大江戸散策徒然噺 Introducing Japanese culture and history

豊かな歴史に彩られた日本の文化と歴史を紹介

100年前の姿に蘇った東京駅丸の内駅舎

2012年09月26日 12時01分44秒 | 千代田区・歴史散策
平成19年(2007)から始まった東京駅丸の内駅舎の保存・復元工事がほぼ終わり、期間中駅舎の周囲に張り巡らされていた目隠しが取り払われ、流麗、華麗な貴婦人のような姿がお披露目されました。



大正3年(1914)に創建された旧駅舎は昭和20年(1945)の米軍の空襲で、駅舎のシンボルでもあった南北のドームと駅舎全体の屋根さらには内装すべてが焼失するという不幸に見舞われました。戦後、駅舎の復興が行われたのですが、かつての姿は失われ、創建当時の美しい姿は忘れ去られていました。

明治ご維新後、都が京都から東京へ遷都され、帝がお住まいになる帝都として「東京」の顔であったかつての赤煉瓦造りの東京駅の姿は陛下がお住まいになる皇居の南を守る神獣「朱雀」のような存在だったのではないでしょうか。

そして戦災で傷ついた朱雀は60年以上の長きに亘ってその傷を癒し続け、今まさにフェニックス(不死鳥)のごとく蘇ったのです。



東京駅丸の内側の丸ビルや中央郵便局が高層ビルへと変貌し、その景観は大きく様変わっています。近代的な高層ビルに囲まれた丸の内駅舎は古き良き時代の面影を今そして未来へと伝える貴重な歴史的建造物として今後も存在感を増していくのではないでしょうか。




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渚にて…葛西臨海公園点描

2012年09月16日 12時41分23秒 | 江戸川区・歴史散策
自宅至近に流れる荒川を渡ると隣区の江戸川区です。わが町、江東区と共に都内では湾岸(ベイエリア)と呼ばれる地域が江戸川区なのです。

葛西橋を渡り対岸江戸川区側の荒川河岸のサイクリングロードを約1kmほど走ると、荒川が東京湾に流れ込む河口に到着です。河口からは荒川大橋や江東区側の新砂地区と若洲、さらに今人気の恐竜橋として知られる東京ゲートブリッジを望むことができます。

サイクリングロードは荒川河口付近で大きく左へとカーブし、葛西臨海公園の中心へとつづいています。

サイクリングロード左手には葛西臨海公園のランドマークとも言える「大観覧車」が圧倒的な迫力で聳えたっています。

大観覧車

日本最大の観覧車で直径111m、高さ117mを誇っています。その大観覧車の真下から夏の陽射しに照らされ、シルエットとなって浮かび上がる様子が下の画像です。
※利用料金は3歳以上の一般の方々は一人700円。所要時間は17分間。

大観覧車

大観覧車から東京湾に面した「渚」へ向かうことにします。そもそも臨海ということで、公園自体はほぼ海(東京湾)に面しているのですが、渚へとつづく葛西渚橋を渡って「西なぎさ」の波打ち際へと行ってみました。

渚橋
渚橋

夏の盛りには多くの人が渚で水遊びをしているのですが、9月の中旬ともなると人影もなく、海鳥だけが渚で戯れている姿しかありません。

渚のカモメ

西なぎさから再び臨海公園へと戻り、臨海水族館方面へと移動し、東側の広大なエリアを占める緑豊かな鳥類園へと向かいます。まるで原生林のようにうっそうとした木々で覆われている鳥類園を一周するように1本の遊歩道がどこまでもつづいています。

臨海水族館のウォーターウォール
臨海水族館外観
野鳥観察センターの建物

遊歩道脇には秋を思わせる「ススキ」が銀色の穂を海風に揺らしています。

ススキの穂

遊歩道にそっていたるところに野鳥を観察できる場所が設置されています。日が高い時間帯のためか、野鳥が餌を啄ばむ光景は見ることができませんでしたが、朝夕には数多くの種類の鳥たちが羽を休めているのではないでしょうか。

野鳥の観察場所
野鳥園俯瞰
野鳥園の湿地帯

野鳥園の一番東端は千葉の浦安の舞浜に隣接しています。舞浜と言えば東京ディズニーランドです。川を挟んで対岸にはディズニーランドの各施設やホテル群が建ち並んでいます。

対岸舞浜の景
舞浜のホテル群

江東区のお台場とは趣が異なる江戸川区のベイエリアは自然に溢れた東京の一大リゾート地ではないでしょうか。

http://www.tokyo-park.or.jp/park/format/index026.html



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私本東海道五十三次道中記~戸塚宿から藤沢宿~(其の三)

2012年09月13日 16時23分27秒 | 私本東海道五十三次道中記
箱根駅伝の3区に含まれる遊行寺坂がいよいよ始まります。両側がまるで切通しのような崖になっていて、だらだらと下り坂がつづきます。遊行寺坂一里塚の案内板を過ぎると、遊行寺はもう目と鼻の先です。

遊行寺総門

その遊行寺と敷地を同じくする塔頭寺院でもある長生院への近道が遊行寺坂の途中に細い石段となって現れます。というのも遊行寺坂を下りきって遊行寺の総門へと向かうのもいいのですが、そこまで行ってしまうと長生院に行くために長い坂道を再び登らなければなりません。そうであれば長生院を先に見てしまう方法としてこの細い石段を上ってしまったほうが得策といえます。

遊行寺坂



石段を上ると長生院の墓地に入ります。墓地の中の道をほんの僅か進むと長生院の小栗堂の正面に出てきます。長生院は浄瑠璃で名高い小栗判官照手姫ゆかりの寺です。応永29年(1422)常陸小栗の城主、判官満重が足利持氏に攻められて落城、その子判官助重が家臣11人と三河に逃げのびる途中、この藤沢で横山太郎に毒殺されかけたことがあります。このとき妓照手が助重らをのがし、一行は遊行上人に助けられました。その後、助重は家名を再興し、照手を妻に迎えました。助重の死後、照手は髪をそり長生尼と名のり、助重と家臣11人の墓を守り、余生を長生院で終わったといいます。

