大江戸散策徒然噺 Introducing Japanese culture and history

豊かな歴史に彩られた日本の文化と歴史を紹介

木曽路十五宿街道めぐり (其の八) 藪原~宮ノ越

2015年08月17日 08時50分21秒 | 木曽路十五宿街道めぐり
木曽路十五宿街道めぐりの其の一から其の七までの区間では塩尻を起点として洗馬、本山、贄川、漆器の町「平沢」を経て、美しい町並みの残る「奈良井宿」そして鳥居峠を越えて藪原宿へやってきました。

薮原宿は江戸日本橋から35番目の宿場で、天保14年(1843)には人口1493人、家数266軒、本陣1、脇本陣1、旅籠10軒の規模です。中山道の中心に位置する藪原宿は江戸時代からミネバリの木で作られた「お六櫛」の生産で栄えていました。

しかし現在の宿内は静かな佇まいを見せてはいるのですが、期待するほどの宿場の風情はなく、街道沿いには「お六櫛」を扱う店を含めてわずか数軒ばかりが古そうな店構えを見せています。

かつて高札場が置かれた場所から、ほんの僅かな距離にJR藪原駅があります。いかにも田舎の駅舎といった可愛らしい駅ですが、この駅は無人駅ではありません。そして駅前には比較的大きな駐車場が併設されていますが、それほど多くの車は駐車していません。この駐車場が満車になることがあるのかと思いたくなるくらいに、長閑な空気が流れている駅前です。
もちろん商店街などありません。

藪原駅前

駅舎のある広場から見上げる場所にあるのが、「道の駅きそむら」です。「其の八」の出発地点はここ「道の駅きそむら」です。

そんな「道の駅きそむら」の標高はなんと936mもあります。前回は標高1197mの鳥居峠を越え、坂道を下って、下って下界に降りてきたように思えたのですが、まだ標高が936mもあることに、さすが木曽路という思いを改めて感じる瞬間です。



さあ!いよいよ第2回の木曽路街道めぐりが始まります。第2回はここ「道の駅きそむら」の駐車場が第一日目の起点です。
ここから木曽の山間を辿り、36番目の宮ノ越宿を経て、原野駅近くの「道の駅・日義木曽駒」までの11キロが本日の行程です。それでは「道の駅きそむら」の前を走る国道19号線に沿って進んでまいりましょう。
道筋は緩やかな下り坂から始まります。藪原宿内からは木曽の山並みは少し遠ざかっていましたが、国道19号を歩き始めると山並みが迫ってきます。



19号線の右側には中央本線の線路が走り、その向こうには奈良井川に代わり、木曽川の流れが現れてきます。
第1回の行程では街道に沿って奈良井川が付かず離れず流れていたのですが、これからは木曽川を友に街道歩きを楽しんでいくことになります。緩やかな下り坂を進んで1キロほど進むと、標高は917mとなります。



1キロ地点を過ぎると国道19号は緑濃い木々がうっそうと茂る山並みが迫る谷間へと入ってきます。
木曽川の早い流れが国道19号のすぐ右手に迫ってきます。歩き始めて1キロあたりまでは中央本線の線路が見えていたのですが、途中でトンネルに入ってしまっているので、線路は見えません。
1.5キロ地点の標高は更に下がって899mです。山間を縫うようにして走る国道19号線1.5キロ地点を過ぎると、緩やかに右手へカーブをきって木曽川に架かる橋を渡ります。

道筋は比較的新しく整備されたようです。橋を渡ると国道の右側の崖側に大きなレリーフが嵌めこまれています。
見上げるほどの大きさなので、何が彫られているのがすぐには分からないのですが、よく見ると大きな松の木が左手に置かれ、右半分には馬と人物が描かれています。レリーフの題は中山道の鳥居峠を越える様子を描いているようです。



私たちはすでに鳥居峠を越えてこの場所に来ているので、かなりの難所であることは実感としてわかっていますが、現代の東下りの旅人たちは、この先に難所が待ち構えていることをこのレリーフを見て心の準備をするのではないでしょうか。

