大江戸散策徒然噺 Introducing Japanese culture and history

豊かな歴史に彩られた日本の文化と歴史を紹介

新緑の靖国の杜で「零戦」の雄姿に対面

2012年04月26日 13時02分35秒 | 千代田区・歴史散策
北の丸界隈の散策のあと、新緑に包まれる靖国へ詣でることにしました。大鳥居から本社殿へとつながる参道脇のイチョウの並木は初夏を告げる美しい緑の若葉を纏っています。

青銅大鳥居

いつもながら参道脇の駐車場は東京見物の大型バスでいっぱいになっていました。そんな光景を見ながら第二鳥居の手前左右に立つ大燈籠へと進んでいきます。

これまで何度となく靖国へは訪れているのですが、この大燈籠をつぶさに見ることなく通りすぎていました。よく見ると、基壇部分に見事なレリーフがはめ込まれています。

大燈籠は本社殿に向かって左右に置かれていますが、右側の燈籠基壇には我が大日本帝国海軍が活躍した日清戦争から満州事変までの間の戦闘場面、左側の燈籠基壇には陸軍の戦闘場面を描いたレリーフがはめ込まれています。

終戦直後にGHQによって撤去されそうになったのですが、レリーフを隠す工事を施して逃れることができたといいます。それもそのはずで描かれている場面は我が帝国海軍と陸軍が勝利を収めた戦闘場面ばかりですから、GHQも見過ごすわけにはいかなかったのでしょう。

そんなレリーフの中から右側の帝国海軍の名場面を2枚ご紹介しましょう。一枚目は日露戦争のときの日本海海戦・戦艦三笠艦橋の東郷元帥閣下と二枚目が同じく日露戦争のときの第二回旅順口閉塞の広瀬中佐の場面です。

戦艦三笠艦橋の東郷元帥閣下
旅順口閉塞の広瀬中佐

NHKのドラマ「坂の上の雲」の中でも印象に残ったロシアバルチック艦隊を殲滅した日本海海戦の東郷元帥と旅順口閉塞作戦で戦死された広瀬中佐の場面が蘇ってきました。

のぼってゆく坂の上の青い天にもし一朶(いちだ)の白い雲がかがやいているとすれば、 それのみをみつめて坂をのぼってゆくであろう。とたとえた名文がふと頭によぎった瞬間でした。

神門

神門をくぐり本社殿で参拝を済ませ、参集殿脇の遊就館へ向かいます。遊就館はこれまでに何度も入館し、我が国の戦争の歴史をつぶさに見させていただいております。そんな遊就館の展示物を見るにつけ、唯一心が痛むのが先の大戦に関わる展示物なのです。

坂の上の雲の一朶(いちだ)の白い雲を追い求め、欧米列強と肩を並べることができた我が国日本が亜細亜の雄に駆け上がった時から、その優秀さをうとんじられ、その結果としてやむにやまれず開戦せざるを得なかった先の大戦の展示は涙なくしては見ることができません。

戦争を美化する気持ちはもうとうありませんが、当時の方々が祖国日本を守るために選択せざるを得なかった「戦争」を知る上で、是非ご覧いただきたいのが「遊就館」です。

零戦
零戦
零戦

その遊就館のロビーに展示されているのが日本帝国海軍が誇った名機「零戦」です。戦争を知らない世代である「私」ですが、零戦を見るにつけ、極限までに無駄をそぎおとしたその美しいフォルムの中に、向かうところ敵なしと謳われた零戦の性能の良さを感じることができます。こんな優れた名機を持ちながら……、と思うのは私だけでしょうか?