長生院・小栗堂

そんな照手姫と小栗判官十勇士の墓が小栗堂の裏手にひっそりと佇んでいます。

照手姫の墓
小栗判官と十勇士の墓
照手姫寄進の厄除地蔵尊

長生院から石段を下っていくと、右手には時宗・総本山の遊行寺の堂々とした姿の本堂が現れます。本堂の右手前には宗祖の一遍上人の銅像が立っています。

遊行寺ご本堂

遊行寺は正式には清浄光寺が寺名ですが、遊行上人の寺ということから広く一般に遊行寺と呼ばれます。宗祖は一遍上人(1239~1289)で南無阿弥陀仏のお札をくばって各地を回り、修行された(遊行といいます)念仏の宗門です。この遊行寺は正中2年(1325)遊行四代呑海上人によって藤沢の地に開かれ、時宗の総本山となっています。

一遍上人像
鐘楼堂

境内を進むと、鐘楼堂そして安政年間(1854~60)に建造された中雀門が現れます。清浄光寺(遊行寺は通称)は創建以来たびたび火災にあっていますが、この中雀門は明治13年(1880)の大火の際にも焼失を免れた、境内で一番古い建物です。大正12年(1923)の関東大震災でも焼失は免れましたが倒壊したものを、そのまま復元して今にいたっています。向唐門づくりで高さ6m、幅は3.7mです。

中雀門

中雀門の左手にある門から中へ入って行くと、寺務所、僧堂・受付・書院・遊行会館などがあり、左手には藤嶺記念館(宗務所)があります。遊行会館の前は日本庭園になっており、その中に放生池があります。江戸幕府の記録である「徳川実紀」元禄7年10月の日記によれば、 金魚、銀魚等を放生せんと思わば清浄光寺(遊行寺)道場の池へと命され、かつ放生の際は、その員数をしるし目付へ届出づべし」 と記録されています。古来より由緒あるこの池に金魚、鯉等を放生すれば、その功徳により家内の繁栄は勿論のこと長寿を保つとされています。

放生池

ちなみにいここ遊行寺の放生池は江戸幕府五代将軍徳川綱吉の時代(1680~1709)に、生類憐れみの令によって、江戸中の金魚をあつめて放された所です。

境内の大銀杏の木

階段混じりの石畳の参道を降っていきます。途中の右手には真浄院、左手には真徳院があります。並木が続く坂道を降っていくと、日本三大黒門のひとつにもなっている遊行寺の総門があります。右手の柱には「時宗総本山」、左手の柱には「清浄光寺」と書かれていて、「時宗総本山 遊行寺」と刻まれた大きな石柱も立っています。

石門
通称「いろは坂」
総門
総門
総門脇の榜示杭
寺名の石柱

総門から出て正面に続く道を進んでいくと、往時の藤沢宿の絵図と日本三大広小路の解説文が掲示されています。この藤沢宿、すなわち旧街道は遊行寺の先に架かる赤い欄干の橋:大鋸橋(遊行寺橋)を渡り突き当りを右へ延びていきます。

日本三大広小路跡
赤い欄干の遊行寺橋

かつての藤沢宿で一番の賑わいを見せたのが前述の遊行寺橋を渡ってから右手へ向かう道筋だったようです。次回の藤沢から平塚への旅でこの藤沢宿の道筋を紹介したいと思います。乞うご期待のほど。

私本東海道五十三次道中記~戸塚宿から藤沢宿~(其の一)
私本東海道五十三次道中記~戸塚宿から藤沢宿~(其の二)





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私本東海道五十三次道中記~戸塚宿から藤沢宿~(其の二)

2012年09月13日 15時38分07秒 | 私本東海道五十三次道中記
八坂神社前交差点を渡ると右角の歩道隅になにやら石柱が置かれています。道標だろうと近づいてみると古めかしい庚申塔が立っています。時折見る古めかしい石塔に街道を旅しているんだなあ、と一人感慨にふける瞬間です。

歩道脇の庚申塔

庚申塔をあとに道を進んで行くと、大きくカーブした右手に現れるのが冨塚八幡宮です。国道1号線に面して鳥居が立ち、境内の奥に裏山の上に鎮座する社殿へつうじる長い石段をみることができます。

冨塚八幡宮鳥居
社殿へとつづく石段

その石段の登り口の左脇に大きな句碑が置かれています。これが芭蕉翁の句碑なのですが、石面には「鎌倉を生きて出でけむ初松魚」と刻まれています。この句意は江戸っ子に珍重された初鰹(はつかつお)は鎌倉で水揚げされて、生きのいいまま戸塚を通り、江戸まで運ばれたようすを詠んだものです。

芭蕉句碑

冨塚八幡宮は平安時代、前九年の役平定のため源頼義・義家が奥州に下る途中、この地にて応神天皇と富属彦命の御神託を蒙り、其の加護により戦功を立てる事が出来たのに感謝をして、延久4年(1072)社殿を造り両祭神をお祀りしましたことが始まりです。

冨塚八幡宮拝殿

44段の石段を登りつめると正面に拝殿が現れます。拝殿の裏手には本殿が境内の木々の木漏れ日を浴びて輝いていました。

冨塚八幡宮本殿

そろそろJR戸塚駅から1キロ強の距離にさしかかります。予想通り、上方見附跡の案内柱が現れました。この上方見附を過ぎるといよいよ戸塚宿から西へ下る旅人を悩ました「大阪」の登り坂が始まります。

