大江戸散策徒然噺 Introducing Japanese culture and history

豊かな歴史に彩られた日本の文化と歴史を紹介

甲州街道の宿場町「府中」・今に残す街道の風情と弁慶縁の寺「高安寺」

2011年12月02日 11時29分16秒 | 府中市・歴史散策
武蔵野国の守り神「大國魂神社」の大鳥居のそばを走るのが江戸五街道の一つである甲州街道です。500mに渡るケヤキ並木はこの甲州街道を横切り大國魂神社の社殿へと続いています。

旧甲州街道と大國魂神社参道

ここ武蔵野国の府中は街道の起点である日本橋から数えて4番目の宿場町としてたいそう栄えていたそうです。かつての府中宿とは「新宿」「番場宿」「本町」の3町を合わせての総称で、本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠29軒などを含んで140軒以上の家が何らかの商いに関わっていたかなりの規模の宿場町だったのです。

そんな名残りを探しに旧甲州街道に沿って西へ進むと、旧甲州街道と府中街道が交わる四つ角に現れたのがお江戸の風情を残す「高札場跡」です。交差点角を占めるように時代を醸し出すような高札場が残っています。朱色の木の柵に囲まれ、お上の権威を示すような立派な屋根のついた札懸けが目を引きます。この辺りが宿場町によくある「札の辻」と呼ばれていた場所なのです。尚、この高札場は維新後の明治3年(1870)に廃止されました。

高札場跡
高札場の札懸け
高札場柵

そしてこの高札場跡の真向かいに建つ黒塗りの蔵造りの建物が目につきます。現在は中久本店という酒屋さんになっていますが、この辺りが宿場町の問屋場があったところと言われています。

街道沿いの蔵造り

問屋場とは宿場町では最も重要な施設で、一つには人馬の継立業務で幕府の公用旅行者や大名などがその宿場を利用する際に必要な馬や人足を用意しておき、彼らの荷物を次の宿場まで運ぶという業務を担っていました。そしてもう一つは幕府公用の書状や品物を次の宿場に届ける飛脚業務である継飛脚(つぎびきゃく)を手配運営するという役割を担っていました。

高札場跡から旧甲州街道に沿って西へ進むこと100mほどのところに府中宿を構成した3町の一つである「番場宿」址の石碑が置かれています。

番場宿跡碑

この番場宿址碑から更に200mほど旧街道を進んだところに、府中宿の中では古刹、名刹を謳われる曹洞宗の高安寺が堂宇を構えています。

高安寺石柱

ここ高安寺が建つ場所はなんと平将門を討伐した田原藤太こと藤原秀郷の居館があったと伝えられています。その後、平安時代に秀郷の居館址に見性寺という寺院が建立され、鎌倉時代にはあの源義経一行が鎌倉入りを許されず、当寺にしばし滞在したという言い伝えが残っています。

更に当寺は鎌倉幕府滅亡を決定付けた「分倍河原の合戦」の際には、新田義貞軍の本陣が置かれ、そのため合戦の最中に当寺は焼失したと言われています。その後、焼失した見性寺の跡地に足利尊氏によって建立されたのが龍門山高安護国禅寺(臨済宗)で、足利幕府の庇護の下で寺勢が拡大していきました。

しかし時代が下り、戦国の世になると寺勢は衰え荒れ果てていきますが、江戸時代の初期の慶長年間に曹洞宗に改め、寺号も高安寺として再興し現在に至っています。

高安寺山門
山門向拝部分

旧甲州街道沿いの参道を進むと右手に立派な山門が構えています。禅宗のお寺特有の山門から本堂が直線状に配置されています。美しい二層の山門の左右には荒削りの二天が座しています。

二天(左)
二天(右)

山門をくぐると右手に現れるのが宿場町に時を告げた鐘「時の鐘」が置かれています。私が訪れた時間が午前11時30分だったのですが、ちょうど時を告げるように心地よい鐘の響きが耳に入ってきました。

時の鐘

ご本堂は禅宗らしい飾り気のない落ち着いた雰囲気を醸し出しています。そして見つけたのが「弁慶硯の井」と書かれた案内表示なのですが、前述のように当寺がまだ見性寺の時代、義経一行が鎌倉入りを許されずに当寺に滞在した謂れがあることはすでに記述いたしました。

ご本堂

義経が自身の潔白を記し、大江広元に送ったあの有名な「腰越状」は鎌倉の満福寺で書かれたものなのですが、結局は許されず義経一行は鎌倉を後にすることになります。その時にこの場所にあった見性寺に立ち寄り、弁慶らとともに「大般若経」を写経し、その硯を洗った井戸が残っているとのことなのです。

秀郷稲荷神社
秀郷稲荷神社

その井戸はご本堂の左手に広がる墓地の脇の道を進んでいきます。すると前方に小さなお社が現れます。そのお社はかつてこの場所が田原藤太の居館があったことで、それに因んで建てられた「秀郷稲荷神社」と名付けられています。由緒書きがないので、当社がいつごろの創建なのかとんとわかりません。

弁慶硯の井の石碑
弁慶硯の井

祠の右手に崖を下るように作られた細い道を降りていくと、武蔵坊弁慶が硯を洗ったという井戸が木々の葉に覆われた薄暗い場所に置かれています。こんな場所と言ってはなんなのですが、義経や弁慶にまつわる伝説は東日本各地に多く残っています。特にここ府中は鎌倉街道が通る要衝の地であることから、義経一行がここを訪れていたことはまんざら作り話ではないような気もします。





