大江戸散策徒然噺 Introducing Japanese culture and history

豊かな歴史に彩られた日本の文化と歴史を紹介

横須賀軍港の戦艦三笠の雄姿と猿島の要塞を訪ねて

2016年05月10日 15時37分44秒 | 地方の歴史散策・神奈川横須賀市
2016年のGWの締めは横須賀軍港と要塞の島「猿島」探訪の旅を楽しむことにしました。この歳になって横須賀市内をゆっくり巡るのは初めてのこと。ましてや「猿島」に渡るのも初めてのことです。

横須賀といえば自衛隊と米軍の基地の街。それも海軍基地である。(自衛隊の場合は海上自衛隊の基地)
JRの横須賀駅に降りると、駅前の佇まいは基地そのものといった感じである。閑散としたJR横須賀駅前にはお洒落な商店が軒を連ねているわけではありません。

駅前からほんのわずかな距離に海上自衛隊の埠頭があり、護衛艦や潜水艦が目と鼻の先に繋留されています。

護衛艦というより、空母
護衛艦遠望
護衛艦「いずも」
潜水艦

目の前に、空母と見まがうほどの巨大な護衛艦「いずも」が繋留されているではありませんか。世間では事実上の空母と位置付けられている我が自衛隊の「虎の子」。噂に聞いた「いずも」をこんな間近で拝めるとはラッキー。

どういうわけか、目の前に軍艦が現れるとワクワクしてしまうのは私だけでしょうか。幼い頃にお小遣いをためて、戦艦大和や武蔵のプラモデルを何隻も作った記憶が甦ってきます。兵器としての軍艦ですが、その美しい姿に感動してしまいます。

冷めやらぬ感動を胸に、猿島行きの船が発着する「三笠公園」へ向かうことにしました。JR横須賀駅から歩くには距離があるので駅前からバスに乗って三笠公園のそばまで移動します。

三笠公園のそばといっても、バスを下車してからかなり歩きます。公園入口から遊歩道を進んで猿島行の船が発着する埠頭へと向かいます。その途中、米海軍の水兵さんがたくさん歩いてきました。

米海軍の水兵さん

遊歩道が途切れるところが三笠公園の入口です。入口周辺には海軍カレーの看板やお洒落な公衆電話ボックスが目に飛び込んできます。

海軍カレーの看板
お洒落な電話ボックス

三笠公園は戦艦三笠を保存しているので場所のことです。ご存じのように戦艦三笠は帝国海軍時代の戦艦で、日露戦争では連合艦隊旗艦を務め、連合艦隊司令長官の東郷平八郎大将が乗ったことで知られています。

その戦艦三笠がド~ンと真正面に現れるのが三笠公園です。あまりにも有名な戦艦三笠ですが、初めての対面に感動してしまいます。

三笠
三笠
三笠
三笠の船尾

因みに現役当時の三笠の画像を見つけました。

現役当時の三笠

ところで猿島へ渡る船はこの戦艦三笠の脇の波止場から発着しています。そして波止場の向かいに乗船券を発売するブースが置かれています。船は1時間ごとに出発します。少し待つにしても、すぐそばに戦艦三笠があるので、眺めていると時間をつぶすことができます。

猿島行の乗船券

猿島へ渡る船はそれほど大きくはないのですが、双胴船のような格好をしています。

猿島への船

船が波止場を離れると、戦艦三笠が徐々に全体の姿を見せてくれます。船上から眺める三笠の姿はなかなかのものです。

船上からの三笠
船上からの三笠
遠ざかる三笠

波止場から猿島はすぐ近くに見えています。船の旅はわずか10分という、若干物足りなさを感じる距離です。波止場から泳いでも行ける距離です。猿島が徐々に近づいてきます。

船上からみる猿島
猿島の浜辺

さあ!猿島に上陸です。桟橋を渡って島へ。海の香り、汐の香り、海草の香りが出迎えてくれました。と同時にバーベキューの香りも漂ってきます。浜辺ではバーベキューを楽しんでいる人がたくさんいます。