登り坂が始まるとすぐ右側に「第六天宮」の扁額が掲げられている鳥居が現れます。国道一号に面して比較的広い敷地を持つ神社ですが、どうも趣に欠ける雰囲気で敷地には一面に石盤が敷き詰められ陽射しを遮ることができるような木もありません。

第六天宮

この第六天宮を過ぎると、およそ1kmにわたってつづく標高差約40mの「大坂(おおさか)」の登り坂が始まります。戸塚宿を発って藤沢宿へ向かう旅人が、上方見附を過ぎていきなり出合う難所だったようです。かつての東海道は今よりも道幅は狭く、勾配もかなりきつかったのではないでしょうか。このため戸塚宿の馬子や人足が副業で荷物や人を運んで手間賃を稼ぐ格好の場所だったのです。

大坂一番坂

登り坂を進んで行くと、路傍に七基の「庚申塔」が整然と並んでいます。ほんのちょっと街道らしさを感じる情景です。

路傍に並ぶ庚申塔
庚申塔

一番坂が終わる戸塚警察署下交差点を過ぎると、次に二番坂が始まります。二番坂を登って行くと大坂上信号が現れます。ここで道が二手に分かれます。それでは左手の道を進んでいくことにしましょう。

左手の道をしばらく進むと二番坂が終わる戸塚汲沢町歩道橋が見えてきます。この辺りから道路の真ん中に木々が茂る中央分離帯が始まります。以前はこの中央分離帯には街道らしい松並木が植えられていたようですが、現在では松の木はちらほらといった状況です。

大阪二番坂
中央分離帯の緑

汲沢町歩道橋から道は緩やかな下り坂となり汲沢第二歩道橋へと下りていきます。そして汲沢第二歩道橋をすぎると歩道脇に現れるのが「東海道 お軽勘平戸塚山中道行の場」の記念碑です。

東海道 お軽勘平戸塚山中道行の場
東海道 お軽勘平戸塚山中道行の場

それほど仰々しい記念碑ではないのですが、道路脇の狭いスペースに無理やり置いたような佇まいです。あまり手入れが行き届いていない様子で、スペース内は雑草で覆われています。

「東海道 お軽勘平戸塚山中道行の場」の記念碑を過ぎると、やがて道は日本橋から46kmと表示された原宿第一歩道橋へとさしかかります。この歩道橋の先に吹上信号がありますので、ここで右側の歩道へと移動します。

吹上信号から下り坂の道を進むこと250mほどで浅間神社の鳥居前に到着です。鳥居をくぐり古木の並木がつづく緩やかな坂道を上って行くと境内へと至ります。その境内の奥に社殿が鎮座しています。浅間神社ということなので、あの浅間造りの社殿かと思いきやごく一般的な社殿だったのでがっかりした次第です。

浅間神社石柱
浅間神社鳥居
神社への参道
浅間神社社殿

浅間神社をあとに国道1号に沿って進んで行きます。浅間神社からおよそ500mで原宿の交差点です。この交差点を過ぎると道は中央に木々が植わる分離帯がしばらくつづきます。この区間は見るべきものもなく単調そのものです。

原宿信号から860mほど歩くと影取歩道橋東側の信号に到着します。ここで中央分離帯は終了します。ここから先420mほど行ったところの影取第二歩道橋までも単調な道程がつづきます。

影取第二歩道橋を過ぎると左手に諏訪神社が現れます。まあ、それほどの神社ではありません。

諏訪神社

諏訪神社を後にして国道1号をその先へ進んでいきます。左手に広がる畑地を過ぎていくと降り坂になってきます。 藤沢バイパスになっている国道1号は右手へ分かれていきますが、左手へとつづく旧東海道を進むと、藤沢バイパス出口の信号に到着です。

旧東海道は県道30号と名を変え、遊行寺坂方面へと進んで行きます。藤沢バイパス出口の信号から620mほど歩いたところに旧東海道松並木記念碑が現れます。江戸時代にはこの辺りは見事な松並木がつづき、広重が描いた東海道にも描かれたほどです。そんな往時を偲ぶようにここに記念碑が建てられています。

旧東海道松並木記念碑
旧東海道松並木記念碑

この旧東海道松並木記念碑を過ぎるとまもなく遊行寺の坂へとさしかかります。

其の三へつづく

私本東海道五十三次道中記~戸塚宿から藤沢宿~(其の一)
私本東海道五十三次道中記~戸塚宿から藤沢宿~(其の三)





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私本東海道五十三次道中記~戸塚宿から藤沢宿~(其の一)

2012年09月13日 14時08分12秒 | 私本東海道五十三次道中記
残暑厳しいこの日、これまでシリーズ化してきた東海道を下る旅を敢行しました。この日も気温30度超えが予想されていたので、歩き始めを少しでも早い時間にと考え、午前10時にはJR戸塚駅に到着しました。

午前中とはいえ、暑い陽射しが照り付けアスファルトからの照り返しが容赦なく目に飛び込んできます。覚悟は決めていたのですが藤沢宿までの7.8キロを踏破できるかほんの少し心配になってくるような猛暑です。

藤沢宿の江戸口見附は戸塚寄りにおよそ1キロほど行ったところなので、かつての戸塚宿の京口までは残すところ1キロ強といったところです。JR駅北口から旧東海道筋まではほんの僅かな距離です。旧道にでて藤沢方面へと足を進めるとすぐにJRの大きな踏切が現れます。踏切からは戸塚駅のホームがすぐそばまで迫っています。