レリーフを過ぎると、19号線は今度は緩やかに左手にカーブをきって進んで行きます。



カーブを曲がりきると、久し振りに信号交差点が現れます。菅(すげ)の交差点です。
菅交差点はT字路になっていますが、私たちはそのまま国道19号線に沿って進んで行きます。
菅交差点を過ぎると、まもなく歩き始めて2キロ地点にさしかかります。そしてこの辺りの標高は少し上がって909mに達します。



菅(すげ)交差点から少し行くと、前方にトンネルの入り口が現れます。
トンネルの中を歩くのか、と思って近づいてみると、トンネルにはトンネルの外側を歩けるように歩行者専用の側道が付けられ、外の景色を眺めながら歩くことができます。

一応、トンネルには名前が付いており、トンネル入り口には「吉田洞門」の銘板が嵌めこまれています。

吉田洞門

旧中山道はかつてはこの吉田洞門の上を辿っていたようです。現在は閉鎖されて通行ができません。
幕末の文久2年に皇女和宮様が江戸へ向かう道中では吉田洞門の上の高巻という場所を通ったそうです。

洞門の側道の右側には木曽川の流れが迫っています。そして木曽川の流れの向こう側には長閑な畑が広がり、吉田地区の集落の家が散見できます。



平成の世に辿る中山道は国道19号線に沿って歩く部分が多いのですが、過ぎ去った時代の旅人たちは山肌に穿かれた草道、土道を歩いたことでしょう。この吉田洞門の上は山並みが連なっています。かつてはこの洞門の上を歩いていたということは、右側に流れる木曽川をかなり高い位置から見下ろすように街道が造られていたことになります。
ちょうどこの辺りは木曽川の右手の山並みは遠く離れた位置にあり、比較的視界が広がり、開放的な景色になっています。

洞門の側道が終わり、19号線の歩道を進むと吉田交差点にさしかかります。それまで間近に迫って流れていた木曽川はこの辺りから少しづつ遠ざかり、視界から見えなくなっていきます。

そんな景色を眺めながら進むと、歩き始めて3キロ地点にさしかかります。そしてこの辺りの標高は897mです。



歩き始めて3キロ地点を過ぎると、国道19号線は再び山間へと入って行きます。
山が両側から覆いかぶさるように迫ってきます。
中山道はほんとうに変化のある景色を楽しめます。

街道間近に山並みが迫る景色がほぼ途切れなくつづくのは、東海道中では経験がありません。
裏を返せば、それだけに昔の旅人はたいへん苦労した道筋だったに違いありません。

現在の19号線はいたるところで木曽川を橋で渡るようになっていますが、その昔の中山道はおそらく木曽川に迫る山肌に道筋が穿かれ、それほど多くの橋が架けられていなかったのではないでしょうか。

いくら川幅が狭いとはいえ、いったん大雨が降れば川幅の狭い木曽川は濁流と化し、簡単な木橋はあっという間に濁流に飲み込まれてしまったはずです。

そんなことを考えながら進んで行くと、前方に趣のある橋が視界に入ってきます。
周囲の木々の緑に映えるような白いペンキで塗られたトラス型の橋です。木曽川に架かる橋で、橋の名前は「吉田橋」です。

吉田橋

吉田橋を渡る前に、その手前の信号で進行方向に向かって左側へと移動しましょう。というのは、吉田橋を渡るとすぐに木曽川に沿ってつづく遊歩道へと入るための準備です。吉田橋の橋上からは木曽川の流れと木々の緑に覆われた美しい景色が現れます。



吉田橋を渡ると、すぐに左手に入る遊歩道が木曽川に沿ってつづいています。
車の往来が多い19号線を歩くよりは、木曽川の流れと水音を聞きながらの歩行の方が気持ち的にかなり落ち着きます。
それほど長い距離ではありませんが木々の緑を間近に見ながら進むと、前方にトンネルの入り口が目に飛び込んできます。そして遊歩道は再び19号線に合流します。その合流地点には標高887mの表示が掲示されています。

