大江戸散策徒然噺 Introducing Japanese culture and history

豊かな歴史に彩られた日本の文化と歴史を紹介

お江戸府内の結界を守る名刹・目黒不動尊(龍泉寺)

2011年07月27日 11時49分43秒 | 目黒区・歴史散策
お江戸の街づくりには日本人が古来から受け継いできた陰陽道が深く関わってきたと言われています。更には古代中国の時代から世界の四方を守護する聖獣として、東に青龍、西に白虎、北に玄武、南に朱雀を採用し、風水により川、土地、道、山のシンボルとして崇められてきました。

当然、家康公の江戸の街づくりにも深く関わることとなるのですが、前述の聖獣にはそれぞれ「色」が定められています。いわゆる青龍=青、白虎=白、玄武=黒、朱雀=赤となるのですが、この色は大相撲の土俵の真上に具えられている青房、白房、黒房、赤房として聖域である土俵を守っているのです。ですから、聖獣に守られた土俵の上で行われる神事たる相撲で「八百長相撲」などもってのほかと言うことになるわけです。

さてこの4色の他にもう一色「黄色」があるのですが、この黄色に該当する聖獣はおりません。この黄色は宇宙全体を司る神として崇められ、先の相撲の場合は「土俵」そのものを表しています。

そして行きつくところが、目黒の「黒」となるのですが、お江戸には目という漢字に色を加えた地名がもう一つあります。それは「目白」という場所なのですが、実はお江戸の時代にはこの黒と白の他に青、赤、黄が付けられた「目」がご府内に配置されていたのです。それが目黒、目白、目赤、目青、目黄となるのですが、そしてそれぞれの場所に不動尊を祀ることとなったのですが、これを具申したのが黒衣の宰相といわれた天海大僧正だったことは良く知られています。すなわち天海の考えとして江戸の鬼門を守護する寺の配置とその寺がカバーできないエリアをさらに守護するために府内五ヶ所に色を付した不動尊を置き、完全無欠な「結界」を造りあげたと言われています。

この各色を付したお不動様は平成の世にあっていまだ健在なのですが、幾つかの寺は本来あった場所から移転しているため、天海が構築した結界はすでに崩壊してしまっているのではないでしょうか。

お江戸の時代にはここ目黒不動尊は将軍家の庇護の下、大伽藍を有する大寺院だったのですが、将軍家と関わりを持つようになったいきさつは、三代将軍家光公の御代のことです。ある日、家光公が鷹狩でここ目黒周辺にお成りになったとき、可愛がっていた鷹が行方不明になるという事件が起こりました。そこで不動尊の僧に祈らせたところ、鷹が無事に戻ってきたといいます。喜んだ家光公は不動尊を深く尊信し、その後、幕府は堂塔伽藍の建設にに多大なる援助をしたと言われています。

また目黒不動は江戸時代には「江戸三富」と呼ばれ、上野感応寺、湯島天満宮と並んで「富みくじ」が行われた場所で、このため江戸近郊における有数の参詣行楽地となり目黒不動繁栄の一因になったほどです。

こんな歴史をもつ目黒不動ですが、先の大戦で伽藍のほとんどが焼失しわずかなお堂だけが焼け残り、その他の仁王門、本堂、鐘楼、書院などの建造物は新たに建てかえられたものになってしまいました。

参道を進むと堂々とした仁王門が目に飛び込んできます。仁王門をくぐると広い境内が現われるのですが、その境内の背後には小高い山となっており、こんもりとした林が広がっています。

仁王門

その小高い山の麓には清らかな水が沸き出る「独鈷の滝」が緑濃い木々の下に佇んでいます。この独鈷の滝は慈覚大師がこの場所で「独鈷」を投げたところ、たちまち泉が湧き出て滝となったと伝えられています。ということは慈覚大師がこの地に来られたのが西暦800年代(平安時代)のことですから、少なくとも1200年の長きに渡って泉が湧いていることになるのです。現在でも一年中枯れずに湧き出しているとのことです。
※独鈷とは煩悩を打ち砕く仏具

独鈷の滝

独鈷の滝に隣接して建つのが江戸時代中期の仏堂建築として東京都の有形文化財に指定されている前不動堂が置かれています。ご本尊が不動明王立像で庶民信仰の便宜を図って置かれたとか、ご本堂に祈願する前に徳を積む場所として置かれたとか諸説があります。現在でも二条の滝で水垢離(みずごり)を行っているといいます。

前不動堂

この独鈷の滝に添ってご本堂へとつづく石段を登り小高い山の上へと進みます。石段を登りきると正面にご本堂が現われるのですが、一見すると神社のご本殿のような造りなので寺とは思えない佇まいです。

ご本堂
ご本堂

ご本堂に向かって右手には立派な鐘楼が置かれています。丘の上の境内は比較的広いのですが、ご本堂と鐘楼以外にはこれといった建物はありません。ご本堂の裏手に回ると林の中に一体の仏像が鎮座しています。江戸時代の初期に開眼したというこの像は「大日如来坐像」と呼ばれ、目黒区の指定有形文化財に指定されています。

鐘楼

帰路は不動尊の裏手の細い路地を抜けて、目黒不動尊の墓地の脇を歩いて行くと、江戸時代の蘭学者として有名な「青木昆陽(あおきこんよう)」の墓がふいに現われます。昆陽は八代将軍吉宗公の御代に断行された「享保の改革」の折に「藩諸考」を著し、長崎から伝わった甘藷(さつまいも)を九十九里と現在の千葉の幕張ではじめて試作に成功し、救荒作物の開発をした功労者です。このことから甘藷先生と呼ばれています。

甘藷先生墓
甘藷先生墓

墓はそれほど立派なものではありませんが、それこそ道端にさりげなく建てられたような墓で、道標がなければ通り過ぎてしまいそうな佇まいです。墓石には「甘藷先生墓」と刻まれています。

何かを語りかけているような大勢の羅漢様が居並ぶ目黒五百羅漢寺
目黒の黄檗宗古刹「海福寺」にはなんと隅田川の永代橋落橋供養塔が……!