猿島の桟橋

さて猿島ですが、東京湾に浮かぶ無人島です。三笠公園から1.75km沖合に浮かぶ小さな島です。猿島の歴史は幕末の外国船の来航から太平洋戦争の時代まで江戸湾(東京湾)の防衛の拠点として使われてきました。
江戸時代の末期の弘化4年(1847)に幕府により国内初の台場が建設され、明治時代に入ると陸軍省、海軍省の所管となり島全体を要塞化し、猿島砲台が建設されました。

これら施設が実戦として使用されたことはないらしいのですが、島内には岸壁をくり抜いて造った兵舎や弾薬庫が今も残り、要塞島であったことを感じることができます。要するに戦争遺産といったところではないでしょうか。現在島内はかなり綺麗に整備され、遊歩道もほとんど舗装されており、散策には苦になりません。

それでは島内地図を片手に猿島探検に出発することにしましょう。地図を見る限り散策順路はそれほど複雑ではないようです。

島内マップ

散策路は勾配のある坂道から始まります。そしてすぐに切通しのような地形が現れ、道がゆるやかにカーブしていきます。

切通しの道

地肌がそのまま表れています。砂岩が堆積したようで、もろく崩れそうな感じもします。そんな土壌のためか、壁の表面には鋭利なもので書いたと思われる「いたずら書き」がいたるところに見られます。

場所によっては壁全体を石積みで覆い、強固に造られています。石積みがされている部分には洞穴が掘られ、兵舎や弾薬庫として使っていたようです。石積みには苔やシダ類が生えて、長い時の流れを感じさせてくれます。

石積みの道

石積みの道筋の先にトンネルが口をあけてまっています。さすが要塞の島を思わせる光景です。子供のころに陣地造りや要塞ごっこをして遊んだ記憶が甦ります。島全体を要塞化するために、島のいたるところに穴を掘り、トンネルをつくった「兵どもの夢のあと」といった感じです。

トンネル
トンネル入り口
トンネル内部

このトンネルは煉瓦造りです。煉瓦造りのトンネルとしては日本で一番古いもののようです。トンネル内には旧軍の司令部や弾薬庫が造られました。そんな軍事用のトンネルだったのです、平和の世である現在では、このトンネルのことをどういうわけだか、「愛のトンネル」と呼んでいるようです。

トンネルを抜けると、ちょっとした広場が現れ、道筋が三方向に分岐します。その分岐したいずれの方向にトンネルが造られています。
私たちは一つのトンネルを抜けて、島の反対側へと進んでいきます。そして海が見える場所にでると、サークルが現れます。まさに砲台を置いた場所であることが一目瞭然です。

砲台跡

この砲台跡のすぐ脇から岩場へと降りることができる階段があります。この階段を下りていくと岩場と日蓮洞窟が現れます。

日蓮洞窟のある岩場

確かに無人島であることで、要塞は別として島の自然は手つかずのままといった感じです。原生林のような木々が鬱蒼と茂り、海鳥のさえずりが自然を満喫させてくれます。上陸してから1時間もあれば十分に探索できる小さな島です。
満足感を味わいながら、再び船に乗って三笠公園に戻りました。

そして横須賀にきたついでに、是非とも味わいたいグルメとして「横須賀ネイビーバーガー」の有名店である「TSUNAMI」へまっしぐら。お店は横須賀の有名なストリート「どぶいた通り」にあります。

TSUNAMI
ネイビーバーガー

噂通りのボリュームと美味しさに大満足でした。





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護良(もりなが)親王(大塔宮)を祀る「鎌倉宮」と墓所を訪ねる

2016年05月08日 16時27分08秒 | 地方の歴史散策・鎌倉江の島
2016年のGWの後半は賑やかな鶴岡八幡宮を避けて、少し奥まった道筋を辿ることにしました。初夏というより夏本番を思わせる陽気に誘われ多くの観光客が鎌倉を訪れています。