山吹トンネル



前方にぽっかりと口を開けたトンネル入り口が近づいてきます。
トンネルの名前は「山吹トンネル」といいます。
トンネルの入り口には隧道の完成年月日や長さ、幅などが表示されています。
◆完成年月日:1985年3月
◆トンネルの長さ:334m
◆トンネルの幅:8m


このトンネルができる前までは、中山道の道筋はこの先にある「巴渕」から山吹山を回り込んで穿かれ、その道筋には「間の茶屋」があったと言われています。
山吹峠という地名もありますが、この名は義仲公の愛妾であった山吹姫からとったものです。

トンネル内に入ると若干ヒヤッとした空気を感じます。幹線である19号線はやたらと車の往来が多く、大きなトラックが轟音といったほうがいいくらいの音を鳴り響かせて私たちの傍を走り抜けていきます。
でも、一応トンネル内にはガードレールが付された歩行者用の歩道帯がついているので、少しは安心なのですが、トンネル内を進むにつれて入口も出口も見えなくなり、ほんの少し閉塞感を感じてしまいます。

トンネルを抜けると、本日の歩行距離4キロに達します。そして前方に神谷入口の信号交差点が現れます。

この神谷入口信号交差点のところがこれまで歩いてきた「木祖村」とこれから先の「木曽町」の境になります。そんな場所に現代の旅人にとっては「立場」的存在のコンビニ(セブンイレブン)が現れます。



こんな辺鄙な場所にコンビニがあるなんて、中山道を歩く現代の旅人にとってはまさにオアシスですが、このコンビニはここを歩く旅人を意識して出店した訳ではなく、19号線を利用する車のドライバーのためのもののようです。
ここまで街道沿いには休憩場所、すなわちトイレがなかったので、まずはトイレ休憩を兼ねて一休みをしましょう。

さあ!旅をつづけていきましょう。コンビニから500mほど進むと木曽川に架かる「山吹橋」にさしかかります。この橋を渡り少し行くと比較的大きな交差点が現れます。
巴渕交差点です。その交差点の角に36番目の宿場町である「宮ノ越宿」の大きな標が置かれています。

宮ノ越宿

とはいってもこの場所が宮ノ越宿の入り口(木戸)ではありません。本来の宿の木戸はまだ先です。私たちはこの交差点で右折し、19号線としばらくお別れとなります。そして旧街道を辿り、宮ノ越宿へと進んでいきます。



巴渕の交差点を右折すると、それまでの19号線の喧騒から隔絶されたように静かな道筋へと変ります。その道筋の右側には木曽川が流れ、周囲は鬱蒼とした木々に覆われています。
路肩にはこの辺りの方々が植えていると思われる草花が整然と並んでいます。

ちなみに木曽路(木曽谷)の中で義仲公や巴御前、さらには四天王と最も関わりが深い宮ノ越を訪れる際に、是非読んでいただきたいのが「歴史街道・木曽義仲」です。当号は木曽義仲の特集で、彼の生い立ちから終焉までを詳しく記述されています。



この本を読んだ印象では、木曽路での義仲公の人気は絶大で、義仲公あっての木曽路といった感じです。



その道筋の先に中央本線のガードが見えてきます。ガードをくぐるとすぐに現れるのが「巴渕」です。

巴渕

木曽川が大きく折れ曲がって流れる場所が「巴渕」と呼ばれています。折れ曲がって流れる水流が巴状の渦巻きとなることでこう名付けられているようですが、実は伝説によると、この渕には龍神が住み、化身して義仲公の養父である「中原兼遠(かねとう)」の娘として生まれた巴御前がこの渕で水浴をし、泳いで武芸を鍛錬したといいます。
巴御前は義仲公の愛妾となり、共に出陣し彼女の霊はここに帰ってきたと伝えられています。