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世界遺産「日光東照宮」と社寺散策~生まれながらの将軍・家光公の霊廟「大猷院」~

2011年07月20日 14時54分24秒 | 地方の歴史散策・世界遺産日光の社寺
絢爛豪華な東照宮をあとに、日光の山にあるもう一つの見所である大猷院(たいゆういん)へと向かうことにします。

大猷院石柱

ご存知のことと思いますが、徳川家累代の将軍の墓のほとんど(13人の将軍)は徳川家の菩提寺である上野寛永寺若しくは芝増上寺に置かれ、唯一、15代将軍慶喜公だけが谷中の墓地に埋葬されています。

開幕の祖である家康公は大権現と称する神となり日光東照宮の奥宮に墓所を構えでいるのはすでにお分かりのことと思います。家康公以外の征夷大将軍の中で唯一、江戸に墓を造らなかったのが三代将軍家光公なのです。造らなかったというより、家光公が祖父君である家康公に対して深く敬愛、崇拝していたがための当然の成り行きで、東照宮に近い日光の山の中に壮麗な霊廟が造られたのです。

この生まれながらの将軍と自他共に認めた家光公は、自身の遺言の中で自らの廟は東照宮を凌ぐことのないように規模、細工とも控えめに造営せよ、とのことで、色調は金と黒を貴重とした色合いの廟が造られたといいます。しかしながら大猷院霊廟を訪れると、各建築群の配置は山の麓から幾つもの石段で繋がれ、石段を登ると色鮮やかな門が待ち受け、それをくぐるとまた別の門が待ち構えるという空間と門、楼、廟の立体構成はむしろ東照宮のそれを凌いでいるのではないかとおもわれるほどの贅沢な造りのように思えます。

それでは家光公の法名大猷院を冠した霊廟「日光廟大猷院」へご案内いたしましょう。

入場口からまっすぐに伸びる参道の向こうに朱色と黒、金の配色を施した見事な御門が見えます。これが大猷院霊廟の最初の門で「仁王門」です。最初の門ということなのですが、霊廟にとうちゃくするまでこの仁王門を含めて全部で6つの門が配置されているのです。

仁王門
金剛力士像

この仁王門には左右に金剛力士像が安置されています。
仁王門をくぐると広場が目の前に広がり、その傍らに手水舎が置かれ、ここでも日光の山からの清らかな泉が滾々と湧き出しています。もちろん汗にまみれた腕や手、そして顔をこの清水で清めたのですが、これまでの泉の中でも最も冷たく感じ、まるで氷水に触れているような冷たさでした。

手水舎

参道は仁王門をくぐると大きく左へと折れると、目の前にこれまた立派な御門が堂々とした姿を現します。大猷院と書かれた額が掲げられたこの門は「二天門」と呼ばれ、門の左右には持国天と広目天の二天が安置されています。

二天門

そして次に現れるのが霊廟への最初の入口となる「夜叉門」です。この門もあまりにも美しすぎる彩色でとても控えめに造ったとは思えない華やかさです。正面、背面の左右柵内に「毘陀羅(びだら)」「阿跋摩羅(あばつまら)」「ケン陀羅(けんだら)」「烏摩勒伽(うまろきゃ)」の「四夜叉」を納めていることから「夜叉門」と名付けられています。

夜叉門

いよいよ大猷院の本殿へと進むことになるのですが、その入口に構えるのが唐門です。その名のとおり唐破風を持つ小振りながら見事な装飾を施された美しい門です。この門を中心にして左右に伸びる塀には見事な透かし彫りが施され、門の美しさもさることながら極めつけの繊細技法を見ることができます。

唐門から伸びる透塀

唐門をくぐるとそこは大猷院の拝殿入口へと繋がります。拝殿の扉には金細工の精巧な装飾が施され、その贅沢な造りに生前の家光公の強大な権勢を垣間見たような気がします。見学者は靴を脱いで拝殿の座敷へと進むことができます。拝殿内部は細部に至るまで金箔が施され、文字通り金箔玉楼となっています。拝殿から更に本殿へとつづく畳敷きの部屋で繋がっています。

拝殿入口

拝殿を辞して廟の外側に巡らされている回廊を歩くと、それはそれは見事な造りと贅沢な装飾が施された拝殿と本殿の外観を仰ぎ見ることができます。

手前:拝殿 奥:本殿
手前:本殿 奥:拝殿
本殿を背景に

拝殿に続く本殿の最奥部にある「厨子(御宮殿/ごくうでん)の中には「家光公座像」と「御位牌」が、又その前後には家光公の本地「釈迦如来」(非公開)が奉安されているそうです。この建物を「廟(びょう)」といい金・黒、赤の彩色でくまなく施された外観は、別名「金閣殿」と呼ばれ江戸時代の芸術の極みを見ることができます。

回廊の脇に備えられた裏門を抜けると中国の明様式を採用した竜宮城のような門が現れます。「皇嘉門」と呼ばれる御門で、この門の向こうに家光公(大猷院)の御廟があるのです。この門の先が本当の聖域なのです。

皇嘉門
大猷院廟の透塀

東照宮は別格として、家康公以外の霊廟で各将軍の霊廟建築で現存しているのは、家光公(大猷院)のものだけです。しかも霊廟だけでなくそれに付随する建築群がそっくりそのまま残っていることで、もしかすると上野寛永寺や芝増上寺にあった将軍霊廟も同じような造りのものがあったのではないかと想像できるのです。しかも両寺にはなんと各々6人の霊廟があったわけですから、その規模は大猷院霊廟の比ではなかったのではないかと勝手に想像を巡らした次第です。

事実、太平洋戦争末期の東京大空襲までは現在の東京プリンスホテルのある場所や芝公園一帯に徳川将軍家の霊廟が並んでいたわけですから、それはそれは壮観だったことと思います。

世界遺産「日光東照宮」と社寺散策(プロローグ)
世界遺産「日光東照宮」と社寺散策~輪王寺・三仏堂から東照宮の三神庫へ~
世界遺産「日光東照宮」と社寺散策~陽明門から奥宮まで~