賑やかな鎌倉駅前からバスで「鎌倉宮」へ向かいます。鎌倉宮までバス路線に沿って歩いても1.9kmと苦にならない距離なのですが、強い陽射しのもとでの「徒歩」はあきらめました。あっという間にバスは鎌倉宮に到着です。若宮大路の賑わいとは異なり、静かな雰囲気が漂っています。

鎌倉宮の大鳥居

さて、今回「鎌倉宮」の参詣を選んだ理由は「護良親王(もりなが)」という人物が祀られているからなのですが、実は東海道五十三次の街道筋には護良親王の首塚や首洗い井戸が少なくとも2か所現れます。その一つが戸塚宿に入るちょっと手前に「首洗い井戸」、そして沼津宿に入る手前の黄瀬川の畔にある「智方神社」には「首塚」が置かれています。

そんなことで「護良親王」については東海道を歩きながら、その折々に人物について案内していましたが、親王が壮絶な最後を遂げた鎌倉の地に創建された「鎌倉宮」を訪れたことがなかったのです。今回は護良親王を深く知るための鎌倉訪問です。

それでは「護良親王」について歴史をひも解いてみましょう。
後醍醐天皇の皇子である護良親王は幼い頃から仏門に入り、比叡山延暦寺の天台座主にもなっています。

※天台座主とは
天台宗の総本山である比叡山延暦寺の管主(住職)のことで、天台宗の諸末寺を総監する役職です。「山の座主」とも呼ばれていました。中世以降、摂家門跡、宮門跡の制度が整い、天台三門跡(妙法院・青蓮院・三千院)から法親王が天台座主として就任することが多くなりました。護良親王も天台座主となった法親王の一人です。

時は元弘元年(1331)、後醍醐天皇の鎌倉幕府討幕を目的とした「元弘の乱」が起きます。この時、天台座主であった護良親王は還俗して参戦します。そして足利尊氏新田義貞らの参戦により、元弘3年(1333)に鎌倉幕府は滅亡します。

鎌倉幕府滅亡後、護良親王は尊氏に対して敵意をいだき、自らの兵力を増強していきます。というのも「尊氏はわずかな戦で勝利を得て、万民の上に立ち権勢を得ようとしている。そうであればまだ勢力が小さいうちに尊氏を討っておいた方がよい」という考えがあったようです。

討幕後、京都では尊氏は上洛した武士を集めて京都支配の指揮を強めていきます。一方、護良親王は尊氏の勢力を警戒し、信貴山に拠り尊氏を牽制します。両者の対立を見た後醍醐天皇はその妥協策として、護良親王を征夷大将軍に任命します。

そして討幕後の翌年の1334年に年号が「建武」と定められます。武家政権から天皇親政へと順調に移行するはずだったのですが、新たに発する新令も機能せず、新政権内に混乱が生じ始めます。

護良親王と対立を深める尊氏は後醍醐天皇に「親王は帝位を奪うため諸国の兵を募っている。」と奏聞し、護良親王の令旨を差し出しています。これを聞いた後醍醐天皇は「親王を流罪に処すべし」と拘束し、建武元年(1334)の11月15日に鎌倉へ流され、尊氏の弟である直義に身柄を預けられました。鎌倉に送られた護良親王は二階堂の土牢(現在の鎌倉宮がある場所)に押しこめ、約9か月の幽閉生活を送ることになります。

土牢

時代は鎌倉幕府から新政へと移行していたのですが、旧北条氏の守護国を中心に各地で反乱が勃発していました。そして建武2年(1335)の7月に「中先代の乱」がおこります。この乱は北条高時の遺児である時行が叔父の奏家と共に挙兵し、一時的に鎌倉を占拠したものです。