蒸気機関車(C56型31号)

さらにロビーには昭和18年にタイ(泰)とビルマ(緬)を結んだ泰緬鉄道の開通式に参加した蒸気機関車(C56型31号)が展示されています。

※遊就館
開館時間:09:00~17:00
休館日:原則として年中無休
拝観料:大人800円・大学生500円・高校/中学生300円・小学生100円

日本の心・九段靖国の杜の桜
新緑の江戸城・田安門と清水門を訪ねて~江戸城・北の丸界隈~
大江戸桜だより・靖国の杜の桜(4月6日現在)
新緑の靖国の杜で「零戦」の雄姿に対面




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新緑の江戸城・田安門と清水門を訪ねて~江戸城・北の丸界隈~

2012年04月26日 11時43分29秒 | 千代田区・歴史散策
仕事で九段下に立ち寄る機会があり、久しぶりに新緑の北の丸界隈を散策してみました。季節は一気に初夏へと移ろい、木々の若葉が陽射しに映えてキラキラと輝いています。ゴールデンウィークが間近に迫る今日、汗ばむ陽気の中で九段下からなだらかな坂を登り、まずは牛ケ淵(濠)を望む田安門へと向かうことにしました。

高燈籠

坂を登りきり、田安門の前を通過すると靖国通り脇に立つのが「高燈籠」です。この高燈籠は靖国神社が所有するものですが、創建は明治3年に遡ります。そもそもの役割は夜間照明のためのもので、常夜灯若しくは灯明台とも呼ばれ、当寺は品川沖を航行する船舶の目標ともなっていたものです。

明治初期に建造されたものなのですが、西洋風に方位盤や風見が付けられているにもかかわらず、日本的な燈籠の趣きも感じられる独特な風情を醸し出しています。

「高燈籠」をあとにして、いよいよ北の丸の入口に構える「田安門」へと向かいます。牛ケ淵に架かる橋を渡ると前方に高麗門が見えてきます。どっしりとした風格のあるこの門は現在、国指定重要文化財に指定されています。

田安門の高麗門

御門の造りは典型的な枡形門を表しています。創建は寛永13年(1636)といいますから三代将軍家光公の御世に遡ります。

田安門の名の由来は、当寺門内には田安台という百姓地があり、その敷地で田安大明神が祀られていたためその門名にしたといわれています。江戸城造営後は北丸と呼ばれ、代官屋敷や大奥に仕えた女性の隠遁所となりました。有名な千姫や春日局、家康の側室で水戸頼房の准母英勝院の屋敷などもこの敷地内にありました。

その後、享保15年(1730)に八代将軍吉宗の第二子宗武が御三卿の一つである田安家を興し、ここに屋敷を構えました。現在の北の丸公園のほぼ西側半分が田安家、そしてもう一つの御三卿である清水家が東側半分を占めていました。

田安門の渡櫓

高麗門をくぐると枡形の広場が現れ、高麗門とほぼ直角に渡櫓が構えています。堂々とした造りの渡櫓は現在江戸城に残る大手門の渡櫓に匹敵するほどの威容を誇っています。

田安門脇の狛犬

この渡櫓を抜けすぐ左手に一対の狛犬が鎮座しています。その狛犬が護る先へ石段が続いています。以前からこの石段の先には何があるのか疑問に思っていたので、ゆっくりと上っていきました。

石段を登りきると、やや広い方形の敷地が現れ、その敷地の中央に四本柱の四方吹き放ちの拝殿とその奥に御社殿らしき建物が一つ置かれています。

弥生廟の拝殿と社殿

実はこの社殿らしきものは「弥生廟」と呼ばれ、警察官・消防官の殉職者を祀るために置かれているものです。そうであればこれは神社なのかというとそうではないらしいのです。

弥生廟

そもそも弥生廟は明治18年(1885)、当時、本郷区(現、文京区)向ヶ岡弥生町にあった警視総監の邸内に弥生神社としてあったそうですが、昭和22年(1947)に現在地に移り、その時に「弥生廟」と名を改めたとあります。

なぜ神社から廟へと名を改めたかというと、終戦後の昭和20年12月にGHQよりのお達しで「国家神道、神社神道ニ対スル政府ノ保証、支援、保全、監督並ニ弘布ノ廃止ニ関スル件」すなわち「神道指令」により、警視庁による神社管理ができなくなったためでした。