木曽川が大きく折れ曲がるこの場所には、小さな広場が設けられ、そこには東屋が置かれています。小休止を兼ねて東屋で腰を掛け、すぐ下を流れる木曽川を見ると、それまで勢いよく流れていた川筋はさざ波一つたたない、静かな水を湛える渕になっています。
翡翠のような美しい色合いの水を湛える巴渕はまさに龍神の棲家のような神秘的な雰囲気を漂わせています。

巴渕

この巴渕に架かる橋が「巴橋」です。巴橋を渡る時、右手の巴渕は静かな水を湛えているのですが、橋の左手には堰が設けられ、その先には白波をたてながら木曽川が勢いよく流れています。
橋を渡ると「南宮神社手洗水」の案内が置かれています。  
巴淵の脇に清水が湧き出ており、義仲が産土南宮神社を拝するときの手洗水としたといわれ、今も石舟が残っています。

南宮神社手洗水

私たちは巴橋を渡り、細い道筋を辿り、徳音寺集落を抜けて進んでいきます。この道筋が旧中山道です。

巴渕から静かな雰囲気を漂わす徳音寺集落を抜けながら、およそ900m進むと木曽川に架かる「葵橋」にさしかかります。
旧街道はそのまま直進して「宮ノ越宿」へと向かうのですが、私たちはいったんここで旧街道とお別れし、義仲公所縁の場所へ向かうことにします。
葵橋を渡るとすぐにJR中央本線のガードが現れます。このガードをくぐると、道筋は急に上り坂となります。
けっこうな急坂なので、これまで歩いてきた体にはかなり負担を感じます。
坂を登りきると平坦な道筋になり、200mほど進んだ左側に神社が現れます。
「旗挙八幡宮」と書かれた大きな看板には「木曽義仲公館跡・元服大欅(けやき)」の文字が書かれています。

旗挙八幡宮

義仲公は養父「中原兼遠」によって駒王丸と名付けられ育てられました。そして義仲公はこの辺りに城(館)を構え、八幡宮を祀ったと伝えられています。
駒王丸は13歳にして元服し、木曽次郎源義仲と名を改め、治承4年(1180)に一千余騎を従え、頼朝の挙兵から20日遅れで、平家打倒の「旗挙」をしました。時に義仲27歳の頃です。これにより当社は「旗挙八幡宮」と呼ばれるようになったそうです。

尚、毎年8月中旬には宮ノ越の北に位置する「山吹山」の山肌に「木」の火文字が灯されます。これは「らっぽしょ祭り」と呼ばれる行事で、「らっぽしょ」とは義仲公が平家追討の旗挙を行ったことを意味しているようです。



その後、北陸に進撃、入京を果たした後、義仲公は征夷大将軍に任ぜられました。
しかし、後白河法皇の策略によって鎌倉軍に敗れ、近江の粟津ヶ原(あわつがはら)で討死。旗挙してからわずか4年、31歳の短い生涯でした。

源義仲は久寿元年(1154)源義賢の次男として武蔵国(埼玉県)大蔵で生まれたといわれています。幼名を駒王丸といい母は小枝(さえ)御前という遊女であったらしい。父義賢は帯刀先生(たてわきせんじょう)といい、近衛天皇が皇太子の時に剣を帯びて護衛長官をつとめましたが、久寿二年(1155)、一族内の勢力争いが原因となって起きた大蔵合戦で兄義朝の長男悪源汰義平に討たれました。義仲の兄仲家は義賢が都にいた時の子で、残された仲家を源頼政がひきとり猶子として育てましたが、宇治川の合戦で敗れ頼政とともに討死しています。

義賢を討った悪源太義平は後難を恐れ、畠山重能に駒王丸を捜し出して殺すよう命じたが、重能は僅か二歳の子を殺すにはしのびず、ちょうど武蔵に下向してきた斉藤別当実盛に預けました。実盛は、東国に駒王丸をおくのは危険であると判断し、小枝御前に抱かせて木曽の中原兼遠のもとに送り届けたのです。