この時、鎌倉を守っていた足利直義は時行が護良親王を奉じて、新政権に対抗するのではと危惧し、淵辺義博に命じて護良親王を殺害し鎌倉を逃れたのです。

斬首された護良親王の首は理智光寺に葬られたと伝えられ、現在この場所は宮内庁が正式に護良親王の墓と認定した場所です。尚、理智光寺は明治初期に廃寺になっています。

理智光寺跡碑

このように悲運の最期を遂げた護良親王を祀るため、明治2年(1869)に明治天皇が自ら創建したのが「鎌倉宮(大塔宮)」です。我が国の歴史の中で、天皇が自ら創建した神社は鎌倉宮だけです。御祭神はもちろん「護良親王」です。

それでは大鳥居をくぐり境内へと進んでいきましょう。緑濃い裏山を背景にして石段と二の鳥居、そしてその奥に拝殿が控えています。

境内
二の鳥居と拝殿

二の鳥居をくぐると拝殿が現れます。

拝殿

拝殿の右脇には、「南方社」「村上社」の2つ境内社が置かれています。 「南方社」には、護良親王とともに鎌倉に下り、親王に仕えた藤原保藤の娘「南の方」を祀っています。そして「村上社」は「元弘の変」において護良親王の下で戦い、親王の身代わりとなって自刃した村上義光(むらかみよしてる)が祀られています。

村上社前には村上義光の鎧姿の木像が置かれています。この像は「撫で身代わり」と呼ばれ、病気や厄除けの身代わりにご利益があるとされています。尚、この像は平成16年(2004)に置かれたもので新しいものです。

村上義光像

境内の一部は有料拝観エリアのため、拝観料を納めて入場します。拝観料:大人300円

鎌倉宮パンフレット

入口から拝殿横を進んで、本殿の裏手の一画に護良親王が幽閉されていたとされる「土牢」があります。土牢の入口は木の柵が嵌められているので中を見ることができません。

土牢

本殿の裏手は木々が生い茂る森になっています。深閑とした森の中を進んで行くと「御構廟」と書かれた木札が現れます。ここは淵辺義博が護良親王の首を置いて逃げ去った場所と伝えられています。うち捨てられた首は前述の理智光寺の僧によって今はなき理智光寺に葬られたのです。

護良親王は淵辺義博によって斬られる時、義博の刀を噛み折り、死んでも放さなかったことから、恐れをなした義博は首を捨てて逃げ去ったと伝えられています。

御構廟
境内
境内から見る本殿

本日の護良親王を辿る旅はまだ終わっていません。鎌倉宮は護良親王が幽閉され、斬首された場所です。そうであれば親王が眠る墓を詣でて旅が完結します。ということで宮内庁が正式に認める親王の墓へと向かうことにしました。

かつて理智光寺があった場所は鎌倉宮から500mほど歩きます。ただし護良親王の墓への案内板や矢印はありません。理智光寺があった場所にはその跡地を示す「石碑」が置かれています。

理智光寺跡碑

この跡碑が置かれている場所に相対して護良親王の墓への入口があります。玉垣に囲まれた入口を入ると「後醍醐天皇皇子・護良親王墓」と刻まれた石柱が置かれています。

護良親王墓の石柱

さすが宮内庁認定の正式な墓所ということでかなり綺麗に整備されています。墓所といっても平坦な場所ではなさそうで、入口から眺めるとかなりの段数の急峻な石段が山の上にのびています。どれほどの段数があるのか登ってみなければわかりません。

墓所へのびる石段

意を決して、墓所へとつづく石段を登りはじめました。かなり急な石段で、手すりもなく息絶え絶えで一気に登っていきます。石段は木々が生い茂る山の中へとのびています。私たちが訪れた時、ここを訪れている人は誰もいません。雰囲気的にちょっと不思議な感覚を覚える場所のような気がします。一人では来たくない場所です。ましてや暗くなってからはぜったいに来たくない場所です。
穿った見方をすれば、壮絶な最後を遂げた護良親王の怨念が生き続けているような雰囲気を漂わせています。

