大江戸散策徒然噺 Introducing Japanese culture and history

豊かな歴史に彩られた日本の文化と歴史を紹介

尾張城下に残る古い町並み~四間道町並み保存~

2012年04月02日 16時41分35秒 | 地方の歴史散策・名古屋市内
地方都市には歴史を刻む古い町並み空間が残っていることはそれほど珍しいことではないのですが、東京をはじめ大都会であれば例外なく戦災被害を受け、貴重な歴史的な町並みは悉く焼失してしまっていることが多いのです。

そんな東海の大都市・名古屋の中心部には江戸時代に整備された町並みの佇まいが周辺に林立する高層ビルの谷あいに埋もれるように残っているではありませんか。

その町並みは「四間道(しけみち)」と呼ばれる場所で、名古屋駅から地下鉄「桜通線」に乗って一つ目の「国際センター駅」で降りてすぐの場所です。

四間道道標

四間道とは道幅が四間(約7m)あることから名付けられているのですが、すぐそばを流れる「堀川」と平行してはしる全長300m足らずの区間に石垣の上に建てられた白壁造りの土蔵や格子入りの入り口や格子がはめられた開口部を持つ二階建ての家並みが続いています。

土蔵造りの町並み
土蔵造り

四間道の成立は、城下町の建設が始まる慶長15年以降に堀川の掘削により城下への物資の運搬が盛んになるにつれ、この場所に米穀、味噌、塩、酒、薪炭及び加工製品を中心とする商品を扱う商人が集まり町を形成したことに始まります。言いかえればある種、河岸(かし)のような賑わいが想像できます。

白壁の土蔵

そして17 世紀後半になると、四間道西側の百姓地の市街化が進み、河岸地には、堀川 に面する各屋敷の境界線を延長する形で蔵が並びはじめ、現在の四間道周辺の町並みが形成されたのです。

四間道は、元禄 13 年(1700 年)の大火の後、防火を目的に整備され、道幅を 4間(約 7m)とし、道の東側は一段と盛土で高くし、石垣の上に土蔵を連続させたと言われています。火除け地ならぬ防火用の壁として土蔵を並べたわけです。確かに、現在見る土蔵には土台部分に石垣がしっかり残っています。

堀川に沿って並ぶ一部の土蔵は飲食店として利用されています。土蔵が並ぶ道を隔てて、格子造りの町家が四間道に彩りを添えています。

格子造りの町屋
屋根神様の小さな社

JR名古屋駅からさほど離れていない場所に、歴史に彩られた町並みが残っていることは驚きでもあり、羨ましく思う次第です。




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都会に残る自然に包まれた名刹八事山「興正寺」

2012年04月01日 13時17分20秒 | 地方の歴史散策・名古屋市内
久しぶりに尾張名古屋の名刹探しに出かけることにしました。
名古屋市街地から車で20分ほどの距離に、木々に覆われ自然豊かな「八事(やごと)」があります。この八事に尾張徳川家の祈願所として隆盛を誇った真言宗の名刹「興正寺」の伽藍が静かに佇んでいます。



尾張徳川家の祈願所になったは江戸時代の初期、貞享五年(1688)に尾張藩主二代光友公の頃に八事山遍照院興正律寺の寺号を賜りました。その後、三百有余年の歴史を刻み、現在は高野山真言宗の別格本山として八事山興正寺と称し、尾張高野の名でも親しまれています。

国道153号線に面して参道が境内へと延びています。参道を進むと、前方に歴史を感じさせる「中門」が構えています。かつては女人門と呼ばれ、修業の場であった東山と西山の境に建っていたものです。八事山は東西に分けられた二つのエリアから構成され、かつては東部が女人禁制の場で現在でも「女人禁制」と刻まれた石柱がいたるところに置かれています。

参道から見る中門と五重塔
興正寺中門
女人禁制の石柱

この中門をくぐると、興正寺のシンボルとも言える五重塔が姿を現します。建立は古く江戸時代の文化五年(1808)に遡ります。スラリと伸びた五層の塔は30mの高さを誇り、緩やかな曲線を描く屋根の反りが日本の塔の典型的な美しさを伝えています。東海三県下唯一の木造の五重塔で国の重要文化財に指定されています。

五重塔
五重塔

中門、五重塔を直線で結んだ先に構えるのが当寺のご本尊である「阿弥陀如来」を祀る「西山本堂」です。

西山本堂

西山本堂の裏手には当寺自慢の美しい庭園「普門園」が広がっています。庭の中央には大きな水盤が配され、庭を囲むように建つ歴史的建造物が回廊で結ばれています。庭の背後の緑豊かな竹林が白砂の庭に美しく映えています。