小さな社殿の傍らの(けやき)は樹齢約800年の大木です。義仲の元服を記念して植えられ、「旗挙欅」とも呼ばれているものですが、落雷により傷つき、痛々しい姿になっています。

旗挙欅

その様子はあたかも悲劇の武将である義仲公を物語っていると同時に「兵が夢の跡」といった雰囲気を漂わせています。
この痛々しい欅の傍らには2代目の欅がありますが、これも100年以上経過していると思われます。

尚、この旗挙八幡宮からさほど遠くない場所に「南宮神社(なんぐうじんじゃ)」が社殿を構えています。
義仲が宮ノ越に館を構えた際、関ヶ原にある美濃国一の宮の南宮神社を勧請し現在の場所に移されたとされています。宮の越の地名も、宮(神社)の越し(中腹)を意味するものです。
義仲の戦勝祈願所として、木曽家にとっては重要な社でした。また養蚕の神、安産の神としても崇められ、村内ばかりでなく木曽中からの参拝者が絶えなかったといわれています。

それでは同じ道筋を辿り、葵橋を渡り旧街道へ戻ることにしましょう。



宮ノ越宿への道筋は左手に木曽川の流れを眺めつつ進んでいきます。それなりに家並みが増えてくるのは宮ノ越宿が近いことを示しています。

道筋を進んで行くと、前方にこんもりとした林が見えてきます。見るからに鎮守の杜か何らかの寺院が置かれているといった雰囲気が漂っています。

間もなくすると三叉路に達しますが、その右手奥に木曽八景の一つ「徳音寺の晩鐘」として知られている徳音寺が堂宇を構えています。

徳音寺山門

当寺は仁安3年(1168)義仲公が母小枝御前の菩提所と平家追討の祈願所として建立したもので 柏原寺が前身です。義仲討死後、覚明上人が義仲法名により寺名を徳音寺と改め、義仲の菩提寺と したといいます。

立派な山門をくぐり境内に入ると左手に立派なご本堂が置かれています。

ご本堂

本堂へと連なる境内には数本の杉の大木が植えられ、ご本堂の背後に迫る木々に覆われた山がまるで借景のような美しさを見せています。そしてご本堂の前には巴御前の乗馬姿の像が置かれています。





さらにご本堂の前を通って、一番奥には義仲公を祀る「御霊堂」が置かれ、堂内には義仲公の等身大の像と御位牌、そして甲冑が供えられています。



御霊堂のある場所から直角に右へ折れて直進すると、いよいよ義仲公をはじめ小枝御前、今井兼平、巴御前、樋口兼光の墓所へと繋がっていきます。(左から2番目の画像が義仲公の墓)

木々に覆われ苔生した石段を上って行くと、まるで雛壇のように義仲公の墓を一番奥に配置し、あたかも義仲公を守るかのように小枝御前、家臣の今井兼平、巴御前、樋口兼光の墓石が整然と並んでいます。









尚、門前には「木曽殿菩提所徳音寺」と刻まれた石柱が立っています。
義仲公の墓は宮ノ越の徳音寺の他に、木曽福島の興禅寺、滋賀県の大津市の義仲寺に置かれています。



ちなみに徳音寺がある場所の地名は「日義(ひよし)」といいます。「日」は義仲公が「朝日将軍」と呼ばれていたので朝日の「日」、「義」は「義仲」の一文字をとって「日義」という地名になっています。

歴史の中での義仲公の評価は朝廷から逆賊として追われる身になったことで、おおかた「悪者」扱いされることが多いのですが、ここ木曽では彼の評価がどうであれ、郷土の英雄として扱われているのは事実のようです。
平家追討という源家一族の共通の目的の中で、いち早く旗挙をし、怒涛の勢いで京まで上り、征夷大将軍の称号まで賜った義仲公だったのですが、京都での振る舞いがあだになり、朝廷から追われる身になってしまった義仲は、ついには義経らの鎌倉源氏軍に討たれてしまうのです。まあ、考えようによっては木曽の山猿が都という都会に出て、人が変わってしまったのかもしれませんが…。
そしてこれを討った義経も平家滅亡後、兄頼朝とそりが合わず、最終的には鎌倉方に討たれてしまうという巡りあわせ。
ということは一番ズルイ野郎は「頼朝」か、ということになるのですが……。