戸塚の大踏切

踏切を渡ってほんの少し進むと、清源院前信号が現れます。この信号の角を右手へ折れ50mほど歩くと本日の最初の立ち寄り場所である清源院の山門が右手に構えています。

清源院の山門

この清源院は家康公の側女として名高い「お万の方」とたいそう所縁のある寺院です。開基は家康公が亡くなった年である元和2年(1616)のことです。この年(元和2年)、駿府で病に伏していた家康公を見舞ったお万の方は家康公よりたいへん貴重な阿弥陀像を賜ったと言われています。そして看病の甲斐なく家康公が亡くなると、お万の方は家康公より賜った阿弥陀像を安置するための寺を創建しようと寺地を探し求め、ここ戸塚へとやってきます。そしてお万の方はこの場所に適地を得て当寺を創建し、自らも尼となって開基となったのです。

山門から緩やかな坂道をのぼっていくと左手に比較的新しい本堂がそれほど広くない境内の奥に構えています。その境内の隅に芭蕉の句碑「世の人の見つけぬ花や軒のくり」と、この寺の井戸で心中した戸塚の薬屋大島屋亦四郎(またしろう)の子で18歳の清三郎と、同じ戸塚の伊勢屋清左衛門抱(かかえ)の飯盛(めしもり)で16歳のヤマの慰霊のための心中句碑が置かれています。

清源院本堂
芭蕉句碑
心中句碑

※「世の人の見つけぬ花や軒のくり」の句意は
世塵を避けてひっそりと暮す主の奥ゆかしさを、その家の軒端の栗の花に託して詠んだ挨拶句です。

芭蕉句碑が置かれた場所の脇から石段が裏手の山へのびています。実はこの山の一番高いところにお万の方の「火葬の地碑」があるというので、石段を上ってみることにしました。のぼるにつれ薄暗く、若干ジメジメとした空気が流れ、それほど人も訪れないためか、石段には蜘蛛の巣がいたるところに張って、顔にまとわりつきます。

裏山へとつうじる石段

石段は全部で73段あります。山の頂は鬱蒼とした木々に覆われて暑い陽射しを遮ってくれるのですが、やたらやぶ蚊が多くちょっと立っているだけで蚊の集中砲火を浴びる状態です。

先ほどの「お万の方の火葬の地碑」も陽射しに遮られ薄暗い木の陰にひっそりと置かれていました。蚊の攻撃から逃げるように再び石段を駆け下り、ほうほうの体で清源院をあとにすることにしました。

お万の方の火葬の地碑

再び旧道(国道1号線)へと戻り、バスセンター前信号、戸塚郵便局前信号を過ぎ、戸塚小学校入口信号に達すると、右手に石垣で囲まれたスペースが現れます。ここがかつての戸塚宿の本陣があったところです。本陣の名は「澤辺本陣」といい、このスペースの裏手の家は「澤辺」の表札がでています。おそらく本陣を営んでいた澤辺家のご子孫の住んでおられるのでしょう。ここ本陣跡には「明治天皇戸塚行在所跡」の石柱もたっています。

本陣跡碑

尚、戸塚宿にはここ澤辺本陣の他に内田本陣があり、その他に脇本陣が3軒あったそうです。

この澤辺本陣跡の左わきから細い路地がつづき、奥に二本の銀杏の木と石製の鳥居が立っています。鳥居の奥に小さな社殿が見えます。この神社が羽黒神社で本陣の澤辺家が家の守り神として建立した私的な神社なのだそうです。まあ、本陣を営むだけあって、宿場の中では名家で金持ちだったのではないでしょうか。

羽黒神社
羽黒神社社殿

羽黒神社をあとに次の戸塚消防署信号を過ぎると、それほど目立たないのですが「臨済宗 円覚寺派」と刻まれた銘板がはめ込まれた石柱が歩道脇にたっています。その石柱から奥につづく道を辿ると坂道の上に山門が構えています。銘板には寺名が入っていませんが、これが「海蔵院」です。

海蔵院銘板

海蔵院の山門はそれほど立派なものではありませんが、この山門には龍の彫刻が彫られています。一説によるとこの龍の作者があの有名な左甚五郎と言い伝えられています。それほど大きな境内ではないのですが、ご本殿の他に鐘楼堂が備わっています。

海蔵院の山門
山門の龍の彫刻
海蔵院の境内

この海蔵院からほんの僅かな距離に、国道一号線に面して有名な神社が社殿を構えています。戸塚近在では「お天王さま」として親しまれている鎮守ですが、その名を八坂神社といいます。当社を有名にしているのは「お札まき」と呼ばれる踊りなのですが、毎年7月14日の八坂神社の夏祭りに行う踊りで、同社の元禄再興とともに始まったと伝えられています。

八坂神社の鳥居
八坂神社社殿

この踊りは、江戸時代中期、江戸や大阪で盛んに行われていましたが、やがて消滅し、現在は東海道の戸塚宿にだけ伝え残されています。男子十数人が姉さんかぶりに襷がけの女装をして裾をからげ、渋うちわを持ち、音頭取り一人はボテカズラをかぶります。音頭取りの風流歌に合わせて踊り手が唱和しながら輪になって右回りに踊ります。踊り終わると音頭取りが左手に持った「正一位八坂神社御守護」と刷られた五色の紙札を渋うちわで撒き散らします。人々は争ってこれを拾って帰り、家の戸口や神棚に貼ります。

風流歌の歌詞は「ありがたいお札、さずかったものは、病をよける、コロリも逃げる」というものです。

其の弐へつづく

私本東海道五十三次道中記~戸塚宿から藤沢宿~(其の二)
私本東海道五十三次道中記~戸塚宿から藤沢宿~(其の三)





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東京スカイツリーの麓に築城か?

2012年09月09日 20時01分22秒 | 墨田区・歴史散策
スカイツリーへは毎度同じ道を辿って行くのですが、今日に限ってこれまで通ったことがない路地をくねくねと進んでいったのです。

スカイツリー直下を走る浅草通りから錦糸町側へほんの少し入った路地を進むうち、前方になにやら奇妙な姿の建造物を発見!

お城?