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武蔵野国の守り神「大國魂神社」と小さな東照宮~秋色のけやき並と古社の佇まい~

2011年12月01日 16時28分25秒 | 府中市・歴史散策
東照宮詣でに明け暮れた今年一年を振り返りながら、ふと全国の東照宮リストなるものをウェブで眺めていると、東京西部の府中市に鎮座する「大國魂神社」の境内になんと東照宮があるではありませんか。この東照宮がどれほどの規模のものかは定かではなかったのですが、是非お参りをしなければと早速出掛けてみました。

大國魂神社中雀門

大國魂神社が鎮座する府中は京王線の府中駅が最寄の駅です。お洒落な駅ビルを抜けて地上に降り立つと、神社へ通じる見事な「ケヤキ並木」がまず目に入ります。かなりな樹齢を誇る「ケヤキの木」が神社の参道である道の両側に続いています。このケヤキ並木は国の指定天然記念物になっています。全長500mの神社参道に沿って150本のケヤキの木がトンネルのように続きます。

ケヤキ並木

実はこのケヤキの並木については次のような言い伝えが残っています。話は古くなりますが、時は康平5年(1062)の頃、源頼義(みなもとのよりよし)・義家(よしいえ)父子が奥州安倍一族の乱を鎮圧し、その帰途、けやきの苗1,000本を寄進したことに始まるといわれるのが、ここ「馬場大門けやき並木」なのです。そんな言い伝えが残る並木の一画に前述の源義家の像が置かれています。そして鎌倉時代には源頼朝が神社社殿を造営し、天下泰平の祈願所としています。

源義家像

また「馬場大門」という名前の由来ですが、古来より武蔵国は良質の馬を産するとされており、武蔵国府の馬市は権威ある存在だったのです。この国府があった場所が現在の大國魂神社の境内なのですが、そんな情報を知っていた家康公はここ国府の馬市で手に入れた馬のお陰で関ヶ原、大阪冬の陣、夏の陣で勝利を収めることができたことで、その勝利の礼として新たな馬場を寄進し、慶長11(1606)には社殿の造営を行っと伝えられています。そんなことで家康公と大國魂神社とは浅からぬ関係があったのです。

ケヤキ並木を進んでいくと旧甲州街道を挟んで向こう側に2本のケヤキの大木と大國魂神社の石柱そして大鳥居が現れます。

大國魂神社石柱

大鳥居をくぐり更に進んでいくと右手に「ふるさと府中歴史館」が見えてきます。この歴史館が建つ場所にあの大化の改新(645)の年に創設された武蔵国府が置かれていたのです。その場所には国府跡の石碑が立っています。

国府跡石碑

長い参道が終わる頃、前方に改築なった随身門が現れます。実は大國魂神社は今年(2011)は御鎮座壱千九百年の佳節年にあたり、この記念事業として随身門が改築され完成にいたりました。この随身門の手前には古めかしい鼓楼が置かれていますが、この鼓楼は慶長年間に家康公が江戸開幕を祝って本殿の造営とともに建立したものですが、正保3年(1646)の火災で焼失、その後、嘉永7年(1854)再建されたものです。

鼓楼
随身門

真新しい木材の香りが漂う随身門を抜けると鮮やかな朱色を施した中雀門が現れます。この中雀門は明治維新百年を記念して昭和44年に建て替えられたものです。

中雀門

中雀門を抜けると正面にどっしりとした構えの拝殿が置かれています。この拝殿は明治18年に完成したものです。

拝殿

この拝殿の右手奥に目指す「東照宮」が鎮座しています。拝殿と木々が茂る薄暗い場所に鎮座する「東照宮」は一瞬、目を疑うくらいの質素な、目立たない存在の門と社があるだけだったのです。門は唐門とは言いがたいくらいの、なんら装飾や彩色がない地味なものです。門の柱に東照宮と書かれた札が掲げられていることで、かろうじてこれが「東照宮」であることがわかります。

東照宮御社
東照宮御門
東照宮社殿
東照宮社殿

大國魂神社の境内に「東照宮」があるの?という理由ですが、確かに家康公とは浅からぬ関係の当社ですが、実は家康公歿後、駿河の国の久能山から下野の国二荒山に霊輿を遷された時、その途中にここ国府の斎場に一夜逗留をしたことで、元和4年(1618)に二代将軍秀忠公の命により造営されたとのことなのです。

このように家康公の亡骸が日光へと遷される途中に立ち寄った場所はかなりあると思うのですが、
同じ立ち寄った場所でも川越の喜多院の場合は天海僧正のお力ゆえに、それはそれは壮麗な東照宮が造営されているのに比べここ大國魂神社境内の東照宮は足元にも及びません。

日本各地には社殿の傍らに小さな東照宮を祭る神社が数多くあります。その由緒も家康公が鷹狩にこられた場所だから、とか家康公が鷹狩の途中で腰掛けた石があるとか、はたまた家康公が腰を下ろした「ムシロ」を御祭神にしたとか…、さまざまな云われを持つ東照宮があるようです。まあ、それに比べれば、ここ大國魂神社の東照宮はそれなりの由緒があるようなので、家康好きの私としては一応納得した次第です。





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