このことは靖国神社の現在の境遇と似ているように思えますが、いずれも占領軍であったGHQによる神社神道の国家護持の廃止に伴う理不尽きわまる措置のように思えます。

昭和天皇御野立所碑

そして弥生廟の傍らに立つのが「昭和天皇御野立所」の石碑です。この碑の由来は実は先の関東大震災(大正12年)後の昭和5年3月26日に震災復興を祝う式典が皇居前広場で天皇陛下のご臨席のもと、挙行されたのですが、これに先立ち3月24日に陛下は東京下町の復興状況を約5時間にわたり視察されました。その第一歩を刻んだのがこの田安門脇の高台だあったことで、ここに「御野立所記念碑」が立てられました。

思えば、現天皇陛下もご高齢、ご病弱をおして精力的に東北の震災地を巡っておられるお姿を拝見するに、父君であられる昭和天皇も関東大震災の被害に心を痛めておられたご様子を伺い知ることができました。

北の丸の田安門に行かれる機会がございましたら、是非「弥生廟」の参拝と併せ、昭和天皇御野立所に立ち寄っていただくことをお勧めいたします。

田安門をあとに若葉の新緑が眩しい北の丸公園を散策しながら、清水門へと向かいます。北の丸公園からは向かうと清水門の渡櫓は幅の広い階段を下った場所に位置しています。

石段上から眺める清水門

創建は寛永元年(1624)といいますから、家光公が征夷大将軍になった年です。門名については,その昔この辺りに清水が湧き出ていたからとか、また古くはこの辺りに清水寺があったことから、清水門と呼んだと伝えられています。この門も国の重要文化財に指定されています。

清水門の渡櫓
石段下から眺める渡櫓

宝暦9年(1759)に9代将軍家重公の第二子重好に一家を創立させた際に、屋敷地の入口である清水門にちなんで清水家と称しました。また幕末の文久3年(1863)の本丸炎上の時には、14代将軍家茂公とその夫人和宮様(静寛院宮)は一時清水家の屋敷に移っていたといわれています。

清水門渡櫓

歴史を感じさせるような石段を下りると重厚感を漂わす渡櫓が構えています。この門の造りも典型的な枡形門で、外敵を容易に進入させない頑強さを伺い知ることができます。

清水門の高麗門と渡櫓

皇居周辺の他の御門に比べると、その立地からなのかそれほど目立った存在ではないのですが、なにやら人知れずひっそりと構えるその佇まいと門をくぐって現れる石段の古さは当時の名残りを色濃くのこしている貴重な存在のように思えます。

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お江戸墨堤花の雲~春爛漫の隅田川堤~

2012年04月09日 14時50分32秒 | 墨田区・歴史散策
観音の甍みやりつ花の雲

俳聖芭蕉が隅田川の対岸に咲き誇る満開の桜越しに浅草観音の甍を眺めている様子を詠ったものです。
江戸時代は浅草観音の対岸である向島の墨堤から浅草観音のお堂の屋根がおそらく見えていたのでしょう。

先週末からつづく最良のお日和でほぼ満開となったお江戸の桜は、どこもたいそうな花見客で賑わっています。今日9日(月)は初夏を思わせる陽気となり、平日にもかかわらず桜の名所は花見の観光客でごった返しています。

墨田区側墨堤の桜
桜とスカイツリー

とりわけお江戸の桜の最大の名所の一つ、墨堤(隅田川)の桜は今を盛りに咲き誇っています。本格的な春の訪れを告げる桜の開花は日本文化を象徴するもので、上品な淡い彩りの花弁がまるで花の雲のように木全体を纏う姿は風雅、風流、風情を重んずる日本人にはまさにぴったりです。

墨田区側墨堤の桜

墨堤の桜は川を挟んで台東区側と墨田区側の両方に広がっていますが、個人的には墨田区側の堤を歩くことが好きなのです。というのも墨田区側は堤に沿って一直線に桜の木が植えられ、それこそ桜の花のトンネルを歩いているかのような楽しみ方ができるからです。