遠目からは大きな銭湯か、はたまた新興宗教の本部の建物かと思うような外観です。近づくうちにその外観は銭湯でも、新興宗教の寺院建築でもなく、まさしく住宅街にそそり立つ城郭、すなわち天守そのものではありませんか。

まさしく天守閣?

今までスカイツリーには何度となく通っているのですが、まさかこんな場所に「お城」があるだなんて予想もつきませんでした。おそらく知らなかったのは私だけかもしれませんが?

本日のスカイツリー

こうなるとスカイツリーどころではありません。いったいこの「お城」がなんの目的で建っているのか、を知りたくなりました。

東京にはこの手の風変わりな建物をラブホテルとして使っていることが多いのですが、このお城には「城門」まで備わっています。そして天守にあたる建物には「�貯(うだつ)」らしきものが置かれ、それには「お城・森八」と「御菓子司」と書かれているではありませんか。

商号
城門

実はこのお城は墨田区業平に店を構える和菓子「森八本舗」の本店の建物だったのです。創業は戦前の昭和8年(1933)ですから、今から80年余り前のことです。この城の築城年は定かではありませんが、スカイツリーもさることながらここ業平のもう一つの名物建物になっているのではないでしょうか。とはいっても森八城の城下はそれほどの賑わいがないのが不思議です。

本日のスカイツリー

さて森八城の城主が推奨するお菓子はなんといっても「大粒栗入最中」のようです。栗の形をした最中で大きな栗が1個丸ごと入ったもので、こし餡と白餡の二種類の味を楽しめるようです。詳しくは「お城 森八」のHPをご覧になってください。

スカイツリーにお越しの際に、立ち寄ってみてはいかがでしょうか?

お城 森八
住所:東京都墨田区業平1-3-6
電話:03-3622-0006
営業時間:9:00~18:00
定休日:毎月第3月曜日 ※ただし、3月・9月・12月は第3月曜日も営業します。
http://morihati.co.jp/





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私本東海道五十三次道中記~保土ヶ谷宿から戸塚宿~(其の三)

2012年09月05日 14時36分49秒 | 私本東海道五十三次道中記
本日の歩行距離である9.8kmのまだ半分にも至らない場所である境木からはだらだらとした下り坂がしばらく続きます。

境木地蔵尊前交差点の左角に立つ大きな石柱には「右 環状二号線」、左手の道は「左 旧東海道」の文字が刻まれています。そして左手に進む下り坂が旧東海道筋の「焼餅坂」です。

境木地蔵尊前交差点の道標
焼餅坂

焼餅坂を下り、品平橋を渡ると道はそれほどの急坂ではありませんが再び登り坂に変わります。この坂が次の「品濃坂」です。坂を登り切った所の右手にこんもりとした森があり、その脇には「品濃一里塚」と題した解説板が置かれています。

品濃一里塚
一里塚裏手の様子

ここ品濃の一里塚は日本橋から九番目の一里塚で、保土ヶ谷宿と戸塚宿の間に位置しています。旧東海道をはさんでほぼ東西に二つの塚があり、地元では一里山と呼ばれています。東の塚は平戸村内に、西の塚は品濃村内に位置し、西の塚にはエノキが植えられていたようです。このように、今でも道の両側の塚がともにほぼ当時の形で残っている所は、神奈川県内でもこの一里塚だけです。

見上げるような造りの一里塚なのですが、かつては東海道と一里塚はほぼ同じ高さだったのですが、後世になって東海道を掘り下げたため、一里塚が山のようになりまるで切通しのようになってしまいました。

反対側の一里塚

せっかくなので進行方向右手の一里塚の裏手から登ってみることにしました。たしかに盛り土をしたような形をしており、根っこが地表にあらわになるくらいな大きな木が植えられていました。

一里塚を過ぎ、住宅街がつづく地区へと入ります。一里塚から約260mほどで福寿観音堂に到着です。このあたりがおよそ4km地点にあたります。観音堂から右へ進むとJR東戸塚駅です。この辺りでトイレ休憩です。

休憩の後、再び旧東海道を戸塚宿へと進んでいきます。道に沿って右側が住宅街そしてまもなくすると左手には果樹園が広がってきます。こんなところに果樹園が…。路傍に置かれた果樹園の案内板をみると8軒の農園がこの付近一帯に点在しています。

果樹園の直販所

そんな果樹栽培の直販所が街道脇に店を構えています。果物は「梨」が盛りのようで、この辺りは「豊水」という銘柄の梨が栽培されているようです。

この果樹園を見ながら進んで行くと、旧東海道筋は極端に狭くなり、狭い石段と姿を変えていきます。その石段を下ると、環状2号線に架かる品濃坂歩道橋です。旧東海道はここでいったん寸断され、歩道橋の向こう側へとつづいていきます。

環状2号線に架かる品濃坂歩道橋

歩道橋を渡ると、比較的急な坂がつづく、しばらくすると平坦な道へと変わっていきます。バイパス下の坂下バス停を過ぎ、住宅街を抜けていくと柏尾川の流れが目に飛び込んできます。

柏尾川に沿って国道1号線と交わる東戸塚駅入口信号までは閑静な住宅街がつづきます。
信号を渡り、国道1号線を横切り、旧街道を進んで行きましょう。旧街道は赤関橋信号で再び国道一号線と合流したのち、ほんのわずかな距離でまた分岐します。

上柏尾歩道橋を過ぎると国道一号線の右側に「山崎パン工場」が見えてきます。柏尾小入口信号を過ぎると今度は「森紙業」の工場が右手に現れます。この辺りが歩き始めてほぼ6.5キロの地点です。そして次に右手には「ポーラ化粧品」の工場です。左手には王子神社の境内が広がります。

