大江戸散策徒然噺 Introducing Japanese culture and history

豊かな歴史に彩られた日本の文化と歴史を紹介

おめでとう!世界遺産認定「富岡製糸場と絹産業遺産群」

2014年07月29日 08時48分10秒 | 地方の歴史散策・群馬県富岡
平成26年(2014)のユネスコ世界遺産委員会で「富岡製糸場」が世界遺産一覧表に記載されました。


さっそく「やじうま根性」丸出しで富岡へ出かけました。
製糸場が世界遺産に認定される前は、きっと静かな、静かな小さな地方都市にすぎなかったのではないかと思うのですが、この小さな町はにわかに賑わいを見せ始めています。

駅からつづく254号線に沿って、これからやってくる観光客のための飲食店やお土産やらしきものが雨後の竹の子のようにできつつあるようです。
とはいっても、ここ富岡の見どころは「製糸工場」がメインで、古い時代を感じさせるような家並みはほとんど残っていないようです。

製糸工場へとつづく道筋は国道254号線からまっすぐに伸びる狭い道を進んでいけば行きつきます。
この狭い道筋もまったく趣はなく、雑然と民家が並んでいるといった感じです。
おそらく今後、再開発が進んでいくのではないでしょうか。
製糸場へとつづく1本道が唯一のアクセルルート(いちばんわかりやすい)のようで、たくさんの観光客がまるで蟻の行進のように、ぞろぞろ、ぞろぞろ列をつくって歩いています。

途中、世界遺産に認定後に急遽、造られたような「交流館」が現れます。交流館は無料で利用でき、休憩所や綺麗なトイレが備わっています。



交流館の軒先には「祝・世界遺産登録」の看板が掲げられています。



さあ!いよいよ製糸場の入口に到着です。かなりの混雑を予想していたのですが、案の定、正門前は多くの観光客でごった返しています。正門を背景に記念撮影を思ったのですが、あまりの人の多さに記念撮影は断念せざるを得ません。

正門を入ると、左手に入場券売り場が置かれています。ツアーの場合は事前にガイドの予約をしているようで、団体専用のラインに並び、出発を待ちます。



個人客の場合は30分おきに開催されるガイドツアーに参加することができま。
もちろんガイドなしで個人的に場内を散策し、見学することも可能です。



この富岡製糸場が完成したのは、維新からわずか5年後の明治5年(1872)に遡ります。
徳川封建社会が崩れ、新しい時代を迎えて当時の日本は欧米列強の進んで技術を積極的に導入し、富国強兵の政策の下に、新しい国造りに邁進していました。



そんな時代において、時の政府が掲げた政策が「殖産興業」なのですが、特に輸出品の要として重要視したのが、生糸の品質向上と大量生産を可能とする器械製糸工場の建設でした。
そしてこの器械製糸工場が日本の工業化の先駆けとなったのです。
工場の建設にはフランスから招かれたポール・ブリュナをはじめとする10名のフランス人たちが携わりました。



そして驚いたことには、この製糸工場はなんと昭和62年(1987)まで操業していたことです。
工場開設からなんと115年間の長きにわたり、絶え間なく生糸の生産が行われていたことに感動すると共に、この趣ある煉瓦造りの建物が今なお、残っていたことに先人の方々の努力に敬意を払わざるを得ません。





趣のある煉瓦造りの建物を愛でながら、場内をゆっくりと散策していると、煉瓦の一つに小さな刻印を見つけました。「ヤマニ」と読むのでしょうか、この煉瓦を焼いた生産者の刻印です。実はこの煉瓦は深谷の「日本煉瓦製造」で焼かれたもののようです。そしてこの「ヤマニ」の「ニ」は日本煉瓦製造の頭文字なのです。そして日本煉瓦製造はあの東京駅の赤煉瓦も造ったようです。





場内を歩いていると、テーブルの上に無料の丸型うちわが置かれています。6種類ほどの図柄のうちわが置かれ、自由に持ち帰ることができます。図柄は世界遺産を祝うようなデザインになっています。



それでは「燥糸場」の建物内部へと入っていきましょう。
予想に反して、建物内は非常に綺麗に保存され、「白色」が目立つ美しい構造です。
天井部分は強度を維持できる「トラス形式」となっており、幾何学的なデザインが建物内部の造りを美しく強調しています。



そして製糸器械は今にも動き出しそうなくらいに、綺麗な状態で保存されています。よく見ると、器械のパーツがプラスチック製のものがあり、確かに昭和の時代まで稼働していたことを窺わせています。



感動を覚えながら、建物の外へ向かいます。製糸工場の敷地はかなり広いのですが、どこへでも入っていけるというものではありません。一応、見学順路がありますので、その表示に従って進んでいきます。