そんな栄枯盛衰のはかなさを演じた義仲公を郷土の英雄として崇める木曽の日義には、小さな町に似合わないくらい立派な「義仲舘」があります。

義仲館

館内の入口から入ると、まずは木曽義仲、巴御前そして今井四郎兼平、樋口次郎兼光、根井行親、楯親忠ら木曽四天王のほぼ等身大と思われるろう人形が私たちを出迎えてくれます。人形が来ている衣装も見事なもので、併せて甲冑も素晴らしいものです。
館内はそれほど広くはないのですが、義仲公ゆかりの地の写真、平安時代の甲冑、義仲陣太鼓、義仲の生涯を描いた絵画などの展示があります。

入口の門から入ると正面に義仲公と巴御前の像が置かれています。



義仲舘を辞して、旅を進めていきましょう。間もなくすると本日の歩行距離が7.5キロに達します。ということは本日の終着地点である道の駅「日義木曽駒」までは3.5キロに迫ってきました。
そして道筋は36番目の宿場町である「宮ノ越」の宿内へと入って行くのですが、実は宮ノ越宿は明治16年の宮の越の大火で宿場は全焼したため、江戸時代の建物はまったくといっていいほど残っていません。さらにはこの大火で宿場の入口も出口も分からないままなのです。

私たちは義仲舘からまっすぐに延びる道を歩き、木曽川に架かる「義仲橋」を渡り、一応宿内へ入ることにします。
義仲橋を渡り、すぐの交差点を左へ折れると旧街道に入ってきます。確かに古い家並みは残っていません。

宮ノ越の宿場は四町三十四間(450m)ほどの長さをもち、266軒の家があり、585人が住んでいました。天保時代の記録によると本陣1、脇本陣1、問屋場2、旅籠21軒の規模を持っていました。

まもなくすると街道左側に本陣跡の標識があります。そして中山道宮越宿の木柱と明治天皇御小休所跡の石碑が立っていいます。脇本陣は街道の右側の草むらの中に、木札で脇本陣跡と表示されているだけです。



木曽路十五宿街道めぐり(其の一)塩尻~洗馬
木曽路十五宿街道めぐり(其の二)洗馬~本山
木曽路十五宿街道めぐり(其の三)本山~日出塩駅
木曽路十五宿街道めぐり(其の四)日出塩駅~贄川(にえかわ)
木曽路十五宿街道めぐり(其の五)贄川~漆の里「平沢」
木曽路十五宿街道めぐり(其の六)漆の里「平沢」~奈良井
木曽路十五宿街道めぐり(其の七)奈良井~鳥居峠~藪原
木曽路十五宿街道めぐり(其の九)宮ノ越~木曽福島
木曽路十五宿街道めぐり(其の十)木曽福島~上松
木曽路十五宿街道めぐり(其の十一)上松~寝覚の床
木曽路十五宿街道めぐり(其の十二)寝覚の床~倉本駅
木曽路十五宿街道めぐり(其の十三)倉本駅前~須原宿
木曽路十五宿街道めぐり(其の十四)須原宿~道の駅・大桑
木曽路十五宿街道めぐり(其の十五)道の駅・大桑~野尻宿
木曽路十五宿街道めぐり(其の十六)野尻宿~三留野宿~南木曽
木曽路十五宿街道めぐり(其の十七)南木曽~妻籠峠~妻籠宿
木曽路十五宿街道めぐり(其の十八)妻籠宿~馬籠峠~馬籠宿
木曽路十五宿街道めぐり(其の十九)馬籠宿~落合宿の東木戸
木曽路十五宿街道めぐり(其の二十)落合宿の東木戸~中津川宿



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