石段

石段は2段階に分かれて山の上へとのびています。登ってきた石段を数えるとなんと172段もありました。石段を登りきると墓域の入口が現れます。

墓域の入口

墓域の入口の門はかたく閉ざされています。その門の前には誰が置いたのか「供え物」が…。墓の入口の門の向こうには苔むした石段がさらにつづき、ちょうど山頂にあたる場所に十六文の菊の御紋がついた門が見えます。ここが護良親王の墓所です。

護良親王の墓

確かに宮内庁管理の正式な墓といった雰囲気を漂わせています。それほど長居はしたくないので、そそくさと登ってきた石段を下ることにしました。それにしてもGWの最中だというのに、私たち以外に誰も訪れないこの場所はいったい何なのだろう。来てはいけない場所に来てしまったのだろうか?

調べてみると、南北朝の動乱期には護良親王の怨霊による祟りがあったということが「太平記」に記述されているようです。そして現代の世でもこの場所は心霊スポットとして有名な場所のようです。





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世良田東照宮~新田源氏のふる里・徳川氏発祥の地~

2016年05月01日 09時22分22秒 | 地方の歴史散策・群馬県太田市世良田東照宮
かねてより訪れてみたいと考えていた世良田東照宮への参拝を実現しました。神君家康公を祀る東照宮を巡ってきましたが、どういうわけか世良田の東照宮の参拝だけが残っていました。というのも世良田という場所が辺鄙な場所にあることに加え、アクセスの不便さと周辺の観光名所の少なさなどから、重い腰をあげることができませんでした。

世良田東照宮・拝殿

意を決して、GWの休みを利用して世良田東照宮へ行くことにしました。アクセスは浅草から東武伊勢崎線の特急「りょうもう」で太田まで行き、普通列車に乗り換えて世良田駅へと向かいました。浅草から太田まで約1時間20分です。太田から世良田駅まではわずか3駅です。

比較的賑やかな雰囲気の太田を出ると、車窓には田園風景が広がります。そんな風景を眺めていると世良田駅に到着します。予想はしていたのですが、ホームから見る世良田駅の周辺は畑が広がり、駅前には商店街どころか、お店がまったくありません。そして世良田の駅で降りたのは私たちだけという、なんとも寂しいかぎりです。ホームを歩いていると、線路脇に「徳川氏発祥の地」と書かれた木柱が1本置かれています。

線路脇の木柱

「とんでもないところ」に来てしまった! と思いつつ改札に向かうと、無人状態。自動券売機もありません。一応、トイレはあります。

世良田駅舎

さあ!どうしようか? と駅舎の周りを見回すと「無料レンタサイクル」の貸出が駅舎の真ん前にありました。人の気配がまったく感じられないので、営業しているのかどうかわかりません。建物の中に入ると、管理人のおばさんがでてきました。一通りの手続きを済ませ、無事自転車を借りることができました。欲しかった観光案内のパンフットもここで入手できます。

※世良田駅周辺には商店は一軒もありません。ましてや客待ちのタクシーなど期待できません。世良田駅から東照宮までの距離は約1.4kmです。歩いてもさほど苦にならない距離です。

それにしても神君家康公を祀る東照宮を間近に控える駅とは思えない寂しさです。駅前の片隅に薄汚れたイラストマップの看板が置かれているだけです。国宝認定の東照宮ではありませんが、それなりに歴史的意義のある歴史的建造物を保有する土地としては、もう少し観光誘致に力を入れてもいいのではと思うのは私だけでしょうか。

イラストマップ

世良田東照宮へは駅前からつづく道をまっすぐに進んで行きます。途中、それらしい店を探しましたが、コンビニもありません。そうこうするうちに、東照宮が鎮座する「歴史公園」に到着です。

さて、この歴史公園ですがエリアとしては大きく分けて古刹「長楽寺」東照宮の境内の二つから構成されています。長楽寺については後ほど詳しく説明しますが、とりあえずは東照宮境内へと向かうことにします。