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世界遺産「日光東照宮」と社寺散策~陽明門から奥宮まで~

2011年07月20日 11時14分08秒 | 地方の歴史散策・世界遺産日光の社寺
さあ!いよいよ日光の社寺のランドマークである陽明門、御本社そして家康公の墓所である奥宮へと進んでいきましょう。

元和2年(1616)、開幕の祖である家康公が死去するとその遺言によりご遺体は一端久能山に埋葬されますが、翌年元和3年(1617)に日光に改葬されました。その翌年、朝廷から東照大権現の称号と正一位を与えられ東照社と称しましたが正保2年(1645)宮号を賜り、日光東照宮と改称し今に至っています。

陽明門

因みに家康公の遺言とは 「私が死んだら、まず、久能山に納め、神として祭るように。葬式は増上寺で行い、三河の大樹寺に位牌を立てよ。一周忌が過ぎたら、日光山に小さな堂を建てて勧進せよ。関八州の鎮守となろう。」

現存する絢爛豪華な社殿群は祖父である家康公にひとかたならぬ敬愛を示した三代将軍家光公により小さなお堂どころか将軍家の威信をかけ、寛永13年(1636)に大造営されたものなのです。まさに徳川将軍家の権威を示すための壮大華麗な建築群であると同時に、おそらく当時の建築技術の粋を集めた日本一の野外博物館の様相を呈しているのではないでしょうか。

日光東照宮は現在でも多く社殿や寺宝を所持していますが、その中でも本社殿、石の間、拝殿、陽明門、回廊などが国宝に指定され、世界遺産の中核をなしています。

さて御水屋のちょうど右隣に建つこれも絢爛豪華な2層の建物なのですが、輪蔵(経蔵)とよばれているものです。寛永12年(1635)に建てられ、桁行3間、梁間3間、宝形造り、銅瓦葺き、裳階付きです。朱色と金が基調で組物と彫刻が極彩色で彩られ、内部には八角形の回転式の書架があり、一切経1456部、6325巻が納められていました。日光東照宮輪蔵(経蔵)は国指定重要文化財に指定されています。

輪蔵(経蔵)

そして現れるのが日光東照宮の象徴である国宝の「陽明門」です。寛永12年(1635)に創建されたもので、三間一戸、八脚楼門、入母屋、四方軒唐破風、銅瓦葺きの楼門建築です。陽明門の名称の由来は京都御所にある十二門の東の正門が陽明門と呼ばれているところから授かったとされ、正面唐破風下には元和3年(1617)に後陽成天皇から賜った「東照宮大権現」の勅額が掲げられています。

陽明門を背景にして

これほどまでの絢爛豪華な建築物は日本のどこを探してもきっと見つからないと思うほどの圧倒的な美しさと日本人でなければ造り得ない至高の繊細さが見るものに深い感慨と感動を与えてくれます。世界に冠たる最高の建築美を誇る国宝・陽明門が手に届く場所に、そして間近に接することができた喜びは言葉に表せないくらいの感動の一瞬でした。

陽明門

陽明門を中心として左右に伸びる回廊には精巧な彫刻や燭台、蟇股が極彩色で彩られ、陽明門の煌びやかさと相まって、この中が神聖にして冒してはならない神域であることを無言のうちに語っているような風情を醸し出しています。

回廊

陽明門をくぐると正面には本来絢爛豪華な本社殿(寛永12年・1635年創建)が現れるはずなのですが、残念なことに現在修復中ということで社殿全体に仮囲いが施され全容を見ることができませんでした。ただし、本社殿の内陣には入場可能で「将軍着座の間」「法親王着座の間」を見学することは可能です。そして拝殿の石の間にはごく最近に塗りが終わった「黒漆」がまるで鏡の表面のような光沢で輝いていました。

修復中の本社殿

本社殿を正面に見て左側奥に金と黒を貴重とした重厚な建物が建っています。寛永12年(1635)に建てられた神輿舎です。内部には千人行列で渡御する家康(中央)、秀吉(左)、頼朝(右)を祭った神輿が安置されています。

神輿舎

そして本社殿を正面にして右へ進むと坂下門へ通じる回廊の欄間に彫られているのが、あの有名な国宝「眠り猫」です。名工左甚五郎作といわれ、天敵である猫が居眠りをして雀が踊っている姿を表現しています。

眠り猫

この眠り猫の欄間の下をくぐると坂下門で家康公の墓所がある「奥宮」へ通じる入口です。尚、奥宮へは「二社一寺」に有効なクーポンでは入場できません。別途、拝観料(500円)が必要です。この坂下門は江戸時代には将軍参詣のとき以外は開くことがなかったため「開かずの門」と呼ばれています。

さあ!夢にまで見た家康公の墓所へ行くことができる。という興奮を抑えながら坂下門をくぐると10段ほどの石段が現れます。石段を登りきると、うっそうとした杉林の中をまっすぐに伸びる平坦な参道がしばらく続きます。夏の暑い日ざしが杉林で遮られ、まるで天然のクーラーの中に入り込んだような気がします。

しかしそう簡単には家康公の墓所へは辿りつけないのです。平坦な参道は私たちに更なる試練を与えるように207段の石段へと導いてくれます。涼しい杉林の空気でいったん収まった体のほてりは207段の石段で一気に吹き飛んでしまいます。

息絶え絶えに石段を登りきると、とってつけたように日光の美味しい水が湧き出る水盤社が現れます。地獄に仏とはよくいうもので、膝がケタケタ笑うほど疲れきった体に「日光の美味しい水」は何にも替え難い清涼剤になりました。

さあ!もうひと息で家康公の墓所です。「日光の美味しい水」の水盤社から数段の石段を登ると重厚な佇まいの「奥宮拝殿」が現れます。外壁が銅版で覆われ、それに黒漆を塗った重々しい雰囲気の建物です。この拝殿を右へ回りこむように進むといよいよ家康公の墓所に至ります。