青空を背景に花の雲
墨堤桜並木
墨堤桜並木
墨堤桜並木

また、堤に沿って牛嶋神社、三囲神社、弘福寺、長命寺などの古社、古刹が現れ境内の桜も併せて楽しむことができます。そして花見の時期には欠かせない長命寺の桜もち、言問団子の老舗の味も同時に楽しめるのが隅田区側の花見なのです。

弘福寺側の桜
常夜灯と桜
墨堤の桜並木
長命寺桜もちの店脇の桜

そして向島の花街も近いことから、墨田区側には向島の可愛らしい芸姑さんがいる茶店まであるんです。つい誘われて「きびだんごとお茶」のセット(500円)を注文してしまいました。

茶店の芸姑さん
茶店のきびだんご
対岸台東区側の桜堤

咲き誇る桜から散り行く桜へとほんのわずかな花の生涯を惜しむように、今日そして明日が満開の桜の見納めになるのではないでしょうか。

お江戸墨堤・三囲神社は三井越後屋の守護神を祀る
お江戸・墨堤三囲の神~三越三井グループのご守神を祀る~【墨堤・向島三囲神社】
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復元進む東京駅丸の内駅舎

2012年04月05日 22時39分58秒 | 千代田区・歴史散策
これほどまでの大掛かりな復元工事が行われていたことをご存知でしたか? いつから始まったのかすら覚えていません。というのも常にこの場所は防音壁と足場が組まれ、いったい何の工事をしているのかそれほど気にもしていなかったのが本音なのです。

復元中の東京駅

そんな無頓着な私の目にとまったのが、先日見た新聞のコラムの見出しでした。
「JR東京 :67年ぶり創建時の姿 …赤レンガの丸の内駅舎」(毎日新聞)

 赤レンガで親しまれたJR東京駅丸の内駅舎の外観復元工事がほぼ完成した。1945年の空襲で焼失した3階とドーム部分が復活。1日までに足場や工事用シートの大部分が除去され、67年ぶりに創建当時の姿がよみがえった。
 同駅舎は924万個のレンガを使って1914年に完成。空襲の2年後に修復工事をしたが、焼失部分は復元せず2階建てのままだった。80年代に復元機運が高まり、07年から焼失以前の姿に戻す工事を進めていた。
 復元後の駅舎は、東日本大震災で被災した宮城・雄勝産の天然スレートを南北ドームなどに使用。尖塔(せんとう)部を含めた高さは46.1メートル、床面積は復元前の約2.2倍の4万3000平方メートルに拡大された。
 今後は内部の工事が進み、6月には現在の仮改札が正規の改札として本格的に使用できるほか、みどりの窓口などが営業を始める。さらに10月には駅舎内の「東京ステーションホテル」も営業を再開する。

こんな記事を見て、恥づかしながらあの工事内容を初めて認識した次第です。工事用シートが外されたと聞いて、野次馬根性丸出しで東京駅丸の内へと出かけてみました。

東京駅南口側駅舎部分

復元工事は継続中で駅舎の下部は防音壁で囲われているため、全容は見ることはできません。しかし、駅舎の上部を見ると、60数年前にあったドーム状の屋根が蘇っています。

駅舎中央部分

赤レンガの駅舎は以前に比べ、やや明るさを取り戻したかのように思えます。それにもまして、スレート葺きのドーム屋根のエキゾチックな雰囲気はまるでヨーロッパの歴史建造物を見ているような錯覚に陥ります。

駅舎中央部分

赤レンガの駅舎の背後には八重洲の高層ビルが借景のように聳え、新旧の絶妙な建築美を楽しむことができます。

赤レンガ駅舎と高層ビル

個人的な希望ですが、完成の暁には丸ビル側の歩道にヨーロッパ的なカフェテラスなんかを作って、そこでお茶などを楽しめるなんていかがでしょうか?




