白と紫の花の絶妙なコントラストを楽しめます。賑やかな清澄通りの喧騒から隔絶された静かな空間の中で、美しい緑と菖蒲の花を楽しんでひとときでした。

菖蒲園1
菖蒲園2
菖蒲園3

このあと、清澄庭園からさほど離れていない霊厳寺の江戸六地蔵へお参りをしてから、隅田川岸の芭蕉翁像に会いに行くことにしました。芭蕉翁はちょうど小名木川が隅田川に注ぎ込む河岸に造られた芭蕉記念館の展望公園に置かれています。目の前にゆったりとした流れの隅田川、下流には流麗な姿の清洲橋、その向こうには中央区側のビル群が立ち並び、水面にはひっきりなしに船が行き交うというまるで絵葉書を見ているような景色を楽しめます。

霊厳寺の江戸六地蔵
芭蕉翁の像

なぜこんな所に芭蕉翁の像が置かれているかって? 実はお江戸の時代、それも元禄時代に芭蕉翁はちょうど像が置かれているあたりに庵を結んでいたのです。そしてここ深川から奥の細道の旅にも出立しています。また春の桜の季節に詠んだ「花の雲、鐘は上野か浅草か」はここ深川の芭蕉庵から浅草方面を眺めた情景を詠ったものだと言われています。

隅田川の流れ

久しぶりの梅雨の晴れ間の日差しに、芭蕉翁もほんの少し眩しげな様子で隅田川を眺めていました。

粋な深川・お江戸の総鎮守「富岡八幡宮」の酉の市
2014年午の歳 年の初めの深川七福神詣
お江戸深川七福神詣で
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