庭園「普門園」
庭園「普門園」

本堂の右手に小高い丘の上に置かれている宝塔様式の建造物は「圓照堂」です。この圓照堂の脇にかつて女人禁制の東山に置かれた「奥の院」へと通じる細い参道が墓地の間を縫って続いています。参道に沿って夥しい宝篋印塔が並んでいます。

圓照堂
奥の院への入口
奥の院への参道

参道を抜けると、ハ事山では一番高い位置に置かれた大日堂が石段の上に現れます。それほど威厳を感じるお堂ではないのですが、堂内には元禄十年(1697)に二代藩主光友公が母の供養のために鋳造させた高さ3.6m、重さ20トンの大日如来が安置されています。

大日堂

奥の院からの帰路、東山の中腹から、西山の伽藍群の甍が眼下に広がる様子を見ることができました。

東山中腹からの眺め

尾張徳川家の菩提寺ではないにしろ、徳川家の祈願寺としての寺格と高野山別格本山の格式の高さを実感できたひとときでした。




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名古屋・大須観音は老若男女が集う人気の霊場~巨大商店街は一見の価値あり(大須商店街)~

2012年01月23日 12時22分21秒 | 地方の歴史散策・名古屋市内
名古屋市内の繁華街で代表的な「栄」は東京で言えば「銀座通り」に相当し、近代的な建物が通りを挟んで立ち並び、人気の有名ブランド店が軒を連ねるお洒落な繁華街といったところです。

名古屋市内についてはそれほど詳しくない私にとって、繁華街といえば「栄」しかないと思っていたのですが、その「栄」からさほど離れていない場所にまるでお江戸の浅草を彷彿させるような(見方によっては浅草よりも図抜けているかも!)それはそれは巨大な商店街が連なる場所があることを今回初めて知ったのです。

その名を「大須」というのですが、実はこの場所は霊験あらたかな観音様を祀る「北野山真福寺寶生院」の門前町として発展した歴史を持っているのです。ということはお江戸の浅草寺と同じように古くから庶民に親しまれた寺であり、遊興の場所であったことがうかがわれます。

大須観音ご本堂

市内の幹線道路である若宮通りから伏見通へ入るとすぐ左手に大須観音の西参道入口が現れます。お江戸の浅草と同じようにご本堂にいたる参道にたくさんの店が軒を連ねている「仲見世」のような世界を期待していたのですが、伏見通からわずかな距離に西門が現れすぐに境内に入ってしまいました。

大須観音西門

西門をくぐると目の前に朱色に塗られた大きな大きなご本堂が現れます。これがご本尊である聖観音を祀る「大悲殿」と呼ばれているご本堂です。

大須観音ご本堂
大須観音ご本堂

大須観音の歴史を紐解いて見ると、創建は元亨四年(1324年)と古く、もともとは尾張国長岡庄大須郷(いまの岐阜県羽島市大須)にあり、御開山は能信上人(のうしんしょうにん)です。能信上人は開山にあたり、伊勢大神宮に百ヶ日間こもり祈りの日々を過ごしていたのですが、ある夜見た霊夢に、「大慈大悲の観世音こそは利益無量、この世の人びとに、もっともありがたいお方である」とのお告げをえられ、そのうえ観世音の貴い姿を拝されたと伝えられています。

そしてその観世音の姿は弘法大師ゆかりの摂州四天王寺の大慈大悲の観世音菩薩に寸分たがわぬ御尊影であったのでした。その話を伝え聞いた時の帝、後村上天皇の詔によって摂州四天王寺の観世音菩薩が北野山真福寺寶生院に移され、それ以降ご本尊と仰ぐこととなったのです。

寶生院がこの場所に移ってきたのは慶長17年の頃で、神君家康公が名古屋を建設するにあたってこの地に移したと言われています。

そんな霊験あらたかな観音様が祀られているご本堂は見上げるように聳え、まるで私たちを包み込むように建っています。1月半ばのこの日、境内にはお参りに訪れる人で賑わい、ご本堂前にはお参りの長い列ができていました。比較的若い方が多かったのは受験シーズンでもあり合格祈願に訪れていたのではないでしょうか。