境内マップ

東照宮境内へとつづく参道入り口には「東照宮」と刻まれた石柱が置かれています。

東照宮の石柱
東照宮へつづく参道

参道の右側一帯は長楽寺の寺領で、蓮池や渡月橋、三仏堂が置かれています。そんな景色を眺めながら進んで行くと参道はT字路にさしかかります。東照宮はこのT字路を左折します。

御存じのように東照宮は神君家康公を神として祀る社殿のことをいいます。家康公は戦国時代の天文11年(1542)に三河岡崎で生まれ、幼少の頃、8歳から駿河今川氏の下で「人質生活」を送り、永禄3年(1560)の桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討たれるまでの10年間にわたり岡崎を離れ、駿府で生活をしていたのです。

今川の下での人質生活から解放された家康公は、その後三河岡崎へ戻り、三河平定へと乗りだし、戦国乱世の中へ身を投じることになります。しかし若き家康にとって、戦国乱世の中で生き抜くことは至難の業ではありせん。

そんな家康公の足取りを簡単な年表に記してみましょう。

永禄3年(1560)桶狭間の戦いで今川義元が信長に討たれる。家康公は人質から解放される(家康公19歳)
永禄6年(1563)三河一向一揆(家康公23歳)
元亀元年(1570)信長と共に浅井・朝倉を破る(家康公28歳)
元亀3年(1572)三方原の戦いで信玄に大敗する(家康公31歳
天正3年(1575)長篠の戦いで武田勝頼を破る(家康公34歳)
天正10年(1582)武田を駿河から一掃する(家康公41歳)
天正12年(1584)小牧・長久手の戦いで秀吉と戦う(家康公43歳)
天正18年(1590)小田原北条氏攻め(家康公49歳)→江戸へ移封される
慶長5年(1600)関ヶ原の戦い(家康公59歳)
慶長19年(1614)大坂冬の陣(家康公73歳)
元和元年(1615)大坂夏の陣(家康公74歳)
元和2年(1616)家康公死去(家康公75歳)

幾多の危機を乗り越え、関ヶ原の戦いで勝利した家康公は天下人となり、慶長8年(1603)に武家の最高位である征夷大将軍に宣下され、江戸幕府の開幕となるのです。そして260有余年にわたる徳川幕府の開祖となるのですが、慶長10年(1605)にははやばやと将軍職を息子の秀忠公に譲ってしまいます。
その後、家康公は大御所として秀忠公を補佐し、駿府に住まうことになります。そして元和2年(1616)4月17日に家康公は駿府で75年の生涯に幕を下ろしたのです。薨去されたこの年(元和2年)、家康公は久能山に埋葬されるのですが、翌年には東照大権現として日光東照宮に祀られています。

さて家康公を神として祀る東照宮は全国に置かれていますが、そんな中で最も知られているのが日光東照宮、久能山東照宮、鳳来山東照宮、滝山東照宮、仙波東照宮、上野東照宮ではないでしょうか。
これまで上に挙げた東照宮はすべて参拝しました。そして今回、これらの東照宮と肩を並べるほど歴史的意義がある「世良田東照宮」が私の東照宮巡礼の一ページに加わりました。

この歴史的意義とは、ここ世良田に置かれた東照宮社殿が実は二代将軍秀忠公が元和3年(1617)に日光山に初めて創建した東照宮社殿を移したものであるということなのです。それでは何故移したのかというと、三代将軍家光公は敬愛するお爺ちゃんである家康公のために、父である秀忠公が創建した日光東照宮の社殿を解体し、今私たちが見る絢爛豪華な日光東照宮を新たに造営したのです。そして寛永21年(1644)に秀忠公が造営した日光の東照宮社殿を世良田に移築したのでした。