王子神社を過ぎて前方のファミリーマートの先に街道の風情を醸し出すような白壁の蔵が現れます。

蔵を過ぎてすぐ国道一号線の右側には「大山道道標」が現れます。「柏尾の大山道入口 ここを入る」の看板が立っていて、右手に分かれていく道を指しています。

※大山は江戸時代から広く関東一円の人びとのあいだに信仰されていました。大山道はこうした参詣者の道で、旧東海道から大山への入口が柏尾です。

王子神社を過ぎて先へ進んで行くと、国道一号線の傍らに大きな「モチノキ」が現れます。高さはなんと19mもあり、神奈川県下で最大の大きさです。

モチノキの銘板

《かながわの名木100選・ 益田家のモチノキ》
樹形が整い樹勢も旺盛な県下最大のモチノキの巨木である。古くから「相模モチ」の愛称で親しまれている。県の天然記念物に指定されている。
樹高19メートル、胸高周囲2.4メートル、樹齢約300年(推定)

益田家のモチノキ

モチノキを過ぎるとすぐに「不動坂交差点」です。
この交差点から国道一号は二手に分岐します。
右へと向かう国道一号はバイパスで、まっすぐ伸び国道1号は戸塚駅へと向かいます。

私たちは一番左側の旧東海道へと進むことにします。なだらかな勾配を上ると、道はゆるやかな下りへと変わります。そんな坂の名前が「不動坂」です。

この道筋を進んで行くと、右手に比較的大きな煉瓦造りの建物が見えてきます。じつはこの建物はあの有名な「鎌倉ハム」を手掛けている斉藤肉店所有のもので、以前はハムを貯蔵するために使われていました。現在はハムの貯蔵庫ではなく、どこぞのペンキ屋さんが倉庫として使用しているそうです。

煉瓦造りの倉庫

この煉瓦造りの建物に隣接して、歴史を感じる蔵造りの家が建っています。この建物こそ鎌倉ハムの創業者である斉藤家の建物です。そしてこの蔵造りの建物の隣に「サイトウミート」の看板を掲げる肉屋さんがあるのですが、実は鎌倉ハムの斉藤家ではなく、偶然に同じ名前の斉藤さんが肉屋を経営しているとのことです。

蔵造りの家

道は舞岡川に架かる舞岡橋へとでてきます。このあと国道1号線に合流すると、本日の戸塚駅までは国道1号線に沿って歩くことになります。今日の行程では目まぐるしく景色がかわる楽しみを味わうことができるのですが、戸塚付近の国道1号線に沿った景色は昔ながらの雰囲気を漂わせ、大都市に近い戸塚の街とは思えないほど田舎じみています。

舞岡川に架かる五太夫橋を渡ると右手にブリジストンの工場が現れます。そしてダイエーの隣のファミリーレストラン「フォルクス」の店の前に「江戸方見付跡」と刻まれた石碑が置かれています。

江戸方見付跡の石碑

ここが戸塚宿の江戸側の入口にあたる江戸方見附があった場所になります。ここから吉田町・矢部町・戸塚町の三町にまたがる街並みが東海道の宿場町として整備されたのは慶長9年(1604)で、隣の保土ヶ谷宿よりも3年ほど遅れて成立したようです。

戸塚江戸見附跡を過ぎると、保土ヶ谷宿を出発してからおよそ7.5キロの地点にさしかかります。

国道一号線の左側のセブンイレブンを通り過ぎると「戸塚一里塚跡」の標識が立っています。
江戸日本橋から10番目の一里塚ですが、今ではその遺構などは残っておらず、標識が立っているだけです。

一里塚跡を過ぎると柏尾川に架かる「吉田大橋」に到着です。橋の欄干にはただ「大橋」と記されています。吉田大橋交差点から左手へと柏尾川沿いに分かれていくのは鎌倉道で、旧東海道はこの吉田大橋を渡っていきます。橋の袂には広重が描いた戸塚の景が掲げられています。

吉田大橋

吉田橋を渡ると600mほどでJR戸塚駅に到着です。その道筋にレトロ感漂う建物が一軒建っています。伊東医院と看板がでていることからお医者さんの建物のようです。門を入ると簡単な説明書きがあり、その説明によると大正時代に建てられたものと記されています。どうりでロマンを感じさせるような雰囲気を漂わせていると思いました。

大正ロマンを感じる建物

保土ヶ谷駅から戸塚駅までの9.8kmを踏破したのですが、暑さの中での山越えで足は棒のようになり、汗まみれの体は疲労困憊。駅前のコーヒーショップでガムシロップをたっぷり入れたアイスコーヒーが疲れ切った体に浸み込んでいきました。

私本東海道五十三次道中記~保土ヶ谷宿から戸塚宿~(其の一)
私本東海道五十三次道中記~保土ヶ谷宿から戸塚宿~(其の二)





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私本東海道五十三次道中記~保土ヶ谷宿から戸塚宿~(其の二)

2012年09月05日 13時34分47秒 | 私本東海道五十三次道中記
樹源寺を後に旧東海道の旅を続けていきましょう。元町橋バス停を過ぎていくとT字路に突き当たります。その脇には「歴史の道」の道標が立っていて、左手の道は「権太坂」、今来た道は「上方見附1km・一里塚1km・本陣跡1.5km」となっています。T字路を左折して元町橋を渡っていくと、正面に歩道橋が見えてきます。その手前から右手へと延びる道が権太坂へとつづいていきます。この右手の坂道を辿ると、江戸から上方へ向かう東海道で最初に出会う難所の「権太坂」です。

旧街道の権太坂入口

戸塚宿までの行程ではこの権太坂の一番坂、二番坂をはいじめ焼餅坂、品濃坂と起伏の多い地形が続きます。年始に行われる「箱根駅伝」では旧東海道の権太坂は通りませんが、国道1号線の坂を権太坂と呼び、往路2区の難所として知られています。旧街道の権太坂の頂点付近まで約1.5km、標高差60mの結構きつい坂道です。