お参りを済ませご本堂の石段上から境内を俯瞰すると、南側に立派な仁王門が構えています。ということは仁王門に通じる道筋に仲見世のような店が並んでいるのではと思ったのですが、それらしい街並みは広がっていませんでした。

仁王門

この仁王門の脇に建っているのが「鐘楼堂」です。鐘楼堂自体は古く感じるのですが、吊るされている鐘は地元の婦人会の手により昭和41年に鋳造され寄進されたものだそうです。

鐘楼堂

一通り境内を散策した後、噂に聞く大須商店街の散策へと向かうことにしました。門前町を形成する商店街は境内の東側に広がっています。それも一筋ではなく二筋に分かれてアーケード形式の商店街が続いているのです。

境内俯瞰

名古屋の人に言わせれば「名古屋のアメ横」と呼んでいるようですが、東京人の私に言わせればアメ横ほどの「闇市」的な雰囲気ではないような気がします。全体的に衣類関係と屋台的な飲食店が多く、散歩がてらに屋台に立ち寄り、立ち食いや歩き食いを愉しめる商店街といったところです。

商店街の風景

訪れたのがたまたま日曜日だったので、大須観音詣でのついでの参詣客やはたまた一見して中国からやってきた観光客などでたいそう賑わっていました。洗練された「栄」の通りに比べ、下町的な情緒を愉しめる場所として是非一度行かれてみることをお勧めいたします。




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格式ある堂宇はさすが!尾張徳川家の菩提寺・建中寺

2012年01月18日 11時51分48秒 | 地方の歴史散策・名古屋市内
年初早々、名古屋へ行く機会を得てわずかな時間を利用して念願の尾張徳川大納言の菩提寺である建中寺へ行ってきました。御三家筆頭の尾張徳川家(61万石)の菩提寺であれば、それはそれは壮麗な堂宇が立ち並んでいるのではと期待を胸に向かった次第です。

建中寺三門

市営地下鉄「車道駅」から10分ほどの距離にある建中寺は静かな住宅街の中で尾張徳川家の威光を今に伝える見事な三門(三間重層門)が堂々とした姿で迎えてくれます。

当寺の創建は慶安4年(1651)に第2代藩主である徳川光友公が父である初代藩主義直公の菩提を弔うために建立しました。江戸時代を通じて尾張藩主の霊廟が置かれ、尾張徳川家の菩提寺として、当寺は寺の周囲は石垣と掘で囲まれ、数多くの壮麗な堂宇が並んでいたといいます。

創建当時の建造物のほとんどは焼失してしまっているのですが、現在残る建造物の中で総門、三門は創建当寺のものですが、そのほかのものは天明6年から7年(1786~1787)にかけて再建されたものです。とはいってもそれなりに歴史を感じる建造物です。

建中寺三門

前述の三門へ至る手前に葵の御紋を付した小振りの門が構えています。尾張徳川家の権威を示すようなこの御門は尾張家だけが使用した「御成門」で、創建は正徳4年(1701)と古いものです。この御成門はもともとは霊廟域へ通じる門として使われていたようで、この場所にあったものではありません。

御成門
御成門の葵御紋

建中寺門前の道を隔てて比較的大きな公園があります。建中寺公園と名付けられているのですが、その公園の南端に見事な門が置かれています。これが建中寺の総門といわれているもので、総檜造の四脚薬医門で慶安5年(1652)の建立です。かつてこの建中寺公園には7つの塔頭(宗心院・甲龍院・誓安院・全順院・正信院・光寿院・養寿院)があった場所ですが、今はその名残を示すものは何も残っていません。

総門脇の寺名石柱
総門

それでは三門へと向かうことにしましょう。堂々とした山門の扉には当然のごとく徳川家の家紋である金色の葵の紋が付されています。慶安5年(1652)に建立されたこの三門は総檜造りの入母屋造で、上層階には釈迦如来と十六羅漢像が安置されています。

三門扉の葵のご紋

三門をくぐり右手へ進むと天明7年(1787)に建立された鐘楼が置かれています。この鐘楼はなんと隣接する建中寺幼稚園の敷地内にあり、すぐそばまで近づくことができませんでした。

鐘楼

そして鐘楼から左へと目を移すと白亜の外壁が妙に目立つ建造物が置かれています。美しい姿のこの建物は非常に新しく見えるのですが、なんと江戸後期の文政11年(1828)に建立された経蔵です。