そしてもう一つ、なぜ移築先が世良田だったのかというと、世良田が徳川氏の発祥の地であったことから、世良田の守護神として東照宮を移築したのです。

さらにもう一つ、なぜ世良田が徳川氏の発祥の地なのか、ということで、歴史をひも解いてみることにしましょう。

時は平安時代末期から鎌倉時代初期の頃、上野国に得川義季(とくがわよしすえ)/世良田義季なる武士がいました。この義季こそが清和源氏の新田氏の支流である得川/世良田の始祖と言われている人物です。
この義季が亡くなったのが鎌倉時代の寛元4年(1246)で、その後、頼氏、教氏、家時、満義と続きますが、後に続く政義、親季、有親は南北朝の南朝方として活躍します。
しかし九代目の親氏(ちかうじ)の時代に北朝に攻められ、ここ上野国の得川郷を追われ諸国を巡った後、三河の松平郷に辿りつきました。そこで、親氏は松平郷の郷主であった在原信重に入婿し、松平親氏と名乗ったのです。
この松平親氏が三河松平家の始祖であり、家康公は親氏から数えて7代目にあたります。
家康公は三河を平定した25歳の頃、自らの姓である松平を、始祖・親氏の旧姓である得川にあやかり、「徳川」と名乗ったのです。こういった歴史の流れの中で、世良田、得川、松平、徳川と繋がってくることで、ここ世良田に東照宮が勧請されたわけです。こんなことを頭に思い浮かべながら、世良田東照宮の参拝へ向かうことにします。

東照宮境内の入口に建つのが御黒門(ごくろもん)で、別名「縁結び門」と呼ばれています。

御黒門
御黒門脇

説明板によると、江戸時代には正月と四月の御祭礼日に開かれたといいます。地覆長押(じふくなげし)をまたいで参拝すると良縁が成就すると言われ、「縁結びの門」といわれています。

地覆長押:柱を水平方向につなぐ部材。ここでいう「地覆」とは柱の最下部のことを指します。

御黒門をくぐると広い境内が目の前に広がります。そして黒門をくぐるとすぐ左手に置かれているのが「上番所」です。

上番所

上番所からまっすぐ進んで行くと、世良田東照宮の鳥居が立ち、その奥に拝殿が見えてきます。

東照宮の鳥居と拝殿

私たちはまずは拝殿、正殿への参拝をするため、拝観料を納める社務所へと向かいます。
拝観料は大人一人300円です。拝観料を支払うと「東照宮のご案内」パンフレットをいただけます。

パンフレット

拝殿・正殿への入口はかなり粗末なものです。朱色の門の右手が拝観受付とお守りなどを販売する場所になっています。

入口

それでは拝殿前へと進んで行きましょう。どっしりとした感じの建物で、色合いは全体として少しくすんでいますが、装飾類は他の東照宮と同じように極彩色が施されています。この建物が元々、日光東照宮にあったもので寛永21年(1644)にここに移築されたものです。
ここに移築されて372年もの長い月日が流れています。もちろん国の重要文化財に指定されています。というか、どうして国宝にしていされないのか不思議です。

拝殿
拝殿
拝殿
拝殿
拝殿内部

そして拝殿脇から回り込み、拝殿背後にある本殿へと進みます。本殿手前には透塀を両翼にもつ「唐門」が控えています。この唐門も日光東照宮から移築されたものです。

唐門
唐門と石燈籠

それでは唐門をくぐり本殿前へ進み、神君家康公にお詣りします。

本殿
本殿

本殿を辞して、境内を歩くと二葉葵の葉が茂っていました。ちなみに葵の葉は二葉が通常で、徳川家の家紋である「三つ葉葵」はあまり見ることがなく、変異であるといいます。ようするに四葉のクロバーみないなものなのでしょう。それにしても葵の葉をまじまじと見ることがなかったのでかなり感動です。



拝殿・本殿のエリアにはGWというのに我々以外に訪れる人はなく、ほとんど貸切状態の独り占めです。日光や久能山の東照宮はGWの今日はさぞや多くの人が訪れているのではと思いつつ、世良田東照宮の静かな佇まいに安らぎを感じたひとときです。