墓域の入口には見事な青銅製の「鋳抜門」がどっしりと構え、それなりの威厳を醸し出しています。これまでに鋳抜門と呼ばれるものは東京の芝・増上寺にある徳川将軍家の霊廟前に置かれているものしか見たことがありませんでした。増上寺の鋳抜門は先の大戦で焼け残ったものを移築したもので完全な姿ではないのですが、ここ東照宮の奥宮の鋳抜門は慶安3年(1650)に鋳造されたものが完全な姿で残っているのです。門の屋根、柱、壁すべてが青銅製で門扉には金の浮き彫りが施され、さすが家康公の墓所の入口を守る門といった貫禄を漂わせています。

鋳抜門
鋳抜門

家康公の墓所は周囲を回廊で巡らされ、一周することができます。これまで見た徳川将軍家のどの宝塔よりも大きく、その宝塔を支える基盤の大きさは圧倒的な威圧感をもって迫ってきます。基盤は八角九段の堂々としたもので、その上に高さ5mの宝塔が聳え立っているという感があります。宝塔の正面にあたる場所には寛永20年に朝鮮から献上された香炉、燭台、花瓶、三具足が備え付けられています。

奥宮
奥宮

この場所から家康公は神となって江戸そして徳川家の繁栄を見守り続けていたんだ、という感慨に耽った一瞬でした。



名残惜しい気持ちを抑えながら、再び長い石段を下り本社殿や陽明門へと戻りましたが、坂下門へと通じる最後の階段上からみる社殿群の甍の景色が妙に印象的でした。



世界遺産「日光東照宮」と社寺散策(プロローグ)
世界遺産「日光東照宮」と社寺散策~輪王寺・三仏堂から東照宮の三神庫へ~
世界遺産「日光東照宮」と社寺散策~生まれながらの将軍・家光公の霊廟「大猷院」~





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世界遺産「日光東照宮」と社寺散策~輪王寺・三仏堂から東照宮の三神庫へ~

2011年07月19日 15時14分09秒 | 地方の歴史散策・世界遺産日光の社寺
いよいよ日光社寺巡りの旅を始めることにいたしましょう。日光の山の社寺は二社一寺と呼ばれ、二社とは東照大権現すなわち家康公を神として祀る「東照宮」と二荒山神社と輪王寺を指しています。

まずは入口から輪王寺を目指すことにいたします。世界遺産「日光の社寺」の石碑から山へ通じる急峻な石段がすぐに始まります。暑さでほてった体はうっそうと繁る木々を通る涼しげな風でいくらか癒される気分になりますが、足腰が弱った体にはこの石段はかなりの負担になります。

石段がとぎれると、急に視界が広がり前の前にはなだらかな坂道が現れてきます。この坂道の左側のかなり広い敷地に建物が並んでいます。標識を見ると「東照宮御旅所」と書かれています。この建物は春・秋の神輿渡御祭の際に神輿がここに遷る場所です。その際「百物揃千人武者行列」が行われるのですが、御旅所の前の坂道には石畳で舗装されていない芝の部分があります。これは千人行列で騎馬が通るために備えられたものです。

東照宮御旅所
百物揃千人武者行列の坂道

この坂道を上がりきると、本来は目の前に輪王寺のご本堂である三仏堂がど~んと姿を現すのですが、実は現在三仏堂は50年ぶりの大修理の真っ最中のため、建物全体が仮囲いで覆われています。工事期間が10年ということで、完成は平成30年を待たなければなりません。10年後ということは私自身もかなりの歳になっており、生きているかどうかもわかりません。

修復中の三仏堂

修理中とのことなのですが、ご本堂の内部には入れるとのことで拝観料を払いご本尊参拝へ向かうことにしました。ここで拝観料についてですが、それぞれの寺社の参拝には拝観料が必要ですが、お得なクーポンがあります。それは前述の二社一寺の主要な部分にのみ対応するもので一人1000円と極めてお得なクーポンなのです。日光社寺巡りには是非お勧めいたします。

このご本堂・三仏殿はもともと平安時代に創建されたもので国内では数少ない天台密教形式の堂宇なのです。江戸時代に入り三大将軍家光公の御世に建て替えられたといいます。ご本堂内陣には黄金色に輝く千手観音・阿弥陀如来・馬頭観音の仏様が鎮座され、薄暗い堂内にひときわ神々しさを放っています。

三仏様の参拝を終えご本堂の裏手へ回ると、輪王寺護摩堂の堂々とした建物が目の前に現れます。この護摩堂と三仏堂の間に挟まれた場所に奇妙な柱が立っています。これは寛永を20年(1643年)に家光公が天海大僧正に依頼し建立したもので、相輪�哲(そうりんとう)と呼ばれているものです。仏塔の一種で、国家の安隠と天下泰平を祈願している細長い搭で、 高さ13.2mで、塔の内部には1000部の教典が納められています。 上部には、金瓔珞(ようらく)と24個の金の鈴が飾られ、この鈴の音を聞くと願い事が叶うといわれています。

護摩堂
相輪�哲

相輪�哲(そうりんとう)を辞すると、いよいよ東照大権現(家康公)が祀られている東照宮へと通ずる参道が延びています。これまで写真や映像でしか見ることがなかった陽明門をはじめとする絢爛豪華な建造物が今、目の前に迫ってくる感動と興奮を抑えながら大鳥居をくぐっていきます。

東照宮石柱
東照宮大鳥居

大鳥居をくぐると左手に現れるのが美しい彩りの五重塔です。慶安3年(1648)若狭の国(福井県)小浜藩主酒井忠勝公によって奉納されました。文化12年火災にあいましたが、その後文政元年(1818)に同藩主酒井忠進公によって再建されました。

五重塔

前方の石段の上に色鮮やかな「表門」が目に飛び込んできます。東照宮の中で最初の御門で左右に仁王像が安置されているので「仁王門」と呼ばれています。

仁王門
仁王門

表門をくぐると参道は大きく左へと折れ、目の前に見事な彩りの3つの建物が並びます。この3つの建物は表門に近いものから下神庫、中神庫、上神庫と名付けられ総称して三神庫と呼ばれています。校倉造りの建築様式を用いたこの建物には春秋渡御祭「百物揃千人武者行列」で使用される馬具や装束類が収められています。