経蔵

そして境内の中心的存在のご本堂が堂々とした姿で迎えてくれます。名古屋市内では最大の木造建造物だそうで、建立は天明7年(1714)です。

建中寺ご本堂
ご本堂

ご本堂の左手の道を進んでいくと尾張徳川家の霊廟を守る御門へと達するのですが、残念ながら霊廟敷地内に入ることはできません。その敷地には本殿・渡殿・拝殿を一体とした権現造の霊廟と唐門、透塀から構成され、内外ともに華麗で極彩色の装飾が施されているとのことです。是非、機会があれば拝見したいものです。

霊廟ご門
霊廟ご門の葵ご紋

徳川将軍家の菩提寺であるお江戸の寛永寺の霊廟は幕末の上野戦争で焼失し、増上寺の霊廟は昭和20年の東京大空襲で焼失してしまい跡形もありません。徳川家の壮麗な霊廟建築を見るならば日光輪王寺の家光公の霊廟「大猷院」がありますが、尾州名古屋には尾張徳川家の霊廟が戦災にもめげずに残っていることは徳川大好き人間である私にとっては非常にうれしいことです。

豪華絢爛・名古屋城本丸御殿
ただ今、建設中!名古屋城本丸御殿の裏側
徳川御三家筆頭・尾張公の居城「名古屋城」見聞録




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尾張名古屋に鎮座する東照宮~趣を異にする社殿~

2011年11月21日 09時51分06秒 | 地方の歴史散策・名古屋市内
神君家康公生誕の地である三河の地で参拝した東照宮は岡崎と鳳来寺山の二社ですが、それぞれに東照宮特有の権現様式の中に絢爛豪華な彩色を施したものでした。

名古屋東照宮本社殿

三河の地から尾張名古屋へと移動し、まず真っ先に訪れて見たい場所は名古屋のど真ん中に鎮座する東照宮でした。というのも名古屋東照宮は他の東照宮と比較して、その建築様式が大きく異なっているという特徴があるからなのです。そして何よりも徳川御三家筆頭の尾張公のお膝元に鎮座する東照宮には是非とも参拝しなければという思いが強かったからなのです。

名古屋東照宮が鎮座するする場所は、名古屋城の外堀に面した丸の内と呼ばれる行政関係の庁舎が並ぶ一画です。東京でいえばそれこそ外堀通りに面して建つビルの谷間に位置しているような感じです。

東照宮鳥居

そもそも名古屋東照宮は名古屋城内の三の丸に初代尾張藩主・義直公によって元和5年(1619)に創建され、それはそれは絢爛豪華な姿の社殿が置かれていたのですが、明治9年にかつての藩校「明倫堂」があった現在地に移されたと言います。

しかし昭和20年(1945) 5月14日の空襲により、義直以来の本殿、主要建造物を焼失したため、昭和29年(1954) 建中寺より義直の正室春姫(高原院)の御霊屋を移築して本社殿とした経緯があります。このため前述のように、他の東照宮の建築様式と異なる姿になっているのです。

かつての壮麗さは失われているにしても、それなりの規模を持っているのではと思いつつ鳥居をくぐると、境内は思いのほかこじんまりとした佇まいを見せています。江戸時代には藩校「明倫堂」があったといいますが、その面影はまったく残っていません。鳥居をくぐると左手奥に社殿前の唐門が現れます。

東照宮境内
唐門

一見するだけでこれまで見てきた東照宮とは趣を異にした門構えです。まったく彩色されていない門の向こうに、これまた東照宮の常識を覆すような黒々とした装いの本社殿がどっしりとした姿で鎮座しています。

東照宮本社殿

その外観から確かに霊廟の御霊屋を想起させるような造りです。東照宮といえば典型的な権現造りの社殿が特徴なのですが、終戦後のどさくさの中で新たに社殿を造ることができないという理由だったのか、借り物の社殿といった感が否めません。

透塀と燈籠

さらにこれまで見てきた東照宮には夥しい数の石燈籠が整然と並んでいるのですが、ここ名古屋東照宮には僅かな数しかありません。いったいどこへ行ってしまったのでしょうか?

透塀と燈籠

御神体はもちろん神君家康公なのですが、実は名古屋東照宮は江戸時代から名古屋を代表するお祭りの代表格だったようです。いわゆるお江戸の天下祭り(山王権現社と神田明神)と同じように、藩公が認めた格式のある「祭」で、おそらく山車が城内に繰り出すことを許されていたのではないでしょうか。

そんなかつての栄華に思いを巡らせながら、金の鯱を天守に仰ぐ御城へと向かうことにしました。

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