それまで平坦であった旧東海道は権太坂入口から突如として急勾配の坂道へと変貌します。登り始めてから1分ほどで赤い鳥居が現れます。この鳥居の奥に「権太坂改修記念碑」が置かれています。この辺りが最初のきつい坂です。

権太坂改修記念碑

いっきに登りつめるような急な坂道がしばらくつづき、保土ヶ谷バイパスに架かる権太坂陸橋が見えてきます。このあたりもまだ坂がつづきます。陸橋をすぎるとやや勾配は緩やかになるのですが、これまでの急坂でかなりエネルギーを消耗してしまった体には、緩やかな勾配であっても体に負担がかかります。

いわゆる一番坂と呼ばれる坂が終わるころ、路傍に「権太坂」と刻まれた石柱が置かれています。その脇に案内板が置かれ、権太坂の名の由来が記されています。

権太坂の石柱

その由来とは、「あるとき、旅人がこの坂の近くにいた老人に坂の名前を尋ねたところ、耳の遠い老人が自分の名前を聞かれたと思い込み、「ごんたでございます」と答え、それから権太坂と呼ばれるようになった。と記されていました。

権太坂の石柱を過ぎて緩やかになった道を進むと、右手に保土ヶ谷の進学校として有名な光陵高等学校の校門が現れます。そしてこの校門を過ぎると、再び登りの傾斜が増してきます。
これが権太坂の二番坂です。

権太坂の二番坂

この二番坂を登りきると、ほぼ権太坂の頂上地点に到着です。標高差が約60m~70mの権太坂はかつてはかなりの難所で多くの旅人や牛馬もそのきつさに「行倒れ」になってしまったと言われています。そんな哀れにも行倒れになった人たちや牛馬を埋葬した場所が「投げ込み塚」の名で旧街道からちょっと逸れた場所に残っています。

投げ込み塚

「往時旅人の行倒れせし者多く、之を埋葬せる処也。」ということで塚がここに建てられています。「偶々当地区開発に当り多数の白骨を発掘、現在平戸町東福寺境内にて再埋葬供養碑を建て、之が菩提を弔ひ在者也。 昭和三十九年四月建之」の文字が刻まれています。

投げ込み塚から再び旧街道に戻ると、境木(さかいぎ)という地名に変わります。そんな境木には江戸時代に権太坂を登ってきた旅人や、はたまた反対側の品濃坂や焼餅坂を登ってきた旅人のための「立場茶屋」があったところで、多くの旅人が疲れた体を休めた場所でもあります。江戸時代には「牡丹餅」が名物でかなり評判になっていたようです。

そして現代版の茶店ではありませんが、ここ境木には現代の旅人の疲れを癒す「おじぞうさん最中」なる和菓子を売る店があります。こんな下見をしていて楽しみなのはその土地土地の名物を食してみるということもたいへん重要なことなのです。

おじぞうさん最中の店

さっそくメンバー共々、店に入り名物の「おじぞうさん最中(1個190円)」を購入して食べることにしました。私は「つぶ餡」を食べたのですが、疲れ切った体に、餡の甘味が一気に染み渡っていったように感じました。「おじぞうさん最中」はこのつぶ餡とこし餡の2種類がありますが、どちらの最中もたいへん美味しいです。

おじぞうさん最中

また最中以外に「権太坂むしどら焼き」もあり、これもふわふわ生地の中につぶ餡が入っていてたいそう美味しく感じました。

権太坂むしどら焼き
権太坂むしどら焼き

ちょっと寄り道をして、エネルギーを補充した後、境木立場跡へと向かうことにします。立場とは宿場町と宿場町との間に設けられたもので、そこには旅人が体を休めるための「茶屋」が置かれていました。その境木の茶屋の一つであった「若林家」の門が旧街道に面して今でも残っています。この若林家は明治の中ごろまで黒塗りの馬乗門や本陣さながらの構えの建物だったと伝えられ、なんと参勤交代の大名までもが利用していたと伝えられています。

境木の立場跡
若林家の門

さて、境木という地名の由来ですが武相(武蔵と相模)の国境があったところです。江戸時代にはその標(傍示杭(ぼうじぐい)あるいは境杭(さかいぐい)と呼ばれる木柱)が建てられていて、境木の地名はそれからきたといわれています。

そして境木を有名にした言い伝えが残っています。『いつの頃か相模国鎌倉腰越の海辺に漂着した地蔵が土地の漁師の夢枕にたち、「俺は江戸の方へ行きたい。運んでくれたらこの海を守ろう」と告げたので、漁師達が江戸へ運ぶ途中、この境木で動かなくなった為、村人達は地蔵を引き取りお堂を建てて安置したところ、それからは村が繁昌したということです。』

境木地蔵尊
境木地蔵の祠
祠の中のお地蔵さん

そんな噂を聞きつけた江戸の人たちもたくさんここを訪れ、境内には寄付された燈籠が残っています。

境木地蔵尊前の広場には「武相国境之木」と記された記念碑が建っています。私たちの東海道の旅もいよいよ武蔵野国から相模の国へと進んでいきます。

武相国境之木の記念碑

其の参へつづく

私本東海道五十三次道中記~保土ヶ谷宿から戸塚宿~(其の一)
私本東海道五十三次道中記~保土ヶ谷宿から戸塚宿~(其の三)





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私本東海道五十三次道中記~保土ヶ谷宿から戸塚宿~(其の一)

2012年09月05日 12時35分13秒 | 私本東海道五十三次道中記
9月に入りいくぶん暑さも和らいだかな?と思われた9月4日(火)に某旅行会社主催の東海道五十三次街道巡りの「保土ヶ谷宿から戸塚宿(約9.8km)」間の下見に出かけてきました。