これでもかという位に、神君家康公とのふれあいを楽しみ、拝殿、本殿を辞することにしました。出口の脇にひときわ大きな燈籠が一基置かれています。石製ではなく鉄製の燈籠で、家康公が亡くなった翌年の元和4年(1618)に造られたものです。高さ5mを誇ります。

鉄燈籠
鉄燈籠

心ゆくまで堪能し、少し疲れたので境内隅におかれた無料休憩所で一休み。休憩所のおばちゃんが親切にもお茶を入れてくれました。
休憩後、東照宮の敷地に隣接した「長楽寺」へと向かうことにしました。

さて、長楽寺ですがその縁起はあの徳川の始祖である得川(世良田)義季が創建したと伝えられています。創建は承久3年(1221)で、東国で最初の禅寺であったといいます。
家康公が江戸に移封された天正18年(1590)年以降、徳川家祖先の寺院として重視し、そのあげくにはあの天海僧正を長楽寺の住職に任じ、さらにはそれまで臨済宗であったものを天台宗に改宗させてしまっています。

寛永17年(1640)に天海僧正は三代家光公に元和時代に造営した日光東照宮の旧奥社拝殿、唐門を世良田の長楽寺境内に移築することを願いでます。そして寛永21年(1644)に世良田に遷宮されたのです。
これにより長楽寺は東照宮別当として世良田東照宮を管理したのです。しかし明治の神仏分離で長楽寺と東照宮が分離し、東照宮は郷社格となります。

尚、幕閣のブレーンの一人であった天海僧正の力は絶大で、最盛期には末寺700の大寺院に成長しました。現在の長楽寺はかつての壮大な姿からは想像がつかないほど「凋落」し、江戸時代から残る遺構は勅使門(赤門)、三仏堂、太鼓門、開山堂などわずかな建造物です。

まずは長楽寺の総門とは別に置かれた「勅使門」へと向かうことにします。

勅使門(赤門)

この勅使門の築年代は不明ですが、おそらく寛永年間に遡るといわれています。勅使門といわれるくらいで、朝廷からの勅使がこられたときに使われるもので、別名「あかずの門」とも呼ばれています。

この勅使門の裏手に蓮池渡月橋があります。これらは鎌倉時代の遺構と伝えられています。蓮池は「心」という字を形作り、別名「心字池」とも呼ばれています。

渡月橋
心字池

渡月橋を渡ると、立派な三仏堂が姿を表します。この三仏堂は江戸時代の建造物です。堂内には阿弥陀如来、釈迦如来、弥勒菩薩の三体が鎮座しています。三仏堂は県の重要文化財です。

三仏堂

三仏堂の脇から見えるのが太鼓門です。

太鼓門

築年代は江戸時代の初期と推定されています。楼上には太鼓がかけられ、時を知らせたり、合図に使われていたそうです。この太鼓門も県の重要文化財に指定されています。

太鼓門

太鼓門をくぐると木々が茂る森の中へと入っていきます。長い参道を進むと右手に「新田氏累代の墓」の供養塔が置かれています。

新田氏累代の墓

さらに進んでいくと小さな門が現れ、その奥にお堂が置かれています。このお堂は開山堂です。長楽寺の開山臨済僧・栄朝をまつる堂で堂内には栄朝の塑像が安置されています。

開山堂の門
開山堂

最後に長楽寺境内の文殊山得川(世良田)義季累代の墓がある場所へいってみました。
墓域の入口には「徳川義季累代の墓」と刻まれた石柱が一基置かれ、石段がつづいています。墓域には16基の宝塔(かなり崩れている)が整然と並んでいます。この中に徳川の始祖である義季の墓があるというが、定かではありません。

徳川義季累代の墓
墓域へとつづく石段
墓域俯瞰

念願の世良田東照宮を含む歴史公園の見学を終え、世良田地区の別の場所へ移動することにします。





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