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春爛漫のお江戸日本橋界隈

2012年04月05日 19時01分44秒 | 中央区・歴史散策
一昨日の春の嵐が過ぎ、お江戸はいよいよ春爛漫の季節を迎えています。お江戸といえば日本橋。暖かい春の陽射しに誘われて、まずは日本橋の袂の桜を愛でに行きました。

日本橋袂の桜
日本橋袂の桜
日本橋乙姫広場から
日本橋元標広場から

くっきりと晴れ上がった空の下、日本橋交番前の桜は見事に満開の状態です。交番側の橋袂からは、この時期だけ運航する「花見クルーズ」の船が繋留されています。

日本橋川に浮かぶクルーズ船

ちなみに運航日は6日(金)、9日(月)、10日(火)、11日(水)、12日(木)、13日(金)
出航時間は10:30 12:00 13:15 14:30
乗船料:大人2000円 子供1000円 未就学児童は大人一名につき一名無料
運航コース:日本橋~隅田川~深川~日本橋(川沿いの桜とスカイツリー遠望) 所要時間60分
※各便先着40名
※飲食持ち込みOK(ドリンク船内販売あり)
※尚、4月12日(木)、13日(金)にはこの2日間限定の夜桜リバークルーズが運航されます。
出航時間は18:00、19:00
乗船料:大人1500円
運航コース:日本橋~隅田川~深川~日本橋

お問合せ: 03-5679-7311
www.ss3.jp

日本橋の袂から三越側へと歩き、三越と中央三井信託銀行の間の江戸桜通りへと向かいます。江戸桜通りというくらいなので、もちろん桜の並木が続いています。ちょうど三越の陰となる通りなので日当たりが悪く、染井吉野の桜の花はまだ見頃ではありません。

江戸桜通り
江戸桜通りの桜

しかし江戸桜通りを進んで日本銀行本店へとさしかかると、桜の花はちょうど見頃となっています。

日本銀行本店前の桜
日本銀行本店前の桜
日本銀行本店前の桜

明日6日、そして7日、8日と天候も恵まれそうです。また7日(土)と8日(日)は日本橋の袂で「桜祭り」が行われます。春爛漫のひと時を日本橋界隈で過ごされてみてはいかがでしょうか?





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尾張城下に残る古い町並み~四間道町並み保存~

2012年04月02日 16時41分35秒 | 地方の歴史散策・名古屋市内
地方都市には歴史を刻む古い町並み空間が残っていることはそれほど珍しいことではないのですが、東京をはじめ大都会であれば例外なく戦災被害を受け、貴重な歴史的な町並みは悉く焼失してしまっていることが多いのです。

そんな東海の大都市・名古屋の中心部には江戸時代に整備された町並みの佇まいが周辺に林立する高層ビルの谷あいに埋もれるように残っているではありませんか。

その町並みは「四間道(しけみち)」と呼ばれる場所で、名古屋駅から地下鉄「桜通線」に乗って一つ目の「国際センター駅」で降りてすぐの場所です。

四間道道標

四間道とは道幅が四間(約7m)あることから名付けられているのですが、すぐそばを流れる「堀川」と平行してはしる全長300m足らずの区間に石垣の上に建てられた白壁造りの土蔵や格子入りの入り口や格子がはめられた開口部を持つ二階建ての家並みが続いています。

土蔵造りの町並み
土蔵造り

四間道の成立は、城下町の建設が始まる慶長15年以降に堀川の掘削により城下への物資の運搬が盛んになるにつれ、この場所に米穀、味噌、塩、酒、薪炭及び加工製品を中心とする商品を扱う商人が集まり町を形成したことに始まります。言いかえればある種、河岸(かし)のような賑わいが想像できます。

白壁の土蔵

そして17 世紀後半になると、四間道西側の百姓地の市街化が進み、河岸地には、堀川 に面する各屋敷の境界線を延長する形で蔵が並びはじめ、現在の四間道周辺の町並みが形成されたのです。