下神庫
中神庫
上神庫
上神庫

そして三神庫に相対するように建つのが神厩舎・三猿(しんきゅうしゃ・さんざる)です。昔から猿が馬を守るとされているところから、長押上には猿の彫刻が8面あり、人間の一生が風刺されて描かれています。その中でも最も有名な「見ざる・言わざる・聞かざる」の三猿の彫刻があるのですが、思ったよりも小振りな彫り物であったことが印象的です。

神厩舎
神厩舎・三猿

この神厩舎を過ぎると陽明門がもう間近に見えてくるのですが、これより神域ということで御水舎(おみずや)で汗にまみれた手や腕、ついでに顔を洗い、口をゆすいで気持ちを新たに大権現様への参拝の準備をしました。日光の山から湧き出す泉の冷たさを堪能できる御水舎です。

御水舎

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世界遺産「日光東照宮」と社寺散策(プロローグ)

2011年07月19日 12時18分12秒 | 地方の歴史散策・世界遺産日光の社寺
大江戸散策徒然噺のメインテーマである「江戸・徳川家の繁栄の歴史」を辿っていく中で、絶対に避けて通れない場所があります。江戸幕府の祖である家康公が眠る日光東照宮こそ、大江戸散策徒然噺の原点であるとかねてから心の中に秘めていたのです。

さらに過日は家康公誕生の地である三河・岡崎を訪れ、徳川家発祥の歴史を辿り感慨を深めてきました。そうであれば家康公没後の永眠の場所である日光は是非とも参拝しなければならない場所だったのです。

日光の社寺石碑

日光東照宮への参拝は60年の人生の中で始めてのことなのですが、ツアーバスで限られた時間の中での参拝はおそらく満足を得られないと考え、あくまでも個人旅行に徹することを主眼に東武日光線の特急「霧降号」での日帰り散策となりました。
朝8時30分発の霧降号に乗車し、浅草から約2時間の列車の旅で東武日光駅に到着しました。日曜日のこの日(7/17)は30度を超える真夏日が予想されており、標高500mを超える日光も真夏の強い日差しが肌を刺すようにギラギラと照り輝いていました。駅前からバスの便もあるのですが、せっかくの個人旅行ということでかつて将軍御成り道として使われていたであろう東照宮への一本道(神橋通り)を歩くことにしました。
遥か前方に見えるこんもりとした東照宮の杜を目指してなだらかな坂道を歩き始めたのですが、首筋に照りつける強い日差しに息も絶え絶え。道の両側にはお洒落な土産屋や日光名物の湯葉料理の店そして老舗の羊羹屋さんが現れてきます。そして坂道の途中には、旅人に涼を提供するかのように「日光のおいしい水」と名付けられた湧き水?の泉が適度な間隔を置いて設置されています。

滾々と湧き出る水はことのほか冷たく感じられ、飲料水として用いられているので喉の渇きを潤すことができます。ついでに両腕の肩から冷たい水をかけたり、顔を洗うこともできるので夏の暑い時期には格好のオアシスになっています。

なだらかな坂をほぼ登りきったあたりに一軒の有名な羊羹屋さんがあるのでご紹介しましょう。
「日光祢りようかん・ひしや本舗」という屋号で約140年の歴史を刻む羊羹の老舗です。店構えも古さを感じる佇まいを見せており、店先のひな壇に羊羹の箱を並べているのですが、このお店の羊羹は一種類だけなのです。

日光祢りようかん・ひしや本舗

この一種類しかない洋館はたいへん人気があり、開店後早いと1時間ほどで売り切ってしまうほど入手困難な代物です。たまたま10時半ころにお店に到着したので、かろうじて入手することができました。他の羊羹屋さんのものと比べると少し小さめなのですが、昔ながらの竹皮で包装されているとのこと。1本300gで1500円ですが、食べる価値は十分にありそうです。

この羊羹屋さんをすぎると神橋通りは清流のせせらぎが涼しげな音を聞かせる「大谷川」へとさしかかります。そして有名な神橋が左手に見ることができます。大谷川を渡るといよいよ世界遺産に登録されている「日光の社寺」が静かにたたずむ神霊域が始まります。うっそうとした木々に覆われた日光の杜を背後に控えた入口には「世界遺産・日光の社寺」と刻まれた石碑がど~んと置かれています。

日光の社寺石碑前で

駅からの道のりで強い日差しを浴びてきた体に、杜から流れ出る冷気が心地よく肌をすり抜けていきました。

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何かを語りかけているような大勢の羅漢様が居並ぶ目黒五百羅漢寺

2011年07月14日 16時21分13秒 | 目黒区・歴史散策
目黒五百羅漢寺山門

目黒に行ったら不動尊だけでなく、是非訪れていただきたい古刹・名刹があります。古刹といっても元々この場所にあったのではなく、お江戸の時代には実は本所深川の五つ目に壮大な伽藍を構えていた寺なのです。

江戸名所図会

本所五つ目は現在の西大島駅前に当たる場所で、この場所にはどういうわけか羅漢寺があるのですが、今日のお題の目黒五百羅漢寺は明治41年に現在の場所に移転してきたといいます。
開基は元禄8年(1695)、松雲元慶で黄檗宗鉄元の弟子です。元慶は羅漢像彫刻の大願を起こし、元禄年間に10年の歳月をかけて536体を独力で彫り上げ、五代将軍綱吉の生母桂昌院の力添えで当時の諸大名こぞって献金し大寺院となったほどの寺なのです。

御本堂

江戸名所図会を見ると、本所時代の羅漢寺の伽藍はたいそうなもので、惣門、漢門をくぐり大きく左へ折れると天王殿そしてここから真っ直ぐに延びる参道を突き当たると大きな本殿が控えているという壮大な造りだったことがわかります。この本殿から左右に腕のように伸びる建物が西羅漢堂と東羅漢藍堂、東羅漢堂の裏手には禅堂、境内の右手には鐘楼と庫裏が配置されています。そして総門を入り左手、天王殿の奥にある建物が「三�爾堂(さんいどう)」というもので、当寺は「さざゑ堂」と呼ばれていたようです。三層で上層は西国、中層は坂東、下層は秩父計百番の札所、観音の霊蹟を摸して百体の観音様を祀っていたようです。最上階からは周囲を見渡せる江戸の名所だったのです。