工場部分から裏手の住居棟へと移動していきます。そして美しいシルエットを見せる「寄宿舎棟」が現れます。なぜか懐かしいデザインです。そうです、私たちが子供の頃に通った「小学校」の校舎に似ています。この寄宿舎はここ製糸工場で働いていた「女工さん」たちが寝起きした場所なのです。



その寄宿舎の手前には富岡製糸場をつくったフランス人「ブリュナ」が暮らした立派な屋敷が残っています。



現在、残っている建物内部の見学はかなり限られています。今後、整備が進んでいけば、すべての建物内部の見学も可能になるのではないでしょうか。

ほんのわずかな見学時間でしたが、素晴らしい歴史的建造物を拝見したといった印象です。
そして正門近くで記念撮影です。



最後に場所がらあの有名な駅弁「おぎのやの峠の釜めし」を購入し、富岡を去ることにしました。
ちなみに製糸工場の正門前に「おぎのや」の出店がありますが、個数に限りがあるようで、早い時間の購入をおすすめいたします。





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暴れ川・天竜を渡り家康公ゆかりの浜松城へ

2014年07月08日 11時23分32秒 | 地方の歴史散策・静岡県浜松市
大井川を渡り、駿河の国から遠江国に入り、金谷、日坂、掛川を辿ってまいりました。
いよいよ遠州の暴れ川である天竜川を渡り、浜松宿を目指すことになります。



私たちは池田入口交差点を左折して、唯一歩道のある「新新天竜川橋」を渡ることにします。この「新新天竜川橋」は2006年に開通した橋で、右隣には1965年開通の新天竜川橋、左側の14連トラス橋は天竜川橋で1933年に開通した橋。
「新新天竜川橋」の長さは912m。約1キロ弱ですが、渡りきるまで15分くらい要するはずです。



大井川橋と並んで長い橋として知られる天竜川橋を渡り終えると、かつて天竜川を渡ってきた旅人やこれから天竜川を渡る旅人たちで賑わった「中ノ町」が控えています。
天竜川は江戸時代には舟渡しが行われていた川です。そしてその舟渡しが行われていた場所は現在の天竜川橋から北へ800mほどの所に3か所設けられていました。

ですから旅人達は見付側から天竜の袂につくや、まずは川に沿って北上し渡し場へ行かなければなりませんでした。そして対岸の浜松側につくや、こんどは旧街道へとつながる中ノ町まで川に沿って南下しなければならないという、けっこう面倒くさいことをやっていたのです。

そんな中ノ町はあくまでも川渡しのための町であって、宿場町ではありませんでしたが、むしろ間の宿のような性格をもっていたのではないでしょうか。
今は静かな佇まいを見せる中ノ町ですが、かつては多くの店が並び、旅人達をもてなしていたといいます。



さあ!それでは浜松宿まで8キロ弱の道のりを進んでいきましょう。
天竜を渡り、浜松宿までの道のりはそれほど変化がありません。淡々とした道筋といったところです。

そんな道筋を歩いていると、ところどころで遠望できるのが浜松市内のランドマークであるアクトシティの高層ビルです。



私たちはほんのちょっと前の掛川で山内一豊公ゆかりの「掛川城」を訪れています。掛川城も天守閣が復元されています。ですから天守を持つ城跡はそれほど珍しいというわけではないのです。
とはいえ、せっかくですから浜松城へ登城とまいります。



時は永禄11年(1568)、三河から東進し、今川領の制圧を開始した徳川家康は駿府に攻め込んできた武田信玄の侵攻に備え、遠州一帯を見渡せる三方ヶ原の丘に着目しました。そして天下を盗るためには、まず信玄を倒さなければならないと判断した家康は、元亀元年(1570)に岡崎城を長男の信康に譲り、三方原台地の東南端に浜松城を築城、駿遠経営の拠点としました。

戦国の世が終わり、徳川家康が駿府城に移ったあとの浜松城は、代々の徳川家とゆかりの濃い譜代大名が守りました。歴代城主の中には幕府の要職に登用された者も多いことから、浜松城はのちに「出世城」と呼ばれるようになりました。
明治維新後、城郭は壊され荒廃していましたが、昭和33年、野面積みの旧天守台の上に新天守閣を再建、翌年には浜松市の史跡に指定されました。

予想よりはかなり小ぶりな天守閣です。しかも天守を支える石垣の幅と天守の幅があっていないような造りです。ちょっと天守が右寄りになっているような気がします。どうでもいいのですが……。
天守下の広場からの眺めも期待を裏切るものです。周囲のビルしか見えないという立地であまり趣もありません。
文句ばかり言って申し訳ないのですが、小高い丘の上に築かれた城なのですが、城から眺める景色はあまりにも落胆させられます。