保土ヶ谷宿の出立時間を正午に設定していたため、9月初めとはいえ真夏を思わせる陽射しが真上から降りそそぐ時間帯です。出立場所は保土ヶ谷の江戸方見附から1kmほど先のJR保土ヶ谷駅なので全長2kmの保土ヶ谷宿内のうちほぼ半分の区間は割愛させていただきます。

さあ!いよいよ江戸から数えて4番目の宿場町である「保土ヶ谷宿」の中心部分へと進んでいきましょう。JR保土ヶ谷駅の北口のローターリーを抜けると、旧東海道の道筋にあたる「さつき通り商店街」の入口にさしかかります。活気のある商店街とは言えない佇まいがつづきます。これまで歩いてきた各宿場町の商店街で見るような「街道らしさ」をそれほど感じない街並みです。

さつき通り商店街

ときおり現れるかつての助郷会所跡にいたっては、標柱はあるものの自動販売機の脇に置かれた「ビン缶・ペットボトル入れ」に赤字で「助郷会所跡」と記され、ご丁寧にも自動販売機とボトル入れの下部には「海鼠塀」らしき模様まで描かれています。それなりの努力は認めつつも、ほんのちょっと街道の雰囲気を考えた意匠にしてもらったほうがいいのではないでしょう
か?

助郷会所跡の自動販売機

そんな「さつき通り商店街」を進んで行くと、金沢横町の小さな四つ角にさしかかります。進行方向左手の角に街道らしさを感じさせてくれる4基の道標が往時を偲ぶようにひっそりと佇んでいます。

4基の道標

右から
①円海山之道〔天明三年(1783)建立〕
②かなさわ、かまくら道〔天和二年(1682)建立〕
③杉田道〔文化十一年(1814)建立〕
④富岡芋大明神社の道〔弘化二年(1845)建立〕

この道標の左わきに番所風のお休み処が置かれています。ここでは保土ヶ谷宿に関するパンフレットを無料で入手することができます。

保土ヶ谷宿お休み処

金沢横町を過ぎるとまもなくJR線の踏切にさしかかります。踏切を渡ると旧街道は国道1号線に突き当ります。この合流地点には保土ヶ谷宿の本陣跡があります。ここで旧東海道は大きく右へ折れ、難所と言われる「権太坂」方向へと進んでいきます。

苅部本陣の門

保土ヶ谷本陣は苅部本陣(かるべほんじん)と呼ばれていたもので、現在は通用門だけが残っていますが、往時建坪が270坪もあり部屋数18、畳数140は東海道の本陣の中でも十指に入るほどの規模でした。通用門前の塀が崩れ、修復中なのですが、実は昨年の東日本大震災で塀が壊れてしまったそうです。

国道1号線を進行方向に向かって左側の歩道を歩いていくと、次に脇本陣の藤屋跡、そして脇本陣の水屋跡、更に旅籠屋の本金子屋跡とつづきます。

本金子屋跡

宿場時代の唯一の建築物である本金子屋が今でも残っています。ただし、江戸時代のものではなく明治になって新築されたものです。江戸時代には先の本陣から本金子屋までの区間に14軒ほどの旅籠、水屋が軒を連ねていたようです。そんな時代があったことなど忘れ去られたように、現在ではマンションが連なっています。

本金子屋を過ぎてしばらく歩くと左手に金色の擬宝珠を備えた今井川に架かる仙人橋が見えてきます。その仙人橋の袂には「歴史の道 一里塚跡・上方見附跡」の解説板が置かれ、その脇には「東海道保土ヶ谷宿の松並木と一里塚」と題した解説板もあります。

復元なった保土ヶ谷一里塚
東海道保土ヶ谷宿の松並木と一里塚
東海道保土ヶ谷宿の松並木と一里塚
東海道保土ヶ谷宿の松並木と一里塚

この辺りが保土ヶ谷宿の京都側の出入口にあたる上方見附だった所のようで、小振りの一里塚も復元されています。保土谷宿の一里塚は江戸から8番目にあたり、かつては五間(9m)四方の塚が築かれ、塚の上には榎が植えられ旅人の休憩場所としても利用されていました。

仙人橋の擬宝珠

そして今井川に架かる仙人橋を渡り、なだらかな傾斜の向こうに佇むのが「外川神社」の社です。外川神社は、保土ヶ谷宿内の羽州湯殿山の講中の先達であった清宮興一が、湯殿・月山・羽黒の三山の霊場を参拝し、明治2年、この地に羽黒山麓の外川仙人大権現の分霊を勧請したもので、以来、小児の虫封じ、航海安全に利益があるとされていました。明治初年、神仏分離令の発布によって祭神を日本武尊とし、外川神社と改称しました。

外川神社
外川神社石標

外川神社から再び旧東海道筋へ戻り、進むと岩崎ガード交差点に保土ヶ谷歩道橋が架かっています。

一里塚から見た松並木

歩道橋を渡って、国道1号を更にその先へ進んでいきます。反対側の保土ヶ谷町2丁目バス停を過ぎた所で道が二手に分かれている保土ヶ谷2丁目交差点があります。角には「歴史の道」の道標が立っています。

樹源寺山門
樹源寺境内
樹源寺境内

国道一号線からいったん分岐して旧東海道を進むと樹源寺バス停が見えてきます。このバス停の先の右手に折れる石段を上って行くと樹源寺です。鎌倉時代に建てられた医王寺が焼失した後、江戸時代初期の1628年に、あの本陣を経営していた苅部家により身延山久遠寺の末寺として開山したようです。

其の弐へつづく

私本東海道五十三次道中記~保土ヶ谷宿から戸塚宿~(其の二)
私本東海道五十三次道中記~保土ヶ谷宿から戸塚宿~(其の三)





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