現在の五百羅漢寺の堂宇は昭和56年(1981)に新たに建てられたもので、非常に近代的な趣向なため古さを感じることはできません。ただ江戸時代に彫られ現存するだけで305体もの羅漢様と間近に接する事ができることを考えれば、建物の新しさはさほど気にするものではありません。

羅漢様はご本尊の釈迦如来が鎮座する本堂と羅漢堂に表情豊かなお顔で鎮座しています。一人づつのお顔は精巧且つ親しみ深い表情でまるで何かを語りかけているような雰囲気を漂わせています。静かな羅漢堂内に置かれているベンチに座り、しばし羅漢様と沈黙の中の会話を楽しんできました。

 

 

 



また境内の一角に「将軍御腰掛け石」がど~んと置かれています。この腰掛け石は享保の時代に八代将軍吉宗公が遊猟の際に羅漢寺を御膳所として使われた時に御本堂のそばに置かれていたものだそうです。

将軍腰掛け石

ところで羅漢様は仏ではありません。そもそも羅漢様はお釈迦様のお弟子さんであった方々のことを言います。ですから生身の人間であったところに意味があるようです。だから親しみのある、そして温かみのあるお姿やお顔に人間臭さを感じるのでしょう。

※拝観料:個人の場合は300円

お江戸府内の結界を守る名刹・目黒不動尊(龍泉寺)
目黒の黄檗宗古刹「海福寺」にはなんと隅田川の永代橋落橋供養塔が……!





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目黒の黄檗宗古刹「海福寺」にはなんと隅田川の永代橋落橋供養塔が……!

2011年07月11日 15時42分01秒 | 目黒区・歴史散策


行人坂の大円寺を後にし、急峻な坂を下りきると左手に雅叙園入口の広場が現われます。そして桜並木の緑が美しい目黒川に架かる太鼓橋を渡り、しばらく歩くと山の手通りにさしかかります。

お江戸の時代はこの行人坂を下っていくとあの目黒不動へとつづく参詣路へと繋がっていたのですが、その路は今では山の手通りにいったん分断されてしまい、横断陸橋か信号を渡らなければなりません。

山の手通りを渡りわき道へとそれるとまもなく右手に現われるのが、黄檗宗(おうばくしゅう)の寺「海福寺」です。参道の入口に「黄檗宗・海福寺」の提灯が掲げられているのですぐに判ります。黄檗宗とは臨済(りんざい)宗、曹洞(そうとう)宗と並ぶ日本禅宗三派の一つで中国明代の僧隠元隆�湊(いんげんりゅうき)(1592―1673)を開祖とし、京都府宇治市にある黄檗山万福寺(まんぷくじ)を本山とする宗派です。

海福寺参道入口

とはいえこの海福寺の山門やご本堂の造りは黄檗宗の典型的な明朝様式ではなく、ごく一般的な日本風の建築様式を備えています。

両側を建物で挟まれた参道を進むと、左手になにやら由緒ありげな宝篋印塔2基と石碑1基が置かれています。その傍らにこの宝篋印塔と石碑の由来書が立てられていました。なんとあの有名な話として今に伝わる「永代橋落橋」にまつわる供養塔ではありませんか。

永代橋落橋由緒書
永代橋落橋供養石碑
永代橋落橋供養宝篋印塔

お江戸深川の歴史散策では「永代橋落橋」の噺は避けて通れません。しかしこれまで「海福寺」や海福寺にある永代橋落橋供養塔は私の知識の中になかったため残念な事にお客様にご案内することはありませんでした。

由来書をよくよく読むと、この海福寺は明暦の大火の翌年である万治元年(1658)にそもそも黄檗宗の寺として深川に開基されたのですが、明治の御代の43年にここ目黒の移転してきたのです。もし黄檗宗の寺の建築様式を東京でみるのであれば、向島の弘福寺がお薦めです。

さて永代橋落橋事件は架橋から約100年経った文化4年(1807)の8月15日に予定されていた深川八幡の大祭が雨が順延となり19日に執り行われることになりました。おりしもこの年の大祭は11年ぶりとのことで江戸の庶民が我先にと大挙して永代橋に殺到したのです。そしてその重みに耐えられずに永代橋は永代に引き継がれることなく崩壊してしまったのです。お祭り好きの江戸っ子であるが故の災難だったのですが、この事故でなんと1500人以上の人が亡くなったと言われています。

そんな事故をちゃかす訳ではないのですが、お江戸の狂歌師「蜀山人」はこんな歌を詠んでいます。
「永代のかけたる橋は落ちにけり、きょうは祭礼あすは葬礼」

参道を進むと、石段に上に朱色の御門が恭しく構えています。海福寺の四脚門(よつあしもん) と呼ばれ江戸時代中期の建築様式を今に伝える貴重なものなのです。この門は明治の後期に新宿区の上落合にあった同じ黄檗宗の泰雲寺から移築したものです。尚、泰雲寺は廃寺となって現存していません。

四脚門

境内右手には鐘楼が置かれ、吊るされている梵鐘はなんと天和3年(1683)江戸の藤原正次の作です。梵鐘のデザインは中国の禅刹の鐘に似ていますが、日本の古鐘に似せた江戸時代の梵鐘の中でも類例の少ない名作と言われています。

鐘楼
梵鐘

この鐘楼の脇に立つ「九層の塔」はかつて武田信玄の屋形に置かれてあったと伝えられるものらしいのですが、何故ここにあるのかは判明しません。また甲斐武田家の家紋である「武田菱」は刻まれていません。

甲斐武田家所縁の九層の塔
御本堂
紫陽花と四脚門

それほど広くない境内の奥に御本堂が配置され、静かな佇まいを見せています。境内には遅咲きの紫陽花が可憐な花弁を咲かせ、四脚門の朱色と絶妙なコントラストを醸し出しています。