四間道は、元禄 13 年(1700 年)の大火の後、防火を目的に整備され、道幅を 4間(約 7m)とし、道の東側は一段と盛土で高くし、石垣の上に土蔵を連続させたと言われています。火除け地ならぬ防火用の壁として土蔵を並べたわけです。確かに、現在見る土蔵には土台部分に石垣がしっかり残っています。

堀川に沿って並ぶ一部の土蔵は飲食店として利用されています。土蔵が並ぶ道を隔てて、格子造りの町家が四間道に彩りを添えています。

格子造りの町屋
屋根神様の小さな社

JR名古屋駅からさほど離れていない場所に、歴史に彩られた町並みが残っていることは驚きでもあり、羨ましく思う次第です。




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都会に残る自然に包まれた名刹八事山「興正寺」

2012年04月01日 13時17分20秒 | 地方の歴史散策・名古屋市内
久しぶりに尾張名古屋の名刹探しに出かけることにしました。
名古屋市街地から車で20分ほどの距離に、木々に覆われ自然豊かな「八事(やごと)」があります。この八事に尾張徳川家の祈願所として隆盛を誇った真言宗の名刹「興正寺」の伽藍が静かに佇んでいます。



尾張徳川家の祈願所になったは江戸時代の初期、貞享五年(1688)に尾張藩主二代光友公の頃に八事山遍照院興正律寺の寺号を賜りました。その後、三百有余年の歴史を刻み、現在は高野山真言宗の別格本山として八事山興正寺と称し、尾張高野の名でも親しまれています。

国道153号線に面して参道が境内へと延びています。参道を進むと、前方に歴史を感じさせる「中門」が構えています。かつては女人門と呼ばれ、修業の場であった東山と西山の境に建っていたものです。八事山は東西に分けられた二つのエリアから構成され、かつては東部が女人禁制の場で現在でも「女人禁制」と刻まれた石柱がいたるところに置かれています。

参道から見る中門と五重塔
興正寺中門
女人禁制の石柱

この中門をくぐると、興正寺のシンボルとも言える五重塔が姿を現します。建立は古く江戸時代の文化五年(1808)に遡ります。スラリと伸びた五層の塔は30mの高さを誇り、緩やかな曲線を描く屋根の反りが日本の塔の典型的な美しさを伝えています。東海三県下唯一の木造の五重塔で国の重要文化財に指定されています。

五重塔
五重塔

中門、五重塔を直線で結んだ先に構えるのが当寺のご本尊である「阿弥陀如来」を祀る「西山本堂」です。

西山本堂

西山本堂の裏手には当寺自慢の美しい庭園「普門園」が広がっています。庭の中央には大きな水盤が配され、庭を囲むように建つ歴史的建造物が回廊で結ばれています。庭の背後の緑豊かな竹林が白砂の庭に美しく映えています。

庭園「普門園」
庭園「普門園」

本堂の右手に小高い丘の上に置かれている宝塔様式の建造物は「圓照堂」です。この圓照堂の脇にかつて女人禁制の東山に置かれた「奥の院」へと通じる細い参道が墓地の間を縫って続いています。参道に沿って夥しい宝篋印塔が並んでいます。

圓照堂
奥の院への入口
奥の院への参道

参道を抜けると、ハ事山では一番高い位置に置かれた大日堂が石段の上に現れます。それほど威厳を感じるお堂ではないのですが、堂内には元禄十年(1697)に二代藩主光友公が母の供養のために鋳造させた高さ3.6m、重さ20トンの大日如来が安置されています。

大日堂

奥の院からの帰路、東山の中腹から、西山の伽藍群の甍が眼下に広がる様子を見ることができました。

東山中腹からの眺め

尾張徳川家の菩提寺ではないにしろ、徳川家の祈願寺としての寺格と高野山別格本山の格式の高さを実感できたひとときでした。




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