でもせっかくなので天守を背景に記念撮影です。





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遠州 今切の渡と新居宿の関所

2014年07月08日 09時58分27秒 | 地方の歴史散策・静岡県新居
東海道五十三次の旅は2014年6月に遠州・新居宿にたどりつきました。
この日、浜名湖のJR弁天島を出立して、お江戸から数えて31番目の宿場町である「新居」へと向かうことにしました。

雲一つない梅雨の晴れ間が私たちを迎えてくれました。弁天島の駅はちょうど浜名湖が遠州灘と交わる水辺につくられた小さな駅です。私の人生の中でこれまで一度も使ったことがない駅です。
そもそも浜名湖に来たことがないのですから当然のことなのですが、駅を降り立つと若干ながら潮風を肌に感じます。

さあ!ここから対岸というのか、浜名湖を渡って新居へと歩いていきます。

駅前には真新しいリゾートホテルがドーンと聳えています。



駅を出発してものの数百メートルで、浜名湖に架けられた橋が現れます。
「中浜名橋」と名付けられた橋なのですが、なんと歩行者専用の橋が国道1号に寄り添うように架けられています。

この辺りはちょうど浜名湖の水が遠州灘に注ぎ込み、併せて遠州灘の海水が浜名湖に流れ込む場所にようで、水の流れはかなり急です。橋上から水面を見ると、小さな渦がいたるところに巻いています。

そして歩行者専用の橋の右側はJR東海道本線と東海道新幹線の橋が並行して走っています。



新幹線に乗ってこのあたりを通過するときに、車窓から眺めていた場所を今歩いていると思うと不思議な気持ちになります。

中浜名橋を渡りきると、再び国道一号と合流します。合流してから1キロ弱進むと、再び浜名湖を渡る「西浜名橋」にさしかかります。
この「西浜名橋」を渡りると、街道から浜名湖を見ることができません。やや単調な道筋を歩き、弁天島駅からおよそ3キロ地点にJR新居駅の駅舎が現れます。

いよいよ新居宿に到着です。駅舎を過ぎて新居宿の入口辺りにさしかかると、「ようこそ関所と湖の町・湖西市へ」と書かれた大きな看板が私たちを迎えてくれます。



新居宿の入口、すなわち東木戸(江戸の方向に置かれた見附のこと)はないのです。実は江戸時代には舞坂宿からここ新居宿にくるには、否応なしに海上1里をつなぐ今切の渡しを利用しなければならなかったのです。ですから陸路で新居宿に入る方法はなかったのです。

それでは宿の入口はというと、ここ新居宿に置かれた「新居の関所」に隣接した場所に船着き場があり、船を下りると即、関所だったため、この関所が東側の木戸の役割を担っていたわけです。

今切の渡しがない平成の世の中ですので、陸路で新居の宿場へと向かいます。新居の宿場に入る手前に浜名湖の水が遠州灘に流れ込む小さな運河があり、その運河に架けられた「はまな橋」を渡ると、新居の町のメインストリートへと入ってきます。

道筋には街道の宿場を思わせるような、昔風の造りをした商家が姿を現します。なんと消防団の建物も「櫓」風の装いです。新居の関所との景観にむりやり合わせようとしているかのようです。



消防団の「櫓」を過ぎると、街道の右手に比較的大きな広場が現れます。ここがあの有名な「新居の関所」なのですが、その敷地にかつて今切の渡しの舟が付いた波止場跡が復元整備されています。



確かに新居側の船着場は関所に隣接しています。そうであればここが宿場の木戸になりうるわけです。

それでは新井の関所で取り調べを受けることにしましょう。

街道沿いの広い敷地に関所の建物が残っています。



箱根の関所とは趣が異なります。

新居関所は、正式には今切関所といって、慶長5年(1600)に設置されました。創設当初は浜名湖に近い、現在の「大元屋敷」(「JR新居駅周辺」の項参照)と呼ばれる場所にありました。しかし地震や津波などの災害で移転をしいられ、中屋敷(「JR新居駅周辺」の項参照)を経て現在地は3度目の場所です。
そしてこの関所の建物は全国で唯一現存するものです。



関所の建物の中には現存する面番所(めんばんしょ)・書院・下改勝手(したあらためかって)・足軽勝手のほか船会所(ふなかいしょ)・女改長屋・土蔵などがあります。



関所の建物に隣接して「資料館」が併設されています。



ここ新居宿内も他の宿場町と同様にあまり古さを感じないのです。古い家並みが並ぶ宿場町を予想していたのですが、見事に裏切られました。

とはいえ、新居宿のランドマークである「関所」は当時の様子を今に伝え、ほんの少し旅人の気分を味わえます。



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