お江戸府内の結界を守る名刹・目黒不動尊(龍泉寺)
何かを語りかけているような大勢の羅漢様が居並ぶ目黒五百羅漢寺





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お江戸五番の地藏と松平定信公の霊域~霊巌寺

2011年07月07日 11時01分05秒 | 江東区・歴史散策
お江戸には江戸へ通じる六街道の出入り口に大きなお地藏様が安置されていたのをご存知でしょうか。実はこのお地藏様は江戸時代の元禄年間と宝永年間にそれぞれお地藏様が鋳造され、主要街道沿いの寺の門前近くに置かれ、旅人の安全を見守っていたのです。

すでに当ブログでは東海道筋の品川宿の品川(ほんせん)寺のお地藏様を紹介いたしましたが、今日は江戸の東、隅田川を渡った深川にある霊巌寺のお地藏様を詣でることにしました。



ここ霊巌寺は名前の通り、もともとは隅田川河口を埋め立てて造成された霊巌島に開基された寺なのですが、あの大惨事として有名な明暦の大火(1657)、別名「振袖火事」の後、ここ深川に移転してきました。

楽翁松平定信公墓の石柱
霊巌寺ご本堂

当寺の地蔵様は霊巌寺が深川に移転した後の享保2年(1717)に置かれたものです。なんで下町深川に街道筋を守るお地藏様が置かれたのかというと、この場所は水戸街道へ通じる道筋にあたり、多くの旅人が往来していました。そんな旅人たちが門前を通る際に、旅の安全をこのお地蔵様に祈願していたのです。

霊巌寺は東京メトロの清澄白河駅からほど近い江戸資料館通りに面して山門が置かれています。比較的大きな境内を持つ当寺には歴史上、有名な人物の墓が置かれています。駅名に白河という文字が入っていますが、この人物が陸奥国白河藩第3代藩主であったことに由来しています。その方は十一代将軍家斉公の下で「寛政の改革(1787~1793)」を断行した老中松平定信公なのです。

松平定信公霊域

定信公の霊域は塀に囲まれ中に入る事はできませんが、霊域の入口門から中を俯瞰することができます。一見すると結構地味な墓石で、将軍吉宗の孫で譜代大名でありながら、親藩(御家門)に準じる扱いという待遇であった方のものとは思えないほどです。墓石の前に置かれていた燈篭2基が3月11日の大震災で倒壊し、修復されないまま地面に転がっています。

松平定信公霊域

余談ですが、定信公は寛政の改革後の寛政5年(1793)に35歳の若さで老中を引退し、陸奥白河へ戻り藩政に専念します。彼は寛政の改革の成功例であった「囲い米」や「米の備蓄」などの政策を藩政に導入し、併せて藩の農政にも力を注ぎました。

文化9年(1812)に家督を嫡男の定永に譲り隠居(致仕)し、それまで藩主として住んでいた八丁堀の上屋敷から築地の下屋敷へ移り、自らを「楽翁」と称し、大好きな庭造りをしながら悠々自適な生活に入りました。

尚、前述の築地の下屋敷は寛政の改革の労をねぎらうために築地にあった一橋公の浜屋敷を賜ったことから、「その恩に浴する」という意味で「浴恩園」と名付け優雅な生活を送ったと言われています。尚、この浴恩園の跡は現在の築地中央市場(魚がし)となっています。

また定信公と深川とのかかわりは、文化13年(1816)に深川入船町(現在の牡丹3、古石場2・3付近)に自らのお抱え屋敷(別邸)を持ったことです。定信公はこの屋敷を「深川海荘(はまやしき)」と呼び、園内には二つの築山を築き、それぞれに「松月斎」「青圭閣」と名付け、江戸湾を一望できる休息所として楽しんでいたといいます。

定信公が隠居生活を楽しんでいた時代は江戸時代における最後の華やかなりし文化が花開いた「化政時代」の真っただ中です。寛政の改革の主眼とするところは、都市政策と密接に関係する農村政策でした。享保及び天保の改革でみられるような庶民の生活を極端に規制・圧迫するようなものではなかったので、寛政の改革後、見事な化政文化が生まれたのです。

そんな文化の中で定信公も無縁ではありませんでした。彼は前述の浴恩園にサロンを立ち上げ、書画会、歌会、茶会などを頻繁に催しています。なにせそれまで陸奥白河藩主であったことから、定信公の名声は高く、浴恩園に集うメンバーも諸大名からあの書画家として知られている谷文晁まで名を連ねています。

一方、当時の江戸の街では滝沢馬琴、太田南畝などが主宰する書画会などの市民レベルのサロンも活発に活動していました。そんな時代の中で、定信公も文化人として生きた一人だったと思います。

さて、噺が前後しますがお地藏様は山門を入り、参道を少し歩いた左側に堂々とした姿で鎮座しています。夏の暑い陽射しのもと大きな笠をかぶり、じっと耐えているかのような姿を見せています。

江戸六地蔵石碑
霊巌寺六地蔵様
霊巌寺六地蔵様

ここ深川には江戸時代にはもう一体の地藏様が置かれていました。その地藏様は深川の総鎮守として名高い富岡八幡宮の別当寺であった「永代寺」にあったのですが、明治の廃仏毀釈と神仏分離により廃寺となってしまい、その際にお地藏様は廃棄されてしまいました。その後、明治39年に永代寺の代仏として台東区上野桜木にある浄名院にお地藏様が新たに鋳造され安置されています。

深川には数多くの寺が堂宇を構えています。そのほとんどは明暦の大火以降に移転してきたものです。それぞれの寺には江戸の歴史を物語るような史跡や著名人の墓が置かれています。深川散歩の折には是非、寺巡りも楽しんでみてはいかがでしょうか。





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日ぐらしの里の名刹(日暮里)~雪見の寺・浄光寺に残る元禄の地藏様(江戸六地蔵)~

2011年07月05日 08時25分23秒 | 荒川区・歴史散策
静かな雰囲気を漂わす住宅街がつづく日ぐらしの里を奥へ奥へと進むと前方に木々に覆われたこんもりとした森が現れてきます。うっそうとした木々に覆われ、夏の高い陽射しも透さない森の中には諏訪神社が鎮座しています。

諏訪神社の鳥居と鎮守の杜

この諏訪神社の鳥居が立つ右手に今日のお題「浄光寺」の山門が構えています。神社とお寺が隣り合わせに並立している例は日本中のいたるところで見る事ができます。この浄光寺も江戸時代には前述の諏訪神社の別当寺だったのです。
※別当寺(べっとうじ)とは、神仏習合が許されていた江戸時代以前に、神社に付属して置かれた寺のこと。神前読経など神社の祭祀を仏式で行う者を別当(社僧ともいう)と呼んだことから、別当の居る寺を別当寺と言った。

浄光寺山門

さて浄光寺の山門脇に「六地蔵三番目」の石標がぽつんと立っています。おやっ!ここにも六地蔵が?
すでに当ブログの中で江戸六地蔵についてはご紹介をしているのですが、浄光寺の地藏様は含まれていません。というのもお江戸の六地蔵は元禄時代(五代将軍綱吉公が治めた時代で1688~1704)にできたものと、宝永時代(同じく綱吉公の時代で1704~1711)にできたものがあったんです。

「六地蔵三番目」の石標
浄光寺説明書

ここ浄光寺の六地蔵は元禄時代のもので現存する唯一のものです。そしてお江戸の中で3番目のお地藏様で高さ3メートルの銅製の立像です。流れるような袈裟を羽織ったスラリとした立ち姿。お顔立ちはどこまでも涼やかで慈愛に満ちた優しさが溢れています。伏目がちなまなざしで上から見下ろされると、妙に諭されているような気持になってきます。

江戸六地蔵

また浄光寺は荒川辺八十八ヶ所霊場第8番札所、豊島八十八ヶ所霊場第5番札所となっていることで、立像の左隣には銅造地蔵菩薩坐像が置かれています。

銅造地蔵菩薩坐像

浄光寺にはもう一つ徳川将軍家にまつわるエピソードが伝えられています。時は八代将軍吉宗公の御代。吉宗公が狩の途中に当寺に立ち寄り、座った石が残っていると伝えられています。その石は「将軍御腰掛石」と呼ばれているそうですが、今回は目にする事ができませんでした。吉宗公以来、幕末まで当寺は将軍の御膳所となったと伝えられています。(将軍腰掛石はご本堂の裏に置かれています。)

ここ浄光寺は日ぐらしの里の高台に位置しています。寺の東側は崖になって、その昔はこの高台から眺める景色は江戸の名所になっていたようです。ご存知のように吉宗公は庶民の愉しみのために飛鳥山に花見の桜を植えたといわれるほど、お江戸の名所にはかなり興味をもっていたのではないかと想像します。
そんな吉宗公であれば、季節毎に美しい草花が咲き誇る「日ぐらしの里」の噂は耳にしていたか、家臣からきいていたのではないでしょうか。特にここ諏訪台からみる冬の雪景色は江戸の中でも最も美しいものとされ、このため浄光寺は別名「雪見寺」と呼ばれる由縁なのです。

日ぐらしの里に残る上野戦争・彰義隊の夢の跡~経王寺山門に残る弾痕~
日ぐらしの里に静かに佇む古刹を訪ねて~木々の緑に赤く映える養福寺の仁王門~





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日ぐらしの里に残る上野戦争・彰義隊の夢の跡~経王寺山門に残る弾痕~

2011年07月04日 16時22分14秒 | 荒川区・歴史散策
JR日暮里駅から谷中銀座へと延びる道すがら、本行寺をすぎるとすぐ隣に現れるのが経王寺の山門です。
ともすれば通り過ぎてしまいそうな門前の佇まいですが、なにやら由緒ありそうな佇まいをみせる山門です。説明書きを読むと。慶応4年(1868)の上野戦争(彰義隊戦争)の時、敗走した彰義隊を匿ったとして、新政府軍の攻撃を受け、山門には今もその銃弾の後が見られます。(荒川区教委会)

経王寺山門
寺額
経王寺ご本堂

経王寺の立地を考えると、山門の前の道を隔てて向こう側には谷中霊園が広がり、その霊園の奥はかつての天王寺そして寛永寺の寺領が広がっていた上野の山なのです。

この年、慶応4年3月13日、14日の両日に行われた勝と西郷の会談で江戸城無血開城が決定されてから、幕府内の不満分子たちは新政府軍を迎え撃つために上野寛永寺本坊に陣取ります。
これに対し、新政府軍の主力である薩摩軍は寛永寺の南口、西方はアームストロング砲を有する肥前佐賀藩が主力となり、北方の背面(城にたとえれば搦手門)は長州藩が主力となって団子坂に結集しました。

火力に勝る新政府軍は5月15日の午前7時ころに南北そして西の三方から戦闘を開始します。東側は現在でも崖となって、その崖の下にはJRの線路が敷かれています。新政府軍が東口から攻めなかった理由、彰義隊の退却路としてあえて開けていたようです。

戦局はあっという間に新政府軍側が有利となり、夕方には彰義隊は瓦解し敗走し始めます。その敗残兵の一部が新政府軍の攻撃口とならなかった北東部に位置する経王寺に逃げ込んだのではないかと推測します。そして残党狩りの新政府軍兵士との間で、小競り合いが起こり経王寺門前で銃撃戦が行われたのでしょう。

山門に残る弾痕(1)
山門に残る弾痕(2)
山門に残る弾痕(3)

近代化された銃火器を装備する新政府軍にたちまち制圧されてしまったことは言うに及びません。そんな哀れな名残りが山門に残っています。

山門と番屋

上野戦争の主戦場となった寛永寺の伽藍はことごとく焼失し、徳川家菩提寺は討幕を掲げる朝廷方の恰好の餌食となってしまったと考えざるを得ません。徳川家の「魂」が宿る寛永寺そしてその塔中や子院がすべて現存していたとしたら、それは世界遺産としての価値をもっていたのではないかと常に考えます。新しい時代への胎動として避けて通れなかった「上野戦争」は薩長土肥をはじめとする官軍諸藩の蛮行であると考えてしまうのは、江戸っ子である私だけでしょうか?

日ぐらしの里に静かに佇む古刹を訪ねて~木々の緑に赤く映える養福寺の仁王門~
日ぐらしの里の名刹(日暮里)~雪見の寺・浄光寺に残る元禄の地藏様(江戸六地蔵)~





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